邪 馬 臺 國
女王國・倭國の滅亡
第一章 『魏志倭人傳』 と 『記紀』 の科学 【1】 考察の背景・趣旨 省略 【2】 考察の前提条件 省略 【3】 日本人はどこから来たか 省略 【4】 縄文海進残存説 省略 【5】 『魏志倭人傳』の書誌 省略 【6】 西暦(正歳四節)による天皇年紀の推定 『魏志倭人傳』(285年)に倭人は春夏秋冬を一年とすることを知らない。春に畑を耕すとき一年が始まり、秋に収穫するとき次の一年が始まると書かれている(魏略曰其俗不知正歲四節但計春耕秋收爲年紀)。これは後世の歴史家・裴松之(はいしょうし 372-451)が注釈として挿入したと考えられる。古代の日本では「春秋暦」といって現在の一年を 2年として数えていた。それによって『日本書紀』では神武天皇は百二十七歳で崩御し、崇神天皇は百二十歳、景行天皇は百六歳で崩御したと書かれる。それらの結果、現在まで神武天皇の即位後二千六百年以上経ったということになっている。これは、当時の公用暦として春秋暦が使われていたからである。古代の日本においては、西暦の三十年間で干支(えと)が一巡した。裴松之が注釈を加えたことによって『魏志倭人傳』の価値が高くなったといえる。日本の最初の歴史書は推古天皇二十八年に聖德太子(574-622)と蘇我馬子(551-626)が編纂した『天皇記(すめらみことのふみ)』と『國記(くにつふみ)』、『臣連伴造國造百八十部幷公民等本記(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)』であった。皇極天皇四年(645年)に蘇我蝦夷(えみし 585-645)が自害するときに国有の書籍をすべて焼いてしまったので、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)の内容を検証する先行文献がない。
明治時代に日本の暦法について最初に研究したのは丁抹(デンマーク)國の青年技師・ブラムセン(William S. Bramsen 1850-1881)であった。明治五年(1872年)に政府は極東電信線(上海 - 長崎 - ウラジオストック間の海底ケーブル)を開設した。明治三年(1870年)にブラムセン(二十歳)はその仕事で日本に来た。長崎で小島たきと結婚。ブラムセンは日本語を流暢に話しただけではなく、日本語の読み書きに加えて、古文まで読み書きできた。1880年1月に『和洋對暦表』を日本橋の丸家善七ら(丸善の前身)によって日本語(文語体)で刊行。同年 English版を刊行した。和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)は、和銅元年5月11日(708年6月3日)から、日本で鋳造・発行されたと推定される貨幣である。和銅元年は西暦何年にあたるのか。それは、ブラムセンの『和洋對暦表』が発表されるまで日本人は誰も正確には答えられなかった。ブラムセンは西暦 645年から1873年までについて記述している。それは日本で年号が導入された年(大化元年)から太陽暦(グレゴリオ暦)が導入された明治六年までである。1880年12月に明治政府(内務省)も日中欧の三種の暦を対照できる『三正綜覽』を発行したが、グレゴリオ暦を 1582年以前までさかのぼって対応させるなど基本的な誤りが多く(それ以前はユリウス暦が用いられた)、ブラムセンの『和洋對暦表』ほど正確ではなかった。ブラムセンは、仁德天皇以前の歴代天皇の寿命が百年を超えて長いことから、古代の日本人は昼と夜の長さが同じになる春分(spring equinox)と秋分(autumnal equinox)を起点とし、春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年として中国の正歳四節暦の一年を正確に二倍に数えていたことを独自に発見した。そのことを English版に記述した(My opinion is, that in remote days the Japanese counted their year from equinox to equinox; that during the reign of Nin-toku the Chinese year, of double the length, became generally known; and that with his death it was officially adopted)。ブラムセンは 1881年ロンドン出張中に三十一歳で、腹膜炎で死去した。国立国会図書館と Google Scholarはブラムセンの『和洋對暦表』の日本語版と English版全文をそれぞれオンラインで公開している。
四世紀に百濟國は高句麗國からの圧力に苦しみ、南方の強国である日本に助けを求めた。すなわち、百濟國の近肖古王(きんしょうこおう 在位 346-375)は日本との国交を開くために伽耶國(かや 朝鮮半島南端)の中の卓淳國(とうじゅんこく)に使者を送った。当時伽耶國(後に任那國)に暮らしていたのは日本人(倭人)であり、日本語を公用語としていた。
西暦 246年に神功皇后は卓淳國に使者・斯麻宿彌(しまのすくね)を派遣したという(遣斯摩宿禰于卓淳國 『日本書紀』)。 卓淳國王・末錦旱岐(まきんかんき)は斯麻宿彌に「百濟から使者・久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)が来た。百濟王は日本との国交を望んでいる」と伝えた。 そこで、斯麻宿彌は従者の爾波移(にはや)を百濟に遣わして近肖古王に謁見させた。近肖古王は爾波移を歓待し、宝蔵を開いて様ざまな珍しいものを見せ、五色の綵絹(しみのきぬ)などを土産にもたせて帰した。爾波移はこれを斯麻宿彌に報告し、斯麻宿彌は卓淳國から帰朝した。 この神功皇后紀の加羅への派遣の年(西暦 246年)は百済王の名前などから本居宣長(1730-1801)によって正確に百二十年(現在の干支二巡)繰り上がっていることが指摘された。また、明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ 1851-1908)も同じことを指摘した。
したがって、斯麻宿彌を派遣したのは西暦 366年である。すると翌 367年に百濟王の使者・久氐(くてい)、彌州流(みつる)、莫古(まくこ)が来朝した。このとき新羅國の調(みつき)の使いも、久氐と共にやって来た。神功皇后と皇太子の譽田別尊(應神天皇・そのとき乳児)は喜んで「先王が所望したまいし國人、今来られたり。痛ましきかな。天皇に逮(およ)ばざるを」と答えた(於是皇太后太子譽田別尊大歡喜之曰先王所望國人今來朝之痛哉不逮于天皇矣)。この西暦 367年が仲哀天皇崩御の年である。
『日本書紀』の春秋暦では、第十四代仲哀天皇は五十二歳で崩御したが、現在の正歳四節によるとその半分の二十六歳であった。崩御が西暦 367年であるから仲哀天皇の生年は西暦 341年である。『日本書紀』の春秋暦では、仲哀天皇の在位期間は現在の正歳四節暦で四年間である。すると即位は西暦 363年であった。この西暦 363年の前年がその前の第十三代成務天皇の崩御年である。成務天皇は第十二代景行天皇の崩御の年に即位した。それより以前の天皇も多くは先帝の崩御の年に即位した。そこで初代神武天皇から第十四代仲哀天皇までの生年と即位年、崩御年を西暦で復元して積み上げると次の表のようになる。
初期天皇の西暦生年・即位年・崩御年
(『日本書紀』より西暦に復元 入口紀男・入口善久)
この表では、神武天皇の即位の年が奇(く)しくも紀元前 60年の辛酉(かのととり)の年となった。「奇しくも」と述べる理由は、『日本書紀』では、神武天皇が即位したのは紀元前 660年の「辛酉」の年であったからである。神武天皇の即位の年が辛酉の年であったことは春秋暦でも現在の正歳四節暦でも同じである。神武天皇の即位が辛酉の年であることに特別な意味があることを改めて指摘したのは前記した那珂通世であった。 中国の春秋時代から行われてきた「陰陽(おんやう)五行」の思想によれば、五行とは木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)の五つである。この五つにはそれぞれに陰陽があって、陽を「ゑ」、陰を「と」として、きのゑ、きのと、ひのゑ、ひのと、つちのゑ、つちのと、かのゑ、かのと、みずのゑ、みずのとの十干ができる(かのゑ、かのとは金)。これを漢字で表すと甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(かう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)である。たとえば、甲は「きのゑ」であり、「木の陽」という意味である。これに十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)が組み合わされた。十二支にも陰と陽があって、子から数えて奇数番目が陽で偶数番目が陰である。十干と十二支は、陽と陽、陰と陰の組み合わせだけがあって、甲寅はあっても乙寅はなく、そのため、10×12 = 120とはならず、半分の 60通りである。これによって森羅万象で何が起きるか、様ざまな予言が行われるようになった。そのひとつが「辛酉(しんゆう)革命」の思想であった。辛酉の年は 60年に一度やって来るが、天命が革(あらた)まって王朝が交替する危険な年と考えられた。特に二十一番目の辛酉の年は 1,260年に一度やって来るが、天の命(めい)が大いに改まる。そのように考えられた。 『日本書紀』が編纂されたころ、日本の古代史を振り返ると、推古天皇九年(辛酉 601年)は聖德太子(574-622)によって画期的な変革が行われた。そこで、推古天皇九年より 1,260年前の辛酉の年である紀元前 660年の辛酉の年に神武天皇は即位した。『日本書紀』はそのように計算され、デザインされて編纂されたに相違ないであろう。 紀元前 60年の神武天皇即位の年から数えて二十一番目の辛酉の年は建仁元年(1201年)であった。そのころ、建久三年(1192年)に源頼朝が征夷大将軍になって武家政治が本格化していた。推古天皇九年から数えて二十一番目の辛酉の年は文久元年(1861年)であった。嘉永六年(1853年)にペリー(M. Perry 1794-1858)の軍艦が浦賀沖に現れると慶應三年(1868年)に「王政復古の大号令」が発せられた。もっとも、日本は、武士がおこり、食料も兵力も自分で調達できるようになると政権を武力で奪取して武家政治を開く。また、黒船がやって来て德川幕府には江戸湾を守る海軍力もないことが露見すると王政が復古する。そのような国である。そこに何か陰陽五行の深遠な意味があったというわけではない。 この表は、前記したように、仲哀天皇の崩御の年・西暦 367年を確かなものとしてこれを起点としている。日本に百済から暦博士(こよみのはかせ)固德王保孫(ことくおうほうそん)が渡来したのは六世紀になって第二十九代欽明天皇の時代の西暦 554年であった(日本書紀)。『日本書紀』の記載はどこかの時点で春秋暦から現在の正歳四節暦に切り替わる。その切り替わりの年の推定の仕方によっては、神武天皇の即位の年に数年の誤差を生じ得る。春秋暦には、厳密には閏(うるう)月があったかもしれない。一年を三倍あるいは四倍とする説などもある。また、『日本書紀』でも第三代安寧天皇紀には在位期間と崩御年齢の記録に春秋暦で約十年の齟齬(そご)があることが知られている。ここでは在位期間のほうがより確かであろうと推定する。各天皇の在位期間と崩御年は『古事記』と『日本書紀』とではやや異なる。この表は『日本書紀』に依拠する。 【7】 神武天皇と闕史八代の天皇の実在性の真否 省略 第二章 女王國・倭國の成立 【8】 委奴國ゐど國説・女王國旧怡土國説 省略 【9】 倭國大亂と原始共同村落体制への揺り戻し 省略 【10】 詔書と「親魏倭王」の金印紫綬 省略 【11】 詔書と黄幢 省略 第三章 邪馬臺國の地理的位置 省略 【12】 方角領域指示説・加盟国各支配領域説 省略 【13】 逗留日数加算説・数量露布の習わし説 省略 【14】 日数記載・通過国不記載説 省略 【15】 御笠川・宝満川南下説・投馬國内陸地説 省略 【16】 周防灘南下説と瀬戸内海東航説の否定 省略 第四章 女王國・倭國の衰退 【17】 筑後平野南部の邪馬臺國 省略 【18】 クシャーナ朝匹敵報告説 省略 【19】 呉東報告説 省略 【20】 女王國の風土・風俗 省略 【21】 卑彌呼の死と後継者・臺與 省略 第五章 邪馬臺國の滅亡 【22】 版図を拡大する崇神天皇の大和政権
大陸(前漢の楽浪郡・公孫氏の帶方郡・魏・西晋)は筑紫女王國の政権を倭國であると認識していた。卑彌呼の筑紫政権における在位期間は西暦 182年頃から 248年頃までであった。それは大和政権の第八代孝元天皇の在位期間(164-192)・第九代開化天皇の在位期間(192-222)・第十代崇神天皇の在位期間(222-255)と重なる。崇神天皇が即位した西暦 222年には大和政権の版図は奈良盆地に限られていた。
西暦 226年に崇神天皇は四道将軍として大彦命(おほひこのみこと)を北陸に、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦(きびつひこ)を西道(山陽道)に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を丹波にそれぞれ遣わすことにした。「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」と詔して印綬を授けた(以大彦命遣北陸武渟川別遣東海吉備津彦遣西道丹波道主命遣丹波因以詔之曰若有不受教者乃舉兵伐之既而共授印綬爲將軍)。同年に崇神天皇は版図を畿内全域に拡げた。そして、「今は、背いていた者たちはことごとく服した。畿内(うちつくに)には何もない。ただ畿外(そとつくに)の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道将軍たちは今すぐに出発せよ」と詔した(詔群臣曰今反者悉伏誅畿内無事唯海外荒俗騷動未止其四道將軍等今急發之)。 227年に崇神天皇の四道将軍は地方の敵を平定した(四道將軍以平戎夷之狀奏焉)。 238年に邪馬臺國の卑彌呼は魏に正使・難升米らを遣わして第二代皇帝・曹叡に朝貢した。240年に魏の武官・梯儁が邪馬臺國に卑彌呼を訪ねて「親魏倭王」の詔書と金印紫綬などを渡した。そのころ、魏と女王國・倭國が、崇神天皇の大和政権が版図を穴門國(山口県)にまで拡げていたことに意を払っていた、あるいは、知っていたことを示唆する痕跡はない。 247年に魏の武官・張政が邪馬臺國に卑彌呼を訪ねて詔書・黄幢を難升米に渡した。 248年に女王國・倭国では政権が卑彌呼から臺與に引き継がれた。そのころまで卑彌呼が国家の重要案件としていたのは前記したように南の狗奴國との交易権を巡る争いであった。卑彌呼は崇神天皇の存在を知らないまま死去した可能性が高い。 252年に崇神天皇は吉備津彦と武淳河別とを遣わして出雲振根(いずものふるね)を殺させた(則遣吉備津彦與武渟河別以誅出雲振根)。崇神天皇は出雲を含む山陰を支配下に収めた。255年に崇神天皇は崩御し、第十一代垂仁天皇が即位した。崇神天皇は卑彌呼の存在を知らないまま崩御した可能性が高い。 265年に魏が禅譲して西晋が興った。266年に倭國は西晋に朝貢した。前記したように、朝貢したのはおそらく臺與であったと考えられる。西晋は 316年に匈奴の侵攻によって滅ぶ。317年に西晋の落人の司馬睿(えい 276-323)が江南に東晋を建てる。 大和政権は今にも筑紫(九州)に侵攻しようとしていた。 【23】 大和政権による第一次九州親征 『日本書紀』によれば、大和政権は二回にわたって九州親征をした。西暦 309-313年に大和政権による第一次の九州親征が第十二代景行天皇によって行われた。邪馬臺國の臺與が生きていたとしても七十歳を超えている。臺與の跡も、さらに次の女王によって承継されたと考えられる。しかし、神格化されていったようである。西暦 309年に景行天皇は、熊襲が朝貢しなくなったので筑紫へ向かった(十二年秋七月熊襲反之不朝貢八月乙未朔己酉幸筑紫)。ということになっている。すなわち、『日本書紀』は、そのように、九州に大和政権から見てこれに恭順しない部族がいたことが親征の理由であったと記す。第十二代天皇としては第十一代垂仁天皇までになし得なかった九州制覇が使命となっていた。これが、景行天皇が御自ら筑紫へ向かった真の目的であった。そもそも、熊襲という民族は存在しない。景行天皇はこのとき三十九歳であった。景行天皇の目的として、一説にそれまで狗奴國が女王國に対抗して大和政権に朝貢していた。女王國が弱体化して狗奴國としては大和政権に朝貢する必要がなくなった。その狗奴國は菊池彦の菊池郡である。景行天皇の熊襲征伐とはその菊池郡を征伐することであった。とする説がある。しかし、後述するように景行天皇の軍勢が菊池郡で大規模な戦闘を展開した痕跡はない。景行天皇の目的は大和政権に従わない勢力を現地で見つけては討伐しようというものであった。 景行天皇は纏向を出発し、周芳(すおう)國の沙麼縣(さばのあがた 山口県佐波郡)に至った(八月乙未朔己酉幸筑紫九月甲子朔戊辰到周芳娑麼)。 『肥前國風土記』に、崇神天皇の時代に肥後國益城(ましき)郡朝来名(あさくな)峯に二人の土蜘蛛がいて百八十人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかったとある(磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世肥後國益城郡朝来名峯有土蜘蛛打猴頚猴二人帥徒衆一百八十余人拒捍皇命不肯降服)。景行天皇としては少なくともこれに対抗し得る陣容の軍勢を率いていたと考えられる。したがって、景行天皇の軍船は少なくとも数隻あったと考えられる。軍船は木造であり、一隻の長さは十メートル超であった。船は埴輪に見られる形のものであった。その形は後世(663年)の白村江の戦いの時代まで変わらない。一隻に二十~三十人の兵士が乗った。構造としては横風・横波に弱いものであった。沿岸に沿って航行したのではないかと考えられる。
豐(大分県)の長峡(ながを)の女王・神夏磯媛(かむなつそひめ)が景行天皇に帰順して来た。神夏磯媛はそのとき白旗を船の舳先に立ててやって来た。自らの三種の神器として賢木(さかき)の上の枝に八握劒(やさかのつるぎ)をかけ、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、下の枝に八尺瓊(やさかに 大きな玉)をかけて献上した。国王であった。そこで、天皇は沙麼縣から海路豐前國の長峡に渡った。長峡に行宮(あんぐう 行在所 かりのみや)を建てて住み、そこを京都とした(後の長峡縣 ながをのあがた 福岡県京都郡 みやこぐん 行橋市 長尾)。関門海峡を渡ることはできなかったが、これが神武東征以来、大和政権による初めての九州上陸であった。もっとも、天皇は北九州市小倉南区の朽網(くさみ)で土蜘蛛を討伐したという伝承がある。朽網の海岸に上陸したのかもしれない。あるいは、朽網へは長峡の行宮から北上したのかもしれない。
天皇は、武諸木(たけのもろき)を遣わして高羽(たかは 田川)の川上にいる土蜘蛛・麻剥(あさはぎ)を討った。また、皇命に従わないという菟狹(宇佐)の川上にいる鼻垂(はなたり)、御木(みけ)の川上にいる耳垂(みみたり)、緑野の川上にいる土折猪折(つちおりいおり)を討った。 天皇は海路國東半島を回って穂門郷(ほとのさと 大分縣海部郡)に停船させた(豐後國風土記)。碩田國へ移動した。碩田國(おほきだのくに 大分県)に着くと、その地形は広く美しかった。速見邑(はやつみむら)の女王・速津媛(はやつひめ)も帰順してきた。天皇は來田見邑(くたみのむら 大分県竹田市久住町)に進軍して仮宮を建てた。椿の木で椎(つち)を作って武器とした。稲葉川の川上で土蜘蛛を討った。血は流れてくるぶしまで浸かった。禰疑山(ねぎのやま 大分県竹田市)を越えると敵の射る矢が降る雨のように飛んできた。稲葉川のほとりの城原(きばる 竹田市立城原小学校あたり)まで戻って陣地とした。体制を立て直して禰疑山で土蜘蛛・八田(やた)と打猿(うちさる)を誅殺した。柏峡(かしわを)の大野に宿った。さらに景行天皇は南下して日向國に着き、日向高屋宮(ひむかのたかやのみや 西都市または宮崎市)を行宮とした。天皇は、襲國(そのくに)で八十梟帥(やそたける)と呼ばれる厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや)を討った。 日向御刀媛(ひむかのみはかしひめ)を后(きさき)とした。 西暦 311年に景行天皇は子湯縣(こゆのあがた)から夷守(ひなもり 宮崎県小林市)を通り、火國(熊本県)へ向かった。熊縣(熊本県球磨郡)で首長である熊津彦兄弟の兄・兄熊(えくま)を従わせ、弟・弟熊(をとくま)は従わないのでこれを誅殺した。
天皇は海路から「葦北の小嶋」に泊り、食事をした。山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖である小左(おひだり)を呼んで、冷たい水を献上させた。このとき、島の中に水がなかったので、致し方なく天を仰いで天神地祇に祈った。すると、たちまち冷たい水が、崖の傍から湧いてきた。それを汲んで献上した。それで、その島を名づけて「水嶋」といった(壬申自海路泊於葦北小嶋而進食時召山部阿弭古之祖小左令進冷水適是時嶋中無水不知所爲則仰之祈于天神地祗忽寒泉從崖傍涌出乃酌以獻焉故號其嶋曰水嶋也)。 当時は「縄文海進」の名残りによって海面が現在よりも 10メートル超高かった。図は海面が 9メートル高いと想定したときの熊本県水俣市の地図である。水俣の古名は葦北であった。現在の水俣の市街地は海底であった。当時の海上に存在した「小嶋」は、現在の水俣市の「祇園汐見山」(標高約 70メートル)、「湯乃児島」(標高約 27メートル)、「恋路島」(標高約 37メートル)、「丸山」(標高約 38メートル)の四島だけであった(標高は国土地理院)。水俣は肥薩山系が市街地に迫っていて地上や海底に多くの泉が湧き出る。 景行天皇は湯乃児島(さしわたし約 200メートル)で御自らウミガメが湯治をする姿を発見して「湯の子」と名づけたという伝承がある。その近くに「京泊(きょうどまり)」や、軍船をつないだ「津奈木(つなぎ)」などの地名がある(国土地理院)。前記四島のうち湯乃児島が景行天皇の「葦北の小嶋」であった可能性がある。近くには肥薩火山系の熱水鉱床が分布していて、地下水が熱水鉱床に触れると温泉として流れ出る。熱水鉱床に触れないと冷水として流れ出る。また、「葦北の小嶋」は、景行天皇が水軍を引き連れて泊まることができ、かつ食事をすることができた規模から、天然の良港(梅戸港)をもつ祇園汐見山(さしわたし 500メートル超)であった可能性もある。 水俣の港湾は「葦北津」として知られていた。飛鳥時代の推古天皇十七年(609年)に百済僧・道欣(だうこん)と惠彌(ゑみ)ら八十五人が呉に入国しようとしたが、現地は争乱で入国できず、帰路暴風に遭って水俣に漂着した(十七年夏四月丁酉朔庚子筑紫大宰奏上言百濟僧道欣惠彌爲首一十人俗七十五人泊于肥後國葦北津是時遣難波吉士德摩呂船史龍以問之曰何來也對曰百濟王命以遣於呉國其國有亂不得入更返於本鄕忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境以歡喜 『日本書紀』)。うち十一人は帰化を希望したので、朝廷はこれを認めて飛鳥寺に引き取り、残り七十四人を百済國に送還した。
西暦 701年に大寳律令が制定されると、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向の七か国となった。しかし、薩摩は朝廷に服さず、政令に逆らったので兵を遣して征討し、戸口を調査して常駐の官人を置いた(大寳二年八月丙申朔薩摩多褹隔化逆命於是発兵征討遂校戸置吏焉 『續日本紀』)。これによって、日向國が分割されて新しく薩摩國ができた。皇族であった長田王(ながたのおほきみ 生年未詳-737)は、文武天皇の慶雲年間(704-707)に筑紫の大宰府から新設の薩麻國府(薩摩川内市)に赴任するため、葦北の「野坂乃浦」を出航した。長田王にとって、薩麻國府に赴任することは、ある意味で不安でもあったであろう。後述するが、現にその十年余り後(720年)に隼人の大規模な反乱が起きている。長田王は野坂乃浦を船出するにあたって、かつて景行天皇が泊ったと伝えられる「葦北の小嶋」に想いを致して勇気を得たのであろう。その野坂乃浦について田浦湾との説もあるが、国土地理院はこれを佐敷(さしき)湾(熊本県葦北郡芦北町)に比定している。長田王はそこから南のほうへ向かって水俣の「水嶋」をめざした。
図は長田王の航路を示す。水俣は当時市街地の大部分がまだ干潮時も海面下であった。「水嶋」は四島とも海上に浮かんでいた。
長田王は「葦北の水嶋」からさらに南のほうにある「薩麻乃迫門(せと)」をめざした。これは鹿児島県出水郡の長島と九州本土を隔てる現在の黒之瀬戸である。長田王はそこからさらに南下して目的地である薩摩の千臺(せんだい)郷(鹿児島県薩摩川内市)に辿り着いた。当時の川内川河口も縄文海進によって内陸地まで広大な湾であった。長田王は現在の川内川河口から約 10キロメートル内陸地にある薩麻國府の南側に着岸した。 長田王は歌人であり、『萬葉集』に「葦北の水嶋」を詠んだ歌二首と、続けてその南の黒之瀬戸を詠んだ歌一首がある。
第二四五首は水俣の「葦北の水嶋」を見て景行天皇の足跡を偲ぶ歌である。これは水俣を土地讃美する歌である(Wikisource 万葉集/第三巻注釈)。第二四六首は「野坂乃浦」を船出してその南にある水俣の「水嶋」へ向かうときに波が静かであることを願う歌である。その願いに対して、石川大夫(生没年未詳)が「なみたためやも」という第二四七首の歌(奥浪邊波雖立和我世故我三船乃登麻里瀾立目八方)を詠んでいる。第二四八首は長田王が「水嶋」から「薩麻乃迫門」へ向かうときの歌である。
長田王が大宰府から薩摩の千臺郷に赴任するには、「野坂乃浦」から海路南下して行くよりほかになかった。水俣を陸路で通過するには、水俣は肥薩連峰の深い山々に囲まれている。北方は津奈木太郎などと呼ばれる険しい峠でさえぎられていたからである。大正十五年(1926年)に國鐵鹿兒島本線を通すときもそこは最大の難所であった。
景行天皇十八年(312年)四月に「水嶋」に立ち寄った景行天皇は、葦北から出航して火國に向かおうとした(日本書紀)。しかし、天皇は嵐に遭って難航した。すると乗っていた姫が、海神の怒りを鎮めようと荒れ狂う海に突然身投げした。嵐は収まったが、屍が漂着したので村人は社を建てて祀り、ここを姫浦と呼んだという伝承がある(姫浦神社 熊本県上天草市姫戸町姫浦)。天皇は御所浦(ごしょのうら)に流され、そこを仮宮としたという。そこに「ともづな石」とされるものが残っている。そのとき、天草上島の宮田(天草市倉岳町宮田)から御所浦の天皇に良米を献上したという伝承がある。上天草市龍ヶ岳町の樋島(ひのしま)には、景行天皇とその水軍が水を補給したという伝承があり、「水島」の別名がある。 景行天皇は、葦北を船出して後、火國に着こうとしたが、日が暮れた。暗くて岸に着くことが困難であった。遥かに火の光が見えた。天皇は舵取り人に「まっすぐに火のもとへ向っていけ」と言った。そこで火に向って行くと岸に着くことができた。天皇はその火の光るもとを尋ねて「何という邑か」と聞いた。国人は「これは八代縣の豐村(ほのむら)です」と答えた(五月壬辰朔從葦北發船到火國於是日沒也夜冥不知著岸遙視火光天皇詔挾杪者曰直指火處因指火往之卽得著岸天皇問其火光之處曰何謂邑也國人對曰是八代縣豐村 『日本書紀』)。景行天皇が辿り着いた八代縣豐村は現在の宇城市松橋(まつばせ)町豊福あたりであったと考えられる。
『肥前國風土記』によると、天皇は葦北の日奈久町あたりから火國へ向かったという記録がある(肥前國風土記)。すなわち、天皇は葦北の火流浦(ひながのうら)から船に乗って火國に向かった。しかし、海上で日没になり、暗くて何処に居るかも分からなくなった。忽然と光り輝く火が現れた。それを遥かに見た。そこで天皇が真っ直ぐに火の方に向かえと命じると、やがて岸壁に辿り着くことができた(纏向日代宮御宇大足彦天皇誅球磨贈於而巡狩筑紫國之時従葦北火流浦発船幸於火國度海之間日没夜冥不知所著忽有火光遥視行前天皇勅棹人曰直指火処応勅而往果得著崖天皇下詔曰火燎之処此号何界所燎之火亦為何火土人奏言此是
火國八代郡火邑也)。
ここで火流浦は旧葦北郡日奈久町あたりと考えられる。旧日奈久町は昭和三十年(1955年)に八代市に併合されている。一方、天皇は、いったん御立岬(おたちみさき)がある葦北の田浦に寄ってそこを発ったという伝承もある。天皇は田浦と日奈久の少なくとも一方、あるいは、両方に寄ったのであろう。 なお、熊本県八代市植柳下町(うやなぎしもまち)に「水島」という標高約 11メートルの小島がある。それについて『筑紫國風土記逸文(九州乙類風土記)』に次のようにある。すなわち、「球磨。北西七里のところの海に嶋がある。もとい(塁)を積んで保っている。名付けて水嶋(みづしま)という。この嶋からは冷水が出ている。潮の満ち引きで高下する。(球磨乾七里海中有嶋積可保壘名水嶋嶋出寒水逐潮高下)」。これが植柳下町の水島である。この水島は現在は島であり、景観に優れているが、景行天皇の時代には海面下にあった。前記『風土記』は西暦 713年の元正天皇の編纂の詔勅によって書かれたものであり、景行天皇の時代から四百年以上経ってもまだ海面が高く、海中に沈まないように土塁を積んでいたようである。その水島は、景行天皇が泊った「葦北の小嶋」ではない。天皇は前記したように 葦北小嶋 → 御所浦 → 樋島 → 田浦 → 火流浦 → 八代縣豐村 と航行したからである。そもそも、その小島は、景行天皇の時代(西暦312年)には海底の岩礁であり、天皇が水軍を引き連れて泊り、食事をすることができる島ではなかった。長田王も『萬葉集』に詠んで証言した通り、その小島には行っていない。 八代縣豐村を発った天皇は宇土半島の御輿來海岸に至った。当時は、宇土半島は島であった。景行天皇は御船(みふね 熊本県上益城郡御船町)に寄港したという伝承がある。御船町大字御船は現在の緑川河口から約 18キロメートル内陸地にある。そこの海抜は約 15メートルである。天皇が満潮時であれ、そこに接岸できた時代に、前記八代市植柳下町の小島はやはり完全に海面下にあった。熊本藩士・歌人の和田厳足(わだいずたり 1787-1859)や国学者・弥富破摩雄(やとみはまお 1878-1948)は縄文海進を考慮せず、千数百年を経て海面上に現れてきた島の現状だけを見て、前記風土記逸文でいう「水嶋」を景行天皇の水嶋と取り違えた。 天皇は、玉杵名邑(たまきなむら 熊本県玉名市)に渡って長渚濱行宮(ながすはまのかりのみや 熊本県玉名郡長洲町)を設営した。長渚濱行宮から出陣して託羅郷(たらのさと 佐賀県藤津郡太良町)の近くの磐田杵之村(いはたきのむら)に接岸した(肥前國風土記)。天皇は嬢小山(をみなやま 鬼鼻山)にいた土蜘蛛八十女(やそめ)を、兵を遣わして誅殺した(肥前國風土記)。八十女とは多数の女王層のことであった。全員で抵抗して壮絶な最期を遂げた。賀周里(佐賀県唐津市見借)で大屋田子(おおやたこ)を遣わせて土蜘蛛・海松橿媛(みるかしひめ)を誅殺させた(肥前國風土記)。女王であった。天皇は平戸島南端の志式島に仮宮を設営した(肥前國風土記)。平戸島の土蜘蛛・大身(おほみ)を誅殺した(肥前國風土記)。天皇は、高來縣(たかくのあがた 長崎県島原半島)から長渚濱行宮に戻った(肥前國風土記)。ただし、長渚濱行宮はこの後に設営した可能性もあって、その場合は御船から磐田杵之村へ航行した。
天皇は、玉杵名邑で土蜘蛛(つちぐも)・津頰(つづら)を誅殺した。天皇は、菊池川沿いに夜間に山鹿に至った。そこを行宮(山鹿市杉山・大宮神宮)とした。山鹿市には夜間に景行天皇を松明で招いた故事から現在も山鹿燈篭の祭りが行われている。景行天皇は、そこで周辺の地方豪族を平定した。その後阿蘇(閼宗)へ行った。野原が広く遠くまで続き、人家が見えなかった。天皇は「この国には人がいるのか」と問われた。二人の神である阿蘇津彦(あそつひこ)と阿蘇津媛(あそつひめ)が人の姿で現れて来て「私たち二人がおります。どうして人がいないことがありましょうか」と答えた。天皇はその後、筑紫後國(つくしのくにのみちのしりのくに)の御木(みけ 福岡県大牟田市三池)を高田仮宮とした。
景行天皇が八女縣(やめのあがた)に着き、そこから少し北のほうにある藤山(久留米市藤山町)を越え、そこから南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、猿大海(さるのおほみ 後に水沼縣主となる 福岡県三潴郡 みずまぐん)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えた(則越藤山以南望粟岬詔之曰其山峯岫重疊且美麗之甚若神有其山乎時水沼縣主猨大海奏言有女神名曰八女津媛常居山中)。 天皇は神埼郡と三根郡に北上した(肥前國風土記)。御井川(筑後川)を渡った(肥前國風土記)。神埼郡には吉野ヶ里があった。神埼郡宮処(みやこ)郷に天皇は仮宮を設営した(肥前國風土記)。天皇は養父(やぶ)郡の狭山郷(さやまのさと)を行宮とした(肥前國風土記)。天皇は、御井郡の高羅(かうら)に仮宮を設けた(肥前國風土記)。その後、筑後國的邑(いくはのむら 生葉 後に八女縣的邑 福岡県うきは市)に行宮を建てた。天皇は生葉から日田郡(ひたのこほり)に移動した(豊後國風土記)。そこでは久津媛(ひさづひめ)という女神が人の姿で天皇を迎え、土地の状況を報告した(発筑後國生葉行宮幸於此郡有神名袁久津媛化而為人参迎弁増國消息)。西暦 313年に天皇はそこから宇佐の海浜に仮宮を建てた。そのとき、天皇は浮穴(うきあな)郷で土蜘蛛・浮穴沫媛(うきあなわひめ)を誅殺しなかったことを知り、神代直(かみしろのあたひ)を遣わして誅殺した(肥前國風土記)。天皇はそこから日向國に至り(十九年秋九月甲申朔癸卯天皇至自日向)、纏向に帰還した。 以上述べたように、景行天皇は九州親征を行った。九州の東海岸に上陸し、中九州に侵攻して土蜘蛛を討った。火國(肥前と肥後)で土蜘蛛を討った。景行天皇は帰順しない勢力に対して、やや場当たり的な印象は受けるが、それらを討伐できた。 しかし、この景行天皇による第一次九州親征で見えてくるものがある。それは、特に女王國に入ってからは征伐の旅ではなく巡幸の旅であったことである。特に山門郷を素通りしている。卑彌呼の死から半世紀以上経って女王國・倭國は崩壊しつつあった。それでも連合国としては、どの加盟国も土蜘蛛のように単独で戦争をすることはなかった。それによって女王國はかろうじて温存された。特に北岸の重要国・伊都國、奴國などがそのまま残った。 いつも山の中にいる「八女津媛」という女神が出てくるが、「八」とは多数のことである。しかし、猿大海は多数の女神の意味ではなく、いつの世にもおられる多世代の女神のこととして答えている。福岡県八女市や八女郡の語源となっている。景行天皇が藤山から南に見た山は、衛星写真で見ると山門地方の女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)である。猿大海は、景行天皇の「神がいるのか」との問いに対して、その場の緊迫したぎりぎりの状況の中で、シャーマンとして神格化された連合国・倭國の女王がいるとは答えないで咄嗟(とっさ)に、いつも山中にいて人前に姿を現さない女神がいると答えたのだと著者は感じる。この八女津媛こそが景行天皇が討つべき連合国・倭國の女王であった。景行天皇が八女津媛を討たなかったのは、天皇は、八女津媛は女神であって統治者ではないと判断したのに相違ない。猿大海、恐るべし。これが「女王八女津媛説」「女王祈祷所女王山説」である。景行天皇によるこの九州親征で、女王國は討伐されないで残った。 【24】 大和政権による第二次九州親征 二回目の親征は、史実とすれば西暦 366-367年に第十四代仲哀天皇・神功皇后によって行われた。西暦 363年に仲哀天皇が德勒津宮(ところつのみや 和歌山市新在家)にいたとき『日本書紀』によれば、「熊襲叛之不朝貢」の報が入った。仲哀天皇二十二歳、神功皇后十四歳であった。天皇は直ちに軍勢を率いて瀬戸内海を西航し、穴門國(山口県)の豊浦津(とゆらのつ 下関市)に到着した。神功皇后は角鹿(つのか 敦賀)の笥飯宮(けひのみや 氣比神社)にいたが、知らせを聞いて陸路南下し、軍勢を率いて瀬戸内海を西航した(播磨國風土記)。高泊(たかのとまり 小野田市)を経て豊浦津に至った。仲哀天皇と神功皇后は穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや 住吉斎宮 すみのえのいつきのみや 下関市長府宮ノ内町忌宮神社 いみのみや)で三年間、情報を収集しながらここで治世をした(古事記)。周防の沙麼を水軍基地とした。天皇と皇后が三年もの間畿内を空けてこの豐浦宮で治世をした理由は単に「熊襲叛之不朝貢」のためではない。その目的は、大和政権の命運をかけて、晋(東晋)に軍事上の安全を保障されているかもしれない女王國・倭國を討伐することであった。 新羅の塵輪(じんりん)なる者が熊襲を先導して豐浦宮に攻め入った。仲哀天皇自ら弓を取って防戦し、塵輪を射殺した。 西暦 366年に崗國(後世の律令体制下の遠賀郡)を支配していた熊族の熊鰐(くまわに)が仲哀天皇を周防の沙麼(さば)に迎えて帰順した。そのとき、三種の神器として白銅鏡・十握劒(とつかのつるぎ)・八尺瓊を献上した。国王であった。熊鰐は後に大和政権下で崗縣主(をかのあがたぬし)となる。 また、伊都國(福岡県糸島市)の五十跡手(いとで)が仲哀天皇を穴門(あなと)の引嶋(ひきしま 彦島)に迎えて帰順した。三種の神器として八尺瓊・白銅鏡・十握劒を献上した。五十跡手はこのとき自らを高麗の國の意呂山に天降りし日桙の苗裔と名乗る。 日桙という人物は新羅王の子であり、第十一代垂仁天皇の時代に日本に渡り、但馬で子・多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を残した(日本書紀)。葛城之高額比賣命(かづらきのたかぬかひめのみこと)は多遅摩母呂須玖の子孫である(古事記)。また、葛城高顙媛(かづらきのたかぬかのひめ)は神功皇后の母であった(母曰葛城高顙媛 『日本書紀』)。神功皇后はその母の遠く古い故郷である朝鮮半島に強い憧憬をもっていた。神功皇后は、新羅國には眩(まばゆ)い金、銀、彩色などが沢山あると考えていた(眼炎之金銀彩色『日本書紀』)。 五十跡手は伊都國王であった。伊都國はこのとき大和政権に併合された。そもそも、伊都國王とは女王國の「一大率」にほかならない。このとき、大和政権(仲哀天皇・神功皇后)は、景行天皇が討たなかった女王國の組織と全ての加盟国について全貌を知った。また、女王が山門の女王山にいる八女津媛であること。呪術者であることなどを知った。帰順とはそのようなことであると著者は考える。五十跡手は後に伊覩縣主(ゐとのあがたぬし)となる。伊都國王の女王國に対するその背信が一大率としての全加盟国に対する行政監察と、少なくとも三世紀にわたる怡土國統治の結末であった。また、それは大和政権とその後の日本にとってひとつの転機であった。
『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠賀川河口の岡湊(塢舸水門)にさしかかったときに船が進まなくなった。すなわち、河口の守り神であった大倉主命(おおくらぬしのみこと)と菟夫羅媛(つぶらひめ)の二柱の神が大和政権の女王國・倭國への侵攻を拒んだ。そのことがことさら伝承されることから、崗國は女王國・倭國であった可能性がある。
仲哀天皇は熊鰐に勧められて岡湊の二神に祈った。そのとき、舵取り人で倭國の菟田(うた)の人・伊賀彦(いがひこ)を祝(はふり 神官)に立てて祈ったところ船が進んだ(天皇則禱祈之以挾杪者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭則船得進)。 本来、天皇は神官の最高位である。『日本書紀』がここで述べるところでは、そのとき大和政権の天皇は倭國の神官ではなかった。 前記の二柱の神々は、当時は遠賀湾の西岸に鎮座する神々であった。その西岸は、縄文海進によって現在の遠賀川の西岸から約 7キロメートル内陸地の福岡県遠賀郡岡垣町の高倉にあった。現在は高倉と遠賀川河口の二か所に上宮(高倉神社)と下宮(岡湊神社)が祀られている。
神功皇后は別の船で洞海湾から岡湊に向かった。当時響灘(ひびきなだ)を航行することは、容易ではなかった。神功皇后は危険を分散するため洞海湾を航行した。洞海湾南岸の前田(北九州市八幡東区)で陣営を設けた。その足で皿倉(さらくら)山に登ってそこから遠く朝鮮半島を仰ぎ見たが、下るとき「さらに暗くなった」という伝承がある。その後、満潮を待って岡湊に着いた。
仲哀天皇は玄界灘を通って奴國に向かった。神功皇后はいったん遠賀湾を南下して福岡県若宮市を通り、奴國に向かった。 神功皇后は、真紅の絹の上衣、紫色の裳であり、縞織物の帯に鹿の角の腰飾りを差し、皮の靴を履いていたと伝えられる。青いガラスの管玉と瑪瑙(めのう)のネックレス、緑色の翡翠(ひすい)の指輪と貝殻のブレスレットをつけていた。宝石のイヤリングをつけ、竹編みの笠を深くかぶって傲然としていた。当時竪穴式の住居に住んで貫頭衣を着て暮らしていた一般庶民は遠くからその姿を見て驚いたであろう。 仲哀天皇・神功皇后は橿日廟(かしひのみたまや 訶志比宮 福岡市東区の香椎宮)を行宮とした。 西暦 367年、仲哀天皇は橿日廟で崩御した。『日本書紀』には暗殺されたと注記されている。二十六歳であった。 神功皇后は軍勢を率いて香椎宮を出発し、御笠川を南下した。橿日宮から松峽宮に遷宮した(福岡県朝倉郡筑前町)。前年(366年)に臣下となった怡土國王(女王國・倭國の一大率)が邪馬臺國の女王であるとして証言した八女津媛を討つためである。
神功皇后は先ず層増岐野において羽白熊鷲と交戦して圧倒的な兵力でこれを誅殺した。皇后はこのとき髪を左右二つに分け、耳元で「みずら」を結い、兵として男装していた。
皇后とその水軍は宝満川を船で下った。福岡県小郡市津古(つこ)を通り、さらに小郡市大保(おおほ)を通り、筑後川に出た。筑後川を下って福岡県大川市榎津(えのきづ)から有明海に出た。有明海を少し南下して矢部川河口に出た。ここが目的地の山門である。八女津媛はここの女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいた。 『日本書紀』によれば、(西暦367年に)神功皇后はこれを土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)として誅殺した(轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛)。八女津媛には兄・夏羽がいた。夏羽が駆けつけるよりも前に八女津媛は殺されたので、夏羽の軍は四散した。 「たぶらつ」とは女神に対する地域の呼び名ではなく、大和政権の言葉である。それは「たぶらかしの」という意味である。「田油津」はその当て字である。神功皇后の軍勢と大和政権から見て敵である呪術者(シャーマン)・八女津媛に対する蔑称であった。
山門は後に大和政権下で山門縣(やまとのあがた 福岡県みやま市瀬高町)となる。これが邪馬臺國の滅亡であった。
神功皇后は十四歳の時から畿内を離れ、この女王國討伐の事業を、夫を失いながら四年かけて達成した。すでに十八歳となり当時の年齢で中年にさしかかっていた。 『魏志倭人傳』で魏の使者が最初に上陸した末盧國も、大和政権下で松浦縣(まつうらのあがた)となるなど、このとき九州北部にあった他のすべての国々は大和政権に帰順した。以後日本は大和政権の支配下に入る。 卑彌呼の墓も臺與の墓も破壊されて大量の塩がまかれた。卑彌呼が魏の皇帝からもらった「親魏倭王」の金印や銅鏡百枚などは散逸した。あるいは、鋳つぶされた。 女王山の現在の地名は「大草」である。「おほいくさ」の跡地と伝えられる。しかし、八女津媛が抗戦した痕跡は見られない。女王山は、地域ではその後大和政権に遠慮して女山(ぞやま)と呼ばれるようになった。 神功皇后は八女津媛を討伐すると、同年(367年)軍勢を率いて、その母の遠く古い故郷である朝鮮半島へ行く。交戦は行われず、外交的な交流が行われたようである。皇后はそのとき身ごもっていた。帰国後に應神天皇が現在の福岡県糟屋郡宇美町で生まれた。後世に日本国内では、それを「三韓征伐」と呼ぶようになった。朝鮮半島には、神功皇后によって征伐されたという記録はない。 なお、女山は見晴らしが良く、有明海を遠く見渡すことができることから、朝廷は白村江の戦い(663年)に敗れると、唐・新羅が侵攻して来ることを恐れてここに山城を造った(七世紀後半)。それは地域では女山城と呼ばれて石垣の跡などが残る。各地の神籠石(こうごいし)と同様に、地域ではその石垣には神が籠っていると考えられている。 【25】 親征されなかった隼人民族 省略 【おわりに】 邪馬臺國は筑紫の山門地方にあった。最後の女王は神格化された八女津媛であった。女王の祈祷所は女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にあった。邪馬臺國を首都として強大であった筑紫政権・倭國は、史実とすれば西暦 313年に、大和政権による第一次親征(景行天皇)をかろうじて凌ぐことができた。しかし、西暦 367年に、第二次親征(仲哀天皇・神功皇后)によって滅亡した。「やまと」や「みなと」という地名は、山のふもとなど、日本の各地に存在する。大和政権が奈良盆地の一角で発足したとき、その地が「やまと」と呼ばれていた可能性がある。西暦 701年に大寳律令が制定されて「日本」という国号が定められた。それ以降日本という漢字を「やまと」と読むようになった。大和政権の地を「大和國」(やまとのくに)と定めたのは第四十三代元明天皇(女帝 在位 707-715年)であった。 異説であるが、イスラエルの日本語研究者であったヨセフ・アイデルバーグ(1916-1985)によれば、「ヤマト」はヘブライ語で「撰民」という雅語である。すなわち、「ヤー」(ヤハウェの神)の「ウマト」(民)であるという一説がある。 卑彌呼の墓と「親魏倭王」の金印、臺與の墓、田油津媛の墓は見つかっていない。 国内には「権現塚古墳」と呼ばれる古墳が各地にある。写真の「権現塚古墳」は、福岡県みやま市瀬高町坂田(さかた)にある。八女津媛の女王山の近くである。
この権現塚古墳は、「二段」の円墳で、上段と下段がある。全体として直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルである。1,500年以上かけて風雨に洗い流されている。『魏志倭人傳』には、卑彌呼の墓は「径」(さしわたし)が「百余歩」と書かれている。前記したようにそれは直径が 15.3~153メートルの円墳のことであった。
1.魏の使者は末盧國から「伊都國」(糸島市)までの距離を歩いて 500里であると述べている。Google マップ上で東松浦半島から糸島市までを 500里とすれば、この権現塚古墳の直径は約百四十歩である。 2.実際に人がゆっくり歩いてみると、歩幅を約 45センチメートルとしてこの円墳は径が百余歩である。 この権現塚古墳はその形状から古墳時代中期(五世紀頃)の造成ではないかと推測されている。しかし、炭素 14によって年代測定が行われたわけではない。また、この権現塚古墳は発掘調査が行われていない。 この権現塚古墳は後世にいったん破壊されて塩をまかれた可能性もある。この権現塚古墳が西暦 248年頃に築成されたものであって、その後何らかの事情で上段が盛り土されて「二段」となった場合には、「下段」は卑彌呼の時代と一致する。卑彌呼の時代にこの一帯は水郷化していてこの権現塚は環濠墓となっていた可能性がある。 神功皇后軍の兵力は圧倒的であった。また、その攻撃は一方的であった。神功皇后軍に戦死者は出なかった。この円墳は神功皇后軍の兵を祀る古墳ではない。 また、これとは別に西南に約 1キロメートルのところに「車塚」という 50メートル級の古墳がある。それは前方後円墳であるから後世の大和政権下で造営されたものであろう。
一方、福岡県みやま市瀬高町大草(おおくさ)に「蜘蛛塚」(くもづか)と呼ばれる古墳がある。前記の権現塚古墳から東へ 400メートルほど離れたところにある。田油津媛(たぶらつひめ)の墓と伝えられる。全体が破壊されている。表土ははぎとられ、石室に近い部分だけが残る。この墓は明治の初めまで「女王塚」と呼ばれた。雨が降ると血が流れると言われた。その真偽は分からないが、ある意味の怨みがこもっているとして伝承されている。 この古墳は、帆立貝型古墳である。大和政権固有の墳墓ではなく、田油津媛の墓である可能性がある。 西暦 367年に『日本書紀』によれば、仲哀天皇九年三月丙申(ひのゑさる)に神功皇后は山門縣で土蜘蛛・田油津媛を誅殺した。卑彌呼(169頃-248頃)の死より約 120年後であるから、殺された女王は卑彌呼ではない。臺與でもない。田油津媛の墓であるとすれば、裏の女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)にいた女神・八女津媛の墓である。 八女津媛は最後の女王として神功皇后の軍勢に討伐された。前記したように「たぶらつ」とは「たぶらかしの」という意味の大和言葉である。神功皇后の軍勢が敵である呪術者(シャーマン)・八女津媛に対してつけた蔑称である。 明治十四年(1881年)に神功皇后の肖像画入りの紙幣が発行された。日本で最初の肖像画入り紙幣であった。明治政府に対して当時の山門郡瀬高町としてはこの古墳を「女王塚」と呼ぶことを遠慮して「蜘蛛塚」と改称し、そのまま現在に至る。 【参考資料1】 『烏丸鮮卑東夷傳』序文
本文中に『魏志倭人傳』の書き下し文を掲載した。これは小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』のディジタル解説版として公表されているもので佐伯有清(1925-2005)訳に依拠する。
関連年表
参照文献
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