島原雲仙普賢岳の噴火と津波(1792年) 






入口紀男


 寛政四年(1792年)5月21日に島原雲仙普賢岳が噴火しました。死者数は、記録に残るだけで15,135名でした。それは東日本大震災の死者数に匹敵しますが、当時日本の人口は約3,000万人でした。火山灰は江戸の街にも降りました。

 島原の津波 57メートル(歴史地理学 第202巻 2001)
 熊本    20メートル(東大地震研彙報 第68巻 1993)
 三角港   23メートル(東大地震研彙報 第68巻 1993)

『肥後国嶋原津波之絵図』 (熊本大学附属図書館永青文庫蔵)



 かわら版「当三月朔日より七日の間、昼夜を分かたず大地震にて九州九ケ国並びに天草に至る大地割れることおびただしく、その音天地を覆す。硫黄、島の割れ口より火入り、炎地をくぐり、天に登り、人家大石大木を飛ばし、人は一人も残らず。なお海の底を火くぐり、波を返し、舟はみな沈み、魚類のはらわたを返し、大魚小魚は陸に打ち上げてすさまじく、右の割れ口より諸物を埋む。八日の朝より少々収まりたるよしなれども、これも居て見たる人々はよく御存知なり。さてその硫黄の煙にむせて、中毒の人々大きに苦しむ」

当時の「かわら版」