はじめに 「水俣」に関連する人びとは、次の三層に分かれる。本当はもっと多重化していて単純ではないのであるが、端的には次の三層に分かれる。 A.「認定患者」: 国の「公害健康被害補償法」によって「水俣病」として認定されたひと。 B.「水俣のひと」: 水俣で生まれたひと。市外・県外に転出したひとを含む。 C.「外部のひと」: 「水俣病」に強い興味をもってはいるが、水俣生まれでないひと。水俣に住むひとを含む。 「外部のひと」は、圧倒的多数である。「外部のひと」は「水俣病」に対して興味津々(しんしん)である。文学作品や芸術作品、展示会事業などの「マーケット」でもある。「外部のひと」は自らの意思で積極的に興味をもつことができる。また、興味をもたないこともできる。それができるのは「外部のひと」だけである。 たとえば、石牟礼道子(いしむれみちこ 1927-2018)は、水俣に近い天草生まれの「外部のひと」であった。石牟礼道子は「水俣病」に対して積極的に興味津々であった。天草から水俣に移り住んだのは生後三か月のときであったが、しばしば幼少のころ天草の家に納戸神を祀っていたことなどを公表して自らが水俣生まれではないことを表明していた。石牟礼道子の『苦海浄土』(講談社 1969年)が出たとき、「外部のひと」はそれを読んで衝撃を受けた。筆者は「水俣のひと」として当時二十二歳であったが、それを読んでさして衝撃を受けなかった。「水俣のひと」の中には石牟礼道子の『苦海浄土』を批判して、あれは読者の頭があることのほうに行かないように何かを書いているだけだ。という人もいて、筆者はそれなら書かれたわけが何となく分かるような気もしたが、石牟礼道子が、筆者が最初に知った「外部のひと」であった。「外部のひと」は「外部のひととしての行為」をするものであることを、筆者はそのとき初めて知った。 「水俣のひと」は、「外部のひと」のように興味津々ではない。それは、強い関心をもっていないわけではない。関心をもっていても、もっていなくても、「水俣病」から逃れることはできないからである。むしろ「外部のひと」によって、文学作品は書かれず、芸術作品も創作されず、ただ「そっと」しておいてもらいたい。それが「水俣のひと」である。そのような「水俣のひと」は、すべてに耐えて百年後も暮らし続けるのは、声には出さないが、「外部のひと」ではなく「水俣のひと」であると考えている。 水俣は、かつて肥後藩制下で、幾世代も続いて人びとが暮らして来た風光明媚な地域である。緑深い山々に囲まれ、西のほうには穏やかな不知火海(しらぬいかい)が広がる。人びとは優しく純朴である。水俣は、『近世日本國民史』(全百巻)など優れた著作を残したジャーナリスト・歴史家の徳富蘇峰(1863-1957)や、美しい自然描写とヒューマニズムに徹して『不如歸(ほほとぎす)』など数多くの名作を残した文豪の徳冨蘆花(1868-1927)を輩出した。水俣には容姿端麗なひとが多く、肥後細川家の代々当主に水俣から二人の女性が嫁いでいる。「外部のひと」はこのような話しには乗って来ない。また、水俣駅で「1970年の水俣」という、賑やかだったころの商店街などの写真展が開かれたりするが、「外部のひと」はそのような話しにも乗って来ない。 「外部のひと」は、自らはそうではないと主張するであろうが、「正義感」に浸って「自己満足」を追求するためにも現在の「認定患者」が必要だと見られる。しかし、「認定患者」の生存者数は急速に減少していて、 2022年に 357人(熊本県195人、鹿児島県59人、新潟県103人)。その平均年齢は 85歳を超え、胎児性患者の平均年齢は 65歳を超える。筆者は「水俣のひと」であるが、「水俣のひと」である「認定患者」が「外部のひと」に利用されているのを残念に感じる。 「水俣病」の正しい病名は「メチル水銀中毒」である(WHO)。「メチル水銀中毒」は、1865年(日本の幕末)にロンドンで起きて二人の患者が死亡したのが最初である。これが WHOの認識である。WHOによれば地名を病名に使ってはならないわけであるから、日本でも「メチル水銀中毒」が将来使うべき術語として法的な拘束力をもっていくことは予想されるが、今はまだ日本全体が「水俣病」と呼んで「メチル水銀中毒」と呼ばない「空気」が支配的である。「水俣病」を「メチル水銀中毒」と呼ぶ場合に、その起点は「水俣」ではなく「ロンドン」である。「外部のひと」にとって、それほどつまらない話しはない。 熊本大学医学部の原田正純助教授(1934-2012)も、水俣に近い鹿児島県薩摩郡さつま町生まれの「外部のひと」であった。原田助教授も「水俣病」に対して積極的に興味津々であった。原田助教授はメチル水銀中毒が 1865年にロンドンで起きたことを知っていたが、ロンドンのことはひた隠しにして、生涯書籍や講演で「水俣病は水俣病である」「水俣病の前に水俣病はない」と繰り返し繰り返し主張した。それは、患者に対して「だからしかたがないね」という「癒し」を与えた。また、「知らなかった」として責任を免れたい原因企業チッソにとっても都合のよい主張であった。また、「知らなかった」として無作為の責任を免れたい政府・県にとっても都合のよい主張であった。また、すべて世界最初の「てがら」であったことにしたい熊本大学医学部の当時の研究者等にとっても都合のよい主張であった。それゆえに、その主張は、一つの時代において「普遍性」があり、原田正純医師の「水俣学」の基本思想となった。 原田医師は、亡くなる二年余り前、当時熊本学園大学の「水俣学」の教授であったが、「水俣のひと」である筆者から、メチル水銀中毒は 1865年にロンドンで起きて二人の患者が死亡したとする最初の本『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008年)を謹呈されて、かなり「当惑」している様子であった。原田医師は「水俣のひと」である筆者から見て「外部のひと」の最たるひとであった。「外部のひと」はそこまでして「外部のひととしての行為」をしなけばならないのかと筆者は感じた。 筆者は「水俣のひと」が「外部のひと」によって文学作品や芸術作品などを出さないで「そっと」しておいてもらいたい中で、いくつか書籍を刊行している。筆者も「水俣のひと」であるが、筆者の仕事は真の学問としての「真理の追求」である。筆者の「真理の追求」は、前記のような「外部のひととしての行為」とは根源的に異なる。 日本窒素肥料株式會社(現チッソ)がアセトアルデヒドを製造してメチル水銀廃液を海に流したのは昭和七年(1932年)5月7日(土)から昭和四十三年(1968年)5月18日(土)までであった。しかし、それまでメチル水銀が副生する事実もメチル水銀中毒の症状も欧米では周知であり、日本窒素がメチル水銀廃液を流し始めた昭和七年より前から日本にも詳しく伝わっていた。「真理の追求」ではこれらを「純粋な知識」として解明し提供する。 以下、「水俣」について、筆者は「水俣のひと」として、真の「科学史」をお伝えする。
第一章 【1】 メチル水銀はいつどこで発見されたか メチル水銀は有機水銀の一種である。「メチル水銀」という言葉は、単一の物質の名称ではない。それは、水銀(Hg)に「メチル基」(-CH3)という原子団が結びついた化合物の総称である。毒性がきわめて強いことで知られる。物質としては安定していて分解されにくい。自然界で生物の体内にとり込まれやすい。ジョージ・バックトン(George B. Buckton)は、ロンドンの王立化学大学(Royal College of Chemistry)でアウグスト・ホフマン教授(1818-1892)の助手をつとめていた。1858年(日本では安政五年の幕末)、バックトンは史上初めて「ジメチル水銀」(CH3-Hg-CH3)を合成する。ジメチル水銀はメチル水銀の一種である。したがって、これがメチル水銀の発見であった。 ジメチル水銀はメチル基(-CH3)を二つもつ無色透明な液体である。一方、単に「メチル水銀」とは、「モノメチル水銀」といって水俣湾周辺でメチル水銀中毒をひき起こした「塩化メチル水銀」CH3-Hg-Cl や「水酸化メチル水銀」CH3-Hg-OH など、メチル基(-CH3)を一つだけもつものを指すことも多い。 【2】 メチル水銀は何のために製造されたか
1852年(日本では嘉永五年)、英国オーウェン大学の初代化学教授エドワード・フランクランド(Edward Frankland)は「原子価」(げんしか)の概念を発表した。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人である。弱冠 27歳であった。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものである。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学ぶ。
1858年にメチル水銀が発見されると、フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのにきわめて役立つことを知った。1859年フランクランド(34歳)は、ロンドンの聖バーソロミューの病院(Saint Bartholomew' s Hospital)に併設された医科大学に移って研究を続けた。
聖バーソロミュー病院は、十二使徒の一人の名を冠した病院であり、1123年に創立されたロンドン最古の病院である。テームズ河北側のスミスフィールドにあり、現在も「バーツ」(Bart's)の愛称で親しまれている。イギリス屈指の名門病院である。
1863年にフランクランドはメチル水銀の製造方法を確立した [1]。フランクランドが製造したメチル水銀は、タマゴが腐ったような、いやなにおいがする油性の液体であった。フランクランドは『ワットの化学事典』(Watt’s Dictionary of Chemistry, MacMillan, London 1882年)の中に、メチル水銀について「眼が回ってむかつくような味がする(‐faint but mawkish‐)」と記載した。
フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任した。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで七行からなる元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人である。
なお、1865年にオッドリングの妹メアリー(Mary Ann Odling)は、メチル水銀発見のバックトン(前出)と結婚した。 【3】 メチル水銀中毒はいつどこで発見されたか メチル水銀は、たとえ微量であっても、脳の細胞組織をその量に応じて破壊する。その結果、重篤(じゅうとく)な場合は、感覚のにぶり(障害)、筆記障害その他の運動障害、視覚障害、聴覚障害、発音の障害、四肢の一部や舌・口周のしびれなどが起きる。ヒトの脳には「脳血管障壁」(のうけっかんしょうへき。BBB)というバリアがある。体外から侵入した有害な物質は、そのバリアによって脳の中に侵入しないようにそこで阻止される。そのようにして脳は守られている。しかし、メチル水銀は「システイン」というアミノ酸と結合すると、やはりアミノ酸の一種である「メチオニン」に似た化学構造となる。そしてメチオニンとして脳の内部にとり込まれる。メチル水銀はいったん脳にとり込まれると、そこでたんぱく質の合成を阻害する。メチル水銀には生物学的半減期(約 70日)はあるが、メチル水銀による脳細胞の破壊は不可逆(ふかぎゃく)である。その半減期の間に破壊された中枢神経細胞が生涯修復されることはない。 メチル水銀は、大脳の「体性感覚野」(たいせいかんかくや)、「視覚野」(しかくや)といった重要な組織を破壊する。また、小脳の「顆粒細胞層」という組織などを破壊する。メチル水銀によって脳細胞がわずかに破壊されたとき、一見する限り何ら症状がないからといって脳が損傷を受けていないというわけではない。脳は他の臓器とは異なり、「補償機能」(ほしょうきのう)といって、破壊されずに残った細胞が代行をはじめるからである。脳はそのような機能をもっている。その結果、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持することが多い。しかし、その補償機能にも限界がある。 聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で三名の技術者がメチル水銀の製造実験を行っていたが、1864年の暮れに重篤な中毒症状に陥った。 そのひとりはカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳のドイツ人であった。ウルリッヒは、1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験をはじめた。しばらくするとだんだんと両手がしびれるようになった。耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。1865年1月中旬にはメチル水銀原液の配管が壊れてメチル水銀の蒸気を大量に吸ってしまう事故もあった。
ウルリッヒは、同(1865)年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容された。主治医はヘンリー・ジェファーソン(Henry Jeaffreson 1810-1866)であった。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげた。質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返した。同年2月14日に死亡した。
有機水銀、あるいはその一種であるメチル水銀による世界最初の中毒死であった。そのころ日本は幕末の元治二年であった。 ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第141-144頁に詳しく報告されている [2]。 二番目の患者は T. スロウパ(Sloper)23歳であった。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていた。その間にいやなにおいのするメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、九か月目(1865年1月半ば)からのわずか二週間ほどであった。メチル水銀の製造器具の洗浄を行った。その一か月後に発症した。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれた。耳が聞こえにくくなった。目がよく見えなくなった。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなった。歩くのが困難になった。
スロウパは、同年3月25日(発症して3週間後)に同病院のマタイ棟に収容された。主治医はジェファーソンであった。ものを飲み込めなくなった。話せなくなった。尿と便を失禁するようになった。激しいふるえに襲われた。叫び声をあげて身体をばたばたさせた。錯乱状態のまま1866年4月7日に肺炎を併発して死亡した。
スロウパの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第144-150頁 [2] と同第2巻(1866年)第211-212頁 [4] に詳しく報告されている。 もう一人の患者はウルリッヒとスロウパに比べると症状は軽く、死亡しなかった。 現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『聖バーソロミュー病院報告書』の第 1巻 [2]、第 2巻 [4] の全ページをそれぞれを PDF化して無償で公開している。 これらの書籍(報告書)が当時わが国に輸入された形跡はない。では、この「メチル水銀中毒発見」の情報は当時わが国には伝わらなかったのであろうか? 【4】 メチル水銀中毒はヨーロッパ社会をどう動かしたか
聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死は、同(1865)年フランスの雑誌『コスモス』(COSMOS)第 26巻 11月号第 548-549頁(11月15日)に掲載された。『コスモス』はパリで刊行されており、学術専門誌ではなく、一般の読者を対象とする大衆雑誌であった。その記事は、タイトルが「若い化学者への警告」(Avis aux Jeunes Chimistes)であった。それには「ぞっとするような報告」という副題がついていた。執筆者は、『コスモス』のロンドン特派員トーマス・フィプソン(Dr. Thomas Phipson)であった。
フィプソンは、英国化学会フェローであり、蛍光現象研究の第一人者であった。また、英国化学会において、フランクランドのライバルとしても知られていた。 『コスモス』の内容(聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死)は、ドイツでは『ベルリン・ニュース』 (Berlinische Nachrichten)などいくつかの新聞に転載された。その結果、ドイツ国内でも、科学の分野だけではなく一般大衆の間に激しい衝撃(a very powerful sensation throughout Germany)を与えた。
イギリスではウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 1832-1919)が『化学ニュース』という、化学の分野で当時世界唯一の定期刊行誌を創刊していた。クルックスは王立科学大学でアウグスト・ホフマンから化学を学んだ。タリウムを発見した。クルックス管を発明し、この中に羽根車をおいて、陰極線をあてて回転させた。この実験により、陰極線は帯電した微粒子(電子)からなることを明らかにした。
聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、クルックスの『化学ニュース』第 12巻(1865年)、第 13巻(1866年)の中でくり返し報じられた [3,5]。 『化学ニュース』で、最初に記事が現れたのは、第 12巻第 276-277頁(1865年12月8日刊行)である。それは、『化学ニュース』のパリ特派員(匿名)が 11月30日に投稿したものであった。そこには「トーマス・フィプソンは、聖バーソロミュー病院において中毒が起き、一人が死亡し、もう一人が重体であるのは、エドワード・フランクランドが故意にひき起こしたとして『コスモス』の中で断定している」と述べられている。 それに対して、フィプソンは『化学ニュース』第 12巻第 289‐290頁(1865年12月15日刊行)で直ちに反論し、聖バーソロミュー病院医科大学化学実験室で起きたウルリッヒ(Dr. C. U.) とスロウパ(T. S.) の中毒は、前任教授であったフランクランドの「研究方針のもとで起きたと述べただけである」と釈明している。すると、責任はオッドリングにあったことになる。
ベルリン大学教授アウグスト・ホフマンは、『化学ニュース』第 13巻第 7‐8頁(1866年1月5日刊行)の中で、そのオッドリングのための弁護を試みている。ホフマンは、メチル水銀を「真に並外れた毒性」(altogether exceptionally poisonous nature)をもつと指摘し、また、オッドリングはイギリスで最も優れた化学者の一人であると紹介した。また、メチル水銀がそれほどの毒性をもつことは誰にも知られていなかったと述べた。
ホフマンは、以前、1845年から 1864年まで約 20年間イギリスの王立化学大学教授としてロンドンに赴任しており、死亡したドイツ人ウルリッヒがメチル水銀の製造実験をはじめる二、三日前に本人(ウルリッヒ)に会ったが、ウルリッヒはその毒性について何ら知らなかったと述べた。なお、メチル水銀を発見したバックトン(前出)はホフマンの助手であった。 一方、フィプソンは『化学ニュース』第 13巻第 23頁(1866年1月12日刊行)の中で、オッドリングには「無知(ignorance)の責任はないが、無視 (negligence)の責任はあった」と述べている。 『化学ニュース』の編集者(クルックス)は、(討議はまだまだ続くが)「掲載を打ち切る」と述べた。 当時の『化学ニュース』は、1865年から 1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒を遅くとも(後述するように) 1927年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、フランスの一般大衆雑誌『コスモス』(1865年)、ドイツの『ベルリン・ニュース』などの複数の新聞(1865年)、イギリスの専門書『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[2]、 第2巻(1866年)[4]、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[3]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[5] によって、ヨーロッパでは周知となった。
そのころの日本は慶應二年であった。 【5】 メチル水銀中毒の発見はいつ日本に伝わったか
メチル水銀中毒に関する情報は、ヨーロッパでは次の世代に伝わった。ドイツでは、その約二十年後の1887年に、ヘップが『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [7] を発表した。ヘップは有機水銀を梅毒の治療に用いようとしてあまりの毒性の激しさで失敗したのであるが、その論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』の C. U. 30歳(カール・ウルリッヒ)と S. T. 23歳(トム・スロウパ)の死亡症例を詳述してある全12頁について、それをメチル水銀中毒の著名な例として核心部分を抜粋して 5頁にわたって転載した。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」(die schwere Affection des Centralnervensystems)を与えると述べた。
1887年は、日本では東京電燈會社が送配電を開始した年である。
東京科学大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』第12巻(1865年)[3] には、「東京高等工業學校圖書」、「昭和2年3月24日購入」の刻印がある。昭和2年は1927年。空母「赤城」が進水し、芥川龍之介が自殺した年である。1923年の関東大震災で、東京市(当時)の藏前にあった東京高等工業學校の蔵書は全焼している。『化学ニュース』は、藏前にあったころ(焼失以前)にすでに収蔵されていたのかもしれない。東京高等工業學校は、震災後、藏前から東京市外の荏原村(現在の大岡山)に移転したが、「昭和2年3月24日」は、その移転後に買い直された新しい日付なのかもしれない。東京帝國大學附屬圖書館も関東大震災で蔵書が全焼している。東京帝國大學でも『化学ニュース』は、震災焼失以前に収蔵されていた可能性がある。
現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『化学ニュース』の全巻を PDF化して無償で公開している。
熊本大学の『実験的病理学薬理学叢書』第23巻には、「熊本醫科大學圖書館(昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印がある。昭和6年は1931年である。この『実験的病理学薬理学叢書』第23巻(1887年)は、北海道大学附属図書館、東北大学附属図書館、東京大学附属図書館、慶應義塾大学附属図書館、東京慈惠会医科大学附属図書館、千葉大学附属図書館、新潟大学附属図書館、大阪大学附属図書館、神戸大学附属図書館、岡山大学附属図書館、熊本大学附属図書館、長崎大学附属図書館にも所蔵された。 「ヘップ論文」(『実験的病理学薬理学叢書』第23巻 91-128頁)[7] は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻 [2]、第2巻 [4] の具体的な内容を遅くとも1931年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。
ヘップ論文のこの部分は『聖バーソロミュー病院報告書』[2,4] の内容のドイツ語への翻訳転載であり、カール・ウルリッヒ 30歳が 1865年2月3日に同病院マタイ棟に収容されて同年 2月14日に死亡するまでの臨床経過と、トム・スロウパ 23歳が 1865年3月25日に同マタイ棟に収容されて翌年 4月7日に死亡するまでの臨床経過を、日を追って克明に紹介している。そこに述べられた症状はその後熊本県水俣市で見つかるメチル水銀中毒の劇症の例と同じであった。 現在この「ヘップ論文」[7] も、インターネット(グーグル・スカラー)上で PDFファイルとして全文が無償で公開されている。 第二章 【6】 アセトアルデヒドの製法はいつ発明されたか 「アセトアルデヒド」(CH3CHO)は重要な工業製品である。約 20℃で沸騰する。引火性が非常に強い。空中で酸化するだけで酸素が一つ加わって酢酸(さくさん CH3COOH)となる。したがって、アセトアルデヒド工場では酢酸も同時に製造されることが多い。その工場は「アセトアルデヒド・酢酸工場」などと表記される。
アセトアルデヒドは、アセトン、オクタノールなどの原料となる。アセトアルデヒドがなければ、ある時代の一国の産業は成り立たない。アセトアルデヒドはそれくらい重要な工業製品の一つである。そのために世界の各地でアセトアルデヒドが製造された。ヨーロッパ大陸でも、アメリカ大陸でも、そして、熊本縣の水俣町(当時)でも。
現在アセトアルデヒドは石油化学によってエチレンを酸化させて製造される。触媒(しょくばい)として二酸化パラジウムと二酸化銅が用いられる。この「エチレン酸化法」は 1959年にドイツのワッカー・ケミー社が開発したものである(ワッカー法)。 それ以前にアセトアルデヒドを製造する方法は、1881年にロシア帝國サンクト・ペテルブルグ(Saint Petersburg)の王立森林研究所(現在のサンクトペテルブルグ州立森林大学)でミカイル・クチェロフ(Mikhail G. Kutscheroff 1850-1911)によって発明された [6]。それは水銀を触媒として用いるものであったので「水銀触媒法」と呼ばれる。
十九世紀の後半に、ロシア帝国の化学者ミカイル・クチェロフ(Mikhail Kutcheroff)は、サンクト・ペテルスブルグの王立森林研究所でアセチレン(C2H2)の化学について研究していた。王立森林研究所は、1811年にアレクサンドル I 世が創立した研究所であった。ロシア革命よりも前である。クチェロフは当時の自由な空気の中で好きな研究をすることができた。「アセチレン」は、「アセチレンの樹」と言われるように、これから様ざまな化学物質を合成することが可能である。クチェロフは、そのアセチレンの化学に取り組んだ。
硫酸は強い酸である。水銀は、鉄や銅など他の金属と同じように硫酸に溶けて透明な液体となる。クチェロフは、その水銀溶液にアセチレンガスを吹き込むだけでアセトアルデヒドができることを見出した。クチェロフの発見は、その後の世界の化学産業の発展を担う重要な業績であった。 クチェロフの水銀触媒法は、その反応のメカニズムがサイエンスとして全く未解明であった。現在でも、本当のところは、最新の量子化学を動員しても、そのメカニズムが余すところなく解明されているわけではない。しかし、当時も今も、経験則としてはアセトアルデヒドが製造できるのである。 クチェロフは、そのとき水銀溶液の中に有機水銀が副生することにまでは思い至らなかった。 【7】 アセチレンの大量製法はいつ発明されたか アセチレンガスは 1835年にイギリスのエドモンド・デービー教授(Edmund Davy 1785-1857)によって発見された。それは「カリウム・カーバイド」(K2C2)に水をそそいで発生させるもので、高価であった。1892年にカナダのトーマス・ウィルソン(Thomas Willson)は「カルシウム・カーバイド」(Ca2C2)を製造する方法を見出した。それは自然界に大量にある石灰岩(CaCO3)と石炭(C)を混ぜて、電気炉の中で 2,000℃程度の高温で加熱するだけで大量に製造できるというものであった。 ウィルソンのカルシウム・カーバイドも、水をそそぐとアセチレンガスが発生する。アセチレンガスは燃えて明るい光を出すので、ガス灯や夜店の照明、漁船の照明などに、確実に需要があった。 【8】 有機水銀副生の「可能性」はいつ示唆されたか ドイツ・ミュンヘンのホフマン(K. A. Hofmann)とザンド(Julius Sand)は 1900年に『ドイツ化学会誌』に「水銀塩のオレフィンに対する反応について」と題して論文を掲載した [8]。「オレフィン」とは、エチレン C2H4、プロピレン C3H6 など、化学式 CnH2n (2≦n)で表される有機化合物のことである。その論文の中でホフマンとザンドはH2C=CH2 + Hg(OCOCH3)2 + ROH → ROCH2CH2HgOCOCH3 + CH3COOH という化学反応式を掲載した。アセチレン(C2H2)はオレフィンではないが、ホフマンとザンドの研究は、一般に炭素水素化合物が水銀化合物と反応して有機水銀を生成する可能性があることを示唆した。 ホフマンは、また、1905年に『ドイツ化学会誌』に「爆発性をもつ水銀塩」と題して論文を掲載し、「水銀を溶かした酸性溶液にアセチレンガスを通すと爆発性をもつ有機水銀が生成することがある」と述べた [9]。
米国ミシガン湖のすぐ南のインディアナ州にノートルダム大学がある。ノートルダム大学は、1842年にカトリック教会によって創設された私立の名門大学である。
ジュリアス・ニューランド教授(Julius Nieuwland)は、カトリックの神父であった。ニューランド神父は、ノートルダム大学の植物学教室でアセチレンの化学について研究を続けた。ニューランドは『米国化学会誌』(1906年)に「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に対する作用」と題して論文を掲載した。 ニューランドは、その論文の中で前記ホフマンの論文を紹介し、「水銀の酸性溶液にアセチレンガスを通すとアセトアルデヒドが生成する。そのとき水銀化合物が副生する。その水銀化合物は、酸の種類により爆発性を有しており、ある種の炭化物であろう」と述べた( The compound was explosive and hence was supposed to be a carbide.)[10]。一般に炭化物とは有機物のことにほかならない。 水銀を硫酸に溶かしてアセチレンガスを吹き込むとアセトアルデヒドが生成する(クチェロフの水銀触媒法)。ホフマンとニューランドの論文によって、そのとき有機水銀が副生する可能性が知られるようになった。 【9】 有機水銀副生の「可能性」はいつ日本に伝わったか J. ニューランドの『米国化学会誌』(1906年)[10] は、「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に對する作用」と題して同年(1906年)発行の『東亰化學會誌』(後の日本化学会誌)第27巻に「水銀化合物は其含む酸根の種類により爆發性あるを見たり。之等化合物の多くは其組成明かならざるも熱すれば概ねアルデヒドを發生す」として抄訳が掲載された [11]。
1906年(明治39年)は、伊藤博文が韓國統監府の初代統監に就任し、南滿洲鐵道株式會社が設立された年である。
熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)において、日本窒素肥料株式會社が創業されるたは、それより二年後の明治四十一年(1908年)8月20日(木)である。 【10】 有機水銀副生の「事実」はいつ確認されたか 米国の前記ニューランド教授は、『米国化学会誌』(1921年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドをつくる場合の水銀塩の作用ならびにパラアルデヒドの製造方法」と題して論文を発表した [12]。
ニューランド教授は、「そこで本研究では、種々の水銀塩を酸に溶かし、それぞれ異なった温度と濃度で用いてみた。その場合に、アセチレンがどのように反応するか、その反応の程度と持続時間について検討した。この目的のためには、硫酸水銀を希硫酸に溶かしたものが触媒としての経済性と触媒としての性能、反応の持続性の面からみて最適であることが見出された」と述べた。
また、「しかしながら、これらの溶液の中で、水銀が硫化物の形で長く存在することはなく、ある有機水銀に変性され、その有機水銀が触媒として作用するということを見出したものである」(It was found, however, that in these solutions, the mercury did not longer remain in the form of the sulfate but was converted to an organic compound, and this compound acted as the catalyst.)と述べた。 【11】 有機水銀副生の「事実」はいつ日本で周知となったか ニューランド教授の『米国化学会誌』(1921年)の内容は、国内で 1922年に『工業化學雜誌』に抄訳が掲載された [13]。その中で「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此(こ)の者の接觸作用により反應は進行する」と報じられた。
熊本縣葦北(あしきた)郡水俣町(当時)において、日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣灣に流し始めたのは、 1932年(昭和七年)5月7日(土)であった。
日本窒素はアジアで最初にアセトアルデヒドを製造するあたって、あらゆる情報・文献をいち早く入手していたと考えられる。しかし、製品とは直接関係のない廃液のことは眼中になかったのではないかと想像される。 第三章 【13】 欧州でアセトアルデヒド製造はどのように始められたか
1903年にドイツでアレクサンダー・ワッカー(Alexander Ritter von Wacker 1846-1922)が、ツァルツァッハ川流域のブルクハウゼンの森を工場用地として購入し、「コンソルティウム社」という化学会社を創業した。コンソルティウム社はカーバイドを製造した。「コンソルティウム」とは英語の「コンソーシアム」(企業合同体)のことである。ヨーロッパ各国の化学会社が共同出資する会社であった。
1914年ワッカーは、ブルクハウゼン工場をワッカー自らが経営する「ワッカー・ケミー社」(ドクター・アレクサンダー・ワッカー電気化学工業会社)として独立させた。 1916年にワッカー・ケミー社はアセトアルデヒドの量産を始め、同時に本社をミュンヘンに移した。当時ワッカー・ケミー社は工員約 400名と事務員約 50名を擁していた。
当時は世界市場でアセトアルデヒドは需要がひっ迫していた。それを製造する会社は少なかった。1917年にカナダではシャウイニガン化学会社がセントローレンス河畔でアセトアルデヒドの製造をはじめた。ドイツではヘキスト社が1917年にフランクフルトでアセトアルデヒドの製造をはじめた。ヘキスト社は1919年にナップサック工場でもアセトアルデヒドの製造をはじめた。
【14】 欧州の大学はどのように責任を果たしたか
ドイツで 1916年にワッカー・ケミー社が世界で最初にアセトアルデヒドを量産しはじめた。ワッカー・ケミー社では、アセトアルデヒドを製造するときに副生する有機水銀を含む透明な廃液と、アセチレンガスを製造するためにカーバイドに水を注いでできる白い排泥(はいでい)とを混ぜていた。
スイス・チューリヒ大学のハインリッヒ・ ツァンガー教授(Heinrich Zangger 1874-1957)は、その 1916年にワッカー・ケミー社に行き、その混合排泥に触れた従業員に「有機水銀」による「中枢神経障害」(ちゅうすうしんけいしょうがい)が起きていることを見出した。ツァンガー教授は、混合排泥を近くのザルツァッハ川に流さないように指導して、地中に埋めさせた。
疫学的調査がツァンガー教授とスイス・ブリークのダニエル・ポメッタ博士によって行われた。従業員の主な訴えは四肢の重苦しい感覚と疲労感、不整脈、頭痛、感覚の鈍り、目まい、吐き気、不定愁訴であった。
ヨーロッパでは、そのようにアセトアルデヒド製造の初期の段階で、会社も一般従業員も製造工程から生じる排泥が有機水銀を含み、中枢神経障害を起こすことを認識した。したがって、以後ヨーロッパでメチル水銀中毒は発生しなかった。 ワッカー・ケミー社における有機水銀中毒の発生は、ツァンガー教授によって後年『産業医学誌』(1930年)に「水銀中毒の経験」と題して報告されている 。以下その内容の抄訳を紹介する。
ツァンガー教授は廃液の化学分析を行ったわけではない。しかし、ツァンガー教授は「有機水銀」によって特有の「中枢神経障害」が起きることを知っていた。当時は前記『聖バーソロミュー病院報告書』(1865年 [4]、1866年 [5])や『化学ニュース』(1865年 [6]、1866年 [7])、「ヘップ論文」(1887年)[8]、「ニューランド論文」(1906年)[12] などの文献しかなかった。しかし、ツァンガー教授はそれらを読んでいた。それによってその偉業を達成したのである。
ワッカー・ケミー社の前身は前述したように「コンソルティウム」(英語のコンソーシアム 企業合同体)であった。ドイツ、スイス、フランスなどヨーロッパ各国の化学会社が共同出資して設立した会社であった。1914年にワッカー・ケミー社という一企業体となったが、従業員の地元における再就職も、また、母国の企業への帰任も、比較的自由であった。アセトアルデヒド工場の排泥に触れて有機水銀による中枢神経障害が起きたという事実は、以後ヨーロッパ各国に伝わった。水俣で日本窒素がメチル水銀廃液を海に流し始めるより 18年前のことであった。ワッカー・ケミー社は現在スペシャルティ化学製品の専門メーカーとして世界のリーダーとなっている。
第四章 【15】 なぜ仙台で事業を始めたか ♪ 広瀬川流れる岸部、想い出は帰らず (さとう宗幸『青葉城恋唄』 1978年)
広瀬川は、宮城県仙台市内を流れている。広瀬川に沿って市街地から少し離れた青葉区荒巻に「三居沢」(さんきょざわ)がある。そこでは、広瀬川は山間を蛇行している。落差が大きく、谷川のように流れが速い。
明治十二年(1879年) 一關(いちのせき)藩士であった菅克復(かんこくふく 1837-1913)は、この三居沢に紡績工場を創設した。「宮城紡績器械場」といった。紡績は明治日本の重要な産業であった。宮城紡績器械場は動力として四十馬力の水車を使った。 明治二十一年(1888年) 宮城紡績器械場はその水車に出力五キロワットの直流発電機を接続した。これによってアーク燈が灯されると「きつね火」が出たとして警官が出動する騒ぎとなった。かくして、三居沢は日本の「水力発電発祥の地」となった。 明治三十二年(1899年) 宮城紡績器械場は「宮城紡績電燈株式會社」と改称した。これが現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所(出力 1,000キロワット)の前身である。
日本窒素肥料株式會社の創業者となる野口遵(のぐちしたごう 1873-1944)は加賀藩士の家に生まれた。1896年に東京帝國大學工學部電氣工學科を卒業すると、ドイツ・シーメンス社の日本支社(東京)に就職した。
1900年 シーメンス日本支社は、宮城紡績電燈株式會社に出力 300キロワットの交流発電機を納入した。その発電機はシーメンス社とシュッケルト社が共同製作したものであった。そのときシーメンス社から宮城紡績電燈株式會社に納入業者として派遣されたのが野口遵である。 シーメンス社は、ウェルナー・フォン・ジーメンス( Werner von Siemens 1816-1892)が自励式交流発電機を発明して起業した電機会社である。シュッケルト社は、シグムント・シュッケルト(1846-1895)とアレクサンダー・ワッカーが共同で創業した電機会社であった。 野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーが「コンソルティウム社」という化学会社を創業し「カーバイド」を製造する計画であることを知った。
1902年に野口遵はシーメンス社を辞めると、ワッカーの計画に倣(なら)ってカーバイドの製造を始めた。以後、野口遵にとってドイツのワッカーは常に自らの仕事の鑑(かがみ)となった。
カーバイド工場は宮城紡績電燈株式會社の庭先にできた。製造は同社の主任技師の藤山常一と野口遵の二人で行った。商品名は「山三カーバイト」であった。 「山三カーバイト製造所」と同じ建屋の中にそれまでの製綿工場もあった。この「山三カーバイト製造所」が後の日本窒素肥料株式会社の前身である。三居沢は日本の「工業化学発祥の地」ともなった。 カーバイドの製造は首尾よくできたが、大量に製造するには三居澤の発電量では不足していた。カーバイドは依然として高価な輸入品であった。 【16】 なぜ水俣に進出したか
1905年に野口遵はベルリンにシーメンス社の重電機部門を訪ねた。その目的は水力発電機を購入することであった。すなわち、鹿兒島縣の川内川(せんだいがわ)で電力を起こし、近くの大口(おおくち)、牛尾、新牛尾の金鉱山に照明用の電力を送ることであった。それまで日本の鉱山では松明(たいまつ)が使われていた。
日本の西半分は、ドイツ・シーメンス社と米国・ウェスティングハウス社との協定で、米国標準の 60ヘルツの電力が供給されることになっていた。シーメンス社の発電機は、出力周波数がヨーロッパ標準の 50ヘルツである。しかし、野口遵はシーメンス社の 50ヘルツの発電機を購入した。 1906年10月1日に野口遵は二十萬圓(当時)を投じて川内川上流の「曾木(そぎ)の瀧」の少し下流にシーメンス社の設計になる「曾木第一水力發電所」を完成させた。「曾木第一水力發電所」は発電機を二基もっていたが、一基だけで出力が 800キロワットあり、国内で最大であった。 大口、牛尾、新牛尾の三鉱山では合計でも 200キロワットの電力しか消費しなかった。近隣地域の電燈としての消費分も合計で 600キロワットに及ばなかった。野口遵は電力を近くの熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)に送り、そこでカーバイドを製造することを計画した。それには原料である大量の石炭と石灰岩を陸揚げし、製品であるカーバイドを出荷するための港が必要であった。水俣村は、誘致のために専用港として梅戸湾を提供した。梅戸湾はリアス式の天然の良港であった。 【17】 なぜ「肥料会社」を名乗ったか 1908年4月 野口遵は、シーメンス社がカーバイドを原料として化学肥料である「石灰窒素」(CaCN2)を合成することに成功したと聞いてすぐにドイツへ渡航した。アドルフ・フランク(Adolf Frank 1834-1916)とニコデム・カロー(Nikodem Caro 1871-1935)がシーメンス社とドイツ銀行の資金でその技術を開発していた。それは、カーバイドを窒素ガス中に置いて電気炉の中で 1,000℃程度の高温で加熱すると石灰窒素ができるというものであった。石灰窒素はさらに高温の水蒸気と反応させるとアンモニアが発生する。アンモニアはさらに最先端の化学肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の原料となる。野口遵はフランクとカローに四十萬圓を支払って日本での実施権を購入した。1908年(明治四十一年)8月20日(木曜)に野口遵は百萬圓を投じて水俣村の古賀川河口に「日本窒素肥料株式會社」を設立した。大量の化学肥料を安価に供給して国家社会に貢献しようとするものであった。
1908年8月31日から日本窒素は石灰岩と石炭を原料として電力でこれを加熱し、カーバイドを製造した。従業員約七十名。月産約十五トンであった。原料の石灰石は水俣村周辺の不知火海沿岸で良質のものがとれた。また、石炭は水俣村の対岸の天草で「無煙炭」という良質の瀝青炭(れきせいたん)がとれた。
ヨーロッパではドイツのワッカーが コンソルティウム社を設立してカーバイドを製造していたが、日本窒素は、それに五年遅れて日本最大のカーバイド製造会社となった。
「私が(日本最初のカーバイド製造所がある)仙台からこちら(水俣)に来たのが明治四十年(1907年)でした。(カーバイド工場は)まだできていませんでした。(その翌年できたカーバイド工場の)場所は、今の(新日本窒素肥料株式会社)炭素工場です。こちらのカーバイドは立方(たちかた 性能)が悪くてよく売れなかった。(石炭ではなく)木炭でカーバイドを造っていました」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年) 日本窒素は、1908年11月にはフランク・カロー法によって化学肥料である石灰窒素の製造をはじめた。 「(石灰窒素の製造方法は)私もよく知らなかったのですが、社長(野口遵)がれんがを積んでいるので、何をしているのですかと聞いたら、窒素肥料を始める。原料はカーバイドだということでした」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年) 「(石灰窒素の製造は)カーバイドを粉砕して、直径三尺くらい、高さ一間くらいの釜の中に入れる。釜の形は茶壷のようでした。二重釜になっていまして、その周りにカーボンを入れて電気を通じる。約 24時間くらいして茶壷を上に引きあげるとできていました」(徳富季彦・元肥料係組長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年) 古賀川河口にできたカーバイド工場は、曾木發電所のようにれんが造りであった。一方、曾木の瀧の近くでは 1909年に第二發電所が竣工し、水俣工場に 6,000キロワットの電力を供給した。曾木發電所は、シーメンス社の交流発電機を用いていたので、その出力周波数は、現在の東日本と同じくヨーロッパ標準の 50ヘルツであった。以後、水俣工場、社宅、水光社(すいこうしゃ 1920年創業の水俣工場従業員の消費組合)、宮崎縣の延岡(のべおか)工場(現在の旭化成株式会社延岡工場)、附属病院(当時)などの施設は、西日本の米国標準 60ヘルツの世界にあって、一部は二十一世紀の現在に至るまで 50ヘルツの孤島をなしている。 野口遵は 1915年に水俣の広大な塩田跡地に新工場を建設し始めた。新工場は硫安を年間に五万トン製造するものであった。 1914年に勃発した第一次世界大戦で外国産の化学肥料の輸入が途絶えて硫安の価格は以前の 三倍に急騰した。日本窒素は好況の中で周辺の農漁村から安価な労働力を吸収し、1920年に従業員数は三千名近くとなった。周囲の農村は貧しかった。わずかな農地で細々と暮らしていた。日本窒素に臨時の工員として雇われた者でも「かいしゃ行き」として周囲の住民に羨望の眼で見られた。むらのむすこの採用が決まると家では赤飯を炊いた。 【18】 どのようにしてアジア最大の「総合化学会社」になっか 第一次世界大戦終結から間もない 1920年1月、野口遵はドイツへ渡航した。アドルフ・フランクを訪ねた。その目的はフランク・カローの石灰窒素製法の実施権の期限を延長するためであったが、真の目的はヨーロッパで新しい技術を物色することであった。野口遵はフランクからイタリアのルイギ・カザレー(Luigi Casale 1882-1927)が「アンモニア(NH3)の直接合成」に成功したと聞き及ぶ。「やはり戦争は技術を進歩させる」これが野口遵の感性であった。カザレーによる「アンモニアの直接合成」とは、文字どおり水素(H2)と窒素(N2)に高い圧力を加えてアンモニア(NH3)に変えてしまうという画期的な技術であった。アンモニアは硫安(硫酸アンモニウム)の原料である。それまで水俣工場では、アンモニアを製造するのに、まず石灰岩と石炭を電気炉で約 2,000℃で焼いてカーバイドを製造し、つぎにカーバイドを窒素中で約 1,000℃で焼いて石灰窒素を製造し、さらに石灰窒素を高温の水蒸気と反応させて製造していた。その全過程をすべて飛ばして水素(H2)と窒素(N2)を直接反応させてアンモニアを製造するのが「カザレー法」である。水素(H2)も窒素(N2)も日本にある。 野口遵はローマの約百キロメートル北のテルニー郡ネラ・モントロの町にカザレーを訪ねた。カザレーは野口遵を実験室に案内し、アンモニアの直接合成をやって見せた。巨大な圧縮機が回転した。当時の配管は貧弱であった。数百気圧の圧力がかかる。配管は何回か破裂した。しかし、カザレーは野口遵に少量のアンモニアを製造して見せた。「これはひょっとするとものになる」(野口遵)。野口遵はカザレーから技術を購入するためその場で十萬圓(当時)を支払い、後日九十萬圓を支払って「カザレーのアンモニア直接合成法」の実施権を購入した。 1923年9月 野口遵は宮崎縣の延岡町(当時)に日本窒素肥料株式會社延岡工場を建設し、カザレー法によるアンモニアの直接合成の実験を始めた。それが現在の旭化成株式会社の前身である。 1926年12月25日 野口遵は水俣工場でカザレー法による本格的なアンモニアの直接製造装置を完成させた。アンモニアの収量は日産二十トンであった。装置は東京高等工業學校(現在の東京科学大学)を卒業したばかりの橋本彦七が設計した。それは、いきなり製造装置をつくって本番稼働させるもので、「日窒方式」(にっちつほうしき)と呼ばれた。圧縮機が回転すると 800気圧もの高圧が加わる。当時の日本にそれだけの高圧に耐える配管などは存在しなかった。イタリアからカザレーが水俣に技術指導に来たが、カザレーもイタリアの研究室での経験しかなかった。水俣工場では頻繁に爆発事故が起きた。一瞬にして工場の屋根ガラスを吹き飛ばすこともあった。周囲の人びとは果たして町が吹き飛ぶのではないかと恐れた。 日本窒素は、これによって多種類の製品を出荷するようになった。アンモニアは硫安の原料になった。硝酸、ニトログリセリン、レーヨンの原料にもなった。日本窒素は五ヶ瀬川、阿蘇白川などにも発電所を建設し、1928年に総発電量は五十万キロワットとなっていた [14]。
1926年 野口遵は朝鮮半島に「朝鮮水力電氣株式會社」を設立した。翌 1927年に「朝鮮窒素肥料株式會社」を設立した。野口遵は、大日本帝國朝鮮總督府の庇護のもとで、鴨綠江水系に赴戰江發電所など大規模な発電所をいくつも建設する。赴戰江の水を落差 1キロメートルで日本海側へ落とした。そのようにして二十万キロワットの電力を起こした。また、世界一を誇るソ連のドニエプル発電所を凌駕して出力三十二万キロワットの長津江發電所を完成した。また、咸鏡(ハムギョン)南道の興南(こうなん)に巨大な電気化学工業コンビナートを造成した。土地の買収は日本の憲兵が立会って強制的に行われた。敷地の広さは約五百万坪、従業員数は約 4万5千名であった。興南工場では硫安などの化学肥料、化学薬品、人造絹糸などが製造された。住宅、病院、学校、郵便局、警察署、火葬場なども建設された。興南には人口 18万人のアジア最大の化学工業都市が出現した [14,15,23]。
【19】 なぜ「アセトアルデヒド」を製造したか 1914年 ドイツのワッカーはカーバイドを製造していたコンソルティウム社をワッカー自らが経営する「ワッカー・ケミー社」(ドクター・アレクサンダー・ワッカー電気化学工業会社)として独立させた。1916年にワッカー・ケミー社はアセトアルデヒドの製造を始めた。アセトアルデヒドの製造実験は、宮崎縣の日本窒素延岡工場(現在の旭化成延岡工場)で行われた。延岡工場では実験室で日産 20~30グラムのアセトアルデヒドを製造した。一方、水俣工場では、カザレー式のアンモニアの直接合成が成功し、アンモニアの原料としてのカーバイドが大量に余っていた。 そのころの日本は「國家総動員體制」を強化して、ひたすら戦争に向けて突き進んでいた。その背景には、第一次世界大戦の戦訓から、戦争における勝利は、国家が総力戦の体制をとることが必須であるという認識が深まりつつあった。1918年に「軍需工業動員法」が制定された。それによって戦時下における軍需工場の管理、収用と労働者の徴用、平時の工場調査と軍需工業の保護育成が規定された。その統轄のために内閣総理大臣のもとに「軍需局」がおかれた。アセトアルデヒドは重要な軍需物資であった。 1928年日本窒素は水俣工場の中に水銀を触媒とするアセトアルデヒドの試験工場(パイロットプラント)をつくった。工場はくり返し爆発し、何年も稼働するに至らなかった。そのような工場にも一銭五厘の葉書一枚で地域から多くの工員が集まった。地域には他に目ぼしい産業はなく、何十倍もの就職志願者が応募した。工員は採用面接のとき製造課長の橋本彦七から「爆発してよいか、死んでもよいか」と聞かれて「死を覚悟している」と答えた志願者が採用された。日本人の命の値段は安かった。お國のためならただ同然であった。 1932年5月7日(土)に日本窒素はアセトアルデヒドの製造を始めた。メチル水銀廃液は水俣灣へ直接流れた。 アセトアルデヒドの第一期の製造設備は日産 5トン、第二期の製造設備(1933年4月稼働)も日産 5トン、第三期の製造設備(1934年10月稼働)も日産 5トン、第四期の製造設備(1935年9月稼働)も日産 5トン、第五期の製造設備(1937年4月稼働開始)は日産 10トンであった。 製造設備は、これもいきなり本番稼働のもので、労働災害は頻発した。従業員はいつも爆弾の上に乗っていると感じていた。 日本窒素はこのアセトアルデヒド事業を足がかりに、第二次世界大戦前に総資産で現在の評価額約 50兆円の大会社として発展していく。北朝鮮の興南工場でもアセトアルデヒドが製造された。 「日本窒素の如き大工場設備は、如何に政府の力をもってしても、戰爭が始まったからといって一朝一夕につくることはできない。假に建物や機械ができたとしても、これに生命を與ふべき技術經験等の人的資源はこれを如何ともすることができない。聖戰下における日本窒素はいまや一營利會社としてこれを見るべきでなく、一大總合國策會社といふべきであらう」(『日本窒素肥料株式會社事業槪要』1940年 [15]) 日本窒素はその間に、宮崎縣の延岡工場(現在の旭化成延岡工場)、朝鮮の鴨綠江河畔の朝鮮窒素肥料株式會社などを含めると、従業員の数は 8万人に達し、化学会社の規模としてアジア最大の地位を築く。 1941年に水俣工場は、日本で最初に塩化ビニールの製造をはじめた。塩化ビニールの可塑剤の原料として大量のアセトアルデヒドが必要になった。その製造の過程でさらに大量のメチル水銀が水俣灣に流れ込んで行った。 【20】 欧米のアセトアルデヒド製造と明暗を分けたのは何か ドイツのワッカー・ケミー社・ブルクハウゼン工場は、ドイツとオーストリアの国境に位置する。工場のすぐ南に接してツァルツァッハ川が流れており、この川が国境である。同社は、前記したように、メチル水銀を含む透明な「アセトアルデヒド製造廃液」とカーバイドに水を加えてアセチレンガスを発生させた「白いカーバイド排泥」をいずれも廃棄物として混ぜていた。それゆえに、スラッジに触れた従業員がメチル水銀中毒を発症した。白いスラッジはツァルツァッハ川に流されることはなく、地下に埋められた。
地下のスラッジは、現在もメチル水銀を保有している。メチル水銀は、地下水によって地中を流れて拡散するが、地下がメチル水銀によって汚染される範囲は限られている。メチル水銀が地下からツァルツァッハ川に流れ出る量も周辺地域でメチル水銀中毒をひき起こすほどではなかった。カナダのシャウイニガン化学会社でも、ドイツのヘキスト社でも、メチル水銀を含むカーバイド排泥は地中に埋められた。それゆえに、欧米でメチル水銀中毒は発生しなかった。
一方、日本窒素の水俣工場内でもアセチレンガス発生工場とアセトアルデヒド製造工場とは隣接していた。アセチレンガスを発生させた白いカーバイド排泥は「白どべ」と呼ばれ、初期はトロッコで後に配管で工場から北へ約 1キロメートル離れた「八幡プール」という人工の池に運ばれて貯められた。八幡プールは現在は土で覆われて整地されている。その地下には「白どべ」があるわけであるが、この「白どべ」はメチル水銀を含まない。一方、メチル水銀を含む透明な「アセトアルデヒド製造廃液」は、水俣工場の側溝を通して「水俣湾」に放流された。せっかくアセチレンガス発生工場とアセトアルデヒド製造工場とが隣接していたのであるから、仮に「アセトアルデヒド製造廃液」と「白どべ」が混ぜられて「八幡プール」に貯められていたら、メチル水銀中毒は発生しなかったであろう。 【21】 なぜ「アセトアルデヒド」の製造を直ちにやめなかったか 戦後の 1950年1月31日に日本窒素は財閥解体によって資本金四億円の新日本窒素肥料株式会社として再発足することになった。そのとき海外や延岡工場(現在の旭化成延岡工場)を含めた総資産の八割を失った。しかし、同年に勃発した朝鮮戦争による特需が追い風となって復興が進んだ。1952年に生産を開始したオクタノールは需給がひっ迫した。以後、新日本窒素は十年間にわたって国内のオクタノール市場をほぼ完全に独占した。仮に新日本窒素によるオクタノールの供給が停止するとわが国の繊維産業などは立ちゆかない。戦後の荒廃からようやく立ち直って少しずつ成長をはじめた日本の産業にとってそれは大きな打撃となる。深刻な経済恐慌さえも起こりかねない。当時日本の経済はひ弱であった。オクタノールを製造するにはその原料であるアセトアルデヒドが必要であった。アセトアルデヒドの製造は、新日本窒素にとって、また、日本国政府にとって、なくてはならない事業であった。 日本国政府は、その一方で、1955年から化学工業の分野で「石油化学工業第一期計画」を立てて具体化をはかっていた。アセトアルデヒドは、石油化学工業の一環としてエチレンを酸化して製造できる。日本の化学産業を石油化学化しなければ、将来日本経済が発展することはない。 1956年5月1日 水俣湾周辺に原因不明の「奇病患者」が存在することが熊本県水俣保健所によって確認された。 1957年5月に水俣工場内にも「社内研究班」が設置された。研究組織は次のように分担された [30]。
1958年 入江寛二水俣工場肥料部長は西田栄一工場長に対して「今の工場の姿勢は適当ではない。大学等研究機関と積極的に手を組んで原因究明に立ち向かうべきではないか」と尋ねた。西田栄一は「工場に原因があるなどという立証は誰にも出来ない、裁判になっても、七年も八年もかかって結局決着はつかないのが落ちである」と答えた [24]。 当時通商産業省から経済企画庁水質保全課に出向していた汲田卓蔵は通産省官房に対して「とめたほうがよいのではないですか」と尋ねた。通産省官房は「何言ってるんだ。今とめてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら、日本の高度成長はあり得ない。ストップなんてことにならんようにせい」と答えた [24]。 1959年 新居浜、岩国、四日市、川崎に日本国政府主導の四つのナフサセンターが稼働した。日本国政府主導のこの石油化学事業は、将来は水銀とアセチレンを用いた新日本窒素の旧式な化学工業よりも圧倒的に有利となることが分かっていた。 1959年10月6日に細川一は水俣工場のアセトアルデヒド蒸留塔の廃液をエサに混ぜて「ネコ400号」に投与して発症させた。しかし、細川一が独断で行った実験であったので、「社内研究班」にも上がらなかった。工場内で細川一以外に「ネコ400号実験」のことを知ったのは技術部次長の市川正だけであった [30]。 1961年10月20日から水俣工場内で「社内研究班」による極秘実験として「ネコ400号実験」の再実験が行われた。アセトアルデヒド蒸留塔の廃液をネコに投与した。ネコは確かに発症した [30]。1962年に細川一は附属病院を辞めて帰郷(愛媛県)した。当時の「実験台帳」は細川一がこの時にもち出して現存する。 果たして、当時原因物質を解明する「手立て」は眼の前にいる「ネコ」だけだったのであろうか? 当時日本の誰かが、「メチル水銀中毒」が 1865年にロンドンで発見されていたことに思いをいたすことはなかったのであろうか? 当時日本の誰かが、アセトアルデヒドの製造工程で「有機水銀」が副生することが 1921に米国のノートルダム大学で発見されていてそれが日本でも(ネコの実験をしなくても)国内の雑誌などで周知となっていたことに思いをいたすことはなかったのであろうか? 1965年 新日本窒素肥料株式会社は「チッソ株式会社」に社名を変更した。 日本国政府は、石油化学工業が本格的に稼働する 1968年までの間にわが国の経済成長を維持するため、チッソ水俣工場に、たとえ周辺地域にメチル水銀中毒患者が多発することが分かっていても、水銀とアセチレンを用いた旧式の方法によってアセトアルデヒドを継続して製造させた。 メチル水銀は 1968年5月18日(土)まで水俣湾に流された。これが、日本国政府にとってチッソ水俣工場のアセトアルデヒドが「もう用なし」となった日である。 第五章 【22】 欧米ではどのように定義されたか
1937年にイギリスの種子処理工場でメチル水銀中毒の重篤な四症例が発生した。D. ハンター、R. ボンフォード、D. ラッセルの三名はその四症例について、1940年に『医学四半期報』の中で「メチル水銀化合物による中毒」と題して論文 [16] を発表した。ハンター等三名は、その第一頁に『聖バーソロミュー病院報告書』 [2,4] の内容を改めて具体的に紹介した。また、ヘップ論文 [7] を紹介した。その上で重症の四症例には共通して運動失調、構音障害(ディサースリア dysarthria)、視野狭窄の症状があると報告した。
ただし、ハンター等三名は「三主徴」(さんしゅちょう trias)という言葉を用いなかった。
ハンター等三名は、種子処理工場で起きたメチル水銀中毒の症状は、聖バーソロミュー病院で 1865年に見出されたメチル水銀中毒の症状と幾つかの点で同じであると述べている("The illness of these men was in some ways comparable to that of the two technicians who died at St. Bartholomew's Hospital.")[16]。
上記ハンター等三名の論文の冒頭にある「1863年に化学の研究に用いられ」とはフランクランド等による原子価決定のための研究 [1] のことである。「1887年に治療に用いられ」とはヘップによる梅毒の治験(猛毒のため失敗) [7] のことである。「1914年に種子処理剤の製造に用いられ」とは、ドイツで開発され、その後バイエル社より発売された穀物種子のカビ防止剤「ウスプルン」(商品名)のことである。
ハンター等三名の論文で報告された四名の患者のうちの一人が、発症後 15年経って 1952年12月14日に肺炎で死亡した。その 22時間後に剖検が行われた。大小脳の局所萎縮(きょくしょいしゅく)、顆粒細胞層(かりゅうさいぼうそう)の喪失(そうしつ)などが見られた。ハンターとラッセルはその解剖学上の所見について「有機水銀化合物によるヒトの大小脳の局所委縮」と題して論文(1954年)を発表した [17]。
ドイツ・ベルリンのシュプリンガー・フェアラーク社(Springer-Verlag)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて『病理学的解剖学及び組織学各論ハンドブック』 (Handbuch der speziellen pathologischen Anatomie und Histologie)を刊行した。ハンドブックといっても 10巻以上ある。また、それぞれの巻が幾冊かの号に分かれている。当時ドイツ語で書かれたそのハンドブックは病理学的解剖学及び組織学の分野の大著であった。
ブルガリア国ソフィア市のアンゲル・ペンチュウ博士(Herr Professor Dr. Angel Pentschew)は、前記ハンドブックの第 13巻として 1958年に出版された『中枢神経障害』(Erkrankungen des zentralen Nervensystems)の『2B号』という分冊の『中毒』(Intoxikationen) の章を執筆した [20]。
筆者(入口紀男)は熊本大学附属図書館に所蔵されているその『2B号』を読んだが、製本されたその一冊(2B号)だけでも、両手でかかえてずっしりと重い。その中で A. ペンチュウの『中毒』の章は約 600頁の分量がある。筆者以外にこの本を借り出した記録はないようである。果たしてこの本は、附属図書館に収蔵されてからいったいどれだけの人に読まれたのであろうか。
ペンチュウは『中毒』の章を執筆したとき、ブルガリアから米国ワシントン市に移住していた。ペンチュウは、前記ハンター、ボンフォード、ラッセル三名の 1940年の論文 [16] と、ハンターとラッセル二名の 1954年の論文 [17] を引用して紹介した。 ペンチュウは、その中で、ドロシー・ラッセル教授と個人的に相談した上で(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel)、死後の解剖によって発見された、メチル水銀による大小脳の局所萎縮、顆粒細胞層の破壊などの病理学上の「組織所見」について「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名すると記述した [20]。 下記に、A. ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)の章 [20] を邦訳して掲載する。
以上申し述べたように、「ハンター・ラッセル症候群」とは、メチル水銀中毒患者の死後に脳を解剖して確認される「大小脳の局所萎縮」、「顆粒細胞層の喪失」などの「病理所見」のことである。生前の重症患者にみられる「運動失調」「構音障害」「視野狭窄」のような臨床所見のことではない。
【23】 日本ではどのように定義されたか 前記ハンター等の二つの論文 [16,17] は定期刊行物であり、当時東京大学附属図書館など国内の 20以上の図書館で逐次購入され、収蔵された。1956年5月1日に水俣市で「奇病」が確認されると、8月14日に「水俣市奇病対策委員会」は熊本大学医学部に原因究明を依頼した。8月24日に熊本大学医学部において、内科、小児科、病理、微生物、公衆衛生の各教室からなる「医学部水俣奇病研究班」が組織された。衛生学教室も加わった。 当時、熊本大学の研究班は教室ごとに研究を行い、それぞれが原因物質解明の一番乗りを競うものであったことが知られている。 1957年に熊本大学の内科学の徳臣晴比古(とくおみはるひこ)助教授は、東京に出張したとき、日本橋の本屋で米国の エッティンゲン(Wolfgang Felix von Oettingen)が著した『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』 [18] を購入した。その本の中に視野狭窄、運動失調などをもたらす中毒として、ハンター等三名の論文 [16] が引用されていることを知り、有機水銀に疑いをもった。徳臣助教授は東京大学からハンター等三名による論文 [16] を取り寄せた。また、それに関連して後にハンターとラッセルの論文 [17] を取り寄せた。しかし、徳臣助教授は、有機水銀に確信をもつには至らなかった。 1958年10月21日に新日本窒素肥料株式会社の西田栄一水俣工場長は熊本大学に鰐淵健之(わにぶちけんし)学長を訪ね、熊本大学が「奇病」の原因を究明していることに対して、文部省当局が「政治問題化」することを懸念している(ので究明をやめろ)と申し入れた。 1958年に熊本大学の病理学の武内忠男(たけうちただお)教授は、ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)[20] の刊行を広告で知り、それをドイツから取り寄せた。武内教授は、その中に、ハンター等三名の 1940年の論文 [16] が紹介され、イギリスの種子処理工場で起きた四例の重篤な患者に運動失調と視野狭窄、Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)の症状が共通してあったと記述されていることに着目した。また、ハンターとラッセルの 1954年の論文 [17] から転載された病理所見(剖検の記録)が、水俣市から送られて劇症で死亡した患者の脳の病理所見(局所大小脳萎縮、顆粒細胞層破壊など)と共通していることに着目した。また、「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)という何らかの症候群名が書かれていることに着目した。 メチル水銀中毒では、重症であれ、比較的軽症であれ、生前に感覚の鈍り(感覚障害)が発現する。当時、病理学者の武内教授の手に渡されたものは、重症で死亡した患者の生前のカルテと遺体であった。水俣の現地には感覚の鈍り(感覚障害)などを訴える多数の患者がいたが、逆に大学のほうから現地に出向いてフィールドワークを行うなど、科学的な検証が行われることはなかった。武内教授が描いた病像は、実態とは異なっていた。 1959年7月22日に熊本大学の研究者は医学部講堂で「水俣病研究報告会」を開き、「水俣病の原因物質はある種の水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と発表した。その発表の内容は1959年8月20日に「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」[9] として刊行された。その中で武内教授は次のように述べている。
武内忠男教授は、前記のとおり「有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)がある」と述べた。武内教授のこの発表は、原因物質として清浦雷作の「アミン説」など様ざまな異説が横行する中で、有機水銀を特定するに至ったた歴史的価値をもつ発表である。また、これが、わが国で「ハンター・ラッセル症候群」という呼称が一般に用いられるようになった原点である。
しかしながら、A. ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)[20] の中に「三主徴」(ドイツ語で Trias)に関する記述はない。また、「ハンター・ラッセル症候群」として Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)を特定する記述はない。それより、ハンターとラッセルは 1954年の論文 [18] で、患者に生前「感覚障害」(二点法)があったことをくり返し述べている。武内教授は A. ペンチュウの『中毒』の字面を「見た」のではあろうが、内容を「読まない」で自らの「憶測」をそれに重ねてしまったようである。 武内教授は、A. ペンチュウについて「米国 NIH(National Institutes of Health)の神経病理学者である」と紹介した記録が残っている(テープからの書き起こし)。NIHは米国ワシントン市の近くにある国立の研究所である。筆者(入口紀男)は若いころ NIHに在籍したことがあるが、A. ペンチュウが NIHに在籍した事実はない。A. ペンチュウは、『中毒』(Intoxikationen)[8] を執筆したころ、ワシントン市の軍事病理学研究所(Armed Forces Institute of Phathology)に所属していた。武内教授は、そこでも事実を知らないで自らの憶測をそれに重ねている。 以上申し述べたように、日本では「メチル水銀中毒」は「運動失調」「構音障害」「視野狭窄」の三つの症状を呈するものと定義された。 【24】 メチル水銀中毒の定義に苦しむ日本社会 1959年10月6日に熊本大学は、有機水銀説について、熊本県に対して改めて鰐淵健之学長が報告書を提出した。その報告書は、熊本県衛生部より『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』と題して1960年3月に公表された [22]。以下その一部(第35頁)を掲載する。
徳臣晴比古助教授も、上記のとおり、「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを「Hunter Russelis Syndrom」(ハンター・ラッセル症候群)と報告した(Russelis の表記は Russelsches の誤り)。徳臣助教授も、死後の「解剖所見」である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の「臨床所見」としてそのまま取り違えた。
熊本大学は「ハンター・ラッセル症候群」によって「奇病」の原因物質を「有機水銀」であると公表することができた。有機水銀に想到できたことが「てがら」にもなった。水俣市で見つかった有機水銀中毒症が、あたかも日本窒素が有機水銀を流しはじめた 1932年よりも新しく 1937年にイギリスの種子処理工場で発見された中毒症であるかのように発表することによって、西田栄一のいう「政治問題化」も避けられた。しかし、メチル水銀中毒が 1865年に聖バーソロミュー病院で見出されていた事実に触れることは、そのときからタブー(禁忌)となった。 徳臣助教授が「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを「ハンター・ラッセル症候群」と報告したとき、徳臣助教授は、水俣市から研究対象として大学に送られたわずか 34名の患者しか診ていなかった。それらの患者は、小脳性失調、視野狭窄などを発現した重篤な患者だけであった。水俣の現地で感覚の鈍り(感覚障害)を訴える大部分の患者について科学的検証としての確認(フィールドワーク)といえるものは行われなかった。したがって、徳臣助教授が描いた病像は実態とは異なっていた。 1970年2月1日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行された。その特措法に基づいて「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」が設定され、徳臣晴比古教授が会長に選任された。 1971年8月7日に、そのころ新設された環境庁より審査会に対して「事務次官通知」が送達された。それは、求心性視野狭窄と運動失調(言語障害、歩行障害を含む)、難聴、知覚障害のうち、いずれかの障害がある場合において、有機水銀の影響を否定しえない場合は、これを水俣病の範囲に含むというものであった。「事務次官通知」は、熊本大学の「有機水銀説」に依拠し、かつ熊本大学の「ハンター・ラッセル症候群」を参照して策定されていたもので、「いずれかの障害がある場合において」としていた。当時審査会長となっていた徳臣教授は、「ハンター・ラッセル症候群」を「金科玉条」とし、複数の症状が組み合わされていなければ「ハンター・ラッセル症候群」すなわちメチル水銀中毒の生前の症状ではないとして、前記「事務次官通知」を拒否した。徳臣教授は、「この環境事務次官通知は、誰が何を根拠に何を目的に発令したかわからないが、水俣病患者を一度も診察したこともなく、神経病理学、内科学の研鑽の実績があるとも思われない者が、よくこのような診断基準が出せるものだと驚き、かつ憤慨した。審査会委員のうち、実際に診療に携わっていた者十一人中七人は、同年九月三日の審査会で沢田一精県知事に辞表を提出した」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。 徳臣教授は、A. ペンチュウの『中毒』(Intokikationen)[20] を改めて読み返してみることをしなかったのであろうか? A. ペンチュウが「三主徴」(Trias)という言葉を一か所も用いていないことに気がつくことはなかったのであろうか? 徳臣教授は、A. ペンチュウが小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」と呼んで「いない」ことに気がつくことはなかったのであろうか? この「ハンター・ラッセル症候群」の誤った定義は、その後メチル水銀中毒を最初からなかったことにしたい行政機関にとって、真正の患者を切り棄てるための「錦の御旗」と化した。膨大な数の患者が補償されることなく切り捨てられていく。 次は、拙著からの引用である。
あとがき 北太平洋全域のメチル水銀濃度が過去 100年間で約 10倍高くなっている [29]。産業革命以来世界中で石炭が大量に焚かれるようになったからである。石炭 1トンには太古の水銀約 250ミリグラムが含まれている。石炭に含まれる水銀は約 357 ℃で沸騰して水銀蒸気となる。この水銀蒸気は上空で冷えて金属水銀となり、雨滴とともに陸上や海上に降ってくる。それを微生物がメチル水銀に変える。その結果、現在北太平洋で獲れて国内で流通する魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は極めて高く、 2004年の測定データ(魚介類 1キログラムのメチル水銀値平均 0.14ミリグラム)が最後であるが [25]、それから 20年以上経った現在は、1キログラムあたり平均 0.2ミリグラムに近いと推定される。これはメチル水銀中毒が起き始めた初期(1940年頃)の水俣湾のレベルに近い。かつて魚介類を多く食べる国民ほど長生きし、また、胎児も成長する傾向にあると考えられていた。魚介類には、PUFA(多価不飽和脂肪酸)といって、 DHA(ドコサヘキサエン酸)や EPA(エイコサペンタエン酸)などの重要な栄養素が含まれているからであった。妊婦が魚介類を食べると胎芽や胎児の脳は良く発達すると期待されていた。しかし、現在市場に出回っている魚介類には PUFAなどが含まれているという利点はあるものの、メチル水銀があまりにも多量に含まれるようになっている。 米国政府はメチル水銀を国民の「核」に次ぐ脅威と位置付けている。メチル水銀のヒトへの侵入源は主に魚介類である。メチル水銀の致死量は 2.9ミリグラムであるが、たとえば、マグロでは 100グラムあたり 1~ 2ミリグラムも含まれていることがある。死ななくても自覚されにくい後遺症が残る。米国では、魚介類(ぎょかいるい)のメチル水銀に対して厳しい「摂食量規制値」を設けている。米国では誰も一週間に体重 1キログラムあたりメチル水銀を「 0.7マイクログラム」までしか食べてはならない。米国はそのように定めている。コンビニエンス・ストアや郵便局などにも魚食に注意を払うように魚介類のメチル水銀量などの政府のチラシが置かれている。 それでも、米国の妊娠可能な女性の血中総水銀濃度が高いトップ 10パーセントの女性から生まれる子供の約 10パーセント(毎年約 4万人)が「学習障害」(LD)を発症する。学習障害は胎児期に脳細胞が受けた障害によって起きる。家庭環境や学習環境によって起きるものではないことが知られている。現在の米国の総人口の約 1パーセント(約 300万人)がそのような胎児性メチル水銀中毒の患者であると推定される。わが国にそのような調査結果はない。 わが国では、魚介類がもたらすメチル水銀中毒に対して「あれは水俣の水俣病」としたうえで、無策を貫いている [29]。わが国では「ハンター・ラッセル症候群」として重篤な「運動失調」「構音障害」「視野狭窄」の「三主徴」がそろっていなければ、メチル水銀中毒の患者として公的に認定されたり補償されたりすることはない。しかし、工場排水によって汚染された魚介類による感覚障害などは、「メチル水銀中毒」ではあっても「水俣病」とは見なされないので、救済されることはない。これは、日本全国で数十万人に及ぶのではないかと筆者は見ている。また、近年多くの人が北太平洋の魚介類によってひき起こされた胎児性の学習障害、あるいは、後天的な高次脳機能障害などに苦しんでいる可能性は高い。筆者はこれを 1865年(日本の幕末)のロンドンに始まった「メチル水銀中毒」と見ており、日本全国で百万人を超えるのではないかと見ている。 引用文献
メチル水銀中毒史年表
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