聖バーソロミュー病院1865年の症候群
はじめに 筆者は1947年に熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣町(みなまたまち 現水俣市)に生まれました。筆者の家は、水俣川の少し北にある、いく世代も続いて数戸しかない、むらの農家でした。明治元年に水俣手永(みなまたてなが 現水俣市)で生まれた德冨蘆花(とくとみろか)の作品の中に、筆者の家が牧ノ内の「茅葺(かやぶき)の家」として記されています [1]。すぐ近くに德富家の墓所があり、蘆花もそこを訪れていたようです。メチル水銀中毒は、1865年(日本では幕末の元治 2年)にロンドンの「聖バーソロミュー病院」で世界最初に起きていました。その発見の具体的経緯は、筆者が2008年に著した書籍『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社)[2] によって国内では初めて広く知られるようになりました。 聖バーソロミュー病院で起きたそのメチル水銀中毒のことは、国内でも、実は全く知られていなかったわけではなく、熊本大学では知られていました。しかし、あるときを境としてそれに触れられることはなくなった。そして、それに具体的に触れない空気が支配してきた。筆者はそのように考えています。 では、そのような重要な事実がなぜ触れられなくなったのでしょうか。 聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことは、日本にも早くから伝わっていました。「アセトアルデヒド」という化学製品を製造すると廃液(はいえき)に必然的に有機水銀が含まれる事実も明治時代から日本に伝わっていました。すなわち、それらの事実は、日本窒素がアセトアルデヒドを製造して有機水銀廃液を水俣灣に流しはじめた1932年(昭和 7年)より前から伝わっていました。すると、その分野で通常の知識をもつ専門家であれば「ほんの少しの注意」を払って調べてみるだけで「予見可能」であったことになってしまいます。 そのように、当然払うべき「ほんの少しの注意」を払うだけで予見可能であったというのでは、「不都合」(ふつごう)であるという、それも重要な立場の人びとが数多く存在していました。それはどのような人びとだったのでしょうか。 まず、原因企業にとって、予見可能であったというのは不都合でした。それは当然でしょう。 つぎに、自らの責任を小さく見せたい行政機関にとっても、それは不都合でした。それも当然でした。それだけではありません。 水俣湾周辺で見つかったメチル水銀中毒について苦労を重ねてようやく有機水銀説に想到(そうとう)したことを自らの「てがら」にしたい研究者にとっても、予見可能であったというのは不都合でした。また、新しく患者を発見したことを自らの「てがら」にしたい研究者にとっても、それは不都合でした。 当時の研究者は、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことを知っていながらそれに触れないようにし、あたかも新しい発見(てがら)であるかのように「水俣病」(みなまたびょう)と銘打ちました。 その後、今日に至るまで、メチル水銀中毒について、様ざまな研究や新しい著作が発表されてきましたが、それらの研究や著作は例外なく「水俣病」という言葉を用いるものでした。 「水俣病」という言葉は、その言葉のとおりに、地域としての「水俣」(みなまた)や公法人としての「水俣市」を、あたかもメチル水銀中毒やその原因であるかのように「同一視」する言葉です。その言葉は、水俣市で生まれた子どもたちや、水俣市に昔から暮らす人びとにとって、「差別」の意味を含んだ言葉として、ひそかに心に突き刺(さ)さりました。そもそも、メチル水銀中毒の原因はメチル水銀であって水俣ではありません。「水俣病」という言葉は、そのようにメチル水銀中毒やその原因と同一視した上で、「水俣」や「水俣市」を他と峻別(しゅんべつ)する用語です。「水俣病」という言葉は、そのような偏見と峻別の意図を含んだ差別用語です。 ドイツで1916年に「ワッカー・ケミー」という会社が世界で最初にアセトアルデヒドを量産しはじめました。スイスの H. ツァンガー教授はその1916年にワッカー・ケミー社に行き、排泥(はいでい スラッジ)に触れた従業員に「有機水銀」による「中枢神経障害」(ちゅうすうしんけいしょうがい)が起きていると判断しました。そこで、廃液を近くのザルツァッハ川に流さないようにして、地中に埋めさせました。その結果、ヨーロッパでは以後メチル水銀中毒は発生しませんでした。ツァンガー教授は、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことを知っていました。また、アセトアルデヒドを製造するとき廃液の中に有機水銀が含まれることも知っていました。ヨーロッパでも、アセトアルデヒドの製造に伴って、「有機水銀」による「中枢神経障害」が発生することは「予見可能」でした。水俣町(当時)でアセトアルデヒドが製造され始めるのはそれより16年後の1932年です。 水俣湾周辺で見つかったメチル水銀中毒の運動失調(うんどうしっちょう)、視野狭窄(しやきょうさく)、構音障害(こうおんしょうがい)などの症状は、1959年に熊本大学の研究者によって「三主徴」(さんしゅちょう)として「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」とよばれるようになりました。研究者のいう「ハンター・ラッセル症候群」は、米国の A. ペンチュウという病理学者が1958年に著した『中毒』(Intoxikationen)という権威ある本の中にそのような用語があるというものでした。それは、以後水俣市と不知火海(しらぬいかい)沿岸などで暮らしている地域住民に対して、メチル水銀中毒の有無を判定するための根拠として利用されて来ました。しかし、そもそも、A. ペンチュウ博士の『中毒』の中に生前の症状について「ハンター・ラッセル症候群」とよぶような記述はありません。 筆者は、この本で生前の症状を「ハンター・ラッセル症候群」とよぶことが科学史上の誤りであることを指摘し、かつ証明いたします。生前の臨床学上の症状を、筆者は、科学史の原点に立って「ロンドンの聖バーソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」とよびます。 なお、熊本大学における筆者の専門分野はメディア情報処理論(総合情報基盤センター教授)でした。大学院自然科学研究科教授(情報電気電子工学・生命体画像工学)と大学院社会文化科学研究科教授(ネットワーク上の私権の保護)を兼任しました。また、評議員・附属図書館長を歴任しました。附属図書館は、メチル水銀中毒発生の責任とある意味で深くかかわるのではないかと筆者は考えております。 第一章 【 1 】 メチル水銀の発見(ロンドン1858年) メチル水銀は有機水銀の一種である。「メチル水銀」という言葉は、単一の物質の名称ではない。それは、水銀(Hg)に「メチル基」(-CH3)という原子団が結びついた化合物の総称である。毒性がきわめて強いことで知られる。物質としては安定していて分解されにくい。自然界で生物の体内にとり込まれやすい。
ジョージ・バックトン(George B. Buckton)は、ロンドンの王立化学大学(Royal College of Chemistry)で助手をつとめていた。1858年(日本では安政 5年の幕末)、バックトンは史上初めて「ジメチル水銀」(CH3-Hg-CH3)を合成する。ジメチル水銀はメチル水銀の一種である。したがって、これがメチル水銀の発見であった。
ジメチル水銀はメチル基(-CH3)を二つもつ無色透明な液体である。一方、単に「メチル水銀」とは、「モノメチル水銀」といって水俣湾周辺でメチル水銀中毒をひき起こした「塩化メチル水銀」CH3-Hg-Cl や、「水酸化メチル水銀」CH3-Hg-OH など、メチル基(-CH3)を一つだけもつものを指すことが多い。 メチル水銀はたとえ微量であっても、脳の細胞組織をその量に応じて破壊する。その結果、重篤(じゅうとく)な場合は、感覚のにぶり(障害)、筆記障害その他の運動障害、視覚障害、聴覚障害、言語障害、四肢の一部や舌・口周のしびれなどが起きる。メチル水銀には生物学的半減期(約 70日)はあるが、メチル水銀による脳細胞の破壊は不可逆(ふかぎゃく)である。その半減期の間に破壊された中枢神経細胞が修復されることはない。
カレン・ヴェッターハーン(Karen Wetterhahn)は、米国東海岸のプラッツバーグの町で生まれた。コロンビア大学で博士号を取ってダートマス大学に赴任した。化学の教授であった彼女は、1996年8月14日に実験室でジメチル水銀に触れてしまった。
安全のために実験着とゴム手袋、保護メガネをつけていた。ピペットから誤ってゴム手袋に透明なジメチル水銀を 1、2滴こぼした。ジメチル水銀は、ラテックス製のゴム手袋を約 15秒間で透過して皮膚から体内にとり込まれた(後日の検証による)。 ヴェッターハーンの髪の毛の水銀量は、事故から 17日後に劇的に増加した。39日後に最高値となり、その後ゆっくりと減少した。事故から約 3か月経って、1996年11月ごろから衰弱が起きた。1997年1月に平衡感覚障害、難聴、言語障害、視野狭窄などの典型的なメチル水銀中毒が発現。2月7日に劇症となり、昼夜叫び声をあげて暴れた。狂騒(きょうそう)と昏睡(こんすい)をくり返した。キレート剤を用いて懸命の治療が行われたが、1997年6月8日に 48歳で死亡した。 ヒトの脳には「脳血管障壁」(のうけっかんしょうへき。BBB)というバリアがある。体外から侵入した有害な物質は、そのバリアによって脳の中に侵入しないようにそこで阻止される。そのようにして大切な脳は守られている。しかし、メチル水銀は「システイン」というアミノ酸と結合すると、やはりアミノ酸の一種である「メチオニン」に似た化学構造となる。そしてメチオニンとして脳の内部にとり込まれる。メチル水銀はいったん脳にとり込まれると、そこでたんぱく質の合成を阻害する。メチル水銀は、大脳の「体性感覚野」(たいせいかんかくや)、「視覚野」(しかくや)といった重要な組織を破壊する。また、小脳の「顆粒細胞層」(かりゅうさいぼうそう)という組織などを破壊する。 メチル水銀によって脳細胞がわずかに破壊されたとき、一見する限り何ら症状がないからといって脳が損傷を受けていないというわけではない。脳は他の臓器とは異なり、「補償機能」(ほしょうきのう)といって、破壊されずに残った細胞が代行をはじめるからである。脳はそのような機能をもっている。その結果、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持することが多い。 【 2 】 不知火海(しらぬいかい)沿岸の一寒村(水俣の歴史) 水俣市の大部分は雑木林と深い森であり、緑色の山岳地帯が青い不知火海(しらぬいかい)に迫っている。水俣市の人口は2016年(平成 28年)に約 25,900人。熊本県の最南端に位置する。そのすぐ北は葦北郡(あしきたぐん)津奈木町(つなぎまち)。南は鹿児島県出水市(いずみし)である。水俣市は、市街地に山塊が迫っている。その多くが古い火山や溶岩ドームでできている。「肥薩(ひさつ)火山群」とよばれる。火山群といっても、200万年以上も昔のものである。現在火山に指定されているものはない。しかし、市の南に位置する矢筈山(やはずさん)などは火山岩(安山岩)でできており、明らかに火山の原型をとどめている。すぐ南の出水郡の海上に長島が浮かんでいるが、長島は太古の昔に火山島であった。 肥後細川藩には「手永」(てなが)という独特の行政区分があった。手永は1871年(明治4年)の廢藩置縣に伴って廃止されたが、水俣手永の各村落はその後も生活共同体として旧水俣手永への帰属意識をもち続けた。1889年の市町村施行令で旧水俣手永は「まちうち」(民家が集まったところ)を中心に 19のむらが合併して水俣村となった。人口は 12,040人であった。 新水俣駅から西に位置する市街地は、古代から水俣川と湯出川(ゆでがわ)の下流である洗切川(あらいきりがわ)と古賀川(こががわ)がいく度となく氾濫をくり返してできた低い平地である。水俣市は、かつてこの 4つの川が村の中心部を交差して流れていたので「水股」(みなまた)の名がある。 第二章 【 3 】 メチル水銀中毒の発見(ロンドン1865年)
1852年(日本では嘉永 5年)、英国オーウェン大学の初代化学教授エドワード・フランクランド(Edward Frankland)は「原子価」(げんしか)の概念を発表した。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人である。弱冠 27歳であった。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものである。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学ぶ。
1858年にメチル水銀が発見されると、フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのにきわめて役立つことを知った。 1859年フランクランド(34歳)は、ロンドンの聖バーソロミューの病院(Saint Bartholomew' s Hospital)に併設された医科大学に移って研究を続けた。聖バーソロミュー病院は、十二使徒の一人の名を冠した病院であり、1123年に創立されたロンドン最古の病院である。テームズ河北側のスミスフィールドにあり、現在も「バーツ」(Bart's)の愛称で親しまれており、イギリス屈指の名門病院である。 1863年にフランクランドはメチル水銀の製造方法を確立した [3]。フランクランドが製造したメチル水銀は、タマゴが腐ったような、いやなにおいがする油性の液体であった。フランクランドは『ワットの化学事典』(Watt’s Dictionary of Chemistry, MacMillan, London 1882年)の中に、メチル水銀について「眼が回ってむかつくような味がする(‐faint but mawkish‐)」と記載した。当時の日本は文久3年であり、德川家茂、新撰組、奇兵隊、薩英戦争の時代であった。
フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任した。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人である。
聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で、3名の技術者がメチル水銀の製造実験を行っていたが、1864年の暮れに 3名とも重篤な中毒症状に陥った。 その一人はカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳のドイツ人であった。ウルリッヒは、1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験をはじめた。しばらくするとだんだんと両手がしびれるようになった。耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。1865年1月中旬にはメチル水銀原液の配管が壊れてメチル水銀の蒸気を大量に吸ってしまう事故もあった。
ウルリッヒは、同年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容された。主治医はヘンリー・ジェファーソン(Henry Jeaffreson 1810-1866)であった。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげた。質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返した。同年2月14日に死亡した。
有機水銀、あるいはその一種であるメチル水銀による世界最初の中毒死であった。フランクランドとオッドリング、ジェファーソンはメチル水銀中毒の発見者となった。そのころ日本は元治2年であった。 ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第141-144頁に詳しく報告されている [4]。 二番目の患者は T. スロウパ(Sloper)23歳であった。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていた。その間にいやなにおいのするメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、9か月目(1865年1月半ば)からのわずか 2週間ほどであった。メチル水銀の製造器具の洗浄を行った。その 1か月後に発症した。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれた。耳が聞こえにくくなった。目がよく見えなくなった。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなった。歩くのが困難になった。
スロウパは、同年3月25日(発症して3週間後)に同病院のマタイ棟に収容された。主治医はジェファーソンであった。ものを飲み込めなくなった。話せなくなった。尿と便を失禁するようになった。激しいふるえに襲われた。叫び声をあげて身体をばたばたさせた。錯乱状態のまま1866年4月7日に肺炎を併発して死亡した。スロウパの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第144-150頁 [4] と同第2巻(1866年)第211-212頁 [5] に詳しく報告されている。
もう一人の患者はウルリッヒとスロウパに比べると症状は軽く、死亡しなかった。 『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4] と第2巻(1866年)[5] が、当時わが国に輸入された形跡はない。現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『聖バーソロミュー病院報告書』の第1巻 [4]、第2巻 [5] のそれぞれをPDF化して無償で公開している。 聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死は、同(1865)年フランスの雑誌『コスモス』(COSMOS)第26巻11月号第548-549頁(11月15日)に掲載された。『コスモス』はパリで刊行されており、一般の読者を対象とする大衆雑誌であった。その記事は、タイトルが「若い化学者への警告」(Avis aux Jeunes Chimistes)であった。それには「ぞっとするような報告」という副題がついていた。執筆者は、『コスモス』のロンドン特派員トーマス・フィプソン(Dr. Thomas Phipson)であった。フィプソンは、英国化学会フェローであり、蛍光現象研究の第一人者であった。また、英国化学会において、フランクランドのライバルとしても知られていた。『コスモス』の内容(聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死)は、ドイツでは『ベルリン・ニュース』 (Berlinische Nachrichten)などいくつかの新聞に転載された。その結果、ドイツ国内でも、科学の分野だけではなく一般大衆の間でも大きな反響(a very powerful sensation throughout Germany)をひき起こした。
イギリスではウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 1832-1919)が『化学ニュース』という、化学の分野で当時世界唯一の定期刊行誌を創刊していたが、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、その『化学ニュース』第12巻(1865年)、第13巻(1866年)の中でくり返し報じられた [6-7]。 『化学ニュース』で、最初に記事が現れたのは、第12巻第276-277頁(1865年12月8日刊行)である。それは、『化学ニュース』のパリ特派員(匿名)が11月30日に投稿したものであった。そこには、トーマス・フィプソンは、聖バーソロミュー病院において中毒が起き、一人が死亡し、もう一人が重体であるのは、「エドワード・フランクランドが故意にひき起こしたとして『コスモス』の中で断定している」と述べられている。 それに対して、フィプソンは『化学ニュース』第12巻第289‐290頁(1865年12月15日刊行)で直ちに反論し、聖バーソロミュー病院医科大学化学実験室で起きたウルリッヒ(Dr. C. U.) とスロウパ(T. S.) の中毒は、前任教授であったフランクランドの「研究方針のもとで起きたと述べただけである」と釈明している。すると、当時実験室の直接の監督責任はオッドリングにあったことになる。
一方、フィプソンは『化学ニュース』第13巻第23頁(1866年1月12日刊行)の中で、オッドリングには「無視(ignorance)の責任はないが、無知 (negligence)の責任はあった」と述べている。 『化学ニュース』の編集者は、(討議はまだまだ続くが)「掲載を打ち切る」と述べた。 当時の『化学ニュース』は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒を遅くとも1927年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、フランスの一般大衆雑誌『コスモス』(1865年)、ドイツの『ベルリン・ニュース』などの複数の新聞(1865年)、イギリスの専門書『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[4]、 第2巻(1866年)[5]、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] によって、ヨーロッパでは周知となった。そのころの日本は慶應 2年であった。
メチル水銀中毒に関する知識は、ヨーロッパでは次の世代に伝わった。ドイツでは、その約20年後の1887年に、ヘップが『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [8] を発表した。ヘップは有機水銀を梅毒の治療に用いようとしてあまりの毒性の激しさで失敗したのであるが、その論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』の C. U. 30歳(カール・ウルリッヒ)と S. T. 23歳(トム・スロウパ)の死亡症例を詳述してある全12頁について、それをメチル水銀中毒の著名な例として核心部分を抜粋して 5頁にわたって転載した。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」(die schwere Affection des Centralnervensystems)を与えると述べた。1887年は、日本では東京電燈會社が送配電を開始した年である。 【 4 】 メチル水銀中毒に関する知識はいつ日本に伝わったか(東京1927年 熊本1931年)
東京工業大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』第12巻(1865年)[6] には、「東京高等工業學校圖書」、「昭和2年3月24日購入」の刻印がある。昭和2年は1927年。空母「赤城」が進水し、芥川龍之介が自殺した年である。1923年の関東大震災で、東京市(当時)の藏前にあった東京高等工業學校の蔵書は全焼している。『化学ニュース』は、藏前にあったころ(焼失以前)にすでに収蔵されていたのかもしれない。東京高等工業學校は、震災後、藏前から東京市外の荏原村(現在の大岡山)に移転したが、「昭和2年3月24日」は、その移転後に買い直された新しい日付なのかもしれない。東京帝國大學附屬圖書館も関東大震災で蔵書が全焼している。東京帝國大學でも『化学ニュース』は、震災焼失以前に収蔵されていた可能性がある。
現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『化学ニュース』の全巻を PDF化して無償で公開している。
熊本大学の『実験的病理学薬理学叢書』第23巻には、「熊本醫科大學圖書館(昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印がある。 昭和6年は1931年。ヘップ論文(『実験的病理学薬理学叢書』第23巻 91-128頁)[8] は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻 [4]、第2巻 [5] の具体的な内容を遅くとも1931年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
ヘップ論文のこの部分は『聖バーソロミュー病院報告書』[4-5] の内容のドイツ語への翻訳転載であり、カール・ウルリッヒ 30歳が1865年2月3日に同病院マタイ棟に収容されて同年 2月14日に死亡するまでの臨床経過と、トム・スロウパ 23歳が1865年3月25日に同マタイ棟に収容されて翌年 4月7日に死亡するまでの臨床経過を、日を追って克明に紹介している。そこに述べられた症状は水俣市でその後見つかるメチル水銀中毒の劇症の例と同じであった。 現在この「ヘップ論文」[8] も、インターネット(グーグル・スカラー)上で PDFファイルとして全文が無償で公開されている。 以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[6]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[7] 及びドイツのヘップ論文を載せる『実験的病理学薬理学叢書』第23巻(1887年)[8] によって、日本国内では遅くとも1927年までには公知となり、たとえば後者 [8] は、熊本大学附属図書館には1931年3月30日に収蔵された(当時は熊本醫科大學圖書館が購入)。 熊本縣葦北(あしきた)郡水俣町(当時)において、日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣灣に流しはじめたのは、それより後の1932年(昭和7年)5月7日(土曜)である。 水俣灣沿岸でメチル水銀中毒の患者が出はじめたのは戦前の1935年(昭和10年)ごろであった。 では、日本人は、アセトアルデヒドを製造するとき有機水銀が副生して廃液の中に含まれていることをいつ知ったのであろうか。 第三章 【 5 】 水銀を用いたアセトアルデヒド製法の発明(聖ペテルスブルグ1881年) 「アセトアルデヒド」(CH3CHO)は重要な工業原料である。エチルアルコールを酸化するとできる。約 20℃で沸騰し、引火性が非常に強い。空中で酸化するだけで酸素が一つ加わって酢酸(さくさん CH3COOH)となる。したがって、アセトアルデヒド工場では酢酸も同時に製造されることが多く、その工場は「アセトアルデヒド・酢酸工場」などと表記される。アセトアルデヒドは、アセトン、オクタノール、アセテートなどの原料となる。アセトアルデヒドがなければ、一国のある時代の産業は成り立たない。アセトアルデヒドはそれくらい重要な工業原料の一つである。そのために世界の各地でアセトアルデヒドが製造された。ヨーロッパ大陸でも、アメリカ大陸でも、そして、熊本縣の水俣町(当時)でも。
現在アセトアルデヒドは石油化学によってエチレンを酸化させて製造されている。触媒(しょくばい)として二酸化パラジウムと二酸化銅が用いられる。この「エチレン酸化法」は1959年にドイツのワッカー・ケミー社が開発したものである(ワッカー法)。
それ以前にアセトアルデヒドを製造する方法は、ロシア帝國聖ペテルスブルグの森林研究所でミカイル・クチェロフによって1881年に見出された [9]。それは水銀を用いるものであった(水銀触媒法)。
硫酸は強い酸である。水銀は、鉄や銅などの他の金属と同じように硫酸に溶けて透明な液体となる。クチェロフは、その溶液に「アセチレンガス」を吹き込むだけでアセトアルデヒドができることを見出した。アセチレンガスは「カーバイド」(炭化カルシウム)に水をそそぐだけで発生する。クチェロフは、水銀を用いてアセトアルデヒドを製造すると有機水銀が副生することを知らなかった。 【 6 】有機水銀が副生する事実は最初にいつどこで知られたか(ミュンヘン1905年) ドイツ・ミュンヘンのホフマン(K. A. Hofmann)とザンド(Julius Sand)は1900年に『ドイツ化学会誌』に「水銀塩のオレフィンに対する反応について」と題して論文を掲載した。「オレフィン」とは、エチレン C2H4、プロピレン C3H6 など、化学式 CnH2n (2≦n)で表される有機化合物のことである。その論文の中でホフマンとザンドはH2C=CH2 + Hg(OCOCH3)2 + ROH → ROCH2CH2HgOCOCH3 + CH3COOH という化学反応式を掲載した [10]。アセチレン(C2H2)はオレフィンではないが、ホフマンとザンドの発表は、一般に炭素水素化合物が水銀化合物と反応して有機水銀を生成する可能性があることを示唆するものであった。
ホフマンは、また、1905年に『ドイツ化学会誌』に「爆発性をもつ水銀塩」と題して論文を掲載し、「水銀を溶かした酸性溶液にアセチレンガスを通すと爆発性をもつ有機水銀が生成することがある」と発表した [11]。
米国インディアナ州のミシガン湖のすぐ南にノートルダム大学がある。ノートルダム大学は、1842年にカトリック教会によって創設された私立の名門大学である。ジュリアス・ニューランド教授(Julius Nieuwland)は、カトリックの神父であった。ニューランド神父は、ノートルダム大学の植物学教室でアセチレンの化学について研究を続けた。ニューランドは『米国化学会誌』(1906年)に「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に対する作用」と題して論文を掲載した。ニューランドは、その論文の中で前記ホフマンの論文を紹介し、「水銀の酸性溶液にアセチレンガスを通すとアセトアルデヒドが生成する。そのとき水銀化合物が副生する。その水銀化合物は、酸の種類により爆発性を有しており、ある種の炭化物であろう」と述べた( The compound was explosive and hence was supposed to be a carbide.)[12]。一般に炭素を含む化合物は有機物にほかならない。 水銀を硫酸に溶かしてアセチレンガスを通すとアセトアルデヒドが生成する(クチェロフの水銀法)。ホフマンとニューランドの論文によって、そのとき有機水銀が副生することが知られるようになった。 【 7 】 有機水銀が副生する事実はいつ日本に伝わったか(東京1906年)
J. ニューランドの『米国化学会誌』(1906年)[12] は、「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に對する作用」と題して同年(1906年)発行の『東亰化學會誌』(後の日本化学会誌)第27巻に抄訳が掲載された [13]。1906年(明治39年)は、伊藤博文が韓國統監府の初代統監に就任し、 南滿州鐵道が設立された年である。 熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)において、日本窒素肥料株式會社が創業されるのは、それより 2年後の1908年(明治41年)8月20日(木曜)である。 第四章 【 8 】 日本窒素創業してカーバイドを製造(水俣村1908年)
宮城県仙台市内には広瀬川が流れている。広瀬川流域の桜の名所の一つに「三居沢」(さんきょざわ)がある。三居沢は市街地に近く、仙台市民の憩いの場となっている。
一關(いちのせき)藩士であった菅克復(かんこくふく 1837-1913)は、1879年に三居澤に紡績工場を設立した。紡績は明治日本の重要な産業であった。三居澤紡績工場は動力として 40馬力の水車を使った。1888年に三居澤紡績工場はその水車に出力 5キロワットの直流発電機を接続した。かくして、三居澤は日本の水力発電発祥の地となった。
そのころカナダでは1892年にトーマス・ウィルソン(Thomas Willson)がカーバイド(Ca2C2)を安価に製造する方法を見出した。それは石灰岩(CaCO3)と石炭(C)を混ぜて、電気炉の中で 2,000℃程度の高温で加熱するだけで大量に製造できるというものであった。
カルシウム・カーバイドに水をそそぐとアセチレンガスが発生する。アセチレンガスは燃えて明るい光を出すので、ガス灯や夜店の照明、漁船の照明などに、確実に需要があった。 1899年に三居澤では紡績工場が「宮城紡績電燈株式會社」となった。これが現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所の前身である。
日本窒素肥料株式會社の創業者野口遵(のぐちしたごう)は加賀藩士の家に生まれた。1896年に東京帝國大學工學部電氣工學科を卒業した。ドイツ・ジーメンス社の日本支社(東京)に勤務した。1900年にジーメンス日本支社は出力 300キロワットの交流発電機を宮城紡績電燈に納入した。その発電機はジーメンス社とシュッケルト社が共同製作したものであった。そのときジーメンス社から宮城紡績電燈に派遣されたのが野口遵である。
ジーメンス社は、ウェルナー・フォン・ジーメンス( Werner von Siemens 1816-1892)が自励式交流発電機を発明して起業した電機会社である。シュッケルト社は、シグムント・シュッケルト(1846-1895)とアレクサンダー・ワッカー(Alexander Ritter von Wacker)が共同で創業した電機会社である。
野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーが独立して「コンソルティウム社」という化学会社を創業し、ウィルソン法でカーバイドを製造する計画であることを知った。野口遵はジーメンス社を辞めると、1902年に宮城紡績電燈の主任技師であった藤山常一と二人で、発電所の庭先でカーバイドの製造をはじめた。その商品名は「山三カーバイト」であった。これによって、三居澤は日本の工業化学発祥の地ともなった。カーバイドの製造は首尾よくできたが、大量に製造するには三居澤の発電量では不足していた。カーバイドは依然として高価な輸入品であった。
1905年に野口遵はベルリンにジーメンス社の重電機部門を訪ねた。その目的は水力発電機を購入することであった。すなわち、鹿兒島縣の川内川(せんだいがわ)で電力を起こし、近くの大口(おおくち)、牛尾、新牛尾の金鉱山に照明用の電力を送ることと、また単独でカーバイドを製造することであった。日本の西の半分は、ドイツ・ジーメンス社と米国・ウェスティングハウス社との協定で、米国標準の 60ヘルツの電力が供給されることになっていた。ジーメンス社の発電機は、出力周波数がヨーロッパ標準の 50ヘルツである。しかし、野口遵はジーメンス社の発電機を購入した。野口遵はジーメンス社でカーバイドが窒素肥料の原料にもなることを聞きおよぶ。
1906年10月1日に野口遵は 20萬圓(当時)を投じて川内川上流で伊佐郡大口村(当時)の「曾木(そぎ)の瀧」の少し下流にジーメンス社の設計になる曾木第一水力發電所を完成した。曾木第一發電所は発電機を 2基有していたが、1基だけで出力が 800キロワットあり、国内で最大であった。 大口、牛尾、新牛尾の三鉱山では合計でも 200キロワットの電力しか消費しなかった。近隣地域の電燈としての消費分も合計で 600キロワットにおよばなかった。野口遵は電力を近くの熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)に送り、そこでカーバイドを製造することを計画する。 1908年4月 野口遵は、ジーメンス社がカーバイドを原料として化学肥料である石灰窒素(CaCN2)を合成することに成功したと聞き、すぐにドイツへ渡航した。アドルフ・フランク(1834-1916)とニコデム・カロー(1871-1935)がジーメンス社とドイツ銀行の資金でその技術を開発していた。石灰窒素を合成する技術(フランク・カロー法)は、カーバイドを窒素ガス中に置いて電気炉の中で 1,000℃程度の高温で加熱すると石灰窒素ができるというものであった。石灰窒素はさらに高温の水蒸気と反応させるとアンモニアを発生する。アンモニアはさらに最先端の化学肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の原料となる。野口遵はフランクとカローに 40萬圓を支払って日本での実施権を購入した。 1908年(明治41年)8月20日(木曜)に野口遵は 100萬圓を投じて水俣村の古賀川河口に「日本窒素肥料株式會社」を設立した。日本窒素は1908年8月31日から曾木發電所からの電力で電気炉を加熱し、石灰岩と石炭を原料としてカーバイドを製造した(ウィルソン法)。 「私が(日本最初のカーバイド製造所がある)仙台からこちらに来たのが明治40年(1907年)だったろうと思います。(カーバイド工場は)まだできていませんでした。(その翌年できたカーバイド工場の)場所は、今の(新日本窒素肥料株式会社)炭素工場です。こちらのカーバイドは立方(たちかた 性能)が悪くてよく売れなかった。私は、立方をよくするためだいぶ苦労しました。木炭でカーバイドを造っていた」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年) 従業員約 70名。月産約 15トンであった。原料の石灰石は水俣村周辺の不知火海沿岸で良質のものがとれた。また、石炭は水俣村の対岸の天草で「無煙炭」という良質の瀝青炭(れきせいたん)がとれたが、最初は代わりに 1日 300俵の木炭を用いた。ヨーロッパではすでにドイツのワッカーが1903年にコンソルティウム社を設立してカーバイドを製造していたが、日本窒素は、それに 5年遅れたものの、日本最大のカーバイド製造会社となった。 日本窒素は、1908年11月にはフランク・カロー法による石灰窒素(窒素肥料の一種)の製造をはじめた。 「(石灰窒素の製造は)私もよく知らなかったのですが、れんがを積んでいるものですから、社長(野口遵)に何をしているのですかと聞いたら、窒素肥料をはじめる。原料はカーバイドだということでした」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年) 「(石灰窒素の製造は)ミルでカーバイドを粉砕して、直径三尺くらい、高さ一間くらいの釜の中に入れる。釜の形は茶壷のようでした。二重釜になっていまして、そのまわりにカーボンを入れて電気を通じる。木炭ガスを吸収させて、約 24時間くらいして茶壷を上に引きあげるとできていました」(徳富季彦・元肥料係組長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年) 古賀川河口にできた工場は、曾木發電所のようにれんが造りであった。一方、曾木の瀧の近くでは1909年に第二發電所が竣工し、水俣工場に 6,000キロワットの電力を供給した。曾木發電所は、ジーメンス社の交流発電機を用いていたので、その出力周波数は、現在の東日本と同じくヨーロッパ標準の 50ヘルツであった。以後、水俣工場、社宅、水光社(すいこうしゃ 1920年創業の水俣工場従業員の消費組合)、宮崎縣の延岡(のべおか)工場(現在の旭化成株式会社延岡工場)、附属病院(当時)などの施設は、西日本の米国標準 60ヘルツの世界にあって、21世紀の現在に至るまで 50ヘルツの孤島をなした。 野口遵は1915年に古い塩田跡地に新工場を建設しはじめた。新工場は硫安を年産 5万トン製造するものであった。このとき従業員数は 1,000名を超えていた。1914年に勃発していた第一次世界大戦で外国産の化学肥料の輸入が途絶えて硫安の価格は以前の 3倍に急騰した。日本窒素は好況の中で周辺の農漁村から安価な労働力を吸収し、1920年に従業員数は 3,000名近くとなった。周囲の農村は貧しかった。わずかな農地で細々と暮らしていた。日本窒素に臨時の工員として雇われた者でも「かいしゃ行き」として周囲の住民に羨望の眼で見られた。むらのむすこの採用が決まると家では赤飯を炊いた。 【 9 】 毒性に勝る利点はあったか(米国イリノイ州1920年) 1887年にドイツのヘップは梅毒の治療を目的として患者の前腕に 1パーセントのジエチル水銀を 1CC 皮下注射した。患者は気分が悪くなって注射を受けつけなくなった。その一方、動物実験できわめて強い毒性が認められた。ヘップは、前記したとおり、『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [8] を発表した。有機水銀の危険性は、『聖バーソロミュー病院報告書』 [4-5] と『化学ニュース』 [6-7]、ヘップ論文 [8] によって、欧米でよく知られるようになっていたが、第一次世界大戦(1914-1918年)と前後して、有機水銀には農業や医療の分野で毒性に勝る有用性があるのではないかと期待された時期がある。 1914年にドイツで有機水銀の毒性を利用して穀物の防腐剤が開発され、バイエル社は「ウスプルン」(商品名)として発売した。 1919年に米国ジョンス・ホプキンス大学病院のヒュー・ヤング(Hugh Young 1870-1945)は有機水銀の微生物に対する毒性を利用して皮膚の消毒剤として「マーキュロクローム」を開発した。1998年に米国食品医薬品庁(FDA)が水銀中毒の可能性を指摘したので現在マーキュロクロームは米国では使われていない。 一方、当時欧米の自由な研究者の多くは有機水銀の危険性が絶望的であることに気がつき始めていた。
カール・マーベル(Carl S. Marvel 1894-1988)とウォーレス・カロザース(Wallace H. Carothers 1896-1937)は、それぞれ高分子化学と「ナイロン」の発明で世界的に著名な研究者である。マーベルのイリノイ大学における最初の研究は有機合成化学であった。マーベルは、そのうち有機水銀中毒によって頭痛や目まい、吐き気など、耐えがたい自覚症状に悩まされた。マーベルの自覚症状はやがて研究を続けることができないほどになり、高分子化学に転向してしまった。マーベルは、「もし誰かが実験棟のホールの2階下で有機水銀入りの瓶のふたを開けたら、それだけで俺は頭が痛くなる」と言い残している。
マーベルの高分子研究室にカロザースがいた。マーベルは、その後 E. I. デュポン社で技術顧問としてカロザースと仕事をしている。また、ノートルダム大学に移り、ジュリアス・ニューランド教授とも仕事をしている。カロザースは優れた才能をもつ化学者であったが、結婚後 41歳のとき娘の誕生を見ないまま自殺した。
アーノルド・ベックマン(Arnold O. Beckman)は「pHメーター」の発明で知られる。ベックマンはイリノイ大学で、最初はカール・マーベルの指導下で有機水銀(ジプロピル水銀、イソプロピル水銀)の研究をしていた。1920年秋になるとマーベルと同様に頭痛や目まい、吐き気など、有機水銀中毒の自覚症状に悩まされた。クリスマス休暇でやっと帰省できたが、研究室に戻ると、再び耐えがたい自覚症状に襲われた。そこで、それまでの有機化学から物理化学へ転向してしまった。 【 10 】 有機水銀が副生する事実は日本でいつ周知となったか(東京1922年) 越智主一郎と小野澤與一は、『工業化學雜誌』(1920年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドの製造に就て」と題して論文を発表し [14]、次のように述べた。
ここで越智主一郎等はクチェロフの水銀法を用いてアセトアルデヒドを製造する過程で何らかの有機水銀が副生する事実を示唆している。
一方、米国の前記ジュリアス・ニューランド教授は、『米国化学会誌』(1921年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドをつくる場合の水銀塩の作用ならびにパラアルデヒドの製造方法」と題して論文を発表し [15]、「そこで本研究では、種々の水銀塩を酸に溶かし、それぞれ異なった温度と濃度で用いてみた。その場合に、アセチレンがどのように反応するか、その反応の程度と持続時間について検討した。この目的のためには、硫酸水銀を希硫酸に溶かしたものが触媒としての経済性と触媒としての性能、反応の持続性の面からみて最適であることが見出された。しかしながら、これらの溶液の中で、水銀が硫化物の形で長く存在することはなく、ある有機水銀に変性され、その有機水銀が触媒として作用するということを見出したものである」と述べた。(It was found, however, that in these solutions, the mercury did not longer remain in the form of the sulfate but was converted to an organic compound, and this compound acted as the catalyst.)
ニューランドの『米国化学会誌』(1921年)の内容は、国内で翌1922年に『工業化學雜誌』に抄訳が掲載された [16]。その中で「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此(こ)の者の接觸作用により反應は進行する」と報じられた。『工業化學雜誌』(1922年)は、熊本大学附属図書館には1927年に収蔵され(当時の熊本藥學專門學校圖書課が購入)、「熊本藥學專門學校圖書之印」「昭和2年11月16日受入」の刻印がある。
以上にあげた書籍、文献などは、すべて日本窒素がアセトアルデヒドの製造を開始した1932年5月7日(土曜)よりも前から国内に存在していた。有機水銀の副生は日本語で広く読まれ、日本人の間ですでに「周知」であった。では、日本窒素はなぜ、どのようにして水俣町(当時)でアセトアルデヒドを製造したのであろうか。
【 11 】 アセトアルデヒドの製造(水俣町1932年) 第一次世界大戦終結から間もない1920年1月、野口遵はドイツへ渡航し、アドルフ・フランクを訪ねた。その目的はフランク・カローの石灰窒素製法の日本での実施権の期限を延長するためであったが、野口遵の渡航の真の目的はヨーロッパで新しい技術を物色することであった。野口遵はフランクからイタリアのルイギ・カザレー(Luigi Casale 1882-1927)が「アンモニア(NH3)の直接合成」に成功したと聞きおよぶ。「やはり戦争は技術を進歩させる」これが野口遵の感性であった。カザレーによるアンモニア直接合成法は、文字どおり水素(H2)と窒素(N2)に高い圧力を加えてアンモニア(NH3)に直接変えてしまうという画期的な技術であった。アンモニアは硫安(硫酸アンモニウム)の原料である。それまで水俣工場では、アンモニアを製造するのに、まず石灰岩と石炭を電気炉で約 2,000℃で焼いてカーバイドを製造し、つぎにカーバイドを窒素中で約 1,000℃で焼いて石灰窒素を製造し、さらに石灰窒素を高温の水蒸気と反応させて製造していた。その全過程を消し飛ばして水素(H2)と窒素(N2)を直接反応させてアンモニアを製造するのが「カザレー法」である。水素(H2)は水を電気分解することによって大量に製造することができる。また、窒素(N2)は空気を電力で圧縮冷却して大量につくることができる。すべての資源は日本にある。 野口遵はイタリアのテルニー郡ネラ・モントロの町(ローマの約 100キロメートル北)にカザレーを訪ねた。カザレーは野口遵を実験室に案内し、アンモニアの直接合成をやって見せた。巨大な圧縮機が回転した。当時の配管は貧弱であった。数百気圧の圧力がかかる。配管は何回か破裂した。しかし、カザレーは野口遵に少量のアンモニアを製造して見せた。「これはひょっとするとものになる」(野口遵)。野口遵はカザレーから技術を購入するためその場で 10萬圓(当時)を支払い、後日 90萬圓を支払って「カザレーのアンモニア直接合成法」の実施権を購入した。 1923年9月、野口遵は宮崎縣の延岡町(当時)に日本窒素肥料株式會社延岡工場を建設し、カザレー法によるアンモニアの直接合成の実験をはじめた。それが現在の旭化成株式会社の前身である。 1926年12月25日、野口遵は水俣工場でカザレー法による本格的なアンモニアの直接製造装置を完成させた。アンモニアの収量は日産 20トンであった。装置は藏前にあった東京高等工業學校(現在の東京工業大学)を卒業したばかりの橋本彦七が工夫して設計したものであった。それは「日窒方式」(にっちつほうしき)とよばれた。圧縮機が回転すると 800気圧もの高圧が加わる。当時の日本にそれだけの高圧に耐える部品などは存在しなかった。イタリアからカザレー博士が水俣工場に技術指導に来たが、カザレー博士もイタリアの研究室での経験しかなかった。水俣工場では頻繁に爆発事故が起きた。一瞬にして工場の屋根ガラスを吹き飛ばすこともあった。周囲の人びとも果たして町が吹き飛ぶのではないかと恐れた。 日本窒素は、最初はカーバイド工場でしかなかったが、カザレー法の導入によって多種類の製品を出荷するようになった。アンモニアは硫安の原料になっただけではなく、硝酸、ニトログリセリン、レーヨンの原料にもなった。1928年に野口遵はドイツのベンベルグ社から銅アンモニアレーヨンの製造販売権を購入して「ベンベルグ」の商品名で製造しはじめた。日本窒素は五ヶ瀬川、阿蘇白川などにも発電所を建設し、1928年に総発電量は 50万キロワットとなっていた。九州にあって、すべて東日本標準の 50ヘルツであった。
一方、ドイツではアレクサンダー・ワッカーが1903年からコンソルティウム社でカーバイドを製造していた。ザルツァッハ川の流域にあるブルクハウゼンの森を工場用地として購入した。1912年から水銀を用いてアセトアルデヒドの試験的な製造をはじめていた。「コンソルティウム」は英語の「コンソーシアム」(企業合同体)のことである。ヨーロッパ各国の化学会社が共同出資して設立した会社であった。1914年ワッカーは、ブルクハウゼン工場をワッカー自らが経営する「ワッカー・ケミー社」(ドクター・アレクサンダー・ワッカー電気化学工業会社)として独立させた。1916年12月にワッカー・ケミー社はアセトアルデヒドの大量生産をはじめ、同時に本社をミュンヘンに移した。当時ワッカー・ケミー社は工員約 400名と事務員約 50名を擁していた。
当時は世界市場でアセトアルデヒドは需要がひっ迫していた。それを製造する会社は少なかった。1917年にカナダではシャウイニガン化学会社がセントローレンス河畔でアセトアルデヒドの製造をはじめた。ドイツではヘキスト社が1917年にフランクフルトでアセトアルデヒドの製造をはじめた。ヘキスト社は1919年にナップサック工場でもアセトアルデヒドの製造をはじめた。
水俣工場では、カザレー式のアンモニアの直接合成が成功し、アンモニアの原料としてのカーバイドは大量に余っていた。野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーがアセトアルデヒドの大量製造に成功し、ワッカー・ケミー社が大発展していることを知っていた。日本では、当時アセトアルデヒドは高価な輸入品であった。 野口遵は新財閥である「日窒コンツェルン」の総帥としてヨーロッパの技術によく精通していた。日窒コンツェルンは他の財閥とは異なり、独自の鉱山をもたない。資源をもたないので、ヨーロッパの最新の技術を導入して旧財閥と対抗するしかない。野口遵はカーバイドを原料とし、水銀を用いてアセトアルデヒドを製造することを決断する。水俣工場には大量のカーバイドがある。
1925年に野口遵は朝鮮半島に進出し、1926年に朝鮮水力電氣株式會社を設立した。1927年に朝鮮窒素肥料株式會社を設立した。化学肥料の製造は、戦時下においては重要な軍需産業である。軍部は、野口遵の事業を「朝鮮における軍事工業基地」と見なした。野口遵は、大日本帝國朝鮮總督府の庇護のもとで、鴨綠江水系に赴戰江發電所など大規模な発電所をいくつも建設する。赴戰江の水を落差1キロメートルで日本海側へ落とした。そのようにして 20万キロワットの電力を起こした。また、世界一を誇るソヴィエト連邦のドニエプル発電所(31万キロワット)を凌駕して出力 32万キロワットの長津江系發電所を完成した。また、咸鏡(ハムギョン)南道の興南(こうなん)に巨大な電気化学工業コンビナートを造成した。土地の買収は日本の憲兵が立会って強制的に行われた。敷地の広さは約5百万坪(水俣工場の約 50倍)、従業員は約 4万5千名であった。興南工場では、年産 40万トンを超える硫安などの化学肥料、化学薬品、人造絹糸などが製造された。住宅、病院、学校、郵便局、警察署、火葬場なども建設された。興南には、以前はさら地でしかなかったところに、人口 18万人のアジア最大の化学工業都市が出現した。
一方、アセトアルデヒドの製造実験は、宮崎縣の日本窒素延岡工場(現在の旭化成延岡工場)で行われた。延岡工場では実験室で日産 20~30グラムのアセトアルデヒドを製造した。 そのころの日本は、國家総動員體制を強化して、ひたすら戦争に向けて突き進んでいた。その背景には、第一次世界大戦の戦訓から、戦争における勝利は、国家が総力戦の体制をとることが必須であるという認識が深まりつつあった。1918年に軍需工業動員法が制定された。それによって戦時下における軍需工場の管理、収用と労働者の徴用、平時の工場調査と軍需工業の保護育成が規定された。その統轄のために内閣総理大臣のもとに軍需局がおかれた。1926年には陸軍省に整備局、翌年内閣に資源局がおかれた。アセトアルデヒドは重要な軍需物資であった。
1928年5月、日本窒素は水俣工場の中に水銀を触媒とするアセトアルデヒド製造のパイロットプラントをつくった。パイロットプラントは、くり返し爆発し、何年も稼働するに至らなかった。そのような工場にも、1銭5厘の葉書一枚で地域から多くの工員が集まった。地域には他に目ぼしい産業はなく、何十倍もの就職志願者が応募した。工場で働くことは一兵卒として戦地に赴くことと同じか、あるいはそれよりよいと考えられた。工員は採用面接のとき製造課長の橋本彦七から爆発してよいか、死んでもよいかと聞かれて、死を覚悟していると答えた志願者が採用された。日本人の命の値段は高くなかった。お國のためならただ同然であった。
1932年5月7日(土曜)に日本窒素はアセトアルデヒドの製造をはじめた。 水俣工場の南側に現在も百間(ひゃっけん)排水溝がある。当時の百間排水溝は小さな小川で、「明神﨑」(みょうじんがはな)という小高い、小さな半島の南のふもとに工場から水俣灣へ深く掘って通じていた。有機水銀は、その排水溝を通って水俣灣へ直接流れはじめた。これによって、メチル水銀による自然に対する破壊、人間の身体と生命に対する破壊、人間の尊厳に対する破壊、そして地域社会に対する破壊がはじまっていった。
アセトアルデヒドの第一期の製造設備は日産 5トン、第二期の製造設備(1933年4月稼働)も日産 5トン、第三期の製造設備(1934年10月稼働)も日産 5トン、第四期の製造設備(1935年9月稼働)も日産 5トン、第五期の製造設備(1937年4月稼働開始)は日産 10トンであった。製造設備はいきなり本番稼働のもので、労働災害は頻発した。劣化した硫酸母液を入れ替える作業、廃棄作業は常態的に行われた。硫酸母液は排水溝にそのまま捨てられた。排水溝には、金属水銀がぎらぎらとたまった。有機水銀廃液もそのまま水俣灣へ流された。
日本窒素はこのアセトアルデヒド事業を足がかりに、第二次世界大戦前に総資産で現在の評価額約 50兆円の大会社として発展していく。「日本窒素の如き大工場設備は、如何に政府の力をもってしても、戰爭が始まったからといって一朝一夕につくることはできない。假に建物や機械ができたとしても、これに生命を與ふべき技術經験等の人的資源はこれを如何ともすることができない。聖戰下における日本窒素はいまや一營利會社としてこれを見るべきでなく、一大總合國策會社といふべきであらう」(日本窒素『日本窒素肥料株式會社事業槪要』1940年5月5日) 日本窒素はその間に、宮崎縣の延岡工場(現在の旭化成延岡工場)、朝鮮の鴨綠江河畔の朝鮮窒素肥料株式會社などを含めると、従業員の数は 8万名に達し、化学会社の規模として世界第二の地位を築く。1941年11月3日に日本窒素水俣工場は、日本で最初に塩化ビニールの製造をはじめた。塩化ビニールの可塑剤の原料として大量のアセトアルデヒドが必要になった。その製造の過程でさらに大量のメチル水銀が水俣灣に流れ込んでいった。 戦後の1950年1月31日に日本窒素は財閥解体によって資本金4億円の新日本窒素肥料株式会社となった。そのとき海外や延岡工場(現在の旭化成延岡工場)を含めた総資産の 8割を失った。しかし、同年に勃発した朝鮮戦争による特需が追い風となって復興が進んだ。 1952年に生産を開始したオクタノール(オクチルアルコール)は需給がひっ迫した。以後、新日本窒素は 10年間にわたって国内のオクタノール市場をほぼ完全に独占した。仮に新日本窒素によるオクタノールの供給が停止するとわが国の繊維産業などは立ちゆかなかった。戦後の荒廃からようやく立ち直って少しずつ成長をはじめた日本の産業にとってそれは大きな打撃となる。深刻な経済恐慌さえも起こりかねない。当時日本の経済はひ弱であった。オクタノールを製造するにはその原料であるアセトアルデヒドが必要であった。この事業は、新日本窒素水俣工場にとって、そして復興しはじめた日本経済を維持しようとする日本国政府にとって、なくてはならない事業であった。新日本窒素はそのようにして再び日本を代表する化学会社として甦っていった。 日本国政府は、その一方で、化学工業の分野では、1955年から新しく石油化学工業第一期計画を立てて具体化をはかっていた。日本の化学産業を石油化学化しなければ、将来日本経済が発展することはない。その計画によって、新居浜、岩国、四日市、川崎の四つのナフサセンターが1959年までには稼働した。この日本国政府主導の石油化学工業は、将来はカーバイド・アセチレンを用いた新日本窒素の伝統的な化学工業よりも圧倒的に有利となることがわかっていた。しかし、日本国政府は、石油化学工業が本格的に稼働する1968年までの間にわが国の経済成長を維持するため、新日本窒素水俣工場に、たとえ周辺地域にメチル水銀中毒患者が多発することがわかっていても、カーバイド・アセチレンを用いた伝統的な方法によって基本的な工業原料であるアセトアルデヒド、酢酸、オクタノール、塩化ビニールを継続して製造させた(新日本窒素肥料株式会社は、1965年1月にチッソ株式会社と改称した)。 第六章 【 12 】 なぜヨーロッパでは工場廃液で有機水銀中毒が発生しなかったか
1916年12月にドイツのワッカー・ケミー社がブルクハウゼンの森で世界最初にアセトアルデヒドの量産をはじめたとき(当時工員約 400名)、多数の従業員が原因不明の疾患に陥った。疫学的調査がスイス・チューリヒ大学のハインリッヒ・ツァンガー教授とスイス・ブリークのダニエル・ポメッタ博士によって行われた。従業員の主な訴えは四肢の重苦しい感覚と疲労感、不整脈、頭痛、感覚の鈍り、目まい、吐き気、不定愁訴であった。
ツァンガー教授は、アセトアルデヒドを製造する工程で有機水銀が副生していることと、従業員がアセトアルデヒド製造の排泥(はいでい。スラッジ)に触れた結果その排泥に含まれる「有機水銀」によって傷害を受けていること、そして、傷害は有機水銀特有の「中枢神経障害」であることをその1916年に確認した [17]。その結果、アセトアルデヒドの製造廃液は近くのザルツァッハ川に流されることなく、カーバイド排泥とともに地下水を避けて地中に埋められた。
ヨーロッパでは、そのようにアセトアルデヒド製造の初期の段階で、会社も一般従業員も製造工程から生じる排泥が有機水銀を含み、中枢神経障害を起こすことを認識した。したがって、以後ヨーロッパでメチル水銀中毒は発生しなかった。ワッカー・ケミー社は現在スペシャルティ化学製品の専門メーカーとして世界のリーダーとなっている。 ワッカー・ケミー社における有機水銀中毒の発生は、ツァンガー教授によって後年『産業医学誌』(1930年)に「水銀中毒の経験」と題して報告されている [17]。以下その内容の抄訳を紹介する。
ツァンガー教授は廃液の化学分析を行ったわけではない。しかし、ツァンガー教授は「有機水銀」によって特有の「中枢神経障害」が起きることを知っていた。
ヨーロッパでも、アセトアルデヒドの製造に伴って有機水銀による中枢神経障害が起きることは、1916年に「予見可能」であった。 では、ツァンガー教授はどのようにしてその重要な知識を得ていたのであろうか。当時は前記『聖バーソロミュー病院報告書』(1865年 [4]、1866年 [5])や『化学ニュース』(1865年 [6]、1866年 [7])、「ヘップ論文」(1887年)[8]、「ニューランド論文」(1906年)[12] などの文献しかなかった。しかし、ツァンガー教授はそれらを読んでいた。それによってその偉業を達成したのである。 ワッカー・ケミー社の前身は前述したように「コンソルティウム」(英語のコンソーシアム 企業合同体)であり、ドイツ、スイス、フランスなどヨーロッパ各国の化学会社が共同出資して設立した会社であった。1914年にワッカー・ケミー社という一企業体となったが、従業員の地元における再就職も、また、母国の企業への帰任も、比較的自由であった。アセトアルデヒド工場の排泥に触れて有機水銀による中枢神経障害が起きたという事実は、以後ヨーロッパ各国に伝わった。 【 13 】 「ハンター・ラッセル症候群」は死後の解剖学上の症状である
1937年にイギリスの種子処理工場でメチル水銀中毒の重篤な 4例が発生した。D. ハンター、R. ボンフォード、D. ラッセルの 3名はその 4症例について、1940年に『医学四半期報』の中で「メチル水銀化合物による中毒」と題して論文 [18] を発表した。
ハンター等 3名は、その第 1頁に『聖バーソロミュー病院報告書』 [4-5] の内容を改めて具体的に紹介した。また、ヘップ論文 [8] を紹介した。その上で重症の 4例に共通して運動失調、構音障害(dysarthria)、視野狭窄の症状があると報告した。(構音障害 dysarthria ディサースリアは英語。ドイツ語では Dysarthrie ディサートリイ) ただし、ハンター等 3名は「三主徴」(さんしゅちょう trias)という言葉を用いなかった。その理由は、メチル水銀中毒で重篤な場合には運動失調、構音障害(dysarthria)、視野狭窄が発現するが、仮にそれらに対して「三主徴」(trias)という術語を与えてしまうと、メチル水銀中毒によってあたかもそれら三つの症状が必然的に発現するかのように誤解を与える。あるいは、あたかもそれら三つの症状が他の症状よりきわ立っているかのように誤解を与える論文となってしまうからである。 ハンター等 3名の上記論文 [18] の最初の頁を紹介する。
ハンター等 3名は、種子処理工場で起きたメチル水銀中毒の症状は、聖バーソロミュー病院で1865年に見出されたメチル水銀中毒の症状と幾つかの点で同じであると述べている("The illness of these men was in some ways comparable to that of the two technicians who died at St. Bartholomew's Hospital.")[18]。
上記ハンター等 3名の論文の冒頭にある「1863年に化学の研究に用いられ」とはフランクランド等による原子価決定のための研究 [3] のことである。「1887年に治療に用いられ」とはヘップによる梅毒の治験(猛毒のため失敗) [8] のことである。「1914年に種子処理剤の製造に用いられ」とは、ドイツで開発され、その後バイエル社より発売された穀物種子のカビ防止剤「ウスプルン」(商品名)のことである。 ハンター等 3名の論文で報告された 4名の患者のうちの一人が、発症後 15年経って1952年12月14日に肺炎で死亡した。その 22時間後に剖検が行われた。大小脳の局所萎縮(きょくしょいしゅく)、顆粒細胞層(かりゅうさいぼうそう)の喪失(そうしつ)などが見られた。ハンターとラッセルはその解剖学上の所見について「有機水銀化合物によるヒトの大小脳の局所委縮」と題して論文(1954年)を発表した [19]。 前記ハンター等の二つの論文 [18-19] は定期刊行物であり、当時東京大学附属図書館など国内の20以上の図書館で逐次購入され、収蔵された。 1956年5月1日に水俣市で「奇病」が確認されると、8月14日に「水俣市奇病対策委員会」は熊本大学医学部に原因究明を依頼した。8月24日に熊本大学医学部において、内科、小児科、病理、微生物、公衆衛生の各教室からなる「医学部水俣奇病研究班」が組織され、衛生学教室も加わった。 当時、熊本大学の研究班は教室ごとに研究を行い、それぞれが原因物質解明の一番乗りを競うものであったことが知られている。 1957年に熊本大学の内科学の徳臣晴比古(とくおみはるひこ)助教授は、東京に出張したとき、日本橋の本屋で米国の エッティンゲン(Wolfgang Felix von Oettingen)が著した『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』 [20] を購入した。その本の中に視野狭窄、運動失調などをもたらす中毒として、ハンター等3名の論文 [18] が引用されていることを知り、有機水銀に疑いをもった。徳臣助教授は東京大学からハンター等3名による論文 [18] を取り寄せた。また、それに関連して後にハンターとラッセルの論文 [19] を取り寄せた。しかし、徳臣助教授は、有機水銀に確信をもつには至らなかった。 1958年10月21日に新日本窒素の西田栄一水俣工場長は熊本大学に鰐淵健之(わにぶちけんし)学長を訪ね、熊本大学が「奇病」の原因を究明していることに対して、文部省当局が「政治問題化」することを懸念している(ので究明をやめろ)と申し入れた。
ドイツ・ベルリンのシュプリンガー・フェアラーク社(Springer-Verlag)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて『病理学的解剖学及び組織学各論ハンドブック』 (Handbuch der speziellen pathologischen Anatomie und Histologie)を刊行した。ハンドブックといっても 10巻以上ある。また、それぞれの巻が幾冊かの号に分かれている。当時ドイツ語で書かれたそのハンドブックは病理学的解剖学及び組織学の分野の世界的な大著であった。
ブルガリア国ソフィア市の A. ペンチュウ博士(Herr Professor Dr. Angel Pentschew)は、前記ハンドブックの第13巻として1958年に出版された『中枢神経障害』(Erkrankungen des zentralen Nervensystems)の「2B号」という分冊の『中毒』(Intoxikationen) の章を執筆した[21]。
筆者(入口紀男)は熊本大学附属図書館に所蔵されているその 2B号を読んだが、製本されたその一分冊(2B号)だけでも、両手でかかえてずっしりと重い。その中で A. ペンチュウの『中毒』の章は約 600頁の分量がある。果たしてこの本は、附属図書館に収蔵されてからいったいどれだけの人に読まれたのであろうか。
ペンチュウは、『中毒』の章を執筆したときは、ブルガリアから米国ワシントン市に移住していた。ペンチュウは、「水銀中毒」(Quecksilbervergiftung)の段の中に、前記ハンター、ボンフォード、ラッセル 3名の1940年の論文 [18] と、ハンターとラッセル 2名の1954年の論文 [19] を引用して紹介した。 ペンチュウは、その中で、ドロシー・ラッセル教授と個人的に相談した上で(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel [21])、死後の解剖によって発見された、メチル水銀による大小脳の局所萎縮、顆粒細胞層の破壊などの病理学上の「組織所見」について「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名すると記述した [21]。
1958年に熊本大学の病理学の武内忠男(たけうちただお)教授は、ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)[21] の刊行を広告で知り、それをドイツから取り寄せた。武内教授は、その中に、ハンター等 3名の1940年の論文 [18] が紹介され、イギリスの種子処理工場で起きた4例の重篤な患者に運動失調と視野狭窄、Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)の症状が共通してあったと記述されていることに着目した。また、ハンターとラッセルの1954年の論文 [19] から転載された病理所見(剖検の記録)が、水俣市から送られて劇症で死亡した患者の脳の病理所見(局所大小脳萎縮、顆粒細胞層破壊など)と共通していることに着目した。また、「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)という何らかの症候群名が書かれていることに着目した。
メチル水銀中毒では、重症であれ、比較的軽症であれ、生前に感覚障害が発現することが多いが、当時、感覚障害は小脳性失調、視野狭窄などと比較してそれほど重要視されていなかった。重症すぎて感覚障害の確認も不能だったのかもしれない。病理学者である武内教授の手に渡されたものは、重症で死亡した患者の生前のカルテと遺体であった。 当時は大学の医学部においても、診療は、まず患者が医師を訪問し、つぎに医師がその患者を診療するという時代であった。「訪問なくして診療なし」であった。水俣市の現地には感覚の鈍り(感覚障害)などを訴える多数の患者がいたが、逆に大学のほうから現地に出向いてフィールドワークを行うなど、科学的な検証が行われることは必ずしも一般的ではなかった。武内教授が描いた病像は、実態とは異なっていた。 1959年7月22日に熊本大学の研究者は医学部講堂で「水俣病研究報告会」を開き、「水俣病の原因物質はある種の水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と発表した。その発表の内容は1959年8月20日に「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」[22] として刊行された。その中で武内教授は次のように述べている。
武内忠男教授は、前記のとおり「有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)がある」と述べた。これが、わが国で「ハンター・ラッセル症候群」という呼称が一般に用いられるようになった原点である。しかしながら、A. ペンチュウ博士の『中毒』(Intoxikationen)[21] の中にそのような記述はない。
ところで、武内忠男教授は、A. ペンチュウについて「米国NIHの神経病理学者である」と紹介した記録が残っている。しかし、A. ペンチュウが NIHに在籍していた事実はない。NIH (National Institutes of Health)は、米国ワシントン市の近くにある国立の研究所である。医学の分野では米国で最も古く、また世界最先端の研究所の一つである。A. ペンチュウは、『中毒』(Intoxikationen)[21] を執筆したころ、ワシントン市内の軍事病理学研究所(Armed Forces Institute of Phathology)に所属していた。 下記に、A. ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)の章 [21] を邦訳して掲載する。
上記のとおり、A. ペンチュウ博士が命名した「ハンター・ラッセル症候群」は、死後の病理学的な「解剖学上の所見」である。
A. ペンチュウとしては、症候群名に「ハンター」と「ラッセル」の名前を冠するにはハンター博士とラッセル教授の承認が必要であった。一方、ラッセル教授としては、仮に生前の症状に自分の名前を冠することは、ややもすると科学史における先人の努力と犠牲(聖バーソロミュー病院におけるメチル水銀中毒の発見の歴史)をないがしろにすることになる。それが、ペンチュウ博士がラッセル教授に相談した理由である。 現代においては、生前であっても磁気共鳴断層影像法(MRI)などによって脳の委縮などの解剖学上の所見をある程度得ることができる。それでも、生前の臨床学上の症状を「ハンター・ラッセル症候群」とよぶことは、命名者であるペンチュウ博士とラッセル教授の意に反する。 A. ペンチュウは、ロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒について、その主な症状として四肢のしびれと、視覚障害、聴覚障害、四肢の運動失調の四つをあげた。A. ペンチュウが『中毒』[21] の中でメチル水銀中毒の「生前」の症状について「症候群」(Syndrom)という術語を用いたのは、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒についての、その 1か所のみであった。そのように、メチル水銀中毒の生前の症状は、科学史の原点に立って、「聖バーソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」などとよばれるべきであろう。 ハンター等 3名は、1940年の論文 [18] では、 4症例に共通して運動失調、視野狭窄、構音障害(dysarthria)があると述べていたが、そのうち「Dysarthrie」(構音障害)については、ハンターとラッセルの14年後(1954年)の論文 [19] では、死亡した患者には入院の 7週間前に歯をすべて失ったことによる軽い構音障害があったと記しただけであった("Slight dysarthria was attributed to loss of all his teeth seven weeks previously.")。また、ハンターとラッセルは、言語障害(speech deterioration)、発語障害(gross dyspharsia)という臨床学上の所見についての記述を残してはいるが、それらの臨床学上の所見と剖検による組織学上の発見とを結びつける記述を残していない。したがって、病理学者ペンチュウの『中毒』[21] の中に「ハンター・ラッセル症候群」としてDysarthrie(ディサートリイ 構音障害)に関係する記述はない。 それより、ハンターとラッセルは1954年の論文 [19] で、患者に入院前と剖検前に「感覚障害」(二点法)があったことをくり返し述べている。 武内忠男教授は、1959年7月22日に熊本大学の医学部講堂で開かれた前記「水俣病研究報告会」において、A. ペンチュウの『中毒』の内容について、あたかもペンチュウが「三主徴」という言葉を用いたかのように述べた。しかし、A. ペンチュウ博士は、その著『中毒』[21] の中で「三主徴」(ドイツ語で、Trias)という言葉を 1か所も用いていない。 それにしても、武内教授は、なぜペンチュウが用いていない「三主徴」という術語を、あたかもペンチュウが用いたかのように述べたのであろうか。原論文の著者であるハンターとボンフォード、ラッセルも、その1940年の論文 [18] の中で「三主徴」(英語で、trias)という言葉を 1か所も用いていない。また、ハンターとラッセルも、その1954年の論文 [19] の中で「三主徴」(trias)という言葉を 1か所も用いていない。 また、武内教授は、ペンチュウ博士があたかも小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」とよんでいるかのように述べた。しかし、ペンチュウ博士が「ハンター・ラッセル症候群」とよんだのは、生前の臨床学上の所見のことではない。 武内教授はなぜ死後の解剖所見である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の臨床所見であるかのように取り違えてしまったのであろうか。 熊本大学は、有機水銀説について、1959年10月6日に熊本県に対して鰐淵健之学長が報告書を提出した。その報告書は、熊本県衛生部より『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』と題して1960年3月に公表された [23]。以下その一部(第35頁)を掲載する。
徳臣晴比古助教授も、上記のとおり、「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(ディサートリイ 構音障害)をあげ、それを「Hunter Russelis Syndrom」(ハンター・ラッセル症候群)と報告した(Russelis の表記は Russelsches の誤り)。
徳臣助教授は、武内教授の根源的な誤りに対して何の科学的検証をすることもなく、死後の「解剖所見」である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の「臨床所見」としてそのまま取り違えた。 熊本大学は、「ハンター・ラッセル症候群」によって「奇病」の原因物質を「有機水銀」であると公表することができた。有機水銀に想到できたことが「てがら」にもなった。水俣市で見つかった有機水銀中毒が、あたかも日本窒素が有機水銀を流しはじめた1932年よりも新しく1937年にイギリスの種子処理工場で発見された中毒であるかのように発表することによって結果的に新日本窒素と協働することとなり、西田栄一のいう「政治問題化」も避けられた。しかし、メチル水銀中毒が聖バーソロミュー病院で1865年にメチル水銀中毒として見出されていた事実は、その瞬間から以後触れられなくなってしまった。その重要な事実に対して、今日に至るまで具体的に触れない空気が支配してきた。 武内教授がペンチュウの『中毒』[21] を入手したのは1958年であった。それに対して、徳臣晴比古助教授はそれより早く1957年に日本橋で米国のエッティンゲン著の『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』[20] を購入し、有機水銀に疑いをもったことを自らの「てがら」であると考え、「天祐(てんゆう。天の助け)であった」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 一方、武内教授は、「アメリカから『ポイゾニング』という本が出てるんですけどね。ちゃちな。それを見てもわからないんですよ。徳臣さんはあれを見てわかったと言っているけれど、あれはウソですよ。わかるはずがないですよ。あれを見て」と述べた記録(テープからの書き起こし)が残っている(1993年)。 問題は、そのようなことではなかった。武内教授は、先に述べたとおり、昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨 [22] の中で、「これらの症状を凡て具備する中毒性疾患は文献上ほとんど認められない」と述べているが、ハンター、ボンフォード、ラッセルの原論文 [18] には、前記抄訳のとおりに、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒のことが第1頁に記載されていた。また、その引用文献として『聖バーソロミュー病院報告書』[4-5] が紹介されていた。 また、ペンチュウによって『中毒』[21] の中でも紹介された「ヘップ論文」[8] は、前記したように、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒について詳細に知らせる文献であり、当時より30年近くも前の 1931年(昭和 6年)3月30日から熊本大学附属図書館の書架に並んでいた(熊本醫科大學圖書館が購入)。 また、アセトアルデヒドを製造するときに、「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此の者の接觸作用により反應は進行する」と報じる『工業化學雜誌』(1922年)は、当時より30年前の 1927年(昭和 2年)11月16日から熊本大学附属図書館の書架に並んでいた(当時の熊本藥學專門學校圖書課が購入)。 徳臣晴比古助教授が1959年に「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを「ハンター・ラッセル症候群」と報告したとき [23]、徳臣助教授は、水俣市から研究対象として大学に送られたわずか34名の患者しか診ていなかった。それらの患者は、小脳性失調、視野狭窄などを発現した重症の患者であった。重症でなければ視野狭窄は起きない。すなわち、水俣市の現地で感覚の鈍り(感覚障害)を訴える大部分の患者について科学的検証としての確認(フィールドワーク)といえるものは行われていなかった。したがって、徳臣助教授が描いた病像も実態とは異なっていた。しかし、問題はそれだけではなかった。 徳臣助教授は、武内忠男教授の「ハンター・ラッセル症候群」という根源的な誤りに対して、さらに、運動失調と視野狭窄、構音障害がそろっていなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないという自らの誤りをそれに上塗りした。 1970年2月1日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行された。その特措法に基づいて「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」が設定され、徳臣晴比古教授が会長に選任された。 1971年8月7日に、そのころ新設された環境庁より審査会に対して「事務次官通知」が送達された。それは、求心性視野狭窄と運動失調(言語障害、歩行障害を含む)、難聴、知覚障害のうち、いずれかの障害がある場合において、有機水銀の影響を否定しえない場合は、これを水俣病の範囲に含むというものであった。 その「事務次官通知」は、熊本大学の「有機水銀説」に依拠し、かつ熊本大学の「ハンター・ラッセル症候群」を参照して策定されていた。しかしながら、その「事務次官通知」は、「いずれかの障害がある場合において」としており、「ハンター・ラッセル症候群」を必ずしも研究者の「てがら」としてとらえたものではなかった。 当時審査会長となっていた徳臣晴比古教授は、「ハンター・ラッセル症候群」を「金科玉条」とし、複数の症状が組み合わされていなければ「ハンター・ラッセル症候群」すなわちメチル水銀中毒の生前の症状ではないとして、前記「事務次官通知」を拒否した。 徳臣教授は、「この環境事務次官通知は、誰が何を根拠に何を目的に発令したかわからないが、水俣病患者を一度も診察したこともなく、神経病理学、内科学の研鑽の実績があるとも思われない者が、よくこのような診断基準が出せるものだと驚き、かつ憤慨した。審査会委員のうち、実際に診療に携わっていた者十一人中七人は、同年九月三日の審査会で沢田一精県知事に辞表を提出した」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 それにしても、徳臣教授は、A. ペンチュウ博士の『中毒』(Intokikationen)[21] を改めて読み返してみることをしなかったのであろうか。そして、ペンチュウが「三主徴」(Trias)という言葉を 1か所も用いていないことに気がつくことはなかったのであろうか。あまつさえ、徳臣教授は、ペンチュウが小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」とよんで「いない」ことに気がつくことはなかったのであろうか。 そして、水俣市から研究対象として大学に送られたわずか34名の、しかも小脳性失調、視野狭窄などを発現した重症の患者だけを診て、それらが発現していなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないなどと断定するよりも前に、そもそも、1959年10月6日に熊本県に対して鰐淵健之学長を通して、「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを自ら「ハンター・ラッセル症候群」と報告したことが科学史上の誤りであることに気がつくことはなかったのであろうか。 「ハンター・ラッセル症候群」は、その後、メチル水銀中毒を、最初からなかったことにしたい行政機関との協働の中で、いくつかの症状がそろっていなければメチル水銀中毒ではないという、真正の患者を切り棄てるための道具と化した。筆者は、果たしてこれまでどれだけの数の患者が切り棄てられたかを知らない。 もっとも、徳臣晴比古教授は、その後、「いわゆる」という枕ことばをつけて、「いわゆるハンター・ラッセル症候群」という術語を用いるようになった。しかしながら、ペンチュウ博士の「死後の解剖学上の症状」である「ハンター・ラッセル症候群」に「いわゆる」という枕ことばをつけてみたところで、それによって定義の範囲がやや曖昧になることはあっても、それが運動失調、視野狭窄、構音障害といった「生前の臨床学上の症候群」に逆転するわけではない。また、運動失調、視野狭窄、構音障害の三つがそろっていなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないという誤りが正当化されるわけでもない。誤りをどのように上塗りしたところで、科学史上、誤りは後になっても誤りである。 【 14 】 「水俣病」(みなまたびょう)という言葉は、差別用語である メチル水銀中毒による生前の症状は、前節で述べたように、誤って銘打たれた「ハンター・ラッセル症候群」ではない。スイスの H. ツァンガー教授は、1916年にドイツのアセトアルデヒド工場に行ったが、そのとき排泥(はいでい。スラッジ)に触れた従業員について、ツァンガー教授が確認した症状は、手足のはっきりとした疲労感、不整脈、時おり起きる四肢の重くるしい感覚、頭痛、感覚の鈍り、目まい、嘔吐、不定愁訴、軽い体重減少などであった。従業員には小脳性失調があったとはいえない。また、視野狭窄があったともいえない。また、構音障害(Dysarthrie)があったともいえない。それでも、ツァンガー教授は、それらの症状について「有機水銀」による「中枢性障害」であると判断した。ツァンガー教授が依拠したのは、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きていた、人類の科学史上の貴重な経験であった。 メチル水銀中毒の症状は、小脳性失調、視野狭窄、構音障害(Dysarthrie)はもちろん、ツァンガー教授が確認したように、感覚の鈍り、手足のはっきりとした疲労感、不整脈、時おり起きる四肢の重くるしい感覚、頭痛、目まい、嘔吐、不定愁訴、軽い体重減少など、生活にやや支障をきたした程度の、個々に発現するいずれか一つの症状を含めた総称である。それを筆者は「ロンドンの聖バーソロミュー病院で1865年に世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」とよぶ。 それらの中で「感覚の鈍り」は特に重要であろう。1995年に熊本大学医学部の浴野成生(えきのしげお)教授は、感覚障害が中枢性の神経障害であり、メチル水銀中毒特有のものであることを科学的に証明した。 メチル水銀中毒症とは、メチル水銀被ばく歴がある人に感覚障害などの中枢性障害が認められたものである。これが科学的に検証された現在の定義である。また、これが2004年4月27日に大阪高等裁判所によって採用された定義である。上告審(最高裁判所)も、2004年10月15日に大阪高裁のこの判決を支持した。 したがって、感覚障害などの中枢性障害があって、メチル水銀被ばく歴より他に別段の原因が特定できなければ、それはメチル水銀中毒症である。 水俣灣周辺で有機水銀中毒が最初に発生した経緯は、魚介類を通してはいたが、それはやはりロンドンの聖バーソロミュー病院で世界最初に起きていたメチル水銀中毒であった。その上でアセトアルデヒドを製造すると必然的に有機水銀が副生することが周知であったので、水俣灣周辺で有機水銀中毒が発生することは、専門家であれば当然払うべき「ほんの少しの注意」を払って調べてみるだけで最初から「予見可能」であった。 しかしながら、熊本大学の研究者にとって「水俣病」より前に「水俣病」があってはならなかった。すなわち、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒 [4-8] の事実があってはならなかった。なぜなら、苦労を重ねてようやく有機水銀説に想到したことや、新しく患者を発見したことを自らの「てがら」とするためには、1935年(昭和10年)ごろから発生していた有機水銀中毒が1865年にロンドンで世界最初に起きたメチル水銀中毒と同じであるとして、当然払うべきほんの少しの注意を払うだけで予見可能であったというのでは「不都合」であったからである。 そこで、研究者は水俣市で見つかったメチル水銀中毒の症状を、日本窒素が廃液を流しはじめた1932年よりも新しく1937年にイギリスの種子処理工場で起きた「ハンター・ラッセル症候群」であるとして、しかも、それを誤って銘打った。また、聖バーソロミュー病院で1865年に起きていたメチル水銀中毒とその症状を知っていながら具体的に触れないことにして、有機水銀中毒があたかも新しい発見であるかのように「水俣病」という病名をつくった。また、「水俣病」の前に「水俣病」はないと主張した。その主張は、原因企業であるチッソはもちろん、自らの責任を小さく見せたい熊本県や日本国政府にとって都合がよかった。 熊本大学の研究者は、「水俣病」という病名を最初に用いたのは自分である。彼らではない。と主張して命名の「てがら」を争った。 武内忠男教授は「新聞雑誌などでは水俣奇病という言葉が使われていたが、奇病というのではあまりに非科学的であることから一応地名で呼んでおいたらどうであろうかという提案を武内が出した」と述べている(武内忠男「水俣病の病理学的追及の歩み」 有馬澄雄編『水俣病 - 20年の研究と今日の課題』 青林舎 1979年)。 徳臣晴比古教授は「勝木先生はある日の会合で『水俣地方の特有の原因不明の病気だから水俣病と、言ったらどうだろう』と発言されて『うんそれがいいだろう』ということになった」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 そのようにして、熊本大学の研究者と行政機関との協働の中で、「水俣病」という差別用語がつくられた。すると、それまで「水俣病」という用語を差し控えていたマスコミも、例外なく「水俣病」という用語を使いはじめた。その結果、たとえば水俣市の子どもたちが県外へ行くと、「水俣病が来た」と言われるようになった。 今日に至るまで、メチル水銀中毒について様ざまな研究や新しい著作が発表されてきた。それらの研究や著作は例外なく「水俣病」(みなまたびょう)という言葉を用いるものであった。「水俣病」という言葉は、その言葉のとおりに、地域としての「水俣」(みなまた)や人格をもつ公法人としての「水俣市」をメチル水銀中毒やその原因と「同一視」する言葉である。その言葉は、水俣市で生まれた子どもたちや水俣市に昔から暮らす人びとにとって、「差別」の意味を含んだ言葉として、ひそかに心に突き刺(さ)さった。それは、繊細な心をもつ人びとがそのように感じとるという「感性」の問題ではない。そもそも、メチル水銀中毒の原因はメチル水銀であって水俣ではない。 「水俣病」という言葉は、かつて肥後藩制下で水俣手永(みなまたてなが)とよばれ、現在は水俣市という、いく世代も続いて人びとが暮らしてきた地域としての水俣や、公法人としての水俣市を、メチル水銀中毒やその原因と同一視した上で他と峻別(しゅんべつ)する差別用語である。 他方、「水俣の教訓に学ぶ」という言葉がある。その言葉も、現在の責任を、「過去」に封じ込めようとする言葉である。
筆者は、前記のとおり、2008年に著した『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社)[2] の中で、「水俣病」という用語は病名ではなく呼称であると述べた。それから数年を経過した今日、「水俣病」という言葉は差別用語であることが広く認識されるに至っている。使うべき術語は「メチル水銀中毒」である。
筆者は、前記『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008年)[2] を2012年に英訳して『Minamata Bay, 1932』(水俣湾 昭和7年)という本を書いた(Nippon Hyoron Sha 2012年)。世界の100か国以上で読まれていることがわかっている。 W.H.O.(世界保健機関)は、「水俣病」という用語は医学の分野で用いられるべき術語ではない。また、科学の分野で用いられるべき術語でもない。それは「社会的概念」であると表明している。すなわち、「水俣病」は病名として用いられるべきではないと表明しているのである。これが W.H.O.の公式見解である。 正しい病名は「水銀及びその化合物による中毒」である。これは国際疾患コード第10版「ICD10」によって「Toxic effects of mercury and its compounds」(コード番号 T561)と分類されているからである。この「水銀及びその化合物による中毒」とはやや広い概念である。そこで、原因物質をさらに特定して「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」という術語が世界の医学の分野、科学の分野等で普遍的な学術用語として広く用いられており、浸透している。W.H.O.も「メチル水銀中毒」を用いている。 「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」として「水俣病」という術語を用いることができるのは、わが国ではその歴史的経緯から「政令」だけである。政令、すなわち、日本国憲法第七十三条第六号に基づいて内閣が制定する命令では水銀及びその化合物による中毒を「水俣病」と呼んでよい。また、厚生省や環境省なども、政令の直接の委託に基づく限り「水俣病」と呼んでよいであろう。 また、メチル水銀中毒の患者とその家族は、その歴史的事情から、自らの病名を「水俣病」と呼んでよい。水俣に生まれて、あるいは、日本窒素肥料株式会社によって汚染された水俣の魚を食べてメチル水銀中毒の患者になったのであるから、自らの拠って立つところをこの世界に永久に刻むために、自らの病名に限っては「水俣病」と呼ぶ自由と権利が保証されなければならない。そして周囲もそのことをよく理解しなければならない。 しかし、熊本県や水俣市などの地方自治体、マスメディア(新聞・テレビ・ラジオなど)、研究機関、私的団体、研究者、評論家、文芸作家、その他の個人などは、政令でもないのであるから、「水俣病」という術語は一般には差別用語であることを正しく認識したうえでこれをみだりに用いない方がよい。「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」という術語を用いることが推奨される。 【 15 】 有機水銀中毒が発生することは1932年には予見可能であった ドイツのワッカー・ケミー社ではアセトアルデヒドの量産をはじめた1916年から白く濁ったカーバイド排泥(はいでい)と透明なアセトアルデヒド廃液を廃棄物として混ぜていた。したがって、白いカーバイド排泥にはメチル水銀が含まれており、それに触れた従業員が発症した(重篤になる者は出なかったが)。したがって、白いカーバイド排泥は、誰も触れないようにして地中に埋められた。ヨーロッパでも1916年には「予見可能」であった。一方、水俣工場ではそうではなかった。日本窒素は、アセトアルデヒドの量産をはじめた1932年から白いカーバイド排泥を工場の北に離れた地中(八幡プール)に埋め立てる一方で、透明なアセトアルデヒド廃液(有機水銀)を西に離れた水俣灣に流した。もしもスイスのツァンガー教授が日本に来てくれて、日本窒素にカーバイド排泥と有機水銀廃液を一緒に地中に埋めさせていたなら、有機水銀中毒は発生しなかったであろう。 もっとも、1865年にロンドンで世界最初にメチル水銀中毒が起きていた事実は、スイスだけではなく早くから日本にも伝わっていた。アセトアルデヒドの製造廃液に有機水銀が含まれる事実も、明治時代から日本に伝わっていた。当時の熊本藥學專門學校圖書課が有機水銀の副生を詳しく知らせる『工業化學雜誌』 [16] を1927年11月16日に収蔵したとき、また、『聖バーソロミュー病院報告書』の内容を知らせる「ヘップ論文」 [8] を熊本醫科大學圖書館が 1931年3月30日に収蔵したとき、当時の研究者が、「ほんの少し」の注意を払ってそれらに眼を通していたなら、その後1932年5月7日に熊本縣の日本窒素がアセトアルデヒドの製造をはじめたとき、そのアセトアルデヒドを出荷しはじめたとき、ツァンガー教授が行ったように、その1932年に廃液を海や川に流さないように勧告していたなら、有機水銀中毒は最初から存在しなかったに相違ない。 そもそも、「水俣病」(みなまたびょう)という差別用語をつくるべきではなかった。死後の解剖学用語である「ハンター・ラッセル症候群」をあたかも生前の症状であるかのように誤って銘打ってはならなかった。日本窒素がアセトアルデヒドの製造をはじめた、その1932年に、日本でも有機水銀中毒の発生を予見すべきであった。そして、その予見に基づいて、有機水銀中毒の発生を回避すべきであった。 おわりに メチル水銀中毒は、1865年(日本では幕末の元治2年)にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたのが最初です。その事実は早くから国内に伝わっていました。アセトアルデヒドの製造廃液に有機水銀が含まれることは、明治の日本にも伝わっていました。日本窒素がアセトアルデヒドの製造をはじめた1932年(昭和7年)には、その製造廃液に有機水銀が含まれることは国内でも周知でした。したがって、水俣町(当時)で有機水銀中毒が発生することは、日本でも専門家であれば当然払うべき「ほんの少し」の注意を払って調べてみるだけで、予見することが可能でした。「ハンター・ラッセル症候群」は、死後の解剖学上の症状です。日本では生前の「臨床所見」と取り違えてメチル水銀中毒判定の根拠として利用されてきました。 生前の臨床学上の症状を、筆者は「ロンドンの聖バーソロミュー病院で世界最初に起きたメチル水銀中毒の症候群」とよびます。 「水俣病」は、学術用語でも医学用語でもありません。それは今日存在してはならない差別用語です。正しい病名は「メチル水銀中毒」です。 現在、メチル水銀中毒とは、メチル水銀被ばく歴がある人に感覚障害などの中枢性障害が認められたものと考えられています。これが、メチル水銀中毒の現在の科学的な定義です。この科学的な定義をそのまま適用すると、水俣市のメチル水銀中毒の患者は、1932年5月7日にまでさかのぼって、水俣湾と不知火海沿岸などを中心に、熊本県と鹿児島県の山間部を含めた全域と、住民の転出先の全国に広く分布し、死者を含めると、数十万人を超えるでしょう。 日本窒素が1932年(昭和7年)にアセトアルデヒドの製造をはじめたとき、その1932年に有機水銀中毒の発生を予見すべきでした。そして、その予見に基づいて、日本窒素に対して廃液を海や川に流さないように勧告して有機水銀中毒の発生を回避すべきでした。 水俣の美しい自然。美しい山々。そして豊かな海。その中で貧しくともつつましく道徳的に生きてきた人びと。悠久の昔からいく世代も守られてきた暮らし。 筆者は真に申し訳なく、それは残念の至りです。 謝辞 本書を作成するにあたり、熊本大学水俣病学術資料調査研究推進室ほか多くの皆さまに資料のご提供をいただきました。紙面を借りて御礼を申し上げます。本書に書かれた思想と表現に関する一切の責任は筆者に帰属します。平成27年11月1日 引用文献
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