【趣旨】 卑彌呼(169頃-247)が倭國の女王に即位したのは、『梁書倭國傳』(629年)によれば、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間「178年-184年」であった(漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼為王)。日本には、大和王権は何としても「和」の中から生まれたのだ。大和王権は「親魏倭王」の女王國・倭國に「侵攻」したり、これを「討伐」したりしたものではない。卑彌呼の女王國・倭國が何としても「そのまま」大和王権になったのだ。そのような「信仰」ともいえるものが現在も存在する。それは、そのことを口にすることさえ不謹慎だという強い信仰である。 日本最初の「邪馬臺國・大和説」は、正一位・北畠親房(きたばたけちかふさ 1293-1354)の『神皇正統記』(じんのうしょうとうき 1343年)の中に見られる。それは、『日本書紀』の「神功皇后紀」に、次のように、倭國の女王が魏の皇帝から印綬を授与されたと書かれている内容から、神功皇后を卑彌呼とするものであった。 「卅九年是年也太歳己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都也。卌年魏志云正始元年遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也」(『日本書紀』神功皇后紀) すると、邪馬臺國は、神功皇后が都とした大和であったことになる。『神皇正統記』は、徳川光圀(1628-1701)、山鹿素行(1622-1685)、新井白石(1657-1725)、頼山陽(1781-1832)などに多大な影響を与えた。新井白石は、その後、邪馬臺國は、九州筑後の山門國であると考えたようである。しかし、新井白石は、そのための明らかな「証拠」を見出すことができなかった。 本居宣長(1730-1801)は、神功皇后のこの「卅九年」が、その記述の前後関係と百濟の近肖古王(在位 346-375)の名前から正確に百二十年(干支二巡)繰り上がっていると指摘した。すると、大和王権(『日本書紀』720年を編纂したチーム)は、時代を百二十年詐称して、卑彌呼(169頃-247)が魏の皇帝から金印紫綬を授けられた業績を、神功皇后の業績として召し上げようとしたことになる。 本居宣長は、卑彌呼を九州筑後・山門國の「女酋」と呼んだ。「女酋」とは、未開社会の女性支配者に対する差別表現である。その本居宣長も、明らかな「証拠」をもって九州筑後の山門國としたわけではなかった。日本の皇后が中国の皇帝に朝貢することがあってはならぬという、本居宣長独自の神がかり的な「皇国史観」からであった。 西暦 200年以前の奈良盆地には、環濠集落などの生活グループはあったが、何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はない。それは皆無である。西暦 184年ごろから、女王國・倭國では、卑彌呼が 後漢(樂浪郡)と交易をして青銅製品や鉄製品を輸入していた。それらは、九州北部に集中している。 白鳥庫吉(1865-1942)や和辻哲郎(1889-1960)は、邪馬臺國は九州から奈良盆地に東遷して大和王権になったのではないかと想像した。しかし、卑彌呼が九州筑後の山門國で後漢(樂浪郡)と交易を行っていた西暦 220年ごろ、奈良盆地の纏向(まきむく)では、吉備王國からの人と物と文化が流入し始めていた。最古の前方後円墳・纏向石塚古墳(全長 96メートル)は、そのころに築造されたと見られる。一方、九州の山門國では、その後 238年に卑彌呼は魏の第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)から「親魏倭王」の金印紫綬を授かる。266年に卑彌呼の後継者・臺與(とよ)が魏の後継国・西晉に朝貢した。邪馬臺國が奈良盆地へ東遷する理由も機会もなかった。白鳥庫吉も、和辻哲郎も、纏向遺跡の存在自体を知らなかった。
中国国家博物館(北京)に、梁の時代の 539年ごろに描かれて十一世紀に模写された『職貢圖』(しょっこうず)が保存されている。中国王朝から見て諸夷と呼ばれた周辺諸民族が様ざまな扮装で来朝する様子が絵図として描かれている。図の説明文は「倭國在帶方東南大海中依山島」から始まっているので、ここに描かれた倭國使は、女王・卑彌呼の特使・難升米(なしめ 生没年不詳)のようである。女王國の三十余か国について、「北岸に歴(へ)る(連なっている)」と書かれている。飛び地はない。難升米は、魏の朝廷でそのように証言したようである。魏(220-265)の朝廷から見て「親魏倭王・卑彌呼」は、九州北岸に連なる三十余か国の女王であった。舎人親王(676-735)以下『日本書紀』の編纂チームも、前記北畠親房や新井白石なども、この『職貢圖』の存在を知らなかった。
日本の古代に起きていた事実は一つである。では、それは、現実には一体どのようなものであったのだろうか?
第一章 【1】 「縄文人」とはどのような人びとであったか 我われの身体は「細胞」でできている。大人でおよそ五十兆個の細胞がある。これは必ずしも「歴史学」の話ではなく「サイエンス(科学)」の話となるので、違和感を覚える方もおられるかもしれない。しかし、「サイエンス」とはいっても今では常識に近い内容であるので、我われの細胞の中がどうなっているのか、それを見てみることにする。
薄い膜で包まれた細胞の中は「細胞液」という液体で満たされている。この細胞液に浮遊して一つの「細胞核」というこれも薄い膜で包まれた微小な、かつ、重要な構造体がある。また、「ミトコンドリア」という多数の構造体も浮遊している。ミトコンドリアは一つの細胞の中に三、四百個もあって、ヒトの体重のおよそ十パーセントがミトコンドリアの重量である。
ミトコンドリアにも遺伝子(DNA)がある。それは、母から子へと伝えられる。多くの民族のミトコンドリアの遺伝子(DNA)を調べた結果、現生人類(ホモ・サピエンス)は「十六万±四万年」前にアフリカの奥地に暮らしていたひとり(あるいは少数)の女性の子孫であることが分かった(1987年の英科学誌『ネイチャー』)。東洋人も、白人も、黒人も、アメリカ原住民も、すべてアフリカにいたその女性の子孫である。その子孫は、何万年もの間アフリカの奥地で暮らしていた。その一部がアフリカの東側の草原を北上して、今から四万-八万年前に、シナイ半島、あるいは、紅海を経由してユーラシア大陸へ渡った。これは、人類の「出アフリカ」と呼ばれることがある。それには、気候の変動、食料その他の原因はあったのかもしれないが、彼らは、そこから西のヨーロッパへ、あるいは東のアジアへと移動して行った。そして、その子孫がついに日本にもやって来た。縄文人である。 それまで、ヨーロッパ・アジアにはネアンデルタール人が生存していた。アジアの一部にはデニソワ人も生存していた。ネアンデルタール人などは絶滅したが、現生人類(ホモ・サピエンス)の遺伝子には、その遺伝子がわずかに(1~4パーセント)含まれていることが知られている。 縄文人は、まだ縄文がない 3万8千年くらい前から日本列島にいた可能性がある(人骨は出て来ないが、石器は出てくる)。縄文文化の時代は BC14000年ごろから BC1000年ごろまで、一万年以上も続いたことが知られている。縄文時代には、海面が「縄文海進」といって今より二、三メートル高く、また、地域によっては五、六メートル高かった。日本列島は大陸や朝鮮半島から孤立していた。縄文時代晩期の総人口は、コンピュータ考古学による復元では 75,800人であった(小山修三教授)。その人口の半数以上が、東北地方に集中している。当時の東北地方は、温暖で食糧も豊かであった。時おり大陸から襲って来るコレラや天然痘などの疫病も東北では少なかったのであろうと見られている。
縄文時代の人びとは鹿や猪を狩り、魚や貝を獲り、木の実などを採って暮らした。そのような暮らしが文明のレベルにおいて後進のものであったかというと、必ずしもそうとは限らない。
一反(たん)のどんぐりの林から「一石(こく)」のどんぐりが採れた。それを食べることによって人がひとり一年間生きることができた。どんぐりには硬い殻があるので長く保存ができた。どんぐりは、そのままでは苦いので石でつぶし、水に何日もつけて灰汁(あく)を除いた。すると混じりけのないデンプンが残る。それを火で焼いて食べた。発酵させて焼くとパンもできた。鮭の汁をかけて焼くと栄養豊富なクッキーもできた。木の実の栽培もした。それを発酵させると酒もできた。縄文人は美食を求める食通(グルメ)でもあった。人前に出るために気のきいた物を着た。べんがら(黄土を焼いた赤い顔料 酸化第二鉄)で化粧もした。原日本語を話した。音楽を聴き、自由な時間を楽しんだ。
縄文時代には、森羅万象に八百万(やほよろず)の神々が宿った。人びとは平等であった。縄文の人びとは、豊かな暮らしの中で 世界最初に土器を造った。土器は、煮炊きによって食中毒を防いでくれる。縄文の人びとはそのような土器に神さまが宿っていると考えた。感性豊かな縄文人は、土器に驚きの飾りをつけた。
糸魚川流域で採れた翡翠(ひすい)が全国各地で見つかっている。このことから、縄文人は、日本列島内では活発に交易をしていたと見られている。 弥生時代になると、稲作が行われた。稲作で「一石(こく)」とは、一反の田から採れるコメの量のことである。これで人がひとり一年間食べて生きることができる。人びとは定住し、食料を計画的に得ることができるようになった。しかし、一石のコメを作るには、先ず、春先を待って、土を水でやわらかくこねた苗代(なわしろ)を造る。これにたねもみをまいて苗(なえ)を育てる。一方で、田を整地し、水を引く。これに時機を逸しないで、村中で協力して田植えをする。昼夜水が枯れないようにする。草刈りや中干(なかぼ)しをする。嵐の日も田に行って稲穂が倒れないように縄を張る。秋になって稲穂が実ると枯れ始めないうちにす早く稲刈りをする。これは、縄文時代のようにどんぐりを拾ってきて余った時間を楽しむのとは違って、重労働である。縄文の生活から弥生の生活に容易には切り替わらなかった。
ここで、話を「細胞」のことに戻そう。
すべての細胞の中には、前記した通り、一つの微小な、かつ、重要な「細胞核」がある。細胞核の中には幾つかの「染色体」という構造体がある。染色体とは、1880年代に色素に染まって見えるので、そのように付けられた名称である。現在は、「デオキシリボ核酸(DNA)の構造体」、あるいは、単に「DNA」と言っている。染色体は、顕微鏡で観ると縮こまって見えるが、本当は、とてつもなく細長い代物(しろもの)である。ヒトの染色体は、全部で「四十六本」ある。うち二十三本は父親からもらったものである。残りの二十三本は母親からもらったものである。それぞれを「ハプロイド」という。この二十三対の染色体には固有の番号がつけられている。受精によって 四十六本になったものを「ディプロイド」という。人はディプロイドである。四十六本の DNAは、直系が約 2 nm (ナノメートル 1ミクロンのさらに 1,000分の1の単位)で、長さが合計約 2メートル。仮に直径 2ミリメートルの針金にたとえると、長さは約 2千キロメートル。およそ九州南端から北海道北端までの距離である。そこに遺伝子(DNA)情報としてアミノ酸分子が並ぶ。
図は、縄文人が分布する地域(みどり色)である。男性の四十六本の染色体のうち「Y染色体」と呼ばれるもの(図の 23番目の対の右のほう)は、男性だけがもっている。これは、父親から息子へと引き継がれる。日本にやって来た縄文人は、Y染色体として「C1a1」または「D1a2a」という遺伝子のタイプ(型)をもっていたことが分かっている。前者(C1a1)は、現代の日本人男性の約 5パーセントがもっている。後者(D1a2a)は、現代の日本人男性の約 35パーセントがもっている(M.F. Hammer, et al.,J. Human Genetics, 2006)。
なお、アイヌ人は縄文人の「D1a2a」をもつ人として 75パーセント、オホーツク北方人の「C2」をもつ人として 25パーセントのいずれかである。また、沖縄県人は、男性の約 56パーセントが縄文人の「D1a2a」をもっている。青森県人は男性の約 39パーセントが「D1a2a」をもっている(M.F. Hammer et al.,2006)。 【2】 「弥生人」はいつどこから流入したか 我われ多くの日本人は社会科で「日本人は、縄文時代に狩猟採集の生活をしていたが、その後大陸から日本に稲作が伝わり、日本で弥生時代が始まった」と教わった。それは、縄文人がだんだん弥生人になったという教えであった。
その後、「縄文人は狩猟採集の生活をしていたが、やがて大陸から渡来してきた弥生人が稲作をもたらし、混血していった」という教えに変わった。すなわち、日本人は、縄文人と弥生人という二つの祖先をもつということになった。そのことは、以前から知られていたが、1991年に東大名誉教授・埴原和郎(はにわらかずろう 1927-2004)が「日本人二祖先説」としてはっきりと示し、それが定説となったものである(K. Hanihara, Japan Review, 1991)。日本人に「大陸の血が混じっている」と明示的に言ったわけであるから、埴原和郎としてはよほど勇気がいったと思われる。
しかし、埴原和郎のその時点(1991年)でも、大陸から渡来してきた弥生人は「いつ」「どこから」渡来して来たのかが分からなかった。また、渡来した弥生人は、それまでの縄文人と「遺伝子」は、何がどう異なるのかも分からなかった。また、渡来した弥生人が「稲作」を伝えたのかどうかも分からなかった。ただ、おおよそ大陸から渡来してきた弥生人が稲作をもたらしたのではないかと想像され続けた。
近年の研究で、BC 1498年(± 825年)の縄文時代に、北東アジアにいた民族が、朝鮮半島を通って「弥生人」として大量に九州に流入したことが分かった(N.P. Cooke et al., Science Advances, 2021)。中国では「殷」(BC 17世紀 - BC 1046)の時代である。
流入した弥生人は、母系で伝わるミトコンドリア DNAの構成比で、国内の人口の四十パーセント近くを占めるに至った(N. P. Cooke et al., 2021)。したがって、その人数は、前記縄文晩期の総人口約 75,800人に対して、総計で約 47,100人であったと見られる。ただし、これらの数値には数パーセントの標準誤差はある。流入した弥生人のY染色体 DNAのタイプ(型)は「O1b2」であった。
日本では、弥生時代の開始とは、弥生人が流入したときではなく、稲作が始まったときであると定義されている。北東アジアから弥生人が流入したことによって日本が縄文時代から弥生時代に変わったわけではない。流入した弥生人は、もっぱらアワやキビなどの雑穀を栽培して暮らす民族であったようである。 流入した弥生人(O1b2人)の故郷は、北東アジアの「西遼河流域」から「朝鮮半島北部」にかけての地域と見られている。弥生人の遺伝子(O1b2)は、現在でもその地域(北東アジア)の多くの人びとがもっている。この「O1b2人」は、現在の中国の華北にも華中・華南にも存在しない(M.F. Hammer et al., 2006)。この弥生人の遺伝子「O1b2」は、現代人にも引き継がれていて、日本人男性の約 24パーセントがこの遺伝子をもっている(M.F. Hammer et al., 2006)。稲作の開始は、この弥生人(O1b2)の流入 BC 1498年(± 825年)の後、BC 1000年過ぎまで待たなければならなかった。 【3】 我われは、弥生人と話すことはできたか 日本語は、様ざまな言語が交じり合ったものと見られているが、世界の孤立語である(金田一春彦 1913-2004)。日本語は、英語や漢語とは文法的にも根源的に異なっている。それでも、日本語は、アルタイ語系の特徴をもっていて「述語」が最後に来る。これは、北東アジアから流入した弥生人(前記した O1b2人)の古代朝鮮語が基盤になっていると見られる。仮に我われがタイムスリップして邪馬臺國に行ったとする。そして、卑彌呼(169頃-247)や側近の難升米(なしめ 生没年不詳)と話してみたとする。そこで聞かされる弥生晩期の言葉は、ひどく古めかしい方言のようには感じられても、言葉としては通じたのではあるまいか。「いと(伊都)」「しま 島(斯馬)」「やまと (山門)」などの地名・語彙も同じだったであろう。文字のない時代に、漢からの使者、あるいは、魏からの使者による当時の音写が、音韻学的に正確であったとは限らない。 東北地方には、アイヌ語の地名が多く残されている。アイヌ人の中にY染色体 DNA「O1b2」をもつ人はいない。アイヌ人は、縄文人(C1a1人またはD1a2a人)の言葉を多く伝えているのかもしれない。仮に我われがタイムスリップして縄文時代に行ってみても、言葉は容易には通じなかったであろう。 【4】 「稲作」はいつどこから伝わったか イネは、もと熱帯・亜熱帯の植物である。その原産地は、インド・アッサム州から中国・雲南省にかけての一帯ではないかと見られている。現在、世界で約五億トンのコメが生産されているが、通常「ライス(米)」というと、それは、ぱさぱさしたインディカ米(タイ米)のことである。つやと弾力があって粘り気があるジャポニカ米(湿潤米)は、日本を含めて世界で約十五パーセントしか生産されていない。
中国の揚子江中下流域のことを「江南地方」という。そこには江南人が住んでいた。湖南省の「玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡」(湖南省道県白石寒村)からは、約一万四千年前の稲作の跡(稲籾 BC 12,000頃)が見つかっている。江南人は古代から水田耕作によって「熱帯ジャポニカ米」を栽培した。
一方、山東半島から遼東半島、朝鮮半島北部の地域では BC10,500年ごろ「温帯ジャポニカ米」が原生していたようである(宮本一夫他, 九州大学リポジトリ, 2019年)。驚くべきことに、この地域は、野生のイネの北限よりもはるか北に位置する。 朝鮮半島には、そのように世界最古級のイネはあったが、それでも、もっぱらアワやキビなどの雑穀栽培が行われたようである。そのころ日本では、九州北部でも狩猟採集の生活が行われていた。
朝鮮半島には旧石器時代の遺跡が非常に少ない。朝鮮半島は寒冷でほとんど無人であったと見られている。それでも、BC 1000年ごろから朝鮮半島に人びとが住み始め、「無文土器」と磨製石器が出始める。また、そのころ、朝鮮半島に早くも青銅器が流入したようである。
平成十五年(2003年)に、考古学的発掘と炭素 14年代測定によって、紀元前 1,000年ごろ朝鮮半島中南部の河川地域で稲作が行われたことが分かった。このことから、我が国の弥生時代の始まりは紀元前 1,000年ごろと見なされるようになった。しかし、現実に九州北部で最初にイネが栽培されたのは、紀元前九世紀ごろである。それは揚子江流域の江南地方の「熱帯ジャポニカ米」であったようである(宮本一夫他, 2019年)。この熱帯ジャポニカ米は直接九州北部にもち込まれたようである。すなわち、朝鮮半島では栽培されなかった。その後、紀元前五、六世紀ごろに朝鮮半島中南部から「温帯ジャポニカ米」が九州北部にもち込まれた。そして、日本列島各地には、この「温帯ジャポニカ米」が東進する(宮本一夫他, 2019年)。 稲作は、紀元前四世紀に早くも青森県弘前市の「砂沢遺跡」にまで伝わった。本州最北端最古の水田跡遺跡として残っている。日本海航路で直接伝わったものと見られている。しかし、東北地方は、なお温暖で食料が豊かであった。狩猟採集の生活は変わることなく続いた。 なお、揚子江流域の江南人のY染色体の遺伝子タイプ(型)に、弥生人の「O1b2」は見つからない(M.F. Hammer et al., 2006)。江南人は、弥生人ではない。 【5】 「二種の神器」と「航海術」はいつどこから伝わったか 中華の地でも、他の文明(メソポタミア、インダス、エジプト)と同様に、コムギの文明が発達した。それも世界最大の耕地面積と最大の収穫量を誇った。BC 600年ごろ鉄器が使われるようになると更に生産量が増えた。多くの農民が春秋の覇者となった。それを統一したのが秦の始皇帝(BC259-BC210)であった。中原(ちゅうげん)の地にはその後も前漢・後漢などの大帝国が出現した。
図は、前漢の武帝(在位 BC141-BC87)の時代の「朝鮮半島四郡」の位置を表す。この位置づけには諸説あるようである。前漢は、眞番郡を通して朝鮮半島の最南端に「倭人」が住んでいることや、さらにその南の海の向こうに九州北部があり、そこにも倭人が住んでいると認識していたようである。それらの倭人は互いに言葉が通じる弥生人(前記 O1b2人)であった。
一方、揚子江中下流域には、前記したように、江南人が住んでいた。前漢の時代になると、江南地方に青銅器が伝わった。江南人は、珍しい銅剣・銅鏡を「二種の神器」として祭祀に用いた。 時代が下ると、前漢の政策によって漢人が江南地方に南下した。江南人はそこを追われた。
紀元前 100年ごろ、一部の江南人は「銅剣・銅鏡」をもって九州に航行した。朝鮮半島には銅剣・銅鏡を祭祀に用いる風習はないので、江南人は海路九州に直接渡来したと見られる。このとき、江南人は、九州に、丸木舟や筏(いかだ)に替わって「準構造船」を用いる航海術を伝えたようである。江南地方では「潜水漁法」や「鵜飼」が行われていたが、これらも日本のその後の漁法となった。江南人は、九州北部に定住したようである。
江南人は、九州北部で後漢の樂浪郡と交易を行い、日本に初めて青銅器と鉄器が同時に入ってきた。 後漢の歴史家・班固(はんこ 32-92)とその妹の歴史家・班昭(はんしょう 45-117)は『漢書』(前漢のことを書いた歴史書)を編纂し、「地理志・燕地条」に「樂浪郡の海の中に倭人がいる。百余国にわかれている。季節の贈り物を持ってやって来る」と書いた。「樂浪郡」と書かれているので、それは前漢がその南にあった「眞番郡」を失った紀元前一世紀半ば以降のことであろう。この江南人は、大和王権の祖先となった可能性が高い。それは、たとえば、現在の皇室に「二種の神器」が伝わっているからである。 では、江南人は九州のどこに上陸したのであろうか? 気象庁は、人工衛星、船舶、フロートなどからの情報に基づいて海流のマップを毎日作成して公表している。季節によっては、揚子江河口から九州へ向かう海流がある。仮に帆のない筏(いかだ)で 1ノット(秒速約 0.5メートル)の海流に乗った場合は、約二十日で九州に漂着できる。仮に 4ノットの帆船を用いると、五日で九州に上陸可能である。 江南の人びとは、海流に乗って自然に「有明海」に漂着したのかもしれない。博多湾と有明海は水路でつながっていたので、江南の人びとはすぐに九州北岸に出たであろう。 江南人が上陸した筑後の山門(やまと)國(みやま市・柳川市)が、すべての始まりの地であった可能性がある。山門郡は高天原であったとする仮説もある(Wikipedia/山門郡)。山の麓の「やまと」や「みなと」の地名は日本各地にあるが、筑後の「山門」が「大和」の語源となったのかもしれない。 【6】 神武天皇はなぜ「東征」したことにされたか 中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らす。ユダヤ人は神に撰ばれた民であるという「撰民思想」をもつ。このため、一定の数のコミュニティを形成できなければ、その系統(種)は自然に消滅しやすい。開封のユダヤ人は時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。歴史的には開封のほかにも幾つかの都市にコミュニティがあったようである。ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢の時代」に移り住んだのではないかという点では、およそ一致している。古代イスラエルには、多くの「祭司 (コーエン Cohen)」がいた。「祭司」は世襲であった。「コーエン家」は現在まで続く。ウィリアム・コーエン(William Cohen) は、アメリカの国防長官であった(在任 1997-2001)。また、エリ・コーエン(Eli Cohen)は、エルサレムのユダヤ教の祭司の家庭に生まれ、空手五段であったが、駐日イスラエル大使を務めた(在任 2004-2007)。現在のすべての「コーエン」は、モーゼの兄・アロンの子孫であると信じられている。モーゼやアロンが実在したかどうかは分からないが、Y染色体 DNAの解析から、すべての「コーエン」は、共通のひとりの男性祖先にさかのぼる可能性が高いと見られている。その染色体は「アロンY染色体(Y-chromosomal Aaron)」と呼ばれる。 西暦 260年に魏(220-265)の人口は 4,432,881人であった。その中にあって少なくとも 1,000人のユダヤ人が開封で暮らしていたと見られる。魏は、西晉(265-316)によって後継されたが、その西晉は、匈奴の侵攻で滅亡する(316年)。長安も陥落した。洛陽も陥落した。男は殺され、女は連れ去られた。中国大陸は、北方民族が支配する「五胡十六国」の時代となる。その動乱の中で、後述するように、大量の漢族など東アジア人が日本に流入した(N.P. Cooke et al., Science Advances 2021)。それに混じって、少なくとも 200人のユダヤ人が流入した可能性が高い。日本は古墳時代であった。その中に「アロンY染色体」をもつ世襲の「コーエン」がいた可能性がある。ユダヤ人は、後年『日本書紀』の編纂に史(ふひと)として加わった可能性がある。 『旧約聖書』によれば、アブラハムは「ダガーマ地方のハラン(Harran)」にいたが、孫のヤコブはイスラエルの地で神に撰ばれたユダヤ人の始祖となる。一方、『日本書紀』によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原(たかまがはら)にいたが、高千穂に降臨して大和民族の始祖となる。ヤコブは、ラケルと結婚し、その父からラケルの姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。一方、瓊瓊杵尊は薩摩半島の吾田國(あたのくに 薩摩國閼駝郡)の笠沙(かささ)の國神(くにつかみ)の娘・木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚し、その父から木花開耶姫の姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。ヤコブはラケルとの間にヨセフを産むが、ヨセフは兄にいじめられてエジプトに行く。ヨセフはエジプトの祭司の娘と結婚してエフライムを産む。エフライムの四番目の息子べリアの子孫・ヨシュアがイスラエルの地を征服する。一方、瓊瓊杵尊は木花開耶姫との間に山幸彦(彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと)」を産むが、山幸彦は兄(海幸彦)にいじめられて海神(わたつみ)の國に行く。山幸彦は海神の娘・豐玉姫(とよたまひめ)と結婚して鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産む。鸕鶿草葺不合尊の四番目の息子・神武天皇が葦原中國(あしはらのなかつくに)を征服する。 『旧約聖書』は「天地創造」から始まり、ヘブライ人に撰民思想(神に撰ばれた民という思想)を保障している。『日本書紀』も「天地創造」から始まり、日本人に神国思想を保障している。『日本書紀』は、あたかも日本という国が少なくとも「イスラエル」と互角であると述べているかのようである。『日本書紀』は、紀元前十三世紀ごろモーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出し、瑞穂(みづほ)の國(「ミヅラホ」はヘブライ語で「日出ずるところ」の意)に東征して「カナン(ヘブライ語で「葦原」の意)」の地に至ったことを「知って」いて編纂されたのではないかと見られる。すなわち、初代神武天皇が、モーゼと互角の建国者であるためには、神武天皇に何としても「東征」してもらう必要があったのではあるまいか。 現在の日本人の間にユダヤ人の DNAはない。秦氏もユダヤ人ではない。日本に流入したユダヤ人は、日本にユダヤの文化や風習を伝え、日本で尊敬され、そして、自然に消滅したと見られるのである。しかし、「コーエン」は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、大和王権の中枢で祭祀を司る氏族「中臣(なかとみ)氏」として頭角を現したのではないか。「天岩戸(あまのいはと)」の物語では、天皇の祖先である天照大神(あまてらすおほみかみ)を、天児屋命(あめのこやねのみこと)らがこの世界に呼び戻した。八世紀に書かれた『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の「天岩戸」の物語は、中臣氏である藤原不比等(ふひと 659-720)の立場を反映して、その始祖の「コーエン(天児屋命)」を称える成功神話のようである。 『大寳律令』(701年)が完成したとき、九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七か国となった。『日本書紀』によれば、第十二代景行天皇は「第一次九州親征」のとき、高屋宮(ひむかのたかやのみや 西都市または宮崎市)を行宮とした。景行天皇は日向國の美波迦斯毘賣(みはかしびめ 御刀媛)を后(きさき)とした。日向隼人は、その後も第十五代應神天皇と第十六代仁德天皇にそれぞれ日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)と髪長媛(かみながひめ)を妃として嫁がせた。これらは畿内の皇室としては極めて異例なことであった。仁德天皇と髪長媛との間に生まれた幡梭(はたび)皇女は第二十一代雄略天皇の后になった。「日向」とは、景行天皇の命名であった(是國也直向於日出方故號其國曰日向也 『日本書紀』景行天皇紀)。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、神武天皇の故郷として豊かな海洋文化をもち、豊かな山岳文化をもつ隼人の国(宮崎県・鹿児島県)を選定した。すなわち、編纂チームは、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の地も、海幸彦・山幸彦の神話の地も、神武東征の起点となる出発の地も、すべて宮崎県・鹿児島県とした。 しかし、大和王権の祖先は、『記紀』が伝える「日向(ひむか)」の国(宮崎県・鹿児島県)の人びとではなく、前記したように、九州北部の人びとであった可能性が高い。 【7】 神武天皇は、仮に実在したとして畿内まで東征し得たか
稲作は、数世紀の間、九州北部にとどまった。その後少しずつ西日本に広がった。狩猟採集をして暮らす縄文人の地域に、渡来した弥生人が「侵攻」して土地を「占有」した。それが稲作であった。これによって、狩猟採集を中心とする生活から、稲作を中心とする生活に切り変わっていく。その「弥生」の最前線が近畿地方を通過したのは「紀元前 50年」ごろであったと見られている。
『日本書紀』によれば、初代神武天皇は「縄文海進」によって海面が高い東大阪市を航行して生駒山麓の河内國草香邑(東大阪市日下町)の靑雲の白肩之津に接岸した(三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河内國草香邑靑雲白肩之津 『日本書紀』)。この「接岸」は紀元前に「縄文海進」によって海面が高かった頃に行われたのであるとすれば、これを科学的に否定できる反証はない。しかし、「接岸の神話」をもって神武天皇が実在したと結論付けることも困難であろう。八世紀の『日本書紀』の編纂チームが「縄文海進」の時期と程度を「よく知っていた」だけかもしれないのであるから。また、考古学的に、西暦 200年以前の奈良盆地に何らかの王権が存在したことを示唆する痕跡は存在しないのであるから。
「神武東征」とは、弥生人が稲作とともに東進した「戦いの記憶」であったのかもしれない。神武東征軍と戦った「長髄彦(ながすねひこ)」も、弥生人に殺された縄文人のひとりだったのかもしれない。 BC 1498年(± 825年)の弥生人の渡来と、BC 10世紀ごろの稲作の伝来とは別々に起きたが、弥生人の東征と、稲作生活の東進が、このころ軌を一にした可能性がある。 【8】 神武天皇はなぜ紀元前 660年に即位したことにされたか 日本人が「神武天皇」のことを初めて知ったのは、八世紀に『日本書紀』(720年)が書かれてからである。日本人が、天照大神(あまてらすおほみかみ)や素戔嗚尊(すさのをのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)などのことを初めて知ったのも『日本書紀』が書かれてからである。『日本書紀』の編纂チームは、舎人親王(とねりしんのう 676-735)を総裁とし、多くの学者と「ふひと(史)」(物事を書き記す役人)からなっていたと見られている。その陣容について『續日本紀』にも記録はない。『日本書紀』の編纂チームは、当時の各地の豪族にも筋が通る当時の「調和的信念」としてこれを書いた。『日本書紀』には、初代神武天皇は、百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳で崩御したなどと書かれている。その結果、神武天皇の時代から今日まで二千六百年以上かかったことになっている。 中国では春秋時代から「陰陽(おんやう)五行」の思想が行われてきた。その中で「辛酉(しんゆう)革命」の思想によれば、辛酉の年は六十年に一度やってくるが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年は千二百六十年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。 「紀元前 660年」とは、聖德太子(574-622)によって画期的な改革が行われた第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からさかのぼって二十一番目の辛酉(かのととり)の年である。すなわち「紀元前 660年」に神武天皇は即位した。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、この「紀元前 660年に神武天皇が即位したこと」を日本の歴史の大前提として編纂したのに相違ない。 【9】 日本列島最初の「王国」はどこにあったか
福岡市の福岡空港の南にある「板付(いたづけ)遺跡」は、弥生時代最古の遺跡の一つと見られている。ここは、佐賀県唐津市の「菜畑(なばたけ)遺跡」に次ぐ、最初期の水稲耕作遺跡である。また、福岡県粕屋郡粕屋町の「江辻遺跡」に次ぐ、日本最初期の環濠集落である。板付遺跡からは、縄文晩期(BC1500-BC1000)の土器も多く発掘されている。ただし、この板付遺跡は、当時の生活グループの址ではあるが、王国の址であったことを示唆する痕跡はない。
福岡県古賀市の「馬渡(うまわたり)・束ヶ浦(そくがうら)遺跡」からは、王墓と見られる甕棺の中から細型銅剣二本、銅戈一本、銅矛二本が出土した。この遺跡は、紀元前一世紀半ばのものである可能性が高い。朝鮮半島に銅剣を副葬品として埋葬する風習はない。それは日本独自のものである。この古賀市と福津市・粕屋郡の辺りが『魏志倭人傳』の「不彌國(ふみこく)」ではないかと見られる。この地域には、日本で最初の王国が存在した可能性が高い。 さらに、福岡市西区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」からは紀元前一世紀後半の王墓と見られるものが発掘されている。特に三号木棺墓からは、中国遼寧省の「多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡」一面を含む細形銅剣二本・細形銅矛一本・細形銅戈一本・勾玉一個・管玉九十五個が出土している。ここは「銅剣」・「銅鏡」・「勾玉」の組み合わせが日本で最初に出土した墓である。この「奴(な)國」、あるいは、その前身であった国も、日本で最初期の王国であった可能性が高い。 九州北部に王国として勃興したこれらの国々は、江南人の国々であったようである。それは、江南人の航海術によって大陸と交易が行われたと見られるからである。当時の九州北部は、青銅器などが流入したことによって急速に豊かになっている。すなわち、これらの王国は、縄文人(C1a1人とD1a2a人)が統治する国々ではなく、弥生人(O1b2人)が統治する国々でもなかった。江南人が統治する国々であったと見られる。これらの王国は、『漢書』が記すように、百余の小国に分かれていたと見られる。
西暦 57年に九州北岸の「委奴國」の王は、後漢の初代・光武帝(在位 25-57)に朝貢して「漢委奴國王印」の金印をもらった。金印が福岡藩の志賀島で発見されたとき、この金印は最初は何なのか分からなかった。しかし、『後漢書』に「倭奴國」の金印のことが書かれていた(建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬『後漢書』東夷傳)。このことから「倭奴國」が正しいのだろうと推測することが、この金印の文字を解釈する上で、重要な役割を果たしてきた。
前漢の時代に武帝(在位 BC 141-BC 87)は、前記したように、朝鮮半島南端近くまで漢の領土として四郡を置き、これを支配していた。その結果、最南端に倭人が住んでいると認識していた。しかし、朝貢はそこからではない。当時の漢の倭國に対する認識は、「倭國」とは、對馬海峡を内海として、朝鮮半島南岸と九州北岸にそれぞれ「倭人」の住む国のことであり、その南端、すなわち、九州北岸が「極南界」である。朝貢は、そこからということだったのであろう。 また、福岡県春日市の「須玖岡本(すくおかもと)遺跡」の巨石墓は、二世紀ごろの奴國の王墓と見られ、三十面の銅鏡が出土した。 【10】 日本列島最初の「連合王国」はどこにあったか 福岡平野のすぐ西にある「ゐと(伊都)國」は「縄文海進」によって海面が高く、糸島平野は海底にあった。稲作は、ままならなかった。しかし、朝鮮半島との交易を通して栄えていた。鉄製の農具は作物の収穫量を飛躍的に増大させた。鉄製の武器は兵力を飛躍的に強化した。福岡藩の志賀島で発見された金印(漢委奴國王印)には「倭奴國」ではなく「委奴國」と刻まれている。南朝宋の時代に、范曄(398-445)はその実物(金印)を「見ない」で『後漢書』(440年)に「東夷倭奴國王遣使奉獻」と書いた。後漢の光武帝は「倭の奴國」の王に金印を授けたのか? それとも、「委奴(ゐな)という国」の王に金印を授けたのか? このことに関して様ざまな説がある。では、金印を授けた漢の認識はどうだったのであろうか? 後漢の永初元年(西暦 107年)に倭國王・帥升(すゐせう)らが、第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢した。そのとき百六十人もの生口(奴隷)を献上した。 この帥升のことは、『後漢書』を見て書かれたと思われる、太宰府天満宮の『翰苑』写本(国宝)には「倭面上國王」と書かれている。北宋版『通典』には「倭面土國王」と書かれている。その少なくとも一方は誤写であろう。『後漢書』のその後の新しい写本では、その二文字は削除されている。歴史学者・白鳥庫吉(1865-1942)は、その失われた二文字を「回土(えと)」として伊都國王のことであるとした。筆者は、その二文字を「百土(をと)」であったのではないかとして、同じく伊都國王のことであると見ている。ただし、『後漢書』には最初から「倭國王」と書かれていたのかもしれない。北宋版『通典』、あるいは、『翰苑』が書かれるとき、『後漢書』とは別に「倭面土國王」とする第三の資料が残っていたのかもしれない。今となっては分からない。
鉄器の輸入によって兵力をつけていた伊都國王は、對馬國・一支國・奴國・不彌國を支配し、それぞれの国に「ひなもり(卑奴母離)」という武官を派遣していたと見られる(魏志倭人傳)。これは、日本で最初の連合王国(九州北岸連合王国)であろう。伊都國がその盟主国であり、首都国であったようである。
漢は、帥升の「倭伊都國」は金印(西暦 57年)の「委奴國」より規模は大きくなっているようだが、同一国であると判断したようである。百六十人もの生口は、怡土國が、支配下の對馬國・一支國・奴國・不彌國から供出させたのであろう。縄文時代にはなかった、専制君主制国家のようである。
糸島市の「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡」や「平原(ひらばる)遺跡」は、二世紀末の伊都國王の墓と見られている。三雲南小路遺跡の甕棺墓からは、中国製の銅鏡三十枚が出土した。平原遺跡には、五つの墳丘墓跡がある。一号墓だけは復元されている。それは、十四メートル × 十二メートルの方形周溝墓である。それは、副葬品から判断して女性の墓であり、伊都國の女王または巫女(みこ)の墓ではないかと見られている。
この一号墓から四十面の銅鏡が出土した。その中には直径 46.5センチメートルの大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう 内行花文八葉鏡)が破損した形で五枚あった。 二世紀末に伊都國が女王國・倭國の支配下に入ってからは、伊都國では、あまり大きな墓は作られなくなる。これは、交易権を独占できなくなって衰退したからではないかと見られる。 『日本書紀』によれば、西暦 366年に伊都國王は、第十四代仲哀天皇・神功皇后に帰順した。そのとき、自らを朝鮮半島に天下った日桙(ひぼこ)の子孫であると名乗った(肥前國風土記)。天日桙(あめのひぼこ)は、『日本書紀』によれば、第十一代垂仁天皇の時代に新羅から渡来した人物である。神功皇后の母親の祖先である。伊都國王もその子孫というわけである。女王國・倭國が衰退していく中で、伊都國では新羅人によって新しい王家が創設されていたようである。 【11】 大和王権の祖先は、なぜいつどこから東遷したか 現在の皇室の祖先は、前記したように、『記紀』が伝える「日向(ひむか)」の國(宮崎県・鹿児島県)の人びとではなく、江南地方から来た「九州北部」の人びとであった可能性が高い。九州北部では、二種の神器に縄文時代から流通していた翡翠(ひすい)の玉(ぎょく)が加わって「三種の神器」となったようである。紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけて実戦には使えない「平型銅剣」が出ていることは「二種の神器」または「三種の神器」が早くから祭祀用に用いられていたことを物語る。朝鮮半島にも銅剣や平型銅剣は流通品として存在していたが、祭祀の道具として用いられた形跡はない。では、大和王権の人びとは、九州北部の「どこ」にいたのであろうか? 古代神話の中で、海の神の地位は高い。ギリシャ神話のポセイドンもゼウスに次ぐ圧倒的な強さをもっている。神話ではあるが、『日本書紀』に出てくる「海神(わたつみ)」も、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子である。また、これも神話ではあるが、神武天皇は海神の娘・豐玉姫(とよたまひめ)の孫である。したがって、「海神」は皇祖神とされる。この「海神」は、福岡市東区の「志賀海神社」を総本社として祀(まつ)られている。安曇連(あづみのむらじ)が祭祀を務めたようである。 また、これも神話ではあるが、住吉(すみのゑ)神も、伊弉諾尊が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきはら)で禊(みそぎ)をしたときに生まれたとされる海の神である。『筑前國住吉大明神御縁起』では、福岡市博多区の「住吉神社」が全国のすべての住吉信仰のそもそもの始まりとされている。大阪市の住吉大社(すみのゑのおほやしろ)に伝わる『住吉大社神代記』(国の重要文化財)にも、筑紫大神が住吉の始源であるとされている。
福岡市には、西区・早良区・城南区・中央区・南区・博多区・東区の七つの区がある。皇室の祖先は、長い間、どうも福岡市東部(博多区と東区)から古遠賀湾の辺りにかけて暮らしていたのではないかと想像される。これは、海神(わたつみ)・住吉(すみのゑ)神を祀っていたこと、遠賀川周辺に初代神武天皇を直接祀る神社がかなりあること、『日本書紀』で、第十四代仲哀天皇・神功皇后が第十二代景行天皇に続いて「第二次九州親征」を行うにあたり、橿日宮(福岡市東区 香椎宮)を行宮としたと記載されることなどを根拠とした想像でしかない。大和王権の祖先は、奴國にいたのかもしれないし、不彌國にいたのかもしれない。あるいは、伊都國の内部にいたかもしれないのである。
皇室の祖先が九州北部から本格的に東遷を始めたのには、何らかの「理由」があったからに相違ない。それは、福岡市西部(西のほうの五区あたり)の奴國が、對馬國、一支國、不彌國とともに、怡土國(伊都國)に兵力で服属したころだったのではないか。それは、西暦 100年ごろであったと見られる。これが、大和王権の祖先が九州北部から東遷した原因と時機だったのではあるまいか。 大和王権の祖先は、東遷の過程で九州に「胸肩(むなかた 宗像)國」や「菟狹(うさ 宇佐)國」を残した可能性が高い。 宇佐は、葦原中國と九州を結ぶ中心地となった。宇佐神宮は、第十五代應神天皇と宗像三女神(田心媛神 たごりひめ、湍津媛神 たぎつひめ、市杵嶋媛神 いちきしまひめ)、神功皇后を祀る。宗像三女神は、『日本書紀』によれば高天原から宇佐嶋に降臨したとされる。福岡市から久留米市を通って、みやま市・柳川市に至る平野部は、筑紫島(九州)の北部を東西に分ける地溝帯である。その東側全体が。本州から見ると「宇佐嶋」であったのではないか。三女神は素戔嗚尊(すさのをのみこと)の娘である。出雲で生まれて宇佐嶋の宗像に移り住んだと見られる。出雲と宗像の結びつきは強い。『古事記』によれば、三女神の田心媛神は大国主命と結婚した。 伊都國の平原遺跡一号墓から、前記したように「内行花文八葉鏡」五枚の破片が出ている。この銅鏡は直径が 46.5センチメートルあって、これは、漢の時代の「二尺」である。この直径では周囲が「八咫(やた)」の寸法(親指と中指を拡げた長さの八倍)となる。三種の神器の「八咫鏡」(伊勢神宮)は、諸説はあるが、伊都國の五枚と合わせて六枚あったうちの一枚であった可能性がある。「内行花文八葉鏡」のうち四面は伊都国歴史博物館に、また一面は九州国立博物館に収蔵・展示されている。 【12】 卑彌呼の時代の日本列島に王国は幾つあったか
毎年十月(神無月)に全国の八百万(やほよろづ)の神々は、出雲の「神奈備山(かんなびやま)」に集まる。島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)の「荒神谷(こうじんだに)遺跡」は、二世紀半ばに出雲に王国が存在したことを物語る。これは、王国としては、九州北岸の伊都國より新しく、卑彌呼の女王國・倭國より古い。荒神谷は「神奈備山」の麓にある。荒神谷から出土した「358本」の整然と並んだ銅剣は、358人の豪族がいて、そこに何らかの祭祀を行う宗教国家が存在したことを物語るようなのである。『延喜式神名帳』は、『延喜式』(927年)の巻九・巻十のことであるが、当時「官社(式内宮)」に指定されていた全国の神社の一覧である。そこに掲載された出雲地方の式内宮は「358社」であるが、これは偶然の一致かもしれない。『記紀』では、出雲を特別な地域であるとして認識している。これは、大和王権が出雲を脅威と感じていたからにほかならない。
出雲市大津町の「西谷(にしだに)墳丘墓群」は、32基のうち 6基は「四隅突出型墳丘墓」である。これは、出雲地域を中心とした特徴的な形をもつ。西谷二号墳丘墓は、約二十四メートル × 約三十六メートルの方形である。高さは約四メートル。突出部を含めると約五十メートルの大型墳丘墓である。 出雲には、安来市に「塩津墳丘墓群」がある。出雲氏の墳丘墓群であろうと見られている。塩津一号墳丘墓は約二十五メートル × 約二十メートルの方形である。四隅突出型墳丘墓の特徴をもつ。
二世紀後半の岡山平野に「吉備王國」が存在したようである。二世紀末の「楯築(たてつき)墳丘墓」(岡山県倉敷市)は、直径約四十メートル、高さ約五メートルの墳丘墓である。前後に、二十メートル余りの突出部がついている。前方後円墳の原型かもしれない。突出部分などの大部分は宅地造成などで失われているが、墳丘墓としては日本最大級である。埋葬された木棺の底には三十キログラムを越える大量の水銀朱が敷き詰められていた。
吉備王國は、皇室の祖先が九州北部を発ち、宗像・宇佐を経て奈良盆地へ東進するための足がかり(前線基地)の地として発展した可能性が高い。吉備王國にとって、間近な脅威は出雲王國であった。八世紀に書かれた『日本書紀』(720年)で、出雲が神話の三分の一を占めているのは、このためであろう。
奈良盆地の葦原中國はいつどのようにして開拓されたのであろうか?
『日本書紀』の「崇神天皇紀」によれば、崇神天皇は、磯城(しき)に宮殿を建てた(三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮)。この「磯城」とはどこのことであろうか? 第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇の王宮は、『日本書紀』ではそれぞれ「磯城瑞籬(しきみづかき)宮」「纏向珠城(たまき)宮」「纏向日代(ひしろ)宮」であったと書かれている。『古事記』では、それぞれ「師木水垣宮」「師木玉垣宮」「纏向日代宮」であったと書かれている。奈良県桜井市に「磯城瑞宮伝承地」は存在するが、『日本書紀』では、『古事記』にいう垂仁天皇の「師木玉垣宮」は「纏向珠城宮」であったと書かれているわけであるから、崇神天皇の磯城とは纏向であった可能性が高い。
纏向には、200年ごろ吉備からの人・物・文化の流入が始まったと見られる。纏向は、その後、崇神天皇の出現によって急速に発展して行く。
纏向は、第十代崇神天皇の時代には一平方キロメートル程度であったと見られている。人口は、周辺を含めて一万人程度。第十一代垂仁天皇の時代には約三平方キロメートル。そのころの人口は、周辺を含めて三万人程度になったと見られている。纏向の宮殿は、それ以前は何もなかったところに忽然と姿を現したわけである。吉備からの人と物と文化の流入で支えられていた。
西暦 200年過ぎの日本列島には「出雲王國」「女王國・倭國」「葦原中國」の三つの王国が併立していた。
畿内で最初に現れる古墳は、西暦 220年ごろ築造されたと見られる「纏向石塚古墳」である。これは、墳丘墓の影を残しているようであるが、日本最初の前方後円墳である。墳丘部は全長約 96メートル、後円部径約 64メートル、前方部の長さ約 32メートル。周濠幅は約 20メートル。その形状は、吉備の楯築(たてつき)墳丘墓が原型となったのではないかと見られる。また、纏向石塚古墳には、吉備の楯築墳丘墓と共通する水銀朱を用いた清めが施されていた。平成三十年(2018年)に橿原考古学研究所は、纏向石塚古墳の後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片(54点)は吉備地方の土でできていると公表した。
また、纒向遺跡からは「弧文(こもん)」と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品などが出土する。弧文は吉備王國の祭祀のための固有の模様であったと見られている。初期の葦原中國は、祭祀の方法も古墳の造り方も、あたかも吉備王國であるかのようであった。纏向にはこのほか、纏向矢塚古墳(96メートル・230年ごろ)・纏向勝山古墳(115メートル・250年ごろ)・箸塚古墳(278メートル・241年-260年)・東田大塚古墳(120メートル・260年ごろ)・ホケノ山古墳(80メートル・300年ごろ)などがある。このうち、箸塚古墳が纏向型古墳としての完成形であると見られている。
第十代崇神天皇は、大物主神(おほものぬしのかみ 大三輪之神)や天照大神(あまてらすおほみかみ)、倭大國魂神(やまとのおほくにたまのみかみ)など、多くの神々を深く崇(あが)めたと伝承される。それゆえに、淡海三船(722-785)は、その「漢風諡(し)号」を「崇神天皇」としたようである。大和王権は、このころから、祖霊神信仰を深めていく。祖霊神信仰は、縄文時代にはなかったものである。これも江南地方から伝わった可能性が高い。
古墳は「祖霊神信仰」によって築造されたと見られる。祖霊神信仰は、地方の豪族の祖霊も神と認めるものであった。地方の豪族はこれを受けいれやすく、大和王権よりやや小型の前方後円墳を築造し始めた。しかし、誉田御陵山古墳(401年-420年 應神天皇陵)、大山陵古墳(441年-460年 仁徳天皇陵)の時代を過ぎると、大型古墳は姿を消していく。七世紀(600年代)の「飛鳥時代」には神社がこれに替わっていった。 第二章 【13】 卑彌呼の故郷はどこか
女王國・倭國は、王位継承の時は殺し合いが起きるが、「女神」が立つと収まるという性格をもっていた。それは、本居宣長が卑彌呼を「女酋」と呼ぶ、原始的な共存社会であったからと見られる。ただ、女王國・倭國だけが原始的であったというわけではなく、縄文時代から弥生時代になっても、社会の大枠は変わらなかったものと見られる。
福岡県みやま市・柳川市を矢部(やべ)川が流れている。弥生時代に稲作が伝わると、矢部川は山門國の水田を潤した。矢部川の水源は、みやま市の女王山から正確に東の方角にあり、約 25キロメートル離れている。そこは、周囲から山水が流れ込む「日向神峡谷(ひゅうがみきょうこく)」である。現在はダムの湖底にある。この地域は、福岡県八女市の南端に位置し、かつて「八女郡矢部村」が存在したところである。南は熊本県山鹿市に接し、東は大分県日田市に接する。
日向神(ひゅうがみ)峡谷は、山門國から見ると、水源の地であるだけでなく、正確に太陽が昇る方角にあった。現在も地域の人びとによって、天照大神(あまてらすおほみかみ)の生誕の地と信じられている。また、古代からいつの世にも女神がいて、太陽神が祀(まつ)られる「聖地」であった。山門國にとって、このような神聖な地域は、ここだけであったのではないかと見られる。北は九州北岸に連なる「世俗」の三十余国であった。南は狗奴國。西は海であった。
養老三年(西暦 719年)に「八女津姫(やめつひめ)」という女神が、ここ日向神(ひゅうがみ)峡谷上流の八女津姫神社に祀られた。『日本書紀』によれば、この八女津姫は、大和王権による「第一次九州親政」(後述)のとき、第十二代景行天皇が、藤山から南を見て「美しい山におられる女神」として討伐しなかった女神である(丁酉到八女縣則越藤山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊且美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主猨大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中 『日本書紀』景行天皇紀)。衛星写真で見ると、久留米市の藤山から南に見える山は、みやま市の「女王山」である。当時の久留米市、うきは市は八女縣であり、八女縣が飛鳥時代の上妻郡・下妻郡とされた地域よりも広大であったことが分かる。八女津姫の「八」とは、八人の女神ではなく、単に「多い」という意味である。いつの世にもおられる多世代の女神のことを意味した。このことから、卑彌呼は、日向神(ひゅうがみ)峡谷から迎えられた八女津媛のひとりであったのではないかと見られる。 卑彌呼が死去したとき、新しく男王が立ったが、殺し合いが起きた。しかし、十三歳の少女・臺與(とよ)が新しい女王として共立された。それは、卑彌呼と同じ日向神峡谷から同族の女神として迎えらたからではないかと見られる。邪馬臺國の世俗の王族の子女などではなかったであろう。 【14】 そのとき卑彌呼は何歳であったか 西暦 107年の帥升らによる後漢への朝貢以来、怡土(伊都)國王は「倭國王」として七、八十年間、奴國・不彌國・對馬國・一支國を支配下に置き、九州北岸の連合王国を統治する盟主の地位にあった。諸説あるが、「支配権」とは、交易相手国に対して倭國を代表して朝貢する権利でもあった。したがって、「支配権」と「交易権」は同義語であったと見てよい。当時は寒冷化など、気候の変動が大きく、交易による鉄製農具の入手は、食料の増産のために必須であったようである。伊都國王は、支配権を拡大するため、筑後の国々に対して宣戦を布告した。一方、稲作と交易で GDP大国となっていた筑後の国々はこれに強く反発した。後漢はこれを「倭國大亂」と記録したようである。それは、伊都國王と筑後の国々とが「南北」で相攻伐する戦争であったと見られる。戦場の一つとなった吉野ヶ里遺跡からは、体内に鉄鏃(てつぞく)をもつ遺体が発掘される。 西晉の宮廷には、漢の時代からの多くの記録が、木簡、竹簡、絹布などに書かれて残っていた。陳壽が、すべての記録を拾い上げたとは限らない。たとえば、『魏志倭人傳』には、倭國大亂と卑彌呼の共立が「いつ」であったかが書かれていない。 西暦 182年ごろに倭國大亂は次のように卑彌呼が女王に共立されて収まった。 桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王『後漢書』。 漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼為王『梁書倭國傳』。 桓帝(かんてい)は、後漢の第十一代皇帝(在位 146-168)である。靈帝(れいてい)は、後漢の第十二代皇帝(在位 168-189)である。『後漢書』(440年)の桓靈の間とは、146年から 189年までの 45年間のどこかを指すが、その間ずっと倭國大亂が起きていたわけではない。靈帝は年号を四回変えたが、三回目の「光和」は「178年-184年」であった。『梁書倭国傳』(629年)によれば、倭國大亂はこの間に起きて卑彌呼はこの間に共立されたわけである。
倭國大亂は 180年ごろに起きて 182年ごろに収束したと見られる。「歴年」と記録されているので、二年以上続いた。後漢の樂浪郡は、交易相手の倭國が無主となったわけであるから、交易の当事国としていち早く調停をした可能性が高い(松本清張)。西暦 182年ごろに「倭國大亂」は、1.卑彌呼が「女王」として共立されて全体の祭祀権をもつ。2.伊都國王は「大率」(だいそつ または一大率)として加盟国の行政監察権をもつ。そのような条件で収束した。
伊都國王に与えられた「大率」という職名は漢語である。卑彌呼やその側近が考えついた言葉ではない。樂浪郡が考えた職名である(松本清張)。この「大率」が、伊都國王の職名であることについては後述する。これによって、再び専制君主のいない、原始平等社会(寄り添って暮らす環濠集落群)が取り戻された。卑彌呼は、その全体の「女酋」(本居宣長による)となったわけである。 卑彌呼は、即位したとき十三歳くらいの少女であったと見られる。なぜなら、年齢的にある程度の分別は必要だったからである。また、西暦 247年まで長生きすることになる(魏志倭人傳)からである。ここから卑彌呼の生没年は「169年頃-247年」であったと推定される。 女王國・倭國は連合王国であった。卑彌呼は邪馬臺國(山門國)を首都と定めたが、邪馬臺國の女王ではなく、その上の連合王国の女王であった。邪馬臺國には國王・伊支馬(いきま)がいた。伊支馬(いきま)は、女王國・倭國としては「官」として任命されていた。 女王國・倭國に牛馬はいなかった(魏志倭人傳)。当時は、日本列島に牛馬がいなかった。行政監察官である大率が九州北岸の伊都國に置かれるだけでよかった理由は、女王國・倭國の全加盟国が、伊都國の大率が「歩いて」回ることができる、筑前・筑後の狭い地理的範囲の中にあったからと見られる。全加盟国は大率を畏れはばかった(魏志倭人傳)。 前記第十二代靈帝のころ、後漢は政情が不安定であった。西暦 184年に「黄巾の乱」が起きた。187年に「張純の乱」が起きた。これらの情報は、直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。卑彌呼としては、後漢に直接朝貢できる機会は訪れなかった。 なお、もともと日本には馬がいたが絶滅した。日本人は四世紀に朝鮮半島で初めて馬を見た。五世紀になって馬は埴輪として登場する。馬は、そのころ朝鮮半島を経てモンゴル馬が輸入される。牛も五世紀になって中国から輸入された。 【15】 「中平」の年号をもつ国宝「謎の鉄刀」は何を物語るか 卑彌呼が倭國の女王に即位したのは、前記した通り『梁書倭國傳』(629年)によれば、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間(178年-184年)であった。卑彌呼は、即位して先ず後漢の樂浪郡に朝貢したと見られる。樂浪郡と交易をするためであった。交易をして青銅器・鉄製品を入手しなければ、三十余か国のまとまりは、ばらばらになってしまう。倭國からの朝貢は、樂浪郡の太守から洛陽の朝廷に必ず報告された。すると、靈帝から樂浪郡の太守を通して「中平」の年号をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が卑彌呼に下賜された。これには金象嵌の銘文で「中平□年五月丙午造作支刀百練清剛上應星宿下避不祥(百練清剛、上は星宿に応じ、下は不祥を避く)」と書かれていた。「中平」は靈帝最後の年号(184年-189年)である。 昭和三十六年(1961年)に、この太刀は、四世紀後半の「東大寺山古墳」(奈良県天理市)から発掘された。刀身は錆(さ)びてぼろぼろであるが、当時の後漢製であることが分かっている。これは一体どういうことであろうか?
靈帝の光和・中平の期間(178年-189年)に、日本列島で、後漢の樂浪郡に朝貢する機会と理由があったのは、山門國(福岡県みやま市・柳川市)にいた女王・卑彌呼だけであった。一方、そのころ、奈良盆地に葦原中國など何らかの王国が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はない。それは皆無である。
この鉄刀は、時の皇帝から預かった太刀であるから、後漢の樂浪郡使が単独で、あるいは、倭國使に同行して必ず邪馬臺國(山門國)の卑彌呼に届けたと見られる。 この太刀は、卑彌呼から臺輿(235-没年不詳)以後の女王に相続されたであろう。「親魏倭王」の金印も相続されたであろう。 その後、一世紀余り経って、西暦 367年に、山門國にいた最後の女王・八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)は、神功皇后とその水軍によって一方的に「土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ たぶらかしの女性呪術者)」という大和言葉の「蔑称」で呼ばれて殺害された。 「丙申轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」(『日本書紀』神功皇后紀)。 これが邪馬臺國の滅亡である。 この太刀は、そのとき、水軍の将軍・武振熊(たけふるくま)によって奪われた「盗品」である。そのとき「親魏倭王」の金印も奪われたかもしれない。したがって、そのすぐあとの四世紀後半に武振熊とその一族を埋葬した東大寺山古墳から他の副葬品と一緒に出土したのは当然である。また、これが後漢の皇帝から倭國に贈られた太刀であったにもかかわらず、現在の皇室に伝わっていない理由と見られる。 この太刀の存在も、卑彌呼以下歴代女王の邪馬臺國が、最後の女王・八女津媛の時代に至るまで山門國であったことを事実として証明する。また、神功皇后・武振熊が実在したことを証明する。 【16】 後漢は、邪馬臺國(山門國)が洛陽から 17,000里離れているとしていつ認識したか 前記したように、後漢の永初元年(西暦 107年)に、怡土(伊都)國王・帥升らは、第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢した(後漢書)。帥升は、前記した九州北岸の連合国の盟主であった。伊都國は、その首都国であった。したがって、後漢の樂浪郡から、伊都國に常々監察に来る理由があった。伊都國には、往来する後漢使のための「迎賓館」があった。これが後世の『魏志倭人傳』(285年)に見える「郡使往來常所駐」であろう。そのころ後漢の使者は、樂浪郡から狗邪韓國までの距離、そこから末盧國までの渡海の「南」へ「三千餘里」、末盧國から伊都國までの陸行「東南」へ「五百里」、伊都國から奴國までの「東南」へ「百里」、奴國から不彌國までの「東」へ「百里」を後漢の宮廷に報告したと見られる。仮に報告しなければ、宮廷から「何をしに行ったのか」と問われるだけのことであろうから。對馬國の「方可四百餘里」、一支國の「方可三百里」などもこのとき報告されたであろう。末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國(妻國)、邪馬臺國(山門國)などは、都市国家ではなく「領域国家」であった。魏使は領域国家の入境地点をめざして、その「方角」に移動したと見られる。末盧國から伊都國まで「東南」に移動したなどと書かれているのは、このためであろう。入境地点には次の衛兵が待っていたであろう。これは、たとえば末盧國が平戸市や五島列島を含む広大な領域国家であったのに対して、一支國から入京地点の東松浦半島を目指して航行したのと同じであろう。 当時の慣習として、方角や距離について、すでに報告されて知られているときは、その後、理由もなく訂正されることはなかった。それは、訂正するには先の報告者と争わなければならなかったからである。また、先の報告を信じた皇帝の体面を蔑(ないがし)ろにしなくてすむからである。また、当時は「露布(ろふ)の習わし」もあったと見られる。「露布の習わし」とは、例えば北へ百里行って敵を百人殺した場合に、北へ千里行って敵を千人殺したと正式に報告しても、褒められこそすれ咎められることはないという習わしのことである。
魏の時代の里は「約 434メートル」であった。『魏志倭人傳』では一支國から末盧國までは「又渡一海千餘里至末廬國」と書かれている。では、一支國から末盧國まで「434キロメートル」かというと、そういうわけでもない。壱岐島から東松浦半島撫での距離を衛星写真で調べてみると「約 40キロメートル」しかない。これが現実であった。すると、魏の時代の里が何メートルであったかを議論しても意味をなさない。
それでも、たとえば末盧國から伊都國までの距離を「五百里」とすると、伊都國から奴國までの距離は「百里」、奴國から不彌國までの距離も「百里」、不彌國から邪馬臺國までの距離は「千三百里」と、『魏志倭人傳』に「書かれている」とはいえる。
西暦 182年すぎ、卑彌呼の時代になっても、後漢の使者は樂浪郡から伊都國まで往来し、前記「迎賓館」に宿泊したと見られる。しかし、首都国が邪馬臺國になったわけであるから、後漢の使者が邪馬臺國を見分に訪れる理由があった。そのとき、不彌國から邪馬臺國までの方角「南」と距離「千三百里」が後漢の宮廷に報告されたと見られる。また、女王國・倭國の「周旋可五千餘里」(魏志倭人傳)も、このとき報告されたであろう。これは、現在の福岡県か、あるいは、それよりやや小さい国である。
孔子が書いた歴史書に『春秋』がある(現存しない)。『春秋左傳註疏巻第四十五』(京都大学人文科学研究所所蔵)は、『春秋』の後漢時代の注釈書である。「肅慎(しゅくしん)」という沿海州の国について「肅慎東北夷之國去扶餘千里」とある。すなわち、「扶餘(ふよ)國から肅慎國まで千里」と書かれている。一方、『晉書四夷傳』には「肅慎氏一名挹婁在不咸山北去夫餘可六十日行」とある。すなわち、「扶餘國から肅慎國まで六十日」と書かれている。これは「千里」を移動するのに実際には「六十日」かかる場合があることを物語る。また、いったん「千里」として知られている距離を繰り返して書くのであるから、里数ではなく「日数」で書かれたようである。 西暦 184年すぎ、後漢の樂浪郡から使者が、前記「中平」の年号をもつ第十二代靈帝の太刀を卑彌呼に届けるために邪馬臺國(山門國)に来た。距離(千三百里)については、以前から知られていたので、このとき「水行二十日」「水行十日陸行一月」として、実際にかかった日数が記録されたのであろう。
桓帝・靈帝の晩期に、樂浪郡は、後漢の衰退に乗じて、公孫氏(こうそんし)という軍閥(漢人の群雄)が支配するようになった。西暦 204年には、公孫康が樂浪郡の南部の荒地を切り拓いて帶方郡(たいほうぐん)とした。公孫康は後漢から「左将軍」の官位を授けられた(『三國志』巻八「公孫康」)。公孫氏の支配下にあるとはいえ、帶方郡は、まだ後漢の郡であった。このとき、帶方郡から狗邪韓國までの「七千餘里」が後漢の宮廷に報告されたと見られる。
女王國・倭國は、陳壽の『魏志韓傳』にあるように、公孫氏に朝貢し、帶方郡と交易したようである。 桓靈之末韓濊強盛郡縣不能制民多流入韓國建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡遣公孫模張敞等收集遺民興兵伐韓濊舊民稍出是後倭韓遂屬帶方(『魏志韓傳』285年) 前漢の時代にも、後漢の時代にも、漢は九州北部の国々にとって脅威であった。しかし、公孫氏は小勢力であったので、周囲の韓族や濊(わい)族に脅かされていた。そのような公孫氏は、卑彌呼にとって与(くみ)しやすかったのではないか。公孫氏は、交易だけを求める女王國・倭國を優遇したと見られる。 皇帝の徳は朝貢する国が遠国であればあるほど、大国であればあるほど、高いと見られていた。女王國・倭國は後漢の朝貢国ではなかった。それでも、『魏志倭人傳』の約二千文字のうち約千四百文字は、上記した通り、後漢の時代の記録である。その記述には、ことさら政略的な「飾り」は見られない。 西暦 220年に後漢が滅亡して魏(220-265)が興る。 魏の都・洛陽から、卑彌呼より先に金印をもらった(429年)インドのクシャーナ朝までの距離は「16,370里」として知られていた(『後漢書』西域傳・大月氏國)。洛陽から帶方郡までの距離は「5,000里」として知られていた(『後漢書』郡國誌)。魏の宮廷(洛陽)で、邪馬臺國までの距離が合計で「17,000里」であることに特別な関心を持っていたのは将軍・司馬懿(しば い 179-251 司馬仲達)であった。 【17】 卑彌呼はどのようにして「親魏倭王」の金印紫綬をもらうことができたか 卑彌呼の女王國(九州北岸に連なる三十余か国連合)・倭國は、教科書に出てくるような「環濠集落群」の集まりだったであろう。お互いに寄り添って暮らしていたと見られる。ひとつの環濠集落だけでは孤立して生きられないからである。後世の飛鳥時代になると、それらの環濠集落群は約三十の「郡(ぐん)」になったと見られる。その一つが九州北岸の「怡土郡」(旧伊都國)であった。『魏志倭人傳』に出てくる「斯馬(しま)國」は飛鳥時代に「志摩郡」となる。斯馬國は当時は「縄文海進」によって海面が高く、本当の「しま」であった。太宰府天満宮の『翰苑』第三十巻写本(倭國)(国宝)には、伊都國と斯馬國とは「傍(かたは)らに連なる」と書かれている。これら二つの国は、明治時代には合併して「糸島郡」となった。現在は糸島市である。『魏志倭人傳』で斯馬國の次に出てくる「已百支(しをき)國」は飛鳥時代の小城(をき)郡であろう。明治時代には、旧女王國・倭國の約三十の郡全体が「福岡縣」になったようである。對馬國や一支國は長崎縣の一部となった。已百支國や吉野ヶ里などは佐賀縣の一部となった。女王國・倭國の首都国・邪馬臺國(山門國)も、環濠集落群のひとつであった。人口は多くて数百人かそれくらいだったであろう。「七萬戸」の人口はなかった。卑彌呼の居所は、小高い「女王山」(現在の標高 196メートル)の上にあって、祈祷所と、見晴台と、城柵が設けられていた(居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 『魏志倭人傳』)。「侍女千人」はいなかった。いつも衛兵がいるだけの質素な(現代風にいうと、しょぼい)棲家(すみか)であったと見られる。
弥生時代に九州地方の人口は約 105,100人であった(小山修三教授)。したがって、七万戸の都市などはどこにも存在し得なかった。
漢や魏などの帝国には、殉葬の風習があったようである。日本に殉葬の風習はなかった。九州の王墓からも殉葬者の遺骨などは出ていない。中国揚子江流域の江南地方にも殉葬の風習はなかった。『日本書紀』の垂仁天皇紀に殉葬について言及があるが、それは八世紀になって『日本書紀』が書かれたころの「後付け」である。日本に、殉葬が行われた考古学的な痕跡はない。 では、西暦 238年に、卑彌呼は、どのようにして魏(ぎ)の第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)から 「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号と金印を授かることができたのであろうか? 魏の皇帝から「親魏」という破格の高い称号をもらったのは、インドのクシャーナ朝の国王(仏教を奨励したカニシカ王の孫)と卑彌呼の二人だけであった。日本の古代史上、卑彌呼が魏の皇帝に倭國が魏の友好国である(属国ではない)と認めさせた功績は大きく、倭國としてはそれほどの高い栄誉であった。卑彌呼には、果たしてクレオパトラ(BC69-BC30)のような強烈な魅力でもあったのであろうか? 卑彌呼は、何か手品をしたわけではない。卑彌呼は、ただ一世一代の「大勝負」を打っただけである。それは、卑彌呼六十八歳のときであった。 当時、魏の朝鮮半島の帶方郡は、地方軍閥・公孫氏の支配下にあった。 西暦 236年に公孫氏は魏の皇帝・曹叡から朝貢するように求められた。公孫氏は、それに反旗を翻し、自ら燕國(えんこく)王と称した。翌年には年号を「紹漢」と改めた。すると、魏がこの燕國を討伐する動きとなった。魏の将軍は、司馬懿(しば い 179-251 司馬仲達)であった。この情報は直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。倭國は、今は魏の敵国となった公孫氏のそれまで交易国であった。公孫氏に朝貢していた。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として攻め込まれると、ひとたまりもない。卑彌呼は直ちに特使・難升米(なしめ)を送った。それは「これまでの公孫氏を裏切って、魏の皇帝に直接朝貢せよ」という、卑彌呼にとって一か八かの「大勝負」であった。この「大勝負」を魏の将軍・司馬懿が知って、高く評価する結果となる。 将軍・司馬懿は、帶方郡を完全に討伐した。官僚と兵をひとり残らず捜索して十五歳以上の男子をすべて惨殺した。「京観(けいかん)」といって、首を高く積み上げて記念碑にした。 卑彌呼の特使・難升米は、魏の第二代皇帝・曹叡に朝貢した。皇帝は倭國からの朝貢に喜び、将軍・司馬懿の後押しで卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が贈られることになった。それは将軍・司馬懿の生涯の「てがら」でもあった。 西暦 240年に卑彌呼に金印紫綬を届けに来た魏使は、武官(将軍・司馬懿の配下)であった。魏使は、卑彌呼の女王國は「遠方」の「大国」に相違ありません。という報告書を書いた(魏志倭人傳)。 【18】 魏にとって女王國・倭國とは何であったか 西暦 220年、後漢が滅亡して、中国は魏・呉・蜀の「三すくみ」の状態となった。魏の将軍・司馬懿(しばい 179-251 司馬仲達)は、呉に対する国土防衛の任に当たった。また、将軍・曹真(そうしん 生年不詳-231)は、蜀に対する国土防衛の任に当たった。司馬懿と曹真は、互いに宮廷クーデターを狙う政敵であった。第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)の時代であった。
蜀には軍師・諸葛孔明(諸葛亮 181-234)がいた。西域の多くの異民族を味方につけていた。魏は蜀からの攻撃に実に手を焼いた。西暦 229年、将軍・曹真は、蜀の西の遠方にある大国・インド・クシャーナ朝(大月氏國)に朝貢させることに成功した。クシャーナ朝に「親魏大月氏國王」の金印紫綬が授与された。これによって西域の異民族による攻撃は沈静化した。
一方、将軍・司馬懿は、曹真の業績をどうしても超えることができない。何としても呉の東の大国・「倭國」が必要であった。その大国に何としてでも魏に「朝貢」させなければならない。そして、何としてもその大国に皇帝から「親魏」の金印紫綬が授与されなければならない。 西暦 238年に倭國から特使が朝貢して来た。司馬懿は、これを大国であるとして、皇帝・曹叡に朝貢させることに成功した。卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が授与されることになった。 司馬懿は「洛陽から一万七千里」「侍女千人」「七万戸」「殉葬者百余人」「會稽の東治の東」などとして、魏の宮廷クーデターのためのプロパガンダに利用した。 司馬懿の宮廷クーデターは成功する。先ず、倭國に朝貢させた「てがら」が高く評価されて領土を与えられた(晉書)。西暦 265年、司馬懿の孫・司馬炎(しば えん)は、帝位に就いた。国号を「西晉」と改め、初代皇帝・武帝(在位 265-290)を名乗った。司馬懿は、生涯「嘘」を貫き通したようである。それが将軍・司馬懿の「戦争」であった。 【19】 『魏志倭人傳』は幾つの資料をもとに書かれたか 魏を継承した武帝(司馬懿の孫・司馬炎 在位 265-290)の西晉は、西暦 280年に中国を再び統一する。陳壽(ちんじゅ 233-297)は、魏の敵国・蜀の官僚であったが、西晉に改めて官僚として採用された。西暦 285年、陳壽五十二歳は魏の宮廷内に木簡、竹簡、絹布などに書かれて散らばっていたと思われる漢の時代の古い記録と、魏使が邪馬臺國を訪ねた記録などを収録する魚豢(ぎょかん 生没年不詳)の『魏略』三十八巻などを参照して『魏志倭人傳』を書いた。『魏略』は唐の時代に戦乱で散逸することになるが、陳壽の時代に『魏略』はまだ原型をとどめていたと見られる。『魏略』は、現在は他の文献に逸文として引用される形で全体の 5パーセントくらいしか残っていない。陳壽は『魏志倭人傳』を『三國志』の中の『魏書』第三十巻『烏丸鮮卑東夷傳(うがんせんびとういでん)』の「東夷傳」の中に収めた。司馬懿の業績を称え、武帝の皇帝としての正当性を書き述べて自らが生き延びるための私書として書いたが、後に中国の正史となる。 『魏志倭人傳』は、以下の「六つ」の記録を、西晉の時代になって陳壽が合わせて『魏志倭人傳』として編集したものと見られる。 1.西暦 108年ごろの樂浪郡からの使者の報告書。西暦 107年に怡土國王・帥升らは倭国(九州北岸の連合王国)として後漢に朝貢した。後漢の使者は倭國・の首都国・伊都國の迎賓館に属国監察のために泊った。樂浪郡から狗邪韓國までの距離、そこから末盧國までの渡海「南」へ「三千餘里」、末盧國から伊都國までの「東南」の陸行「五百里」、伊都國から奴國までの「東南」の「百里」、奴國から不彌國までの「東」の「百里」など、後漢の使者によって宮廷に報告された記録。對馬國の「方可四百里」、一支國の「方可三百里」の記録。九州北岸の連合王国の風俗などを含む地誌的な記録。 2.西暦 183年ごろの樂浪郡からの使者の報告書。西暦 182年ごろに卑彌呼の女王國・倭國の時代になって、樂浪郡からの使者が邪馬臺國を見分に来た時の記録。不彌國から邪馬臺國までの方角「南」と距離「千三百里」の記録。女王國・倭國の「周旋可五千餘里」の記録。女王國・倭國の風俗などを含む地誌的な記録。 3.西暦 185年ごろの樂浪郡からの使者の報告書。後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)から樂浪郡の太守を通して「中平」の年号(184-189)をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が首都国・邪馬臺國の女王・卑彌呼に届けられた。そのとき、不彌國から邪馬臺國まで実際にかかった「水行二十日」「水行十日陸行一月」の記録。 4.西暦 205年ごろの漢の帶方郡からの使者の報告書。西暦 204年に後漢に新しく帶方郡ができたときの、帶方郡から狗邪韓國までの「七千餘里」の記録。 5.西暦 240年ごろと西暦248年ごろの魏の帶方郡からの使者の報告書。魏使が邪馬臺國を訪ねて詔書・金印、詔書・黄幢を届けた記録。狗奴國に関する記録。卑彌呼の死去と臺與の継承、および、臺與の朝貢に関する記録。 6.魏の宮廷クーデターのために司馬懿によってプロパガンダ用に創作されたと見られる「ちらし」 現存する『魏志倭人傳』(285年)は、上記すべて失われた記録の「逸文」(引用されて断片的に伝わる文章)である。前記の1から4までは後漢の時代のそれぞれの使者の記録である。これは、『魏志倭人傳』の約千四百文字(約 70パーセント)を占める。魏の使者の記録は、残りの約六百文字(約 30パーセント)だけである。 「七万戸」「侍女千人」「殉葬者百余人」など、現実からかけ離れた部分は、司馬懿の「ちらし」に挿入されていたのではないかと見られる。 【20】 卑彌呼の祈祷所はどこにあったか 「卑彌呼」の名前は、『魏志倭人傳』の中に五回出て来る。「邪馬臺國」の国名は、『魏志倭人傳』の中に一回出て来るだけである。『魏志倭人傳』がなければ、我われが邪馬臺國のことを知ることはなかった。「卑彌呼」や「邪馬臺國」のことは後世の范曄(はんやう 398-445)が著した『後漢書』(440年)や姚思廉(やうしれん 557-637)の『梁書倭國傳』(629年)、魏徴の『隋書』(636年)、後世の『舊唐書』(くたうじょ 945年)などにも出てくるが、いずれも『魏略』または『魏志倭人傳』を見て書かれたものである。あるいは、宮廷に木簡や竹簡、絹布などに書かれて残っていた漢の時代からの古い記録を加えて書かれたものであろう。
福岡市から久留米市を通って、みやま市・柳川市に至る平野部は、九州北部を東西に分ける地溝帯である。卑彌呼の時代(弥生時代)には、海面も「縄文海進」によって今よりも二、三メートル、地域によっては五、六メートル高かった。背振山麓の吉野ケ里も、当時は波打ち際にあった。宝満川と筑後川の合流点は、現在は内陸の平野部にあるが、当時は海底にあった。有明海の潮差(干満差)は、日本最大の約六メートルである。防波堤がない古代に、有明海の満潮は、一日に二回、陸上奥深くまで津波のように押し寄せた。平野部は、現在最も標高が高い大宰府付近でも海抜三十五メートル程度しかない。それも過去二千年近くの土砂の堆積層である。当時は、海抜ゼロメートルの航路があったと見られる。航路の周辺からは大小多数の環濠集落群が発掘される。
西暦 367年に『日本書紀』によれば、神功皇后は橿日宮(かしひのみや 福岡市東区香椎宮)から松峡宮(まつをのみや 福岡県朝倉郡筑前町)に遷宮した。神功皇后の水軍は、博多湾から「御笠川」を遡上して「宝満川」上流に集結した。「御笠」の名前は神功皇后の笠に由来するという伝承がある(日本書紀)。神功皇后とその水軍は、その後、宝満川を下って筑後の山門國・女王山へ向かう。詳しくは後で述べるが、前年(366年)伊都國王・五十跡手(いとで)が女王國に対して造反したこと(日本書紀)を受けて、女王國最後の女王を討伐するためであった。
御笠川と宝満川は、現在は取水などによって水量が大幅に減っているが、近世まで、途中に幾つもの川湊(かわみなと)があって、大きな帆船が物資を運んでいた。それは、鉄道も高速道路もない時代に、筑前の生活と筑後の生活を結ぶ動脈であった。その帆船の絵などが今も近くの民家などに残っている。
『魏志倭人傳』には、邪馬臺國は奴國のすぐ「東」の「不彌(ふみ)國」の「南」の「投馬(とぅま)國」のさらに「南」にあると書かれている。そこで、邪馬臺國が畿内にあったことの裏付けとするために、この南を何としても「東」と読み替える努力が行われてきた。しかし、第十二代靈帝の「中平」の年号入り鉄刀を卑彌呼に届けた後漢の使者や「親魏倭王」の金印紫綬を卑彌呼に届けた魏の使者が、太陽や月、星座を見て、方角を間違えることはない(松本清張)。不彌國の海岸から玄海灘を「東」や「西」へこぎ出すことはなかったであろう。また、我われが方角を間違えることもないであろう。
不彌國とは、奴国の東にあり、現在の古賀市・福津市・粕屋郡にあった臨海国であると見られる。
女王國・倭國は、北岸の伊都國に大率を置き、對馬國、一支國、奴國、不彌國などの臨海国に副官として「ひなもり(卑奴母離)」という海防担当官を置いていた(魏志倭人傳)。これは、伊都國が前記「北岸連合国」の盟主であった時代からこれを引き継いだものであろう。これによって、女王國は、朝鮮半島からの脅威に備えていたと見られる。
「投馬(とぅま)國」とは、不彌國と山門國の間にあった広大な「妻(とぅま)國」(現在の久留米、うきは市を含む古墳時代の「八女縣」)であったと見られる。投馬國は、海に面した国ではない。投馬國は内陸国であった。それゆえに、副官として海防担当官「ひなもり(卑奴母離)」が置かれていない(魏志倭人傳)。
中国の歴代の都である洛陽も、長安も、黄河とその支流の近くにあった。各地から多くの物資が「水行」によって都に運び込まれた。「水行」とは、「陸行」に対する広い概念である。大河を行くようにも感じられるが、内陸地にあって大河を通って近くまで行けることが「大国の都」としてのイメージであったと見られる。
『魏志倭人傳』には「水行二十日」などと書かれているが、「水行二十日程(てい)」とは書かれていない。当時の古典の読み方として「水行二十日程(てい)」とは「二十日間で航行し得る距離」のことである。『魏志倭人傳』の「水行二十日」とは、たとえば、川舟に荷物を積み、周辺の環濠集落群に中国からの使者として歓待され、何日も逗留しながら「実際にかかった日数」のことである(中国語学者・謝銘仁教授)。 当時の旅は、昼前に出発して、太陽が傾くと宿泊の用意をした。倭國にやって来た後漢からの使者、あるいは魏からの使者は、一日に何キロメートルも進めなかったであろう。 不彌國から邪馬臺國(山門國)までの距離は、末盧國から不彌國までを「七百里」として「千三百里」の距離にあった(魏志倭人傳)。不彌國から邪馬臺國(山門國)までの「水行二十日と水行十日陸行一月」がこの「千三百里」であったと見られる。 前記したように、『日本書紀』の「景行天皇紀」で、八女津媛(やめつひめ)がいたとされる、久留米市(古墳時代の八女縣)の藤山から南に見える「美しい山」を衛星写真で見ると、それは「女王山」(じょおうやま みやま市瀬高町大草)である。この「女王山」に卑彌呼の祈祷所もあったと見られる。
前記したように、西暦 366年に北岸の伊都國王は、最後の女王・八女津媛を裏切ると、引嶋(下関市彦島)で第十四代仲哀天皇・神功皇后に自らの三種の神器(八尺瓊・白銅鏡・十握劒)を献上して大和王権に帰順した。翌年(西暦 367年)、八女津媛が大和王権の神功皇后によって「田油津媛(たぶらつひめ)」の蔑称で殺害される。これが、邪馬臺國の滅亡であった。地域では大和王権に遠慮して「女王山」は「女山(ぞやま)」と呼ばれるようになった。現在も「女山(ぞやま)」と呼ばれている。
山門國が山門縣(あがた)となったとき、多くの石材がこの女王山に久留米市辺りから運ばれた痕跡がある。その目的は分からない。 邪馬臺國の滅亡から三世紀経って、西暦 663年に「白村江の戦」で敗れた大和朝廷は、唐・新羅の侵攻を恐れて、この女王山に筑後平野・有明海を見晴らす山城を造った。現在、女山神籠石(ぞやまこうごいし)として残っているものは、その山城の石垣ではないかと見られている。 【21】 卑彌呼の墓はどこにあるのか 女王國・倭國は、九州北岸に連なる三十余国(飛鳥時代の約三十郡)からなる。現代の福岡県またはそれよりやや小さい国であった。西暦 240年に金印紫綬を卑彌呼に届けに来た魏使は、その小規模な(現代風にいうと、しょぼい)「大国」に当惑したであろう。また、その(現代風にいうと、もっとしょぼい)「大宮殿」に当惑したであろう。卑彌呼の墓は、仮に現存するとしても、その規模は「推して知るべし」であろう。
我が国に盛土遺跡として残る墳墓には「二通り」あった。「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」と「古墳(こふん)」である。この二つは、築造された時代も、工法も、特徴も正確に異なる。我われはこれをよく理解して、術語としては正確に使い分けることが求められる。たとえば、秦の始皇帝陵は「墳丘墓」であって「古墳」ではない。
前者(墳丘墓)は、西暦 250年ごろまでの弥生時代に築造された。「墳丘墓」の形状には統一性がない。後者(古墳)は、西暦 220年ごろからの古墳時代になってから築造された。「古墳」の形状には、前方後円墳にも円墳にも、統一性がある。それは、我が国で独自に発展したものである。西暦 250年以降、大和王権の全国支配によって、墳丘墓は廃(すた)れていく。
日本の墳丘墓は、一般にあまり大きくはなかった。円形で直径 15メートル程度までである。方形でも一辺 20メートル程度までである。古い順に「堆築(たいちく)」「層築(そうちく)」「版築(はんちく)」という三つの工法があった。いずれも中国の江南地方や山東半島などから海を経て九州に直接伝わった工法である。「堆築」は、ただ土を積み上げるだけ。「層築」は、異なる土を層状に締め固める。「版築」は、大規模な木枠を組み、土砂を突き固めた。
たとえば、弥生時代の吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」(BC 150年頃)は、大部分が「層築」で築造されている。南北約 39メートル、東西約 26メートルの長方形に近く、墳丘墓としては国内最大級である。当初は 4.5メートル以上の高さがあったのかもしれないが、二千年の風雨に浸食されて、今は約 2.5メートルしかない。 福岡県みやま市瀬高町山門に「堤(つつみ)」という地区がある。この地区は、東西南北に約二百メートル四方の広さがある。周辺より全体が二、三メートル高い。この地区には周りを囲んで環濠の跡が認められる。弥生時代にひとつの環濠集落であったと見られる。そこは、十か所以上の民家の軒先に、それぞれ三、四トンはありそうな巨石が地上に幾つか露出している。
みやま市ではこれらを「堤古墳群」と命名しているようである。しかし、これらは明らかに「古墳」ではない。弥生時代の「墳丘墓」の跡であると見られる。その理由は、あまりにも原型をとどめないからである。おそらく、堆築によって土が盛られただけであったために、二千年の風雨によって土が洗い流された結果、巨石が露出しているのではないかと見られる。
古代にこの堤地区にはどのような「思想」をもつ人びとが住んでいたのであろうか? なぜ環濠集落の中に幾つもの墳丘墓があるのであろうか? 吉野ヶ里遺跡にも環濠集落の中に「北墳丘墓」はある。しかし、吉野ヶ里では、北墳丘墓は主要な生活圏からやや離れて造られている。 縄文人は、風や木の葉に宿る精霊と交信した。死んでしまった人にも、霊が宿っている。生きている自分と同じように存在理由がある。したがって、自らの生活圏の中に墓を造る。これは、事物にはその背後にそれぞれの価値や思想、力などが臨在すると感じるアニミズム(精霊信仰)に基づくものあろう。稲作によって物事に順序や上下ができるより前の、縄文人の感じ方に近かったのではないか。 『魏志倭人傳』によれば、卑彌呼の墓は「さしわたし(径)」が「百余歩」であった(卑彌呼以死大作冢徑百餘歩)。果たして、卑彌呼の墓はどこにあるのであろうか? 福岡県みやま市瀬高町坂田(さかた)に「権現塚(ごんげんづか)」がある(写真)。この権現塚は、地元の郷土史家で福岡県山門郡瀬高町生まれの村山健治(1915-1988)が、生前に卑彌呼の墓であると直感していた墓である。村山健治は、後半生を投げうって卑彌呼の墓を探し求めたようである。
「権現塚」は「女王山」(標高 159メートル)の麓(ふもと)から西に歩いて 15分くらいのところにある。直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルである。周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝(の跡)が囲む。
古代の中国では「里」とは、どの時代においても「三百歩」であった。衛星写真で東松浦半島から糸島市までの距離を「五百里」(魏志倭人傳)とすると、この権現塚の直径 45メートルは「百余歩」である。
「権現塚」は、前記したように、周りを溝が囲む。すなわち、「周溝墓」の特徴をもっている。 周溝墓は、溝から掘り出した土を周溝の内側に盛るだけである。したがって、通常は高さが低い。どのように大きな周溝墓も比較的に少ない日数で築造される。『魏志倭人傳』には卑彌呼の墓の「さしわたし(径)」のことは書かれているが、高さのことが書かれていない。卑彌呼の墓は当初は低い「円形周溝墓」であった可能性がある。また、棺はあって、石室のような槨(かく)はなかったものと思われる(魏志倭人傳)。木棺であれば現在に形をとどめないであろう。 円形周溝墓は九州北部にはほとんど見られない。円形周溝墓は「ひとり」を埋葬することが多い。円形周溝墓に葬られた人は、特別な限られた人であったといえる。 「権現塚」の形状は、全体として円形であるが、古墳時代の「円墳」(円形古墳)とは一見して異なる。直径が 45メートルもあるにしては、高さ 5.7メートルは「円墳」にしては低すぎである。 「権現塚」には、先ず周溝を掘って内側に土を盛ったと見られる、高さ約 1.5メートルの「円形周溝墓」の跡が存在する。 吉野ヶ里に目を転じると、そこは、女王國・倭國に属する国であった。女王山の見晴らし台から見えた。そこに巨大な「北墳丘墓」があることは山門國にも知られていた。「権現塚」は、円形周溝墓の上に、吉野ヶ里の墳丘墓を凌ぐ規模の墳丘を「乗せた」可能性が高い。弥生時代晩期の「版築」という中国から伝わった工法が用いられており、大規模な木枠で成型して突き固めたと見られる。風雨に強く、表面は洗い流されているが、形状は長く保たれている。「権現塚」は、周囲の溝を含めると、直径は優に 70メートルに近い。日本には他にこれほどの巨大な「墳丘墓」は存在しない。 権現塚は、南に接して、祭儀が行われた広い敷地の址がある。現在は畑となっている。その敷地からは、朱塗りの高坏など、祭儀に用いられたと見られる四、五十センチメートルの大型の土器が出土している。このことから、それに相応しい高貴な人物が埋葬されていると見られる(前記地元の郷土史家・村山健治)。 さらに、権現塚は、東の聖地として伝承される日向神(ひゅうがみ)峡谷と、女王山に伝承される聖域と、正確に東西に一直線に並ぶ。したがって、春分の日と秋分の日に、女王山の「聖域」を通って太陽が昇るのが見える地点に築造されている。やはり「太陽神の巫女(みこ)」を祀(まつ)るのに相応しい(村山健治)。 この権現塚の直ぐ北の地域からは、甕棺などが数多く出土している。 昭和五十六年(1981年)に福岡県みやま市教育委員会は、この権現塚を「権現塚古墳」と命名し、市の「史跡」に指定した。また、古墳時代中期(五世紀)に築造された「古墳」であろうと推定した。発掘調査や、炭素 14による年代測定などは行われていないようである。これだけの大きな規模をもち、しかも、後世の「古墳」のようにその形状がはっきりと保たれているので、みやま市教育委員会が、これを「古墳」であろうと推定したのも無理はない。 しかし、この権現塚は「古墳」(円形古墳)ではない。「弥生時代晩期」(西暦 250年頃)の希少な「円形周溝墓」である。かつ、日本最大の「墳丘墓」である。すなわち、円形周溝墓と墳丘墓の二段からなる「円形周溝墳丘墓」である。このことから、この権現塚は、『魏志倭人傳』の卑彌呼の「円形の墓」である可能性が非常に高い。 【22】 古墳時代の「古墳」とは何か
西暦 250年を過ぎると、日本は「古墳時代」となる。「円墳」(円形古墳)「前方後方墳」「前方後円墳」などの「古墳」が築造されるようになる。特に、大和王権に従属する国々では「前方後円墳」が築造されるようになった。前方後円墳は、大化の改新で築造を禁止されるまで、約四世紀にわたって築造された。「古墳」は、統一的な形をもっている。風雨に耐えて長く保存される。巨大なものも存在する。
たとえば、「円墳」(円形古墳)は、半真球、あるいは、半真球を水平にスライスした形である。二段、あるいは、三段になっているものもある。いずれの段も真球のスライスの一枚としての統一した形をもっているので、墳丘墓とは一線を画する。
四世紀半ば過ぎに(推定西暦 367年)、福岡県みやま市瀬高町も女王國・倭國の「山門國」から大和王権の「山門縣(やまとのあがた)」となった。この地域でも、前方後円墳が築造されるようになった。たとえば、「車塚古墳」(みやま市瀬高町山門)は、古墳時代中期(五世紀)の「前方後円墳」である。周囲に幅 3.6メートルの環濠があったようである。江戸時代に、一部に金を施された銅鏡三面が出土している(現存しない)。 【23】 箸墓古墳はなぜ卑彌呼の墓として見なそうとされたのか 卑弥呼は遅くとも 184年から後漢の樂浪郡と交易をして青銅器や鉄器を輸入していたが、畿内からは、そのころ大陸からもち込まれた青銅器や鉄器などの遺物が全く出て来ない。
畿内では、多くの歴史学者・考古学者が、卑彌呼の墓は奈良盆地のどこかに『魏志倭人傳』に記される「径百余歩」の「円墳」として存在するに違いないという「期待感」をもって探索を重ねた。しかし、何も見つからなかった。
戦前、笠井新也(1884-1956)は、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を卑彌呼とする説や、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」(大市墓)を卑彌呼の墓とする説を提唱した。その後、箸墓古墳は、よくよく考えてみると「後円部」が丸いではないかという発想のもとに、これを何としても卑彌呼の墓であるとして、古墳域内の有機物の中から卑彌呼の死去の「西暦 247年ごろ」に一致するものが出るのではないかという「使命感」をもって調査が行われた。それも公的資金をつぎ込んで NHKなどの公共マスメディアと一体となって行われた。しかし、何も出なかった。 「箸墓古墳」は、その築造が何年であれ、「墳丘墓」ではなく、全長 278メートル、高さ 30メートルの「古墳」である。完成形の巨大な「前方後円墳」であるから、卑彌呼の墓ではない。 倭迹迹日百襲姫命は、夫の大物主神(おほものぬしのかみ)との行き違いのときに箸の事故で死んだ(日本書紀)。邪馬臺國(山門國)では「籩豆(へんとう)」という高坏が用いられた。箸は使われなかった(魏志倭人傳)。卑彌呼は箸とは無関係である。また、卑彌呼は生涯独身であった(魏志倭人傳)。箸墓古墳は卑彌呼の墓ではない。 近年に至って、纏向(まきむく)遺跡の発掘が進んだ。纏向遺跡は、JR桜井線(万葉まほろば線)巻向駅を中心に、その規模は東西約 2キロメートル・南北約 1.5キロメートルにも及ぶ。その面積は約 90万坪。これを発掘するには、多額の公的資金を必要とする。そのために、この纏向こそが、卑彌呼の邪馬臺國であるというアドバルーンを上げ、邪馬臺國・纏向説が、NHKなどの公共マスメディアと結びついて一体となって展開された。 しかし、『日本書紀』によれば、第十代崇神天応は、磯城(しき)に瑞籬(しきみづかき)宮を建てた。磯城とは、前記したように、纏向のことである。また、第十一代垂仁天皇は在位一年目に纏向に宮殿を建て、これを珠城宮(たまきのみや)とした(冬十月更都於纏向是謂珠城宮也)。『古事記』によれば、第十二代景行天皇は在位二年目に纏向の宮殿・日代宮(ひしろのみや)で治世をした(大帶日子淤斯呂和氣天皇坐纒向之日代宮治天下也)。纏向遺跡の規模がいかに壮大であれ、それは、これらの大王が実在したことと、それを造営する力があったことを証明するものにほかならない。卑彌呼の邪馬臺國(山門國)とは無関係である。 第三章 【24】 卑彌呼の時代の天皇は誰か 『日本書紀』では、闕史第二代から第九代までの天皇の生存年数が、いずれも『古事記』に記載される生存年数よりは長い。これは、初代神武天皇の即位を「紀元前六百六十年の辛酉(かのととり)の年」とする必要性から、各天皇に年数を割り振って加算した結果ではないかと見られる。特に『古事記』では第八代孝元天皇の崩御年齢は五十七歳であるが、『日本書紀』では百十六歳と甚だ長い。『古事記』では第九代開化天皇の崩御年齢は六十三歳であるが、『日本書紀』では百十一歳と甚だ長い。『日本書紀』では第十代崇神天皇の在位期間は六十八年、崩御年齢は百二十歳となっているが、本当は、崇神天皇も、在位期間はより短く、崩御年齢もより若かったのではなかろうか。『古事記』に第十代崇神天皇の崩御は「戊寅(つちのえとら)」の年であったとして、天皇の崩御年について初めて干支年で書かれている。崇神天皇は、大和王権の基礎となる祖霊神信仰を確立し、葦原中國の支配領域を本州全域にまで拡大した大王であるから、その崩御年は長く語り継がれたであろう。明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ 1850-1908)は、これを「258年」と推定した。纏向遺跡は 200年ごろから 330年ごろまでのものと見られるが、『記紀』に、纏向は第十代崇神天皇から第十二代景行天皇までの三代の天皇によって開発されたと書かれるなど、『記紀』の内容に照らしても那珂通世の推定にはかなり整合性が感じられる。 一方、この「戊寅」は「318年」であったとする見方もある。すると、纏向遺跡の開発は、闕史八代の終わりの頃の天皇の時代から始まった可能性が出てくる。纏向型の初期の前方後円墳である纏向石塚古墳(96メートル・220年ごろ)・纏向矢塚古墳(96メートル・230年ごろ)・纏向勝山古墳(115メートル・250年ごろ)も、これまでは誰が築造したかが分からなかったが、闕史八代の終わりの頃の天皇の築造になったと言えることになる。ただ、問題もある。『日本書紀』の「垂仁天皇紀」によれば、第十代崇神天皇の崩御の年に、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と称する都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、穴門國(あなと 山口県下関市)に上陸しようとした。そこで「伊都都比古」(いとつひこ)なる人物によって検問を受けた。伊都都比古は伊都國王・大率と見られる。それが仮に「258年」であったとすれば、女王國・倭國は、臺與の時代である。しかし、それが仮に「318年」であったとすれば、女王國・倭國はすでに衰退していた。伊都國王は、「318年」には穴門國で渡来者を検問するだけの力をもっていない。大和王権は、280年ごろには女王國・倭國に替わって大陸と交易していた。そのころから宗像市の沖ノ島から祭祀用の遺物が出ている。したがって、第十代崇神天皇の崩御年を「318年」とすることは困難である。 『日本書紀』によれば、崇神天皇は箸塚古墳(278メートル・241年-260年)を即位して数年のうちに築造している。仮に崇神天皇が『記紀』に記されるよりも短命であり、220年代ではなく、230年代、あるいは、240年代に即位して「258年」に崩御したとすると、卑彌呼の時代の天皇は、闕史八代の終わりの頃の天皇から第十代崇神天皇までであったことになり、それらの天皇によって纏向型の前記初期の前方後円墳は築造され得たことになる。 【25】 第十代崇神天皇から第十五代應神天皇までは西暦でいつの時代の天皇か 『魏志倭人傳』(285年)に「魏略に曰く、倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まる」と書かれている(魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀)。これは『魏志倭人傳』の原文に対して、後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が『魏略』を見て、注釈として挿入したと見られている。『日本書紀』の編纂チームも、この『魏志倭人傳』を読んでいた。仮に、古代に「春秋二倍暦」を適用して、現在の一年を「2年」と数えていたのなら、初代神武天皇が百二十七歳で崩御したことも可能であったことになる。『古事記』も「春秋二倍暦」を用いて書かれた可能性が高く、神武天皇は百三十七歳で崩御したことになっている。また、前記したように『日本書紀』の編纂チームの中にユダヤ人の史(ふひと)がいた可能性も高い。イスラエルには新春の正月とは別に新秋の正月があった。モーゼは「出エジプト」のとき八十歳であった。カナンの地にたどり着いたとき百二十歳であった。ユダヤ人にとって「春秋二倍暦」は「宗教」であった。 明治時代に日本の暦法について最初に研究したのはデンマークの青年技師・ブラムセン(William S. Bramsen 1850-1881)であった。1880年1月にブラムセンは『和洋對暦表』を日本橋の丸家善七ら(丸善の前身)によって日本語(文語体)で刊行。同年 English版を刊行した。ブラムセンは、仁德天皇以前の歴代天皇の寿命が百年を超えて長いことから、古代の日本人は昼と夜の長さが同じになる春分の日(spring equinox)と秋分の日(autumnal equinox)を起点とし、春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年として中国の正歳四節暦の一年を正確に二倍に数えていたと推定した。 仮に古代において「春秋二倍暦」が本当に使われていたとすれば、春に始まって秋に終わる一年は「暑い一年」だったであろう。また、秋に始まって春に終わる一年は「寒い一年」だったであろう。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、「正歳四節暦の一年」の間に「春夏秋冬の十二か月」が「二回」あったことにした可能性が高い。これによって、神武天皇は「西暦の紀元前 660年」に即位したことになった。出来上った『日本書紀』を見る限り、後世の我われが、たとえば季節に関する記述などを見て、どの天皇に「春秋二倍暦」が適用されているのか、適用されていないのかを判断するための直接の手立てはない。 考古学的に実在した可能性が高い第二十一代雄略天皇の崩御年は、『古事記』では百二十四歳、『日本書紀』では六十二歳と、ちょうど二分の一である。第二十六代継体天皇は、『古事記』では四十三歳、『日本書紀』では八十二歳で、ほぼ二倍である、この時期あたりが、『日本書紀』が「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」へ移行して「編纂」されたのではないかと見られる。 長浜浩明は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』(展転社 2012年)の中で各天皇の在位年数を二分の一にした結果、神武天皇は「紀元前 70年」に即位したと推定した。また、牧村健志は『よみがえる神武天皇』(PHP研究所 2016年)の中で古代の天皇の在位年数を二分の一にした結果、神武天皇は「紀元前 37年」に即位したと推定した。 『日本書記』の内容を可能な限り尊重し、かつ『日本書紀』の編集者らが「春秋二倍暦」を適用したことを前提としてこれを正歳四節暦(西暦)に復元すると、その結果は、いずれも神武天皇が紀元前の天皇となり、まだ河内湖があった東大阪市を航行して生駒山麓の白肩之津に接岸できたことになる。 一方、『日本書紀』によれば、神功皇后は、摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣した。本居宣長(1730-1801)は、この派遣の年は百濟の近肖古王(在位 346-375)の名前から正確に百二十年(干支二巡)繰り上がっていると指摘した。本居宣長によれば、神功皇后の「摂政四十六年」は、本当は「西暦 366年」だったことになる。神功皇后の摂政四十七年(西暦 367年)に百濟から使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝した。このとき新羅の調(みつき)の使いも一緒に来た。神功皇后と譽田別尊(第十五代應神天皇)は喜んで「先王が所望したまいし國人、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた。この「西暦 367年」が第十四代仲哀天皇崩御の年であると見られる。摂政四十六年(366年)は、仲哀天皇の在位期間中であるから、卓淳國に使者を派遣したのは神功皇后ではなく、在位中の仲哀天皇であったことになる。「先王が所望したまいし」も、そのことを示唆する。『日本書紀』(720年)の編纂チームは、当時日本にもちこまれていた『百濟記』(600年代に成立 現存しない)などを見て、それらとの齟齬が起きないようにした可能性が高い。なお、「天皇」という言葉ができたのは 600年代である。 筆者らは、この仲哀天皇崩御の年を起点として日本書紀の「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」に変換した(前著『邪馬臺國』自由塾 2022年)。 初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年 (『日本書紀』を「春秋二倍暦」の条件のみで西暦に復元 入口紀男・入口善久)
聖󠄁德太子(593-622)の手になるといわれる史書に『上宮記(かみつみやのふみ)』があった。これは『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)より百ほど年古い。鎌倉時代までは存在していたようであるが、現存しない。卜部兼方(うらべのかねかた 生没年不詳)の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』などに逸文(引用文)として残るだけである。『上宮記』には、第十二代景行天皇の名前は出て来るが、第十三代成務天皇、日本武尊、第十四代仲哀天皇、神功皇后の名前は出てこない。古代史最大のヒーローである日本武尊の物語も、最大のヒロインである神功皇后の物語も、『日本書紀』が編纂される時代までに完成した「都市伝説」なのかもしれない。日本武尊を父にもち、神功皇后を妻にもつ第十四代仲哀天皇が実在したかどうかは分からない。ただし、『日本書紀』では、第十一代垂仁天皇の第一皇子を「誉津別命(ほむつわけのみこと)」とし、第十五代應神天皇を「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」としているのに対して、『上宮記』では、應神天皇を凡牟都和希王(ほむつわけのおほきみ)としている。このことから、『上宮記』の記載も、それが必ずしも正確というわけではない。
百濟が中国の史書に最初に出て来るのは、東晉の第五代穆帝(ぼくてい)の永和二年(346年)である(資治通鑑)。『百濟本紀』(金富軾『三國史記』巻二十三~二十八 1145年)では、そのころ第十三代近肖古王(在位 346-375)が存在したとされているが、事実は、この近肖古王が実在する初代王であったと見られている。『日本書紀』には、神功皇后の摂政五十五年(西暦 375年)に百濟の肖古王が薨(こう)じたと書かれている。百濟では、近肖古王は西暦 375年に死去している。百濟には『百濟本紀』よりも古く「百濟三書」として『百濟記』『百濟新撰』『百濟本記』があったと見られるが、現存しない。『日本書紀』のみに引用されて「逸文」として残っている。 神功皇后の摂政六十四年(西暦 384年)に、百濟の貴須(くゐす)王が薨じたと書かれている。百濟では、貴須王は西暦 384年に死去している。そのように、神功皇后の摂政の期間は「正歳四節暦(西暦)」で書かれている。これは、『魏志倭人傳』との対応から、干支二巡(120年)繰り上げて摂政三十九年に魏の第二代明帝から印綬を授かったことにする必要があったことと、『百濟記』等に用いられた正歳四節暦との齟齬(そご)が生じないように書かれたためと見られる。神功皇后は摂政六十九年(389年)に崩御した。『日本書紀』の編纂時(220年)には、百濟は白村江の戦(663年)ですでに滅亡していて、百濟の官僚が『百濟記』などをもって亡命して来ていたと見られる。 神功皇后が 389年まで摂政を 69年間務めたとすると、摂政元年は 320年となる。神功皇后は、367年に仲哀天皇が崩御したとき誉田別尊(後の應神天皇)の摂政に立ったと見られる。應神天皇即位の 390年の前年まで摂政を務めたが、『日本書紀』にはあたかもそれまで六十九年間摂政を務めたかのように記載されたようである。 應神天皇即位の年は翌 390年である。『日本書紀』には、應神天皇三年に百濟の阿花王(あかおう 在位 392-405)が即位したと書かれているが、百濟で阿花王は西暦 392年に即位している。應神天皇十六年に阿花王が薨じたと書かれているが、百濟で阿花王は西暦 405年に薨じている。また應神天皇二十五年に百済の直支王(ときおう 在位 405-414)が薨じたとし、ここまでは正確に「正歳四節暦」(西暦)で書かれている。直支王が薨じたのは 420年とする説もある。しかし、應神天皇二十六年から應神天皇四十一年までは「春秋二倍暦」で書かれているようである。應神天皇は「西暦 421年」に五十五歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。 『古事記』に、應神天皇の時代に百濟の照古王が牡馬一頭と牝馬ー頭を贈ったと書かれている。また、『日本書紀』には、(近肖古王が)神功皇后の摂政五十二年(372年)に「七枝刀(ななつさやのたち)」を献上したと書かれている。近肖古王は、贈り先を應神天皇(当時はまだ即位前)と認識していたと見られる。 以上申し述べた通り、古代の各天皇が実在したかどうかは、なお分からない。仮に実在したとしても、それぞれの在位期間が『日本書紀』に記載される通りであったかどうかはもっと分からない。しかし、『日本書紀』は各地の豪族を含めて当時の多くの人びとの腑に落ちる「調和的信念」であったのに相違ない。 【26】 卑彌呼の時代に葦原中國の版図はどこまで広がったか イスラエルの地に定住したユダヤの十二支族は、ダビデ王(BC 1040-BC 961)のときに「イスラエル王国」として統一されたと伝承される。一方、第十代崇神天皇は、四道將軍を派遣して国内を統一したと伝承される。『旧約聖書』の「サムエル記下巻 24:15」によれば、ダビデ王の時代に三年間の飢饉と疫病によって七万人の民が死んだ。『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に疫病が三年間流行り、民の大半が死んだ(國内多疾疫民有死亡者且大半矣)。 ダビデ王は天なる神に祈った。崇神天皇は天神地祇に祈った。 「サムエル記下巻 8:14」によれば、ダビデ王は「エドムの地」で戦った(He put garrisons throughout Edom)。崇神天皇は「挑(いどみ)の河」で戦った(各相挑焉故時人改號其河曰挑河)。 「サムエル紀下巻 24:2」によれば、ダビデ王は初めて人口を調査した。『日本書紀』によれば、崇神天皇も初めて人口を調査した(秋九月甲辰朔己丑始校人民)。
ダビデ王の子・ソロモン王は天なる神を祀(まつ)るために「イスラエル神殿」を創建した(現在はヘロデ王の時代の「嘆きの壁」などの外壁しか残らない)。一方、崇神天皇の子・第十一代垂仁天皇は、天照大神を祀るために「伊勢神宮」を創建した。
以上述べたように、『日本書紀』は、崇神天皇が、あたかもダビデ王と互角であると述べているかのようである。したがって、崇神天皇の正確な在位期間だけではなく、その事績も、本当は分からない。
『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇が即位(「春秋二倍暦」の条件のみで復元して西暦 222年)して数えの十年目(同推定 226年)に、武埴安彦(たけはにやすひこ)が山背(やましろ)より攻めてきた。その妻の吾田媛(あたひめ)も大坂(おほさか)から攻めてきた。崇神天皇は、彦國葺(ひこくにぶく)を遣わして武埴安彦を討たせた。また、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと 吉備津彦命)を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。その結果、葦原中國の版図は、大和國から畿内にまで広がった。
『日本書紀』によれば、崇神天皇は、同じ年(同推定 226年)に全国平定のために四道将軍を派遣した。すなわち、大彦命(おほひこのみこと)を北陸道に、武淳川別(たけぬなかはわけ)を東海道に、吉備津彦(きびつひこ)を西海道に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)丹波にそれぞれ派遣した。
翌年(同推定西暦 227年)四道将軍は、それぞれ地方を平定したことを報告した。
『日本書紀』によれば、崇神天皇は、即位して数えの六十一年目(同推定西暦 252年)に吉備津彦と武淳河別とを遣わして、出雲振根(いづものふるね)を誅殺させた。これによって山陰道は葦原中國の支配下に入った。
『日本書紀』の崇神天皇に関する記述が、仮に「春秋二倍暦」が使われているにせよ、その記述の通りであったとは限らない。しかし、三世紀の前半に誰かが奈良盆地にいて何らかの働きをした。それが誰であったのかは本当は分からない。また、それがどのような働きであったのかも本当は分からない。 一方、女王國・倭國では、西暦 238年に卑彌呼が魏の第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)に特使・難升米(なしめ)を派遣して朝貢した(魏志倭人傳)。西暦 240年に魏使が金印紫綬を卑彌呼に届けるために女王國・倭國を訪ねた(魏志倭人傳)。 西暦 247年に女王國・倭國では卑彌呼が死去した(魏志倭人傳)。 西暦 248年に十三歳の少女・臺與(とよ)がこれを後継した(魏志倭人傳)。 【27】 臺與のとき女王國・倭國の版図はどこまで広がったか 『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇(「春秋二倍暦」から復元して推定在位 222-255)の晩年、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と称する都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が敦賀(つるが)に上陸した。
第十一代垂仁天皇(同推定在位 255-304)は、都怒我阿羅斯等の話から、そのころ女王國・倭國の伊都國王が穴門國(山口県)を支配していることを知った(『日本書紀』垂仁天皇紀)。そのころ臺與が生きていれば二十三歳である。
女王國の統治組織として、重要であるのは、伊都國に常駐して、女王國以北の国々を回り、検察していた大率という人物である。『魏志倭人傳』には、諸国はこれを畏(おそ)れ憚(はばか)るとしている。すると、大率は、各国の王(官)と副官の上に君臨していたと見てよい。 對馬國・一支國・奴國・不彌國には副官として「ひなもり(卑奴母離)」がいた。彼らは海防担当官として女王國が任命していたものであろう。そして、大率が常駐していた伊都國には卑奴母離が置かれていないことを考えると、卑奴母離は、大率の統率下にあって、朝鮮半島からの脅威に対して備えていたようである。
朝鮮半島を発った都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、初め穴門國(あなと 山口県下関市)に上陸しようとした。そこで「伊都都比古」(いとつひこ)なる人物に出会った。この伊都都比古は伊都國王と見られる。都怒我阿羅斯等は伊都都比古に「この国の王だ」と言われた。不審に思い、そこを離れて日本海の敦賀に至ったという。
しかし、山口県下関市は福岡県糸島市からやや離れていて伊都國の範囲にはない。にもかかわらず、伊都國王はなぜ下関市を押さえていたのか? 女王國で、このような強大な権限をもつ者は、大率以外にいない。大率は、朝鮮半島からの脅威に備えていたわけであるから、朝鮮半島からの渡来者・都怒我阿羅斯等を検問したのは当然である。しかも、『魏志倭人傳』には、大率は伊都國に常駐すると書かれている。すなわち、伊都國王が自らの国の範囲を超えて穴戸國を支配していたのは、伊都國王こそが大率であったからにほかならない。大率とは伊都國王の職名であったからである。 この記述は、大和王権(『日本書紀』の編纂チーム)が大九州北部から山口県下関市にかけて女王國・倭國が存在したことを認めた記述としても重要である。 女王國・倭國は、女王・臺與(235-没年不詳)の時代であった。女王國・倭國の支配は、穴門國(山口県)まで及んでいた。しかし、それが女王國・倭國が本州にまで版図を拡げた限界であったようである。 西暦 265年に司馬懿の孫・司馬炎(しば えん)が西晉を建てた(初代皇帝・武帝 在位 265-290)。この情報は女王國・倭國に伝わったと見られる。翌西暦 266年に倭國は西晉に朝貢した(泰始二年十一月己卯倭人來獻方物 『晉書』武帝紀)。臺與は、生きていれば三十一歳である。朝貢したのは臺與であったと見られる。西晉は、その後も臺與の女王國・倭國を優遇したと見られる。 なお、都怒我阿羅斯等は「額に角のある人」と書かれているが、当時珍しい「立物(たてもの)」のある兜(かぶと)を被っていたようである。日本では、平安時代以降に仏具の製造技術によって甲冑が製造されるようになった。兜(かぶと)には額に大きな立物がつくようになった。 第四章 【28】 女王國・倭國はいつどのように衰退したか 『日本書紀』の「神功皇后紀」に「摂政六十六年(西暦 386年)は晉の武帝の泰初二年である。『晉起居注』に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとある」と記している。六十六年是年晉武帝泰初二年晉起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻(『日本書紀』神功皇后紀)。 武帝の泰始二年は西暦 266年である。大和王権(『日本書紀』の編纂チーム)は、ここでも女王國・倭國の臺與の業績を神功皇后のものとして召し上げようとした。 西暦 280年に西晉が中国を再統一すると、武帝は変貌し、酒と女に溺れて朝政を顧みなくなった。この情報も女王國・倭國に伝わったと見られる。臺與が生きていれば四十五歳である。その前後から女王國・倭國は衰退していったのではないか。 女王國の南の狗奴國(くなこく)は、火國(熊本県)の菊池川流域の民族と白川・緑川流域の民族であったと見られる。『魏志倭人傳』に、狗奴國には「其の官」がいるなどと述べられているので、狗奴國はかつて女王國に属していたのかもしれない。女王國は鉄器を輸入して手に入れていたが、狗奴國は製鉄ができる先進国として台頭していた。女王國はそのことを脅威に感じていたのに相違ない。しかし、時代が動いて女王國・倭國を滅ぼすことになるのは狗奴國ではなく、大和王権であった。 西暦 300年近くになると、女王國・倭國の中に大和王権の前方後円墳が幾つか築造される。大和王権の勃興に伴って、幾つかの国々が個々にいち早く同盟関係を結んだようである。 女王國・倭國内及び周辺地域の初期の前方後円墳
このころ、宗像市の沖ノ島で祭祀が行われるようになった。大和王権は、吉備、宇佐、宗像を通して大陸との交易権を確立する。伊都國王・大率にもこれに干渉する力はなかった。
臺與の後も独身の女性の呪術者がこれを継承したと見られる。『日本書紀』「景行天皇紀」に記述されるように「八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)」として神格化され、山門國(福岡県みやま市瀬高町大草)の女王山にいて、人前にはあまり姿を見せなくなっていたようである。そのころの女王國・倭國は、小国が乱立する状態となり、邪馬臺國(山門國)もそのひとつとなった。しかし、女王・八女津媛も伊都國王・大率も存在し続けた。 【29】 『日本書紀』によれば、景行天皇はなぜ女王國・倭國を討伐しなかったか 大和王権は、九州地方には天皇に従わない部族が多くいると感じていた。『日本書紀』によれば、大和王権による九州親征は、二回行われた。第十二代景行天皇による「第一次九州親征」と、第十四代仲哀天皇・神功皇后による「第二次九州親征」である。景行天皇による第一次九州親征は、景行天皇十二年(「二倍暦」から復元して推定西暦 309年)から景行天皇十九年(同推定西暦 313年)まで五年かけて行われたようである。 景行天皇は、九州で各地に行宮(あんぐう)を建てて住み、戦闘を展開して周辺の土蜘蛛(つちぐも 豪族)を討伐したようである。 『肥前國風土記』に、第十代崇神天皇の時代に肥後國益城(ましき)郡朝来名(あさくな)峯に二人の土蜘蛛がいて百八十人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかったとある(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世肥後國益城郡朝来名峯有土蜘蛛打猴頚猴二人帥徒衆一百八十余人拒捍皇命不肯降服)。景行天皇としては少なくともこれに優(まさ)る陣容の軍勢を率いていたと見られる。 前記したように、第十一代垂仁天皇の時代に、下関市が女王國・倭國の大率に抑えられていることを、大和王権は知っていたようである。第十二代景行天皇は第一次九州親征をするにあたって、山口県周防まで行き、下関市を通過しなかった。景行天皇は九州東岸に上陸した。景行天皇は、女王國・倭國とは直接対戦しないで、地域の豪族などを平定しながら、様子を見る方針であったのではなかろうか。 景行天皇は北九州市小倉南区の「朽網(くさみ)」で土蜘蛛を討伐したという伝承がある。また、菟狹(うさ 大分県宇佐市)の土蜘蛛・「鼻垂(はなたり)」を討った。その一方、兵を遣わして高羽(たかは 福岡県田川市)の土蜘蛛・「麻剥(あさはぎ)」を討った。禰疑山(ねぎのやま 大分県竹田市)の土蜘蛛・「八田(やた)」と「打猿(うちさる)」を討伐した。血が流れてくるぶしまで浸かったようである。襲國(そのくに 鹿児島県曽於市)で八十梟帥(やそたける)と呼ばれる「厚鹿文(あつかや)」・「迮鹿文(さかや)」を誅殺した。熊縣(くまのあがた 熊本県球磨郡)で「弟熊(をとくま)」を誅殺した。熊本県の緑川流域で土蜘蛛・「土折猪折(つちおりいおり)」を討った。兵を遣わして、佐賀県武雄市の嬢小山(をみなやま 鬼鼻山)にいた土蜘蛛・「八十女(やそめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。八十とは多いという意味である。八十女は数名の女王層であった。全員で抵抗して壮絶な最期を遂げたようである。平戸島の土蜘蛛・「大身(おほみ)」を討った(肥前國風土記)。玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛・「津頰(つづら)」を討った。天皇は、熊本県の菊池川沿いに夜間に山鹿に至った。熊本県山鹿市には景行天皇を松明(たいまつ)で招いた故事から現在も「山鹿燈篭の祭り」が行われている。御木(みけ 福岡県三池郡)の土蜘蛛・「耳垂(みみたり)」を討った。
西暦 312年(「二倍暦」から復元して推定)に景行天皇が女王國・倭國の八女縣(久留米市)に着き、そこの藤山を越え、そこから南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、「猨大海(さるのおほみ)」(水沼縣主となる 福岡県三潴郡 みづまぐん)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えたようである。
天皇は北上して佐賀県の神埼郡と三根郡に至る(肥前國風土記)。神埼郡には吉野ヶ里があった。神埼郡の宮処(みやこ)郷に仮宮を設営した(肥前國風土記)。養父(やぶ)郡の狭山郷(さやまのさと)を行宮とした(肥前國風土記)。また、御井郡の高羅(かうら)を仮宮とした(肥前國風土記)。その後、筑後國的邑(いくはのむら 福岡県うきは市)に行宮を建てた。一方、神代直(かみしろのあたひ)を肥前國浮穴郷(うきあなのさと)に遣わして土蜘蛛・「浮穴沫媛(うきあなわひめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。女王であった。西暦 313年(同推定)に天皇は的邑から纏向に帰還した。
この景行天皇による第一次九州親征で見えてくるものがある。それは、女王國・倭國に入ってから「征伐の旅」ではなく「巡幸の旅」となったことである。特に 312年(『日本書紀』を「二倍暦」から復元して推定)に山門國を素通りしている。
西暦 247年の卑彌呼の死から半世紀以上経って女王國・倭國(筑前・筑後の三十余か国連合)は崩壊しつつあった。それでも連合国としては、どの加盟国も土蜘蛛のように景行天皇軍に単独で対戦することはなかった。 いつも山の中にいる「八女津媛(やめつひめ)」という女神が出てくるが、猨大海(さるのおほみ)は「八」とはいつの世にもいる多世代の女神の意味として答えている。福岡県八女市や八女郡の語源となっている。景行天皇が藤山(福岡県久留米市藤山町)から南に見た「美しい山」は、衛星写真で見ると、どうも山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草 標高 195メートル)のようである。猨大海は、景行天皇の「神がいるのか」との問いに対して、緊迫した状況の中で、シャーマンとして神格化された連合国・倭國の女王がいるとは答えないで、いつも山中にいて人前に姿を現さない女神がいると答えた。この八女津媛こそが景行天皇が討つべき連合国・倭國の女王であった。景行天皇が、心の中で、旅先では女王國・倭國とは直接対戦しない方針でいたのであれば、猨大海はこれによって景行天皇の立場を守ったことになる。 景行天皇は、この九州親征で、豐國、日向國、肥國を平定した。しかし、筑紫(筑前・筑後)の女王國・倭國は、討伐されないで残った。女王・八女津媛は残った。大率・伊都國王も残った。 この景行天皇による「第一次九州親征」について、我われ日本人が初めて知るのは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。『古事記』に記載はない。史実ではなかった可能性はある。しかし、九州には、各地に景行天皇の足跡・痕跡・地名等が具体的に数多く残されている。 そのころ(西暦 316年)、中国では、西晉が匈奴の侵攻で滅亡した。 【30】 『日本書紀』によれば、女王國・倭國はいつどのように滅亡したか 第十二代景行天皇による一回目の九州親征に続いて、大和王権による二回目の九州親征は、史実とすれば西暦 363年から367年にかけて、実在したとすれば第十四代仲哀天皇・神功皇后によって行われた。
『日本書紀』によれば西暦 363年(「二倍暦」から復元して推定)に仲哀天皇は德勒津宮(ところつのみや 和歌山市新在家)にいた。そのとき、「熊襲叛之不朝貢」の報が入った。天皇は直ちに軍勢を率いて瀬戸内海を西航し、穴門國(山口県)の豊浦津(とゆらのつ 下関市)に到着した。神功皇后は角鹿(つのか 敦賀)の笥飯宮(けひのみや 氣比神社)にいた。知らせを聞くと陸路南下し、水軍を率いて瀬戸内海を西航した(播磨國風土記)。高泊(たかのとまり 小野田市)を経て豊浦津に至った。
仲哀天皇と神功皇后は穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや 下関市長府宮ノ内町忌宮神社 いみのみや)で三年間、情報を収集しながら治世をした(古事記)。周防の沙麼(さば)を水軍基地とした。 女王國・倭國は、魏の「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもっている。また、女王・臺與(とよ)が魏を継承した西晉に朝貢している。さらにそれを継承した東晉によって軍事上の安全を保障されているかもしれない。すると、仮に大和王権が女王國・倭國を攻撃すると、中国との大きな政治的・軍事的問題を引き起こす可能性がある。
西暦 366年(推定)に崗國(をかのくに 飛鳥時代の遠賀郡)を支配していた国王・熊鰐(くまわに)が仲哀天皇を周防の沙麼(さば)に迎えて帰順した。そのとき、自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した。熊鰐は後に大和王権下で崗縣主(をかのあがたぬし)となる。
また、伊都國(福岡県糸島市)の國王・五十跡手(いとで)が仲哀天皇・神功皇后を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した。自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した(日本書紀)。五十跡手は、自らについて「高麗(こま)の國の意呂山(おろさん 韓国蔚山広域市)に天降りし日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」と名乗った(肥前國風土記・逸文)。 日桙という人物は新羅王の子として、第十一代垂仁天皇の時代に日本に渡り、但馬で子・多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を残した(日本書紀)。葛城之高額比賣命(かづらきのたかぬかひめのみこと)は多遅摩母呂須玖の子孫である(古事記)。葛城高顙媛(かづらきのたかぬかのひめ)は神功皇后の母であった(日本書紀)。神功皇后はその母の遠く古い故郷である朝鮮半島に強い憧憬をもっていた。神功皇后は、新羅國には眩(まばゆ)い金、銀、彩色などが沢山あると考えていた(眼炎之金銀彩色『日本書紀』)。 伊都國はこのとき大和王権に併合された。そもそも、伊都國王とは女王國の「大率」の権限をもつ者にほかならない。このとき、大和王権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と加盟国について全貌を知った。また、女王が山門國の女王山にいる八女津媛であること。呪術者であることなどを知った。五十跡手は、後に大和王権下で伊覩縣主(ゐとのあがたぬし)となる。 『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠賀川河口の崗湊(をかのみなと)にさしかかったときに船が進まなくなった。すなわち、河口の守り神であった大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)の二柱の神が大和王権の女王國・倭國への侵攻を拒んだ。仲哀天皇が熊鰐に勧められて崗湊の二神に祝(はふり 神官)を立てて祈ったところ船が進んだ。前記の二柱の神々は、当時は遠賀湾の西岸に鎮座する神々であった。その西岸は、縄文海進によって現在の遠賀川の西岸から約 7キロメートル内陸地の福岡県遠賀郡岡垣町の高倉にあった。現在は高倉と遠賀川河口の二か所に上宮(高倉神社)と下宮(岡湊神社)が祀られている。 神功皇后は、危険を分散するために、別の軍船で洞海湾から崗湊に向かった。洞海湾南岸の前田(北九州市八幡東区)で陣営を設けた。その足で皿倉(さらくら)山に登ってそこから遠く朝鮮半島を仰ぎ見ようとした。その後、満潮を待って崗湊に着いた。 仲哀天皇は玄界灘を通って奴國に向かった。神功皇后はいったん遠賀湾を軍船で南下し、陸路奴國に向かった。神功皇后は、真紅の絹の上衣、紫色の裳を着ており、縞織物の帯に鹿の角の腰飾りを差し、皮の靴を履いていたと伝えられる。青いガラスの管玉と瑪瑙(めのう)のネックレス、緑色の翡翠(ひすい)の指輪と貝殻のブレスレットをつけていた。また、宝石のイヤリングをつけ、竹編みの笠を深くかぶって傲然としていた。当時竪穴式の住居に住んで貫頭衣を着て暮らしていた庶民は、遠くからその姿を見て驚いたであろう。 仲哀天皇・神功皇后は橿日廟(かしひのみたまや 福岡市東区・香椎宮)を行宮とした。
西暦 367年(推定)、仲哀天皇は橿日廟で崩御した。『日本書紀』には暗殺されたと注記されている。二十六歳であった。
神功皇后は軍勢を率いて橿日宮を出発し、御笠川を南下した。橿日宮から松峽宮(まつをのみや)に遷宮した(福岡県朝倉郡筑前町)。 神功皇后は、先ず層増岐野(そそぎの)において土蜘蛛・羽白熊鷲(はじろくまわし)と交戦して圧倒的な兵力でこれを誅殺した。皇后はこのとき髪を左右二つに分け、耳元で「みずら」を結い、兵として男装していた。 皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を少し南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門國である。最後の女王・八女津媛(神格化した多世代の女王)はここの女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいる。 『日本書紀』によれば、前記したように神功皇后はこれを一方的に「土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)」と呼んで殺害した(轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛)。八女津媛を兄・夏羽の軍が防衛していた。夏羽が駆けつけるよりも前に八女津媛は殺されたので、夏羽の軍は四散した。「たぶらつひめ」とは「たぶらかしの女性呪術者」という意味である。八女津媛に対する蔑称であった。
祈祷所に残されていた後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)から下賜されていた前記「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」や「親魏倭王」の金印などが、このとき散逸したものと見られる。現在の皇室に伝わっていない。
山門國は大和王権下で山門縣(やまとのあがた)となる。これが邪馬臺國の滅亡であった。 女王山は、地域ではその後大和王権に遠慮して女山(ぞやま)と呼ばれるようになった。 この仲哀天皇・神功皇后による大和王権の「第二次次九州親征」について、我われ日本人が初めて知るのは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。 【31】 その後、魏の後継国は倭國をどのように遇したか 第十五代應神天皇(推定在位 390-421)は、現在の日本人にとって重要な天皇のひとりである。應神天皇は、第十六代仁徳天皇から男系が途絶えた第二十五代武烈天皇までと、第二十六代継体天皇から現在の今上陛下まで続く共通の男系祖先である。そのために應神天皇は皇祖神として奉られることになった。仏教が伝来すると「八幡大菩薩」と称えられた。そのために應神天皇を初代天皇とする根強い仮説もある。
広開土王碑(414年)は、第十九代好太王(広開土王 374-412)の業績を記録したものである。この碑に 391年に倭國が侵攻してきて「百濟□□□羅」を従えたと書かれている。事実とすれば、應神天皇であった可能性が高い。この年に倭國は朝鮮半島に侵攻して、百濟、加耶、新羅を従えたのではないかと見られる。同碑には広開土王の在位期間に倭國がしばしば侵攻し、広開土王はこれを撃退したと書かれている。すなわち、396年に広開土王は百濟を平定した。399年に倭國と百濟が新羅を攻撃した。400年に広開土王は新羅から倭軍を追った。404年に広開土王は帶方郡に侵攻する倭軍を討った。407年に広開土王は百濟を討った。と書かれている。應神天皇の在位期間(推定 390-421)である。倭國が朝鮮半島に進出していたのは鉄を入手するためであったと見られる。
西暦 413年、倭王が東晉(317-420)の第十代皇帝・安帝(在位 396-419)に朝貢した(義熙九年是歳高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物 『晉書』安帝紀)。この倭王は應神天皇(推定在位 390-421)であった可能性が高い。
東晉は魏の後継国にあたる。司馬睿(しばえい、276-323)が初代皇帝・元帝であった。しかし、東晉は倭國王を特別扱いしなかった。その後、宋(420-479)の建国のすぐ後(421年)に朝貢した「讃」も應神天皇であった可能性がある(髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授『宋書・倭國傳』)。西暦 425年には「讃」は死去して「珍」が朝貢している(太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻『宋書・倭國傳』)。その後、宋に朝貢したとみられる大和王権の「済」「興」「武」に対しても、宋は、倭國を中国周辺の小国としか見なかった。このことは、東晉と宋が大和王権を卑彌呼・臺與の女王國・倭國の後継国とは見なかったことを物語る。 【32】 我われ日本人は漢族の子孫か 黄河中・下流域の中原(ちゅうげん)の地では、豊かな中華文明が築かれた。そこにいた人びとは「漢人(Han)」と呼ばれた。それは、劉邦(BC 247- BC 195)が漢を建国(BC 206年)したことによって、そのように呼ばれるようになった。漢人は、四方の東夷・南蛮・西戎・北狄にその高い文明を憧憬されながら少しずつ生活圏を拡大して行った。周囲との混血を繰り返しながら、現在の「漢人」が社会的概念として構成されたと見られている。漢人は、現在の中国の民族識別工作では「漢族」とされている。漢族は、中華人民共和国の少数民族を含めた総人口の 94パーセント以上を占める。江南人である湖南省出身の毛沢東(1893-1976)も漢族とされている。我われ日本人が常識的に「漢民族」というときは、この「漢族」のことを指している。西暦 316年に、前記したように、西晉は匈奴の侵攻によって滅亡する。長安も洛陽も陥落した。男は殺された。女は連れ去られた。匈奴はかつて「秦」や「前漢・後漢」「魏」「西晉」の中心地であった中原の地を制圧して「前趙」(ぜんちょう)を建国した。以後中国は北方異民族が支配する「五胡十六国」の時代となる。西晉の司馬睿(しばえい、276-322)は、華南に逃れて東晉を建国した。この動乱の中で、多くの政治難民が生み出された。 西暦 202年(± 175年)日本では「古墳時代」が始まるころに、大陸から「東アジア人」が日本に多く流入した(N.P. Cooke et al., Science Advances 2021)。日本に流れ込んだ東アジア人は、中原の地を追われた漢族であった可能性が高い。
魏(220-265)の人口は、西暦 260年に4,432,881人であった。弥生時代の日本の人口(縄文人+弥生人)は、コンピュータ考古学による復元から約 594,900人(小山修三教授)であったことが分かっている。それに対して流入した東アジア人は「約 1,000,000人」であったようである。日本の人口の約 63パーセントが漢族などの東アジア人となった(N.P. Cooke et al., 2021)。
現在の日本人男性は、父系で受け継がれるY染色体の遺伝子を調べると、縄文人約 40パーセント、弥生人約 24パーセント、漢族などの東アジア人約 36パーセントである(M.F. Hammer et al., 2006)。このデータは、日本人 259名を対象としているだけなので、おおよその数値である。また、現代人について、母系で受け継がれるミトコンドリアの遺伝子を調べると、図示されるように、漢族などの東アジア人約 71パーセント、縄文人約 14パーセント、弥生人約 15パーセントである(N.P. Cooke et al., 2021)。考古学的試料は、サンプル数が少ないことを踏まえて、これらの数値や図には、それぞれ数パーセントの標準偏差の誤差がある。 測定精度が高い現代人の約 71パーセントが漢族などの東アジア人のミトコンドリア DNAをもつ事実から、前記東アジア人の流入時に日本の人口の約 63パーセントが東アジア人となったことには科学的な蓋然性(確からしさ)が認められる。弥生時代の日本の人口(縄文人+弥生人)が、コンピュータ考古学による復元から約 594,900人であった(小山修三教授)ことが、この DNAデータからも支持される。 漢族の遺伝子の男女差について、日本に漂着した漢族は、食糧も不足する中で、男は多くが古墳造成などの労役に死ぬまで駆り出され、あるいはそのまま餓死させられて、その結果子孫を残すことができなかった。女は生かされて縄文人の男と弥生人の男の子孫を残したようである。 漢族の流入は「さみだれ式」であったと見られる。漢人の流入によっても日本語は漢語に置き換わらなかった。また、流入が起きたのは古墳時代前期(300年代)・古墳時代中期(400年代)と見られる。應神天皇陵(401年-420年)、仁徳天皇陵(441年-460年)の築造の時代を過ぎると、大型古墳は姿を消していく。 【33】 地域の「邪馬臺國自虐史観」とは何か 日本には「皇國史観」という歴史観がある。これは、我が国の歴史は万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする。倫理的には、それによって天皇に忠義を尽くすことが美徳であるとされる。明治時代から第二次世界大戦に至るまで、日本が大日本帝國であった時代には、皇國史観は政府公認の歴史観・道徳観であった。皇國史観には、我われ日本人の存在をこうであると意味づけるある種の絶対性があった。その中で、國家神道は、近代天皇制国家がつくり出した国家宗教であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで約八十年間、日本人を精神的に支配した。天照大神を皇室の祖先神とし、これを祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立てて管理した。 しかし、昭和二十年(1945年)に第二次世界大戦で日本が敗戦したとき、これを「終戦」と呼ぶ蟠(わだかま)りの中で、一部の人びとは「自虐史観」という歴史観をもつに至った。これは、皇國史観を徹底的に否定する。そのために、さしあたり『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)の内容を否定する。あるいは、古代の天皇の存在を否定する。特に神武天皇の実在性について神話の一部として頭から否定する。更に第二代から第九代までの「闕史(けっし)八代」の天皇の存在を完全に否定する。考古学者の中には『記紀』を絶対に読まないことを主義とする人たちが少なからずいる。そのような、極端に偏って感じられる歴史観もある。
この第二次世界大戦における敗戦の時と同じことが、邪馬臺國の滅亡(推定 367年)のときに山門國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)で起きた。
弥生晩期から古墳時代にかけて、この地域の人びとは、ここが「邪馬臺國(山門國)」であることを知っていたであろう。ここを見おろす女山(ぞやま)は、卑彌呼がいた「女王山」であることを知っていたであろう。地域の人びとは「権現塚」が卑彌呼の墓であることを知っていたであろう。
しかし、女王山の最後の女王・八女津媛は、西暦 367年に神功皇后とその水軍によって、一方的に「土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ たぶらかしの女性呪術者)」という蔑称で呼ばれて殺害されてしまう。山門國は「山門縣(やまとのあがた)」となった。中央(大和王権)から「縣主(あがたぬし)」が配属されてきた。このような「敗戦」を経験した地域は、日本列島でこの山門國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)だけである。その中で、地域の一部の人びとは、強い「邪馬臺國自虐史観」をもつに至った。
この地域は、前記したように、江南人の上陸の地であった可能性がある。ここが高天原であったとする伝承がある(Wikipedia/山門郡)。現在でも日向神(ひゅうがみ)峡谷は天照大神(あまてらすおほみかみ)の生誕地として崇(あが)められている。王位継承の殺し合いも、太陽神を祀(まつ)る日向神(ひゅうがみ)峡谷から女神を迎えることによって乗り切ってきた。 それでも、大和王権によって、せっかく大和の国々のひとつとして認められたではないか。「大和民族が住むに非ざる地域」として烙印を押されてはならぬ。また、そのような烙印から子孫を守らなければならなかった。地域では、女王山を「女山」(ぞやま)と呼ぶことにした。何としても大和王権の源流との結びつきを取り戻したい。「権現塚」には、神功皇后の兵士が埋葬されていることにした。 この「山門國自虐史観」は、その時その身にならなければ、我われ第三者が本当に理解することは困難である。それは、非常に深く、かつ、重層化して行った。現在全国には「地域おこし」のために「邪馬台国」を自称する地域は幾らでもある。それらの地域と同じように「卑弥呼の里」などと称して表面的なレベルで楽しい行事などを開催するのはよい。しかし、根源的なレベルで「山門國自虐史観」の強い空気に逆らうと「抗空気罪」で社会的に抹殺された。たとえば、「権現塚」について「春分の日と秋分の日に正確に女王山の聖域から日が昇るのが見える地点に築かれている」という事実などにも「地元の郷土史家・村山健治の一意見としては」という枕詞(まくらことば)をつけて地域を守った。 地域のこの「邪馬臺國自虐史観」は、第三者である我われは、これを尊重しなければならない。しかし、事実は、女山はそのむかし「女王山」と呼ばれた。そこにいつの世も女神・八女津姫(やめつひめ)がいた。神功皇后が最後の女王を「田油津媛」の蔑称で殺害したとき、兄・夏羽の軍は戦わないで四散したので、神功皇后の兵士から戦死者は出ていない。また、権現塚の築造の時と神功皇后の田油津媛討伐の時とは、時代が百年以上異なるから、権現塚は神功皇后の兵士の墓ではない。 この山門國が邪馬臺國であったことは、今の時代となっては、むしろ地域として尊敬されるのに値するのではないか。女王山に卑彌呼(169頃-247)がいて、後漢の第十二代皇帝・靈帝から「中平」(184-189)の年号をもつ(国宝)「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」を下賜されたことは、尊敬されるのに値する。また、魏の第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)から「親魏倭王」の金印紫綬を授与されたことも、尊敬されるのに値する。 【34】 最期の女王の墓はどこにあるのか
福岡県みやま市瀬高町大草(おおくさ)の女王山の麓に「蜘蛛塚」(くもづか)と呼ばれる墓がある。この墓は明治の初めまで「女王塚」と呼ばれていた。最後の女王・「田油津媛」の墓といわれている。この「蜘蛛塚」は、「権現塚」よりも女王山の近くにある。ここからも、春分の日と秋分の日に女王山の聖域から日が昇るのが見える。
仮に「田油津媛」のために築造されたとすれば、殺されたのが西暦 367年であるので、当時はもう「墳丘墓」の時代ではない。短い前方部があるようなので、前方後円墳より格下として築造を許された「ホタテ貝型古墳」であろう。すると、五世紀後半以降の築造である。死後百年の間に起きたちょっとした天変地異を「祟り」と恐れて築造されたのではあるまいか。雨が降ると血が流れると言われたようなので、埋葬に水銀朱が用いられたと見られる。それまで、遺体はどこにあったのだろうか? もっとも、「古墳」とは、必ずしもエジプトの「ピラミッド」のような遺体を守るための「墓」ではなく、祭祀の対象としての「神社」であるので、遺体があったとされるところの土をもって来ただけかもしれない。
この墓は、ホタテ貝型古墳にしては、表土は大部分が洗い流されている。近くに祭儀場の盛土をもつ古い「円形墳丘墓」かもしれない。すると、臺與の墓としての可能性もなお残っている。
明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像画入りの紙幣が発行された。日本で最初の肖像画入り紙幣であった。 明治政府に対して当時の地域では、この古墳を「女王塚」と呼ぶことを遠慮して「蜘蛛塚」と改称し、現在に至る(みやま市指定文化財)。 関連年表
参照文献
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