その4 肥後の石橋とその歴史 |
---|
肥後の石橋はほとんどが単一アーチです。複数連橋は、上津久礼橋(菊陽町)、大坪橋、湯町橋(山鹿市)、高瀬橋(玉名市)、岩本橋(荒尾市)、金内橋(山都町)、流失した御船川眼鏡橋(御船町)くらいで、どちらかといえば県北に分布しています。肥後の複数連橋は、ほとんどは2連橋(めがね橋)です。肥後の石橋は、また、山間部に多いことも特徴の一つです。幕末から明治初期にかけて肥後藩の財政はひっ迫しており、土木工事費はほとんどが地元負担でした。そのため、経費が少なくてすむ小規模の石橋が数多く架けられたものと考えられます。しかし、肥後の国では、複数連橋の架橋技術はすでに幕末には確立していました。もし、肥後藩からの財政支援があったなら、川幅が広い下流に10連以上の夕日に映えるアーチや、また、天然の虹のアーチと石橋のアーチとの共演を現代において見ることができたかもしれません。 熊本県では、県北の石橋が年代は古く、石工仁平の存在とともに小規模ながら一つの流れがあります。その後、緑川水系の「霊台橋」などの「種山石工」の業績が世に知られることとなりました。 肥後の石橋は1、表1の肥後の石橋の年代別架橋数に示されるように幕末から明治初期にかけて多く架けられました。第二のピークが明治後期から大正時代に見てとれます。
表1.肥後の石橋の年代別架橋数 表2は肥後の石橋の地方別架橋年代を示します。人吉地方は架橋され始めたのが他の地域に比べて数十年遅れており、収束するのも戦後までかかっています。これは人吉盆地という地形に由来することが原因と考えられています。
表2.肥後の石橋の地方別架橋年代
加藤清正(1562-1611)は、熊本城を築城するにあたり、近江の国(滋賀県)から当時日本一といわれた穴太(あのう)石工衆を熊本に呼び寄せました。肥後の地元の石工衆は、その穴太石工衆から技術を受け継ぎます。当時肥後の地元の石工衆は益城郡上島村(現在の嘉島町上島)に住んでいました。その子孫である石工三九郎の息子仁平は、長崎で架橋技術を学んだといわれます。仁平は、県北を中心に、弟子たちと石橋をかけ始めます。仁平工法は、「縦軸積法」(リブアーチ式)という技術と、輪石(わいし)と輪石の間にくさび状の石「平太柄」を入れる技術に特徴がありました。仁平工法による他の作品としては、黒川橋(南阿蘇村、1953年6月28日の大水害で流失)、井口橋(菊陽町辛川)、門前川橋(御船町)、八幡宮前石橋(山鹿市)、豊岡橋(植木町)があります。 図1.洞宮橋(1774年架橋)。仁平(1788-1790)の工法になる熊本県最古の石橋。(1993年に近くに移設された。)
江戸後期、日本では鎖国の時代でした。長崎奉行所に勤めていた藤原林七(1765-1837)は、中島川に架かる眼鏡橋を見て、それが落ちないことに興味を抱きました。林七は、密かに外国人にその理論を聞いて工法を知ります。当時外国人との接触はご法度でした。追われる身となった林七は、百姓姿に身を変えて逃走を繰り返しました。林七は、種山(現在の八代市東陽町)に落ち着くことができました。すると、そこには阿蘇の火砕流が固まった阿蘇の恵み「凝灰岩」が豊富に存在していました。林七は、そこから石材を切り出す有能な石切り職人宇七と出合います。宮大工の「曲がり尺」をヒントにアーチ橋の研究を重ねた林七は、その工法を、長男の嘉八や宇七の二男岩永三五郎(1793-1851)に伝授しました。 図2.鍛冶屋上橋。藤原林七の最初の作品。(八代市東陽町) 林七の技術は鹿児島の架橋に、そして孫の橋本勘五郎(1822-1897)たちにより江戸の架橋へと、一気に「種山石工集団」として開花しました。藤原林七はこのようにして「種山石工の祖」と呼ばれます。
|