ユダヤ人渡来説は偽説か否か
日本古代史を科学する 【趣旨】 日本人はユダヤ人のDNAをもっていない。日本人はユダヤ人の子孫ではない。秦氏(はたうじ)もユダヤ人ではない。しかし、日本の古くからの「ならわし」や「ことば」に古代イスラエル文化の強い影響がある。このことは確かなようである。一方、朝鮮半島に古代イスラエル文化の痕跡は見られない。ユダヤ人は、日本にいつどこから渡来したのであろうか? そして、日本でその血はなぜ途絶えたのであろうか? この疑問のすき間をぬって、書籍上などで多くの憶測が飛び交っている。
『旧約聖書』の「出エジプト記」によれば、紀元前十三世紀ごろ、モーゼ率いるユダヤ人がエジプトを脱出した。日本の縄文時代末期に相当する。そのころ一部のユダヤ人が日本に渡来したとする仮説が流布されているようである。それには科学的な根拠がない。渡来したひとりを「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」とするに至っては「妄想」である。
紀元前 722年に北イスラエル王国(サマリア)がアッシリアの攻撃によって滅亡した。そのことは事実であろう。しかし、そのときに失われた北イスラエルの十支族が、「紀元前 660年」ごろ、すなわち、『日本書紀』が初代神武天皇の即位元年とするころ、日本に渡来して「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」や「猿田彦命(さるたひこのみこと)」になったなどという仮説が流布されているようである。それらも面白いが、根拠のない「つくり話」である。虚構の歴史を構築して見せることは、それを面白いと感じる人はいるであろうが、誰にとっても「共通の利益」(アリストテレス)となるのであろうか? 日本人が、文献の上で「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」や「素戔嗚尊」、「瓊瓊杵尊」、「猿田彦命」などの存在を知るのは、八世紀になって『日本書紀』(720年)などが書かれてからである。
イスラエル国でも家系は男系である。しかし、イスラエル国では、イスラエル国民のうち、ユダヤ人とは、「ユダヤ人の母親から生まれた人、またはユダヤ教に改宗したことを認められた人」と定義している。それ以外の人は「イスラエル人」としている。
明治時代に「日ユ同祖論」が独り歩きしたが、最初に述べた通り、現代の日本人の間にユダヤ人の血は流れていない。秦氏もユダヤ人ではない。秦氏は朝鮮半島南端にあった伽耶の人びとである。秦氏は、中央アジアの古都市「弓月」とも始皇帝の秦とも無関係である。また、当時の東アジアの政治情勢を見ると、『日本書紀』に書かれるようには、秦氏は、必ずしも第十五代應神天皇の時代に大量に渡来したことが確かだというわけではない。 中国には、河南省開封(かいほう)市に、古くからユダヤ人のコミュニティ(村落)が存在する。現在も、『旧約聖書』と古代のユダヤの律法を守って暮らす。その規模は、時代によって五百~五千人と変化しながら現代に至っているようである。ユダヤ人がいつ中国に移り住んだかについて、中国の学者の間でも意見は分かれている。しかし、「漢の時代」に移り住んだのではないかという点では、およそ一致している。 弥生時代に、朝鮮半島から日本に東アジア人(漢族)と北東アジア人の DNA(遺伝子)をもつ民族が日本に流入した事実が知られている。その規模は分からない。その後、西暦 316年に西晉が匈奴の侵攻によって滅亡した。日本の古墳時代である。洛陽も長安も陥落した。中国大陸は北方民族が支配する「五胡十六国」の時代となる。そのころ、大量の東アジア人(漢族)が難民として日本に流入した可能性は高い。その東アジア人に混じって、相当な数のユダヤ人が渡来したのではないか。朝鮮半島にはユダヤ文化の痕跡がないことから、彼らは中国大陸から日本へ直接流入したようである。そして日本にユダヤの高い文化を伝えた。しかし、ユダヤ人の血統(種)は自然に消滅したと見られる。 ここでは、「ユダヤ人渡来説」について、憶測や妄想をできる限り排除して、科学的にあり得ることとあり得ないことを明確にしたい。
第一章 【1】 日本のどのような「ならわし」に古代ユダヤ人の影響があるとされるのか 日本の「ならわし」(慣習や一般的な生活習慣)にイスラエルの影響があるとする仮説がある。それは、ユダヤ人が日本に来て日本の文化に大きな影響を残したとするものである。たとえば、相手を「敬称(みこと)」で呼んだ。「鬟(みずら)」といって埴輪(はにわ)のように左右の髪を耳元で結った。等である。また、「水」で「禊(みそぎ)」をする。「塩」で「清め」をする。等である。『旧約聖書』には、塩には清めの力があると書かれている(レビ記 2:13 など)。イスラエル人は日本の大相撲で力士が土俵に塩をまくのを見て「清め」であると直感する。欧米人は、これを塩化ナトリウム(NaCl)をまく伝統的な「儀式」であるとして理解する。いずれも、間違ってはいない。日本人も「お辞儀」をする(創世記 33:7)。以下、『旧約聖書』の章節に対応するかもしれない記述がある場合は、参考としてこの形でその章節を付記する。しかし、必ずしも「対応する」と断定できるわけでないことはもちろんである。
日本人も、死者に対して「穢(けが)れ」を感じる(民数記 19:11)。現代でも葬式に参列すると「お清めの塩」が配られる。参列者は自分の家に帰った時、そのお清めの塩をふりかけてもらわなければ家に入れてもらえない。神道では葬儀は必ず神社以外の場所で行われる。穢れを神社内に持ち込まないためである。初参りのときに、日本でも、娘は「産の穢(けが)れ」にあるとして母親が子どもを抱く。
山伏は、額(ひたい)に「兜巾(ときん 宗教の書き物を入れた黒い箱)」をつける(出エジプト記 28:37)。そのようなならわしは世界でも稀である。また、ほら貝を吹く(ヨシュア記 6:1-20 など)。 日本人も、清潔好きである。身体や衣服や家の中をきれいにする。履物を脱いで家に上がる。足を洗う(士師記 19:21)。これらは中国や朝鮮半島から伝わったものではない(図は歌川広重の浮世絵)。浴槽に入る前に体を洗う。石鹸は浴槽の中では使わない。などである。 日本人も、正月とお盆の二つを、毎年高速道路が大渋滞するくらいに大切にする。これを古代イスラエル風にいうと「過越(すぎこし)の祭り」と「仮庵(かりほ)の祭り」を大切にする。ということになるのかもしれない。
「過越(すぎこし)の祭り」とはどのような由来をもつ祭りなのであろうか?
『旧約聖書』によれば、神は、モーゼを民の指導者として、エジプトから脱出して約束の地(カナン)へと向かわせようとした。国王(ファラオ)はこれを妨害しようとする。そこで、神は、エジプトに対して「十の災い」をもたらす。 (第一)ナイル川の水を血に変える(出エジプト記 7:14-25)。(第二)蛙を放って国土を覆う(出エジプト記 8:1-15)。(第三)ぶよを放って国土を覆う(出エジプト記 8:16-19)。(第四)虻(あぶ)を放って国土を覆う(出エジプト記 8:20-32)。(第五)エジプト人の家畜を疫病で全滅させる(出エジプト記 9:1-7)。(第六)エジプト人に膿(うみ)のでる腫れ物を生じさせる(出エジプト記 9:8-12)。(第七)ひょうを降らせて国土を覆う(出エジプト記 9:13-35)。(第八)いなごを放って国土を覆う(出エジプト記 10:1-20)。(第九)エジプトを暗闇で覆う(出エジプト記 10:21-29)。(第十)エジプト人の長子を皆殺しにする(出エジプト記 11:1-10、12:29-33)。 「第十の災い」は、人間から家畜に至るまで、すべての初子(ういご)を殺すというものであった。神はモーゼに知らせておいて、門柱に子羊の血のついているイスラエル人の家々にその災いは及ばなかった。すなわち、過ぎ越された。 日本は季節風の国である。季節風は、日本に豊かな自然をもたらした。恐ろしい自然をもたらした。そして、美しい自然をもたらした。万葉の人々は、そのような自然を素朴に畏(おそ)れ、そして称(たた)えた。『古今和歌集』には、繊細な季節感が織り込まれた。お正月が近づく。山も海も、草木も、人々の生活も、凛とした空気に包まれる。おせち料理がつくられる。年が明ける。すると、おせち料理には、お正月の神さま(精霊)が宿る。これが、森羅万象に神々が宿る日本である。日本では、その凛とした空気のことを言葉にするのは不謹慎であるという空気さえも存在する。 日本人も、正月が来る前に家の大掃除をする(出エジプト記 12:15)。大晦日に「夜更かし」をして年越しをする。年が明けると、あたかも災いが過ぎ越されたかのように「おめでとう」と祝い合う。なぜ「めでたい」のか、日本人もはっきりとは答えられない。昔からそういうことになっている。「もち」を食べる(レビ記 23:6)。「七草がゆ」を食べる(出エジプト記 12:8)。一方、欧米でも 1月1日は国民の祝日である。大勢でカウントダウンをする。爆竹を鳴らしたり、クラクションを鳴らしたりする。また、花火を打ち上げたりする。しかし、めでたいというわけではない。New Year が始まるだけである。1月2日から仕事も学校も始まる。 旧暦九月に伊勢神宮で行われる「神嘗祭(かんなめさい)」は「お初穂」を奉献する(出エジプト記 34:26)。このとき神宮で使われている衣や机、道具などが、あたかも新年を迎えるかのようにすべて新調される。イスラエルで「仮庵の祭り」は、太陽暦で九月ごろに行われる。北イスラエル(サマリア)では八月十五日に、南イスラエル(ユダヤ)では七月十五日に「仮庵」を建てて家族や親戚が集まり、収穫を祝った(レビ記 23:39-42)。仮庵の祭りは日没とともに始まる。イスラエルでは、これもまた「新年」(ロシュ・ハシャナ)とされる。すなわち、イスラエルには古代から(現在も)正月が春と秋に二回ある。 『旧約聖書』によれば、モーゼが神を見て食事をすると、神は、モーゼに民を率いる指導者として戒律を書き記した石板を授けた(出エジプト記 24:12)。そのように、神前で食事をすることには、何か重要な意味があるようである。「神嘗祭」の約一か月後に皇居で「新嘗祭(にいなめさい)」が行われる。天皇は神道の最高位の神官である。このとき収穫の一部が奉献される。その後、天皇は神前でそれを食される。特に、皇位継承のときの最初の新嘗祭は「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼ばれる。天皇は、これによって皇祖と天神地祇から民を率いる指導者としての役割を授けられる。 大嘗祭で最も重要な儀式は、その年に国内で採れた新穀を、天皇陛下御親(みづか)らが皇祖と天神地祇に供し奉り、国家(おほみくに)と国民(おほみたから)の安寧と五穀豊穣を感謝し、かつ、祈念し、陛下御親らが新穀を食される。これは「供饌(きょうせん)の儀」と言われる。まず「悠紀殿(ゆきでん)において、新穀をもって「悠紀殿供饌の儀」が行われる。また、「主基殿(すきでん)」において新穀をもって「主基殿供饌の儀」が行われる。「悠紀殿」も「主基殿」も、柱は松の黒木(皮のついたままの丸太)、茅葺(かやぶき)で、畳表(たたみおもて)で囲って竹の縁を設けたものである。これは『旧約聖書』に照らしてみて、「仮庵」と言えば「仮庵」と言えるのかもしれない。神饌(しんせん)の数々を行列を組んで運ぶ行事を、「神饌行立(ぎょうりゅう)」といい、新穀の米や粟、鮮魚、干物、果物、海藻、白酒(しろき)、黒酒(くろき)など、全国の海川山野の品々がお供えされる。大嘗祭は、陛下がおひとりで行われる秘儀である。2019年11月14日(木)の夕刻から15日の未明にかけて、今上陛下の皇位継承の「大嘗祭」が皇居の東御苑で行われた。その儀式のために、「悠紀殿」と「主基殿」が新しく仮設された。陛下はこれに白装束で向かわれた。 縄文時代に日本列島は「縄文海進」によって海面が二、三メートル高く、また、地域によっては五、六メートル高かった。日本列島は大陸や朝鮮半島から離れて孤立していた。しかし、縄文時代に糸魚川流域などで採れた翡翠(ひすい)が全国各地で見つかることなどから、縄文の人びとは日本列島内で活発に交流していたと見られている。縄文の人びとは、貪欲なまでに新しい文化や知識を求めた。「何か」を知っていて文化的な教養が高い人びとは、たとえ数えるほどしかいなくても尊敬された。これも、現代に伝わる縄文人の哲学である。仮に古代の日本に「ならわし」を伝えたユダヤ人が数えるほどしかいなかったとしても、それは日本国内を速やかに伝搬したであろう。しかし、現在の日本にユダヤ人の DNAは見つからない。その後ユダヤ人の血統は途絶えたと見られる。 なお、沖縄には、門柱に動物の血を塗って家内安全を祈るなど、古代イスラエルの「過越の祭り」に固有の風習が残っているとする仮説がある。沖縄は、北海道と同様に、それなりに大陸から近く、直接漂着しやすいのかもしれない。しかし、断定はできない。門柱に血を塗って家内安全を祈る風習は、ユーラシア大陸の遊牧民の間で広く行われていた厄除けの祭事が起源である。イスラエルでも、その後「出エジプト」の伝承と結び付いて、ユダヤ人の風習となったと見られている。 【2】 日本人は北イスラエル(サマリア)の「失われた十支族」の子孫か
『旧約聖書』によれば、紀元前十七世紀にアブラハムの孫ヤコブが飢饉に見舞われてエジプトに移住した。ヤコブには十二人の息子がいた。その子孫がユダヤの十二支族となった。しかし、その十二支族はエジプトで奴隷となった。
預言者モーゼが赤ん坊であったころに、ナイル川の岸辺でモーゼを拾って育てたとされるファラオの娘は、新王国第十八王朝第五代ファラオ・ハトシェプスト(女帝 在位 BC 1498- BC 1483)であったと信じられている。ただし証拠はない。ハトシェプストは実在した女王である。1903年に H. カーター(1874-1939)によって王家の谷で発見されたミイラ(身長 165センチメートル)が 2007年にハトシェプスト女王と断定された(歯茎の CTと DNA)。 紀元前十三世紀ごろにイスラエルの十二支族は、モーゼに率いられてエジプトを「脱出」した。「奴隷の大脱走」である。
それは、エジプト新王国第十九王朝ラムセスII世(在位 BC 1279- BC 1213)の時代であったのではないかと見られている。徒歩の男子は約六十万人であった(出エジプト記 12:37)。女性と子どもを入れると二、三百万人いたのかもしれない。エジプトからパレスチナまでの距離は、通常は、シナイ半島を通ってラクダでも一、二週間しかかからない。しかし、シナイ半島にはエジプト軍が待機していた。一行はエジプトから西の砂漠へ向かった。その後、北アフリカを赤道近くまで「四十年間」かけて放浪した。エチオピアから紅海を渡ってアラビア半島を北上し、パレスチナ地方のカナンの地に着いた。イスラエルには春と秋に正月があるので、この四十年は現代の二十年であった可能性がある。当時の日本はまだ縄文時代末期であった。
イスラエルの十二支族は、ダビデ王(BC 1040- BC 961)の時に「イスラエル王国」として統一された。王国はソロモン王(BC 1011- BC 931)のときに最盛期を迎えた。
しかし、BC 721年に北イスラエル(サマリヤ)の十支族はアッシリアのサルゴンII世(在位 BC 722- BC 705)によって滅ぼされた。南イスラエル(ユダヤ)の二支族だけが残った。北イスラエルの十支族はその行方が文書に残されていないので「失われた十支族」と呼ばれる。
『旧約聖書』(The Hebrew Bible)は、一般には『聖書』と呼ばれる。それはユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒で共有されている。彼らは「聖典の民」と呼ばれる。キリスト教徒は『新約聖書』(The Christian Bible)に対して、それを『旧約聖書』と呼んでいる。『旧約聖書』の「出エジプト記(Exodus)」には、預言者モーゼが、イスラエルの十二支族を率いてエジプトから脱出する物語が述べられる。また、シナイ山における神と民との契約について述べられる。キリスト教で「旧約」とは、この古いほうの契約のことをさしている。 古代エジプトでは、個々の出来事がきわめて正確に記録された。たとえば、エジプト王国の土地に遊牧民の羊飼いが侵入したことまで記録された。しかし、イスラエル人がエジプトに「いた」事実も、「出エジプト」の事実も、古代エジプトの記録にはない。「出エジプト記」は、本当は創作であったのでないかとする研究も行われている(Shlomo Sand 2008年)。すると、モーゼの存在も、シサイ山の十戒の石板も、カナンへの東征も、すべて創作であった可能性がある。また、国内を統一したダビデ王の物語についても、繁栄を極めたソロモン王の物語についても、彼らの時代とされる紀元前十世紀ごろの地層から、何らかの王国が存在したことを示唆する考古学上の痕跡は発掘されていない。それらの物語も、すべて創作であった可能性がある(Shlomo Sand 2008年)。 日本の民謡の囃子(はやし)言葉に、神の名であるヤハウェが「ヤー」として多用されているという仮説がある。たとえば、黒澤明監督(1910-1998)の東宝映画『隠し砦の三悪人』(1958年)の中に「山名の火祭り」というシーンが出てくる。村人が火を囲んで歌い踊る。その掛け声は「ヤー」の繰り返しだけである。それを聴いて多くの日本人は、それが重要な祭りであることを直感する。 『モーゼの十戒』では、神の御名をみだりに唱えてはならないとされている。南イスラエル(ユダヤ)の二支族は、BC 597年の「バビロン幽囚」(後出)の後に「ヤー」をみだりに声に出さなくなったようである。北イスラエル(サマリア)の十支族は「バビロン幽囚」を経験していない。日本では、民謡の囃子言葉に「ヤー」が多用されているという理由で、日本人は北イスラエル(サマリア)の失われた十支族の子孫に相違ないという仮説がある。 「アミシャーブ(Amishav)」は 1975年に設立されたイスラエルの調査機関である。世界中で失われた十支族を探し出すことを目的としている。アミシャーブは、日本人について失われた十支族ではないかとみて調査している。しかし、北イスラエル(サマリア)のユダヤ人であれ、南イスラエル(ユダヤ)のユダヤ人であれ、日本人にユダヤ人の DNAは存在しない。 【3】 古代の日本人は外来の「ならわし」を選んだか 日本でも、古代のイスラエル人と同様に、子どもが生まれると「お七夜(しちや 七日目の夜)」に子どもを親戚知人に紹介する。これは、古代イスラエルでは、一日が「前日の夕刻」に始まるので、八日目である。神道でも、重要な祭祀は夕刻から行われる。日本人がユダヤ人と異なるのは、そのとき男の子に「割礼(かつれい)」を施さないことである。ヘブライ語で、割礼は「ブリット(Brit)」と呼ばれる。生後八日目に施される。これは神との「契約」を意味する(創世記 17:9-14)。古代の日本人は、渡来の「ならわし」をすべて学ぶというのではなく、自ら判断して選び採ったのであろうか?第四十二代文武天皇(在位 697-707)のときに『大寳律令』(701年)が完成した。日本は、そのとき唐に学んで律令国家となった。当時は、中国にもヨーロッパにも、先進国には必ず「宦官(かんがん)」がいた。宦官は、政治体制の中で重要な地位を占めていた。宦官の地位は武官よりも高かった。宦官あっての先進国であった。『大寳律令』の編纂チームは、記録には残っていないが、宦官を入れるか入れないかを議論したに相違ないと想像される。日本人は宦官を入れなかった。 【4】 「ユダヤ人埴輪(はにわ)」はユダヤ人を象(かたど)ったものか
千葉県や茨城県などの古墳から、「ユダヤ人埴輪」と呼ばれて、「つばの広い帽子」に「高い鼻」、「長いひげ」、髪を左右に分けて「みずら」を結って帽子をかぶる埴輪が出土する(千葉県山武郡芝山町立芝山古墳・はにわ博物館など)。
ユダヤ人は伝統的に帽子をかぶる。室内でも「キパ」という小さな帽子をかぶる。それによって上には上があることを常に思い起こす。アメリカの大学で教室の最前列を占領して座る学生たちは、皆キパをかぶっている。ユダヤ人である。 古代のユダヤ人は、鬢(びん 頭の左右の耳より前の髪)の毛を切らなかった(レビ記 16:27)。しかし、日常的に帽子をかぶったり、卒業式などの改まった時に一部で鬢を垂らしたりするようになったのは、近世からの流行である。たとえば、ミケランジェロ(1475-1564)のモーゼの像もダビデの像も、ユダヤ人であるのに帽子をかぶっていない。みずらも結っていない。レンブラント(1606-1669)のモーゼの絵も同じである。 日本で古墳時代に何らかの文字を読み、高い文化と能力をもつ数少ないユダヤ人が地方の豪族などによって重用されていた可能性は高い。しかし、出土した埴輪が、自らが思い浮かべるイメージに「似ている」というだけでは、同時に「メノラー(七枝燭台 menorah)」など、ユダヤ人であることの証拠となるものが出ているわけではないので、これらの埴輪を「ユダヤ人埴輪」と断定することはできない。そのような可能性はあることを心にとどめてもよいが、断定することはできない。断定することは、たとえば、自らが思い浮かべるイメージに「似ている」というだけで、証拠もないのに人を殺人犯だと決めつけて死刑にすることと同じだからである。これが、心にとどめることと断定することの違いである。
なお、「メノラー(七枝燭台)」は、イスラエル固有のものである。純金でできていて、中央の一本は枝ではない(出エジプト記 25:31-36)。イスラエル国の国章にも用いられている。国内でメノラーが発掘された例はない。
一方、「ダビデの星」がユダヤ人固有のシンボルとして定着したのは、十七世紀のヨーロッパにおいてである(ただし、十一世紀説と十四世紀説もある)。したがって、仮に日本の古い神社などで「ダビデの星」の紋章などが発見されても、それだけでは必ずしもそこに古代イスラエル文化が存在したことの直接の証拠とはならない。 【5】 前方後円墳は「マナの壺」を象(かたど)ったものか 前方後円墳を「マナの壺」を象ったものであるとする仮説がある。
「マナ(manna)」とは、『旧約聖書』の「出エジプト記 16:31」に出てくる食物のことである。モーゼ率いるイスラエルの十二支族が荒野をさまよっていたときに、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせたという。ウェハースのようなものではなかったかと想像されている。「マナの壺」はこれを入れた金の壺で、「契約の箱」に納められた「三種の神器」(モーゼの石板・アロンの杖・マナの壺)の一つである。大王の命を永久に保つための「陵(みささぎ)」の形状として、真にふさわしい。
しかし、これも自らが思い浮かべる「マナの壺」なるもののイメージに「似ている」というだけでは証拠にならない。「マナの壺」は伝説上の壺であって、古代イスラエル人でもこれを見た人がいたかどうかも分からない。 また、「前方後円墳」は、いきなり出現したわけではない。「方形の突き出し」のある「円形墳丘墓」や「前方後方墳」が混在する時代があった。「前方後円墳」は、三世紀に出現し、その後多く築造されるようになった。その変化の過程に古代イスラエルの影響が有ったか無かったかまでは分からない。写真は大阪府堺市の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)である。 【6】 日本のどのような「ことば」に古代イスラエルの影響があるとされるのか ヨセフ・アイデルバーグ(Joseph Eidelberg 1916-1985)は、1916年ロシア帝国領ウクライナ生まれのユダヤ人。1972年に京都・護王神社の見習い神官を一年間務めた。アイデルバーグの死後 1995年に『大和民族はユダヤ人だった―イスラエルの失われた十部族』(中川一夫訳 たまの新書)が刊行された。また、2005年に『日本書紀と日本語のユダヤ起源』(久保有政訳 徳間書店)も刊行された。
アイデルバーグは次のような語彙を挙げた。
すなわち、「モノ(物)」「アマ(山)」「カワ(川)」「ナハラ(野原)」「クシュ(草)」「ガザ(風)」「キモノ(着物)」「カサ(笠)」「シラ(城)」「クビタ(かぶと)」「カタフ(肩)」「ホラ(洞)」「アター(あなた)」「ネス(幣 ぬさ)」「タイラ(鳥)」「ヘビァ(蛇)」「シェカー(酒)」「ミツ(密)」「コー(声)」「アー(上)」「シト(下)」「アラッセ(争い)」「カヨム(今日)」「ツァラー(辛さ)」「カル(軽い)」「アハリト(終わり)」「ユルシュ(許し)」「ハラー(祓い)」「シャムライ(侍)」「ナギ(禰宜 なぎ)」「ミーサーサガー(陵 みささぎ)」「トシュウェイグモ(土蜘蛛)」「ミヤツェグ( 造 みやつこ)」「アグダナシ(縣主 あがたぬし)」など。 また、遊牧民の幕屋を意味する「ハスカ(飛鳥)」もあるようである。 この古代のヘブライ語の語彙と日本語の語彙の比較の結果は、確かに尋常ではない。Englishでは語呂合わせでも「name(名前)」「road(道路)」くらいしかない。 日本語の「ひぃ・ふぅ・みぃ・よぉ・いつ・むぅ・なな・やぁ・ここの・とうぉ」にこれといった意味はない。アイデルバーグは、天岩戸(あまのいわと)で天照大神(あまてらすおほみかみ)に天児屋命(あめのこやねのみこと)が次の言葉をかけた。そして八百万(やほよろづ)の神々がそれに合わせて繰り返し唱和したと主張する。 すなわち、「ヒファ(Hifa)、ミ(mi)、ヨッツイア(yotzia)、マナーネ(manaane)、ヤァカヘナ(ykakhena)、タウォ(tavo)」(誰が、その麗(うるは)し女(め)を出すのやら。いざないに、いかなる言葉をかけるやら)と唱えた。 それが「ひぃふぅみぃ...」の語源になったと主張する。これは美しい内容の推測である。アイデルバーグは、「児屋(こやね)」とは「コーエン(Cohen 世襲の祭司)」のことであると主張した。 『古事記・上代』に、「伊耶那美命(いざなみのみこと)まづ『あなにやし、えをとこを』とのりたまひ、後に伊耶那岐命(いざなぎのみこと)『あなにやし、えをとめを』とのりたまひき」とある。アイデルバーグは、この「あなにやし(阿那迩夜志)」は、日本語ではこれといった意味はないが、古ヘブル語で「私は結婚する」という意味であると主張する。 翡翠(ひすい)の玉(ぎょく)は、縄文時代中期(BC 5,000年)から存在するが、勾玉の形状は比較的新しい。アイデルバーグは、勾玉の形は、日本ではこれといった意味はないが、へブライ文字の「yod」と呼ばれる十番目のコンマ( ,)のような文字であると述べる。それは唯一神ヤハウェの「ヤー」を意味すると主張した。「勾玉(まがたま)」は日本固有のものである。中国や朝鮮半島から伝わったものではない。朝鮮半島でも翡翠の勾玉が発掘されることがあるが、それらは日本から持ち込まれたものであり、その化学成分は糸魚川周辺の物であることが分かっている。 『魏志倭人傳』には、女王・臺與(とよ 235-没年不詳)が魏に真珠五千個と青い大きな勾玉二つを献上したと記されている(貢白珠五千孔青大句珠二枚)。 古代のヘブライ語は、動詞などにも日本語に似たような語彙が数多くあるようであるが、活用形が偶然一致することもあるようなので、ここでは取り上げない。 アイデルバーグは、結論として、北イスラエルの十支族が日本に来て日本人の祖先となったと見たようである。 日本に古代から伝わる民謡の中には、日本人でもその意味が分からない、不可解な囃子(はやし)言葉が数多く含まれている。たとえば、『よさこい節』の「ヨサ・コイ」、『佐渡おけさ』の「アーリャ・サ」などである。東北地方の一部に『ナニャドヤラ』という盆踊りが伝わっている。青森県南部から岩手県北部にかけての地域で踊られる。力強い太鼓のリズムが加わって老若男女が踊る。囃子言葉だけでなく、歌詞全体が終始不可解な言葉でできている。北海道の日本海沿岸には『ソーラン節』が伝わっている。その「ヤーレン・ソーラン」も不可解な囃子言葉である。民謡でなくても、京都祇園祭には「エンヤラヤー」の掛け声がある。大相撲でも、「ハッケヨーイ」「ドスコイ」などがある。これらは、日本語としてみると、日本人でも何のことか分からない。しかし、これらを古ヘブル語で聴くとよく意味が通るという仮説がある。たとえば、京都祇園祭の「エンヤラヤー」は「私はヤハウェを賛美する」を意味するという。しかし、現代のユダヤ人が聴いて、すぐにその意味が分かるというわけではないであろう。これらの囃子言葉などには地域的な偏りがある。たとえば、九州に『ソーラン節』は伝わっていない。仮説として古代のヘブライ人が北海道に渡来したとすれば、大陸から九州を経由しないで直接北海道に漂着した可能性も示唆される。 1956年に日本で用いられた外来語の種類は、使用される術語の 10パーセントであったが、わずか 40年足らず後の 1994年には 34パーセントに増えた(国立国語学研究所)。仮に古代の日本にヘブライ語を伝えたユダヤ人が数えるほどしかいなかったとしても、多くの語彙が速やかに伝搬して使われるようになった可能性はある。しかし、その後日本でユダヤ人の血統は途絶えた。 【7】 日本のどのような「文字」に古代イスラエルの影響があるとされるのか コカ・コーラと書いて、イスラエルの知識人の中には、古代ユダヤのへブル文字で「コカ・コーラ」と読める人がいるようである。現在のカタカナの相当数が古代のへブル文字と形も音も同じである。古ヘブル文字では「ノ」に母音印「ー」をつけて「ナ」と読んだようである。
ヘブル文字も、BC八世紀ごろの古ヘブライ・ファニキア文字、BC六~BC四世紀の古ヘブライ・アラム文字、BC一世紀の死海文書文字から、現代文字(印字体・草書体)へと変化してきている。図のヘブライ文字の出典は前記ヨセフ・アイデルバーグ『大和民族はユダヤ人だった―イスラエルの失われた十部族』(中川一夫訳 たまの新書 1995年)である。ヨセフ・アイデルバーグによれば、これらの(図の)文字は BC八世紀~ BC一世紀のいずれかの時代の文字である。また、「ハ」は現代ヘブライ文字にも近い。しかし、時代と共に変化したそれらの文字が、あるときすべて日本に同時に入って来たという可能性は低い。あるいは、ない。ユダヤ人の中に古代の文字を知っているユダヤ人がいた可能性ならあるかもしれない。 カタカナは、ユダヤ人が直接日本に伝えた文字ではない。カタカナは、確かに日本で発明された、日本固有の文字である。まして、これをもって、日本人はユダヤ人の子孫であるなどとは言えない。これは、どういうことであろうか? 天平七年(735年)に、吉備真備(695-775)は、唐から「袁晉卿(えんしんけい 718頃-没年不詳)」という少年を連れて帰国した。袁晉卿は律令制下の「大学」(官僚育成機関)の「大学頭」(だいがくのかみ 学長)を務めた。この袁晉卿がカタカナをつくったとする仮説がある。その真偽は分からない。また、カタカナの起源は、九世紀初めの奈良の学僧たちの間で、漢文を和読するために、万葉仮名の一部の字画を省略して訓点などとして用いたものに始まるという仮説もある。その真偽のほども分からない。 あるいは、古い「万葉仮名」そのものの成立過程のころから有能なユダヤ人の子孫が関与した可能性ならあり得るであろう。それは、日本にヘブライ文字を読むことができる者がいた可能性にほかならない。結論を急ぐことはできないが、当時の人びと、あるいは、当時の誰かが、「万葉仮名」として「古へブル文字に似た部首と音」をもつ特定の漢字を「選ぶ」ことができたようである。それを「選んだ」のは、ヘブライ文字に関する相当な知識人であったと見られる。そのような人がいたわけであろう。それ(選ぶこと)は、五、六世紀ごろに行われている。八世紀の袁晉卿ではなく、九世紀初めの奈良の学僧たちでもなかったであろう。そのこと(万葉仮名として特定の漢字を選ぶこと)によって、その後、八世紀の袁晉卿によってであれ、九世紀初めの奈良の学僧たちによってであれ、あるいは我われが知らない第三者によってであれ、選ばれていた万葉仮名を、字画を省略したりくずしたりして、「カタカナ」や「ひらがな」が発明された可能性が高い。 後世の清少納言(966頃-1025頃)の『枕草子』や、紫式部(973-1031)の『源氏物語』が「かな」で書かれたことだけをとってみても、「かな」がその後の、また現代にいたる、日本の文字と文化に与えた影響ははかり知れなく大きい。 【8】 古代日本の「暦法」に古代ユダヤの影響は有るか 『日本書紀』には、初代神武天皇は百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳で崩御したなどと書かれている。その結果、神武天皇の時代から今日まで二千六百年以上かかったことになっている。『日本書紀』の編纂チームは、舎人親王(とねりしんのう 676-735)を総裁とし、多くの御用学者と、「ふひと(史)」(物事を書き記す役人)からなっていたと見られている。その陣容について記録はない。「ふひと」などの中に、仮にユダヤ人の有能な子孫がいたのならば、古代のイスラエルに(また現代のイスラエルにも)、春と秋に正月が「二回」あったことを知る者がいた可能性がある。
『魏志倭人傳』(285年)に「倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まる」と書かれている(魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀)。これは『魏志倭人傳』の原文に対して、後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が注釈として挿入したと見られている。『日本書紀』の編纂チームも、この『魏志倭人傳』の内容を知っていた。
仮に、古代に現在の一年を 2年と数えていたら、初代神武天皇が百二十七歳で崩御したことも可能であったことになる。 中国では春秋時代から「陰陽(おんやう)五行」の思想が行われてきた。その中で、「辛酉(しんゆう)革命」の思想によれば、辛酉の年は六十年に一度やってくるが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年、あるいは、二十二番目の辛酉の年は千二百六十年、あるいは、千三百二十年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。 「紀元前 660年」とは、聖德太子(574-622)によって画期的な改革が行われた第三十三代推古天皇九年(辛酉 かのととり 601年)からさかのぼって二十一番目の辛酉(かのととり)の年である。あるいは、百濟が滅亡した第三十七代斉明天皇七年(辛酉 かのととり 661年)からさかのぼって二十二番目の辛酉(かのととり)の年である。すなわち「紀元前 660年」に神武天皇は即位したこととされた。舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、この「紀元前 660年に神武天皇が即位したこと」を日本の歴史の「大前提」として、古代の多くの天皇の時代を「春秋二倍暦」で編纂したのに相違ない。 仮に古代において「春秋二倍暦」が本当に使われていたとすれば、春に始まって秋に終わる一年は、暑い一年であったであろう。また、秋に始まって春に終わる一年は、寒い一年であったであろう。しかし、舎人親王以下『日本書紀』の編纂チームは、「正歳四節暦の一年」の間に「春夏秋冬の十二か月」が「二回」あったことにした。これによって、神武天皇は「西暦の紀元前 660年」に即位したことになった。出来上った『日本書紀』を見る限り、後世の我われがどの天皇に「春秋二倍暦」が適用されているのか、適用されていないのかを判断するための直接の手立てはない。 考古学的に実在した可能性が高いと見られる第二十一代雄略天皇の崩御年は、『古事記』では百二十四歳、『日本書紀』では六十二歳と、ちょうど二分の一である。第二十六代継体天皇は、『古事記』では四十三歳、『日本書紀』では八十二歳で、ほぼ二倍である、この時期あたりが、『日本書紀』が「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」へ移行して「編纂」されたのではないかと見られる。それは、必ずしもそのころの日本で「春秋二倍暦」から「正歳四節暦」へ現実に移行した頃であったとは限らない。そもそも、古代において「春秋二倍暦」が本当に使われていたかどうかも分からないのであるから。 第十四代仲哀天皇が実在したとして、その崩御の年は、百濟の第十三代國王・近肖古王(きんしょうこおう 在位 346-375)の名前から「西暦 367年」であったと見られる(前著『邪馬臺國』自由塾 2022年)。この年を起点として、『日本書紀』に述べられる初代神武天皇の在位期間から第十四代仲哀天皇の在位期間までを、「闕史(けっし)八代」と呼ばれる、第二代綏靖(すゐぜい)天皇の在位期間から第九代開化天皇の在位期間までを含めて、すべて「二分の一」に変換すると、神武天皇の即位年は、「紀元前 60年」の「かのととり(辛酉)」の年であったことになる(前著『邪馬臺國』自由塾 2022年)。 弥生人は、縄文人が住む地域に侵攻して土地を占有した。それが稲作であった。稲作の前線が近畿地方を通過したのは「紀元前 50年」ごろと見られている。仮に前記した「紀元前 60年」を神武天皇の即位年とすると、「神武東征」とは、弥生人が稲作とともに東進した「戦いの記憶」であったのかもしれない。神武東征軍と戦った「長髄彦(ながすねひこ)」も、弥生人に殺された縄文人のひとりだったのかもしれない。なお、「紀元前後」には稲作前線は早くも中部地方を通過する。 明治時代に日本の暦法について最初に研究したのは、デンマークの青年技師・ブラムセン(William S. Bramsen 1850-1881)であった。ブラムセンは、1880年1月に『和洋對暦表』を日本橋の丸家善七ら(丸善の前身)によって日本語(文語体)で刊行。同年 English版を刊行した。ブラムセンは、仁德天皇以前の歴代天皇の寿命が百年を超えて長いことから、古代の日本人は昼と夜の長さが同じになる春分(spring equinox)と秋分(autumnal equinox)を起点とし、春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年として、中国の正歳四節暦の一年を正確に二倍に数えていたと見たようである。国立国会図書館と Google Scholarは、ブラムセンの『和洋對暦表』の日本語版と English版全文をそれぞれオンラインで公開している。「出エジプト」のとき、モーゼは八十歳であった(出エジプト記 7:7)。モーゼは、カナンの地にたどり着いたとき百二十歳であった(申命記 34:7)。ブラムセンは、この『旧約聖書』の記述から、古代の日本でも「春秋二倍暦」が使われていたことに思い至ったのではないかと想像される。 【9】 諏訪大社の「御頭祭」は古代イスラエルから伝わったか 長野県諏訪市の「守屋(もりや)山」の北麓に諏訪大社がある。諏訪大社はこの守屋の山をご神体とする。したがって、本殿はない。諏訪大社の上社本宮は拝殿である。ユダヤ人にとって「モリヤ(Moriah)」という言葉には特別な意味があるようである。
諏訪大社の上社本宮では、明治時代の初めまで毎年四月十五日に「御頭祭(おんとうさい)、あるいは、大御立座神事(おほみたてまししんじ)」と呼ばれる祭りが行われていた。そこでは、少年が火あぶりのために「御贄柱(おにえばしら)」に縛り付けられる。神官が刃物を取り出してそれを振り上げる。すると、別のところから使者(巫女)が現れてそれを止める。少年は解き放たれる。代わりに鹿が生贄とされる。その後、少年は地域の指導者として育って行く。日本に動物犠牲の風習はない。この「御頭祭」は「モリヤの地」の奇祭であった。祭りに用いられた鹿の何頭かは剥製(はくせい)にして保存されている。
次は『旧約聖書』の「創世記 22:1」から「創世記 22:13」までのアブラハムの「イサク奉献」の物語である。 1 これらの事の後、神はアブラハム(Abraham)を試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。 2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサク(Isaac)を連れてモリヤの地(the region of Moriah)に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(はんさい a burnt offering 火あぶりのいけにえ)としてささげなさい」。 3 アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。 4 三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。 5 そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。 6 アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。 7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。 8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。
9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。 諏訪大社の「大御立座神事(御頭祭)」のような祭事は世界に類を見ない。この祭りはかつて「みさくちの祭り」と呼ばれたようである。仮に「み」が美化のための接頭語、「ち」が(あっち、こっちのような)接尾語であるならば、「イサクの祭り」であろう。この祭りは『旧約聖書』の「創世記」のイサク奉献の物語を再現する祭りのようである。『旧約聖書』の「モリヤの地」(the region of Moriah)とは、後の「エルサレム」のことである。また、ユダヤ教で「モリヤの神」とは唯一神「ヤハウェ」のことである。「大御立座神事」は守矢(もりや)氏が祭主となって行われてきたようである。守矢氏は、信濃国諏訪郡を発祥とする地祇系の氏族である。代々諏訪大社上社の「神長官(じんちょうかん)」を務めてきた。現在は、第七十八代守矢早苗当主である。守矢家がユダヤ人の子孫であるかどうかまでは分からない。 【10】 日本の「神道」は古代イスラエルから伝わったか 古代の人びとは風や木の葉に宿る精霊と交信した。日本では、森羅万象に神々が宿る。万物は神々である。八百万(やほよろづ)の神々が住むこの世界で、自己主張を抑えて周囲に合わせよ。これが、日本で一万六千年前から現代に伝わる「縄文人の哲学」である。この哲学は、中国や朝鮮半島から日本に伝わったものではない。『古事記』によれば、天地開闢(かいびゃく)のとき、高天原(たかまがはら たかまのはら)に「造化(ぞうけ)三神」が成ったという。「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ 造化の最高神)」「高御産巣日神(たかみむすひのかみ 天の生成神」「神産巣日神(かみむすひのかみ 地の生成神)」の三神である。日本は、多神教とはいっても、「天之御中主神」を造化の最高神とする。一方、ユダヤ教は「ヤハウェ」の一神教とはいっても、伝統的な俗習としては太陽神などもあった。その結果、日本ではユダヤ人の「祀(まつ)り方(祭祀の仕方)」が何の抵抗もなく受けいれられたという仮説が存在する。 「国家神道」は、近代天皇制国家がつくり出した国家宗教であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦まで約八十年間、日本人を精神的に支配した。天照大神を皇室の祖先神とし、これを祀(まつ)る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立てて管理した。
神社本廳(東京都渋谷区)蔵版の『大祓詞』(おほはらへのことば)は、次の言葉から始まる。すなわち、
「高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す 皇親(すめらがむつ)神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(も)ちて 八百萬神等(やほよろづのかみたち)を神集(かむつど)へに集へ賜ひ」 そこでは、「神漏岐命(かむろぎのみこと)」「神漏美命(かむろみのみこと)」のことが述べられているようであるが、いったいどのような神々のことであろうか? 熊本県の阿蘇の南(上益城郡)に「幣立(へいたて)神宮」という神社がある。SNSなどを通してパワースポットとして広く知られている。この神社は、旧石器時代の終わりに宇宙から「神漏岐命(かむろぎのみこと)」と「神漏美命(かむろみのみこと)」が、火の玉とともにここ(神域)に降臨したと伝えられる。この神社を訪れる多くの人びとは、森閑とした樹々の中で、おそらく太古の人びとが吸ったであろう同じ自由な空気を胸一杯に吸う。宮崎県の高千穂町や高千穂峡もすぐ近くにある。 幣立神宮の祭神は次の通りである。 ・ 神漏岐命・神漏美命(宇宙からの降臨神) ・ 大宇宙大和神(おほとのちおほかみ 神代七代の初代神) ・ 天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ 天神七代の初代神) ・ 天照大神(地神五代の初代神) ・ 阿蘇十二明神 明治三十七年(1904年)日露戦争開戦に当たり、宮中に、全国八か所の神社において戦勝祈願せよとの神示が降りたと伝えられる。その中にこの幣立神宮が含まれていた。幣立神宮は、訪ねてみると、地域のアニミズム(精霊信仰)から発した原始信仰に近いものとは見られるが、天照大神より上位の神々が祀(まつ)られていて、旧国家神道を超絶した異次元の神社として存在しているようである。
近くの神社に行く。ユダヤの神殿の「二柱の門(タラー taraa)」をくぐる(列王記上 7:21)。すると、そこは「神域」である。この門は、中国や朝鮮半島から伝わったものではない。左右に、日本にいない「獅子(ライオン)」と中近東にしかいない想像上の「一角獣(ユニコーン)」がいる(列王記上 10:19)。世界でもユダヤの神殿にしかなかった「手水舎(てみずや)」で手を清める(出エジプト記 30:18)。ユダヤの神殿と同様に、神が降臨するところとして偶像を置かない「本殿」と、それより階段で低く設けられた「拝殿」とからなる。この神社の基本構造も、中国や朝鮮半島から伝わったものではない。本殿に鏡や剣などが置かれることがあるが、それらは神が降臨する「依代(よりしろ)」ではあっても、偶像ではない(モーゼの十戒)。依代が石である場合は切り石ではなく自然石である(出エジプト記 20:25)。穀物や酒などがお供えしてある(民数記 18:12)。お供えには清めの塩が添えられている(レビ記 2:13)。賽銭箱がある(歴代誌下 24:8)。拝殿には火(忌火 いみび)が灯(とも)されている(出エジプト記 27:20)。大祭司が臨席する証(あかし)として、金の鈴を鳴らす(出エジプト記 28:35)。神との「契約」の行為として「柏手(かしわで)」を打つ(箴言 しんげん 6:1)。
日本でも、「榊(さかき 賢木)」で「お祓い」をする。神の数を「柱」で数える(創世記 35:20)。ユダヤ人が伝統的な俗習として太陽神に「神馬(しんめ)」を献納した(列王記下 23:11)のと同じように、神馬がいる。いなくても「絵馬(えま)」はある。遊牧民のように「遷宮」する(たとえば、伊勢神宮では二十年毎に神社を建て替える)。移動式の神殿(おみこし)をかつぐ。
神官は改まったときには袖に「房」(申命記 22:12)を垂らした白装束(歴代誌下 15:27)を着る。 第十代崇神天皇は、『日本書紀』での名は「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」であった。大物主神(おほものぬしのかみ)や天照大神(あまてらすおほみかみ)、倭大國魂神(やまとのおほくにたまのみかみ)など、多くの神々を深く崇(あが)めた。それゆえに、淡海三船(722-785)は、その「漢風諡(し)号」を「崇神天皇」としたようである。 崇神天皇の時代に鳥居があったかどうかは分からない。手水舎(てみずや)もなく、本殿も拝殿もなかったであろう。柏手(かしわで)もなく、遷宮もなかったのかもしれない。しかし、神々が降臨する「依代」や「磐座(いわくら)」はあったであろう。それを「創建」と言えば「創建」と言える。 八百万(やほよろず)の神々を、果たして我われはどのように祀(まつ)ればよいのか。どのような祭祀の仕方があるのか。縄文・弥生の人びとは、これを「いつ」「どこ」の「だれ」から学んだのであろうか? 古代イスラエルには、多くの「祭司 (コーエン Cohen)」がいた。「祭司」は世襲であった。「コーエン」家は現在まで続く。ウィリアム・コーエン(William Cohen) は、アメリカの国防長官であった(在任 1997-2001)。また、エリ・コーエン(Eli Cohen)は、エルサレムのユダヤ教の祭司の家庭に生まれ、空手五段であったが、駐日イスラエル大使を務めた(在任 2004-2007)。現在のすべての「コーエン」家は、モーゼの兄・アロンの子孫であると信じられている。モーゼやアロンが実在したかどうかは分からないが、後出の「Y染色体ハプロイド」の DNA解析から、すべての「コーエン」家は、共通のひとりの男性祖先にさかのぼる可能性が高いと見られている。その染色体は「アロンY染色体(Y-chromosomal Aaron)」と呼ばれる。 古墳時代に中国大陸のユダヤ人が日本に流入した可能性が高い。その中に「アロンY染色体」をもつ世襲の「コーエン」がいた可能性がある。そして、縄文・弥生の人びとに神々をどのように祀(まつ)ればよいかを広めたのではないか。「コーエン」は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、大和政権の中枢で祭祀を司る氏族「中臣(なかとみ)氏」として頭角を現したと見られる。 「天岩戸(あまのいはと)」の物語は、天皇の祖先である天照大神(あまてらすおほみかみ)を天児屋命(あめのこやねのみこと)らがこの世界に呼び戻した物語である。これは、太陽がなければ地上のあらゆるものは生きて行けない。という天皇支配の正当性を物語ると同時に、中臣氏である藤原不比等(ふひと 659-720)の立場を反映して、その始祖の「コーエン(天児屋命)」を称える成功神話であろう。天児屋命を「初代コヤネ」として、藤原不比等は、次のように、「第二十四代コヤネ」に当たるとされる。 1. 天児屋命― 2. 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)― 3. 天種子命(あめのたねこのみこと)― 4. 宇佐津臣命(うさつおみのみこと)― 5. 御食津臣命(みけつおみのみこと)― 6. 伊賀津臣命(いかつおのみこと)― 7. 梨迹臣命(なしとみのみこと)― 8. 神聞勝命(かみききかつのみこと)― 9. 久志宇賀主命(くしうかぬしのみこと)― 10. 国摩大鹿島命(くになずのおほかしまのみこと)― 11. 臣狭山命(おみさやまのみこと)― 12. 中臣烏賊津(なかとみのいかつ)― 13. 大小橋命(おほおばせのみこと)― 14. 中臣阿麻毘舎卿(なかとみのあまひさ)― 15. 中臣音穂(なかとみのおとほ)― 16. 中臣阿毘古(なかとみのあびこ)― 17. 中臣真人(なかとみのまひと)― 18. 中臣鎌子(なかとみのかまこ)― 19. 中臣黒田(なかとみのくろだ)― 20. 中臣常盤(なかとみのときわ)― 21. 中臣可多能祜(なかとみのかたのこ)― 22. 中臣御食子(なかとみのみけこ)― 23. 中臣鎌足― 24. 藤原不比等 もっとも、この系図も、その真偽については分からない。我われが天児屋命のことを知るのも、すべて八世紀になって『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)が書かれて以後なのであるから。 中臣氏は、「大化の改新」(645年)の直前まで、なぜか氏族に伝わった『トーラー(モーゼの五書)』をもっていた可能性がある。血統として「アロンY染色体」をもっていたかどうかまでは分からない。その『トーラー』は、「乙巳の変(いっしのへん)」のとき、645年7月11日に蘇我蝦夷(そがのえみし 586-645)の放火によって焼失したと見られる。もっとも、「乙巳の変」が、その通りの事実であったかどうかは分からない。 『日本書紀』によれば、「乙巳の変」で蘇我入鹿を誅殺したとき、中大兄皇子(626-672)は 19歳であった (後の天智天皇 在位 668-672)。それを支える中臣鎌足(なかとみのかまたり 614-669)は 31歳であった。彼らの「大化の改新」も、「モーゼの教え」を反映するものであったと感じさせるものがある。たとえば、第三十五代皇極天皇四年(645年)を改めて大化元年としたのは「七月一日」からであった(日本書紀)。七月一日はユダヤ人の元日である。また、大化の新政府は、「仮庵の祭り」の前日にあたる「七月十四日」に、神々に幣(ぬさ)を奉献した(日本書紀)。大化の新政府は「班田収授法」を施行したが、これは中国の「均田法」とは異なって、六年経つごとに国家が庶民に土地を再配分するというものであった(レビ記 25:3-4)。また再配分される土地の広さは家族の人数に応じて決められた(民数記 26:52-53)。また、新政府は「男女の法」で奴婢(ぬひ 奴隷)の子どもは婢(女奴隷)が養育し、主家の所有とした(出エジプト記 21:4)。また、証人はたとえ三人いても、よくよく皆で事実を明らかにしてからでなければ、訴えを起こしてならないとした(申命記 19:15)。 「明(あきらか)なる三(みやり)の證(あかしひと)を得(う)とも、俱(とも)に顕(あらは)し陳(まを)さしめて、然(しかう)して後に諮(まを)すべし。詎(いかに)ぞ浪(みだ)りに訴ふることを生(な)さむ 『甲申の詔』(大化二年)」 中臣鎌足(614-669)は、死に臨んで、藤原姓を賜った。その後、「壬申(じんしん)の亂」で不遇を乗りえて、日本最強の氏族となった藤原氏に「アロンY染色体」が伝わったかどうかは分からない。『興福寺縁起』『大鏡』などには、藤原不比等は天智天皇の皇胤(こういん)と記されている。 日本の神道は「きよきあかきこころ(清明心)」を深く尊ぶ。それは、宗教として何か伝道活動をするわけではない。それは文化、慣習、祭りなどの伝統を通して育まれ、伝えられていく。この「清き明き心」は、世界中のいたるところにあるというわけではない。『旧約聖書』に「ユダヤ教」という言葉はないが、「神の道」ならある。「もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう(申命記 28:9)」 ユダヤ人は彼らの宗教を「神の道」と言っているわけである。それは文化、慣習、祭りなどの伝統を通して育まれ、伝えられていく。ユダヤ教も宗教として何か伝道活動をするわけではない。「まことに神は、イスラエルに、心の清い人たちに、いつくしみ深い(詩編 Psalm 73:1)」「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください(詩編 51:10)」 「きよきあかきこころ」は、現代においても日本人の精神構造の深い基盤をなしている。東日本大震災(2011年)が起きても、日本ではコンビニが略奪されるようなことはなかった。これは中国や朝鮮半島から日本に伝わったものではない。 日本の神社の幾つかは創建が紀元前であるから、では、ユダヤ人は紀元前の日本に来ていたかというと、そうとは限らない。仮に古代にユダヤ人が日本に来て、神々が降臨する「依代」や「磐座」を見てイスラエルに帰り、『モーゼの五書』の「申命記 28:64」の「主は地のこの果てから、かの果てまでのもろもろの民のうちにあなたがたを散らされるであろう。その所で、あなたもあなたの先祖たちも知らなかった木や石で造ったほかの神々にあなたは仕えるであろう」という記述をなしたという説が流布されているようであるが、それも、面白いが、「つくり話」に過ぎない。「神木」などの概念は世界中のいたるところにも存在する。たとえば、古代のヨーロッパに広く分布したケルト人の信仰は多神教であった。オークの森を聖なる地と見ていた。また、シルクロードの始まりは、「紀元前 114年」に前漢の第七代皇帝・武帝(在位 BC 141- BC 87)が匈奴を駆逐して中央アジアに進出し、この地域をほぼ平定したことにあると見られている(Wikipedia/シルクロード)。シルクロードもない縄文時代に、誰かがイスラエルと日本を往復して文化を伝えたなどとする仮説は「つくり話」でしかない。 話を最初に戻すと、八百万の神々が住むこの世界で、自己主張を抑えて周囲に合わせよという「縄文人の哲学」は、古代イスラエルから日本に伝わったものではない。それは日本人固有の哲学である。この「縄文人の哲学」は、第二次世界大戦で戦争の継続に利用されたことがある。悲劇的には特攻作戦で利用された。基本は個人として周囲と争わない哲学である。イスラエル人にこの「縄文人の哲学」はない。イスラエル人は、日本人のようには周囲の空気を読み合って物事を「満場一致」で決めるようなことをしない。ユダヤ人社会では全員が賛成した案は否決される。それ(全員一致)は、全員を危険にさらす恐れがあると彼らは見るからである。 第二章 【11】 古代にユダヤ人が「東方」へ移動する機会はあったか
紀元前 597年に新バビロニアのネブカドネザルII世(在位 BC 605- BC 562)は、南イスラエル(ユダヤ)を滅ぼし、ユダヤの二支族をバビロニア地方に連れ去った(バビロン幽囚)。そのようにして、イスラエル王国は十二支族すべてが滅ぼされてしまった。
預言者イザヤ(ヘブライ語 Ysha'yah イシャヤ 英語 Isaiah アイゼイア)は「見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる」と述べていた(イザヤ書 24:1)。イザヤは、南イスラエル(ユダヤ)最後のころの人である。そのころ、北インドでは釈迦(BC 624- BC 595)が仏教を説いていた。
新バビロニアによって捕囚された南イスラエル(ユダヤ)の二支族は、紀元前 538年にアケメネス朝ペルシャ(BC 550- BC 330)の初代キュロスII世(Cyrus II the Great 在位 BC 559頃- BC 529)によって解放された。キュロスII世は、二支族に対して故国に戻ってエルサレムでソロモン神殿を建て直すことを認めた。
多くのユダヤ人が寛大なアケメネス朝ペルシャに残って定住したようである。
ユダヤ人はさらに中央アジアのサマルカンドにも移住した。 サマルカンドは、現在はウズベキスタンのオアシス古都市である。当時はアケメネス朝ペルシャの領域内にあった。サマルカンドのユダヤ人は「ブハラ・ユダヤ人(Bukharan Jews)」と呼ばれる。 前記したように、紀元前 114年に前漢の第七代皇帝・武帝(在位 BC 141- BC 87)が匈奴を駆逐して中央アジアに進出した。武帝は、この地域をほぼ平定し、シルクロードができたと見られている(Wikipedia/シルクロード)。
ブハラ・ユダヤ人が、シルクロードを通って、ユダヤ人として初めて前漢に入ったと見られている。
ユダヤ人は春秋戦国時代末期の BC 231年に開封(かいほう 河南省開封市)に到達したという仮説がある。そのころはまだシルクロードはなかったので、この時期・年号については検証が必要である。 【12】 古代のユダヤ人が日本に来るための「信仰上」の理由はあったか 「イザヤ書 24:15」に「それゆえに、東の地で主を崇(あが)めよ。海の島々からなる国でイスラエルの神、主の名を崇めよ 」と書かれる(Therefore in the east give glory to the Lord; Exalt the name of the Lord, the God of Israel, in the islands of the sea)。イスラエルの東には広大な大陸しかないが、正確に東の方へ 8,600キロメートル離れたところに海の島々からなる国・日本がある。ここに、南イスラエル(ユダヤ)人たちは、中央アジアを通り、イザヤの預言をひたすら信じるという「信仰上」の勇気と理由によって、幾世代をかけて、天変地異に襲われながら、東へ東へと移動したという仮説が存在する。
三重県志摩市に「伊雜宮(いざわのみや)」がある。天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る。創建年代は不詳である。志摩國一之宮であると伝えられるが、志摩国一之宮は鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする説もある。
大槻文彦(1847-1928)の『大言海』に「伊雜はいざやなり」と書かれる。すると「伊雑宮」は「イザヤの宮」なのであろうか。日本語で「いざや」、あるいは、「いざ」という言葉にこれといった意味はないが、「さくらさくら」の「いざや(勇気をふるう言葉)」も、「いざ、鎌倉」の「いざ」も、当て字としては「伊雑」と書いたのかもしれない。しかし、これにも今のところ科学的な証拠がない。 【13】 古代のユダヤ人はいつ中国に移り住んだか ユダヤ人が初めて中国に入国した時期については、前記したように、中国の学者の間でも意見は分かれている。漢の時代に入国したのではないかという点ではおおよそ一致している。春秋戦国の時代までに入国したとする仮説は証拠に乏しい。新疆ウィグル自治区や敦煌の千仏洞では、隋と唐の時代の紙にヘブライ語で書かれた羊の売買証書や祈りの書が発掘されている。 河南省開封市のユダヤ人は、バビロン幽囚(BC 597- BC 538)を経験した南イスラエル(ユダヤ)のユダヤ人であろうと見られている。また、エルサレム第二神殿を奪回(BC 141年)する以前にパレスチナを発ち、その後ペルシャに定住したユダヤ人、特にブハラ・ユダヤ人であろうと見られている。 開封は、中国でも最古の都市の一つである。夏王朝時代にはすでに都市が築かれていた。司馬遷(BC145-BC87)の『史記』などによれば、夏王朝の第七代皇帝・予(よ)から第十二代皇帝・扃(けい)の時代まで首都とされた。当時は「老丘」と呼ばれた。この都市が繁栄を極めたのは北宋(960-1127)の首都であったころである。人口は 150万人を超え、当時世界最大の都市であった。
「清明上河図」は、北宋の宮廷画家・張択端(ちょうたくたん)が第八代皇帝・徽宗(きそう 在位 1100-1126)に献上した作品である。首都・開封の光景を描いたものと見られている。日本では 2012年に東京国立博物館で公開された。全長約 5メートル、縦 24センチの画面のなかに登場する人物は 773人、汴河(べんが)の流れに沿って、市民の生活が、衣食住にいたるまで生き生きと細かに描かれる。
ユダヤ人は開封だけでなく、西安、洛陽、北京、杭州、南京、寧波(ねいは)、揚州、寧夏(ねいか)、広州、泉州にも移り住んだようである。各地にユダヤ人の生活の痕跡やシナゴーグ(ユダヤ教会)址が見つかっている。漢族の世界の中にあって、ユダヤ人がある程度まとまった集合体(コミュニティ)をつくったのは、日々の生存のためであったと見られる。
マルコ・ポーロ(Marco Polo 1254-1324)の『東方見聞録』によれば、元のフビライ・ハーン(1215-1294)は、仏教の釈迦牟尼、ユダヤ教のモーゼ、キリスト教のイエス・キリスト、イスラム教のムハンマドを世界の四大預言者と呼んだ。当時の元朝において、ユダヤ人は存在が認知されていた。ユダヤ教は尊重されていたことがうかがえる。
1346年にモロッコ生まれの旅行者 イブン・バットゥータ(1304-1368)は杭州(古名 Khansa)を訪れた。そこでユダヤ人居住者と「ユダヤの門(犹太門)」を発見したという。その旅行記『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物』(1355年)は、モロッコのスルタンが学者に聞き取らせて書き残したものである。歴史資料としての価値が認められているが、その内容を第三者的に証明するものはない。 ヨーロッパ人で開封のユダヤ人に対して本格的に調査を始めたのは、イタリア人でイエズス会神父のマッテオ・リッチ(Matteo Ricci 1552-1610)であった。
1605年にマテオ・リッチは、開封から北京に来ているという艾田(がいでん アイ・ティエン)が、一神教を信じていることを伝え知った。艾田に会ってみると、艾田は、明らかに『旧約聖書』の内容やイスラエル十二支族のことを知っていた。古代のヘブライ語についても知識があった。艾田は、自らを「イスラエル教徒(一賜樂業 yīcìlèyè 教徒)」だと名乗ったが、「ユダヤ人」という言葉を知らなかった。艾田は、マテオ・リッチを「イスラエル教徒」だと思ったようである。また、艾田は、イエス・キリストやキリスト教会のことを知らなかった。マテオ・リッチは、艾田をキリスト教の礼拝堂に連れて行った。壁の片側には、赤ん坊の「イエス」を抱く「聖母マリア」の絵があり、もう片側には若い洗礼者「ヨハネ」の絵があった。マテオ・リッチはそれらに対して拝礼をした。艾田は、それらの絵に対して自らは偶像を崇拝しないが、祖先を崇拝するのは悪いことではないと言って拝礼した。艾田は、描かれているのはそれぞれ『旧約聖書』の「リベカとその息子エサウ」の絵と「ヤコブ」の絵だと答えた。
開封市には明と清の時代のユダヤ人の碑文が「五つ」存在する。明の時代の「重建清真寺(シナゴーグ再建)記」は、「弘治(こうち)二年碑」(1489年)とも呼ばれ、これにユダヤ人は周王朝より前に入国したと書かれている。明の時代の「尊崇道経寺記」は「正徳(せいとく)七年碑」(1512年)とも呼ばれ、これにユダヤ教は漢王朝の時より入国した(原教自漢時入居中国)と書かれている。清の時代のもう一つの「重建清真寺記」は、「康熙(こうき)二年碑」(1663年)とも呼ばれ、これにユダヤ教は周王朝のときに中国に伝わり、祠堂が開封(大樑)に建てられた(周時始傳於中州建祠於大樑)と書かれている。このほか、清の時代の「康熙十八年碑」と呼ばれるものが二つあって、「祠堂述古碑記」という碑と無題の碑である。
フランスのイエズス会神父のアントワーヌ・ゴービル(Antoine Gaubil 宋君榮 1689-1759)は、北京に 36年間滞在したが、開封に行って碑文を研究し、ユダヤ人は周王朝末期にペルシャ東部の呼羅珊(ホラサン)州から中国に入ってきたとする報告書を書いた。 ユダヤ人が中国に入国した時期を周、あるいは、それ以前とする「弘治二年碑」と「康熙二年碑」は文化大革命のころに破壊されたが、拓本は保存されている。しかし、その内容である「周、あるいは、それ以前に入国したこと」には、今のところ考古学的な証拠がない。 寧夏、北京、開封のユダヤ人は、陸路で中国に来た可能性が高い。一方、海路で中国に来たユダヤ人もいたようである。明の時代の「弘治二年碑」(1489年)には、「ユダヤ人は、宋代に外来綿布を朝献した」との記述がある。宋代には、アラビア海沿岸からインドネシアにかけて綿布が生産されていた。中国産の綿布が一般的になるのは明代中期以降であることから、揚州、泉州、寧波、広州など、沿岸地域のユダヤ人は、海路からも頻繁に中国に入国するようになっていたと見られる。彼らは居住、移住、雇用、教育、土地売買、宗教、異人種間結婚などの多くの面で、漢人と同じ権利が認められており、差別されることはなかった。その結果、特に開封のユダヤ人はビジネスで成功し、数としては少数であったが、富裕層を形成していた。彼らは 1163年にシナゴーグを建立した。 明代に開封のユダヤ人コミュニティは 500以上の家族があり、人口は約 4,000人から 5,000人であった。皇帝から 艾(がい Ezra)、石(Shimon)、高(Cohen)、張(Joshua)、趙(Jonathan)などの姓を授けられて保護された。 中世後期のヨーロッパで、キリスト教徒は、ユダヤ人がそのころヘブライ語の『聖書』を改ざんし、キリストの降臨に関する預言を削除したと主張した。その長引く論争の中で、より信頼できる古代の『聖書』の発見が望まれていた。 1605年、マッテオ・リッチは、マカオ生まれのカトリック伝道師・神父の徐必登(1580-1611 Antonio Leitao)を開封に派遣して、そこにある『モーゼの五書』を手に入れようとさせた。『モーゼの五書』とは、『旧約聖書』の最初の部分をなすもので、「創世記(Genesis)」「出エジプト記(Exodus)」「レビ記(Leviticus)」「民数記(Numbers)」「申命記(Deuteronomy)」からなる。徐必登は、そこで聖書を手に入れることはできなかったが、その最初の章と最後の章を書き写すことができた。それは、アントワープのプランタン(Christopher Plantin 1520-1589)が 16世紀に出版していた(ヨーロッパで用いられていた)ヘブライ語の聖書の内容と完全に一致した。 フランス人イエズス会神父ジャン・ドモンジュ(Jean Domenge 1666-1732)は、ヘブライ語に堪能であった。1698年に清代の中国に派遣された。彼は中国語にも堪能になった。1721年5月から 1722年2月まで開封に滞在し、11通の書簡を本国に送った。1721年の彼の報告によると、当時開封には正統な(西洋のものと同じ)『モーゼの五書』が 13冊あり、そのうちの 1冊は明代に 1642年の洪水から引き上げられた古文書で、残りの 12冊は写本であった。開封のユダヤ人は、彼らの『モーゼの五書』は三千年前のものであると主張した。『エステル記(Megillat Esther)』(BC 四世紀ごろ)の完本があった。『ダニエル書(Daniel)』(BC 二世紀ごろ)は部分本があった。『モーゼの五書』には奥付がついていて、ドモンジュはそれを書写して報告することができた。後に学者たちによって、それはユダヤ・ペルシャ語であることが判明した。このことから、開封のユダヤ人がもっていた明代以前の『モーゼの五書』は、ペルシャに起源をもつものであった。また、開封のシナゴーグの建築様式は、『エゼキエル書(Ezekiel)』 第 40章と第 42章に記された神殿の配置と一致していた。エゼキエルは紀元前六世紀のバビロン幽囚時代のユダヤ人預言者である。ドモンジュは、開封のシナゴーグのスケッチを二枚描いて本国に報告した。それは、全体的な神殿の配置と内陣の配置を示していた。正門は東向きで、両側を一対の獅子の石像が守っていた。 ドモンジョらの報告によって、ヨーロッパに伝わる『聖書』は、ユダヤ人によって改ざんされたものではないことが証明された。また、開封のユダヤ人はエゼキエルの時代より後のユダヤ人であり、また、エルサレム市が BC 63年に破壊されるよりも早くそこを発っていたと考えられた。ドモンジュは、漢字の発音が開封のユダヤ人のヘブライ語の発音に大きな影響を与えているとも報告したようである。 「康熙二年碑」(1663年)には、ユダヤ人は、周王朝のときに中国に入って来たと書かれている。これには、断食、宗教的作法、犠牲、結婚式、葬儀の制度に関する内容が書かれている。これは、今日の世界の様ざまなユダヤ社会で行われている内容とは異なっている。しかし、『旧約聖書』に書かれたエズラ(Ezra 紀元前四世紀の人物)以前のユダヤ人の慣習と一致する。 たとえば、開封のユダヤ人は、『聖書』を教えたり称(とな)えたりするときは、モーゼが行ったように顔をベールで覆う。また、毎日寅(とら)の刻(朝 4時)と午(うま)の刻(正午)、戌(いぬ)の刻(夜 8時)に西方に向かって礼拝をする。 礼拝は、(一)お辞儀をする。(二)中立する。(三)無言で神を賛美する。(四)讃美を口称する。(五)三歩下がる。(六)五歩進む。(七)左にお辞儀をする。(八)右にお辞儀をする。(九)敬い仰ぐ。(十)ひれ伏す。(十一)もう一度お辞儀する。という順序で行われる。礼拝中に言葉を交わしてはならない。後ろを振り返ってはならない。何かが起きてもわき道に逸れてはならない。 開封のユダヤ人は安息日を守る。また「贖罪(しょくざい)の日(ヨム・キプル Yom Kippur)」を守る。贖罪の日は、九月末から十月末の間の一日で、飲食、入浴、化粧や、一切の労働などを禁じられる。この贖罪の日には、人びとの意識は主に向かい、心を養うことが求められる。 以上のことが「康熙二年碑」に書かれている。 康熙四十一年(1702年)に、イエズス会神父でポルトガル人のジャンポール・ゴザニ(Jean-Paul Gozani 1647-1732)は、開封のユダヤ人がいつ入国したのかを調べるために開封を訪ねた。開封のユダヤ人は「割礼」をし、「過越(すぎこし)の祭り」 や「仮庵(かりいお)の祭り(Sukkot)」などを守っていた。しかし、「ハヌカー(Hanukah)の祭り」のことを知らなかった。ハヌカーはセレウコス朝シリアとの「マカバイの戦い」(BC 168- BC 141)でエルサレム第二神殿を奪回したことを記念するもので、開封のユダヤ人はそのことを知らなかった。開封のユダヤ人は、それよりも早くそこを発っていたと結論付けられた。 1841年の清の時代にシナゴーグは洪水で崩壊し、再建されることはなかった。 原始キリスト教徒が伝道の使命感をもち、シルクロードを通って東方世界に来た可能性も否定はできないが、証拠はない。さらに、西暦 70年にローマ帝国によってエルサレムが崩壊するとユダヤ人は離散した。そのとき一部のユダヤ人がシルクロードを通って東方世界に来た可能性も否定はできないが、証拠はない。 【14】 中国四川省の「羌(チャン)族」はユダヤ人であったか 中国四川省に、省都である成都の北西に接して「阿壩(アバ)自治州」がある。そこには藏(チベット)族と羌(チャン)族が暮らしている。イスラエルの調査機関・アミシャーブは、羌族を「失われた十支族」であると主張している。羌(チャン)族は、西北遊牧民の「羌(きょう)」の末裔である可能性が高い。「羌(きょう)」は、「五胡十六国」の時代に「後秦」(384-417)を建てた。首都は長安であった。
現在の羌(チャン)族は、前記の阿壩(アバ)自治州などに約 30万人住む少数民族である。見かけはチベット人や漢族と変わらない。2008年の四川省大地震で、数万人が失われた。
羌(チャン)族には、祖先が西北の草原地帯から三年三か月かけて移り住んできたという伝承がある。彼らにはまた、夫が死ぬと未亡人は夫の兄弟と結婚する「レヴィラト婚」が一般的に行われる(申命記 25:5)。これには財産を他の姓に渡さないという目的があり、古代の遊牧民によく見られる風習である。伝承される叙事詩に、洪水神話などに似たものがある。家屋の扉の側柱に山羊の血を塗って家内安全を祈る。山羊を犠牲にして祭壇に捧げる。この儀式の最中に、祭壇の周りに十二本の旗を立てる。割礼はしない。ユダヤ人と同様に秋にも正月がある。 羌(チャン)族の間にイスラエル人の DNAは見つからない。チャン語は「シナ・チベット語族」に属する。また、現代の羌(チャン)族は、多くの人が漢語かチベット語を話し、漢字かチベット文字を使用している。古代ヘブライの「アラム語」系と関連する痕跡はない。羌(チャン)族の伝統的な宗教は、森羅万象に神々が宿るというアニミズム(精霊信仰)であり、多神教である。これは、ユダヤ教の概念とは相容れない。 カトリックは、1898年にフランスの宣教師が入って教会を建てた。1909年にはプロテスタントが入った。学校を建て、医療を行うなど様ざまな努力をして「羌族の信仰する天神はキリストである」「羌族は西方の民族とは同族である」などと説いたが、キリスト教を信じる者はほとんどいなかった。羌族のアニミズム信仰は根強い。
アミシャーブが羌族をユダヤ人であると認定した。羌族は秦の始皇帝(在位 BC 247- BC 210)の祖先に違いない。よって、始皇帝はユダヤ人である。とする仮説が流布されている。それも、エンターテインメント(面白いつくり話)である。
後出のY染色体ハプロイド(DNA)の「D」の分布図(Wikipedia)」からも分かるように、「阿壩(アバ)自治州」は「D」が 2~10パーセントの地域である。その地域は始皇帝がいた黄河流域にも及んではいるが、始皇帝やその血族には安息日を守るなどのユダヤ人としての生活の痕跡がない。 司馬遷(BC 135- BC 86)の『史記』(BC 89年)の「秦始皇本紀」には、始皇帝について「蜂準長目(ほうせつちょうもく)」と書かれている。これは、現代では賢くて抜け目のないとされる人相を表す四字熟語となっている。この人相をもって始皇帝をユダヤ人であるとする仮説も流布されているようであるが、科学的な根拠がない。そのような仮説も、たとえば、誰かを自らが心に思い浮かべるイメージと似ているからというだけで真犯人として死刑にすることと同じであろう。 始皇帝はユダヤ人ではなかった。始皇帝はモーゼのことも知らなかったであろう。 羌族に、後出の、ユダヤ人のY染色体ハプロイド(DNA)の「J」はない。あるのは「D」と「O」である。 【15】 古代のユダヤ人が日本に来るための合理的な理由はあったか 紀元前 1498年(± 825年)に、中国東北の「西遼河(せいりょうが)流域」・朝鮮半島北部にいた北東アジア人が、朝鮮半島を通って「弥生人」として大量に九州に流入した(N.P. Cooke et al. Science Advances 2021)。日本では縄文時代の末期である。中国では「殷」(BC 17世紀 - BC 1046)の時代であった。流入した弥生人は、母系で伝わるミトコンドリア DNAの人口構成比で、前記縄文晩期の総人口 75,800人に対して、総計で 47,100人であったと見られる(N.P. Cooke)。流入した弥生人のY染色体の遺伝子のタイプ(型 後出)は「O1b2」である(M. F. Hammer, et al., J. of Human Genetics 2006)。
「漢民族」という言葉は正式な術語ではない。黄河中・下流域の中原(ちゅうげん)の地では、豊かな中華文明が築かれた。そこにいた人びとは、「漢人(Han)」と呼ばれた。それは、劉邦(BC 247- BC 195)が漢を建国(BC 206年)したことによって、そのように呼ばれるようになった。
漢人は、四方の東夷・南蛮・西戎・北狄にその高い文明を憧憬されながら少しずつ生活圏を拡大して行った。周囲との混血を繰り返しながら、現在の「漢人」が社会的概念として構成されたと見られる。漢人は、現在の中国の民族識別工作では「漢族」とされている。漢族は、中華人民共和国の少数民族を含めた総人口の 94パーセント以上を占める。江南地方の湖南省出身の毛沢東(1893-1976)も漢族とされている。我われ日本人が常識的に「漢民族」というときは、この「漢族」のことを指している。 中原の地の漢人が、勢力を拡大してだんだん南下すると、揚子江流域で稲作をして暮らしていた江南人はそれに伴ってアジア各地に離散していった。その一部は、BC 100年ごろ揚子江河口から九州北部に直接来航した可能性が高い。 後漢が滅亡すると、中国は魏(220-265)・呉(222-280)・蜀(221-263)に分裂した。黄河流域(中原の地)を支配した国は魏であった。開封は魏の主要都市の一つであった。卑彌呼が第二代皇帝・曹叡(205-239)に朝貢したころ(238年)、開封にはすでにユダヤ人のコミュニティ(村落)があった。ユダヤ人には「撰民思想」がある。これは、神に撰ばれた聖なる民という思想である。ユダヤ人は、日々の生存のために、ある程度まとまってコミュニティ(村落)を形成していた。 西暦 263年に、魏は蜀を滅ぼし、265年に魏が禅譲して西晉(265-316)が興った。280年に西晉が呉を滅ぼして中国は再び統一された。陳壽(233-297)は、蜀の官僚であったが、この西晉に官僚として採用された。陳壽は西晉で『魏志倭人傳』(285年)を著した。その西晉も匈奴の侵攻によって 316年に滅亡し、中国は北方民族が支配する「五胡十六國」の時代となる。西晉の司馬睿(しばえい、276-322)は、華南に逃れて東晉を建国した。
五胡とは「匈奴」・「鮮卑(せんぴ)」・「羯(けつ)」・「氐(てい)」・「羌(きょう)」のことである。
匈奴は「前趙(ぜんちょう)304-329」、「夏(か)407-431」、「北涼(ほくりょう)397-439」を建国した。鮮卑は「前燕(ぜんえん)337-370」、「後燕 384-407」、「南燕 398-410」、「南涼 397-414」、「西秦 385-431」を建国した。羯は「後趙(こうちょう)319-351」を建国した。氐は「成漢 304-347」、「前秦 351-394」、「後涼 386-403」を建国した。羌は「後秦(こうしん)384-417」を建国した。 一方、漢人は「前涼 301-376」、「冉魏 ぜんぎ 350-352」、「西涼 400-421」、「北燕 407-436」を建国した。 西晉の都であった洛陽も、長安も、匈奴の侵攻によって陥落した。開封も陥落した。かつての魏の支配地域であった中原(ちゅうげん)の地は、匈奴の「前趙」となった。滅亡した国は、官僚や兵は皆殺しにされた。女は連れ去られた。この動乱の中で、多くの政治難民が生み出された。 西暦 202年(± 175年)、「古墳時代」がはじまるころに、大陸から「東アジア人」が日本に多く流入した可能性が高い。日本に流れ込んだ東アジア人は、かつて「秦」や「前漢・後漢」「魏」「西晉」の中心地であった中原の地の漢族であったと見られる。
弥生時代の日本の人口(縄文人+弥生人)は、コンピュータ考古学による復元から約 594,900人であった(小山修三教授)。それに対して流入した東アジア人は「約 1,000,000人」であったと見られる。日本の人口の約 63パーセントが漢族などの東アジア人となった。魏(220-265)の人口は、西暦 260年に4,432,881人であったことが分かっている(Wikipedia/魏)。その中に少なくとも 1,000人のユダヤ人がいたとすれば、少なくとも 200人のユダヤ人が日本に渡来した可能性がある。
現在の日本人男性は、父系で受け継がれるY染色体の遺伝子を調べると、縄文人約 40パーセント、弥生人約 24パーセント、漢族などの東アジア人約 36パーセントである(M.F. Hammer et al., 2006)。このデータは、日本人 259名を対象としているだけなので、おおよその数値である。また、母系で受け継がれるミトコンドリアの遺伝子を調べると、漢族などの東アジア人約 71パーセント、縄文人約 14パーセント、弥生人約 15パーセントである。これらの数値には、また、図にも、それぞれ数パーセントの標準偏差の誤差はある。漢族の遺伝子のこの男女差について、日本に漂着した漢族は、食糧も不足する中で、男は多くが古墳造成などの労役に死ぬまで駆り出され、あるいは餓死させられて、その結果子孫を残すことができなかった。流入した漢族の男の二人に一人はそのようにして殺されたのではないか。女は獲物として生かされて縄文人と弥生人の男の子孫を残したようである。 血統(種)はある程度の個体数がなければ、これを維持することは、容易ではない。日本に渡来したわずかなユダヤ人が、血統(種)を何世紀にもわたって維持することは困難であった。高い文化と高い能力をもつ個々のユダヤ人は、尊敬され、利用された。しかし、その血統(種)は自然に消滅した。 【16】 『古事記』は、「誰」が「いつ」「なぜ」拵(こしら)えたか 「壬申(じんしん)の亂」(672年)は古代史上最大の戦乱であった。天智天皇の子・大友皇子に対して天智天皇の弟・大海人皇子が挙兵した。反乱者である大海人皇子が勝利して天武天皇となった。大友皇子についていた中臣一族は、これによってすべてを失った。その中で、藤原不比等(659-720)は、抜きん出て聡明な人であった。法律学と文筆に秀でていた。それも稀代の才能をもっていた。本来ならば、不比等は、大化の改新の最大の功労者である中臣鎌足(614-669)の子として、高い地位が保証されていてもよかった。しかし、不比等は一官人として出仕するほかはなかった。その「不遇」が、古代史上、不比等に権謀術数(けんぼうじゅつすう)の比類ない知恵をもたらしたようである。大寳元年(701年)に『大寳律令』が完成した。これは、第四十一代持統天皇(在位 690-697 以後上皇)と第四十二代文武天皇(在位 697-707)の勅命によって、天武天皇の子・忍壁皇子(おさかべのみこ 生年不詳-705)・藤原不比等以下、学者、渡来人によって編纂されたものである。 「八月三日 三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連(いきのむらじ)博徳(はかとこ)・伊余部連(いよべのむらじ)馬養(うまかい)らに命じて、大寶律令を選定させていたが、ここに初めて完成した」 (『續日本紀』大寶元年) 『大寶律令』の実質的な編者は、藤原不比等であった可能性が高い。『大寶律令』は、それまでの『飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令』(689年)に代えて施行された。これによって、日本も律令国家となった。天皇を中心として「神祇官」と「太政官」の二官が置かれた。「太政官」の下に「中務省」「式部省」「治部省」「民部省」「大蔵省」「刑部省」「宮内省」「兵部省」の八省が置かれた。これによって、「大化の改新」は完成したといえる。すなわち、過去の豪族政治に訣別し、天皇を中心とする中央集権体制が確立した。『大寶律令』で定められた、官庁で取り扱う文書には元号を用いること、印鑑を押すこと、正しい書式の文書以外は受理しないことなどは、慣習となって現代にも伝わる。 『大寶律令』の完成は、遣隋使のころから一世紀を経て、中国文明への理解が深まって実現したものである。その結果、日本も、中国のように、国家として「歴史書」をもとうではないかということになった。これが、そのころ歴史書が書かれた背景の一つであろうと見られている。 『古事記』は 712年に完成した現存する日本最古の史書。『日本書紀』は 720年に完成した日本最初の正史。そのようなことになっている。これは、おそらく正しい。 第四十代天武天皇(在位 672-686)は、681年に第三十八代天智天皇の子・川島皇子(かはしまのみこ 657-691)と前記の忍壁皇子に命じて、『帝紀』(『帝皇日繼』 すめらみことのひつぎ)と『舊辭(くじ 旧辞)』(『先代舊辭』 さきのよのふること)』を編纂させた。それらは、皇室の系譜と物事を記したものであったと見られる。その後、『帝紀』も『舊辭』も、失われてしまった。もし現存すれば、日本最古の史書となっていたであろう。そのような史書が、国家としてこれから史書をもとうという時期に、なぜ失われてしまったのであろうか? 『古事記』の序文によれば、ひとりの舎人がいた。姓は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)。年は二十八。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。第四十代天武天皇(在位 673-686)は、阿禮に『帝紀』と『舊辭』を誦習せよと命じた(時有舎人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心即勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭)。 そのことが事実であったかどうかは分からない。そもそも、稗田阿禮(生没年不詳・出自不詳)には前後の歴史がない。稗田阿禮は架空の人物であった可能性が高い。『帝紀』と『舊辭』がこれから失われようというのでない限り、また、その編者である川島皇子と忍壁皇子が存命である限り、天武天皇が、第三者である稗田阿禮にこれを調査させたり暗誦させたりした可能性は低い。あるいは、可能性はない。 『古事記』は、その序文によれば、和銅四年(711年)九月十八日に、第四十三代元明天皇(女帝 在位 707-715)が、太安万侶(おほのやすまろ 生年不詳-723)に命じて、稗田阿禮が記憶する内容を筆録させた。それは、和銅五年(712年)一月二十八日に完成して元明天皇に献上された。そのようなことになっている。この献上は、事実であったとすれば、元明天皇に最も近い藤原不比等によって行われたと見られる。 太安万侶は、実在した人物である。『續日本紀』に太安万侶の官位と昇進について詳しく記録されている。昭和五十四年(1979年)に奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶の墓誌も発見されている。仮に 711年に稗田阿禮が太安万侶に何かを誦述したとすれば、稗田阿禮の年齢は五十三歳と、藤原不比等と同年齢であったことになる。 『續日本紀』には、『日本書紀』(720年)について、それが完成したことが書かれている。一方、『續日本紀』には、『古事記』のことは書かれていない。また、太安万侶は『古事記』が完成したことによって昇進していない。
『古事記』の最古の写本(名古屋市博物館所蔵)は、1372年ごろ(南北朝時代)に真言宗北野山真福寺寶生院の僧侶・賢瑜(けんゆ)が書き写したものである。その写本ができてから現在まで、六百五十年余りしか経っていない。
それらのことが、江戸時代以来『古事記』は「偽書」ではないかとして、多くの憶測を呼んだ。 平安時代、太安万侶の子孫に「多人長」(おほのひとなが)という人物がいた。朝廷の『日本書紀』の教官であった。多人長が、その『弘仁私記』(812年)というメモの中で『古事記』に触れている。そこで、『古事記』は多人長によって創作されたのではないかとして、これもまた、多くの憶測を呼んだ。 『古事記』は、次に述べるように、『萬葉集』が編纂された初期のころ(720年代)には知識人の間に公開されていた可能性がある。 『萬葉集』の「第二巻」の「歌番号第九十」は、磐姫(いわのひめ)皇后の仁徳天皇を思慕する歌である。その「題詞」(詠まれた背景・趣意などを記したもの)に「古事記に曰く」と書かれている。この「古事記に曰く」は、単に古事記を普通名詞として述べているとする仮説はあるが、「左注」(歌の後につけられた注記)に「日本紀に曰く」も出てくる。また、「左注」に、第十九代允恭(いんぎょう)天皇について、「遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)にて御宇(治世)したまふ」とある。この「遠飛鳥」は『古事記』の「序文」には出てくるが、『日本書紀』には出てこない。 [歌番号] 02/0090 [題詞] 古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀(慕)而追徃時歌曰 [原文] 君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待 [訓読] 君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ [左注] 右一首歌古事記与類聚<歌林>所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云々 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬 取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中時皇后 到難波濟 聞天皇合八田皇女大恨之云々 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春(三)月甲午朔庚子 木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云々 遂竊通乃悒懐少息 廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親々相奸乎云々 仍移太娘皇女於伊(豫)者 今案二代二時不見此歌也 [事項] 相聞 仁徳天皇 作者:磐姫皇后 律令 情詩 閨房詩 大阪 伝承 仮託 恋情 女歌 (以上 Wikisource) この「第二巻」は、[題詞]と[左注]を含めて編纂された時期について、第四十一代持統天皇(在位 690-697)を「太上天皇」、第四十二代文武天皇(在位 697-707)を「大行天皇」と表記し、第四十三代元明天皇(在位 707-715)の治世を「現在」としている。
『古事記』は、元明天皇のための「私的」な書籍として献上されたのではないか。すると、その完成は必ずしも『續日本紀』には書かれないであろう。あるいは、元明天皇の勅命が藤原不比等に対する暗黙の認諾であった場合にも、必ずしも『續日本紀』には書かれない。 あるいは、梅原猛(1925-2019)が『神々の流竄(るざん)』(1970年)で推定したように、『古事記』を誦述した稗田阿禮は、藤原不比等の筆名であった可能性がある。梅原猛によれば、元明天皇は、二十六歳の時に、藤原不比等と初めて出逢った(686年)。そのとき、藤原不比等は二十八歳であった。抜きん出て聡明な人であった。したがって、元明天皇は『古事記』を手にしたとき、稗田阿禮が藤原不比等であることを即座に察知した。「年是廿八」とは、藤原不比等の元明天皇に対する、そのような「暗号」であったと梅原猛は推定する。『古事記』は、元明天皇の崩御(721年)後に「先帝の遺品」として第四十四代元正天皇(女帝 在位 715-724)によって公開された可能性がある。そのとき、稗田阿禮の正体を知る人はもういなかったであろう。
中臣氏は、前記したように、初代コヤネの天児屋命(あめのこやねのみこと)を始祖であるとして朝廷の祭祀を司る氏族であった。藤原不比等(659-720)は、第二十四代の直系コヤネであることになっている。その不比等は、前記したように、中臣一族として「壬申(じんしん)の亂」ですべてを失った。勝利したのは第四十代天武天皇であった。不比等は、一官人として出仕する中で、第四十一代持統天皇(女帝 在位 690-697)に見い出された。第四十二代文武天皇(在位 697-707)・第四十三代元明天皇(女帝 在位 707-715)・第四十四代元正天皇(女帝 在位 715-724)の四代の天皇に仕えた。前記したように『大寳律令』の実質的な著者であったと見られる。それによって、天皇を中心とする中央集権体制が確立した。また、文武天皇から元正天皇に至る、三代の天皇の擁立に貢献した。不比等は、時代の流れをよく読み、蘇我入鹿などとは異なって自らは表に出ないで秘かに時代を動かした。武力ではなく法による支配を確立し、中央と地方のすべての豪族に対して、天皇を戴かせた。天皇は、和同開珎(わどうかいほう わどうかいちん)を鋳造し(708年)、平城京に遷都し(710年)、史書『古事記』をもつ(712年)。そのような藤原不比等に、元明天皇も元正天皇も自らの立場を強く守られていると感じていたのではあるまいか。
あるいは、梅原猛が指摘しているかどうかは分からないが、不比等は、ある時、「中臣神道」のことに触れない『帝紀』と『舊辭』の内容を知り、当惑して深く失望した。天岩戸の神話のことは書かれていたかもしれないが、その始祖の天児屋命(あめのこやねのみこと)」の功績を讃える記述はなかったであろう。不比等は、秘かに自らの「戦争」として「代替」の書・『古事記』を書いた。一方で、『帝紀』と『舊辭』を秘かに隠滅(いんめつ)したのではないか。不比等にはそれだけの深く傷ついた「動機」と「機会」と「才能」があった。しかし、権力者である己が『古事記』を書いたというのでは、史書にならない。そこで、当時民部卿の職にあった太安万侶に、稗田阿禮が記憶する『帝紀』と『舊辭』の内容として編纂させ、その上で自ら元明天皇に献上した。
事実とすれば、かくして「藤原不比等の乱」、すなわち、『古事記』(712年)の献上と、『帝紀』『舊辭』の隠滅は成功したのではないか。しかし、藤原不比等にとって、「中臣神道」を完成させるためには、『古事記』の内容に沿って、もう一つの「宗教書」である『日本書紀』を完成させる必要があった。 【17】 『日本書紀』は、「誰」が「どのように」拵(こしら)えたか
ユダヤ人は 3,000年以上も前から小さな子どもが『トーラー(Torah)』を暗誦(あんしょう)して読み書きできた。十二歳になるとそれを長老たちの前で披露しなければならなかった。『トーラー』とは『モーゼの五書』のことである。『旧約聖書』の最初の部分をなしている。
縄文時代に日本人は文字を必要としなかった。暗黙の契約さえも存在したと見られる。何らかの文字を読み書きできる、あるいは、暗唱できるユダヤ人は、朝廷、あるいは、地方の豪族によって「ふひと(史)」として重用された可能性がある。 『旧約聖書』は「天地創造」から始まり、ヘブライ人に撰民思想(神に撰ばれた民という思想)を保障している。『日本書紀』も「天地創造」から始まり、日本人に神国思想を保障している。『日本書紀』は、あたかも日本という国が少なくとも「イスラエル」と互角であると述べているかのようである。 『日本書紀』は、紀元前十三世紀ごろモーゼがユダヤの民を率いてエジプトを脱出し、瑞穂(みづほ)の国(「ミヅラホ」はヘブライ語で「日出ずるところ」の意)に東征して「カナン(ヘブライ語で「葦原」の意)」の地に至ったことを「知って」いて編纂されたのではないかと想像される。初代神武天皇が、モーゼと互角の建国者であるためには、神武天皇に「東征」してもらう必要があったのかもしれない。 『旧約聖書』によれば、「聖典の民」の祖・アブラハムは、「ダガーマ地方のハラン(Harran)」にいたが、孫のヤコブはイスラエルの地で神に撰ばれたユダヤ人の始祖となる。一方、『日本書紀』によれば、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原(たかまがはら)にいたが、高千穂に降臨して大和民族の始祖となる。 ヤコブは、ラケルと結婚し、その父からラケルの姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。一方、瓊瓊杵尊は薩摩半島の吾田國(あたのくに 薩摩國閼駝郡)の笠沙(かささ)の國神(くにつかみ)の娘・木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と結婚し、その父から木花開耶姫の姉も妻にしてくれと頼まれたが、姉は美しくなかったので断る。 ヤコブはラケルとの間にヨセフを産むが、ヨセフは兄にいじめられてエジプトに行く。ヨセフはエジプトの祭司の娘と結婚してエフライムを産む。エフライムの四番目の息子べリアの子孫・ヨシュアがイスラエルの地を征服する。一方、瓊瓊杵尊は木花開耶姫との間に山幸彦(彦火火出見尊 ひこほほでみのみこと)」を産むが、山幸彦は兄(海幸彦)にいじめられて海神(わたつみ)の国に行く。山幸彦は海神の娘・豐玉姫(とよたまひめ)と結婚して鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を産む。鸕鶿草葺不合尊の四番目の息子・神武天皇が葦原中國(あしはらのなかつくに)を征服する。 イスラエルの地に定住したユダヤの十二支族は、ダビデ王(BC 1040-BC 961)のときに「イスラエル王国」として統一された。一方、第十代崇神天皇は四道將軍を派遣して国内を統一した(日本書紀)。 『旧約聖書』の「サムエル記下巻 24:15」によれば、ダビデ王の時代に三年間の飢饉と疫病によって七万人の民が死んだ。『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に疫病が三年間流行り、民の大半が死んだ(國内多疾疫民有死亡者且大半矣)。 ダビデ王は天なる神に祈った。一方、崇神天皇は天神地祇に祈った。 「サムエル記下巻 8:14」によれば、ダビデ王は「エドムの地」で戦った(He put garrisons throughout Edom)。一方、崇神天皇は「挑(いどみ)の河」で戦った(各相挑焉故時人改號其河曰挑河)。 「サムエル紀下巻 24:2」によればダビデ王は初めて人口を調査した。一方、崇神天皇も初めて人口を調査した(秋九月甲辰朔己丑始校人民)。 ダビデ王の子・ソロモン王は天なる神を祀(まつ)るためにイスラエル神殿を創建した(現在はヘロデ王の時代の「嘆きの壁」などの外壁しか残らない)。一方、崇神天皇の子・第十一代垂仁天皇は、天照大神を祀るために伊勢神宮を創建した。 『日本書紀』は、崇神天皇があたかもダビデ王と互角であると述べているかのようである。 以上のように、『日本書紀』の編纂チームが思い出した「日本」の古代史は、「古代イスラエル」の歴史であった。 社会科学の一般論としては、同じ出来事でも、時代が異なり、国が異なり、あるいは知識として形成されていった過程が異なると、すっかり異なった内容のものとして把握され、認識される。このことは 1920年代に「知識社会学(Wissenssoziologie)」としてドイツの哲学者・マックス・シェーラー(Max Scheler 1874-1928)」や、ハンガリーの社会学者・カール・マンハイム(Karl Mannheim 1893-1947)によって提唱された。しかし、時代が異なり、国が異なり、あるいは知識として形成されていった過程が異なるのに、「古代の日本」では、「古代のイスラエル」と同じ出来事が起きたというわけである。 以上から、『日本書紀』の編纂に加わった有力な「ふひと(史)」の中に、ユダヤ人の子孫がいた可能性がある。あるいは、梅原猛が推定したように、『日本書紀』も、影の著者は、『大寶律令』と『古事記』の真正の著者である藤原不比等(659-720)であった可能性がある。もっとも、『日本書紀』は、その構成から、多数の人びとによって執筆されたことが分かっている。その編纂は藤原不比等の意に反しないものとして完成された可能性が高い。 前記したように、『古事記』は、第四十三代元明天皇の崩御(721年)後に先帝の私物(遺品)として第四十四代元正天皇(女帝 在位 715-724)によって公開された可能性が高い。したがって、『日本書紀』(720年)には『古事記』が引用されていないのであろう。 『續日本紀』には、『日本書紀』の完成について、極めて簡略に記載される。 「(養老四年五月二十一日)これより先に(天武天皇の)第一親王である舎人親王は、勅命をうけて日本紀の編纂に従っていたが、このたびそれが完成し、紀三十巻と系図一巻を奏上した」 国家としての一大事業であったにもかかわらず、藤原不比等は、編纂チームがどのような陣容で成り立っていたかを『續日本紀』に書かせなかったのではないか。また、その中で権力者となった己が実質的な著者であったことを(すると史書にならないので)書かせなかったのであろう。これこそが、藤原不比等の人生最後の大勝負であったのではないか。「祭祀」と「政治」は「まつりごと」として同根であった。事実ならば、ここに「中臣神道」が完成したといえそうである。 しかし、それから、二か月余り後のことであった。 「養老四年八月一日右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が病気になった」(續日本紀) この日、第四十四代元正天皇(女帝)は次のように詔した。 「右大臣・正二位の藤原朝臣は、病にかかって寝食もままならない。朕はその疲労のさまを見て、心中あわれみいたんでいる。その平復を願っているが、なす術(すべ)がない。よって天下に大赦を行って、これにより病患を救いたい。養老四年八月一日の午(うま)の刻より以前の、死罪以下罪の軽重を問わず、すでに発覚した犯罪、まだ発覚していない犯罪、すでに判決のあった犯罪、未だ裁判中の犯罪も、現在すでに獄につながれている囚徒、贋金づくり及び盗人、八虐の犯罪で通常の赦ではゆるされない者も、皆ことごとく赦免せよ」(續日本紀) 「養老四年八月三日右大臣・正二位の藤原朝臣不比等が薨(こう)じた」(續日本紀) 前記した「エフライム」は、北イスラエルの王族である。また、前記したヨセフ・アイデルバーグは『日本書紀』に出てくる「すめらみこと(天皇)」を「サマリア(北イスラエル)の君」の意味であると主張した。これらは、北イスラエル(サマリア地方)の十支族が日本にやってきた可能性を示唆する。しかし、それが事実であったとは考えにくい。なぜなら、北イスラエル(サマリア)が滅亡して十支族が失われた「紀元前 722年」から、前漢の第七代皇帝・武帝によってシルクロードが開通した「紀元前 114年」までに、600年以上かかっているからである。南イスラエル(ユダヤ)の二支族が、シルクロードができてようやく中国に移り住んだことが現実に起きたことであった。 「素戔嗚(すさのを)尊」という名称は中近東の名称という自らのイメージに近いという理由で、あるいは、素戔男尊が高天原で犯した「天つ罪」は農業を軽視する遊牧民としての自らのイメージに近いという理由で、素戔男尊は古代に渡来した実在のユダヤ人に相違ないという仮説も流布されているようである。それも面白いが、「妄想」である。 「天鈿女(あめのうづめ)命」の半裸の踊りは古代の中東の踊りという自らのイメージに近いという理由で、天鈿女命を神代に日本に渡来したユダヤ人であるとする仮説も流布されているようである。それも、面白いが、「妄想」である。 「猿田彦(さるたひこ)命」について『日本書紀』にはその鼻の長さ七握(つか)、背の高さ七尺あまり、正に七尋(ひろ)というべきである。また、口の端が明るく光っている。目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで、照り輝いていて赤酸漿(あかほうずき)のようであると書かれる(其鼻長七咫背長七尺餘當言七尋且口尻明耀眠如八咫鏡而赩然似赤酸醤也)。この風貌が自らのユダヤ人のイメージに近いという理由で、猿田彦命を神代の時代に日本に渡来したユダヤ人であるとする仮説も流布されているようである。それも、面白いが、「妄想」である。 素戔嗚尊の存在もその名称も、天鈿女命の存在もその半裸踊りも、猿田彦命の存在もその風貌も、いずれも八世紀に、先行文献がない中で、舎人親王以下『日本書紀』(720年)の編纂チームが想像をめぐらして書き記すことができた「表現」である。すなわち、日本人が素戔男尊や天鈿女命、猿田彦命の存在を知ったのは、八世紀に『日本書紀』(720年)を見て以降のことである。もっとも、『日本書紀』がユダヤ人の子孫によって編纂されたのであれば、ユダヤ人の文化を反映する「表現」となったことはあり得るであろう。 第三章 【18】 漢(あや)氏と秦(はた)氏は、いつ日本に渡来したか 紀元前 108年に前漢(BC 206- 8)の第七代皇帝・武帝(在位 BC 141- BC 87)は、朝鮮半島北部を支配下においた。205年(後漢 25年-220年の終わりごろ)に、遼東郡の軍閥・「公孫氏」が朝鮮半島の植民地をそのまま支配し、北部を「楽浪郡」、南部を「帶方郡」に分割した。238年に公孫氏は、「魏」(220-265)の将軍・司馬懿(しばい 179-251)によって滅ぼされた。楽浪郡、帶方郡は、魏の一部となった。倭國の女王・卑彌呼が魏に朝貢したころである。 265年に司馬炎(236-290)が魏を継承して「西晉」(265-316)を建国した。中国は、これによって再統一された。朝鮮半島の楽浪郡・帶方郡も西晉の支配下となった。
313年に西晉の楽浪郡・帶方郡は、「高句麗」の支配下に入った。西晉が弱体化したからである。中国による楽浪郡・帶方郡の支配はこのとき終わる。
316年に西晉は、匈奴の侵攻によって滅亡した(「五胡十六国」の時代の始まり)。 朝鮮半島南西部は、「馬韓(ばかん)」として五十余りの小国に分かれていた。その中の「伯濟(はくさい)」の「近肖古王」(在位 346-375)が、馬韓を「百濟国」として統一した。百濟の建国神話では、百濟の建国は紀元前 18年とされ、近肖古王も「第十三代」とされるが、史実としては、近肖古王が初代王であると見られている。 367年に近肖古王は、日本と国交を開始した。そのことは『日本書紀』(720年)にも記載があるが、中国の史書で最初に百濟が記載されるのは、北宋の司馬光(1019-1086)の『資治通鑑』(1084年)においてである。372年に百濟は、初めて東晉に朝貢した。
高句麗では第十九代広開土王(好太王 374-412)が死去すると、第二十代長壽王が即位した(在位 413-491)。
475年に長壽王は、百濟に侵攻して首都・漢城(ソウル特別市)を陥落させた。百濟は熊津(ゆうしん 忠清南道公州市)に南遷した。高句麗は、このとき最大版図となり、百濟は領土の北部半分を失った。 漢氏(あやうじ)は、伽耶の小国・「安耶(あや)」にいたが、周辺諸国のこの激動の中で、日本に移住したと見られている。それは、第二十一代雄略天皇(考古学的に実在が確実とされる)の時代であった可能性が高い。 やや遅れて五世紀末に秦氏が、伽耶から渡来したと見られる。 漢氏は、東漢氏(やまとのあやうじ)と、西漢氏(かわちのあやうじ)に分かれる。両氏とも「安耶(あや)」の出自であるが、織物に優れていたので、「漢」と書いて「あや」と読む。土木建築などにも優れていた。 六世紀に、東漢氏は渡来人の最大勢力であった。飛鳥の南部を本拠地とした。秦氏はそれに続く勢力であった。漢氏も秦氏も、漢字を自由に読み書きできた。それまでの大和政権は、稲作と朝鮮半島との交易に支えられるだけであった。特に漢氏の先進的な技術が、大和政権の文化を著しく発展させた。ここに「飛鳥文化」が開花した。 一方、秦氏は、比較的遅れて後進地域の山城・近江を本拠地とした。奈良時代から平安時代にかけて、漢氏に匹敵する業績を残した。 秦氏は、養蚕、織物、土木技術、鉄や銅の採鉱・精錬、薬草などを広めた。平安時代(815年)に編纂された『新撰姓氏録』によれば、第二十一代雄略天皇の時代に秦氏は山城国だけでも 18,670人いたとされる。
九州の宇佐地方は、宗像を通して青銅器・鉄器等が朝鮮半島から瀬戸内地方に持ち込まれる中継地であった可能性が高い。宗像三女神(田心媛神 たごりひめ、湍津媛神 たぎつひめ、市杵嶋媛神 いちきしまひめ)は、『日本書紀』によれば高天原から宇佐嶋に降臨したとされる。725年に秦氏は應神天皇を祀って宇佐八幡宮を創建したと伝えられるが、宇佐八幡宮の創建はより古く、九州と畿内を結ぶ中心地として宗像三女神を祀っていたと見られる。769年に宇佐八幡宮は皇位継承の弓削道鏡(700-772)の事件が起きたとき、勅使・和気清麻呂(わけのきよまろ 733-799)を通して皇統を守った。
『日本書紀』に、第十五代應神天皇十四年に朝鮮半島の弓月王が、百二十県の人びとを率いて帰化し、秦氏となったと伝えられる(是歳弓月君自百濟來歸因以奏之曰臣領己國之人夫百廿縣而歸化)。「弓月王」が何者であったかは分からない。日本に漢字がない時代に、「弓」は「ku」と発音され、「月」は「tal」と発音されたことから「弓月王」は、単に「kutal(百濟)の王族」を意味したとも指摘されている。王族であったかどうかも分からない。また、『日本書紀』に、應神天皇二十年に倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖である阿知使主(あちのおみ)が、その子の都加使主(つかのおみ)、並びに十七県の自分の輩(ともがら)を率いてやってきて、東漢氏(倭漢氏 やまとのあやうじ)になったと伝えられる(倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉)。 そのように、『日本書紀』には、漢氏も秦氏も應神天皇の時代(在位 390-422)に渡来したことになっているが、当時の朝鮮半島には、彼らが(難民として)渡来すべき理由はなかった。漢氏も秦氏も、第二十一代雄略天皇の時代以降に朝鮮半島の伽耶から渡来した民族であると見られている。 漢氏は「前漢の初代皇帝・劉邦の末裔」と自称したようであるが、漢氏は、それより六世紀以上も昔の前漢(BC 206- 8)とも劉邦(BC 247- BC 195)とも無関係である。また、それに対抗する秦氏は「秦の始皇帝の末裔」と自称したようであるが、秦氏も、秦(BC 221- BC 206)とも始皇帝(BC 259- BC 210)とも無関係である。 『日本書紀』には、秦氏は百二十県の人びとを率いてやって来た。漢氏は十七県の人びとを率いてやって来た。そのように書かれている。また、より古く「應神天皇」の時代にやって来た。と書かれている。いずれも、秦氏と漢氏が日本で成功して有力な氏族になった「結果」を可能な限り修飾するための当時の「都市伝説」であった可能性が高い。 【19】 日本人は「ネストリウス派キリスト教(景教)」のことをいつ知ったか キリスト教では「天なる神」「キリスト」「聖霊」の三位(さんみ)は、一体とされる。この「三位一体(トリニティ)説」は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(270-337)のもとで開かれた宗教会議(ニケーア公会議 325年)で正統とされた。西暦 395年にローマ帝国は、東西に分裂。東ローマ帝国のコンスタンチノープル総主教であったネストリウス(在位 428-431)は、イエス・キリストは神であり、人でもある。なぜなら、聖母マリアはキリストの母である。しかし、聖母マリアは神の母ではない。神に母はいないのであるから。と主張した。これは、431年の宗教会議(エフェソス公会議)で異端とされ、ネストリウスとその信者は、国外に追放された。ネストリウスはエジプトに亡命し、信者はササン朝ペルシャに亡命した。ネストリウス派キリスト教は、そこで広まった。ネストリウス派キリスト教は、教義のうえでユダヤ人や、周囲のアッシリア人、ペルシャ人等にとって受けいれやすかったようである。 唐の鎮関九年(635年)に、ネストリウス派キリスト教のペルシア人司教・阿羅本(あらほん Alopen Abraham)と数名の宣教師は、ペルシャから唐の首都長安へ向かった。唐の正観十二年(638年)に第二代皇帝・太宗(在位 627-649)は、宰相・方玄齢に命じて、長安の西郊外で阿羅本らを儀仗兵を率いて迎えた。太宗は、阿羅本らと直接面会した。阿羅本は、漢訳の『新約聖書』を太宗に献上した。 ネストリウス派キリスト教は唐に認められ、唐政府は、長安の伊寧坊に国立の大秦寺(キリスト教会)を建てた。このネストリウス派キリスト教は、中国では「景教」と呼ばれた。阿羅本は、歴史上最も早く中国に公式にキリスト教を伝えた人物として知られる。 第三代皇帝・高宗(在位 649-683)は、阿羅本を「鎮国大法主」に封じ、各県に景寺(ネストリウス派キリスト教会)を建てるよう詔勅を下した。唐が景教を重視したのは、西域の西にある大国・ペルシャを重視したからに相違ない。この高宗は、「白村江の戦い」(663年)で倭國に戦勝した皇帝であった。 日本からの第一次遣唐使は、舒明二年(630年)に派遣された。第二次は白雉四年(653年)、第三次は白雉五年(654年)、第四次は斉明五年(659年)、第五次は天智四年(665年)、第六次は天智六年(667年)、第七次は天智八年(669年)であった。遣唐使は、その時々の皇帝に朝貢した。特に第五次以降は、「白村江の戦い」で戦勝した前記の高宗に対する朝貢であった。 遣唐使は、日本を律令国家にするために、唐の文化を学ぶことを目的としていた。遣唐使は、各地に新しく建てられていく景教寺院を目の当たりにしたに相違ない。それが先進国の姿であった。空海(774-835)などは、景教の深い内容を瞬時にして学び取った可能性がある。遣唐使は『(漢訳)新約聖書』などの景教の資料を日本に持ち帰った。 遣唐使の派遣は、寛平六年(894年)の第二十次について、大使の任にあった菅原道真(845-903)の建議によって取りやめとなった。理由は、唐の政情不安にあった。唐は 907年に滅亡した。 唐と中近東は、シルクロードでつながっていたので、ネストリウス派キリスト教が唐に公式に伝わるよりも早く、民間のレベルで唐に伝わっていた可能性までは否定できない。 関東には多くの渡来人が住んだ。天智天皇は、その五年(666年)、百濟の男女二千余人を東国に住まわせた。百済の人々に対して、僧俗を選ばず三年間、国費による食を賜わった(日本書紀)。靈龜二年(716年)に高麗(こま)人千七百九十九人を武蔵国に移住させて「高麗郡」を置いた(續日本紀)。天平寳字二年(758年)には、帰化した新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を、武蔵国の未開地に移住させた。そこを「新羅郡」(現在の埼玉県新座市あたり)とした(續日本紀)。群馬県の「多胡郡」にも、渡来人が多く住んでいた可能性がある。
群馬県高崎市吉井町池字御門の「吉井石碑(いしぶみ)の里公園」の一角に「多胡碑(たこひ)」(国の特別史跡)がある。「多胡郡を新設して羊に支配を任せる」とした内容が書かれている。和銅四年(711年)に建立されたようである。これは『續日本紀』の和銅四年三月の条と一致する。
肥前國平戸藩主・松浦静山(1760-1841)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)巻之六十三 多胡碑十字架の事』に「上州多胡郡の碑にある羊は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より、墓中とは碑下を云や、又羊の墓と云もの別にあるや、十字架を出だす。是を先年舶来の紅毛人・イサアカ・テツチンギに長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、テツチンギ是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと」と書かれている。 また、『甲子夜話 続編巻之七十三 多胡碑の傍より掘出す蛮文併考』に「JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石槨を掘出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、邪蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿二年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずることならん。尚識者の考を俟」と書かれている。
「十字架」も「JNRIの銅券」も、松浦静山が直接見たわけではなく、伝聞の話のようである。「十字架」が出たことが事実かどうかは分からない。「JNRIの銅券」が出たことは、通常の人が「JNRI」の四文字に想到することはほとんど不可能であるので、事実であろうと推定される。前記の蛮書『コルネーキ』を見て創作された可能性までは否定できないが。
「INRI」はキリストの十字架に表示された罪状書「INRI(ラテン語の Iesus Nazarenus Rex Indaeorum の頭文字で、「ユダヤの王・ナザレのイエス」)」である。「十字架」も「JNRI」の銅券も、松浦静山の時代には、誰も所持してはならない御禁制の品々であった。現存しない。 ネストリウス派キリスト教徒が渡来して、蘇我氏になったという仮説が流されているようであるが、根拠がない。蘇我氏一族がキリスト教徒であったことを示す何らの痕跡もない。「蘇」という文字は「よみがえる」であるから、これはキリストの復活を表すといった仮説も面白いが、それも「つくり話」である。蘇我氏は、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れた。これは、学校教育で社会科の教科書が教える通りであろう。当時は、中臣氏が天児屋(あめのこやね)の子孫として神事・祭祀を司っていた。蘇我氏は、それを牽制(けんせい)する目的をもっていたようである。 【20】 秦氏はユダヤ人であったか
ネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で、国際的に著名であった佐伯好郎(1871-1965)は、「太秦(禹豆麻佐 うずまさ)を論ず 」(『地理歴史』第百号 1908年)の中で、秦氏は、中央アジアの弓月にいた民族で、景教に改宗したユダヤ人であると述べた。その仮説は「日ユ同祖論」として明治時代の日本で独り歩きした。
中央アジアの現在は中国新疆イリ・カザフ族自治区霍城県に「弓月(現在の北京読みでクンユエ)」という古都市が存在したことが分かっている。弓月が文献に最初に現れるのは北宋の『資治通鑑』(1084年)においてである。
唐の版図は第三代皇帝・高宗(在位 649-683)の時代に最大となった。図は 程光裕、徐聖謨『中國歴史地圖』(1980年)を参照して 2011年に作成された唐(618年-907年)の支配領域を表す地図である(Wikipedia/唐)。図の「安西大都護府」は、640年にシルクロードの天山南路の守備のために設置された役所である。その北部に(文字は小さいが)「弓月城」の文字が見える。
前記したように、高宗は、各県に景寺(ネストリウス派キリスト教会)を建てるよう詔勅を下した。弓月で、十字架のついた数百の墓石が見出されている。最も古いものは九世紀のものである。これは、イスラエルから直接伝わったものではなく、唐の時代に長安から政策的に伝わった景教の墓石である可能性が高い。弓月にユダヤ人の失われた十支族のうちの一支族が移動していたという仮説もあるようであるが、そのような移動の痕跡はない。仮に北イスラエル(サマリア地方)のユダヤ人(失われた十支族)が弓月にいたとしても、また、そこから開封(河南省開封市)などに移動したとしても、その中に秦氏が含まれていた痕跡はない。 秦氏には、仮にも安息日を守ったり礼拝をするなどのユダヤ人としての生活をした痕跡がない。現在の日本に秦氏の子孫は多くいるが、ユダヤ人の DNAは見つからない。 佐伯好郎も、生前の 1953年2月4日(水)に、歴史学者の服部之総(1901-1956)に対して「(北海道開発のためには)在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」と述べていた。佐伯好郎の「秦氏=ユダヤ人」は単なる功利的な着想によるものであった。秦氏はユダヤ人ではない。 なお、唐の地図に見えるように、唐の時代の初期に、日本は「倭國」として認識されていた。それは畿内ではなく、九州北部にあると見られていた。 西暦 701年に大寳律令が制定されて「日本」という国号が定められた。大和政権の地を「大和國」(やまとのくに)と定めたのは第四十三代元明天皇(女帝 在位 707-715年 日本根子天津御代豐國成姫天皇 やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)であった。それ以降「日本」という漢字を「やまと」と読むようになった。山の麓の「やまと」や、「みなと」は日本の各地にある。大和政権の地も「やまと」と呼ばれていたのであろう。 『舊唐書』(くとうじょ 945年)は、後晉(936-946)の時代に書かれた史書である。唐の成立(618年)から滅亡(907年)までについて書かれている。その第百九十九巻「日本國」の条に、次の意味のことが書かれている。すなわち、日本國は(かつて魏に朝貢した女王國)倭國とは異なる。日本國は、日出ずる国であるという理由で「日本」を国号とした。あるいは、自ら「倭國」の呼び名が雅(みやび)ではないのを悪(にく)んで、改めて「日本」とした。日本國はもと(奈良盆地の)小国であったが、倭國の地を併合した(日本國者倭國之別種也以其國在日辺故以日本爲名或曰倭國自悪其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地)。 【21】 秦氏は景教徒としてキリスト教を日本に伝えたか 『日本書紀』に、聖徳太子(574-622)は「厩戸豐聰耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」と呼ばれたと記される。これは景教が唐に伝わった 638年、あるいは、遣唐使がその後に唐で景教について情報を得ることができた時期より早い。
しかし、これによってキリスト教が何らかの形で早くから日本に伝わっていたことが証明されるわけではない。聖徳太子の生誕の地に厩戸(うまやと)という地名があった可能性がある。また、聖徳太子のことを書く『日本書紀』は、遣唐使が景教について知っていた「720年」に完成したからである。
秦氏は奈良時代から政権の中枢に近いところにいた。唐の時代になって遣唐使を通して秦氏がいち早く景教を知った可能性ならある。秦氏がそれ以前にキリスト教を知っていたことを示唆する痕跡はない。 聖徳太子の時代(603年)に秦河勝が開基した広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)は、右手の親指・薬指・てのひらを結ぶ形でキリスト教の「三位一体」の三角形をなすという仮説がある。では、弥勒菩薩のこの右手の印相が、景教が唐に公式に伝わる 635年より前に日本に景教または原始キリスト教が伝わっていたことを示す証拠になるのであろうか? この右手の印相は、弥勒菩薩が遠い未来において衆生を救うために思惟をされる自然なお姿ともいえる。これをもってことさらキリスト教の「三位一体」の三角形をなす証拠であるとはいえない。 なお、広隆寺に伝わる「十善戒」はモーゼが伝えた「十戒」であるとする仮説がある。人間がこの地上で生きて行くうえでの基本的な戒めであるから、「殺してはならない」「盗んではならない」などは同じであろう。しかし、広隆寺の「十善戒」はモーゼの「十戒」とは異なる。たとえば、モーぜの「十戒」には「偶像を作ってはならない」とある。広隆寺の弥勒菩薩は偶像にほかならない。
京都市右京区太秦(うづまさ)にある「蚕ノ社(かいこのやしろ」は、正しくは「木嶋坐天照御魂神社 このしまにますあまてるみたまのじんじゃ」という(創建 701年以前)。そこの三柱鳥居を景教の「三位一体」の鳥居であるから、秦氏は景教徒であったとする仮説がある。
三柱鳥居は、対馬市の和多都美(わたづみ)神社、東京都墨田区の三囲神社など、秦氏の関与があるものないものを含めて、全国に十か所以上ある。三柱鳥居は、一般には、天地開闢(かいびゃく)のとき、高天原になった「造化(ぞうけ)三神」(古事記)の三位一体を示唆すると見られている。蚕ノ社の三柱鳥居も例外ではない。 仮にこの三柱鳥居がキリスト教の三位一体を示唆するものであったとしても、蚕ノ社は、遣唐使が、唐で景教(ネストリウス派キリスト経)が推奨されていることを知って後に創建されたので、景教の情報を伝えたのは秦氏ではなく、遣唐使であったといえる。この三柱鳥居も、秦氏が景教徒としてキリスト教を日本に伝えた証拠であるとはいえない。
日本に稲荷神社の数は非常に多い。稲荷神を主祭神とする神社が約三千社ある。他に神社の境内などに合祀されたもの約三万社、個人や企業、山野や路地の小祠まで入れると膨大な数にのぼる。秦氏の稲荷信仰は、キリストの十字架に表示された罪状書「INRI」を祀(まつ)るものとする仮説がある。「伏見稲荷大社」は全国の稲荷神社の総本社である。その創建は和銅年間(708-715)である。前記の「多胡碑」の「JNRIの銅券」(松浦静山『甲子夜話』)が事実であるとすれば、和銅四年(711年)の後の遅くない時期のものであるから、時期的には符合する。
「伏見稲荷大社」が景教と何らかの関係があったとしても、それは遣唐使が、唐で景教が推奨されていることを知って後に建てられたものであるから、秦氏が渡来して景教を伝えるために創建したとは言えない。伏見稲荷大社に「INRI」の痕跡はない。
日本の国民にキリスト教を「宗教」として伝えたのはやはりフランシスコ・ザビエル(1506-1552)であったことに相違ない。
八坂神社や祇園祭などには、古代ユダヤの文化が反映されているとする仮説がある。また、それらに秦氏が深く関与したことも知られている。たとえば、祇園祭が行われる七月十七日は、ノアの方舟(はこぶね)がアララテ山上に漂着した日である(創世記 8:4)。しかし、それをもって秦氏は景教徒としてユダヤの教え、あるいは、キリスト教を日本に伝えたとはいえない。 秦氏は、古代の日本に伝わっていたユダヤの文化を尊重し、あるいは、日本の古墳時代に漢族に混じって流入していたユダヤ人の子孫から多くの文化を学び取った。あるいは、遣唐使を通して景教について学んだ。秦氏はそれらを様ざまな有形の物にして現在に残した。秦氏にそれだけの優れた能力があったとはいえる。 第四章 【22】 日本人はユダヤ人の「遺伝子(DNA)」をもつか
我われの身体は、大人でおよそ 50兆個の細胞でできている。その中の一個の細胞のモデルを図示する。この図は、細胞の中に一つの「細胞核」という膜で包まれた微小な構造体があることと、細胞核の中には幾つかの「染色体」という構造体があることと、卵の白身にあたる細胞液の中には「ミトコンドリア」という多数の構造体があることを示すだけの簡略化された模式図である。
「染色体」とは、1880年代に色素に染まって見えるのでそのように付けられた名称である。現在は、「デオキシリボ核酸(DNA)の構造体」、あるいは、単に「DNA」という。染色体は全部で「46本」ある。一本の DNAは、直径が約 2 nm (ナノメートル 1ミクロンのさらに 1,000分の1の単位)である。その合計の長さは、約 2メートルある。DNAが仮に太さ 2ミリメートルの針金であったとすれば、長さは 2,000キロメートル、すなわち、九州南端から北海道北端までの距離にも及ぶ。そこに遺伝子情報としてアミノ酸分子が並ぶ。 「46本」の染色体のうち「23本」は父親からもらったものである。残りの「23本」は母親からもらったものである。それぞれを「ハプロイド」という。受精によって 46本になったものを「ディプロイド」という。人はディプロイドである。 細胞の中には「ミトコンドリア」がある。それは、細胞一個に 300~400個保有されている。人の全体重の約 10パーセントがこのミトコンドリアの重量である。ミトコンドリアは、「アデノシン三リン酸(ATP)」という物質を生成する。アデノシン三リン酸(ATP)は、大量のエネルギーを生み出す。ミトコンドリアがなければ、人は物をもったり動いたりすることができない。このミトコンドリアは、太古の昔にそのような機能をもつ細菌が人類の祖先の細胞に感染して獲得されたのではないかと見られている。ミトコンドリアにもそれぞれ DNAがあって、その DNAは母親から子どもへと引き継がれて行く。 多くの民族のミトコンドリアの DNAを追跡した結果、全人類は「16万±4万年」前にアフリカの奥地にいた、ひとり、または少数の女性の子孫であることが知られている(英科学誌『ネイチャー』1987年)。すなわち、東洋人も、白色人種も、黒色人種も、アメリカインディアンも、すべて、ひとりまたは少数の女性の子孫である。その女性は「ミトコンドリア・イブ」という名称で呼ばれる。
一方、男性の46本の染色体のうち「Y染色体」と呼ばれるものは、男性だけがもつ。これは、父親から息子へと引き継がれる。Y染色体のハプロイド(DNA)には、多様性がある。近い集団では似ているが、遠い集団では異なる。これを大きくまとめたものを「Y染色体ハプログループ」という。図は、Y染色体ハプログループの系統樹である。この系統樹も、本当はもっと細かく枝分かれしているのであるが、簡略化して示している。Y染色体ハプログループは、地理的なまとまりを見せるので、民族の移動とその歴史を追跡するのに用いられることが多い。
長くアフリカの奥地で暮らしていたミトコンドリア・イブの子孫は、Y染色体ハプログループが「A系統」であった。今から約 14万年前に、突然変異が起きてハプログループ「B系統」が出現した。彼ら(「A系統」と「B系統」)は、現在もそのままアフリカに住み続けている。
「B系統」の子孫の一部が、アフリカの東側の草原を北上して、今から 5.7万~8.7万年前に紅海を渡った。また、4.5万~6.0万年前に他の一部が、シナイ半島を通ってユーラシア大陸へ渡った。そのころ「B系統」の中から「C系統」や「D系統」が出現した。この「出アフリカ」には、気候の変動、食料その他の原因はあったのかもしれないが、彼らは、太陽が昇る東のほうへ向かった可能性がある。図は、東アジアのY染色体ハプログループの移動の軌跡として推定されているものである(Wikipedia/Y染色体ハプログループの分布・東アジア)。日本列島にやって来て旧石器時代を担ったのは、ハプログループ・C1a1人(茶色)と、D1a2a人(うす青)であった。
縄文人(C1a1人と、D1a2a人)は世界最古の土器をつくり、狩猟採集の生活を送った。この時期は「縄文海進」によって海面が上昇し、日本は大陸から離れて孤立していた。その間に縄文人の遺伝子に大きな変化はなかった。縄文人は、身長は低かったが、パワフルであった。精神性が高く、高い技術力と芸術性をもっていた。また、人間同士を対等であると見ていた。その中から「君主」を生み出さなかった。縄文人の遺伝子構成は、現在の日本人に伝えられていて、近隣アジア諸国にはない。これらの C1a1人と D1a2a人が日本固有の縄文人である。C1a1人と D1a2a人は、現在の日本人男性の約 4割を占める(M.F. Hammer et al., 2006)。朝鮮半島は日本の縄文時代にはほとんど無人であったので、そのころは C1a1人も D1a2a人も例外的にしかいなかったと見られるが、明治時代以降のある時期に日本に併合されていた時代があるなどしたので、現在は少しは存在するかもしれない。
漢民族(O-M134)や弥生人(O1b2)、隼人(O-P201)は、互いに少しずつ異なっているのであるが、いずれも「O系統」である。O系統は今から約 4万年前に出現した。
縄文人の一部が属するグループ「D」は、グループ「DE」がメソポタミア地方に出現して後、「D」と「E」とに分離してできたものである。 「D」に最も近いグループは「E」である。しかし、グループ「E」は出現すると、逆に南下してアフリカに戻って行ったので、現在アフリカに最も多い。このグループ「E」は、パレスチナ地方にもある程度存在するので、これをもってユダヤ人は日本人と共通の遺伝子をもつとする仮説があるようである。しかし、「D」と「E」の分離は今から 8万年近く前に起きた。日本にグループ「E」はいない。 グループ「D」が最も多く存在するのは、チベットである。ただし、同じグループ「D」でも、前記したように「D1a2a」は1万六千年前から現代に伝わる縄文人固有のY染色体ハプロイドであり、これは前記したように日本列島にしか存在しない。 グループ「J」は、アラブ人に多い。古代パレスチナ地方のユダヤ人も、このグループ「J」の人びとであったと見られる。アラブ人とユダヤ人は、正確には細分化されているのであるが、いずれも「J系統」である。日本ではこのグループ「J」の遺伝子(DNA)は発見されていない。 その限りにおいて、日本人はユダヤ人の子孫ではない。 「と殺」は、重要な職業である。日本では「と殺」が、かつての被差別部落の人びとによって世襲で行われる時代があった。動物犠牲は、ユダヤ教の宗教祭事である。そのことから、かつての被差別部落の人びとの中に、グループ「J」の遺伝子 DNAが見つかるのではないかという仮説がある。しかし、現在のところ、そのようなグループ「J」の DNAは見つかっていない。なお、かつての被差別部落やその子孫を差別してはならない。 【23】 皇室はユダヤ人の「遺伝子(DNA)」をもつか 平成十三年(2001年)に天皇陛下(後の上皇陛下)は、天皇誕生日の記者会見で「私自身としては、桓武天皇の生母(高野新笠 たかののにいがさ)が、百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べられた。ワールドカップの日韓共同開催を祝ってのご発言であったが、一部の日本人は、これに強く反発した。天皇家のそもそもの起源を示唆する文献はない。 世界の四大文明の発祥の地はコムギの生産地であった。中国の黄河流域(中原 ちゅうげんの地)でもコムギが栽培された。それも最大の耕地面積と最大の収穫量を誇った。鉄器が使用されるようになるとさらに生産量が増えた。多くの農民が春秋の覇者となった。それを秦が統一した。 紀元前三世紀ごろ、揚子江南部の江南地方には、中国人(漢人 Han)はほとんどいなかった。原アジア人の江南人がいた。江南人は水稲(ジャポニカ米)を栽培し、それを高倉式の倉庫に保管して暮らしていた。江南人は珍しい青銅の剣と青銅の鏡を「二種の神器」として祭祀に用いた。漢人が大量に江南地方に南下すると、江南人の一部は東シナ海を直接航行して九州北部に定住した。そして、いくつかの小国をつくった。それは、紀元前 100年ごろに起きたと見られる。 すると、天皇家のルーツも江南地方であった可能性が高い。糸魚川流域などの翡翠(ひすい)の勾玉は、縄文時代から国内で流通していたので、前記の「二種の神器」にこれを加えて「三種の神器」となったのであろう。様ざまな異説はあるようであるが、天皇家にことさらユダヤ人の「遺伝子(DNA)」はない。 【24】 皇室の「菊花紋章」は「ヘロデ門の紋章」か 皇室の「菊の御紋」(菊花紋章)は、「大日本帝国憲法」や「日本国憲法」の原本を納めた箱の蓋にも刻まれている。この「菊花紋章」がエルサレムの「ヘロデ門の紋章」であるとする仮説がある。そのような主張が書籍上などで盛んである。そのことから飛躍して、皇室のルーツは中近東にあるという仮説もある。
「ヘロデ門」は、ヘロデ王(BC 73- BC 4)の時代に建造されたものではない。十六世紀にオスマントルコのスレイマン大帝(一世 1494-1566)によって城壁が建造された。その城壁の通用門が古代のヘロデ王一族の住居の跡地に当たったようである。その後、十九世紀にかけて、現在のヘロデ門に改修された。その門は「花」と思われる紋章があることから、「花の門」と呼ばれている。
同様な紋章は、バビロン遺跡(イラク共和国のバクダッドの約 100キロメートル南)の「イシュタル門」にもある。イシュタル門は紀元前 575年に新バビロニアのネブカドネザルII世によって建造された。 古代の中近東に菊はなかった。「ヘロデ門の紋章」などは航海民族・シュメール人の時代から使われていた「十六方位紋」であると見られる。 古代の日本にも菊はなかった。菊は中国が原産である(熊本大学薬学部薬用植物園データベース)。菊の DNAを追跡して行くと、菊は新しい植物である。約 1,500年前に中国で野草の雑交配によって出現した。『萬葉集』には二百種近くの植物が出てくるが、菊を詠んだ歌はひとつもない。そのころ菊がなかったからである。菊は、奈良時代の終わりごろに中国から薬用・観賞用に輸入されて国内に広まった。平安時代になって菊は『古今和歌集』などに詠まれるようになった。菊の花を真綿で包んでおくと朝露に濡れる。それで顔を拭くと肌が若返ると信じられた。菊の和名は「加波良與毛木(かはらよもぎ)」である(倭名類聚鈔)。 平安時代になると菊は模様としても描かれるようになったと見られる。しかし、皇室の「菊の御紋」は、後鳥羽上皇(1180-1239)が菊の模様を身の回りの様ざまな物に「付した」ことに始まる。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに十六葉八重表菊が皇室の紋として定着した。 現在の皇室の菊花紋章は「三十二弁(十六葉八重表菊形)」である(皇室儀制令第十二条 1926年10月21日官報)。これは、「ヘロデ門の紋章」の「十六弁」とは異なる。 なお、家紋は、中国や朝鮮半島から伝わったものではない。中国や朝鮮半島に家紋はない。 以上の通り、皇室の「菊の御紋」は「ヘロデ門の紋章」などではない。「菊の御紋」をもって皇室のルーツが中近東にあるなどとは言えない。 【25】 「熊襲(くまそ)」は実在したか 「熊襲」は 『日本書紀』の日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語に伝説の民族として現れる。「熊襲」は、『古事記』では「熊曾(くまそ)」と表記される。『筑前國風土記』では「球磨囎唹」と表記される。「熊襲」には前後の歴史がなく、民族として実在しなかったと見られている。墳墓も見つからない。
津田左右吉(1873-1961)は熊本県の球磨川の「球磨」と、鹿児島県大隅半島北部の「曽於(そお)」を「くまそ」として結びつけようとしたが、それには根拠がないことが証明されている。熊襲は大和政権から見て単にこれに恭順しない九州の部族に対する呼称であったようである。
『旧約聖書』の一節に「モアブよ、ケモシの民よ、お前は滅ぼされるであろう(Moab! You are destroyed, people of Chemosh!)」とある(民数記 21:29)。「熊襲」とは「ケモシ」の当て字であった可能性がある。 「主はイスラエルのためにひとりの勇者・エホデを与えられた。エホデはみつぎ物をもち、ふところに剣を隠してモアブの王に近づいた。エホデは、申し上げたい秘密がありますと言ったので、王は人払いをした。しもべどもは皆出て行った。エホデは剣で王を刺した。しもべどもが戻ってみると、王は死んでいた。エホデはエフライムの山地に戻り、モアブはその日イスラエルの手に服した(士師記 3:15~3:30)」 日本武尊の偉業とされた「熊襲魁帥(くまそたける)征伐」の物語も、『旧約聖書』を鑑(かがみ)として、日本武尊を少なくともイスラエルの勇者・エホデと互角であると書き表された可能性がある。 【26】 「蝦夷(えみし)」は実在したか
「夷」と書いて「えびす」と読む。「えびす(夷)」の語源についてはよく分からない。
ユダヤ人がイスラエルに定着する以前のカナンの先住民族を、「エブス(Jebus)」といった。古代のユダヤ人はエブスと戦ってこれを従属させた。 「えみし(蝦夷)」は、『日本書紀』の「神武天皇紀」に、「愛瀰詩(えみし)」として、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力として出てくる。その後、蝦夷(えみし)は、大和政権から見て、関東地方や、東北地方に住む人びとの呼称となったようである。「えみし」は「毛人」とも書いた。平安時代以降、北海道に住む人びとは「蝦夷」と書いて「えぞ」と呼ばれるようになった。 蝦夷は、何か固有の民族として実在したわけではない。また、統一した政治体制をもたなかった。 古墳時代に、南東北には大和政権に従わない女王たちの女王国連合があった(NHK BS4K『歴史フロンティア』2023)。そこでは「前方後方墳」が築造されたようである。 その後、大和政権に従属する国々は「前方後円墳」を築造するようになった。しかし、前方後円墳は費用がかかるので 645年に始まる大化の改新で造成を禁止された。前方後円墳が最も多く築造されたのは五世紀半ばであった。 史料に見える初の征夷大将軍は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ 731-809)であった。副将軍は坂上田村麻呂(758-811)であった。時代はすでに平安京遷都(794年)のころに入っていた。 【27】 「隼人(はやと)」は実在したか 「隼人」は九州南部に現在も実在する民族である。熊本県の球磨川より南と、宮崎県の一ツ瀬川より南に分布する。隼人は、揚子江流域の「北部」にいて、江南人と同様に、湿潤米(ジャポニカ米)を栽培し、銅剣・銅鏡を用いて祭祀を行っていた。隼人は、前記Y染色体ハプログループの O-P201人(だいだい色)ではないかと見られている。隼人は、朝鮮半島を経由しないで南海から九州南部に渡来したとようである。 隼人は薩摩隼人(薩摩國北部と肥後國の南半分)、阿多隼人(薩摩國)、大隅隼人(大隅國)、日向隼人(日向國)の四部族からなる。これらの部族はそれぞれ異なる文化をもっている。もっとも、西暦 701年に律令体制下に置かれる以前は、大和政権から見て日向國とはこの四部族のすべてを指していた。
日向隼人・大隅隼人の墳墓は高松塚古墳のような地下式の横穴墓であった。これは、日向隼人は瀬戸内海を介して大和政権との交流が深かったからであろうとも見られている。一方、薩摩隼人の墳墓は竪穴式の地下式板石積石室墓(ちかしきいたいしづみせきしつぼ)であった。
日向隼人は、『日本書紀』の記載が事実であるとすれば、第十二代景行天皇に帰順した。景行天皇は日向國の美波迦斯毘賣(みはかしびめ 御刀媛)を后(きさき)とした。『日本書紀』の記述通りであるかどうかは分からないが、九州には景行天皇による大和政権の第一次九州親征の足跡・痕跡が多く残っている。 日向隼人は、その後も第十五代應神天皇と第十六代仁德天皇にそれぞれ日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)と髪長媛(かみながひめ)を妃として嫁がせた。これらは畿内の皇室としては極めて異例なことであった。仁德天皇と髪長媛との間に生まれた幡梭(はたび)皇女は第二十一代雄略天皇の后になった。日向隼人と大和政権はそのように強く結びついていた。 大寳元年(701年)、大寳律令が完成した。このとき九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七か国となった。日向國は現在の西都市に国府が置かれた。 隼人は卑彌呼の女王國のような政権国家ではなかった。隼人は民族としてたびたび反乱を起こした。702年に日向國が分割され、薩摩國府が現在の薩摩川内市に置かれて国守が配属された。和銅六年(713年)には日向國が再分割され、大隅國府が現在の霧島市に置かれて国守が配属された。これで九州は九か国となった。それでも薩摩隼人と大隅隼人は、大和政権からの独立意識をもっていた。 西暦 720年(養老四年)に隼人の大規模な反乱が起きた。隼人は一年数か月にわたって政府軍に抗戦し、多くの犠牲者を出した(斬首獲虜合千四百餘人『續日本紀』)。反乱は、征隼人持節(じせつ)大將軍・萬葉歌人の中納言・大伴旅人(おおとものたびと 665-731)によって翌 721年(養老五年)に鎮圧された。 隼人は技術、芸術、武術に優れ、その後朝廷によって重用された。大隅隼人が多く移り住んだ現在の京都府南部には「大住」の地名が残る(JR西日本大住駅、京田辺市立大住小学校、同大住中学校など)。 参照文献
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