【趣旨】 陳壽(ちんじゅ 233-297)の『魏志倭人傳』(285年)には、倭國の女王・卑彌呼(ひみこ 169頃-247)が「いつ」即位したかが書かれていない。唐初期の歴史家・姚思廉(ようしれん)の『梁書倭國傳』(629年)によれば、卑彌呼が「倭國亂」を経て共立されたのは、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の「光和年間」「178年-184年」であった(漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼為王)。この『梁書倭國傳』がなければ、我われは卑彌呼が即位したときに十三、四歳の少女であったことを知ることはなかった。唐の時代になっても、宮廷には後漢や魏の記録が残っていたようである。西暦 184年すぎに後漢の第十二代皇帝・靈帝の「中平」の年号をもつ鉄刀(金錯銘花形飾環頭大刀・東京国立博物館所蔵・国宝)が後漢使によって山門國(福岡県みやま市瀬高町大草)・女王山の卑彌呼に届けられた。 また、西暦 240年に魏の第二代皇帝・明帝の「親魏倭王」の金印が魏使によって山門國・女王山の卑彌呼に届けられた。 魏の皇帝から「親魏」という破格の高い称号をもらったのは、インドのクシャーナ朝の国王(仏教を奨励したカニシカ王の孫)と卑彌呼の二人だけであった。日本の古代史上、卑彌呼が魏の皇帝に倭國が魏の友好国である(属国ではない)と認めさせた功績は大きく、倭國としてはそれほどの高い栄誉であった。 魏使の報告書(復命書)には二つあった。ひとつは魏使が書いた報告書である。それは、『魏略』という歴史書に収録された。『魏略』は唐の時代に散逸したが、その内容の一部は『翰苑』第三十巻写本(倭國)という書籍に収録されて遣唐使がもち帰った。太宰府天満宮に所蔵されている(国宝)。 もうひとつの報告書は、魏の将軍・司馬氏が遠方の大国として「倭國」を朝貢させた自らの功績を「水行二十日・水行十日陸行一月」「七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」などと皇帝に報告し、司馬氏に怯える皇帝がそれを信じた「正式」な報告書である。 司馬氏はその功績で土地を与えられた。司馬氏は帝位に就いて国号を「西晉(せいしん)」と改めた。陳壽は蜀の官僚であったが、司馬氏の西晉に採用されて『魏志倭人傳』を書いた。「邪馬臺國」という名は、この『魏志倭人傳』の中でただ一か所に出て来るだけである。この『魏志倭人傳』がなければ、我われは「邪馬臺國」のことを知ることはなかった。 日本には、大和王権は何としても「和」の中から生まれたのだ。大和王権は「親魏倭王」の女王國・倭國に「侵攻」したり、これを「討伐」したりしたものではない。卑彌呼の女王國・倭國が何としても「そのまま」大和王権になったのだ。そのような「信仰」ともいえるものが現在も存在する。それは、そのことを口にすることさえ不謹慎だという強い信仰である。 日本最初のこの「邪馬臺國・大和國説」は奈良時代の『日本書紀』(720年)の中に見られる。それは、「神功皇后紀」に、神功皇后を卑彌呼と見なして、景初三年(239年)に倭國の女王が魏の明帝に難斗米(なしめ)を朝貢させ、皇帝から印綬を授与されたとするものであった。 「卅九年是年也太歳己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都也。卌年魏志云正始元年遣建忠校尉梯携等奉詔書印綬詣倭國也」(日本書紀・神功皇后紀) 正一位・北畠親房(きたばたけちかふさ 1293-1354)も『神皇正統記』(じんのうしょうとうき 1343年)の中で『日本書紀』のこの記述から、卑彌呼は神功皇后であったとした。すると邪馬臺國は神功皇后が都と定めた大和國であったことになる。 本居宣長(1730-1801)は、邪馬臺國は九州筑後の山門國であると考えていた。また、神功皇后紀のこの「卅九年」が当時の百濟の近肖古王(在位 346-375)の名前から正確に百二十年(干支二巡)繰り上がっていることを見出した。すると、『日本書紀』を編纂した大和王権は、時代を百二十年詐称して、卑彌呼(169頃-247)が魏の皇帝から金印紫綬を授けられた功績を、神功皇后の功績として召し上げようとしたことになる。 卑彌呼は、前記したように、西暦 184年までに「倭國」の女王に即位した。一方、西暦 220年以前の奈良盆地には、環濠集落などの生活グループはあったが、何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はない。それは皆無である。 白鳥庫吉(1865-1942)と和辻哲郎(1889-1960)は、邪馬臺國は九州北部から奈良盆地に東遷して大和王権になったのではないかと想像した。九州山門國説と近畿大和國説のいわば折衷案である。しかし、卑彌呼が後漢の樂浪郡と交易を行っていたと推定されるころ、奈良盆地の纏向(まきむく)では、吉備王國から人と物が流入し始めていた。238年に卑彌呼は魏の第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)から「親魏倭王」の金印紫綬を授かる。また、266年に卑彌呼の後継者・臺與(とよ)は魏の後継国・西晉に朝貢する。そのころの纏向は、第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇の時代であったと推定される。邪馬臺國が奈良盆地へ東遷する理由も機会もなかった。白鳥庫吉と和辻哲郎は、現在の纏向遺跡の存在さえも知らなかった。
中国国家博物館(北京)に、梁(502-557)の時代に描かれて十一世紀に模写された『職貢圖』(しょっこうず)が所蔵されている。中国王朝から見て諸夷と呼ばれた周辺諸民族が様ざまな扮装で来朝する様子が絵図として描かれている。倭國使について図の説明文は「倭國在帶方東南大海中依山島」から始まっているので、ここに描かれた倭國使は、女王・卑彌呼の特使・難升米(なしめ)であろう。倭國の三十余国について「北岸は三十余国を連ねて倭王の所に至る」と書かれている。山門國は北岸に連なる三十余国の最南端にあった。卑彌呼は、その三十余国に君臨する女王であった。
この『職貢圖』の原図は、前記『梁書倭國傳』よりも古く、梁の時代になっても、宮廷に後漢や魏の時代の記録が残っていたと見られる。『日本書紀』を編纂した大和王権も、北畠親房も、この『職貢圖』の存在を知らなかった。 日本の古代に起きていた事実は「ひとつ」である。では、それは、現実には一体どのようなものであったのだろうか?
第一章 【1】 「縄文人」とはどのような人びとであったか 我われの身体は「細胞」でできている。大人でおよそ五十兆個の細胞がある。これは必ずしも「歴史学」の話ではなく「サイエンス(科学)」の話となるので、違和感を覚える方もおられるかもしれないが、「サイエンス」とはいっても義務教育で学ぶ内容であるので、我われの細胞の中がどうなっているのか、それを見てみることにする。
薄い膜で包まれた細胞の中は「細胞液」という液体で満たされている。この細胞液に浮遊して一つの「細胞核」というこれも薄い膜で包まれた微小な、かつ重要な構造体がある。また、「ミトコンドリア」という多数の構造体も浮遊している。ミトコンドリアは一つの細胞の中に三、四百個もあって、ヒトの体重のおよそ十パーセントがミトコンドリアの重量である。
ミトコンドリアにも遺伝子(DNA)がある。それは、母から子へと伝えられる。多くの民族のミトコンドリアの遺伝子(DNA)を調べた結果、現生人類(ホモ・サピエンス)は「十六万±四万年」前にアフリカの奥地に暮らしていたひとりの女性の子孫であることが分かった(1987年の英科学誌『ネイチャー』)。東洋人も、白人も、黒人も、すべてアフリカにいたその女性の子孫である。その子孫は、何万年もの間アフリカの奥地で暮らしていたが、その一部がアフリカの東側の草原を北上して、今から四万~八万年前に、シナイ半島へ、あるいは、紅海を経由してユーラシア大陸へ渡った。これは、人類の「出アフリカ」と呼ばれることがある。彼らは、そこから西のヨーロッパへ、あるいは東のアジアへと移動して行った。そして、その子孫がついに日本にもやって来た。縄文人である。 それまで、ヨーロッパ・アジアにはネアンデルタール人などが生存していた。ネアンデルタール人は現生人類(ホモ・サピエンス)ではないが、現生人類の遺伝子には、ネアンデルタール人の遺伝子がわずかに(1~4パーセント)含まれていることが知られている。 縄文人は、約 3万8千年前から日本列島にいた可能性がある。人骨は出て来ないが、旧石器は出てくるからである。縄文土器など「縄文文化」の時代は BC14000年ごろから BC1000年ごろまで、一万年以上も続いたことが知られている。縄文時代には、「縄文海進」といって海面が今より二、三メートル高く、また、地域によっては五、六メートル高かったので、日本列島は大陸や朝鮮半島から孤立していた。縄文晩期の総人口は、コンピュータ考古学による復元では 75,800人であった(国立民博・小山修三教授)。その人口の半数以上が、東北地方に集中している。当時の東北地方は温暖で食糧も豊かであった。
縄文時代の人びとは鹿や猪を狩り、魚や貝を獲り、木の実などを採って暮らした。そのような暮らしが文明のレベルにおいて後進のものであったかというと、必ずしもそうとは限らない。
「一反(たん)」のどんぐりの林から「一石(こく)」のどんぐりが採れた。それを食べることによって人が「ひとり一年間」生きることができた。どんぐりには硬い殻があるので長く保存ができた。どんぐりは、そのままでは苦いので石でつぶし、水に何日もつけて苦味を除いた。すると混じりけのないデンプンが残る。それを火で焼いて食べた。発酵させて焼くとパンもできた。鮭の汁をかけて焼くと栄養豊富なクッキーもできた。木の実の栽培もした。それを発酵させると酒もできた。縄文人は美食を求める食通(グルメ)でもあった。人前に出るために気のきいた物を着た。べんがら(黄土を焼いた赤い顔料 酸化第二鉄)で化粧もした。原日本語を話した。音楽を聴き、自由な時間を楽しんだ。
縄文時代には、森羅万象に八百万(やほよろず)の神々が宿った。人びとは平等であった。縄文の人びとは、豊かな暮らしの中で 世界最初に土器を造った。土器は、煮炊きによって食中毒を防いでくれる。縄文の人びとはそのような土器に神さまが宿っていると考えた。感性豊かな縄文人は、土器に驚きの飾りをつけた。
糸魚川流域で採れた翡翠(ひすい)が全国各地で見つかっている。このことから、縄文人は、日本列島内では活発に交易をしていたと見られている。 弥生時代になると、稲作が行われた。稲作で「一石(こく)」とは、「一反」の田から採れるコメの量のことである。これで人が「ひとり一年間」食べて生きることができる。人びとは定住し、食料を計画的に得ることができるようになった。しかし、一石のコメを作るには、先ず、春先を待って、土を水でやわらかくこねた苗代(なわしろ)を造る。これにたねもみをまいて苗(なえ)を育てる。一方で、田を整地し、水を引く。これに時機を逸しないで田植えをする。昼夜水が枯れないようにする。草刈りや中干(なかぼ)しをする。嵐の日も田に行って稲穂が倒れないように縄を張る。秋になって稲穂が実ると、枯れないうちにす早く稲刈りをする。これは、縄文時代のようにどんぐりを拾ってきて余った時間を楽しむのとは違って、重労働である。それゆえに、稲作が伝わっても、縄文の生活から弥生の生活に容易には切り替わらなかった。
ここで、話を「細胞」のことに戻そう。
すべての細胞の中には、前記した通り、一つの微小な、かつ、重要な「細胞核」がある。細胞核の中には幾つかの「染色体」という構造体がある。染色体とは、1880年代に色素に染まって見えるので、そのように付けられた名称である。現在は「デオキシリボ核酸(DNA)の構造体」、あるいは、単に「DNA」と言っている。染色体は、顕微鏡で観ると縮こまって見えるが、本当は、とてつもなく細長い代物(しろもの)である。ヒトの染色体は、全部で「四十六本」ある。うち二十三本は父親からもらったものである。残りの二十三本は母親からもらったものである。それぞれを「ハプロイド」という。この二十三対の染色体には固有の番号がつけられている。受精によって 四十六本になったものを「ディプロイド」という。人はディプロイドである。四十六本の DNAは、直系が約 2 nm (ナノメートル 1ミクロンのさらに 1,000分の1の単位)で、長さが合計約 2メートル。仮に直径 2ミリメートルの針金にたとえると、長さは約 2千キロメートル。およそ九州南端から北海道北端までの距離である。そこに遺伝子(DNA)情報としてアミノ酸分子が並ぶ。
図は、縄文人が分布する地域(みどり色)である。男性の四十六本の染色体のうち「Y染色体」と呼ばれるもの(図の 23番目の対の右のほう)は、男性だけがもっている。これは、父親から息子へと引き継がれる。日本にやって来た縄文人は、Y染色体として「C1a1」または「D1a2a」という遺伝子のタイプ(型)をもっていたことが分かっている。前者(C1a1)は、現代の日本人男性の約 5パーセントがもっている。後者(D1a2a)は、現代の日本人男性の約 35パーセントがもっている(M.F. Hammer, et al.,J. Human Genetics, 2006)。
なお、アイヌ人は縄文人の「D1a2a」をもつ人として 75パーセント、オホーツク北方人の「C2」をもつ人として 25パーセントのいずれかである。また、沖縄県人は、男性の約 56パーセントが縄文人の「D1a2a」をもっている。青森県人は男性の約 39パーセントが「D1a2a」をもっている(M.F. Hammer et al.,2006)。 【2】 「弥生人」はいつどこから流入したか 我われ多くの日本人は社会科で「日本人は、縄文時代に狩猟採集の生活をしていたが、その後大陸から日本に稲作が伝わり、日本で弥生時代が始まった」と教わった。それは、縄文人がだんだん弥生人になったという教えであった。
その後、「縄文人は狩猟採集の生活をしていたが、やがて大陸から渡来してきた弥生人が稲作をもたらし、混血していった」という教えに変わった。すなわち、日本人は、縄文人と弥生人という二つの祖先をもつということになった。そのことは、以前から知られていたが、1991年に東大名誉教授・埴原和郎(はにわらかずろう 1927-2004)が「日本人二祖先説」としてはっきりと示し、それが定説となったものである(K. Hanihara, Japan Review, 1991)。日本人に「大陸の血が混じっている」と明示的に言ったわけであるから、埴原和郎としてはよほど勇気がいったと思われる。
しかし、埴原和郎のその時点(1991年)でも、大陸から渡来してきた弥生人は「いつ」「どこから」来たのかが分からなかった。また、渡来した弥生人は、それまでの縄文人と「遺伝子」は、何がどう異なるのかも分からなかった。また、渡来した弥生人が「稲作」を伝えたのかどうかも分からなかった。ただ、おおよそ大陸から渡来してきた弥生人が稲作をもたらしたのではないかと想像され続けた。
近年の研究で、BC1498年(±825年)の縄文時代に、北東アジアにいた民族が、朝鮮半島を通って「弥生人」として大量に九州に流入したことが分かった(N.P. Cooke et al., Science Advances, 2021)。中国では「殷」(BC17世紀 - BC1046)の時代である。
流入した弥生人は、母系で伝わるミトコンドリア DNAの構成比で、国内の人口の四十パーセント近くを占めるに至った(N. P. Cooke et al., 2021)。したがって、その人数は、前記縄文晩期の総人口約 75,800人に対して、総計で約 47,100人であったと見られる。ただし、これらの数値に誤差はある。流入した弥生人のY染色体 DNAのタイプ(型)は「O1b2」であった。
日本では、弥生時代の開始とは、弥生人が流入したときではなく、「稲作が始まったとき」と定義されている。北東アジアから弥生人が流入したことによって日本が縄文時代から弥生時代に変わったわけではない。流入した弥生人は、もっぱらアワやキビなどの雑穀を栽培して暮らす民族であったようであるから。 流入した弥生人(O1b2人)の故郷は、北東アジアの「西遼河流域」から「朝鮮半島北部」にかけての地域と見られている。弥生人の遺伝子(O1b2)は、現在でもその地域(北東アジア)の多くの人びとがもっている。この「O1b2人」は、現在の中国の華北にも華中・華南にも存在しない(M.F. Hammer et al., 2006)。この弥生人の遺伝子「O1b2」は、現代人にも引き継がれていて、日本人男性の約 24パーセントがこの遺伝子をもっている(M.F. Hammer et al., 2006)。稲作の伝来は、この弥生人(O1b2)の流入 BC1498年(±825年)の後、BC1000年過ぎまで待たなければならなかった。 【3】 我われは、弥生人と話すことはできたか 日本語は、様ざまな言語が交じり合ったものと見られているが、世界の孤立語である(金田一春彦 1913-2004)。日本語は、英語や漢語とは文法的にも根源的に異なっている。それでも、日本語はアルタイ語系の特徴をもっていて「述語」が最後に来る。これは、北東アジアから流入した弥生人(前記した O1b2人)の古代朝鮮語が基盤になっていると見られる。仮に我われがタイムスリップして邪馬臺國に行ったとする。そして、卑彌呼(169頃-247)や側近の難升米(なしめ)らと話してみたとする。そこで聞かされる弥生晩期の言葉は、ひどく古めかしい方言のように感じられるかもしれないが、言葉としては通じたのではあるまいか。「いと(伊都)」「しま 島(斯馬)」「やまと (山門)」などの地名・語彙も同じだったであろう。文字のない時代に、漢からの使者、あるいは、魏からの使者による当時の音写が、音韻学的に正確であったとは限らない。 東北地方には、アイヌ語の地名が多く残されている。アイヌ人の中にY染色体 DNAの「O1b2」をもつ人はいない。アイヌ人は、縄文人(C1a1人またはD1a2a人)の言葉を多く伝えているのかもしれない。一般にはアイヌ語が分かりにくいのと同様に、仮に我われがタイムスリップして縄文時代に行ってみても、言葉は容易には通じなかったであろう。 【4】 「稲作」はいつどこから伝わったか 中国の揚子江中下流域のことを「江南地方」という。そこには江南人が住んでいた。江南人は古代から水田耕作によって「熱帯ジャポニカ米」を栽培していたようである。一方、山東半島から遼東半島、朝鮮半島北部の地域では BC10,500年ごろ「温帯ジャポニカ米」が原生していたようである(宮本一夫他, 九州大学リポジトリ 2019年)。驚くべきことに、この地域は、野生のイネの北限よりもはるか北に位置する。 朝鮮半島には、そのように世界最古級のイネはあったが、それでも、もっぱらアワやキビなどの雑穀栽培が行われたようである。そのころ日本では、九州北部でも狩猟採集の生活が行われていた。
朝鮮半島には旧石器時代の遺跡が非常に少ない。朝鮮半島は寒冷でほとんど無人であったと見られている。それでも、BC1000年ごろから朝鮮半島に人びとが住み始め、「無文土器」と磨製石器が出始める。また、そのころ、朝鮮半島に早くも青銅器が流入したようである。
平成十五年(2003年)に、考古学的発掘と炭素 14年代測定によって、紀元前 1,000年ごろ朝鮮半島中南部の河川地域で稲作が行われたことが分かった。このことから、我が国の弥生時代の始まりは紀元前 1,000年ごろと見なされるようになった。しかし、現実に九州北部で最初にイネが栽培されたのは、紀元前九世紀ごろであると見られている。それは揚子江流域の江南地方の「熱帯ジャポニカ米」であったようである(宮本一夫他, 2019年)。この熱帯ジャポニカ米は直接九州北部にもち込まれたようである。その後、紀元前五、六世紀ごろに朝鮮半島中南部から「温帯ジャポニカ米」が九州北部にもち込まれた(宮本一夫他, 2019年)。 稲作はその後何世紀もの間、九州にとどまった。その間に、稲作は紀元前四世紀に日本海航路で青森県弘前市の「砂沢遺跡」にまで伝わったものもある。しかし、その後東北地方でも、狩猟採集の生活は変わることなく続いた。 なお、揚子江流域の江南人のY染色体に弥生人の「O1b2」は見つからない(M.F. Hammer et al., 2006)。江南人は、弥生人ではない。 【5】 博多湾と有明海は「海」でつながっていたか 博多湾から太宰府市あたりを通り有明海にいたる低地部(筑紫平野)は、九州北部を東西に分ける「地溝帯」である。この東側全体が古代に「宇佐嶋」と呼ばれていた可能性がある。『日本書紀』によれば天照大神(あまてらすおほみかみ)と素戔嗚尊(すさのをのみこと)の契約で「宗像三女神」が高天原から「宇佐嶋」に降臨したとされる。三女神は航海術などあらゆる「道」の最高神とされる。出雲と宗像の結びつきは強い。出雲で生まれた三人のお姫さまが宇佐嶋の宗像に移り住んだのかもしれない。『古事記』によれば、三女神のひとり・田心媛神(たごりひめ)は大國主命と結婚した。出雲王國は、卑彌呼の倭國よりも古い王国である。宗像國は出雲王國の大陸との交易拠点であった可能性が高い。出雲王國が大和王権(葦原中國)」の支配下に入ってからは、宗像は葦原中國の大陸との交易拠点となる。 約九万年前に阿蘇カルデラの破局噴火(阿蘇 Ⅳ)のとき、火砕流は九州中部を広く覆った。火山灰は朝鮮半島にも北海道にも降り積もった。火砕流の一部は山口県の日本海側にまで達した。九州北部にも各地に凝灰岩(ぎょうかいがん)、あるいは、溶結(ようけつ)凝灰岩の険しい地形が造られた。
その後、約二万八千年前の姶良(あいら)カルデラの破局噴火で九州北部は全体が約六十センチメートルの火山灰に覆われた。さらに、約七千三百年前の喜界カルデラの破局噴火で九州北部は全体が約二十センチメートルの火山灰に覆われた。火山灰は朝鮮半島にも東北地方にも積もった。
これらの火山灰は、現在も九州全体を覆い、圧縮されて凝灰岩となったり河川などを通して土砂として流れ出たりしている。九州北部を東西に分ける前記の地溝帯も、山間部などから流れ出た土砂の分厚い堆積層に覆われている。その現在の最高地点は大宰府市あたりである。そこの標高は約三十五メートルである。ここが「土砂」の流れを南北に分ける「分水嶺」(ぶんすいれい)である。 この分水嶺は、千八百年前の卑弥呼の時代にはそれなりに土砂の堆積が少なく、標高も低かった可能性がある。この分水嶺に近い「二日市温泉大丸別荘」の温泉掘削コアによれば、現在の海水面より約三十メートル深いところから邪馬臺國時代の地層が見つかった。 弥生時代には、海面も「縄文海進」の影響で高く、吉野ケ里も当時は波打ち際にあった。宝満川と筑後川の合流点は、現在は内陸の平野部にあるが、当時は海底にあった。有明海の潮差(干満差)は、日本最大の約六メートルである。防波堤がない時代に、有明海の満潮は、一日に二回、陸上奥深くまで津波のように押し寄せた。しかし、博多湾と有明海は、海の生物相が異なっているので、海路でつながっていた可能性は低い。 【6】 「二種の神器」と「航海術」はいつどこから伝わったか 中華の地でも、他の文明(メソポタミア、インダス、エジプト)と同様に、コムギの文明が発達した。それも世界最大の耕地面積と世界最大の収穫量を誇った。BC600年ごろ鉄器が使われるようになると更に生産量が増えた。多くの農民が春秋の覇者となった。それを統一したのが秦の始皇帝(BC259-BC210)であった。中原(ちゅうげん)の地にはその後も前漢・後漢などの大帝国が出現した。
図は、前漢の武帝(在位 BC141-BC87)の時代の「朝鮮半島四郡」の位置を表す。この位置づけには諸説あるようである。前漢は、眞番郡を通して朝鮮半島の最南端に「倭人」が住んでいることや、さらにその南の海の向こうに九州北部があり、そこにも倭人が住んでいると認識していたようである。
一方、揚子江中下流域には、前記したように、江南人が住んでいた。江南人は「祖霊神信仰」をもっていた。前漢の時代になると、江南地方に青銅器が伝わった。江南人は、珍しい銅剣・銅鏡を「二種の神器」として祭祀に用いた。 紀元前 100年ごろ、武帝の政策によって漢人が江南地方に南下した。江南人はそこを追われた。
一部の江南人は九州に航行した。朝鮮半島には銅剣・銅鏡を祭祀に用いる風習はないので、江南人は海路九州に直接渡来したと見られる。このとき、江南人は、九州に丸木舟や筏(いかだ)に替わって「準構造船」を用いる航海術を伝えたようである。江南地方では「潜水漁法」や「鵜飼」が行われていたが、これらも日本のその後の漁法となった。江南人は、九州北部に定住したようである。
江南人は、九州北部で後漢の樂浪郡と交易を行い、日本に初めて青銅器と鉄器が同時に入ってきた。 後漢の歴史家・班固(はんこ 32-92)とその妹の歴史家・班昭(はんしょう 45-117)は『漢書』(前漢のことを書いた歴史書)を編纂し、「地理志・燕地条」に「樂浪郡の海の中に倭人がいる。百余国にわかれている。季節の贈り物を持ってやって来る」と書いた。「樂浪郡」と書かれているので、それは前漢がその南にあった「眞番郡」を失った紀元前一世紀半ば以降のことであろう。この江南人は、大和王権の祖先となった可能性が高い。それは、たとえば、現在の皇室に「二種の神器」や「祖霊神信仰」が伝わっているからである。 では、江南人は九州のどこに上陸したのであろうか? 気象庁は、人工衛星、船舶、フロートなどからの情報に基づいて海流のマップを毎日作成して公表している。季節によっては、揚子江河口から九州へ向かう海流がある。仮に帆のない筏(いかだ)で 1ノット(秒速約 0.5メートル)の海流に乗った場合は、約二十日で九州に漂着できる。仮に 4ノットの帆船を用いると、五日で九州に上陸可能である。 江南の人びとは、海流に乗って自然に「有明海」に漂着したのかもしれない。博多湾と有明海は水路でつながっていたと見られるので、江南の人びとはすぐに九州北岸に出たであろう。 江南人が上陸した筑後の山門(やまと)國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)が、すべての始まりの地であった可能性がある。山門郡は高天原であったとする仮説もある(Wikipedia/山門郡)。山の麓の「やまと」や「みなと」の地名は日本各地にあるが、筑後の「山門」が「大和」の語源となった可能性がある。 【7】 神武天皇はなぜ「東征」したことにされたか 中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らす。古くは開封のほかにも幾つかの都市にコミュニティがあったようである。ユダヤ人は神に撰ばれた民であるという「撰民思想」をもつ。このため、一定の数のコミュニティを形成できなければ、その系統(種)は自然に消滅しやすい。開封のユダヤ人は時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢の時代」に移り住んだのではないかという点では、およそ一致している。古代イスラエルには、多くの「祭司 (コーエン Cohen)」がいた。「祭司」は世襲であった。「コーエン家」は現在まで続く。ウィリアム・コーエン(William Cohen) は、アメリカの国防長官であった(在任 1997-2001)。また、エリ・コーエン(Eli Cohen)は、エルサレムのユダヤ教の祭司の家庭に生まれ、空手五段であったが、駐日イスラエル大使を務めた(在任 2004-2007)。現在のすべての「コーエン」は、モーゼの兄・アロンの子孫であると信じられている。モーゼやアロンが実在したかどうかは分からないが、Y染色体 DNAの解析から、すべての「コーエン」は、共通のひとりの男性祖先にさかのぼる可能性が高いと見られている。その染色体は「アロンY染色体(Y-chromosomal Aaron)」と呼ばれる。 西暦 260年に魏(220-265)の人口は 4,432,881人であった。その中にあって少なくとも 1,000人のユダヤ人が開封で暮らしていたと見られる。魏は、西晉(265-316)によって後継されたが、その西晉は、匈奴の侵攻に悩まされ、最後は滅亡する(316年)。長安も陥落した。洛陽も陥落した。男は殺され、女は連れ去られた。中国大陸は、北方民族が支配する「五胡十六国」の時代となる。その動乱の中で、大量の漢族など東アジア人が日本に流入した(N.P. Cooke et al., Science Advances 2021)。それに混じって、少なくとも 200人のユダヤ人が流入した可能性が高い。日本は古墳時代であった。その中に「アロンY染色体」をもつ世襲の「コーエン」がいた可能性がある。ユダヤ人は、後年『日本書紀』の編纂に史(ふひと)として加わった可能性もある。 『旧約聖書』によれば、アブラハムは「ダガーマ地方のハラン(Harran)」にいたが、孫のヤコブはイスラエルの地で神に撰ばれたユダヤ人の始祖となる。一方、『日本書紀』によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原(たかまがはら)にいたが、高千穂に降臨して大和民族の始祖となる。ヤコブは、ラケルと結婚し、その父からラケルの姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。一方、瓊瓊杵尊は薩摩半島の吾田國(あたのくに 薩摩國閼駝郡)の笠沙(かささ)の國神(くにつかみ)の娘・木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚し、その父から木花開耶姫の姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。ヤコブはラケルとの間にヨセフを産むが、ヨセフは兄にいじめられてエジプトに行く。ヨセフはエジプトの祭司の娘と結婚してエフライムを産む。エフライムの四番目の息子べリアの子孫・ヨシュアがイスラエルの地を征服する。一方、瓊瓊杵尊は木花開耶姫との間に山幸彦(彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと)」を産むが、山幸彦は兄(海幸彦)にいじめられて海神(わたつみ)の國に行く。山幸彦は海神の娘・豐玉姫(とよたまひめ)と結婚して鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産む。鸕鶿草葺不合尊の四番目の息子・神武天皇が葦原中國(あしはらのなかつくに)を征服する。 『旧約聖書』は「天地創造」から始まり、ヘブライ人に撰民思想(神に撰ばれた民という思想)を保障している。『日本書紀』も「天地創造」から始まり、日本人に神国思想を保障している。『日本書紀』は、あたかも日本という国が少なくとも古代イスラエルと互角であると述べているかのようである。『日本書紀』は、紀元前十三世紀ごろモーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出し、瑞穂(みづほ)の國(「ミヅラホ」はヘブライ語で「日出ずるところ」の意)に東征して「カナン(ヘブライ語で「葦原」の意)」の地に至ったことを「知って」いて編纂されたのではないかと見られる。すなわち、初代神武天皇が、モーゼと互角の建国者であるためには、神武天皇に何としても「東征」してもらう必要があったのではあるまいか。 現在の日本人の間にユダヤ人の DNAはない。秦氏もユダヤ人ではない。日本に流入したユダヤ人は、日本にユダヤの文化や風習を伝え、日本で尊敬され、そして、自然に消滅したと見られる。しかし、「コーエン」は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、大和王権の中枢で祭祀を司る氏族「中臣(なかとみ)氏」として頭角を現した可能性がある。「天岩戸(あまのいはと)」の物語では、天皇の祖先である天照大神(あまてらすおほみかみ)を、天児屋命(あめのこやねのみこと)らがこの世界に呼び戻した。太陽がなければすべての動植物は死に絶える。八世紀に書かれた『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の「天岩戸」の物語は、天皇支配の正当性を伝えると同時に、中臣氏である藤原不比等(ふひと 659-720)の立場を反映して、その始祖の「コーエン(天児屋命)」の功績を称える成功神話のようである。 『大寳律令』(701年)が完成したとき、九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七か国となった。『日本書紀』によれば、第十二代景行天皇は「第一次九州親征」のとき、高屋宮(ひむかのたかやのみや 西都市または宮崎市)を行宮とした。景行天皇は日向國の美波迦斯毘賣(みはかしびめ 御刀媛)を后(きさき)とした。日向隼人は、その後も第十五代應神天皇と第十六代仁德天皇にそれぞれ日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)と髪長媛(かみながひめ)を妃として嫁がせた。これらは畿内の皇室としては極めて異例なことであった。仁德天皇と髪長媛との間に生まれた幡梭(はたび)皇女は第二十一代雄略天皇の后になった。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、神武天皇の故郷として、現皇室に「血」が流れており、豊かな海洋文化をもち、豊かな山岳文化をもつ隼人の国(宮崎県・鹿児島県)を採用した。すなわち、編纂チームは、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の地も、海幸彦・山幸彦の神話の地も、神武東征の起点となる出発の地も、すべて宮崎県・鹿児島県とした。 しかし、大和王権の祖先は、『記紀』が伝える「日向(ひむか)」の国(宮崎県・鹿児島県)の人びとではなく、前記したように、九州北部の人びとであった可能性が高い。 【8】 神武天皇は、仮に実在したとして畿内まで東征し得たか
稲作は、数世紀の間、九州北部にとどまった。その後少しずつ西日本に広がった。狩猟採集をして暮らす縄文人の地域に、渡来した弥生人が「侵攻」して土地を「占有」した。それが稲作であった。これによって、狩猟採集を中心とする生活から、稲作を中心とする生活に切り変わっていく。その「弥生」の最前線が近畿地方を通過したのは「紀元前 50年」ごろであったと見られている。
『日本書紀』によれば、初代神武天皇は「縄文海進」によって海面が高い東大阪市を航行して生駒山麓の河内國草香邑(東大阪市日下町)の靑雲の白肩之津に接岸した(三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河内國草香邑靑雲白肩之津)。この「接岸」は紀元前に「縄文海進」によって海面が高かった頃に行われたのであるとすれば、これを科学的に否定できる反証はない。しかし、「接岸の神話」をもって神武天皇が実在したと結論付けることも困難であろう。
『新古今和歌集』の伊勢(875-940)の「難波潟短き蘆の節の間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」にあるように、平安時代になっても大阪湾は葦の生い茂る浅い潟であった。人びとは大阪湾がだんだん陸地になっていく様子を知り、紀元前後に河内國草香邑に接岸できたことを代々重要な記憶として伝えた可能性がある。そのようにして、八世紀の『日本書紀』の編纂チームは「縄文海進」の時期と程度をよく知っていただけかもしれない。 「神武東征」とは、弥生人が稲作とともに東進した「戦いの記憶」であったのかもしれない。神武東征軍と戦った「長髄彦(ながすねひこ)」も、弥生人に殺された縄文人のひとりだったのかもしれない。 BC1498年(± 825年)の弥生人の渡来と、BC10世紀ごろの稲作の伝来とは別々に起きたが、弥生人の東征と、稲作生活の東進が、このころ軌を一にした可能性がある。 【9】 神武天皇はなぜ紀元前 660年に即位したことにされたか 日本人が「神武天皇」のことを初めて知ったのは、八世紀に『日本書紀』(720年)が書かれてからである。日本人が、天照大神(あまてらすおほみかみ)や素戔嗚尊(すさのをのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)などのことを初めて知ったのも『日本書紀』が書かれてからである。『日本書紀』の編纂チームは、舎人親王を総裁とし、多くの学者と「ふひと(史)」(物事を書き記す役人)からなっていたと見られている。国家としての大事業であったにもかかわらず、その陣容について『續日本紀』にも記録はない。『日本書紀』には、初代神武天皇は、百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳で崩御したなどと書かれている。その結果、神武天皇の時代から今日まで二千六百年以上かかったことになっている。 『魏志倭人傳』(285年)に「魏略に曰く、倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まる」と書かれている(魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀)。これは『魏志倭人傳』の原文に対して、後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が『魏略』を見て、注釈として挿入したと見られている。『日本書紀』の編纂チームも、この『魏志倭人傳』を読んでいた。仮に、古代に「春秋二倍暦」を適用して、現在の一年を「二年」と数えていたのなら、初代神武天皇が百二十七歳で崩御したことも可能であったことになる。『古事記』もこの「春秋二倍暦」を用いて書かれた可能性が高く、神武天皇は百三十七歳で崩御したことになっている。 また、前記したように『日本書紀』の編纂チームの中にユダヤ人の史(ふひと)がいた可能性も高い。イスラエルには春の正月とは別に秋の正月があった。モーゼは「出エジプト」のとき八十歳であった。カナンの地にたどり着いたとき百二十歳であった。 中国では春秋時代から「陰陽(おんやう)五行」の思想が行われてきた。その中で「辛酉(しんゆう)革命」の思想によれば、辛酉の年は六十年に一度やってくるが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年は千二百六十年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。 「紀元前 660年」とは、聖德太子(574-622)によって画期的な改革が行われた第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からさかのぼって二十一番目の辛酉(かのととり)の年である。すなわち「紀元前 660年」に神武天皇は即位した。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、この「紀元前 660年に神武天皇が即位したこと」を日本の歴史の大前提として編纂したのに相違ない。 【10】 弥生時代にはどのような墓が造られたか
縄文人は、風や木の葉に宿る精霊と交信した。死んだ人にも、聖霊が宿っている。生きている自分と同じように存在理由がある。貝殻は生活圏の中に残され、遺体も貝塚に捨てられた。中国の江南地方から祖霊神信仰が伝わり、我が国でもだんだん墓がつくられるようになる。
我が国の盛土墳墓には二通りあった。「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」と「古墳(こふん)」である。この二つは、築造された時代も、工法も正確に異なる。たとえば、秦の始皇帝陵は「墳丘墓」であって「古墳」ではない。
古墳は、統一的な形をもっている。風雨に耐えて長く保存される。たとえば、「円墳」(円形古墳)は、半真球、あるいは、半真球を水平にスライスして二段、あるいは、三段になっているものもある。いずれの段も真球のスライスの一枚としての統一した形をもっている。円墳は弥生時代の円形墳丘墓とは一線を画する。
墳丘墓は弥生時代に築造された。「墳丘墓」の形状には統一性がない。後者(古墳)は、西暦 280年ごろから築造された。「古墳」の形状には、前方後円墳にも円墳にも、統一性がある。それは、我が国で独自に発展した。
日本の墳丘墓は、一般にあまり大きくはなかった。円形で直径 15メートル程度までである。方形でも一辺 20メートル程度までである。古い順に「堆築(たいちく)」「層築(そうちく)」「版築(はんちく)」という三つの工法があった。いずれも中国の江南地方や山東半島などから海を経て九州に直接伝わった。「堆築」は、ただ土を積み上げるだけ。「層築」は、異なる土を層状に締め固める。「版築」は、大規模な木枠を組み、土砂を突き固めた。
たとえば、弥生時代の吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」(BC150年頃)は、大部分が「層築」で築造されている。南北約 39メートル、東西約 26メートルの長方形に近く、墳丘墓としては国内最大級である。当初は 4.5メートル以上の高さがあったのかもしれないが、二千年の風雨に浸食されて、今は約 2.5メートルしかない。 福岡県みやま市瀬高町山門に「堤(つつみ)」という地区がある。この地区は、東西南北に約二百メートル四方の広さがある。周辺より全体が二、三メートル高い。この地区には周りを囲んで環濠の跡が認められる。弥生時代にひとつの環濠集落であったと見られる。そこは、十か所以上の民家の軒先に、それぞれ三、四トンはありそうな巨石が地上に幾つか露出している。
みやま市ではこれらを「堤古墳群」と命名しているようである。しかし、これらは明らかに「古墳」ではない。弥生時代の「墳丘墓」の跡であると見られる。その理由は、あまりにも原型をとどめないからである。おそらく、堆築によって土が盛られただけであったために、二千年の風雨によって土が洗い流された結果、巨石が露出しているのではないかと見られる。なぜ環濠集落の中に幾つもの墳丘墓があるのであろうか? 吉野ヶ里遺跡にも環濠集落の中に「北墳丘墓」はある。しかし、吉野ヶ里では、北墳丘墓は主要な生活圏からやや離れて造られている。堤古墳群では、縄文時代と同じように、自らの生活圏の中に遺体を葬り、そこに墓を造ったと見られる。
【11】 日本列島最初の「王国」はどこにあったか
福岡市の福岡空港の南にある「板付(いたづけ)遺跡」は、弥生時代最古の遺跡の一つと見られている。ここは、佐賀県唐津市の「菜畑(なばたけ)遺跡」に次ぐ、最初期の水稲耕作遺跡である。また、福岡県粕屋郡粕屋町の「江辻遺跡」に次ぐ、日本最初期の環濠集落である。板付遺跡からは、縄文晩期(BC1500-BC1000)の土器も多く発掘されている。ただし、この板付遺跡は、当時の生活グループの址ではあるが、王国の址であったことを示唆する痕跡はない。
福岡県古賀市の「馬渡(うまわたり)・束ヶ浦(そくがうら)遺跡」からは、王墓と見られる甕棺の中から細型銅剣二本、銅戈一本、銅矛二本が出土した。この遺跡は、紀元前一世紀半ばのものである可能性が高い。朝鮮半島に銅剣を副葬品として埋葬する風習はない。それは日本独自のものである。この地域には、日本で最初の王国が存在した可能性が高い。筑前國の旧糟屋郡あたりであり、「不彌國」(うみのくに)としてその南部に現在の宇美町を残した可能性が高い。 福岡市西区の「吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡」からは紀元前一世紀後半の王墓と見られるものが発掘されている。特に三号木棺墓からは、中国遼寧省の「多鈕細文(たちゅうさいもん)鏡」一面を含む細形銅剣二本・細形銅矛一本・細形銅戈一本・勾玉一個・管玉九十五個が出土している。ここは「銅剣」・「銅鏡」・「勾玉」の組み合わせが日本で最初に出土した。 福岡県春日市の「須玖岡本(すくおかもと)遺跡」の巨石墓は、紀元前後ごろの奴國の王墓ではないかと見られ、三十面の銅鏡が出土した。一世紀半ばごろの奴國は強大であり、筑前國の旧那珂郡・旧早良郡あたりを支配していたと見られる。 九州北部に王国として勃興したこれらの国々は、江南人の国々であったと見られる。江南人の航海術によって大陸と交易が行われ、青銅器などが流入したことによって急速に豊かになっている。これらの王国は、『漢書』が記すように、百余の小国に分かれていたと見られる。
西暦 57年に九州北岸の「委奴國」の王は、後漢の初代・光武帝(在位 25-57)に朝貢して「漢委奴國王印」の金印をもらった。金印が福岡藩の志賀島で発見されたとき、この金印は最初は何なのか分からなかったが、『後漢書』に「倭奴國」の金印のことが書かれていた(建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬『後漢書』東夷傳)。このことから「倭奴國」が正しいのだろうと推測することが、この金印の文字を解釈する上で、重要な役割を果たしてきた。しかし、金印には「倭奴國」ではなく「委奴國」と刻まれている。南朝宋の時代に、范曄(398-445)はその実物(金印)を「見ない」で『後漢書』(440年)を書いた。光武帝は「倭の奴國」の王に金印を授けたのか、それとも、「委という奴」、あるいは、「委國と奴國」の連合国王に金印を授けたのか、それは永久に分からないであろう。
前漢の時代に武帝(在位 BC141-BC87)は、前記したように、朝鮮半島南端近くまで漢の領土として四郡を置いた。その結果、最南端に倭人が住んでいると認識していた。しかし、朝貢はそこからではない。当時の漢の倭人に対する認識は、倭人は、対馬海峡を内海として、朝鮮半島南岸と九州北岸にそれぞれ住んでおり、その南端、すなわち、九州北岸が「極南界」である。朝貢は、そこからということだったのであろう。 【12】 日本列島最初の「連合王国」はどこにあったか 福岡平野のすぐ西の伊都國は「縄文海進」によって海面が高く、糸島平野は海底にあった。稲作は、ままならなかった。しかし、後漢(樂浪郡)との交易を通して栄えていた。鉄製の農具は作物の収穫量を飛躍的に増大させた。鉄製の武器は兵力を飛躍的に強化した。後漢の永初元年(西暦 107年)に倭國王・帥升(すいしょう)らが、第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢した。そのとき百六十人もの生口(奴隷)を献上した。 この帥升のことは、『後漢書』を見て書かれたと思われる、太宰府天満宮の『翰苑』写本(国宝)には「倭面上國王」と書かれている。北宋版『通典』には「倭面土國王」と書かれている。その少なくとも一方は誤写であろう。『後漢書』のその後の新しい写本に、その二文字はない。歴史学者・白鳥庫吉(1865-1942)は、その失われた二文字を「回土(えと)」として伊都國王のことであるとした。筆者は、その二文字を「百土(をと)」であったのではないかとして、同じく伊都國王のことであると見ている。ただし、『後漢書』には最初から「倭國王」と書かれていたのかもしれない。北宋版『通典』、あるいは、『翰苑』が書かれるとき、『後漢書』とは別に「倭面土國王」とする第三の資料が残っていたのかもしれない。今となっては分からないが、帥升は伊都國王であったと見られる。
鉄器の輸入によって兵力をつけた伊都國王は、對馬國・一支國・奴國・不彌國を支配し、これら国々に「ひなもり(卑奴母離)」という武官を派遣していたと見られる。これが日本で最初の連合王国「倭國」であろう。伊都國がその盟主国であり、首都国であった。
朝貢は「帥升ら」として複数形で書かれているが、伊都國王が對馬國王・一支國王・奴國王・不彌國王を引き連れていた可能性が高い。百六十人もの生口は、伊都國王が供出させたのであろう。縄文時代にはなかった、専制君主のようである。 糸島市の「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡」や「平原(ひらばる)遺跡」は、二世紀末の伊都國王の墓と見られている。三雲南小路遺跡の甕棺墓からは、中国製の銅鏡三十枚が出土した。平原遺跡には、五つの墳丘墓跡がある。一号墓だけは復元されている。それは、十四メートル×十二メートルの方形周溝墓である。それは、副葬品から判断して女性の墓であり、伊都國の女王または巫女(みこ)の墓ではないかと見られている。
この一号墓から四十面の銅鏡が出土した。その中には直径 46.5センチメートルの大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう 内行花文八葉鏡)が破損した形で五枚あった。
二世紀末に伊都國が山門國の支配下に入ってからは、伊都國では、あまり大きな墓は作られなくなる。これは、交易権を独占できなくなって衰退したからではないかと見られる。 『日本書紀』によれば、西暦 366年に伊都國王は、第十四代仲哀天皇・神功皇后に帰順した。そのとき、自らを朝鮮半島に天下った日桙(ひぼこ)の子孫であると名乗った(肥前國風土記逸文)。天日桙(あめのひぼこ)は、『日本書紀』によれば、第十一代垂仁天皇の時代に新羅から渡来した人物である。神功皇后の母親の祖先でもある。女王國・倭國が衰退していく中で、伊都國では新羅人によって新しい王家が創設されていたようである。 【13】 大和王権の祖先は、なぜいつどこから東遷したか 揚子江流域から渡航して九州北部に定住した江南人は、紀元前後に後漢の樂浪郡と交易を行ったと見られる。そのころ九州北部は急に豊かになっている。日本に初めて青銅器と鉄器が同時に入ってきた。 後漢の歴史家・班固(はんこ 32-92)とその妹の歴史家・班昭(はんしょう 45-117)は『漢書』(前漢のことを書いた歴史書)を編纂し、「地理志」に「樂浪郡の海の中に倭人がいる。百余国にわかれている。季節の贈り物を持ってやって来る」と書いた。「樂浪郡」と書かれているので、それは前漢がその南にあった「眞番郡」を失った紀元前一世紀半ば以降のことと見られる。大和王権の祖先は、この「九州北部」の人びとであった可能性が高い。九州北部では、江南地方の「二種の神器」(銅剣・銅鏡)に、縄文時代から流通していた翡翠(ひすい)の玉(ぎょく)が加わって「三種の神器」となった。また、江南地方の「祖霊神信仰」も行われるようになった。それまでの日本列島では、森羅万象に神々が宿り、貝殻もごみではなく神さまであったので、貝塚は生活圏の中に残され、遺体も神さまとして貝塚に捨てられていた。 紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけて実戦には使えない「平型銅剣」が出ている。これは、銅剣が早くから祭祀用に用いられていたことを物語る。朝鮮半島では銅剣が祭祀の道具として用いられた形跡はない。 では、大和王権の人びとは、九州北部の「どこ」にいたのであろうか? 古代神話の中で、海の神の地位は高い。ギリシャ神話の海神・ポセイドンも最高神・ゼウスに次ぐ圧倒的な強さをもっている。神話ではあるが、『日本書紀』に出てくる「海神(わたつみ)」も、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子である。また、これも神話であるが、神武天皇は海神の娘・豐玉姫(とよたまひめ)の孫である。したがって、「海神」は皇祖神とされる。この「海神」は、福岡市東区の「志賀海神社」を全国の総本社として祀(まつ)られている。安曇連(あづみのむらじ)が祭祀を務めたようである。 また、これも神話であるが、住吉(すみのゑ)神も、伊弉諾尊が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきがはら)で禊(みそぎ)をしたときに生まれたとされる海の神である。『筑前國住吉大明神御縁起』では、福岡市博多区の「住吉神社」が全国のすべての住吉信仰のそもそもの始まりとされている。大阪市の住吉大社(すみのゑのおほやしろ)の『住吉大社神代記』(国の重要文化財)にも、この筑紫大神が住吉信仰の始源であるとされている。
福岡市には、西区・早良区・城南区・中央区・南区・博多区・東区の七つの区がある。皇室の祖先(葦原中國)は、長い間、どうも福岡市東部(博多区と東区)あたりから古遠賀湾のあたりにかけて暮らしていたのではないかと見られる。すなわち、筑前國の旧那珂郡の北部、旧糟屋郡の北部、旧鞍手郡、旧遠賀郡、旧田河郡あたりである。これは、海神、住吉神を祀っていたこと、遠賀川流域に初代神武天皇を直接祀る神社が多いこと、遠賀川上流の田川市の古名が「奈良」であることなどを根拠とした推定でしかない。添付の地図で「葦原中國」と表す地域は、そのような名称の国がそこに存在していたわけではない。大和王権の祖先は、奴國にいたのかもしれないし、不彌國にいたのかもしれない。あるいは、伊都國の内部にいたかもしれないのである。
大和王権の祖先が九州北部から東遷を始めたのには、何らかの「原因」があったからに相違ない。 西暦 100年ごろ、對馬國、一支國、奴國、不彌國が伊都國王に兵力で服属したようである。伊都國王は、さらに出雲の祖先が暮らす宗像國と、大和王権の祖先が暮らす地域を併合しようとして、そこへ侵攻したと見られる。これが、大和王権などの祖先が九州北部から東遷した原因と時機だったのではなかろうか。 大和王権の祖先は、東遷の過程で九州に「宇佐國」を残した可能性が高い。大和王権の祖先が九州北部から東進したことが、『日本書紀』で神武天皇が宇佐と崗水門(をかのみなと 遠賀川河口)に立ち寄らなければならなかった理由であろう。 一方、宗像國からは出雲王國の祖先が山陰へ東遷した可能性がある。これは、宗像國と出雲王國は結びつきが強く、『日本書紀』によれば天照大神と素戔嗚尊(出雲)の契約で高天原から三女神が宗像に降臨したとされること、一方、素戔嗚尊は出雲に降臨したとされること、『古事記』によれば三女神のひとり田心媛命が大國主命と結婚したとされることなどを根拠とする推定でしかない。 『後漢書・東夷傳』によれば、西暦 107年に帥升らが後漢に朝貢した(安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見)。ここで「倭國王帥升等」と複数形である。伊都國王・帥升が「倭國王」として、対馬國王・一支國王・奴國王・不彌國王を従え、「伊都國連合」をつくることができた「お披露目」だったのではないか。生口(奴隷)を百六十人献上したようであるが、この百六十人は対馬國、一支國、奴國、不彌國から供出させたと見られる。縄文時代になかった専制君主である。これでは、大和王権の祖先も出雲王権の祖先も東遷するほかなかったのだと感じられる。 宗像國は、その後出雲王國の大陸との交易拠点として機能した可能性がある。一方、宇佐國は大和王権の瀬戸内海交易の拠点となった。 伊都國の平原遺跡一号墓から、「内行花文八葉鏡」五枚の破片が出ている。この銅鏡は直径が 46.5センチメートルあって、これは、漢の時代の「二尺」である。この直径では周囲が「八咫(やた)」の寸法(親指と中指を拡げた長さの八倍)である。三種の神器の「八咫鏡」(伊勢神宮)は、諸説はあるが、伊都國の五枚と合わせて六枚あったうちの一枚だったのかもしれない。「内行花文八葉鏡」のうち四面は伊都国歴史博物館に、また一面は九州国立博物館に収蔵・展示されている。 【14】 卑彌呼の女王國が出現する以前の日本列島に王国は幾つあったか 江南地方の「二種の神器」と「祖霊神信仰」をもち、西暦 100年ごろに宗像國を発って日本海へ向かった一族は、その後どうなったのであろうか? また、大和王権の祖先として西暦 100年ごろに九州北部を発ち、宇佐國を経て瀬戸内海へ向かった一族は、その後どうなったのであろうか?
毎年十月(神無月)に全国の八百万(やほよろづ)の神々は、出雲の「神奈備山(かんなびやま)」に集まるとして知られている。
島根県出雲市斐川町(ひかわちょう)の「荒神谷(こうじんだに)遺跡」は、西暦 150年ごろに出雲に王国が存在したことを示唆している。 荒神谷はその「神奈備山」の麓にある。荒神谷から出土した「358本」の整然と並んだ銅剣は、358人の豪族がいて、そこに何らかの祭祀を行う宗教国家が繁栄したことを物語る。『延喜式神名帳』は、『延喜式』(927年)の巻九・巻十のことであるが、当時「官社(式内宮)」に指定されていた全国の神社の一覧である。そこに掲載された出雲地方の式内宮は「358社」である。これは偶然の一致かもしれない。
出雲市大津町の「西谷(にしだに)墳丘墓群」は、32基のうち 6基は「四隅突出型墳丘墓」である。墳丘墓は、古墳ではなく、朝鮮半島を経ないで大陸から伝わっている(日本土木学会 2012年)。「四隅突出型」は出雲特有の形である。西谷二号墳丘墓は、約二十四メートル × 約三十六メートルの方形である。高さは約四メートル。突出部を含めると約五十メートルである。出雲には、安来市に「塩津墳丘墓群」もある。出雲氏の墳丘墓群であろうと見られている。塩津一号墳丘墓は約二十五メートル × 約二十メートルの方形で四隅突出型墳丘墓である。
西暦 180年ごろの岡山平野に「吉備王國」が繫栄していた。大和王権の祖先は、西暦 100年ごろ九州北部を発ち、宇佐國、安藝國を経てこの吉備で繁栄したようである。
「楯築(たてつき)墳丘墓」(岡山県倉敷市)は、直径約四十メートル、高さ約五メートルの墳丘墓である。墳丘墓としては日本最大級である。前後に、二十メートル余りの突出部がついていて、これは 220年ごろ纏向で築造される最初の前方後円墳「纏向石塚古墳」の原型と見られている。埋葬された木棺の底には三十キログラム余りの水銀朱が敷き詰められていた。
この西暦 180年に、まだ奈良盆地には何らかの王権が存在したことを示唆する考古学的痕跡はない。それは、この段階ではまだ皆無である。 吉備王國にとって、間近な脅威は出雲王國であった。それが、220年になって吉備王國がさらに東進する原因であったようである。八世紀に書かれた『日本書紀』(720年)の中で、出雲が神話の約三分の一を占めているのは、そのためと見られる。 【15】 伊都國王の「倭國」はどのようにして卑彌呼の三十余国になったか 前記したように『後漢書・東夷傳』によれば、西暦 107年に帥升らが後漢に朝貢した(安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見)。伊都國王・帥升が「倭國王」として、対馬國王・一支國王・奴國王・不彌國王を従えて朝貢したようである。生口(奴隷)を百六十人献上した。縄文時代になかった専制君主である。この「倭國」(伊都國連合)はその後、七、八十年間男子王を立てて暮らした(其國本亦以男子爲王住七八十年 『魏志倭人傳』)。 西暦 180年過ぎに、倭國王は筑後地方の二十数か国を併合しようとしてこれに侵攻。筑後地方の国々は、それに反発。これを原因として「倭國大亂」が起きた。
紛争は、「妻(とぅま)國」(八女縣・福岡県久留米市)や「吉野ヶ里」(当時の国名は不明)その他二十余国が最南端の山門國(福岡県みやま市・柳川市)を盟主として二年以上続いた。
当時の戦争は、敵が家々を取り囲む。家々が宝物を差し出して降伏すると敵は去っていく。といった戦争であった。それでも鉄鏃を体内にもつ遺体が発掘される。それらは九州北部のみに集中していて、他所からは発掘されない。 紛争は女王・卑彌呼が共立されて収まった。 「倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」(魏志倭人傳) ここで、前記の帥升の「倭國」(伊都國連合)と、上記(魏志倭人傳)の「其國」と上記の「倭國」は、漢が朝貢と交易を通して認識していた同じ「倭國」のことである。日本列島のことを意味しない。 『梁書倭國傳』によれば、卑彌呼が倭國大亂を経て即位したのは、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間「178年-184年」であった。 「倭國大亂」は、卑彌呼が、全三十余国となった「倭國」に君臨して形而上学的な権限(祭祀権)をもつ。伊都國王は、全三十余国に対する形而下学的な権限(「大率」としての行政監察権)をもつ。という条件で収束した。「大率(だいそつ)」とは漢語である。仲介した漢(樂浪郡)が考えた職名であろう(松本清張)。 これによって、専制君主制を排除し、互いに寄り添って暮らす縄文時代からの大枠が揺り戻された。 【16】 「纏向(まきむく)」の王権はどのようにして出現したか 第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇の王宮は、『日本書紀』ではそれぞれ「磯城瑞籬(しきみづかき)宮」「纏向珠城(たまき)宮」「纏向日代(ひしろ)宮」であったと書かれている。『古事記』では、それぞれ「師木水垣宮」「師木玉垣宮」「纏向日代宮」であったと書かれている。奈良県桜井市に「磯城瑞宮伝承地」は存在するが、崇神天皇の磯城とは纏向であった可能性が高い。纏向には、220年ごろ吉備からの人・物・文化の流入が始まったと見られる。纏向は、その後、第十代崇神天皇の出現によって急速に発展して行く。
纏向は、崇神天皇の時代には一平方キロメートル程度であったと見られている。人口は、周辺を含めて一万人程度。第十一代垂仁天皇の時代には約三平方キロメートル。そのころの人口は、周辺を含めて三万人程度になったと見られている。纏向の宮殿は、それ以前は何もなかったところに忽然と姿を現したわけである。吉備からの人と物と文化の流入で支えられていた。
西暦 226年の日本列島には卑彌呼の「倭國」、「出雲王國」、第十代崇神天皇の「葦原中國」の三つの王国が併存していたと見られる。 昭和四十六年(1971年)より橿原考古学研究所によって纏向遺跡の存在が知られるようになった。纏向遺跡は、JR桜井線(万葉まほろば線)巻向駅を中心に、その規模は東西約 2キロメートル・南北約 1.5キロメートル、その面積は約 90万坪に及ぶ。
畿内で最初に現れる古墳は、「纏向石塚古墳」である。これは、古墳ではなく墳丘墓とも見られているようであるが、日本最初の前方後円墳である。吉備王國の楯築墳丘墓から約百年の空白時代を経て出現した。墳丘部は全長約 96メートル、後円部径約 64メートル、前方部の長さ約 32メートル。周濠幅は約 20メートル。その形状は、吉備の楯築(たてつき)墳丘墓が原型となったのではないかと見られる。また、纏向石塚古墳には、吉備の楯築墳丘墓と共通する水銀朱を用いた清めが施されていた。平成三十年(2018年)に橿原考古学研究所は、纏向石塚古墳の後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片(54点)は吉備地方の土でできていると公表した。
また、纒向遺跡からは「弧文(こもん)」と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品などが出土する。弧文は吉備王國の祭祀のための固有の模様であったと見られている。初期の葦原中國は、祭祀の方法も古墳の造り方も、あたかも吉備王國であるかのようであった。
第十代崇神天皇は、大物主神(おほものぬしのかみ 大三輪之神)や天照大神(あまてらすおほみかみ)、倭大國魂神(やまとのおほくにたまのみかみ)など、多くの神々を深く崇(あが)めたと伝承される。それゆえに、淡海三船(722-785)は、その「漢風諡(し)号」を「崇神天皇」としたようである。大和王権は、このころから、祖霊神信仰を深めていく。
古墳は「祖霊神信仰」によって築造されたと見られる。祖霊神信仰は、地方の豪族の祖霊も神と認めるものであった。地方の豪族はこれを受けいれやすく、大和王権よりやや小型の前方後円墳や円墳を築造し始めた。 大型の古墳は、誉田御陵山古墳(401-420年 應神天皇陵)、大山陵古墳(441-460年 仁徳天皇陵)の時代を過ぎると姿を消していく。七世紀(600年代)の「飛鳥時代」には神社がこれに替わっていった。 【17】 現在の「箸塚古墳」(築造 295-315年)は、誰の墓か 『日本書紀』(720年)に第十代崇神天皇は倭迹迹日姫命(やまとととびひめのみこと)を大市の箸墓に葬ったとある。宮内庁は、これを現在の「箸塚古墳」(大市墓)としている。『魏志倭人傳』に卑彌呼の墓は径(さしわたし)百余歩と書かれている。卑彌呼が死去した 247年は、まだ弥生時代であった。当時は「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)はあったが、箸墓古墳のような完成した「前方後円墳」はなかった。それでも、「箸墓古墳」は、よくよく考えてみると「後円部」が丸いではないかという発想のもとに、これを何としても卑彌呼の墓ではないかという「使命感」をもって調査が行われた。
2009年に国立歴史民俗博物館は、第 75回日本考古学協会総会で箸墓古墳の築造を「炭素 14年代測定」の結果として「240-260年」であると発表した。また、2011年にその結果を『国立歴史民俗博物館研究報告』第163集に掲載した。
「炭素 14年代測定法」は、科学的に正確な年代測定法である。植物は、太陽光線の下で大気中の炭酸ガスを吸って光合成を行っている。動物はその植物を食べて生きている。自然界に存在する炭素「C」は原子番号「6」であり、原子核の中に陽子(ようし) 6個と中性子 6個がある。また、周囲を陽子の数と同じ 6個の電子が回っている。この炭素は、陽子の数と中性子の数を合わせて「C-12」(炭素 12)と呼ばれる。我われの体重の約二割がこの「C-12」である。 ところが、この炭素「C」の中に 0.00000000012パーセントの割合で「C-14」といって陽子 6個と中性子 8個のものが存在する。これは放射性元素である。人も動植物も、体内のこの「C-14」から周囲にわずかに放射線を放っている。 この「C-14」の放射線の半減期は「約 5,370」である。それゆえに、5,370年前の動植物の炭素「C-14」は、放出される放射線量が半分である。これによって、古代の地層などから発掘した動植物が何千年前の動植物であるかが分かる。これが「炭素 14年代測定法」である。多くの場合に「1800 BP」などと報告される(Pは 1950年を現在 present として before 1800年)。 炭素 14年代測定は、科学的に正確な年代測定方法であるが、それは大気中の放射性元素「C-14」の濃度がいつの時代も一定であるという前提に立っている。しかし、大気中の「C-14」の濃度は時代と共に変動しているから、ひとつの樹木でも年輪が異なる他の部位の木材は、炭素 14年代測定の結果が想定した一直線上に乗らない。そこで、世界中から古代の樹木を集めて、当時の大気中の「C-14」の濃度を推定する作業が進められている。日本の古代の木材も使用されている。 2020年にケンブリッジ大学から古代の大気中の「C-14」の濃度を反映した、炭素 14年代測定の新しい更正曲線「IntCal20」が発表された。 これによって「箸塚古墳」の築造は「295-315年」であることが分かった。また、纏向遺跡は「220-260年」「290-340年」のものと分かった。これらの結果は、これまでの日本の古代史観を大きく変える可能性がある。 畿内で最初に現れる古墳は、「纏向石塚古墳」(全長約96メートル)である。その築造は西暦 280-310年ごろであったと見られる。これは、古墳ではなく墳丘墓とも見られているようであるが、日本で最初の前方後円墳である。纏向にはこのほか、纏向勝山古墳(115メートル・290-320年)・纏向矢塚古墳(96メートル・290-320年)・箸塚古墳(278メートル・295-315年)などがある。このうち、箸塚古墳が纏向型古墳としての完成形であると見られている。 『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇の王宮は、それぞれ「磯城瑞籬(しきみづかき)宮」「纏向珠城(たまき)宮」「纏向日代(ひしろ)宮」であった。『古事記』では、それぞれ「師木水垣宮」「師木玉垣宮」「纏向日代宮」であった。それゆえに、崇神天皇の磯城も纏向であった可能性が高い。この三代の天皇が、纏向を王宮とした。それが「IntCal20」によれば「220-340年」であったわけである。 現在の「箸塚古墳」(築造 295-315年)は、時期的に「垂仁天皇の墓」ではないかと筆者は見ているが、不明である。 『日本書紀』には崇神天皇が葬った倭迹迹日姫命の墓は大市にあると書かれているわけであるが、大市とは後世(飛鳥-奈良時代)の市場が立っていた場所という広い意味であり、『日本書紀』の大市の箸墓は未発見ではないかと見られる。 第二章 【18】 卑彌呼・臺與の故郷はどこか
卑彌呼の時代に、「倭國」は、王位継承の時は殺し合いが起きるが、「女神」が立つと収まるという性格をもっていた。それは、本居宣長が卑彌呼を「女酋」と呼んだように、互いに寄り添って暮らす原始的な共存社会であったと見られる。縄文時代から弥生時代になっても、社会の大枠は変わらなかったようである。では、卑彌呼は「どこ」から迎えられたのであろうか?
九州北部には對馬國から南端の山門國まで三十余の王国があった。卑彌呼は、王族の子女など「世俗」のひとではなかったであろう。仮に卑彌呼が世俗の子女であったのなら、親どうしの殺し合いが起きたであろうから。 福岡県柳川市・みやま市(旧山門國)を矢部(やべ)川が流れている。弥生時代に稲作が伝わると、矢部川は山門國の水田を潤した。矢部川の水源は、みやま市の女王山から正確に東の方角にあって約 25キロメートル離れている。そこは、周囲から山水が流れ込む「日向神峡谷(ひゅうがみきょうこく)」である。現在はダムの湖底にある。この地域は、福岡県八女市の南端に位置し、かつて「八女郡矢部村」が存在したところである。南は熊本県山鹿市に接し、東は大分県日田市に接する。 日向神(ひゅうがみ)峡谷は、山門國から見ると、水源の地であるだけでなく、正確に太陽が昇る方角にあった。また、古代からいつの世にも「八女津媛」(やめつひめ)という巫女(みこ)がいて太陽神が祀(まつ)られる聖地であった。「八」とは、八人の女神ではなく、いつの時代にもおられる多世代の女神のことを意味した。現在も地域の人びとによって、天照大神(あまてらすおほみかみ)の生誕の地と信じられている。 卑彌呼は十三歳のころまでこの日向神峡谷で八女津媛として育ったと見られる。卑彌呼は 182年ごろ倭國の女王に迎えられた。247年まで山門國の女王山にいたと見られる。卑彌呼が死去したとき、倭國では新しく男王が立ったが、殺し合いが起きた。しかし、248年に十三歳の少女・臺與(とよ)が新しい女王として迎えられた。臺與も、日向神峡谷で八女津媛として育っていたのではないかと見られる。
第十二代景行天皇の時代になっても八女津媛は女王山にいた。『日本書紀』によれば、この八女津姫は、大和王権による「第一次九州親政」のとき、第十二代景行天皇が、八女縣の藤山から南を見て「美しい山におられる女神」として討伐しなかった女神である(丁酉到八女縣則越藤山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊且美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主猨大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中 『日本書紀』景行天皇紀)。
衛星写真で見ると、藤山から南に見える山は、みやま市瀬高町大草の「女王山」である。 なお、女王山の麓には「権現塚」と呼ばれ、弥生時代の国内最大の墳丘墓と見られる円形周溝墓(未発掘)と、近くに「蜘蛛塚(旧女王塚)」と呼ばれる古墳址がある。いずれも正確に秋分の日と春分の日に女王山から日が昇って見える位置にある。 【19】 そのとき卑彌呼は何歳であったか 陳壽(233-297))の『魏志倭人傳』(285年)には、倭國の女王・卑彌呼(ひみこ 169頃-247)が「いつ」即位したかが書かれていない。桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王(後漢書)。 桓帝(かんてい)は後漢の第十一代皇帝(在位 146-168)であった。靈帝(れいてい)は第十二代皇帝(在位 168-189)であった。『後漢書』(440年)の「桓靈の間」とは、146年から 189年までの 45年間のどこかを指す。 唐初期の歴史家・姚思廉(ようしれん)の『梁書』(629年)によれば、卑彌呼が「倭國大亂」を経て共立されたのは、第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間「178年-184年」であった。 漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼為王(梁書倭国傳) 倭國王(西暦 107年に第六代皇帝・安帝に「倭國王」として朝貢した伊都國王)は、對馬國、一支國、奴國、不彌國を支配下におき、「ひなもり(卑奴母離)」という武官をそれぞれの国に派遣していたと見られる。そのまま七、八十年男王を立てて平和に暮らしていたようである(魏志倭人傳)。 西暦 180年ごろにその倭國王(伊都國王)は、筑後の二十数か国を併合しようとして侵攻。筑後の国々がこれに反発。「倭國大亂」が起きた。182年ごろに収束したと見られる。九州北部から、鉄鏃を体内にもつ当時の遺体が発掘される。その間、後漢の樂浪郡は、交易相手の「倭國」が無主となったわけであるから、交易の当事国としていち早く調停をした可能性が高い(松本清張)。倭國大亂は、1.卑彌呼が「女王」として共立されて全体の祭祀権をもつ。2.伊都國王は「大率」(だいそつ)として加盟国の行政監察権をもつ。そのような条件で収束した。
卑彌呼は、即位したとき十三、四歳の少女であったと見られる。年齢的にある程度の分別は必要だったからである。また、七十八歳くらい(西暦 247年)まで長生きすることになるからである。
前記の『梁書』がなければ、我われは卑彌呼の年齢を知るすべはなかった。唐の時代になっても、宮廷には木簡や竹簡、絹布などに書かれて後漢の記録が残っていたようである。 倭國は「大亂」の結果、伊都國、奴國などを含む三十余国の連合王国となった。卑彌呼は邪馬臺國を首都と定めたが、邪馬臺國の女王ではなく、その上の連合王国・倭國の女王であった。山門國には国王として伊支馬(いきま)がいた。伊支馬は連合国の地位としては「官」であった。邪馬臺國には次官として彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)もいた。 前記第十二代靈帝のころ、後漢は政情が不安定であった。西暦 184年に「黄巾の乱」が起きた。187年に「張純の乱」が起きた。これらの情報は、直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。卑彌呼には、後漢に直接朝貢できる機会は訪れなかった。
卑彌呼の「倭國」に牛馬はいなかった(魏志倭人傳)。当時は、日本列島に牛馬がいなかった。行政監察官である大率が九州北岸の伊都國に置かれるだけでよかった理由は、倭國・三十余国が、伊都國の大率が「歩いて」回ることができる、現在の福岡県かそれよりやや狭い地理的範囲の中にあったからと見られる。各国は大率を畏れはばかった(魏志倭人傳)。各国は、現在の郡か市の程度の規模であった。飛鳥時代以降に、斯馬國は志摩郡となり、伊都國は怡土(いと)郡となり、已百支(しをき)國は小城(をき)郡となり、倭國・三十余国は三十余郡になったと見られる。
なお、日本人は四世紀に朝鮮半島で初めて馬を見た。五世紀に馬は埴輪として登場する。馬は、そのころ朝鮮半島を経てモンゴル馬が輸入される。牛も五世紀になって中国から輸入された。 【20】 古代中国の「里」とは何キロメートルであったか 「歩」という文字は、左足のかかとに右足のつま先をつけたことを表す象形文字である。殷(いん)の宮廷では一直線上を静かにすり足のように歩いた。右足をゆっくりと動かして左足のつま先に右足のかかとをつけた。すると、一歩は約 0.25メートルであった。これが殷の時代の「歩」であった。その三百倍(約 75メートル)を「里」とした。春秋・戦国時代を経て、秦・漢の時代に「歩」は約 1.38メートルとなった。「里」は三百歩で「約 414メートル」であった。 漢の時代に、国土(天下)は「方一万里」、すなわち、一辺が約 4,140キロメートルの正方形であると考えられた。 ところが、魏の時代に「里」は殷の時代の「短里」(約 75メートル)に戻ったとする仮説がある。その根拠は、『三國志』の「魏書・明帝紀」の「景初元年」の「注」に「今魏用殷禮」と出てくるからである。 しかし、『魏志倭人傳』にそれが用いられているとは限らない。それは、『魏志倭人傳』の二千六文字のうち約千四百文字(約 70パーセント)が、距離を含めて後漢の「長里」の時代の記録と見られるからである。 『魏志倭人傳』に魏の「帶方郡」から韓国東南端の「狗邪韓國」まで「七千餘里」と書かれている。この七千餘里は「一寸千里法」という「短里」の距離の測定方法によって求められた「直線距離」という仮説が存在する。 その仮説は事実だったのであろうか?
「一寸千里法」とは、「夏至」の「南中時」に「八尺」の棒を立てると、その陰の長さは「南北」に「千里」(75キロメートル)離れるごとに「一寸」だけ変わる。という測定方法である。千里を単位として測定するには十分な正確さをもっていた。
しかし、平壌の真南は海上である。適当な島を見つけても、それは釜山の真西にはないので、それだけ測定誤差を生じる。また、韓国南部も、夏至の南中時は梅雨の期間中である。晴れる日はほとんどない。測定日をずらすと、さらに補正の誤差が加わる。 それだけではない。一寸千里法には「東西方向」の距離を知るすべがなかった。直角三角形も二辺の寸法が分からなければ、斜辺の寸法は分からない。 それゆえに、『魏志倭人傳』の帶方郡から狗邪韓國までの「七千餘里」も実測された距離ではなかったと見られる。 中国では、距離がいったん報告されると、訂正されることはなかった。その理由は、先の報告者と争わなければならなかったからである。また、先の報告を信じた皇帝の体面を汚すこともなかったからである。 前記したように、天下は「方一万里」であった。この「一万里」は「実測」された距離ではない。「理念」の距離であった。 『魏志倭人傳』に出てくる帶方郡から狗邪韓國までの距離「七千餘里」も、邪馬臺國までの「萬二千餘里」も、肌感覚で分かる程度の比例関係はあるものの、宮廷に残っていた後漢の時代の、かつ「理念」の距離であった可能性が高い。 【21】 後漢は樂浪郡から邪馬臺國までの距離「萬二千餘里」をいつ知ったか 漢の時代には、前記したように「歩」は約 1.38メートルであった。「里」は三百歩で「約 414メートル」であった。漢の時代に、国土(天下)は「方一万里」、すなわち、一辺が約 4,140キロメートルの正方形であると考えられていた。その「一万里」は「実測」された距離ではなく「理念」の距離であった。また、春秋時代から「露布の習わし」もあった。これは北へ百里行って敵を百人殺した場合に北へ千里行って敵を千人殺したと報告しても、褒められこそすれ咎められることはないという習わしであった。近隣の属國よりも一万里を超える遠国からの朝貢は、皇帝の徳の高さを物語った。 一方、方角については正確であったと見られている。人に何かを教えることを「指南する」と言った。歴代皇帝は南を向いて座った。「方一万里」の国土は、理念の上でも東西南北を向いていた。 西暦 57年に「委奴國王」は、後漢の初代・光武帝(在位 25-57)に朝貢して「漢委奴國王印」をもらった。しかし、金印をその場で拵(こしら)えることはできない。遅くとも 60年までに後漢使が皇帝の「詔書」と「金印紫綬」を届けに委奴國に来た。それは特使として属国監察を兼ねていた。この「来た」ことを証明する文献はない。しかし、それは、後漢が「帝国」であったからである。 後漢の使者は、樂浪郡から狗邪韓國を経て末盧國に至るまでの「一万餘里」を宮廷に報告したと見られる。報告しなければ、宮廷から「何をしに行ったのか」と問われるだけであろうから。末盧國から委奴國までの距離も報告されたであろう。 樂浪郡から朝鮮半島の西岸と南岸を伝って狗邪韓國に至り、そこから末盧國に至るまでの本当の航行距離は、漢の時代の長里(約 414メートル)では、百里を単位として「三千五百餘里」であった。 前記したように、漢の国土は「方一万里」であった。同様に、樂浪郡から末盧國までのこの「一万餘里」も、「理念」の距離であったと見られる。 『翰苑』(太宰府天満宮所蔵・国宝)の「周旋可五千餘里」もそのころの「理念」の数値と見られる。對馬國の「方可四百餘里」、一支國の「方可三百里」なども、そのころの理念の数値と見られる。 後漢使は、「光武帝陛下に朝貢した委奴國に行きました。詔書と金印紫綬を届けました。そこは樂浪郡からさらに一万里を超える遠方にありました」と報告したであろう。たとえ「理念」の数値であっても、朝貢する国が遠国であればあるほど皇帝の徳は高いと考えられていた。その報告は正式な記録となって後世の宮廷に残ったと見られる。
海路は「千里」を「単位」として書かれた。「一里」が単位ではなかった。それゆえに、五百里も千四百里も、すべて「千餘里」とされた。
狗耶韓國(くやかんこく)から対馬國の北端は見えていたので、その方角はことさら書かれなかった。對馬は北端が渡来者の「入境地」とされた。それは国防上の理由からであった。狗耶韓國から對島北端までの航行は、海流を読み、日を選んで行われたと見られる。仮に對馬國の中央部に入境させて一支國へ向けて出航させていたら、一支國の方角は「南」ではなく「東南」と書かれていたであろう。對馬國から「南」と書かれたのは、その北端から一支國が見えなかったからである。海上をひたすら「南」へ航行すると、一支國が視界に入って来た。これが、對馬國から一支國までだけが「南」と書かれた理由と見られる。一支國から末盧國までは方角が書かれていない。これも、一支國から末盧國が見えていたからである。 以上述べた通り、後漢は、樂浪郡から末盧國までの距離が「一万里」であるとして、『魏志倭人傳』(285年)が書かれるより二百年以上も前(遅くとも西暦 60年)から知っていた。中国は、国土(天下)が方一万里であるのに対して、多くの朝貢国は近隣諸国であって一万里の距離はない。委奴國が一万里以上離れているとは、単に「遠国」という意味しかない。 鉄器の輸入によって兵力をつけていた伊都國王は、西暦 100年ごろ對馬國、一支國、奴國、不彌國を支配し、それらの国々に「ひなもり(卑奴母離)」という武官(「さきもり」のようなもの)を派遣していた。日本最初の連合王国であった。後漢の永初元年(西暦 107年)に伊都國王・帥升は「倭國王」として、對馬國王、一支國王、奴國王、不彌國王を引き連れて第六代皇帝・安帝(在位 106-125)に朝貢したと見られる(後漢書)。翌 108年以降、後漢(樂浪郡)から伊都國に属国監察に来るようになった。伊都國には、樂浪郡と往来する後漢使のための「迎賓館」があった。これが後世の『魏志倭人傳』(285年)に見える「郡使往來常所駐」であろう。 末盧國の入境地は唐津湾北部にあったと見られる。そこには古代から来航者の検問所があったと伝えられる。東松浦半島北端の呼子(よぶこ)は、一支國からは近いが、接岸地ではなかったであろう。呼子は伊都國から出国審査・入国審査・手荷物検査に行くには遠すぎであった。また、呼子は伊都國から見えないので、来航者の常時監視ができなかった。
陸路は「百里」を単位として書かれた。伊都國は「都市国家」ではなく、広大な「領域国家」であった。方角は「行政府」の方角ではなく「入境地の方角」が書かれた。唐津湾北部に接岸した使節は「東南」の方角に見える伊都國の「入境地」の方角へ歩いた。入境地からは伊都國内であった。使節はそこで伊都國の衛兵に迎えられたであろう。現在も唐津市と糸島市は唐津湾にある境界で接している。そこからは後漢使も魏使も通る道であった。飛鳥時代の古道となった。秀吉の戦国武将約二十五万人が名護屋城へ向かう道となった。また、唐津藩の参勤交代の道となった。
奴國と不彌國は、伊都國王の支配下にあった。奴國王・不彌國王が伊都國の「迎賓館」にいる後漢使に謁見して対話の中で方角と距離を報告しただけで、後漢使は不彌國まで行かなかった可能性がある。 西暦 182年ごろ「倭國」は「大亂」を経て首都国が伊都國から邪馬臺國に変わった。卑彌呼は後漢の樂浪郡に朝貢した。倭國を代表して交易をするためであった。
西暦 184年すぎ、後漢の樂浪郡から使者が「中平」の年号をもつ第十二代靈帝の太刀(金錯銘花形飾環頭大刀・東京国立博物館所蔵・国宝)を届けるために邪馬臺國に来た。そのとき、後漢使は樂浪郡から末盧國までが「一万餘里」であることを踏まえた上で、樂浪郡から邪馬臺國までを「萬二千餘里」と報告した。その「萬二千餘里」も、肌感覚で分かる程度の比例関係はあるものの、後漢の時代の「理念」の距離であったと見られる。
以上述べた通り、後漢は、樂浪郡から邪馬臺國までの距離が「萬二千餘里」であることを、『魏志倭人傳』(285年)が書かれるより百年も前(西暦 184年すぎ)から知っていた。それらの記録は『魏略』(265年ごろ)にも『魏志倭人傳』(285年)にも採用された。 後漢の晩期(第十一代桓帝・第十二代靈帝のころ)に、樂浪郡は、公孫氏(こうそんし)という軍閥(群雄)が支配するようになった。西暦 204年には、公孫康が樂浪郡の南部を「帶方郡(たいほうぐん)」とした。公孫康は後漢から「左将軍」の官位を授けられた(『三國志』巻八「公孫康」)。帶方郡は、まだ後漢の郡であったた。卑彌呼は公孫氏に朝貢し、帶方郡と交易した(是後倭韓遂屬帶方 『魏志韓傳』285年)。
西暦 220年に後漢が滅亡して魏(220-265)が興った。魏の都・洛陽から、卑彌呼より先(429年)に「親魏大月氏王」の金印をもらったインドのクシャーナ朝までの距離は「一萬六千三百七十里」として知られていた。
「大月氏首都在藍氏城。西邊與安息國接壤 有四十九日的行程 東邊距離西域長史府 有六千五百三十七里 距離洛陽 有一萬六千三百七十里。有戸口數十萬戸 人口數四十萬 能當兵的有十餘萬人」(『後漢書』西域傳) 洛陽から帶方郡までの距離は「五千里」として知られていた。 「樂浪郡武帝置。洛陽東北五千里。十八城 戸六萬一千四百九十二 口二十五萬七千五十」(『後漢書』郡國誌) これらは漢の時代の長里(約 414メートル)で記録されている。 漢の時代(184年すぎ)に樂浪郡から邪馬臺國までの距離は「萬二千餘里」として報告されていた。『魏志倭人傳』が書かれるより百年前であった。本当は四千餘里しかなかったが、「萬二千餘里」というこの「理念」の距離は皇帝にも認められた「正式」な距離であった。 魏の宮廷(洛陽)で、邪馬臺國までの距離が、そのような「理念」の距離であれ、奇(く)しくも「一万七千餘里」であることに特別な関心をもっていたのは将軍・司馬懿(しばい 179-251 仲達)であった。 【22】 卑彌呼はどのようにして「親魏倭王」の金印紫綬をもらったか 西暦 220年、後漢が滅亡して、中国は魏・呉・蜀の「三すくみ」の状態となった。魏の将軍・司馬懿(しばい 179-251)は、呉に対する国土防衛の任に当たった。また、将軍・曹真(そうしん 生年不詳-231)は、蜀に対する国土防衛の任に当たった。司馬懿と曹真は互いに宮廷クーデターを狙う政敵であった。第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)の時代であった。蜀には軍師・諸葛孔明(諸葛亮 181-234)がいた。西域の多くの異民族を味方につけていた。魏は蜀からの攻撃に実に手を焼いた。西暦 229年、将軍・曹真は、蜀の西の遠方にある大国・インド・クシャーナ朝(大月氏國)に朝貢させることに成功した。大月氏国は兵力十餘萬人の大国である(後漢誌・西域傳)。クシャーナ朝に「親魏大月氏國王」の金印紫綬が授与された。これによって西域の異民族による攻撃は沈静化した。一方、将軍・司馬懿は、曹真のこの功績をどうしても超えることができなかった
当時、魏の朝鮮半島の帶方郡は、地方軍閥・公孫氏の支配下にあった。
西暦 236年に公孫氏は魏の皇帝・曹叡から朝貢するように求められた。公孫氏は、それに反旗を翻し、自ら燕國(えんこく)王と称した。翌年には年号を「紹漢」と改めた。すると、魏がこの燕國を討伐する動きとなった。魏の将軍は、司馬懿(しば い 179-251)であった。この情報は直ちに卑彌呼に伝わったと見られる。倭國は、今は魏の敵国となった公孫氏の交易国であった。公孫氏に朝貢していた。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として攻め込まれると、ひとたまりもない。 238年に卑彌呼は直ちに特使・難升米(なしめ)を送った。それは「これまでの公孫氏を裏切って、魏の皇帝に直接朝貢せよ」という、卑彌呼にとって一か八かの「大勝負」であった。この「大勝負」を魏の将軍・司馬懿が知って、高く評価する結果となる。 将軍・司馬懿は、帶方郡を完全に討伐した。官僚と兵をひとり残らず捜索して十五歳以上の男子をすべて惨殺した。「京観(けいかん)」といって広場に首を高く積み上げて記念碑にした。 卑彌呼の特使・難升米は、魏の第二代皇帝・曹叡に朝貢した。皇帝は倭國からの朝貢に喜び、将軍・司馬懿の後押しで卑彌呼に「親魏倭王」の金印紫綬が贈られることになった。それは将軍・司馬懿の生涯の「てがら」でもあった。 【23】 魏にとって卑彌呼の倭國とは何であったか 魏使・梯儁(ていしゅん)は、魏の第二代皇帝・曹叡(そうえい)の詔書と「親魏倭王」の金印紫綬を山門國・女王山の卑彌呼に届けた。魏使のこの報告書は魚豢(ぎょかん 生没年不詳)の『魏略』(265年ごろ)に転載された。『魏略』は『翰苑(かんえん)』に転載された。『魏略』も『翰苑』も散逸したが、『翰苑』の「倭國」の条を遣唐使が日本に持ち帰った(太宰府天満宮所蔵・国宝)。
倭國の首都国・山門國(福岡県みやま市・柳川市)も環濠集落群のひとつであった。人口は多くて数百戸かそれくらいだったであろう。卑彌呼の居所は、「女王山」(現在の標高 196メートル)の上にあった。宮室と、見晴らし台と、城柵が設けられていた(居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞 『魏志倭人傳』)。この記述から、そこはいつも衛兵がいるだけの質素な祈祷所であったようである。それが司馬氏の意に反して、卑弥呼の居所の飾りのない形容として『魏使倭人傳』の中に残ってしまったと見られる。見晴らし台からは遠く已百支(しをき)國(小城郡)、吉野ヶ里(当時の国名は不明)などが見渡せた。
西暦 108年過ぎに後漢使によって報告されていた、帶方郡から末盧國までの距離は「一万餘里」であった。184年過ぎに後漢使によって報告されていた帶方郡から山門國までの距離は「一万二千餘里」であった。それらは、いずれも後漢の時代の「理念」の距離であったが、後漢の歴代皇帝が信じた「正式」な距離であった。それらの距離も山門國・女王山までの飾りのない距離として『魏志倭人傳』の中に残ってしまったと見られる。 一方、司馬氏は、皇帝に「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」などと報告した。また、古代中国の黄河を通って都に近づくイメージとして「水行二十日」「水行十日陸行一月」などを報告した。歴代皇帝はそれらを信じた。それゆえに、司馬氏の報告書は「正式」な報告書となって宮廷に残った。それらの記述は、前記『翰苑』の「倭國」の条には見られない。それらの報告をしたのは、倭國使・難升米(なしめ)を朝貢させた将軍・司馬懿(しばい 179-251)ではなく、世評(『三国志演義』など)に残るその性格(野心・温厚・策略・謙虚)から、司馬懿の次男・将軍・司馬昭(211-265)ではないかとも見られるが、よくは分からない。 弥生時代に九州地方の人口は約 105,100人であった(国立民博・小山修三 1979年)。それゆえに、「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」の都市などはどこにも存在し得なかった。この小山教授の人口推定値は、その後もさしたる反証がない。また、今のところこの人口推定値は、科学的にくつがえされる見通しもないので、現在も有効である。
漢や魏などの帝国には、殉葬の風習があった。日本に殉葬の風習はなかった。九州の王墓からも殉葬者の遺骨は出ていない。中国揚子江流域の江南地方にも殉葬の風習はなかった。『日本書紀』の垂仁天皇紀に殉葬について言及があるが、それは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれたころの「後づけ」である。日本に、殉葬が行われた考古学的な痕跡はない。
それゆえに、倭國に来た魏使は司馬氏の「正式」な報告書の「二万餘戸」「五万餘戸」「七萬餘戸」「婢(侍女)千人」「狥葬者奴碑百餘人」などを見ていない。魏使は、「水行二十日」「水行十日陸行一月」などのことも知らなかったであろう。 司馬懿は、遠方の大国「倭國」に朝貢させた「てがら」が高く評価されて領土を与えられた(晉書)。歴代皇帝は司馬氏と背後の大国・倭國に怯(おび)えたと見られる。第五代皇帝・曹奐(そうかん 在位 260-266)のとき司馬氏のクーデターは成功し、西暦 265年に司馬昭の長男・司馬炎(しば えん)は、帝位に就いた。国号を「西晉」と改めて初代皇帝・武帝(在位 265-290)となった。司馬炎が『三國志』の最終勝者であろう。卑弥呼の倭國は、司馬氏によって魏・呉・蜀の三國の戦いの中で、遠方の大国として脚色され、魏のクーデターに利用されて終わった。 【24】 『魏志倭人傳』は幾つの史資料をもとに書かれたか 西暦 285年、陳壽は魚豢(ぎょかん 生没年不詳)の『魏略』三十八巻などを参照して『魏志倭人傳』を書いた。『魏略』は、唐の時代に戦乱で散逸することになるが、陳壽の時代にはまだ原型をとどめていたと見られる。『魏略』は、現在は他の文献に逸文として引用される形で全体の 5パーセントくらいしか残っていない。陳壽は『魏志倭人傳』を『三國志』の中の『魏書』第三十巻『烏丸鮮卑東夷傳(うがんせんびとういでん)』の「東夷傳」の中に「倭人」の条として収めた。「卑彌呼」の名前は、『魏志倭人傳』の中に五回出て来る。「邪馬臺國」の国名は、『魏志倭人傳』の中に一回出て来るだけである。『魏志倭人傳』がなければ、我われが「邪馬臺國」のことを知ることはなかった。 現存する『魏志倭人傳』(285年)は、以下の失われた記録の「逸文」(引用されて断片的に伝わる文章)である。 陳壽(233-297)は魏と司馬氏の敵国・蜀の官僚であったが、殺されないで司馬炎の西晉に史官として採用された。春秋の筆法で下記の1(制と詔)と5(魏書)、6(魏略)、7(司馬氏の報告書)を引用して私書として『三國志』を書いた。特に6(魏略)には倭國のことが多く書かれていたと見られる。
【25】 卑彌呼の祈祷所はどこにあったか
『魏志倭人傳』には、邪馬臺國は奴國のすぐ「東」の「不彌(ふみ)國」の「南」の「投馬(とぅま)國」のさらに「南」にあると書かれている。そこで、邪馬臺國が畿内にあったことの裏付けとするために、この南を何としても「東」と読み替える努力が行われてきた。しかし、第十二代靈帝の「中平」の年号入り鉄刀を卑彌呼に届けた後漢の使者や、「親魏倭王」の金印紫綬を卑彌呼に届けた魏の武官が、太陽や月、星座を見て、方角を間違えることはない(松本清張)。我われが方角を間違えることもないであろう。
「不彌國」とは、福岡県粕屋郡にあった「海の国」と見られる。不彌國には「ひなもり(卑奴母離)」という海防担当官がいた。女王の倭國は、北岸の伊都國に大率を置き、對馬國、一支國、奴國、不彌國などの臨海国に副官として「ひなもり(卑奴母離)」という武官を置いていた(魏志倭人傳)。これによって、女王國は、朝鮮半島からの脅威に備えていたと見られる。不彌國はその南端に行政府があり、現在の宇美町になったようである。
西暦 108年すぎに後漢の使者は帶方郡から末盧國までの行程距離を「一万餘里」と報告した。184年すぎに後漢の使者は帶方郡から邪馬臺國までの行程距離を「一万二千餘里」と報告した。いずれも皇帝によって承認された「理念」の距離であった。末盧國から伊都國までの距離を五百里とすると、伊都國から邪馬臺國までの行程距離は肌感覚で千五百里であったと見られる。これは福岡県内に収まる距離である。
現実に、卑彌呼の三十余国からなる「倭國」はこの福岡県に収まる程度の規模であったので、牛馬もいない時代に、伊都國の大率は各国が惧(おそ)れはばかるほど(魏志倭人傳)、行政監察のために歩いて回ることができたのだと見られる。
御笠川と宝満川は、現在は取水などによって水量が大幅に減っているが、近世まで、途中に幾つもの川湊(かわみなと)があって、大きな帆船が物資を運んでいた。それは、筑前の生活と筑後の生活を結ぶ動脈であったた。その帆船の絵などが今も近くの民家などに残っている。卑彌呼の時代に、大宰府付近も過去千八百年間の土砂の堆積がなかったわけであり、標高は低く、御笠川と宝満川は上流を取り合ってつながっていたと見られる。この二つの川は、現在も上流は支流どうしでつながっている。後漢使あるいは魏使が、川舟で航行したか、それとも、川伝いに歩いたかは分からない。不彌國からその南の投馬國まで数日以下の旅程であったと見られる。
「投馬(とぅま)國」とは、現在の久留米市を含む広大な「妻(とぅま)國」であったと推定される。古墳時代の「八女縣(やめのあがた)」である。投馬國は内陸国であったので「ひなもり(卑奴母離)」がいない(魏志倭人傳)。八女縣は飛鳥時代に南端が妻郡となる。
『日本書紀』の「景行天皇紀」で古墳時代の八女縣(久留米市)の藤山から南に見える「八女津媛(やめつひめ)」(いつの世にもおられる多世代の女神)の「美しい山」は、これを衛星写真で見ると山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草)である。この「女王山」に卑彌呼の祈祷所もあったと見られる。投馬國からこの女王山は南のほうに見えていたわけであり、そこから数日未満の旅程であった。
西暦 366年に北岸の伊都國王は、引嶋(下関市彦島)で第十四代仲哀天皇・神功皇后を迎え、自らの三種の神器(八尺瓊・白銅鏡・十握劒)を献上して帰順した(日本書紀)。伊都國王とは女王の「大率」にほかならない。このとき大和王権は女王山で女王が統治する「倭國」の全貌を知ったと見られる。翌 367年、八女津媛が大和王権の神功皇后とその水軍によって「土蜘蛛・田油津媛(たぶらつひめ)」の蔑称で誅殺される(日本書紀)。これが、邪馬臺國の滅亡であった。地域では、大和王権に遠慮して「女王山」は「女山(ぞやま)」と呼ばれるようになった。現在も「女山」と呼ばれている。
邪馬臺國の滅亡から三世紀を経て、西暦 663年に「白村江の戦」で敗れた大和朝廷は、唐・新羅の侵攻を恐れて、この女山に筑後平野・有明海を見晴らす山城を造った。現在、女山神籠石(ぞやまこうごいし)として残っているものは、その山城の時代の石垣ではないかと見られている。 【26】 「會稽東治之東」とはどこか
『魏志倭人傳』の中で、魏使は古代の「夏」王朝の飛び地「會稽東治」の地(蘇州市)が南のほうに位置していたという故事に言及する。すなわち、「其道里當在會稽東治之東」として、女王國の地理的位置が敵国・呉のちょうど東にある(それゆえに、魏の友好国として重要である)と述べている。
これは「戦略上のたとえ」として述べているもので、女王國の地理的位置を特定するための記述ではない。無理に特定しようとしても、『魏志倭人傳』は「八方位」を使って書かれているので、図のように「東」とは「東北東」から「東南東」までの範囲の方角を指し、「會稽東治之東」とは少なくとも西日本全体を表す。 【27】 「放射説」は採用できないのか 陳壽の『魏志倭人傳』(285年)に、末盧國から伊都國に行くには「東南陸行五百里到伊都國」、奴國に行くには「東南至奴國百里」、不彌國に行くには「東行至不彌國百里」、投馬國に行くには「南至投馬國水行二十日」、女王の都とする邪馬臺國に行くには「南至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月」と、この順序で書かれている。これを「末盧國」「伊都國」「奴國」「不彌國」「投馬國」「邪馬臺國」がこの順序で並んでいたと見て「連続説」と呼ぶ。
一方、東洋史学者・榎一雄(1913-1989)は、昭和二十三年(1948年)に「放射説」といって、上記を「伊都國から東南に百里で奴國に至る」「伊都國から東に百里で不彌國に至る」「伊都國から南に水行二十日で投馬國に至る」「伊都國から南に水行十日または陸行一月で邪馬臺國に至る」と読んで見せた。
榎一雄はこの「放射説」について、『魏志倭人傳』に伊都國は「郡使往來常所駐」と書かれており、中国からの使者の迎賓館が置かれているなど、特別な国であったこと、不彌國から邪馬臺國まで水行二十日と水行十日陸行一月もかかり、普通に読めば邪馬臺國が九州よりもはるか南の太平洋上まで行ってしまうことから、何とか邪馬臺國を九州北部の有明海沿岸にもって来るために思いついたと見られる。この「放射説」によれば、邪馬臺國は、その経路が水行であれ陸行であれ、伊都國の「南」にあることになりる。本当であろうか?
伊都國の「南」にあるのは有明海である。そこに邪馬臺國はあり得ない。
武官が太陽や星座を見て方角を間違えることはない(松本清張)。我われが間違えることもないであろう。 『魏志倭人傳』には八方位しかなく、「南」や「東南」といった表記は出て来るが、十六方位の「南南東」や「南南西」といった細かい表記は出て来ない。それゆえに、「南南東」から「南南西」までの範囲に入っていれば「およそ南」と見なしてよいのではないかという意見もあり得る。しかし、山門國(みやま市・柳川市)も「およそ南」(南南東~南南西)の範囲にさえもなく、「東南」にある。榎一雄は、正しい地理や方角が頭に入っていなかったようである。 なお、対馬國から一支國へ移動するのに、海上で船は南へ向けて大きく回ることができたであろう。しかし、末盧國から「東」の方角の伊都國政庁へ陸行するには、「東南」に歩く「道」しかなかったので「東南陸行五百里到伊都國」と書いたのであろう。唐津湾があるからである。伊都國は領域国家であったので、唐津湾を過ぎるとすぐ伊都國の入境地点であった。 以上述べた通り、「放射説」は誤った読み方である。 【28】 卑彌呼の墓はどこにあるのか 女王國・倭國は、九州北岸に連なる三十余国(飛鳥時代の約三十郡)からなる。現代の福岡県またはそれよりやや小さい国であった。西暦 240年に金印紫綬を卑彌呼に届けに来た魏使は、その小規模な「大国」に当惑したであろう。また、その小規模な「大宮殿」に当惑したであろう。卑彌呼の墓は、仮に現存するとしても、その規模は「推して知るべし」であろう。『魏志倭人傳』によれば、卑彌呼の墓は「さしわたし(径)」が「百余歩」であったとある(卑彌呼以死大作冢徑百餘歩)。果たして、卑彌呼の墓はどこにあるのであろうか? 魏使が「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもって卑彌呼を訪ねたとき(248年)、卑彌呼はすでに死去していた。その「徑百餘歩」の墓はすでにできていた。 福岡県みやま市瀬高町坂田(さかた)に「権現塚(ごんげんづか)」がある(写真)。この権現塚は、福岡県山門郡瀬高町生まれの元西鉄職員・銀行員の村山健治(1915-1988)という郷土史研究家が、生前に卑彌呼の墓であると感じて調査していた墓である。
「古墳」と「墳丘墓」は異なる。「古墳」は統一された形状・工法で、わが国で「古墳時代」になって独自に発展する。卑彌呼の時代は弥生時代の「墳丘墓」の時代であったと見られる。
「権現塚」は「女王山」(標高 159メートル)の麓(ふもと)から西に歩いて 15分くらいのところにある。直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルである。周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝(の跡)が囲む。 中国で「里」とは、どの時代においても「三百歩」であった。衛星写真で東松浦半島から糸島市までの距離を「五百里」(魏志倭人傳)とすると、この権現塚の直径は「百余歩」である。 『魏志倭人傳』を見ると、卑彌呼の墓は短期間でできている(何年もかけていない)。周溝墓は、溝から掘り出した土を周溝の内側に盛るだけである。したがって、通常は高さが低い。大きな周溝墓も比較的に少ない日数で築造される。『魏志倭人傳』には卑彌呼の墓の「さしわたし(径)」のことは書かれているが、高さのことが書かれていない。そのことから、卑彌呼の墓は「周溝墓」であったと見られている。また、棺はあって、石室のような槨(かく)はなかった(魏志倭人傳)。 円形周溝墓は「ひとり」を埋葬することが多く、そこに葬られた人は、特別な限られた人であったと見られる。 吉野ヶ里に目を転じると、そこは、女王の倭國に属する国であった。そこに巨大な「北墳丘墓」があることは山門國にも知られていた。女王山の見晴らし台からも見た。 「権現塚」は、円形周溝墓の上に、吉野ヶ里の墳丘墓を凌ぐ規模の墳丘を「乗せた」可能性が高い。弥生時代晩期の「版築」という中国から伝わった工法が用いられていて大規模な木枠で成型して突き固めたと見られる。風雨に強く、表面は洗い流されているが、形状は長く保たれている。「権現塚」は、周囲の溝を含めると、直径は 70メートルに近い。国内にこれほど大規模な弥生時代の「墳丘墓」は他に存在しない。 権現塚は、南に接して、祭儀が行われた広い敷地の址がある。現在は農地となっている。その敷地からは、「朱」を塗った籩豆(へんとう 高坏)など、祭儀に用いられたと見られる四、五十センチメートルの大型の土器が出土している。このことから、それに相応しい高貴な人物が埋葬されていると見られる。あるいは、その籩豆は、卑彌呼が食事に用いていた(魏志倭人傳)ものかもしれない。円形墳丘墓とそれに接する方形の祭儀場址が後世(古墳時代)の前方後円墳となるわけであるから、この権現塚はその原型の可能性がある。
さらに、権現塚は、太陽神を祀る東の聖地として伝承される日向神(ひゅうがみ)峡谷と、女王山の「聖域」(祈祷所)と、正確に東西に一直線に並んでいる。したがって、春分の日と秋分の日に、女王山の「聖域」を通って太陽が昇るのが見える地点に築造されている。やはり「太陽神の巫女(みこ)」を祀(まつ)るための墓のようである。
この権現塚のすぐ北からは、甕棺などが数多く出土しているが、殉葬者の棺ではない。『魏志倭人傳』には「狥葬者奴碑百餘人」と書かれているが、それは司馬氏が皇帝に報告して皇帝に認められた「正式」な報告書に書かれて宮廷に残っていたもので、日本に殉葬の風習はない。日本に「二種の神器」(銅剣・銅鏡)を伝えた中国の江南地方にも殉葬の風習はなかった。 昭和五十六年(1981年)に福岡県みやま市教育委員会は、この権現塚を「権現塚古墳」と命名し、市の「史跡」に指定した。また、古墳時代中期(五世紀)に築造された「古墳」であろうと推定した。発掘調査や、炭素 14による年代測定などが行われたわけではない。「古墳時代中期(五世紀)の古墳」とは、国内で古墳が最も多く築造された典型的な古墳のことである。史跡としての「指定」のためには、ただの小山ではないという「何らか」の理由が必要だったようである。「史跡」に「指定」されたおかげで、以来、権現塚は農地造成などによる損戒を免れている。 しかし、この権現塚は後世(古墳時代)の「古墳」(円形古墳)とは一見して異なっている。直径が 45メートルもあるのに、高さ 5.7メートルは「円墳」として低すぎである。「権現塚」には、先ず周溝を掘って内側に土を盛ったと見られる、高さ約 1.5メートルの「円形周溝墓」の跡が残っている。やはり「弥生時代晩期」(西暦 250年頃)の希少な「円形周溝墓」である。かつ、日本最大の「墳丘墓」である。 これらことから、この権現塚は『魏志倭人傳』の卑彌呼の墓である可能性が非常に高い。 第三章 【29】 卑彌呼の時代の天皇は誰か 『古事記』に第十代崇神天皇の崩御は「戊寅(つちのえとら)」の年であったとして、天皇の崩御年について初めて干支年で書かれている。住吉大社の『神代記』にも同じ記載がある。崇神天皇は、大和王権の基礎となる祖霊神信仰を確立し、葦原中國の支配領域を本州全域にまで拡大した大王であるから、その崩御年は長く語り継がれたであろう。明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ 1850-1908)は、これを「258年」と推定した。2020年にケンブリッジ大学が発表した炭素 14年代測定更正曲線「Intcal20」を参照すると、纏向遺跡は「220-260年」「290-340年」のものと見られる。『記紀』に、纏向は第十代崇神天皇から第十二代景行天皇までの三代の天皇によって造営されたと書かれる。那珂通世は纏向遺跡の存在を知らなかったが、『記紀』の内容と纏向遺跡の発掘内容に照らして那珂通世の推定には整合性が感じられる。一方、この「戊寅」は 60年後の「318年」であったとする見方もある。ただ、問題もある。『日本書紀』の「垂仁天皇紀」によれば、第十代崇神天皇の崩御の年に、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と称する都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、穴門國(あなと 山口県下関市)に上陸しようとした。そこで「伊都都比古」(いとつひこ)なる人物によって検問を受けた。伊都都比古は伊都國王・大率と見られる。それが仮に「258年」であったとすれば、女王國・倭國は、臺與の時代である。しかし、それが仮に「318年」であったとすれば、女王國・倭國はすでに衰退していた。伊都國王は、「318年」には穴門國で渡来者を検問するだけの力をもっていない。したがって、第十代崇神天皇の崩御年を「318年」とすることは困難である。 【30】 卑彌呼の時代に葦原中國の版図はどこまで広がったか 中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らしている。その規模は、時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢」の時代に移り住んだのではないかという点ではおよそ一致している。西暦 316年に西晉が匈奴の侵攻によって滅亡した。日本の古墳時代初期である。中国大陸は北方民族が支配する「五胡十六国」の時代となる。そのころ、相当数のユダヤ人が難民として渡来したのではないか。その子孫は朝廷によって史(ふひと 読み書きができる官吏)として重用されたようである。しかし、その後ユダヤ人の血統は消滅した。日本にユダヤ人の DNAはない。秦氏もユダヤ人ではない。
『旧約聖書』によれば、カナン(葦原)の地のユダヤ人十二支族は、ダビデ王(BC1040-BC961)のときに「イスラエル王国」として統一された。一方、『日本書紀』によれば、崇神天皇は、四道将軍として大彦命(おほひこのみこと)を北陸道に、武淳川別(たけぬなかはわけ)を東海道に、吉備津彦(きびつひこ)を西道に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)丹波にそれぞれ派遣してそれらの地方を支配下に収めた。『日本書紀』は、崇神天皇が、あたかもダビデ王と互角であると述べているかのようである。『旧約聖書』を反映した「都市伝説」(あたかも本当にあったかのように話される実際はなかった話し)かもしれない。もっとある。
『旧約聖書』の「サムエル記下巻 24:15」によれば、ダビデ王の時代に三年間の飢饉と疫病によって七万人の民が死んだ。一方、『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に疫病が三年間流行り、民の大半が死んだ(國内多疾疫民有死亡者且大半矣)。ダビデ王は天なる神に祈った。崇神天皇は天神地祇に祈った。「サムエル記下巻 8:14」によれば、ダビデ王は「エドムの地」で戦った(He put garrisons throughout Edom)。一方、『日本書紀』によれば、崇神天皇は「挑(いどみ)の河」で戦った(各相挑焉故時人改號其河曰挑河)。「サムエル紀下巻 24:2」によれば、ダビデ王は初めて人口を調査した。『日本書紀』によれば、崇神天皇は初めて人口を調査した(秋九月甲辰朔己丑始校人民)。ダビデ王の子・ソロモン王は天なる神を祀(まつ)るために「イスラエル神殿」を創建した(現在はヘロデ王の時代の「嘆きの壁」が残る)。一方、崇神天皇の子・第十一代垂仁天皇は、天照大神を祀るために「伊勢神宮」を創建した。 『日本書紀』によれば、崇神天皇は、晩年に吉備津彦と武淳河別とを遣わして、出雲振根(いづものふるね)を誅殺させた。これによって山陰道は葦原中國の支配下に入る。しかし、『古事記』によれば、山陰道を平定したのは、第十二代景行天皇の子・日本武尊であった。東海道を平定したのも日本武尊であった。 前記した通り、2020年にケンブリッジ大学から古代の大気中の「C-14」の濃度を反映した、炭素 14年代測定の新しい更正曲線「IntCal20」が発表された。それによると纏向の宮殿群の遺跡は「220-340年」のものと分かった。『古事記』も『日本書紀』も、二十世紀になって九十万坪にも及ぶ纏向の宮殿群の遺跡が発掘されることを知らないで第十代崇神天皇・第十一代垂仁天皇・第十二代景行天皇が纏向に宮殿を造営したと書いたわけで、それが「IntCal20」によれば「220-340年」にあたる。 卑彌呼(169頃-247)の時代の天皇はやはり崇神天皇であったことになりそうであるが、前記した通り『日本書紀』に書かれる崇神天皇の事績が果たして事実であったかどうかは分からない。 【31】 第十代崇神天皇から第十五代應神天皇まではいつの時代の天皇か 考古学的に実在した可能性が高い第二十一代雄略天皇の崩御年は、『古事記』では百二十四歳、『日本書紀』では六十二歳と、ちょうど二分の一である。第二十六代継体天皇は、『古事記』では四十三歳、『日本書紀』では八十二歳で、ほぼ二倍である、この時期あたりが、『日本書紀』が「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」へ移行して編纂されたのではないかと見られる。長浜浩明は『古代日本「謎」の時代を解き明かす』(展転社 2012年)の中で『日本書紀』に依拠して古代の天皇の在位年数を二分の一にした結果、神武天皇は「紀元前 70年」に即位したと推定した。また、牧村健志は『よみがえる神武天皇』(PHP研究所 2016年)の中で『日本書紀』に依拠し、また『古事記』も参照して各天皇の在位年数を二分の一にした結果、神武天皇は「紀元前 37年」に即位したと推定した。いずれも神武天皇が紀元前の天皇である。すると、河内湖であった東大阪市を航行して生駒山麓の白肩之津に接岸できたことになる。しかし、前記したように、西暦 220年以前の奈良盆地に何らかの王権が存在したことを示唆する痕跡はない。白肩之津接岸の物語も単に『日本書紀』の編纂チームが河内湖が存在したことを知っていて創作したものと見られる。 一方、『日本書紀』によれば、神功皇后は、摂政四十六年に朝鮮半島の卓淳國(とうじゅんこく)に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣した。本居宣長(1730-1801)は、この派遣の年は百濟の近肖古王(在位 346-375)の名前から正確に百二十年(干支二巡)繰り上がっていると指摘した。本居宣長によれば、神功皇后の「摂政四十六年」は、本当は「西暦 366年」だったことになる。翌摂政四十七年(西暦 367年)に百濟から使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝した。このとき新羅の調(みつき)の使いも一緒に来た。神功皇后と譽田別尊(第十五代應神天皇)は喜んで「先王が所望したまいし國人、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた。この「西暦 367年」が第十四代仲哀天皇崩御の年であると見られている。摂政四十六年(366年)は、仲哀天皇の在位期間中であるから、卓淳國に使者を派遣したのは神功皇后ではなく、在位中の仲哀天皇であったことになる。「先王が所望したまいし」も、そのことを示唆するようである。一方、『古事記』に神功皇后が摂政を務めたとする記述はない。 聖󠄁德太子(593-622)の史書に『上宮記(かみつみやのふみ)』があったと伝承される。これは『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)より百年ほど古いが、現存しない。鎌倉時代の卜部兼方(うらべのかねかた 生没年不詳)の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』などに逸文(引用文)として残る。『上宮記』では、第十二代景行天皇の名前は出てくるが、第十三代成務天皇、日本武尊、第十四代仲哀天皇、神功皇后の名前は出てこない。日本武尊の物語も神功皇后の物語も当時の「都市伝説」(本当にあったこととして語られる実際にはなかった話し)の可能性がある。 『日本書紀』(720年)の編纂チームは、白村江の戦い(663年)の後日本にもちこまれていた『百濟記』(600年代に成立 現存しない)などを見て、それらとの齟齬が起きないような形で神功皇后の物語を挿入した可能性が高い。 筆者らは、「作業仮説」として、前記の仲哀天皇崩御の年(367年)を起点として『日本書紀』を「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」に変換し、初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年を推定した(前著『邪馬臺國』自由塾 2022年)。 初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年 (『日本書紀』を「春秋二倍暦」の条件のみで西暦に復元 入口紀男・入口善久)
百濟が中国の史書に最初に出て来るのは、東晉の第五代穆帝(ぼくてい)の永和二年(346年)である(資治通鑑)。『百濟本紀』(金富軾『三國史記』巻二十三~二十八 1145年)では、そのころ第十三代近肖古王(在位 346-375)が存在したとされているが、事実は、この近肖古王が実在する初代王であったと見られている。『日本書紀』には、神功皇后の摂政五十五年(西暦 375年)に百濟の肖古王が薨(こう)じたと書かれている。百濟では、近肖古王は西暦 375年に死去している。百濟には『百濟本紀』よりも古く「百濟三書」として『百濟記』『百濟新撰』『百濟本記』があったと見られるが、現存しない。『日本書紀』のみに引用されて「逸文」として残っている。
神功皇后の摂政六十四年(西暦 384年)に、百濟の貴須(くゐす)王が薨じたと書かれている。百濟では、貴須王は西暦 384年に死去している。そのように、神功皇后の摂政の期間は「正歳四節暦(西暦)」で書かれている。これは、『魏志倭人傳』との対応から、干支二巡(120年)繰り上げて摂政三十九年に魏の第二代明帝から印綬を授かったことにする必要があったことと、『百濟記』等に用いられた正歳四節暦との齟齬(そご)が生じないように書かれたためと見られる。神功皇后は摂政六十九年(389年)に崩御した。『日本書紀』の編纂時(720年)には、百濟は白村江の戦(663年)ですでに滅亡していて、百濟の官僚が『百濟記』などをもって亡命して来たと見られる。 神功皇后が仮に 389年まで摂政を 69年間務めたとすると、摂政元年は 320年となる。しかし、神功皇后は、367年に仲哀天皇が崩御したとき誉田別尊(後の應神天皇)の摂政に立ったと見られる。應神天皇即位の 390年の前年まで摂政を務めたが、『日本書紀』にはあたかもそれまで六十九年間摂政を務めたかのように記載されたようである。 應神天皇即位の年は 390年である。『日本書紀』には、應神天皇三年に百濟の阿花王(あかおう 在位 392-405)が即位したと書かれているが、百濟で阿花王は西暦 392年に即位している。應神天皇十六年に阿花王が薨じたと書かれているが、百濟で阿花王は西暦 405年に薨じている。また應神天皇二十五年に百済の直支王(ときおう 在位 405-414)が薨じたとし、ここまでは正確に「正歳四節暦」(西暦)で書かれている。直支王が薨じたのは 420年とする説もある。しかし、應神天皇二十六年から應神天皇四十一年までは「春秋二倍暦」で書かれているようである。應神天皇は「西暦 421年」に五十五歳(『日本書紀』では百十歳)で崩御した。
第十五代應神天皇(推定在位 390-421)は、現在の日本人にとって重要な天皇のひとりである。應神天皇は、第十六代仁徳天皇から男系が途絶えた第二十五代武烈天皇までと、第二十六代継体天皇から現在の今上陛下まで続く共通の男系祖先である。そのために應神天皇は皇祖神として奉られることになった。仏教が伝来すると「八幡大菩薩」と称えられた。そのために應神天皇を初代天皇とする根強い仮説もある。
広開土王碑(414年)は、第十九代好太王(広開土王 374-412)の業績を記録したものである。この碑に、391年に倭國が侵攻してきて「百濟□□□羅」を従えたと書かれている。事実とすれば、應神天皇であった可能性が高い。この年に倭國は朝鮮半島に侵攻して、百濟、加耶、新羅を従えたのではないかと見られる。 同碑には広開土王の在位期間に倭國がしばしば侵攻し、広開土王はこれを撃退したと書かれている。すなわち、396年に広開土王は百濟を平定した。399年に倭國と百濟が新羅を攻撃した。400年に広開土王は新羅から倭國軍を追放した。404年に広開土王は帶方郡に侵攻する倭軍を討った。407年に広開土王は百濟を討った。と書かれている。應神天皇の在位期間(推定 390-421)である。倭國が朝鮮半島に進出していたのは鉄を入手するためであったと見られる。 『古事記』に、應神天皇の時代に百濟の照古王が牡馬一頭と牝馬ー頭を贈ったと書かれている。また、『日本書紀』には、(近肖古王が)神功皇后の摂政五十二年(372年)に「七枝刀(ななつさやのたち)」を献上したと書かれている。 以上申し述べた通り、古代の各天皇が実在したかどうかは、なお分からない。仮に実在したとしても、それぞれの在位期間が『日本書紀』に記載される通りであったかどうかはもっと分からない。しかし、『日本書紀』は各地の豪族の腑にも落ちる「調和的信念」であった。 【32】 臺與のとき女王國・倭國の版図はどこまで広がったか 『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇(「春秋二倍暦」から復元して推定在位 222-255)の晩年、朝鮮半島の意富加羅國(おほからつくに)の王子と称する都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が敦賀(つるが)に上陸した。
第十一代垂仁天皇(同推定在位 255-304)は、都怒我阿羅斯等の話から、そのころ女王國・倭國の伊都國王が穴門國(山口県)を支配していることを知った(『日本書紀』垂仁天皇紀)。そのころ臺與が生きていれば二十三歳である。
女王國の統治組織として、重要であるのは、伊都國に常駐して、女王國以北の国々を回り、検察していた大率という人物である。『魏志倭人傳』には、諸国はこれを畏(おそ)れ憚(はばか)るとしている。すると、大率は、各国の王(官)と副官の上に君臨していたと見てよい。 對馬國・一支國・奴國・不彌國には副官として「ひなもり(卑奴母離)」がいた。彼らは海防担当官として女王國が任命していたものであろう。そして、大率が常駐していた伊都國には卑奴母離が置かれていないことを考えると、卑奴母離は、大率の統率下にあって、朝鮮半島からの脅威に対して備えていたようである。
朝鮮半島を発った都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、初め穴門國(あなと 山口県下関市)に上陸しようとした。そこで「伊都都比古」(いとつひこ)なる人物に出会った。この伊都都比古は伊都國王と見られる。都怒我阿羅斯等は伊都都比古に「この国の王だ」と言われた。不審に思い、そこを離れて日本海の敦賀に至ったという。
しかし、山口県下関市は福岡県糸島市からやや離れていて伊都國の範囲にはない。にもかかわらず、伊都國王はなぜ下関市を押さえていたのか? 女王國で、このような強大な権限をもつ者は、大率以外にいない。大率は、朝鮮半島からの脅威に備えていたわけであるから、朝鮮半島からの渡来者・都怒我阿羅斯等を検問したのは当然である。しかも、『魏志倭人傳』には、大率は伊都國に常駐すると書かれている。すなわち、伊都國王が自らの国の範囲を超えて穴戸國を支配していたのは、伊都國王こそが大率であったからにほかならない。大率とは伊都國王の職名であったからである。 この記述は、大和王権(『日本書紀』の編纂チーム)が九州北部から山口県下関市にかけて女王國・倭國が存在したことを認めた記述としても重要である。 女王國・倭國は、女王・臺與(235-没年不詳)の時代であった。女王國・倭國の支配は、穴門國(山口県)まで及んでいた。しかし、それが女王國・倭國が本州にまで版図を拡げた限界であったようである。 西暦 265年に司馬懿の孫・司馬炎(しば えん)が西晉を建てた(初代皇帝・武帝 在位 265-290)。この情報は女王國・倭國に伝わったと見られる。翌西暦 266年に倭國は西晉に朝貢した(泰始二年十一月己卯倭人來獻方物 『晉書』武帝紀)。臺與は、生きていれば三十一歳である。朝貢したのは臺與であったと見られる。西晉は、その後も臺與の女王國・倭國を優遇したと見られる。 なお、都怒我阿羅斯等は「額に角のある人」と書かれているが、当時珍しい「立物(たてもの)」のある兜(かぶと)を被っていたようである。日本では、平安時代以降に仏具の製造技術によって甲冑が製造されるようになった。兜(かぶと)には額に大きな立物がつくようになった。 第四章 【33】 女王國・倭國はいつどのように衰退したか 『日本書紀』の「神功皇后紀」に「摂政六十六年(西暦 386年)は晉の武帝の泰初二年である。『晉起居注』に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとある」と記している。六十六年是年晉武帝泰初二年晉起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻(『日本書紀』神功皇后紀)。 武帝の泰始二年は西暦 266年である。大和王権(『日本書紀』の編纂チーム)は、ここでも女王國・倭國の臺與の業績を神功皇后のものとして召し上げようとした。 西暦 280年に西晉が中国を再統一すると、武帝は変貌し、酒と女に溺れて朝政を顧みなくなった。この情報も女王國・倭國に伝わったと見られる。臺與が生きていれば四十五歳である。その前後から女王國・倭國は衰退していったのではないか。 女王國の南の狗奴國(くなこく)は、火國(熊本県)の菊池川流域の民族と白川・緑川流域の民族であったと見られる。『魏志倭人傳』に、狗奴國には「其の官」がいるなどと述べられているので、狗奴國はかつて女王國に属していたのかもしれない。女王國は鉄器を輸入して手に入れていたが、狗奴國は製鉄ができる先進国として台頭していた。女王國はそのことを脅威に感じていたのに相違ない。しかし、時代が動いて女王國・倭國を滅ぼすことになるのは狗奴國ではなく、大和王権であった。 西暦 300年近くになると、女王國・倭國の中に大和王権の前方後円墳が幾つか築造される。大和王権の勃興に伴って、幾つかの国々が個々にいち早く同盟関係を結んだようである。 女王國・倭國内及び周辺地域の初期の前方後円墳
このころ、宗像市の沖ノ島で祭祀が行われるようになった。大和王権は、吉備、宇佐、宗像を通して大陸との交易権を確立する。伊都國王・大率にもこれに干渉する力はなかった。
臺與の後も独身の女性の呪術者がこれを継承したと見られる。『日本書紀』「景行天皇紀」に記述されるように「八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)」として神格化され、山門國(福岡県みやま市瀬高町大草)の女王山にいて、人前にはあまり姿を見せなくなっていたようである。そのころの女王國・倭國は、小国が乱立する状態となり、邪馬臺國(山門國)もそのひとつとなった。しかし、女王・八女津媛も伊都國王・大率も存在し続けた。 【34】 『日本書紀』によれば、景行天皇はなぜ女王國・倭國を討伐しなかったか 大和王権は、九州地方には天皇に従わない部族が多くいると感じていた。『日本書紀』によれば、大和王権による九州親征は、二回行われた。第十二代景行天皇による「第一次九州親征」と、第十四代仲哀天皇・神功皇后による「第二次九州親征」である。景行天皇による第一次九州親征は、景行天皇十二年(「二倍暦」から復元して推定西暦 309年)から景行天皇十九年(同推定西暦 313年)まで五年かけて行われた。景行天皇は、九州で各地に行宮(あんぐう)を建てて住み、戦闘を展開して周辺の土蜘蛛(つちぐも 豪族)を討伐したようである。 『肥前國風土記』に、第十代崇神天皇の時代に肥後國益城(ましき)郡朝来名(あさくな)峯に二人の土蜘蛛がいて百八十人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかったとある(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世肥後國益城郡朝来名峯有土蜘蛛打猴頚猴二人帥徒衆一百八十余人拒捍皇命不肯降服)。景行天皇としては少なくともこれに優(まさ)る陣容の軍勢を率いていたと見られる。 前記したように、第十一代垂仁天皇の時代に、下関市が女王國・倭國の大率に支配されていることを、大和王権は知っていた。第十二代景行天皇は第一次九州親征をするにあたって、山口県周防まで行き、下関市を通過しなかった。景行天皇は九州東岸に上陸した。景行天皇は、女王國・倭國とは直接対戦しないで、地域の豪族などを平定しながら、様子を見る方針であったのではなかろうか。 景行天皇は北九州市小倉南区の「朽網(くさみ)」で土蜘蛛を討伐したという伝承がある。また、菟狹(うさ 大分県宇佐市)の土蜘蛛・「鼻垂(はなたり)」を討った。その一方、兵を遣わして高羽(たかは 福岡県田川市)の土蜘蛛・「麻剥(あさはぎ)」を討った。禰疑山(ねぎのやま 大分県竹田市)の土蜘蛛・「八田(やた)」と「打猿(うちさる)」を討伐した。血が流れてくるぶしまで浸かったようである。襲國(そのくに 鹿児島県曽於市)で八十梟帥(やそたける)と呼ばれる「厚鹿文(あつかや)」・「迮鹿文(さかや)」を誅殺した。熊縣(くまのあがた 熊本県球磨郡)で「弟熊(をとくま)」を誅殺した。熊本県の緑川流域で土蜘蛛・「土折猪折(つちおりいおり)」を討った。兵を遣わして、佐賀県武雄市の嬢小山(をみなやま 鬼鼻山)にいた土蜘蛛・「八十女(やそめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。八十とは多いという意味である。八十女は数名の女王層であった。全員で抵抗して壮絶な最期を遂げたようである。平戸島の土蜘蛛・「大身(おほみ)」を討った(肥前國風土記)。玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛・「津頰(つづら)」を討った。天皇は、熊本県の菊池川沿いに夜間に山鹿に至った。熊本県山鹿市には景行天皇を松明(たいまつ)で招いた故事から現在も「山鹿燈篭の祭り」が行われている。御木(みけ 福岡県三池郡)の土蜘蛛・「耳垂(みみたり)」を討った。
西暦 312年(「二倍暦」から復元して推定)に景行天皇が女王國・倭國の八女縣(久留米市)に着き、そこの藤山を越え、そこから南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、「猨大海(さるのおほみ)」(水沼縣主となる 福岡県三潴郡 みづまぐん)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えたようである。
天皇は北上して佐賀県の神埼郡と三根郡に至る(肥前國風土記)。神埼郡には吉野ヶ里があった。神埼郡の宮処(みやこ)郷に仮宮を設営した(肥前國風土記)。養父(やぶ)郡の狭山郷(さやまのさと)を行宮とした(肥前國風土記)。また、御井郡の高羅(かうら)を仮宮とした(肥前國風土記)。その後、筑後國的邑(いくはのむら 福岡県うきは市)に行宮を建てた。一方、神代直(かみしろのあたひ)を肥前國浮穴郷(うきあなのさと)に遣わして土蜘蛛・「浮穴沫媛(うきあなわひめ)」を誅殺した(肥前國風土記)。女王であった。西暦 313年(同推定)に天皇は的邑から纏向に帰還した。
この景行天皇による第一次九州親征で見えてくるものがある。それは、女王國・倭國に入ってから「征伐の旅」ではなく「巡幸の旅」となったことである。特に山門國を素通りしている。
西暦 247年の卑彌呼の死から半世紀以上経って女王國・倭國(筑前・筑後の三十余か国連合)は崩壊しつつあった。それでも連合国としては、どの加盟国も土蜘蛛のように景行天皇軍に単独で対戦することはなかった。 いつも山の中にいる「八女津媛(やめつひめ)」という女神が出てくるが、猨大海(さるのおほみ)は「八」とはいつの世にもいる多世代の女神の意味として答えている。その後の八女縣、八女市や八女郡の語源となっている。景行天皇が藤山(福岡県久留米市藤山町)から南に見た「美しい山」は、衛星写真で見ると、どうも山門國の「女王山」(福岡県みやま市瀬高町大草 標高 196メートル)のようである。猨大海は、景行天皇の「神がいるのか」との問いに対して、緊迫した状況の中で、シャーマンとして神格化された連合国・倭國の女王がいるとは答えないで、いつも山中にいて人前に姿を現さない女神がいると答えた。この八女津媛こそが景行天皇が討つべき連合国・倭國の女王であった。 景行天皇は、この九州親征で、豐國、日向國、肥國を平定した。しかし、筑紫(筑前・筑後)の女王國・倭國は、討伐されないで残った。女王・八女津媛は残った。大率・伊都國王も残った。 この景行天皇による「第一次九州親征」について、我われ日本人が初めて知るのは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。『古事記』に記載はない。史実ではなかった可能性はある。しかし、九州には、各地に景行天皇の足跡・痕跡・地名等が具体的に数多く残されている。 そのころ(西暦 316年)、中国では、西晉が匈奴の侵攻で滅亡した。 【35】 『日本書紀』によれば、女王國・倭國はいつどのように滅亡したか 大和王権による二回目の九州親征は、史実とすれば西暦 363年から367年にかけて、実在したとすれば第十四代仲哀天皇・神功皇后によって行われた。
『日本書紀』によれば西暦 363年(「二倍暦」から復元して推定)に仲哀天皇は德勒津宮(ところつのみや 和歌山市新在家)にいた。そのとき、「熊襲叛之不朝貢」の報が入った。天皇は直ちに軍勢を率いて瀬戸内海を西航し、穴門國(山口県)の豊浦津(とゆらのつ 下関市)に到着した。神功皇后は角鹿(つのか 敦賀)の笥飯宮(けひのみや 氣比神社)にいた。知らせを聞くと陸路南下し、水軍を率いて瀬戸内海を西航した(播磨國風土記)。高泊(たかのとまり 小野田市)を経て豊浦津に至った。
仲哀天皇と神功皇后は穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや 下関市長府宮ノ内町忌宮神社 いみのみや)で三年間、情報を収集しながら治世をした(古事記)。周防の沙麼(さば)を水軍基地とした。 女王國・倭國は、魏の「黄幢」(こうどう 魏の錦の御旗)をもっている。また、女王・臺與(とよ)が魏を継承した西晉に朝貢している。さらにそれを継承した東晉によって軍事上の安全を保障されているかもしれない。すると、仮に大和王権が女王國・倭國を攻撃すると、中国との大きな政治的・軍事的問題を引き起こす可能性がある。
西暦 366年(推定)に崗國(をかのくに 飛鳥時代の遠賀郡)を支配していた国王・熊鰐(くまわに)が仲哀天皇を周防の沙麼(さば)に迎えて帰順した。そのとき、自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した。熊鰐は後に大和王権下で崗縣主(をかのあがたぬし)となる。
また、伊都國(福岡県糸島市)の國王・五十跡手(いとで)が仲哀天皇・神功皇后を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した。自らの三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊(やさかに)を献上した(日本書紀)。五十跡手は、自らについて「高麗(こま)の國の意呂山(おろさん 韓国蔚山広域市)に天降りし日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」と名乗った(肥前國風土記・逸文)。 日桙という人物は新羅王の子として、第十一代垂仁天皇の時代に日本に渡り、但馬で子・多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を残した(日本書紀)。葛城之高額比賣命(かづらきのたかぬかひめのみこと)は多遅摩母呂須玖の子孫である(古事記)。葛城高顙媛(かづらきのたかぬかのひめ)は神功皇后の母であった(日本書紀)。神功皇后はその母の遠く古い故郷である朝鮮半島に強い憧憬をもっていた。神功皇后は、新羅國には眩(まばゆ)い金、銀、彩色などが沢山あると考えていた(眼炎之金銀彩色『日本書紀』)。 伊都國はこのとき大和王権に併合された。五十跡手は大和王権下で伊覩縣主(ゐとのあがたぬし)となる。そもそも、伊都國王とは女王國の「大率」の権限をもつ者にほかならない。このとき、大和王権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と加盟国について全貌を知った。また、女王が山門國の女王山にいる八女津媛であること。呪術者であることなどを知った。 『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠賀川河口の崗湊(をかのみなと)にさしかかったときに船が進まなくなった。すなわち、河口の守り神であった大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)の二柱の神が大和王権の女王國・倭國への侵攻を拒んだ。仲哀天皇が熊鰐に勧められて崗湊の二神に祝(はふり 神官)を立てて祈ったところ船が進んだ。前記の二柱の神々は、当時は遠賀湾の西岸に鎮座する神々であった。その西岸は、縄文海進によって現在の遠賀川の西岸から約 7キロメートル内陸地の福岡県遠賀郡岡垣町の高倉にあった。現在は高倉と遠賀川河口の二か所に上宮(高倉神社)と下宮(岡湊神社)が祀られている。 神功皇后は、危険を分散するために、別の軍船で洞海湾から崗湊に向かった。洞海湾南岸の前田(北九州市八幡東区)で陣営を設けた。その足で皿倉(さらくら)山に登ってそこから遠く朝鮮半島を仰ぎ見ようとした。その後、満潮を待って崗湊に着いた。 仲哀天皇は玄界灘を通って奴國に向かった。神功皇后はいったん遠賀湾を軍船で南下し、陸路奴國に向かった。神功皇后は、真紅の絹の上衣、紫色の裳を着ており、縞織物の帯に鹿の角の腰飾りを差し、皮の靴を履いていたと伝えられる。青いガラスの管玉と瑪瑙(めのう)のネックレス、緑色の翡翠(ひすい)の指輪と貝殻のブレスレットをつけていた。また、宝石のイヤリングをつけ、竹編みの笠を深くかぶって傲然としていた。当時竪穴式の住居に住んで貫頭衣を着て暮らしていた庶民は、遠くからその姿を見て驚いたであろう。 仲哀天皇・神功皇后は橿日廟(かしひのみたまや 福岡市東区・香椎宮)を行宮とした。
西暦 367年(推定)、仲哀天皇は橿日廟で崩御した。『日本書紀』には暗殺されたと注記されている。二十六歳であった。
神功皇后は軍勢を率いて橿日宮を出発し、御笠川を南下した。橿日宮から松峽宮(まつをのみや)に遷宮した(福岡県朝倉郡筑前町)。 神功皇后は、先ず層増岐野(そそぎの)において土蜘蛛・羽白熊鷲(はじろくまわし)と交戦して圧倒的な兵力でこれを誅殺した。皇后はこのとき髪を左右二つに分け、耳元で「みずら」を結い、兵として男装していた。 皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を少し南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門國である。最後の女王・八女津媛(神格化した多世代の女王)はここの女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいる。 『日本書紀』によれば、前記したように神功皇后はこれを大和言葉で「土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)」と呼んで誅殺した(轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛)。八女津媛を兄・夏羽の軍が防衛していた。夏羽が駆けつけるよりも前に八女津媛は殺されたので、夏羽の軍は四散した。「たぶらつひめ」とは「たぶらかしの女性呪術者」という意味である。八女津媛に対する蔑称であった。これが邪馬臺國の滅亡であった。
祈祷所に残されていた後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)から下賜されていた前記「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」などが、このとき散逸したものと見られる。現在の皇室に伝わっていない。
山門國は大和王権下で山門縣(やまとのあがた)となる。女王山は、地域ではその後大和王権に遠慮して女山(ぞやま)と呼ばれるようになった。 この仲哀天皇・神功皇后による大和王権の「第二次次九州親征」について、我われ日本人が初めて知るのは八世紀になって『日本書紀』(720年)が書かれてからである。
四世紀半ば過ぎに(推定西暦 367年)、福岡県みやま市瀬高町も女王國・倭國の「山門國」から大和王権の「山門縣(やまとのあがた)」となった。この地域でも、前方後円墳が築造されるようになった。たとえば、「車塚古墳」(みやま市瀬高町山門)は、古墳時代中期(五世紀)の「前方後円墳」である。周囲に幅 3.6メートルの環濠があったようである。江戸時代に、一部に金を施された銅鏡三面が出土している(現存しない)。 【36】 「中平」の年号をもつ国宝「謎の鉄刀」は何を物語るか 卑彌呼が倭國の女王に即位したのは、前記した通り、後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)の光和年間(178年-184年)であった。卑彌呼は、即位して先ず後漢の樂浪郡に朝貢した。支配権(倭國を代表して交易する権利)を行い、樂浪郡と交易して青銅器・鉄器を入手した。この倭國からの朝貢は、樂浪郡の太守から洛陽の朝廷に報告された。すると、靈帝から樂浪郡の太守を通して「中平」の年号をもつ鉄刀「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」が卑彌呼に下賜された。これには金象嵌の銘文で「中平□年五月丙午造作支刀百練清剛上應星宿下避不祥(百練清剛、上は星宿に応じ、下は不祥を避く)」と書かれていた。「中平」は靈帝最後の年号(184年-189年)である。 昭和三十六年(1961年)に、この太刀は、四世紀後半の「東大寺山古墳」(奈良県天理市)から発掘された。刀身は錆(さ)びてぼろぼろであるが、当時の後漢製であることが分かっている。これは一体どういうことであろうか?
靈帝の光和・中平の期間(178年-189年)に、日本列島で、後漢の樂浪郡に朝貢する機会と理由があったのは、山門國(福岡県みやま市・柳川市)にいた女王・卑彌呼だけであった。一方、そのころ、奈良盆地に葦原中國など何らかの王国が存在したことを示唆する考古学的な痕跡はない。それは皆無である。
この鉄刀は、時の皇帝から預かった太刀であるから、後漢の樂浪郡使が単独で、あるいは、倭國使に同行して必ず邪馬臺國(山門國)の卑彌呼に届けたと見られる。 この太刀は、卑彌呼から臺輿(235-没年不詳)以後の女王に相続されたであろう。 その後、一世紀余り経って、西暦 367年に、山門國にいた最後の女王・八女津媛(やめつひめ 多世代の女王)は、神功皇后とその水軍によって「土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ たぶらかしの女性呪術者)」という「蔑称」で呼ばれて殺害された。 「丙申轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」(『日本書紀』神功皇后紀)。 それが邪馬臺國の滅亡であった。 この太刀は、そのとき、水軍の将軍・武振熊(たけふるくま)によって奪われた「盗品」である。したがって、そのすぐあとの四世紀後半に武振熊とその一族を埋葬した東大寺山古墳から単に他の副葬品と一緒に出土したのは当然である。また、これが後漢の皇帝から倭國に贈られた太刀であったにもかかわらず、現在の皇室に伝わっていない理由と見られる。 この太刀の存在も、卑彌呼以下歴代女王の邪馬臺國が、最後の女王・八女津媛の時代に至るまで山門國であったことを事実として証明する。また、神功皇后・武振熊が実在したことを証明する。 【37】 その後、魏の後継国は倭國をどのように遇したか
西暦 413年、倭王が東晉(317-420)の第十代皇帝・安帝(在位 396-419)に朝貢した(義熙九年是歳高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物 『晉書』安帝紀)。この倭王は應神天皇(推定在位 390-421)であった可能性が高い。東晉は魏の後継国にあたる。司馬睿(しばえい、276-323)が初代皇帝・元帝であった。しかし、東晉は倭國王を特別扱いしなかった。その後、宋(420-479)も、倭國を中国周辺の小国としか見なかった。このことは、東晉と宋が大和王権を卑彌呼・臺與の女王國・倭國の後継国とは見なかったことを物語る。
【38】 我われ日本人は漢族の子孫か 黄河中・下流域の中原(ちゅうげん)の地では、豊かな中華文明が築かれた。そこにいた人びとは「漢人(Han)」と呼ばれた。それは、劉邦(BC247- BC195)が漢を建国(BC206年)したことによって、そのように呼ばれるようになった。漢人は、四方の東夷・南蛮・西戎・北狄にその高い文明を憧憬されながら少しずつ生活圏を拡大して行った。周囲との混血を繰り返しながら、現在の「漢人」が社会的概念として構成されたと見られている。漢人は、現在の中国の民族識別工作では「漢族」とされている。漢族は、中華人民共和国の少数民族を含めた総人口の 94パーセント以上を占める。江南人である湖南省出身の毛沢東(1893-1976)も漢族とされている。我われ日本人が常識的に「漢民族」というときは、この「漢族」のことを指している。西暦 316年に、前記したように、西晉は匈奴の侵攻によって滅亡する。長安も洛陽も陥落した。男は殺された。女は連れ去られた。匈奴はかつて「秦」や「前漢・後漢」「魏」「西晉」の中心地であった中原の地を制圧して「前趙」(ぜんちょう)を建国した。以後中国は北方異民族が支配する「五胡十六国」の時代となる。西晉の司馬睿(しばえい、276-322)は、華南に逃れて東晉を建国した。この動乱の中で、多くの政治難民が生み出された。 西暦 202年(± 175年)日本では「古墳時代」が始まるころに、大陸から「東アジア人」が日本に多く流入した(N.P. Cooke et al., Science Advances 2021)。日本に流れ込んだ東アジア人は、中原の地を追われた漢族であった可能性が高い。
日本の人口の約 63パーセントが漢族などの東アジア人となった(N.P. Cooke et al., 2021)。
現在の日本人男性は、父系で受け継がれるY染色体の遺伝子を調べると、縄文人約 40パーセント、弥生人約 24パーセント、漢族などの東アジア人約 36パーセントである(M.F. Hammer et al., 2006)。このデータは、日本人 259名を対象としているだけなので、おおよその数値である。また、現代人について、母系で受け継がれるミトコンドリアの遺伝子を調べると、図示されるように、漢族などの東アジア人約 71パーセント、縄文人約 14パーセント、弥生人約 15パーセントである(N.P. Cooke et al., 2021)。考古学的試料は、サンプル数が少ないことを踏まえて、これらの数値や図には、それぞれ数パーセントの標準偏差の誤差がある。
漢族の遺伝子の男女差について、日本に漂着した漢族は、食糧も不足する中で、男は多くが古墳造成などの労役に死ぬまで駆り出され、あるいはそのまま餓死させられて、その結果子孫を残すことができなかった。女は生かされて縄文人と弥生人の子孫を残したようである。漢族の流入は「さみだれ式」であったと見られる。漢人の流入によっても日本語は漢語に置き換わらなかったからである。
弥生時代の BC383±22年に朝鮮半島から「土井ヶ浜弥生人」(山口県下関市)が渡来した。その人骨の DNAを調べた結果、すでに東アジア人(漢族)の遺伝子をもっていた。日本人の祖先は、朝鮮半島から弥生人・漢人の DNAをもって渡来し、それまでいた縄文人と交雑した「土井ヶ浜弥生人」であるという「日本人二祖先説」もある。 【39】 地域の「邪馬臺國自虐史観」とは何か 日本には「皇國史観」という歴史観がある。これは、我が国の歴史は万世一系の天皇を中心として展開されてきたとする。倫理的には、それによって天皇に忠義を尽くすことが美徳であるとされる。明治時代から第二次世界大戦に至るまで、日本が大日本帝國であった時代には、皇國史観は政府公認の歴史観・道徳観であった。皇國史観には、我われ日本人の存在をこうであると意味づけるある種の絶対性があった。その中で、國家神道は、近代天皇制国家がつくり出した国家宗教であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで約八十年間、日本人を精神的に支配した。天照大神を皇室の祖先神とし、これを祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立てて管理した。しかし、昭和二十年(1945年)に第二次世界大戦で日本が敗戦したとき、これを「終戦」と呼ぶ蟠(わだかま)りの中で、一部の人びとは「自虐史観」という歴史観をもつに至った。これは、皇國史観を徹底的に否定する。そのために、さしあたり『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)の内容を否定する。あるいは、古代の天皇の存在を否定する。特に神武天皇の実在性について神話の一部として頭から否定する。更に第二代から第九代までの「闕史(けっし)八代」の天皇の存在を完全に否定する。考古学者の中には『記紀』を絶対に読まないことを「主義」とする人たちが少なからずいる。そのような、極端に偏って感じられる歴史観もある。
この第二次世界大戦における敗戦の時と同じことが、邪馬臺國の滅亡(推定 367年)のときに山門國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)で起きた。
女王山の最後の女王・八女津媛は、西暦 367年に神功皇后とその水軍によって、「土蜘蛛・田油津媛」の蔑称で誅殺されてしまう。山門國は「山門縣(やまとのあがた)」となった。山門國(福岡県みやま市・柳川市とその周辺)の一部の人びとは、強い「邪馬臺國自虐史観」をもつに至った。
この地域は、前記したように、江南人の上陸の地であった可能性がある。ここが高天原であったとする伝承がある(Wikipedia/山門郡)。現在でも日向神(ひゅうがみ)峡谷は天照大神(あまてらすおほみかみ)の生誕地として崇(あが)められている。王位継承の殺し合いも、太陽神を祀(まつ)る日向神(ひゅうがみ)峡谷から女神を迎えることによって乗り切った。
それでも、大和王権によって、せっかく大和の国々のひとつとして認められたではないか。地域では、女王山を「女山」(ぞやま)と呼ぶことにした。何としても大和王権の源流との結びつきを取り戻したい。「権現塚」には、神功皇后の兵士が埋葬されていることにした。 この「山門國自虐史観」は、その身にならなければ、我われ第三者が本当に理解することは困難である。それは、非常に深く、かつ、重層化して行った。現在全国には「地域おこし」のために「邪馬台国」を自称する地域は幾らでもある。それらの地域と同じように「卑弥呼の里」などと称して表面的なレベルで楽しい行事などを開催するのはよい。しかし、根源的なレベルで「山門國自虐史観」の強い空気に逆らうと「抗空気罪」で社会的に抹殺される。たとえば、「権現塚」について「春分の日と秋分の日に正確に女王山の聖域から日が昇るのが見える地点に築かれている」という事実などにも「地元の郷土史家・村山健治の一意見としては」という枕詞(まくらことば)をつけて地域を守った。 地域のこの「邪馬臺國自虐史観」は、第三者である我われは、これを尊重しなければならない。しかし、事実は、女山はそのむかし「女王山」と呼ばれた。そこにいつの世も女神・八女津姫(やめつひめ)がいた。神功皇后が最後の女王を「田油津媛」の蔑称で誅殺した。神功皇后の兵士から戦死者は出なかった。また、権現塚の築造の時と神功皇后の田油津媛討伐の時とは、時代が百年以上異なるから、権現塚は神功皇后の兵士の墓ではない。 この山門國が邪馬臺國であったことは、今の時代となっては、むしろ地域として尊敬されるのに値するのではないか。女王山に卑彌呼(169頃-247)がいて、後漢の第十二代皇帝・靈帝から「中平」(184-189)の年号をもつ「金錯銘花形飾環頭大刀(きんさくめいはながたかざりかんとうたち)」(国宝)を下賜されたことは、日本の古代史上高い栄誉に値する。また、魏の第二代皇帝・曹叡(明帝 在位 226-239)から「親魏倭王」の金印紫綬を授与されたことも、尊敬されるのに値する。 【40】 最期の女王の墓はどこにあるのか
福岡県みやま市瀬高町大草(おおくさ)の女王山の麓に「蜘蛛塚」(くもづか)と呼ばれる墓がある。この墓は明治の初めまで「女王塚」と呼ばれていた。最後の女王・「田油津媛」の墓と伝えられる。この「蜘蛛塚」は、「権現塚」よりも女王山の近くにある。ここからも、春分の日と秋分の日に女王山の聖域から日が昇るのが見える。
仮に「田油津媛」のために築造されたとすれば、殺されたのが西暦 367年であるので、当時はもう「墳丘墓」の時代ではない。短い前方部があるようなので、前方後円墳より格下として築造を許された「ホタテ貝型古墳」であろう。すると、五世紀後半以降の築造である。死後百年の間に起きたちょっとした天変地異を「祟り」と恐れて改めて築造されたのではあるまいか。雨が降ると血が流れると言われたようなので、埋葬に水銀朱が用いられたと見られる。
明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像画入りの紙幣が発行された。日本で最初の肖像画入り紙幣であった。明治政府に対して当時の地域では、この古墳を「女王塚」と呼ぶことを遠慮して「蜘蛛塚」と改称し、現在に至る(みやま市指定文化財)。
関連年表
参照文献
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