“Minamata Disease” is a Discriminatory Term.
◇◇ 期間限定公開 ◇◇
はじめに 「水俣病」という言葉は、地域の名称である「水俣」をメチル水銀中毒の原因である「メチル水銀」(CH3 - Hg+)と同一視する。そのような言葉です。それは、メチル水銀中毒があたかも水俣の風土病であるかのように、水俣をメチル水銀中毒と同一視する。そのような言葉です。また、「水俣病」という言葉は、「水俣」と「病」とを分かちがたく強固に結びつけています。そのような言葉です。 そのような「水俣病」という言葉ですから、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は、水俣の人びとの人権、特に「人格権(じんかくけん)」を侵害します。水俣には、その優しい土地柄(とちがら)を反映して何ごとも「がまん」をする人が多くいます。人権に対する侵害は、それに対して平気な人もいますが、人によっては耐えがたいものです。「日本国憲法」と「世界人権宣言」に照らして、人には「誰ひとり」として「いかなる差別」も「されない」権利があります。その権利は、侵(おか)すことのできない「永久」かつ「絶対」の権利です。理由が何であれ、保護されなければなりません。これは人間のもつ「人としての良識」に訴えるものです。多数決や勝ち負けなどではありません。 1958年の夏過ぎ、マスコミが例外なく「水俣病」という差別用語を使い始めました。1970年代以前の日本は、たとえば目が不自由な人や耳が不自由な人を「めくら」や「つんぼ」といった差別用語が跋扈(ばっこ)する時代でした。学校の教科書にも「水俣病」という術語が使われるようになりました。そのようにして、水俣の人びとに対する、言葉による大規模な人権侵害が行われて来ました。 水俣ではメチル水銀中毒が魚介類を通して起きましたが、魚介類を通して起きたのが最初だからという理由で病名に地域の名前を冠することはできません。「公害をなくすため」という大義名分は尊重されなければなりませんが、その尊重も水俣の人びとの人権を侵害する行為にすり替えられてはならないでしょう。 一方で、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は、現実には幾重にも重層化しています。たとえば、自らは水俣で生まれていない人が研究者として、医師として、あるいは、評論家として、教育者として、記者として、文芸作家などとして、公害防止の大義名分のもとに、あるいは、メチル水銀中毒を世界に知らしめるという大義名分のもとに、メチル水銀中毒を声高(こわだか)に「水俣病」と表現する。そのような行為が行われてきました。それは、自らが生まれた故郷のほうの尊厳は維持したまま行われる差別行為です。それも、「水俣」という、自らにとっては「よそ」の地域に対する差別行為です。 「水俣」は地域の名称であってメチル水銀中毒の原因物質ではありません。また、「水俣市」は水俣の公法人としての名称であって、これもメチル水銀中毒の原因物質ではありません。メチル水銀中毒の原因物質はメチル水銀です。たとえ科学の名を借りたとしても、また、医学の名を借りたとしても、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現することはできません。 W.H.O.(世界保健機関)も 2015年に改めて指針を出し、仮に病名に地名を用いると、そこに住む人びとに深刻な影響を及ぼしかねないという理由で「地名を病名に用いるべきではない」としています。 メチル水銀中毒は、1864年から 1866年にかけて世界で初めてロンドンで起きました。1865年に初めて死者が出ました。当時の日本は幕末でした。以来、西欧では「メチル水銀中毒」とよばれてきました。ロンドンのことは日本では長く隠ぺいされましたが、そのように原因も症状も古くから知られていた病気です。現在、病名として「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」が使われています。W.H.O.も「メチル水銀中毒」を用いています。 たとえば、水俣の子どもたちがよそへスポーツの試合に行くと、相手チームの子どもたちから「水俣病が来た」といわれることがあります。そういったことは現在も時どき起きています。新聞等で報道されることもありますが、それも氷山の一角です。多くの場合に周囲の公的な機関や大人たちが「水俣病を正しく学べ」というふうに、今度は「水俣病」という完成された差別用語を使って発言した子どものほうを戒(いまし)める。そういった行為や報道が行われています。この「水俣病」という差別用語を公然と使う行為や報道こそが水俣の人びとの人権を侵害します。それだけに「水俣病」という言葉は差別用語として完成度が高いといえます。 過去に「水俣病」という語を使うことができたのは、わが国では法律と政令においてだけです。法律と政令が「水俣病」を使う理由は、差別用語が跋扈(ばっこ)していた時代に、政令等によって「水俣病」という用語が使われ始めたからです。そして、現在においても法律と政令によってそのまま踏襲(とうしゅう)されているからです。法律と政令は、たとえその用語の使い方が時代に追いつかなくなっていても、それはそれとして遵守(じゅんしゅ)されなければなりません。しかし、我われが、法律と政令によって直接に委託(いたく)されていないにもかかわらず、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為はやはり差別行為です。 もっとも、「水俣病」が「差別用語」であるか否かは、それを使う者と相手との関係、場面、文脈によって決まるものであって固定的なものでも絶対的なものでもないという意見もあります。しかしながら、純粋に「言葉」としてその語を見た場合に、いくら仲の良い相手に使われて親近感を兼ね備えた表現であったとしても、また、苦しんでいる相手に寄り添って用いられた表現であったとしても、さらに、相手がその言葉を差別用語として受けとらなかったとしても、言葉のカテゴリーとしては差別用語であることに変わりはありません。「水俣病」という言葉は固定的かつ絶対的な差別用語です。 かつて水俣市では「水俣病」の病名を変更するように行政に働きかけるなどして運動が行われたことがあります。それに対して、政府や熊本県が「あぁ、そうですか」などと応じることはありません。政府も熊本県もメチル水銀中毒を自らの無作為(むさくい)によって拡大させた加害者のほうです。行政としては、自らの責任を小さく見せるために「あれは水俣の水俣病」として封殺(ふうさつ)したいからです。 しかしながら、W.H.O.が指摘する通り、ある意味ですでに病名は変更されています。現在の日本では、法律と政令によって「水俣病」という語を使うように直接に委託されていない限り、正しい病名である「メチル水銀中毒」を用いることが求められます。 政府機関も、熊本県や水俣市などの地方自治体も、法律と政令によって直接に委託されていない限り、「水俣病」を用いてなりません。マスメディア(新聞・テレビ・ラジオなど)、研究機関、私的団体、研究者、医師、評論家、文芸作家、その他の個人なども「水俣病」を差別用語であるとして正しく認識し、かつ理解することが求められます。理由が何であれ、「水俣病」を用いるべきではありません。一般には「メチル水銀中毒」を用いることが推奨(すいしょう)されます。 この本で筆者は、熊本大学の先人たちが見落とした幾つかの「過ち」について、それらを明らかにしております。いずれ歴史が明らかにするところでしょうが、筆者がここでこれを行う理由は、自らの良心に照らして、熊本大学としての最小限の責任を果たしておくためです。 この本では、先ず第一章で、これまであまり検証されることがなかった、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為がなぜ差別行為であるかについて述べます。また、「水俣病」という語をなぜ使ってはならないか、法的根拠の有無についても検証します。 次に、第二章で、1865年頃にロンドンでメチル水銀中毒が起きていたことを、当時の熊本大学の研究者らが隠ぺいしたことについて述べます。たとえば、原田正純助教授(当時)も ロンドンのことを早くから知っていましたが、「水俣病の前に水俣病はない」と主張しました。 さらに、第三章で、欧米で死後の脳委縮・細胞欠損などの「解剖所見」として知られていた「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」が、日本では、運動失調(うんどうしっちょう)・視野狭窄(しやきょうさく)・構音障害(こうおんしょうがい)などの生前の諸症状として取り違えられたことについて述べます。その結果、現在まで、膨大な数の真正の患者が「ハンター・ラッセル症候群」を呈していないという科学的・医学的に誤った理由で、当然受けるべき補償を受けられないという深刻な人権問題・社会問題をひき起こしています。 最後に、第四章で、米国政府はメチル水銀を「核」に次ぐ国民の脅威(きょうい)と位置付けていますが、日本政府は対策を講じていないことについて述べます。北太平洋のメチル水銀濃度は年々高くなっていて、水俣湾の初期の状態に近づいています。しかし、国民にはその危険性が知らされていません。行政がメチル水銀中毒に向き合わないで「あれは水俣の水俣病」として封殺する行為は、「メチル水銀中毒」を「水俣病」と表現する行為と同根であることについて述べます。
第一章
1. 「水俣病」 という語はどのようにして造られたか 1864年から 1866年にかけてロンドンで世界最初にメチル水銀中毒が発生しました。1865年に最初の患者が亡くなりました [1]。1866年に二番目の患者が亡くなりました [2]。カルテには「メチル水銀中毒」(poisoning by mercuric methide)と書かれました。当時日本は幕末でした。1887年に、それらの患者の記録(カルテ)はドイツで「ヘップ論文」とよばれる論文の中で詳しく紹介されました [3]。1931年に熊本大学附属図書館もその「ヘップ論文」を収蔵しました [4]。水銀を用いて「アセトアルデヒド」という工業製品を製造すると有機水銀が副生します。その事実は米国の J. ニューランドという化学者によって古く『米国化学会誌』に論文として発表されました(1906年 [5]、1921年 [6])。それらの論文は日本でも 1922年発行の『工業化學雜誌』などに邦訳されて掲載されました [7]。その雑誌は 1927年に熊本大学附属図書館にも収蔵されました [4]。 そのように、アセトアルデヒドを製造すると有機水銀が副生することも、その中毒が「メチル水銀中毒」とよばれることも、その具体的な症状も、日本窒素肥料株式会社が水俣でアセトアルデヒドを製造し始める 1932年よりも前から日本で知られていました。では、日本の研究者らは水俣でメチル水銀中毒が起きたとき、それにどのように取り組んだのでしょうか。 研究者は、先人が書き残した文献をすべて敬意を払いながら注意深く読まなければなりません。研究者は、そのために当然払うべきちょっとした注意を怠ってはなりません。それでこそ研究者ですから。 熊本大学の研究者らは、自らの大学の附属図書館に所蔵されている文献に目を通すこともなく、ただ水俣から送られてきた学用患者の病気の原因について独自に解明しようとして医学部の各教室間で一番乗りを競い合っていました。 1937年にイギリスの種子処理工場でメチル水銀化合物中毒が起きました。それを 1940年にハンター、ボンフォード、ラッセルの三名が論文として発表しました。熊本大学の研究者らは1957年にその論文を取り寄せて読みました。ハンターらが報告した症状は、水俣の重症患者のものによく似ていました [8]。その論文には、第 1ページに、このメチル水銀中毒は 1865年にロンドンで初めて起きたとしてその症状の内容が具体的に書かれていました。熊本大学の研究者らはそれを読んだとき、メチル水銀中毒が日本の幕末にイギリスで起きていたことを知ってさぞ驚いたでしょう。しかし、研究者らは 1865年のそのロンドンのことについては一切触れないことにしました。その理由は、水俣で起きたメチル水銀中毒を日本窒素が廃液を流し始めた 1932年よりも新しく 1937年にイギリスの種子処理工場であたかも初めて発見されたかのように発表することによって、日本窒素に「免罪(めんざい)」を贈らざるを得なかったからです。なぜそのような必要があったかについては、第二章(ロンドンのメチル水銀中毒は日本でなぜ隠ぺいされたか)で詳しく述べます。 研究者らは、有機水銀によると思われる中毒をあたかも新しい風土病を発見したかのように「水俣病」と銘打ちました。研究者らは、さらに「水俣病」という病名を最初に用いたのは自分である。彼らではない。と主張して、命名の「てがら」を争いました。 武内忠男教授は「新聞雑誌などでは水俣奇病という言葉が使われていたが、奇病というのではあまりに非科学的であることから一応地名で呼んでおいたらどうであろうかという提案を武内が出した」と述べています(武内忠男「水俣病の病理学的追及の歩み」 有馬澄雄編 『水俣病 - 20年の研究と今日の課題』 青林舎 1979年)。1957年に、武内教授は「水俣病(水俣地方に発生した原因不明の中枢神経疾患)の病理学的研究」と題する論文を『熊本医会誌』に発表しました。 徳臣晴比古(とくおみはるひこ)教授は「(自らが助教授であったときに、教授の)勝木先生はある日の会合で「水俣地方の特有の原因不明の病気だから水俣病と言ったらどうだろう」と発言されて「うん、それがいいだろう」ということになった」と述べています (徳臣晴比古 『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 本当は、病気の原因が分からないときは、「分からない」という意味で「奇病」とよぶほうがなお科学的です。しかし、そのようにして、1957年に熊本大学で「水俣病」という差別用語が学術論文の発表等で公然と用いられるようになりました。 日本窒素肥料株式会社が水俣でアセトアルデヒドを製造して有機水銀を水俣湾に流し始めたのは1932年(昭和七年)でした。しかし、アセトアルデヒドを製造すると有機水銀が副生することは、前記しましたように、遅くとも 1922年(大正十一年)までに国内で周知となっていました。また、メチル水銀中毒の症状について詳しく報じる医学論文も、1931年(昭和六年)までに熊本大学附属図書館が収蔵していました。研究者らは先行文献として見落としたものがないかなど、研究者として当然払うべきちょっとした注意を怠ってはなりませんでした。それにもかかわらず、当時の研究者らがメチル水銀中毒の原因物質を特定しないでおいて、「水俣病」という差別用語を造語し、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現した行為は、科学的にも医学的にも、また、倫理的にも不見識な行為であり、残念なことであったと思われます。 1958年の夏過ぎになると、それまで「水俣病」と表現することを差し控えていたマスコミも例外なく「水俣病」という差別用語を使い始めました。学校の教科書にも「水俣病」という言葉が使われるようになりました。そのようにして、水俣の人びとに対する、言葉による大規模な人権侵害が行われました。 熊本大学の研究者らは、前記しましたように、1957年にハンターらの論文 [8] の第 1ページを読んで、メチル水銀中毒が 1865年にロンドンで発見されたことを知っていました。しかし、研究者らはロンドンのことについては隠ぺいしました [9, 10]。研究者がそのような政治的・恣意的な隠ぺいをする行為もあってならないことです。それも、あまりにも残念なことでした。 たとえば、研究者のひとりであった原田正純助教授(当時)も「水俣病の前に水俣病はない」 と主張しました(原田正純 『水俣病』 岩波新書 1972年)。原田助教授も ロンドンのことついて早くから知っていたことが分かっています。その主張(水俣病の前に水俣病はない)は、患者に対して「だからしかたがないね」として癒(いや)しを与える主張であったと同時に、原因企業である新日本窒素肥料株式会社にとってはもちろん、自らの責任を小さく見せたい政府や熊本県にとって都合のよい主張でした。したがって、その主張は広く受け入れられましたが、その主張はメチル水銀中毒の発見地が水俣ではなくロンドンであることを隠ぺいして行われた主張でした。 メチル水銀中毒が 1865年にロンドンで発見されていた事実は、そのようにして、水俣の患者も、その家族も、語り部も、一般の人びとも、新聞も、テレビも、何も知らされないまま半世紀以上が経過して行きました。 2. 「水俣病」 は差別用語としての完成度が高い 水俣は、かつて肥後藩制下で「水俣手永(みなまたてなが)」とよばれ、幾世代も続いて人びとが暮らして来た風光明媚な地域です。緑深い山々に囲まれ、西のほうには穏やかな不知火海(しらぬいかい)が広がり、人びとは優しく純朴です。水俣は、『近世日本國民史』(全百巻)など優れた著作を残したジャーナリスト・歴史家の徳富蘇峰(1863-1957)や、美しい自然描写とヒューマニズムに徹して『不如歸(ほほとぎす)』など数多くの名作を残した文豪の徳冨蘆花(1868-1927)を輩出しました。水俣には容姿端麗な人が多く、肥後細川家に水俣から二人の女性が当主に嫁いでいます。その水俣で昭和七年(1932年)から日本窒素肥料株式会社によって水俣湾と不知火海に工場廃液が流され、人びとにメチル水銀中毒が起きました。 熊本大学の研究者らによって造語された「水俣病」という言葉は、「水俣」と「病」 とを分かちがたく強固に結びつけました。その結びつきは、大人たちの「知識」としては結びついて「いない」と見なされていますが、やはり結びついています。特に純真な子どもたちには強く結びついて「いる」と見えています。その子どもたちが大人たちから「水俣病を正しく学べ」などといわれるのですから、それだけに「水俣病」という言葉は差別用語としての完成度が高いといえます。 これまで、メチル水銀中毒について様ざまな報道が行われ、新しい研究や新しい著作が発表されてきました。それらの報道や著作も例外なく「水俣病」という言葉を用いるものでした。 その結果、たとえば水俣の子どもたちがよそへ試合に行くと「水俣病が来た」と言われるようになりました。また、水俣に住んでいるというだけで娘の縁談がこわれた(熊本日日新聞 1973年3月1日)。ある人は、サイクリングで全国あちこち乗り廻したことがあるが、自転車に水俣の鑑札がついているだけでずいぶんと嫌(いや)な目にあった。また、ある人は市外の友人から「水俣病ではないのか」といわれて嫌な感じを受けた。また、ある人は水俣に住んでいるというだけで親類とも疎遠(そえん)になった。親類の者が訪ねて来たが「水俣では物を食べないように」といわれて来たからと一緒に食事もしてくれなかった。水俣の子どもたちが都会の学校に進学しても、周囲には自らが水俣出身であることを隠した。新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社)の従業員とその家族が都会に転出しても、多くの人が水俣出身であることを隠して暮らした。それらは、メチル水銀中毒の原因物質がメチル水銀であることが分かり、かつ国内でも周知されてから後のことです。 メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は、現実には幾重にも重層化しています。たとえば、自らは水俣で生まれていない人がメチル水銀中毒を声高に「水俣病」と表現する。そのような行為が行われました。あるいは、水俣生まれでない人が水俣に住んでいて、メチル水銀中毒を声高に「水俣病」と表現する。そういった行為が行われています。それも、自らが生まれた故郷のほうの尊厳は維持したまま行われる差別行為です。 W.H.O.(世界保健機関)も一般的な病名としては「水銀及びその化合物による中毒」としています。これは、国際疾病(しっぺい)コード第 10版「ICD10」によって「Toxic effects of mercury and its compounds」(コード番号 T561)と分類されているものです。原因物質をさらに特定して「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」が世界の一般的な学術用語として広く用いられています。W.H.O.も「メチル水銀中毒」を用いています。 さらに、W.H.O.は 2015年に改めて指針を公表し、「病名に用いるべきでない語としては地名があげられる」("Terms that should be avoided in disease names include geographic locations.")としています。その理由として「これは、人びとの人生や生活に深刻な影響を及ぼしかねない」("This can have serious consequences for peoples' lives and livelihoods.")としています。「水俣病」は、理由が何であれ、用いるべきではありません。 「差別」 とは、個人あるいは集団がもつ属性の差異を峻別(しゅんべつ)することによって、人間としての尊厳を傷つけたり否定したりする行為のことです。また、「人権」とは人が人間であることに基づいてもつ普遍(ふへん)的な権利のことです。それは人が生まれながらにしてもつ権利です。それは国家権力によっても侵されない基本的な権利のことです。そのことは 1948年に国際連合によって採択された「世界人権宣言」によって端的に表明されています。人権は、イギリス革命(権利章典 1689年)、アメリカ革命(独立宣言 1776年)、フランス革命(人権宣言 1789年)などを通して確立された人類普遍の権利です。それは、「近代憲法の不可欠の原理」と考えられています。人は「人格権」として「いかなる差別も受けない権利」をもっています。この権利は「誰ひとり」として侵害されてはなりません。長い人類の歴史を通して、この権利は時代とともに今後ますます尊重されていく流れにあります。 3. 法律と政令だけはメチル水銀中毒を「水俣病」と表現できた 1969年12月17日に厚生省の「公害の影響による疾病の指定に関する検討委員会」は、「水俣病」という呼称は、国内・海外でも広く用いられていること、環境汚染と食物連鎖の要素が含まれていることから、政令におり込む病名としては「水俣病」を採用するのが適当であると答申しました。その時すでに熊本大学の研究者らが 1957年から「水俣病」という差別用語を使い始め、マスコミなども 1958年から広く使い始めてから 10年以上が経過していました。当時は、必ずしも現在のように個人の権利を尊重しようという意識が高かったわけではありません。そのころは、国内では、たとえば目が不自由な人や心の病をもつ人を「めくら」や「きちがい」とよぶ、差別用語が跋扈(ばっこ)する時代でした。 1974年11月21日にテレビ放映された『座頭市物語』(勝新太郎主演)では、劇中で悪人たちが座頭市をからかいます。 「うるせぇ! このどめくらぁ!」 「どめくらと言いなすったな」 それを観て、視聴者は喝采(かっさい)しました。 そのような時代に法律と政令に用いられていた差別用語は多くあります。たとえば、昭和二十三年(1948年)7月30日に制定された法律第二百一号 「医師法」 には「禁治産者」、「準禁治産者」、「つんぼ」、「おし」、「めくら」という差別用語が用いられました。それらの語は、昭和五十六年(1981年)まで用いられました。 【医師法第三条】 未成年者、禁治産者、準禁治産者、つんぼ、おし又は盲(めくら)の者には、免許を与えない。 昭和五十六年(1981年)になって 5月25日に「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」が制定されました。 【第一条】 医師法 (昭和二十三年法律第二百一号) の一部を次のように改正する。 第三条中 「つんぼ、おし又は盲の者」を「目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者」に改める。 その後「医師法」でも、また、「民法」でも、しばらくは「禁治産者」、「準禁治産者」という語が使われましたが、それらはあたかも人間失格の印象を抱かせかねない差別用語であるため、現在は使われていません。 「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(平成二十一年法律第八十一号)にも「水俣病」という語が使われました。 法律と政令は、たとえその語の使い方が時代に追いつかなくなっていても、それはそれとして、厳密に遵守されなければなりません。しかし、我われが、法律と政令によって直接に委託されていないのに、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為はやはり差別行為です。 たとえば、前記したように、水俣の子どもたちがよそへスポーツの試合に行くと、相手チームの子どもたちから「水俣病が来た」といわれることがあります。差別は人間が人間を峻別しようとする原始的な感情に基づくことが多いものです。相手チームの子どもたちも、特にスポーツという競争の場においては、つい「水俣病が来た」と言ってしまいやすいのでしょう。水俣は「水俣病」の原因物質ではありません。まして誰も「水俣病が来た」などと言われたくありません。 問題は、そのような出来事に対して、多くの場合に周囲の公的な機関や大人たちが「水俣病を正しく学べ」などと発言して、今度は「水俣病」という完成された差別用語を用いて、子どものほうを戒(いまし)めるといった行為や報道が行われることにあります。その「水俣病」という語を公然と用いる行為や報道こそが差別行為として水俣の人びとの人権を侵害します。法律と政令によって「水俣病」という語を使うように直接に委託されていない限り、周囲の公的な機関や人びと、報道機関が用いるべき術語は「有機水銀中毒」あるいは「メチル水銀中毒」です。 次は、新聞記事からの転載です。
そもそも、「水俣病」が差別用語でなければ、最初からこの出来事は成立しません。子どもたちは、メチル水銀中毒は原因物質がメチル水銀であって感染するものではないことを学んでいても、感性豊かな日本の子どもたちには、「水俣病」はやはり「うつる」ものとして感じられます。やまい(病) は日本人にとって「けがれ」であるからです。「けがれ」は土俵に塩をまかなければ「うつる」ものです。触ってはなりません。これは日本人の秘めたる常識です。「水俣」と「病」とが言葉の上で分かちがたく結びついているのですから、感性豊かなその生徒は「けがれ」をうつるものとして「水俣病、触るな」と発言しただけなのでしょう。
この記事は、子どものほうが差別的発言をしたという主旨の内容を一方的に報道しています。しかし、周囲の公的な機関や大人たちは「水俣病」という差別用語を公然と用いてコメントを出しています。それらの公的な機関や大人たちは、「メチル水銀中毒」という言葉を用いないで、ことさら「水俣病」という差別用語を使うように法律、あるいは政令によって直接に委託されていたのでしょうか。 次も、新聞記事からの転載です。
この記事も、子どものほうが差別的発言をしたという主旨の内容を一方的に報道しています。また、この記事で報道された内容も、「水俣病」が差別用語でなければ最初から成立しません。「水俣病」は、その小学生が発したように、あたかも水俣の風土病であるかのように「水俣」と「病」とを結びつけています。学校で、あるいは課外教育で、メチル水銀中毒は原因物質がメチル水銀であって感染するものではないということを学んでいても、「水俣病」はやはり「うつる」ものとして心に感じられるでしょう。
人間は誰しも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されています。それがこの児童にとってはスポーツの試合の場でした。しかし、児童は同時に自由な存在です。小学校でも高学年になればメチル水銀中毒が感染する病気ではないことを知っています。その児童も、学び方が足りなかったのではなく、感性豊かな児童であったのだろうと筆者は思います。それに対して、ここでも、周囲の公的な機関や大人たちが「水俣病」という差別用語を公然と使ってコメントを出しています。それらの公的な機関や大人たちは、「メチル水銀中毒」という言葉を用いないで、ことさら「水俣病」という差別用語を使うように法律、あるいは政令によって直接に委託されていたのでしょうか。 水俣市明神町に有機水銀公害の資料館として市立「水俣病資料館」があります。筆者もある日行ってみましたが、そこには市外から小学生の団体がたまたま見学に来ていました。展示場では、メチル水銀中毒について、そもそも 1865年頃にロンドンで世界最初に起きていてその頃から「メチル水銀中毒」とよばれてきたという歴史上の欠くことのできない重要な事実を教えていませんでした。また、設置されたビデオ画面には「メチル水銀は体内に入っても生物学的半減期といって約 70日で排泄されて半減していく(から心配ない)」といった科学的に誤った教材が繰り返し方式で流されていました。そのビデオは、生物学的半減期という学術用語を使ってはいるが、それによってメチル水銀の影響を「小さく」見せかけていました。本当は、メチル水銀はどんなに微量でも体内に入るとその量に応じて脳細胞を破壊します。メチル水銀は確かに生物学的半減期の約 70日で体外へ半量が排泄されますが、その 70日間に脳細胞で起きた破壊は「不可逆的」(イリバーシブル)です。破壊された脳細胞がその後の生涯で修復されることはありません。子どもたちにはこのように歴史的・科学的に正しい事実を教えなければなりません。 4. 「水俣病」と表現する行為は法的に何が問題か 憲法は、基本的人権や権利の濫用(らんよう)、公共の福祉、差別などについて、次のように定めています。【憲法第十一条】 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 【憲法第十二条】 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 【憲法第十三条】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 【憲法第十四条第1項】 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 【憲法第二十一条第1項】 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 【憲法第九十八条第2項】 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 憲法第十一条で定められた基本的人権は、国民に保障された侵すことのできない永久の権利として憲法第九十七条でも改めて国の「最高法規」として位置づけられています。 この「日本国憲法」は 1946年11月3日に公布されて 1947年5月3日に施行されました。1952年4月28日には「日本国との平和条約」(サンフランシスコ講和条約)が発効し、日本は主権をもつ国家として国際社会への仲間入りを果たしました。国際連合はそれ以前の 1948年12月10日に「世界人権宣言」を採択していましたが、日本は「サンフランシスコ講和条約」の締結の条件として、その前文で「世界人権宣言」の実現に向けて努力することを誓約し、批准しました。 【世界人権宣言第二条第1項】 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。 【世界人権宣言第七条】 すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。 国民は憲法によって権利や自由が保障されています。しかし、刑罰法規に抵触すると、最終的に裁判所の判断の結果によって、処罰されます。また、民事上でも、違法性が認められれば損害賠償を求められます。 【刑法第二百三十条第1項】 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。 【刑法第二百三十一条】 事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。 たとえば飲食店で仮に相手に「この水俣病!」と発言したら、たとえ相手が患者であっても患者でなくても、その行為が第三者の出入りが可能な飲食店で行われた以上公然性が否めないので、前記の名誉についての刑法にまでは抵触しなくても、次の軽犯罪法には抵触するかもしれません。 【軽犯罪法第一条第五号】 公共の会堂、劇場、飲食店、ダンスホールその他公共の娯楽場において、入場者に対して、又は汽車、電車、乗合自動車、船舶、飛行機その他公共の乗物の中で乗客に対して著しく粗野又は乱暴な言動で迷惑をかけた者(はこれを拘留又は科料に処する)。 なお、言動の程度によっては次の脅迫の罪や強要の罪についての刑法に抵触するかもしれません。 【刑法第二百二十二条】 生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。 2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。 【刑法第二百二十三条】 生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、三年以下の懲役に処する。 2 親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者も、前項と同様とする。 3 前二項の罪の未遂は、罰する。 目が不自由な人や心の病をもつ人を「めくら」や「きちがい」とよぶ差別用語が跋扈(ばっこ)した時代に、「めくら」や「きちがい」とよぶ行為は、当時としては慣習的に行われていました。「がまん」をする人がいるからという理由も、あるいは、平気な人がいるからという理由も、さらに、慣習的に行われてきたという理由も、人権を侵害するための理由にはなり得ません。これは人の理性に訴えるものです。勝てば官軍といった勝ち負けではありません。人には「誰ひとり」として差別されてはならない「絶対」の権利があるからです。その権利は 1947年に施行された「憲法第十四条第1項」や 1952年に批准された「世界人権宣言」によって、その時からすでに永久不可侵の権利として保障されています。特に、水俣でメチル水銀中毒が見つかったのはその後のことです。メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為にはどのような「正当性」も「自明性」もありません。 差別行為として水俣の人びとの人権を侵害すると、民事上の賠償責任が生じるかもしれません。 【民法第七百九条】 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。 【民法第七百十条】 他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。 「めくら」という言葉には、言外に、自らの眼を襲い、自らの人生を襲い、あるいは、差別され、あるいは、駆け巡っていった「思想」と「事実」が含まれているでしょう。「めくら」は、かつて表現を豊かにするうえで重要な言葉でした。前記の『座頭市物語』も、「うるせぇ! この目の不自由なひとぉ!」では時代劇にならなかったでしょうから。それでも、今日において「めくら」という言葉は差別用語です。それを使わないようにしなければなりません。それは、自らの良心に照らして、意識して使わないように心掛けるしかありません。 「水俣病」にも、言外に、チッソ株式会社の加害行為、あるいは、政府と県の無作為に対する患者の「怨(うら)み」が含まれているでしょう。また、患者が生を受けて以来、自らの身体を奪い、家族の身体を襲い、自らと家族の人生を襲い、あるいは、差別され、そのようにして駆け巡っていった「思想」と「事実」が含まれているでしょう。「水俣病」は、ある意味で、「めくら」と同様に重要な言葉でした。しかし、重要な言葉であるからといって「水俣病」という語を用いる行為は、それによって権利を侵害される人が存在する限り、差別行為です。この現代社会において人権を侵害される人が法の下において「誰ひとり」として存在してはならないからです。 今日において、単に重要な言葉であるからという理由で、あるいは、単に表現を豊かにするためであるからという理由で「水俣病」を使うか、それとも、「メチル水銀中毒」を使うかを選択肢として使い分ける余地はありません。「水俣病」は使ってはならない差別用語です。 また、「水俣病」という語を用いると患者が前面に立ち、普遍的な「メチル水銀中毒」は背面に隠れる。「メチル水銀中毒」という語を用いると普遍的なメチル水銀中毒が前面に立ち、患者は背面に隠れる。そのような意見があります。しかしながら、今日において、第三者が表現を豊かにするためであるからという理由で「水俣病」を使うか、それとも、「メチル水銀中毒」を使うかを選択肢として使い分ける余地はありません。「水俣病」は使ってはならない差別用語です。これは、自らの良心に照らして、そのように意識して使わないように心掛けるしかありません。私たちは、そのような本当に差別のない社会を構築しなければならない新しい時代にさしかかっています。 一般的には「メチル水銀中毒」という病名を用いることが推奨されます。「メチル水銀中毒」という言葉によって人権を侵害される人はいません。 5. 「メチル水銀中毒」を用いることが推奨される
筆者は 2008年に『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社)という書籍を刊行しました。筆者は、「水俣病」という語はは歴史に残る重要な語である。それは病名ではなく呼称であると述べました。また、それは差別用語として機能しており、風評被害など不公平な負の影響もあると述べました [11]。当時はそのように「水俣病」という言葉が差別用語であると指摘する書籍等は多くありませんでした。それから十年余りを経過した今日、世界中で「水俣病」という言葉が差別用語であるとして認識され始めています。
筆者は、前記『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008年) [11] を 2012年に英訳して、『Minamata Bay, 1932』(水俣湾 昭和7年)という本 [12] として上梓しました。世界の 100か国以上の図書館等で読まれていることが分かっています。2021年にジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』が公開されます。ジョニー・デップは制作も担当しています。筆者(入口紀男)は、ジョニー・デップに映画が制作される前に「水俣病」という用語は差別用語であるから慎重に用いるようにと知らせてその本を贈りました。その映画では、「水俣病」という用語は当時の物語を正確に描写する上で必要最小限しか使われていません。 「メチル水銀中毒症」とは、メチル水銀被ばく歴がある人に感覚障害などの中枢性障害が認められたものです。これが科学的に検証された現在の定義です。また、これが 2004年4月27日に大阪高等裁判所によって採用された定義です。さらに、上告審(最高裁判所)も、2004年10月15日に大阪高裁のこの判決を支持しました。したがって、感覚障害などの中枢性障害があって、メチル水銀被ばく歴より他に別段の原因が特定できなければ、それはメチル水銀中毒症です。
かつて水俣市では「水俣病」という病名を変更するように行政に働きかけるなどの運動が行われたことがあります。しかし、行政のほうがそのような運動に応じることはありません。そもそも、この国で、メチル水銀中毒の被害者が、公共の利益と福祉、公共の安全の立場から救済されようとしたことはありません。政府は被害者を救済しようとせず、被害を水俣に限定し、ただ切り捨てようとして来ました。政府も熊本県もメチル水銀中毒を自らの無作為によって拡大させた加害者のほうです。行政としては、自らの責任を小さく見せるために「あれは水俣の水俣病」として封殺したいのですから、何万筆の署名を集めようと、結果は同じでしょう。
しかしながら、 W.H.O.が指摘する通り、すでに病名は変更されています。現在の日本では、法律と政令によって「水俣病」を使うように直接に委託されていない限り、正しい病名である「メチル水銀中毒」を用いなければなりません。 行政機関も、熊本県や水俣市などの地方自治体も、法律と政令によって直接に委託されていない限り、「水俣病」を用いてはなりません。マスメディア(新聞・テレビ・ラジオなど)、研究機関、私的団体、研究者、医師、教育者、評論家、文芸作家、その他の個人なども「水俣病」を差別用語であるとして正しく認識し、かつ理解して、これを用いるべきではありません。「メチル水銀中毒」を用いることが推奨されます。 第二章
6. 新日本窒素肥料株式会社に贈られた免罪 第二次世界大戦が終わると、日本の経済は少しずつ復興し始めました。それでも、当時の日本経済はまだひ弱でした。新日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社)が製造する「アセトアルデヒド」という工業原料がなければ、我が国の繊維産業等は立ち行きませんでした。新日本窒素は通商産業省(当時)の手厚い保護下にありました。1958年10月21日に新日本窒素の西田栄一水俣工場長は、熊本大学に鰐淵健之(わにぶちけんし)学長を訪ねました。西田工場長は鰐淵学長に対して、熊本大学が「奇病」の原因を究明していることについて文部省当局が政治問題化することを懸念している(ので究明をやめろ)と申し入れました。その恫喝が、その後の熊本大学の研究者らの行動に深刻な影を落として行きました。 1922年に『工業化學雜誌』が刊行され、アセトアルデヒドを製造するときに「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此の者の接觸作用により反應は進行する」と報じました [7]。1927年に熊本大学附属図書館はこの『工業化學雜誌』を収蔵しました。 イギリスでは、1865年頃にロンドンの聖バーソロミュー病院でメチル水銀中毒が起きていました [1, 2]。1887年にそのカルテの内容はドイツのパウル・ヘップによって 5ページにわたってドイツ語に翻訳されて刊行されました [3]。それは「ヘップ論文」とよばれます。1931年に「ヘップ論文」は熊本大学附属図書館にも所蔵されました。 それらの経緯を筆者は拙著『聖バーソロミュー病院 1865年の症候群』(自由塾 2016年)に詳しく述べております [4]。
1937年にイギリスの種子処理工場で有機水銀中毒が起きました。この 1937年の中毒は 1940年になってハンター、ボンフォード、ラッセルによって論文として発表されました [8]。熊本大学の研究者らは 1957年にその論文を取り寄せて読みました。研究者らは、その論文の中に 1865年にロンドンで起きたメチル水銀中毒について、その症状などが最初のページに具体的に記載されていることを知りました。しかし、研究者らは、そのロンドンのことには一切触れず、あえて「これらの症状を凡(すべ)て具備する中毒性疾患は文献上ほとんど認められない」と明示的に発表しました(武内忠男教授 1959年7月22日水俣病研究報告会発表要旨 [9])。
研究者らは、そのように、水俣の「奇病」が、日本窒素が有機水銀を流し始めた 1932年よりも新しく、あたかも 1937年にイギリスの種子処理工場で初めて発見された中毒であるかのように発表することによって新日本窒素に「免罪」を贈りました。それによって西田栄一工場長のいう「政治問題化」も避けられました。また、研究者らにとって有機水銀に想到できたことが「てがら」にもなりました。 メチル水銀中毒が 1865年にロンドンで見出されていた事実は、そのようにして、水俣の患者も、その家族も、語り部も、一般の人びとも、新聞も、テレビも、何も知らされないまま半世紀以上が経過して行きました。 筆者は 2008年に『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社)[11] を刊行し、その中でロンドンのメチル水銀中毒について詳しく述べました。筆者がその一冊を熊本学園大学の原田正純教授に謹呈すると、筆者は単に謹呈しただけでしたが、それまで 1865年にロンドンでメチル水銀中毒が起きたことを知っていながら生涯 「水俣病の前に水俣病はない」と主張して来た原田教授はすっかり当惑しました。 7. 日本人はロンドンのメチル水銀中毒をいつ知ったか 1852年(日本では嘉永五年の幕末)、英国オーウェン大学のエドワード・フランクランド教授(Edward Frankland)は「原子価」の概念を発表しました。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人です。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものです。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学びます。フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのに極めて役立つことを知りました。フランクランドはロンドンの聖バーソロミュー病院医科大学に移ると、メチル水銀の製造方法を確立しました。
フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling 1829-1921)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任しました。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人です。
1864年頃から聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で、三名の技術者がメチル水銀中毒に陥りました。そのひとりはカール・ウルリッヒ博士という 30歳のドイツ人研究者でした。ウルリッヒは 1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験を始めました。するとだんだんと両手がしびれるようになりました。耳が聞こえにくくなりました。目もよく見えなくなりました。動きがにぶくなり、足どりが不安定になりました。言葉も不明瞭になりました。ウルリッヒは翌(1865)年 2月3日、激しい中毒症状に襲われました。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容されました。主治医はヘンリー・ジェファーソン(1810-1866)でした。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげました。質問にも答えることができなくなりました。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返し、同年 2月14日に死亡しました。そのころ日本は幕末でした。ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第 1巻(1865年)に詳しく報告されています [1]。
二番目の患者は トム・スロウパ 23歳でした。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていました。その間にメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、9か月目(1865年1月半ば)からのわずか 2週間ほどでした。メチル水銀の製造器具の洗浄を行いました。その 1か月後に発症しました。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれました。耳が聞こえにくくなりました。目がよく見えなくなりました。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなりました。歩くのが困難になりました。スロウパは、同年 3月25日(発症して 3週間後)に同病院のマタイ棟に収容されました。主治医は前記ジェファーソンでした。ものを飲み込めなくなりました。話せなくなりました。尿と便を失禁するようになりました。激しいふるえに襲われました。叫び声をあげて身体をばたばたさせました。錯乱状態のまま 1866年4月7日に肺炎を併発して死亡しました。スロウパの臨床経過も『聖バーソロミュー病院報告書』第 1巻(1865年) [1] と同第 2巻(1866年) [2] に詳しく報告されています。
三人目の患者は、症状が比較的軽く、死亡しませんでした。 『聖バーソロミュー病院報告書』第 1巻(1865年) [1] と第 2巻(1866年) [2] は、現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)によって PDF化されて無償で公開されています。 1887年に、パウル・ヘップはドイツの『実験的病理学薬理学叢書』第 23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [3] を発表しました。ヘップはその論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』のウルリッヒ 30歳とスロウパ 23歳の死亡症例をドイツ語に翻訳し、 5ページにわたって転載しました。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」を与えると述べました。『実験的病理学薬理学叢書』は、熊本大学附属図書館には 1931年に収蔵されました。 熊本県葦北郡水俣町(当時)で日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣湾に流し始めたのは、それより後の 1932年(昭和七年)5月7日(土)でした。 8. 日本人は有機水銀が廃液に含まれることをいつ知ったか 「アセトアルデヒド」(CH3COH)は、エチルアルコールを酸化するとできます。引火性が非常に強く、約 20℃で沸騰します。空中で酸化するだけで酸素が一つ加わって酢酸(CH3COOH)となります。したがって、アセトアルデヒド工場では酢酸も同時に製造されることが多く、「アセトアルデヒド・酢酸工場」などといわれます。アセトアルデヒドは重要な工業原料の一つです。そのために世界の各地でアセトアルデヒドが製造されました。ヨーロッパ大陸でも、アメリカ大陸でも、そして、水俣でも。
現在アセトアルデヒドは石油化学によって製造されています。しかし、1960年代までは、アセトアルデヒドを製造する方法は 1881年にロシア帝国でミカイル・クチェロフによって見出された「水銀触媒法」でした。それは『ドイツ化学会誌』に掲載されました[13]。水銀は硫酸に溶けると透明な液体となります。クチェロフは、その溶液に「アセチレンガス」を吹き込むだけでアセトアルデヒドができることを見出しました。
米国のノートルダム大学はカトリック教会の設立になる名門校です。ノートルダム大学のジュリアス・ニューランド教授(Julius A. Nieuwland)はカトリックの神父でした。
ニューランド神父は、ノートルダム大学でアセチレンの化学について研究を続け、『米国化学会誌』(1921年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドをつくる場合の水銀塩の作用ならびにパラアルデヒドの製造方法」と題して論文を発表しました [6]。その内容は、日本で翌 1922年に『工業化學雜誌』に抄訳として掲載されました [7]。その中で「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此の者の接觸作用により反應は進行する」と報じられました。『工業化學雜誌』(1922年)は、1927年に熊本大学附属図書館にも収蔵されました。そのようにして、そのころまでにアセトアルデヒド工場が有機水銀の発生源となることが国内で周知となりました。 9. 西欧では工場でメチル水銀中毒が起きたとき、どう解決されたか
ワッカー・ケミー社は、アレクサンダー・ワッカー(1846-1922)が 1916年にアセトアルデヒドを製造するためにドイツ南部のブルクハウゼンに創業した会社です。この会社はヨーロッパ各国の化学会社が出資してコンソルティウム(英語のコンソーシアム。共同事業体)として発足したものでした。当時従業員 400名余りを擁していました。その 1916年に多数の従業員が原因不明の疾病に陥りました。従業員の主な訴えは手足の重苦しい感覚と疲労感、不整脈、頭痛、感覚の鈍り、目まい、吐き気、不定愁訴でした。
スイス・チューリッヒ大学のハインリッヒ・ツァンガー教授(Heinlich Zangger)は、それを聞きつけて直ぐにワッカー・ケミー社のブルクハウゼン工場に行き、アセトアルデヒドを製造する工程で有機水銀が副生していることと、従業員が排泥(スラッジ)に触れた結果その中に含まれる有機水銀によって傷害を受けていることと、そして、それらは有機水銀特有の中枢神経障害であることをその 1916年に指摘しました。その結果、アセトアルデヒドの製造廃液はカーバイド排泥とともに地下水を避けて地中に埋められました。
アセトアルデヒド工場の水銀廃液に触れると有機水銀によって中枢神経障害が起きる。この事実は、以後ヨーロッパ各国に伝わりました。したがって、ヨーロッパで以後メチル水銀中毒が発生することはありませんでした。
ワッカー・ケミー社における有機水銀中毒の発生は、ツァンガーによって『産業医学誌』(1930年)に「水銀中毒の経験」と題して報告されています [14]。この論文(1930年)は日本窒素が有機水銀廃液を流し始めた 1932年よりも前に刊行されました。 ツァンガーは廃液や排泥の化学分析を行ったわけではありません。しかし、ツァンガーは、水銀を用いてアセトアルデヒドを製造すると有機水銀によって特有の中枢神経障害が起きることを知っていました。当時は 1865年頃にロンドンでメチル水銀中毒が起きたことを報じる『聖バーソロミュー病院報告書』(1865年 [1]、1866年 [2])や、『化学ニュース』(1865年 [15]、1866年 [16])、「ヘップ論文」(1887年) [3]、アメリカのニューランドの論文(1906年)[5] などの文献しかありませんでした。しかし、ツァンガー教授はそれらの文献の内容を知っていました。それによってそれだけの偉業を達成しました。 第三章
10. ハンターとラッセルによる「解剖所見」に関する論文
イギリスの D. ハンターも D. ラッセルも、メチル水銀中毒による運動失調、視野狭窄、構音障害などの生前の臨床所見を「ハンター・ラッセル症候群」などとよんだことはありません。「ハンター・ラッセル症候群」とは、ハンターとラッセルが患者の死後に脳を解剖して初めて明らかにした脳委縮や細胞欠落などの組織所見のことです。
1937年にイギリスの種子処理工場で 4人の作業員がメチル水銀中毒を発症しました。D. ハンター、R. ボンフォード、D. ラッセル(Dorothy Stuart Russell)の三名はその症状について、1940年に「メチル水銀化合物による中毒」と題して論文 [8] を発表しました。ハンター等の三名は、その論文で第 1頁に『聖バーソロミュー病院報告書』 [1, 2] の内容を改めて具体的に紹介しました。 1952年12月14日に、ハンター等の論文で報告された患者のうちのひとりが、15年経って肺炎で死亡しました。その 22時間後に病理解剖が行われました。大小脳の局所萎縮などが見られました。 ハンターとラッセルの二名はその解剖学上の所見について「有機水銀化合物によるヒトの大小脳の局所委縮」と題して新しく論文(1954年)を発表しました [17]。 前記ハンター等の二つの論文 [8, 17] は定期刊行物であり、当時東京大学附属図書館など国内の 20以上の図書館で逐次購入され、収蔵されました。 11. 組織所見として定義された「ハンター・ラッセル症候群」 1956年5月1日に水俣市で「奇病」が確認されると、8月14日に水俣市奇病対策委員会は熊本大学医学部に原因究明を依頼しました。8月24日に熊本大学医学部において、内科、小児科、病理、微生物、公衆衛生の各教室からなる「医学部水俣奇病研究班」が組織されました。
1957年に熊本大学の内科学の徳臣晴比古助教授は、東京に出張したとき、日本橋の書店で米国のエッティンゲン(Wolfgang Felix von Oettingen)が著した『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』 [18] を購入しました。徳臣助教授はその書籍の中に視野狭窄、運動失調などをもたらす中毒として、ハンター等の論文 [8] が引用されていることを知り、有機水銀に疑いをもちました。しかし、徳臣助教授は、有機水銀が原因物質であるとして確信するには至りませんでした。
ドイツ・ベルリンのシュプリンガー・フェアラーク社(Springer-Verlag)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて『病理学的解剖学及び組織学各論ハンドブック』 (Handbuch der speziellen pathologischen Anatomie und Histologie)を刊行しました。ハンドブックといっても 10巻以上あります。また、それぞれの巻が幾冊かの号に分かれていました。ブルガリア国ソフィア市のアンゲル・ペンチュウ博士(Professor Dr. Angel Pentschew)は、前記ハンドブックの第 13巻として 1958年に出版された『中枢神経障害』(Erkrankungen des zentralen Nervensystems)の「2B号」という分冊の『中毒』(Intoxikationen) の章を執筆しました [19]。
筆者(入口紀男)は熊本大学附属図書館に所蔵されているその 2B号を読みましたが、製本されたその一分冊(2B号)だけでも、両手でかかえてずっしりと重い本です。その中でペンチュウの『中毒』の章は約 600頁の分量があります。筆者は、果たしてこの本は、附属図書館に収蔵されてからいったいどれだけの人に読まれたのだろうかと思いました。貸出票には筆者の名前以外に記録はないようでした。
ペンチュウは、『中毒』の章を執筆したときはブルガリアのソフィアからから米国のワシントン市に移住していました。ペンチュウは、「水銀中毒」(Quecksilbervergiftung)の段の中に、前記ハンター、ボンフォード、ラッセル三名の 1940年の論文 [8] と、ハンターとラッセル二名の 1954年の論文 [17] を紹介しました。 ペンチュウは、その中で、ドロシー・ラッセル教授と個人的に相談した上で(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel [19])、死後の解剖によって発見された、メチル水銀による大小脳の局所萎縮、顆粒細胞層の破壊などの病理学上の「組織所見」について「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名すると記述しました [19]。 それらの経緯を筆者は拙著『聖バーソロミュー病院 1865年の症候群』(自由塾 2016年)に詳しく述べております [4]。 12. 「ハンター・ラッセル症候群」は生前の所見として取り違えられた 1958年に熊本大学の病理学教室の武内忠男教授は、広告を見てペンチュウの『中毒』(Intoxikationen) [19] を購入しました。1959年7月22日に熊本大学の研究者らは医学部講堂で「水俣病研究報告会」を開き、「水俣病の原因物質はある種の水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と発表しました。その発表の内容は 1959年8月20日に「昭和 34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」 [9] として刊行されました。その中で武内教授は次のように述べています。
武内教授は、前記のとおり「文献上ほとんど認められない程で、有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)があるのみ」と述べました。これが、わが国で生前の諸症状について「ハンター・ラッセル症候群」という術語が用いられるようになった原点です。またこれがわが国でロンドンの聖バーソロミュー病院のメチル水銀中毒が明示的に隠ぺいされた原点です。
武内教授は、ハンターやラッセル、ペンチュウの論文を、字面(じづら)を見ただけで、本当は読まなかったようです。その根源的な誤りが、将来にわたって深刻な事態をひき起こして行きます。筆者は、そのことについて真に言葉を失います。 先ず、ペンチュウ博士とラッセル教授が定義していた「ハンター・ラッセル症候群」とは死後の解剖所見のことです。小脳性失調や視野狭窄、構音障害などの生前の諸症状のことではありません。 ペンチュウは、聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒について、その主な症状として「四肢のしびれ」と、「視覚障害」、「聴覚障害」、「四肢の運動失調」の四つをあげました。ペンチュウが『中毒』 [19] の中でメチル水銀中毒の「生前」の症状について「症候群」(Syndrom)という術語を用いたのは、その一か所だけでした。 構音障害(Dysarthrie)について、ハンターとラッセル二名の 1954年の論文 [17] では、死亡した患者には入院の 7週間前に歯をすべて失ったことによる軽い構音障害があったと記しただけでした(Slight dysarthria was attributed to loss of all his teeth seven weeks previously.)。また、ハンターとラッセルは、「言語障害」(speech deterioration)、「発語障害」(gross dyspharsia)という臨床上の所見についての記述を残してはいますが、それらの臨床上の所見と解剖上の発見とを結びつける記述を残していません。したがって、ペンチュウの『中毒』 [19] の中に「ハンター・ラッセル症候群」として「Dysarthrie」(ディサートリイ 構音障害)に関係する記述はありません。また、ハンターとラッセルは 1954年の論文 [17] で、患者に生前「感覚障害」(二点法)があったことをくり返し述べています。 1940年のハンターとボンフォード、ラッセルの論文 [8] の中でも「三主徴」(英語で、trias)という言葉は一か所も用いられていません。また、ハンターとラッセルも、その 1954年の論文 [17] の中で「三主徴」(trias)という言葉を 一か所も用いていません。また、ペンチュウは、『中毒』 [19] の中で「三主徴」(ドイツ語で、Trias)という言葉を一か所も用いていません。 13. 「ハンター・ラッセル症候群」は真正の患者を切り捨てるための道具と化した 熊本大学は、有機水銀説について、1959年10月6日に熊本県に対して鰐淵健之学長が報告書を提出しました。その報告書は、熊本県衛生部より『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』と題して 1960年3月に公表されました [10]。以下その一部(第35頁)を掲載します。
徳臣晴比古助教授も、上記のとおり「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(ディサートリイ 構音障害)をあげ、それを「Hunter Russelis Syndrom」(ハンター・ラッセル症候群)と報告しました(Russelis の表記は Russelsches の誤り)。
徳臣助教授は、武内教授の根源的な誤りに対して自らは何の検証をすることもなく、死後の「解剖所見」である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の「臨床所見」としてそのまま取り違えました。 徳臣晴比古助教授は 1957年にエッティンゲン著の『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』 [18] を読み、有機水銀に疑いをもったことを自らの「てがら」であると考え、「天祐(てんゆう))(天の助け)であった」と述べています(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 一方、武内教授は、「アメリカから『ポイゾニング』という本が出てるんですけどね。ちゃちな。それを見てもわからないんですよ。徳臣さんはあれを見てわかったと言っているけれど、あれはウソですよ。分かるはずがないですよ。あれを見て」と述べた記録(テープからの書き起こし 1993年)が残っています。 武内教授は、ペンチュウについて「米国 N.I.H.の神経病理学者である」と紹介した記録が残っています(テープからの書き起こし)。 N.I.H.(National Institutes of Health)は米国ワシントン市の近くにある国立の研究所です。N.I.H. には筆者(入口紀男)も 1977年からしばらく在籍したことがありますが、ペンチュウが N.I.H.に在籍した事実はありません。ペンチュウはワシントン市内の軍事病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に所属していました。 1970年2月1日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行されました。その特措法に基づいて「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」が設定され、徳臣晴比古教授が会長に選任されました。 1971年8月7日に、そのころ新設された環境庁より審査会に対して「事務次官通知」が送達されました。それは、「求心性視野狭窄と運動失調(言語障害、歩行障害を含む)、難聴、知覚障害のうち、いずれかの障害がある場合において、有機水銀の影響を否定しえない場合は、これを水俣病の範囲に含む」というものでした。 当時審査会長となっていた徳臣晴比古教授は、「ハンター・ラッセル症候群」を「金科玉条」とし、複数の症状が組み合わされていなければ「ハンター・ラッセル症候群」ではないとして、前記「事務次官通知」を拒否しました。 徳臣教授は、「この環境事務次官通知は、誰が何を根拠に何を目的に発令したかわからないが、水俣病患者を一度も診察したこともなく、神経病理学、内科学の研鑽の実績があるとも思われない者が、よくこのような診断基準が出せるものだと驚き、かつ憤慨した。審査会委員のうち、実際に診療に携わっていた者十一人中七人は、同年九月三日の審査会で沢田一精県知事に辞表を提出した」と述べています(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 それにしても、徳臣教授は、ペンチュウの『中毒』(Intokikationen) [19] の原文を改めて読み返してみることをしなかったのでしょうか。徳臣教授は、ペンチュウ博士とラッセル教授が小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」とよんで「いない」ことに気がつくことはなかったのでしょうか。そして、ペンチュウも、ハンターも、ラッセルも、「三主徴」(Trias)という言葉を一か所も用いていないことに気がつくことはなかったのでしょうか。 わが国で「ハンター・ラッセル症候群」は、その後、運動失調・視野狭窄・構音障害などの複数の症状がそろっていなければメチル水銀中毒ではないとして真正の患者を切り捨てるための道具と化して行きました。その結果、現在まで、感覚障害などをもっていて当然補償を受けるべき膨大な数の真正の患者が「ハンター・ラッセル症候群」を呈していないという理由で補償を受けられないという深刻な人権問題・社会問題をひき起こしています。 第四章
14. 「水俣病」は行政に無策を貫かせるための術語である 米国政府はメチル水銀を国民の「核」に次ぐ脅威と位置付けていて魚介類(ぎょかいるい)のメチル水銀に対して厳しい「摂食量規制値」を設けています。米国では、誰も「1週間に体重 1キログラムあたりメチル水銀を 0.7マイクログラムまで」しか食べてはなりません。米国はそのように定めています。コンビニエンスストアや郵便局などにも魚食に注意を払うように政府のチラシが置かれています。しかし、それでも、米国の妊娠可能な女性の血中総水銀濃度が高いトップ 10パーセントの女性から生まれる子供の約 10パーセント(毎年約 4万人)は「学習障害」(LD)を発症します。学習障害は胎児期に脳細胞が受けた障害によって起きるものです。家庭環境や学習環境によっては起きるものでないことが知られています。これには発生医学的な検証は必要でしょうが、現在の米国の総人口の約 1パーセント(約 300万人)がそのような胎児性メチル水銀中毒であると推定されます。わが国にそのような調査結果はありません。 わが国は、「あれは水俣の水俣病」として無策を貫いています。わが国としては「ハンター・ラッセル症候群」として「普通に歩けないほどの運動失調」「言葉が聞き取りにくいほどの構音障害」「目がよく見えないほどの視野狭窄」の「三主徴」がそろっていなければメチル水銀中毒の患者として公的に認定したり補償したりしないわけですから、政府は、国民が北太平洋の魚介類を大量に食べたからといって誰ひとりとしてそれほどのメチル水銀中毒にならないと想定しているのでしょう。しかし、多くの国民が感覚障害や先天的な学習障害(LD)、あるいは、後天的な高次脳機能障害などの症状で真正のメチル水銀中毒を発症している蓋然性(がいぜんせい)は高いと考えられます。
北太平洋全域のメチル水銀濃度が過去 100年間で約 10倍高くなっています。産業革命以来世界中で石炭が大量に焚かれるようになったからです。石炭 1トンには太古の水銀約 250ミリグラムが含まれています。中国は毎年高い経済成長を誇り、世界の経済大国になっていますが、その経済成長を支えているのが石炭です。中国では世界の半量(年間約 30億トン)が焚かれています。石炭に含まれる水銀は約 357 ℃で沸騰して水銀蒸気となります。この水銀蒸気は偏西風に乗り、上空で冷えて金属水銀となり、雨滴とともに日本の国土や海上に降ってきます。それを微生物がメチル水銀に変えます。現在の北太平洋のメチル水銀濃度は、メチル水銀中毒が顕在化し始めた水俣湾の初期の状態に近く、日本近海で獲れる魚介類には国の基準(1キログラムあたり水銀量 0.4ミリグラム)を超えるものが相当の割合で出始めています [23]。
石炭が焚かれるとき、出てきた水銀蒸気を水に通せば水銀蒸気は冷えて水の底に溜(た)まります。そこで、水銀が蒸気となって上空へ行かないように、煙もろともいったん水を通せばよいのですが、そのことは現在の日本の石炭火力発電所でも行われていません。中国の人民にこれを強いることは困難でしょう。 15. 北太平洋で獲れる魚介類のメチル水銀濃度 かつて魚介類を多く食べる国民ほど長生きし、また、胎児も成長する傾向にあると考えられていました。魚介類には、PUFA(多価不飽和脂肪酸)といって、 DHA(ドコサヘキサエン酸)や EPA(エイコサペンタエン酸)などの重要な栄養素が含まれているからでした。妊婦が魚介類を食べると胎芽や胎児の脳は良く発達すると期待されていました。しかし、現在市場に出回っている魚介類には PUFAなどが含まれているという利点はあるものの、メチル水銀があまりにも多量に含まれるようになっています [21]。古代から中世、近世にかけて、自然環境に 1年間に放出される水銀の総量は約 1,700トンでした。火山や海底火山の噴火などによって、毎年新たに放出される量が約 700トンでした。残りの約 1,000トンは「再放出」といって、地表に降ったものが蒸発したり、海洋から蒸発したりして 1年間に大気中に放出される量でした。この自然由来の水銀量の合計約 1,700トンは、太古の昔も今も変わりません。 一方、自然環境に対して人為的に放出される水銀の量は現在世界で 1年間に約 6,000トンです。この量は年々増加しています。その中で金属精錬などにともなって人為的に河川や海中に流される水銀量は 1年間に約 1,000トンです。また、石炭を焚くなどして人為的に大気中に放出される水銀量は 1年間に約 2,000トンです。さらに、約 3,000トンが毎年再放出されています。したがって、現在、自然環境に 1年間に放出される水銀の総量は約 7,700トンです。 水俣で 1956年にメチル水銀中毒が確認されてから半世紀以上が経ちますが、その確認当時(20世紀半ば)に比べると、北太平洋で獲れる魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は 6~8倍高くなっています。市場に出回っている魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は非常に高濃度です [23]。
ハーバード大学のスコット・エドワーズらは、絶滅危惧種クロアシアホウドリの標本が各地の博物館に 100年以上昔から保存されていることに着目しました。クロアシアホウドリは魚介類を食べて生活します。エドワーズらは、北太平洋一帯で 1880年から 2002年までに捕獲されたクロアシアホウドリの胸の羽毛に含まれるメチル水銀量を測定しました [22]。ハーバード大学の博物館の 7つのサンプルとワシントン大学の 17のサンプルでは、1グラムあたり 5ミリグラム以下から 40ミリグラム以上へと定性的に高くなったことが示唆されました。 40ミリグラム以上のものはすべて 1940年以降に捕獲されたものでした。現在においてはさらに高くなっているものと推定されます。ただし、測定値のばらつきは大きく、サンプル数は限られていて、更なる検証も必要ですが、過去 100年の間に北太平洋のメチル水銀濃度がおよそ一桁高くなっていることが強く示唆されています。
北極圏では、動物の遺体が極低温で何世紀もの間保存されていることがあります。それらの遺体のメチル水銀含有量を測定した結果、13世紀から 18世紀までは生体組織のメチル水銀濃度は比較的安定していましたが、図に示されるように 19世紀から現在まで約 12倍上昇しています。
東シナ海周辺には海鳥の卵殻が 13世紀から現在まで寺院などに保存されています。それらの卵殻中の水銀含有量を測定した結果、水銀濃度は 19世紀から 20世紀にかけて急激に上昇しており、特に 1970年以降の上昇が著しくなっています。南シナ海の水銀濃度も産業革命以前の濃度より約 10倍高いと考えられます。 16. メチル水銀と食生活 普通の成人がメチル水銀を摂(と)った時の致死量は約2.9ミリグラムと推定されています。それは重さも感じられないほどの微量です。そのメチル水銀を月日をかけながら少しずつ食べると、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、補償機能(リハビリ機能)によって脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持することが知られています。明治・大正時代に日本近海で獲れる魚介類のメチル水銀濃度は 1キログラムあたり約 0.02ミリグラムの程度であったと推定されます。1940年ごろ、水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度はそれより約 10倍高くなったと推定されます。その魚介類を毎日 1キログラム食べると約 2週間でメチル水銀を一度にとった場合の致死量の 2.9ミリグラムに達します。水俣でメチル水銀中毒の患者が多発した 1950年代から 1960年代にかけて水俣湾の魚介類のメチル水銀濃度は 1キログラムあたり 0.4~0.6ミリグラム以上であったと推定されます。すると多くの人びとは脳の補償機能が追いつかなくなってメチル水銀中毒を発症したものと推定されます。 平均的な日本人は、1992~2001年の平均において 1年間に約 50キログラムの魚介類を食べ、1年間に 3.1ミリグラムの総水銀を食べていました [21]。魚介類の総水銀のほとんどはメチル水銀です。 2003年の時点(測定は環境省で公表は厚労省)で、わが国の近海で獲れた魚介類は、総水銀量が 1キログラムあたり平均 0.15ミリグラム、メチル水銀量が値 0.14ミリグラムでした [23]。個体数の約 7パーセント(643匹中46匹)が 1キログラムあたり総水銀量 0.4ミリグラム(我が国の魚介類の規制値)を超え、13パーセント(643匹中82匹)が 1キログラムあたりメチル水銀量 0.3ミリグラム(我が国の魚介類の規制値)を超えていました [23]。この測定結果では、1年間に 50キログラムの魚介類を食べると、日本人は 1年間に 7ミリグラムのメチル水銀を食べていることになります。 近年、北太平洋で獲れて国内で流通する魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は極めて高く、前記 2003年の測定データ(魚介類のメチル水銀値平均 0.14ミリグラム)が最後ですが [23]、それから 15年以上経った現在は、1キログラムあたり平均 0.2ミリグラムに近いと推定されます。これはメチル水銀中毒が起き始めた初期(1940年頃)の水俣湾のレベルです。
メチル水銀の摂食量規制値の比較
表のようにわが国には、メチル水銀の「摂食量規制値」が存在しません。わが国にあるのは「魚介類規制値」だけです [24]。マグロ、クジラなどは何の規制もなく流通させています。
仮に 1キログラムあたり総水銀量 0.4ミリグラムの魚介類を一度に食べると、メチル水銀の致死量は 2.9ミリグラムですから、約 7.25キログラムが致死量です。特に、海の食物連鎖の頂点に立つクロマグロ(ホンマグロ)のメチル水銀量は 1キログラムあたり平均 0.7 ミリグラム、最大 6ミリグラムですから、その最小の致死量は 483グラム、平均の致死量は 4.14 キログラムです。マッコウクジラのメチル水銀量は 1キログラムあたり平均 2 ミリグラム、最大 4ミリグラムですから、その最小の致死量は 725グラム、平均の致死量は 1.45 キログラムです。バンドウイルカのメチル水銀量は 1キログラムあたり平均 20ミリグラム、最大 35ミリグラムですから、その最小の致死量は 83グラム、平均の致死量は 145グラムです。 メチル水銀を少しずつ食べて生き延びても、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、メチル水銀の生涯摂取量が 200ミリグラムに達するまでは補償機能によって脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持すると推定されています。 W.H.O.によれば、日本を除く世界各国で摂食量規制値が「1週間に体重 1キログラムあたりメチル水銀量で 2マイクログラム以下」として確立されつつあります。 厚生労働省は、摂食を規制することは「風評」につながることを恐れるとしたうえで、「妊婦」に対してのみ、また、妊婦に対してさえも「マグロ」などに関してのみ、それも米国のような「量的規制」ではなく、「注意事項」のみを公表しています [24]。そのうえで、妊婦以外の人はどんな魚介類を幾ら多く食べてもよいとしています。 それでも、北太平洋のメチル水銀濃度は水俣湾の初期の状態に近づきつつあります。W.H.O.が世界の国々に対して摂食量の規制を行うよう推奨しているのに対して、わが国は国民に対して摂食量の規制を行わず、メチル水銀中毒を「あれは水俣の水俣病」として向き合おうとしていません。これは、世界の標準に照らしても普通とはいえません。 行政も、科学を無視した、そのような差別思想を捨てて、やはりメチル水銀中毒に正面から向き合わなければなりません。わが国がこのままメチル水銀中毒を「あれは水俣の水俣病」として逃げるのでなく、国民すべてに対するメチル水銀の脅威として正しく対策を講じなければ、国民はいずれ自然界から重い責任(先天的な学習障害や後天的な高次脳機能障害などのメチル水銀中毒)を突き付けられるでしょう。 おわりに
水俣は平安時代から知られる古い城下町です。現在の水俣市陣内の古城(こじょう)に水俣城址が残っています。水俣城は肥後國にあって薩摩國との国境に位置する重要な城でした。水俣城は加藤淸正の出城となりましたが、1612年(慶長十七年)德川幕府の命令によって廃城となりました。
水俣では 1877年(明治十年)の西南の役で住民をまき込んで激戦も行われました。 水俣は、そのような北と南のせめぎあいの中にあって、自給自足の町として、いく世紀にもわたって孤立しました。長い歴史を通して外に開かれた唯一の交易路は西に広がる不知火海でした。
昭和九年(1934年)まで水俣には二つの川が市街地の南東近くで交差して流れていました。地図の中に「水俣川」と見えるのが古賀(こが)川です。東のほうから河口で古賀川と合流して海に流れ出ているのが洗切(あらいきり)川でした。地図の古賀川西岸の河口近くではすでに日本窒素肥料株式會社(創業者・野口遵(したごう 1873-1944)がカーバイド工場を操業しています。地図の市街地より少し北に「牧ノ内」の地名が見えますが、筆者(入口紀男)の実家がここにあります。牧ノ内には徳冨蘇峰などの墓所もあります。地図に見える「八代灣(やつしろわん)」は、徳冨蘆花の『死の蔭に』(1917年)の中では「葦北の海」と書かれていますが、地域では夜景の美しい蜃気楼を称(たた)え、あるいは畏(おそ)れて「不知火(しらぬい)海」とよばれます。地図に見える「濱(はま)」は三十四町(約十万坪)にも及ぶ広大な塩田でした。製塩はそれまで約二百五十年続いており、水俣港から年間数十万俵を出荷する水俣の主力産業でした。この塩田が 1915年(大正四年)から日本窒素肥料株式會社の新工場の敷地となりました。 徳冨蘆花は『死の蔭に』の中で 「水俣は過去のものになったが、己(わ)が少年時代靑年時代の一部を永久に預けてある此海(このうみ)此山(このやま)此鄕(このきやう)を余は決して忘るゝことは出來ぬ」と述べています [25]。水俣は、そのような昔の水俣を取り戻さなければなりません。
熊本県では昭和五十年(1975年)から約 500 億円、13年間 かけて、水俣湾の底(東京ドーム 13個分の広さ)を浚渫(しゅんせつ)しました。埋め立て地(旧水俣湾)は広大な公園になっています。そこに接する海では、平成九年(1997年)に獲れた魚介類の総水銀濃度が国の基準値(1キログラムあたり 0.4ミリグラム)を 3年続けて下回ったので、熊本県では安全宣言を出して現在は漁獲も行われています。
平成二十二年(2010年)度に、水俣市は、国内で自然保護や環境保護の分野において最も優れた行政活動を行なっている自治体として「環境首都」の称号が与えられました。厳しい条件をすべて満たして環境首都の称号が与えられた都市は日本では水俣市だけです。 日本窒素肥料株式会社(現チッソ株式会社)は、将来にわたって過去の責任を背負っています。しかし、その水俣工場であるJNC株式会社も世代はすっかり替わっていて、地域の高等学校などを卒業した若い人たちがこれから希望をもって働く重要な企業となっています。 水俣湾にも多種多様な魚介類が戻っていて美しい海となっています。透明度が高い南九州の海であり、イワシ、太刀魚、アジ、色とりどりのクマノミ、カサゴ、タイ、サヨリ、タツノオトシゴ、カニが棲息するようになり、岩肌にはフジツボなども戻っています。温暖で風光明媚な水俣は、これからも世界に向けてさまざまな情報を発信し、発展していくでしょう。 本書で論じましたように、メチル水銀中毒を「水俣病」と表現する行為は差別行為です。本書の第一章で詳しく論じましたように、その差別行為にはどのような「正当性」も「自明性」もありません。人は「基本的人権」として法の下において「誰ひとり」として差別されない永久かつ絶対の権利をもっているからです。本書を手に取ってお読みくだった皆さまにおかれましては、どうぞよろしくお願い申し上げます。私たちは、そのような本当に差別のない社会を構築する新しい時代にさしかかっています。 これだけの苦境を経験し、努力を続けてきた地域は、世界でもまれです。それだけに、水俣は、さらなる努力によって新しい形で発展していくものと思われ、そこには明るい未来が感じられます。
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