「水俣」に関連する人びとは、次の三層に分かれます。本当はもっと多重化していて単純ではないのですが、端的には次の三層に分かれます。 A.「認定患者」: 国の「公害健康被害補償法」によって「水俣病」として認定されたひと。 B.「水俣のひと」: 水俣で生まれたひと。市外・県外に転出したひとを含む。 C.「外部のひと」: 「水俣病」に強い興味をもってはいるが、水俣生まれでないひと。水俣に住むひとを含む。
「外部のひと」は、圧倒的多数です。「外部のひと」は「水俣病」に対して興味津々(しんしん)です。文学作品や芸術作品、展示会事業などの「マーケット」でもあります。「外部のひと」は自らの意思で積極的に興味をもつことができます。また、興味をもたないこともできます。それができるのは「外部のひと」だけです。
たとえば、石牟礼道子(いしむれみちこ 1927-2018)は、水俣に近い天草生まれの「外部のひと」でした。石牟礼道子は「水俣病」に対して積極的に興味津々でした。しばしば幼少のころの天草の家に納戸神を祀っていたことなどを公表して自らが水俣生まれではないことを表明していましたが、天草から水俣に移り住んだのは生後三か月のときでした。石牟礼道子の『苦海浄土』(講談社 1969年)が出たとき、「外部のひと」はそれを読んで衝撃を受けました。筆者は「水俣のひと」として当時二十二歳でしたが、それを読んでさして衝撃を受けませんでした。「水俣のひと」の中には石牟礼道子の『苦海浄土』を批判して、あれは読者の頭があることのほうに行かないように何かを書いているだけだ。という人もいて、筆者はそれなら書かれたわけが何となく分かるような気もしましたが、石牟礼道子が、筆者が最初に知った「外部のひと」でした。「外部のひと」は「外部のひととしての行為」をするものであることを、筆者はそのとき初めて知りました。 「水俣のひと」は、「外部のひと」のように興味津々ではありません。それは、強い関心をもっていないわけではありません。関心をもっていても、もっていなくても、「水俣病」から逃れることはできないからです。むしろ「外部のひと」によって、文学作品は書かれず、芸術作品も創作されず、ただ「そっと」しておいてもらいたい。それが「水俣のひと」です。そのような「水俣のひと」は、すべてに耐えて百年後も暮らし続けるのは、声には出しませんが、「外部のひと」ではなく「水俣のひと」であると考えています。 水俣は、かつて肥後藩制下で、幾世代も続いて人びとが暮らして来た風光明媚な地域です。緑深い山々に囲まれ、西のほうには穏やかな不知火海(しらぬいかい)が広がります。人びとは優しく純朴です。水俣は、『近世日本國民史』(全百巻)など優れた著作を残したジャーナリスト・歴史家の徳富蘇峰(1863-1957)や、美しい自然描写とヒューマニズムに徹して『不如歸(ほほとぎす)』など数多くの名作を残した文豪の徳冨蘆花(1868-1927)を輩出しました。水俣には容姿端麗なひとが多く、肥後細川家の代々当主に水俣から二人の女性が嫁いでいます。「外部のひと」はこのような話には乗って来ません。また、水俣駅で「1970年の水俣」という、賑やかだったころの商店街などの写真展が開かれたりしますが、「外部のひと」はそのような話にも乗って来ません。 「外部のひと」は、自らはそうではないと主張するでしょうが、「正義感」に浸って「自己満足」を追求するためにも現在の「認定患者」が必要だと見られます。しかし、「認定患者」の生存者数は急速に減少していて、2022年に 357人(熊本県195人、鹿児島県59人、新潟県103人)。その平均年齢は 85歳を超え、胎児性患者の平均年齢は 65歳を超えます。筆者は「水俣のひと」ですが、「水俣のひと」である「認定患者」が「外部のひと」に利用されているのを残念に感じます。 「水俣病」の正しい病名は「メチル水銀中毒」です(WHO)。「メチル水銀中毒」は、1865年(日本の幕末)にロンドンで起きて二人の患者が死亡したのが最初です。これが WHOの認識です。WHOによれば地名を病名に使ってはならないわけですから、日本でも「メチル水銀中毒」が将来使うべき術語として法的な拘束力をもっていくことは予想されますが、今はまだ日本全体が「水俣病」と呼んで「メチル水銀中毒」と呼ばない「空気」が支配的です。「水俣病」を「メチル水銀中毒」と呼ぶ場合に、その起点は「水俣」ではなく「ロンドン」です。「外部のひと」にとって、それほどつまらない話はありません。 熊本大学医学部の原田正純助教授(1934-2012)も、水俣に近い鹿児島県薩摩郡さつま町生まれの「外部のひと」でした。原田助教授も「水俣病」に対して積極的に興味津々でした。原田助教授はメチル水銀中毒が 1865年にロンドンで起きたことを知っていましたが、ロンドンのことはひた隠しにして、生涯書籍や講演で「水俣病は水俣病である」「水俣病の前に水俣病はない」と繰り返し繰り返し主張しました。その主張は魔法のように優れていました。それは、患者に対して「だからしかたがないね」という「癒し」を与えました。また、「知らなかった」として責任を免れたい原因企業チッソにとっても都合のよい主張でした。また、「知らなかった」として無作為の責任を免れたい政府・県にとっても都合のよい主張でした。また、すべて世界最初の「てがら」であったことにしたい熊本大学医学部の当時の研究者等にとっても都合のよい主張でした。それゆえに、その主張は、一つの時代において「普遍性」があり、原田正純医師の「水俣学」の基本思想となりました。 原田正純医師は、亡くなる二年余り前、当時熊本学園大学の「水俣学」の教授でしたが、「水俣のひと」である筆者から、メチル水銀中毒は 1865年にロンドンで起きて二人の患者が死亡したとする最初の本『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008年)を謹呈されて、かなり「当惑」している様子でした。原田正純医師は「水俣のひと」である筆者から見て「外部のひと」の最たるひとでした。「外部のひと」はそこまでして「外部のひととしての行為」をしなけばならないのかと筆者は感じました。 筆者は「水俣のひと」が「外部のひと」によって文学作品や芸術作品などを出さないで「そっと」しておいてもらいたい中で、いくつか書籍を刊行しております。筆者も「水俣のひと」ですが、筆者の仕事は真の学問としての「真理の追求」です。筆者の「真理の追求」は、前記のような「外部のひととしての行為」とは根源的に異なります。 日本窒素肥料株式會社(現チッソ)がアセトアルデヒドを製造してメチル水銀を海に流したのは昭和七年(1932年)5月7日(土)から昭和四十三年(1968年)5月18日(土)まででした。筆者の研究によれば、それまでメチル水銀が副生する事実もメチル水銀中毒の症状も、欧米では周知であり、流し始めた昭和七年より前から日本にも詳しく伝わっていました。これらを真実として解明することなどが「真理の追求」です。 ― 2024年12月 ― |