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 『排水管からたれ流される死』(ユージン・スミス) 




入口紀男

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 報道カメラマンであったユージン・スミス(1918-1978)は、「ライフ」誌の 1972年6月2日号に、チッソ水俣工場からメチル水銀廃水がパイプ(排水管)を通して不知火海に流されているとする写真を『排水管からたれ流される死(Death-Flow from a Pipe)』と題して発表しました。
       

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排水管からたれ流される死
Death-Flow from a Pipe
ユージン・スミス

 それは、メチル水銀廃水が一方的に海(不知火海)に流されるという不気味さを訴える写真であり、世界に少なからず衝撃を与えたようです。おそらくユージンの最も有名な作品の一つです。
 工場廃液が鉄パイプ(排水管)を通して不知火海に流される映像シーンは、映画『MINAMATA』にも出て来ます。

 日本窒素肥料株式会社(現チッソ)水俣工場は 1932年5月7日(土)からアセトアルデヒドを製造し、副生したメチル水銀廃液を工場の側溝を通して水俣湾に排出しました。
 その結果、水俣湾周辺にメチル水銀中毒患者が多発したことが知られています。
 1958年9月9日(火)に水俣工場は排水口を水俣湾から水俣川河口に変更し、今度は金属パイプから流しました。水俣川に流したのは、廃液を不知火海全域に流して薄めるためでした。

 1958年に筆者(当時水俣第一小学校六年)と友だちは、その排水パイプを近くから何度か見ました。それは、粗末な金属パイプでした。河口の土手から鉄材の細い桁(けた)の上を通って流れの上までせり出しているもので、「水平」に開口していました。廃液はそこから時どき排出されていました。ユージン・スミスによって撮影されたパイプは、筆者らが見た排水パイプではありません。

 1959年になって、水俣川河口に近い不知火海沿岸の葦北郡津奈木村、湯の浦町等でメチル水銀中毒患者が発生し始めました。
 それを聞いて、1959年10月21日(水)に通商産業省(当時)化学産業担当の秋山武夫は新日本窒素社長の吉岡喜一に「水俣川河口への排水を停止して水俣湾に戻せ」と指示し、新日本窒素は直ちに水俣湾に戻しました。1959年末に水俣川河口の排水パイプは撤去されました。
 排水は再び工場の側溝を通して(パイプを使わないで)水俣湾に排出され、その放流は 1968年5月18日(土)に水俣工場がアセトアルデヒドの製造を停止するまで続きました。

 ユージンとアイリーン・スミスが水俣に来たのはその後の 1971年9月でした。それは、水俣工場が排水パイプを撤去してから 10年以上、また、メチル水銀廃液をどこにも流さないようになってから 3年以上経っていました。したがって、水俣工場からのメチル水銀廃水がパイプ(排水管)から海(不知火海)に流される様子を、ユージン・スミスが写真に撮ることは不可能でした。

 1971年に報道カメラマン・ユージン・スミスによって撮られた『排水管からたれ流される死(Death-Flow from a Pipe)』と題するこの作品は、1970年代に「八幡プール」といって、水俣工場から北に約 1キロ離れた「白どべ」(メチル水銀を含まないカーバイド排泥)を貯めた人工の沼地で「水」を流している写真です。