メチル水銀中毒小史   




入口紀男

メール


はじめに


「水俣病」は、病名ではなく「社会的概念」である(W.H.O.の見解)。正しい病名は「メチル水銀中毒」である。このことは水俣でも、日本全体でも、誰もが分かっているが、「水俣病」が「メチル水銀中毒」と呼ばれることはない。なぜであろうか?
 メチル水銀が「水俣病」の原因物質であることは 1959年から分かっていた [21]。新聞報道でも繰り返し取り上げられた。しかし、新日本窒素はその後も九年間、実に 1968年までアセトアルデヒドを製造してメチル水銀を海に流し続けた。その理由は、戦争の焼け跡からようやく経済復興を始めた当時の日本は、「チッソが、これだけの産業が止まったら、日本の高度成長はあり得ない」という「空気」に覆われていたからである [24]。日本では、周囲の空気を読んで間違った方向に進んでいることが分かっていても、声をあげられない。この「空気」は世界に類を見ない強大な「妖怪」である。
 現在「水俣病」が「メチル水銀中毒」と呼ばれない理由も、水俣が、あるいは、日本全体が「水俣病」と呼んで「メチル水銀中毒」と呼ばない「空気」に覆われているからである。
 しかし、「妖怪」は常に変化(へんげ)している。筆者は 2021年に『水俣病は差別用語』(自由塾)という本を出したが、それは、そのような「社会運動」をするためではなく、この社会に「不変の純粋な知識」として目立たない形で挿入しておくためであった。すなわち、今から百年後に各地の図書館に残っていて、前記の「空気」が雲散霧消して跡形もなく消えてなくなったころに、読まれ始めることを目的としている。
 この本『メチル水銀中毒小史』も、「水俣病」がやがてこの世界を通り過ぎて行き、いつか人びとが、あれは一体何だったのだろうかと「基本」に立ち帰って考え始めるときが来る。そのために今から提供しておく「不変の純粋な知識」である。  




目次

はじめに



第一章
メチル水銀中毒の発見

   【】 メチル水銀はいつどこで発見されたか
   【】 メチル水銀は何のために製造されたか
   【】 メチル水銀中毒はいつどこで発見されたか
   【】 メチル水銀中毒はヨーロッパ社会をどう動かしたか
   【】 メチル水銀中毒の発見はいつ日本に伝わったか

第二章
メチル水銀「副生」の発見

   【】 アセトアルデヒドの製法はいつ発明されたか
   【】 アセチレンの大量製法はいつ発明されたか
   【】 有機水銀副生の「可能性」はいつ示唆されたか
   【】 有機水銀副生の「可能性」はいつ日本に伝わったか
   【10】 有機水銀副生の「事実」はいつ確認されたか
   【11】 有機水銀副生の「事実」はいつ日本で周知となったか
   【12】 メチル水銀はいつから水俣湾に流されたか

第三章
日本窒素肥料株式会社によるアセトアルデヒド製造

   【13】 なぜ仙台で事業を始めたか
   【14】 なぜ水俣に進出したか
   【15】 なぜ「肥料会社」を名乗ったか
   【16】 どのようにしてアジア最大の「総合化学会社」になったか
   【17】 なぜ「アセトアルデヒド」を製造したか
   【18】 なぜ「アセトアルデヒド」の製造を直ちにやめなかったか

第四章
「ハンター・ラッセル症候群」

   【19】 欧米ではどう定義されたか
   【20】 日本ではどう定義されたか
   【21】 メチル水銀中毒の定義に苦しむ日本社会

付録
映画 MINAMATA


引用文献







第一章

メチル水銀中毒の発見


【1】 メチル水銀はいつどこで発見されたか

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01

   ジョージ・バックトン
  George B. Buckton 1818-1905
  メチル水銀の物質としての発見者


   
 メチル水銀は有機水銀の一種である。「メチル水銀」という言葉は、単一の物質の名称ではない。それは、水銀(Hg)に「メチル基」(-CH3)という原子団が結びついた化合物の総称である。毒性がきわめて強いことで知られる。物質としては安定していて分解されにくい。自然界で生物の体内にとり込まれやすい。
 ジョージ・バックトン(George B. Buckton)は、ロンドンの王立化学大学(Royal College of Chemistry)でアウグスト・ホフマン教授(1818-1892)の助手をつとめていた。1858年(日本では安政五年の幕末)、バックトンは史上初めて「ジメチル水銀」(CH3-Hg-CH3)を合成する。ジメチル水銀はメチル水銀の一種である。したがって、これがメチル水銀の発見であった。
 ジメチル水銀はメチル基(-CH3)を二つもつ無色透明な液体である。一方、単に「メチル水銀」とは、「モノメチル水銀」といって水俣湾周辺でメチル水銀中毒をひき起こした「塩化メチル水銀」CH3-Hg-Cl や「水酸化メチル水銀」CH3-Hg-OH など、メチル基(-CH3)を一つだけもつものを指すことも多い。


【2】 メチル水銀は何のために製造されたか

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01

  エドワード・フランクランド
 Sir Edward Frankland 1825-1899
 聖バーソロミュー病院医科大学教授


  
 1852年(日本では嘉永五年)、英国オーウェン大学の初代化学教授エドワード・フランクランド(Edward Frankland)は「原子価」(げんしか)の概念を発表した。フランクランドは当時のイギリスを代表する化学者の一人である。弱冠 27歳であった。「原子価」の概念とは、「原子はあらかじめ決まった数の結合しかつくることができない」というものである。現在の日本の高校生もこれを「化学」の授業で学ぶ。
 1858年にメチル水銀が発見されると、フランクランドは、メチル水銀が金属の原子価を決定するのにきわめて役立つことを知った。
 1859年フランクランド(34歳)は、ロンドンの聖バーソロミューの病院(Saint Bartholomew' s Hospital)に併設された医科大学に移って研究を続けた。聖バーソロミュー病院は、十二使徒の一人の名を冠した病院であり、1123年に創立されたロンドン最古の病院である。テームズ河北側のスミスフィールドにあり、現在も「バーツ」(Bart's)の愛称で親しまれている。イギリス屈指の名門病院である。

44

             聖バーソロミュー病院 (19世紀)


  
   
 1863年にフランクランドはメチル水銀の製造方法を確立した [1]。フランクランドが製造したメチル水銀は、タマゴが腐ったような、いやなにおいがする油性の液体であった。フランクランドは『ワットの化学事典』(Watt’s Dictionary of Chemistry, MacMillan, London 1882年)の中に、メチル水銀について「眼が回ってむかつくような味がする(‐faint but mawkish‐)」と記載した。

03

      ウィリアム・オッドリング
      William Odling 1829-1921
    聖バーソロミュー病院医科大学教授


  
 当時の日本は文久三年であり、「德川家茂」「新撰組」「薩英戦争」の時代であった。
 フランクランドは、化学の教授職を同大学講師のウィリアム・オッドリング(William Odling)に引き継いで、自らは英国王立研究所 (The Royal Institution of Great Britain)の教授に就任した。オッドリングは、後年ロシアのメンデレーエフ、ドイツのマイヤーと並んで七行からなる元素の周期律表を確立した、これも当時のイギリスを代表する化学者の一人である。
 なお、1865年にオッドリングの妹メアリー(Mary Ann Odling)は、メチル水銀発見のバックトン(前出)と結婚した。





【3】 メチル水銀中毒はいつどこで発見されたか

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 メチル水銀は、たとえ微量であっても、脳の細胞組織をその量に応じて破壊する。その結果、重篤(じゅうとく)な場合は、感覚のにぶり(障害)、筆記障害その他の運動障害、視覚障害、聴覚障害、発音の障害、四肢の一部や舌・口周のしびれなどが起きる。ヒトの脳には「脳血管障壁」(のうけっかんしょうへき。BBB)というバリアがある。体外から侵入した有害な物質は、そのバリアによって脳の中に侵入しないようにそこで阻止される。そのようにして脳は守られている。しかし、メチル水銀は「システイン」というアミノ酸と結合すると、やはりアミノ酸の一種である「メチオニン」に似た化学構造となる。そしてメチオニンとして脳の内部にとり込まれる。メチル水銀はいったん脳にとり込まれると、そこでたんぱく質の合成を阻害する。
 メチル水銀には生物学的半減期(約 70日)はあるが、メチル水銀による脳細胞の破壊は不可逆(ふかぎゃく)である。その半減期の間に破壊された中枢神経細胞が生涯修復されることはない。
 メチル水銀は、大脳の「体性感覚野」(たいせいかんかくや)、「視覚野」(しかくや)といった重要な組織を破壊する。また、小脳の「顆粒細胞層」という組織などを破壊する。メチル水銀によって脳細胞がわずかに破壊されたとき、一見する限り何ら症状がないからといって脳が損傷を受けていないというわけではない。脳は他の臓器とは異なり、「補償機能」(ほしょうきのう)といって、破壊されずに残った細胞が代行をはじめるからである。脳はそのような機能をもっている。その結果、脳は破壊された細胞の墓場と化しながら、脳全体の機能としては見かけ上正常な機能を維持することが多い。しかし、その補償機能にも限界がある。
 聖バーソロミュー病院医科大学の化学実験室で三名の技術者がメチル水銀の製造実験を行っていたが、1864年の暮れに重篤な中毒症状に陥った。
 そのひとりはカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳のドイツ人であった。ウルリッヒは、1864年11月に同実験室でメチル水銀を製造する実験をはじめた。しばらくするとだんだんと両手がしびれるようになった。耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。1865年1月中旬にはメチル水銀原液の配管が壊れてメチル水銀の蒸気を大量に吸ってしまう事故もあった。



04  05

      (左)『聖バーソロミュー病院報告書 第 1巻表紙(1865年)[2]
      (右)『聖バーソロミュー病院報告書 第 2巻表紙(1866年)[4]

  
 ウルリッヒは、同(1865)年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー病院マタイ棟に収容された。主治医はヘンリー・ジェファーソン(Henry Jeaffreson 1810-1866)であった。ウルリッヒは、身体をばたばたさせて叫び声をあげた。質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昼夜昏睡をくり返した。同年2月14日に死亡した。
 有機水銀、あるいはその一種であるメチル水銀による世界最初の中毒死であった。そのころ日本は幕末の元治二年であった。
 ウルリッヒの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第141-144頁に詳しく報告されている [2]。
 二番目の患者は T. スロウパ(Sloper)23歳であった。スロウパは、聖バーソロミュー病院の研究室で 12か月間働いていた。その間にいやなにおいのするメチル水銀の実験室で仕事をしたのは、九か月目(1865年1月半ば)からのわずか二週間ほどであった。メチル水銀の製造器具の洗浄を行った。その一か月後に発症した。よだれを流し、両手、両足、それに舌がしびれた。耳が聞こえにくくなった。目がよく見えなくなった。質問にゆっくりと不明瞭にしか答えられなくなった。歩くのが困難になった。



06

     『聖バーソロミュー病院報告書 第 1巻 第 141頁(部分)
        カール・ウルリッヒ30歳の臨床記録(1865年)


  
 スロウパは、同年3月25日(発症して3週間後)に同病院のマタイ棟に収容された。主治医はジェファーソンであった。ものを飲み込めなくなった。話せなくなった。尿と便を失禁するようになった。激しいふるえに襲われた。叫び声をあげて身体をばたばたさせた。錯乱状態のまま1866年4月7日に肺炎を併発して死亡した。
 スロウパの臨床経過は『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)第144-150頁 [2] と同第2巻(1866年)第211-212頁 [4] に詳しく報告されている。
 もう一人の患者はウルリッヒとスロウパに比べると症状は軽く、死亡しなかった。
 現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『聖バーソロミュー病院報告書』の第 1巻 [2]、第 2巻 [4] の全ページをそれぞれを PDF化して無償で公開している。
 これらの書籍(報告書)が当時わが国に輸入された形跡はない。では、この「メチル水銀中毒発見」の情報は当時わが国には伝わらなかったのであろうか?



【4】 メチル水銀中毒はヨーロッパ社会をどう動かしたか

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07

    トーマス・フィプソン
 Thomas L. Phipson 1833-1904
  『コスモス』ロンドン特派員


   
  
 聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死は、同(1865)年フランスの雑誌『コスモス』(COSMOS)第 26巻 11月号第 548-549頁(11月15日)に掲載された。『コスモス』はパリで刊行されており、学術専門誌ではなく、一般の読者を対象とする大衆雑誌であった。その記事は、タイトルが「若い化学者への警告」(Avis aux Jeunes Chimistes)であった。それには「ぞっとするような報告」という副題がついていた。執筆者は、『コスモス』のロンドン特派員トーマス・フィプソン(Dr. Thomas Phipson)であった。
 フィプソンは、英国化学会フェローであり、蛍光現象研究の第一人者であった。また、英国化学会において、フランクランドのライバルとしても知られていた。
『コスモス』の内容(聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死)は、ドイツでは『ベルリン・ニュース』 (Berlinische Nachrichten)などいくつかの新聞に転載された。その結果、ドイツ国内でも、科学の分野だけではなく一般大衆の間に激しい衝撃(a very powerful sensation throughout Germany)を与えた。



39

       ウィリアム・クルックス
     Sir William Crooks 1832-1919


 イギリスではウィリアム・クルックス(Sir William Crookes 1832-1919)が『化学ニュース』という、化学の分野で当時世界唯一の定期刊行誌を創刊していた。クルックスは王立科学大学でアウグスト・ホフマンから化学を学んだ。タリウムを発見した。クルックス管を発明し、この中に羽根車をおいて、陰極線をあてて回転させた。この実験により、陰極線は帯電した微粒子(電子)からなることを明らかにした。
 聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、クルックスの『化学ニュース』第 12巻(1865年)、第 13巻(1866年)の中でくり返し報じられた [3,5]。
『化学ニュース』で、最初に記事が現れたのは、第 12巻第 276-277頁(1865年12月8日刊行)である。それは、『化学ニュース』のパリ特派員(匿名)が 11月30日に投稿したものであった。そこには「トーマス・フィプソンは、聖バーソロミュー病院において中毒が起き、一人が死亡し、もう一人が重体であるのは、エドワード・フランクランドが故意にひき起こしたとして『コスモス』の中で断定している」と述べられている。
 それに対して、フィプソンは『化学ニュース』第 12巻第 289‐290頁(1865年12月15日刊行)で直ちに反論し、聖バーソロミュー病院医科大学化学実験室で起きたウルリッヒ(Dr. C. U.) とスロウパ(T. S.) の中毒は、前任教授であったフランクランドの「研究方針のもとで起きたと述べただけである」と釈明している。すると、責任はオッドリングにあったことになる。



39

       アウグスト・ホフマン
   August Wilhelm von Hofmann
    1818-1892 ベルリン大学教授


 ベルリン大学教授アウグスト・ホフマンは、『化学ニュース』第 13巻第 7‐8頁(1866年1月5日刊行)の中で、そのオッドリングのための弁護を試みている。ホフマンは、メチル水銀を「真に並外れた毒性」(altogether exceptionally poisonous nature)をもつと指摘し、また、オッドリングはイギリスで最も優れた化学者の一人であると紹介した。また、メチル水銀がそれほどの毒性をもつことは誰にも知られていなかったと述べた。  ホフマンは、以前、1845年から 1864年まで約 20年間イギリスの王立化学大学教授としてロンドンに赴任しており、死亡したドイツ人ウルリッヒがメチル水銀の製造実験をはじめる二、三日前に本人(ウルリッヒ)に会ったが、ウルリッヒはその毒性について何ら知らなかったと述べた。なお、メチル水銀を発見したバックトン(前出)はホフマンの助手であった。
 一方、フィプソンは『化学ニュース』第 13巻第 23頁(1866年1月12日刊行)の中で、オッドリングには「無知(ignorance)の責任はないが、無視 (negligence)の責任はあった」と述べている。
『化学ニュース』の編集者(クルックス)は、(討議はまだまだ続くが)「掲載を打ち切る」と述べた。
 当時の『化学ニュース』は、1865年から 1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒を遅くとも(後述するように) 1927年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。



「大陸の科学」パリ特派員(匿名)11月30日寄稿
『化学ニュース』 第12巻 276頁 1865年12月8日発行

 この寄稿を要約して申し述べるに、『コスモス』に掲載されたイギリス特派員(フィプソン)の記事について私がそもそも気に入らないのは、実名を隠さなくてもよかったのではないかということである。聖バーソロミュー病院で二名の実験者の中毒が起きた。そのことについて率直に申し述べる。フィプソン博士は、フランクランド博士こそは意図的に一人の中毒死と一人の中毒を引き起こした責任者であると断定している。フィプソン博士は、それによってフランクランド博士にいわれのない中傷を加えている。その記事は、ここ(パリ)で大きな騒ぎをひき起こしている。中にはフィプソン博士に対してフランクランド博士を化学者として侮(あなど)っているのではないかとして笑止に思う人がいる。また、感情をむき出しにしているとして人間性を疑う人もいる。いうまでもないが、フランクランド博士が何年か前に聖バーソロミュー病院医科大学を去っていることは、ここ(パリ)でこそ知る人は少ないが、ロンドンでは化学者であれば誰でも知っている。したがって、フランクランド博士に責任はない。
 フランクランド博士自身から直ぐに責任を否定する手紙が届いたが、フランス語に翻訳する段階で間違いが起こり、そのような中毒死の事実がなかったかのように翻訳されてしばらく情報が錯綜した。そのうちオッドリング博士から、中毒死はオッドリング博士の実験室で起きたのであって、フランクランド博士に責任はないという率直な手紙が届いた。したがって、フィプソン博士はこの責任をとって『コスモス』のロンドン特派員の仕事を辞任するのが最もふさわしいであろう。
 思うにフィプソン博士の目的の一つは、ロンドンの実験室で働くことを希望する外国人労働者を排除することだったのではないかと思われる。フィプソン博士はドイツからの求職者だけではなく、戦争が起きたときに兵役を逃れて労働者が求職してこないようにしたかったのだろう。ドイツでは国内に人材や化学者が余っている。彼らはどこかで生活しなければならない。私がロンドンにいたころ外国人労働者はロンドンでは何不自由なく暮らしていた。外国人労働者はどちらかというと低く見られがちであるが、彼らもみな努力をしており、英国人と同じ給与が支払われていた。
 フィプソン博士は科学の分野で評判を下げたであろうが、何か他の評判は得たはずである。その評判は彼のロンドンにおける立場を決してよくはしないだろうと私は想像している。そのことをここに申し述べてもう今回のことを私は忘れたいと思う。



「コスモスとメチル水銀による中毒」 T. フィプソン12月9日寄稿
『化学ニュース』 第12巻第 289-290頁 1865年12月15日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 私は最近『コスモス』の記事として、聖バーソロミュー病院の化学実験室で起きた二名の実験者 C. U.博士と T. S.氏の中毒について記事を載せました。あなたの『化学ニュース』のフランスの特派員は、最新号の中で、そのことについて事実とは驚くほど異なることを書いています。その特派員が、フランス語がよくできないからであるとは思えません。私は『コスモス』にいつも「英語」で投稿しているのですが、それにはこの悲しい出来ごとは、同病院の教授であったフランクランド博士の研究方針のもとで起きたと書いただけであります。フランス語に翻訳される段階で起きた記事の誤植はすぐに訂正されております。

敬具

T. L. フィプソン
化学会フェロー・『コスモス』の編集者(ロンドン)



「若い化学者への言葉」 化学者 (匿名) & A. W. ホフマン
『化学ニュース』 第13巻 第7-8頁 1866年1月5日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 私はベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に掲載されたホフマン博士の以下の手紙を『化学ニュース』でも掲載していただくように懇願いたします。それはフィプソン博士が『コスモス』に投稿した聖バーソロミュー病院のメチル水銀中毒に関するものです。フィプソン博士の記事は『コスモス』からドイツ国内で数紙(several journals)に転載されました。ドイツ国内では科学者の間においてだけではなく、一般民衆の間でも大きな騒ぎ(a powerful sensation)をひき起こしています。(ベルリン大学の) A. W. ホフマン教授はそれをおさめようと努力しています。『化学ニュース』の読者の多くは興味があると思われますので、ここに以下ホフマン博士の手紙(ドイツ語)を同封いたします。

敬具

化学者 (匿名)


* * * 以下ホフマン博士より * * *

拝啓
 ドイツ国内のいくつかの新聞に「若い化学者への警告」と題してフィプソン博士がパリの雑誌『コスモス』に掲載した記事の内容が転載されております。
 その警告は、二名の若い化学者に起きた悲しい運命の物語りに関するものです。そのひとりはマーブルグ大学を出たドイツ人の C. ウルリッヒ博士と、もう一人はイギリス人 T. スロウパ氏です。彼らはメチル水銀による中毒の犠牲者であり、それによって前者(ウルリッヒ)は死亡し、後者(スロウパ)は回復の望みもなく、今も病床に伏したままです。
 彼ら若い二名の悲しい運命は、イギリスとヨーロッパ大陸の科学者の間で深い同情をよび起こしております。私(ホフマン)は、その出来ごとが起きた当時ロンドンに住んでおりましたので、その出来ごとについては非常に残念に思う次第でありますが、特にウルリッヒ博士のことを私はここ数年にわたって存じておりまして、若い化学者として努力家でありかつ才能もあると評価しておりました。
 ウルリッヒ博士については、彼がたずさわっていた実験は、その全般的な状況から、彼の職務でありました。その嘆かわしい出来ごとは、短い言葉で事実を申し述べるならば、その経過も結果も、この世界の化学史上全く前例がないということであります。
 まず事実関係について申し上げます。フィプソン博士は、二名の若者がフランクランド博士の実験者であり、中毒はフランクランド博士の実験室で起きたのだと断言しています。フィプソン博士は、フランクランド博士がその業績と人格において第一級の化学者であるにもかかわらず、フランクランド博士が卑劣にもその私利私欲のために 二名の実験者を危険にさらしたのだと何のためらいもなく告発しているのです。しかしながら、その重大な告発がなされた側のフランクランド博士は、実はその中毒とは関係していなかったというのが事実です。では、報告者(フィプソン博士)の自覚と信用はどうなっているのでしょうか? 二名の若者は、フランクランド博士の実験室ではなく、オッドリング博士の実験室で働いていました。中毒はフランクランド博士の実験室で起きたのではなく、オッドリング博士の実験室で起きたのです。
 フィプソン博士は、二名の若者の身に起きた不幸な出来ごとがフランクランド博士によって、また、彼らが働いていたフランクランド博士の実験室で起きたのであり、フランクランド博士は当然知っておくべき危険を知らなかったか、あるいは、知っていても当然払うべき注意を怠ったことによって起きたのだと述べています。これらの告発がフランクランド博士に向けられています。しかしながら、前記しましたように、二名の若者の仕事はオッドリング博士の実験室で行われていたのであります。
 オッドリング博士が当然知っておくべき危険を知らなかったという非難につきまして、私(ホフマン)は、化学者の皆さまを相手に申しあげるだけではなく、多くの読者の皆さまに対して、オッドリング博士は英国で最も卓越した化学者の一人であると申し上げます。オッドリング博士は科学の広い分野について深い学識と総合的な研究によって現代化学の発展に実質的に貢献してきました。オッドリング博士が仮に水銀化合物の毒性についてよく知らず、注意深くとり扱うことに慣れていなかったと考えることはあまりにばかげていて一考に値しません。しかしながら、メチル水銀の仕事をしながらオッドリング博士にとって本当に知ることができなかったことは、また、今こうして執筆している私(ホフマン)にとりましても、あるいはおそらく一般の化学者にとりましても、本当に知ることができなかったことは、その水銀化合物そのもののもつ、真に並はずれた強い毒性であります。メチル水銀の発見者であるバックトン氏も、またオッドリング博士より前にメチル水銀をとり扱ったことのある化学者も、何らかの不具合について、あるいは何らかのいやな感じについていささかも言葉にしたことはなく、危険を避けるために何らかの注意をしなければならないなどと言葉にしたこともありませんでした。
 今回の悲劇的な出来ごとによってメチル水銀の恐るべき毒性が改めてわかったわけですが、その後の今となっては予めその高い毒性はその組成と物理的な性質から推測できていたなどと主張することはできるでしょう。そのような主張ができることを私は否定しませんが、今回の大惨事が起きないうちは、誰しもメチル水銀がそれほどの毒性をもつなど決して知る由もなかったという主張も、それと同じくらいに重要であります。
 私(ホフマン)は、ウルリッヒ博士と、彼が病に倒れる 2、3日前に会いました。主にかの若者がとり組んできたメチル水銀の実験について話し合いました。ウルリッヒ博士は仕事の結果について大いに希望をもっていて、何らかの化学上の発見ができるかもしれないという期待をもって仕事をしているようでした。彼はメチル水銀の危険な性質については少しも知らなかったことが明らかです。また、(ウルリッヒ博士の言葉を聞いて)メチル水銀の危険な性質について私(ホフマン)の心を横切るものはいささかもありませんでした。彼がもし少しでも「何か」を知っていたなら、実験室を離れるときは彼の若い同僚(スロウパ)に真剣に警告を与えたでしょう。あるいはいつも話を交わしていたオッドリング博士にその「何か」を言っていたでしょう。彼はそのどちらもしなかったのです。彼は本当に何も知らなかったのです。ですから、もしオッドリング博士が当然知っておくべき危険を知らなかったとして非難がなされるのであれば、その非難は非難をする側にも同じように向けられるべきでしょう。
 さりとて、今回の中毒死について正しい見解を申し述べるには、かの若者(ウルリッヒ)が個人として、科学の世界からも友だちからも、それほどの幻滅する経過であっという間に引き裂かれてしまった。そのことについて思いを致すことが重要であります。ウルリッヒ博士は、化学の分野で決して初心者ではありませんでした。彼は 30歳ほどでしたが、過去 10年間理学的・工学的な研究に専念していました。彼は化学の分野で経験が深く、どんな仕事でも十分にこなせました。彼は様ざまな研究を行い、最初の論文を1859年に発表しました。その後十か月か十二月間、私(ホフマン)の研究室でも仕事をしました。私(ホフマン)も、彼の知識と、能力と、注意深さには全幅の信用を置くものでありましたので、仮に今回のような嘆かわしい、およそすべての想定をはるかに超えた結果となるような仕事であっても、それを彼に任せるのに躊躇(ちゅうちょ)しなかったでしょう。
 以上申し述べましたことにより、フィプソン博士の記事は部分的に偽(いつわ)りであり、かつ部分的に歪曲(わいきょく)されたものといえるでしょう。
 また、そのことにより、フィプソン博士の若い化学者への警告については、私(ホフマン)は一考に値しないと考える次第です。私はイギリスへ行き、その首都に 20年間住みました。イギリスの化学実験室で働く同じ国(ドイツ)の若者の立場がどのようなものであるかを十分に理解する機会はあったつもりです。私(ホフマン)としては、フィプソン博士の警告は真に不当なものであり、根拠のないものであり、いささかも関心を向ける必要のないものと言わざるを得ません。私(ホフマン)は、フィプソン博士が悪意ではなく、当然知っておくべきことを知らないで、あるいは気まぐれでペンを滑らせただけであると信じておりますので、これ以上の手厳しい表現を控えます。しかし、フィプソン博士が自らを英国化学会フェローと称し、ロンドンに住んでおりながら、どうしてあのように、まるで同僚に対して嘘をつくのと同じくらいの重大な申し立てをする前に、なぜその出来ごとについて正確な情報を得ることができなかったのか、また、同僚である一般の化学者たちに対して不当で根拠のない申し立てをしてしまったのか、不可解でなりません。もっとも、フィプソン博士を、意図的に虚偽を申し立てたとして、また意図的に事実を歪曲し、意図的に同僚の化学者を虚偽告発したとして、仮に名誉毀損の疑いで告発したとしても、フィプソン博士は自らを有罪であるとは認めないでしょう。
 あと一点付け加えて、私(ホフマン)のこの供述を終わります。私(ホフマン)はイギリスに長く住んでおりました。多くの若いドイツ人でロンドンやあるいは他の地方で実験室の仕事をしている人たちの大半と知り合いになりました。その若いドイツ人たちで何か不満を漏らす人はいませんでした。それとは逆に、誰もが最高に親切に受けいれられ、また、思いやりのある扱いを受けておりました。決められた協定は良心的に履行されておりました。ドイツの若者のイギリスにおける雇用主は誠実で友好的な人格者がほとんどであります。イギリスを生活の基盤とすることによってドイツの若者に与えられる様ざまな経験と、洞察力を培う機会は、それらを将来の人生に役立てることができます。彼らの多くはその後イギリスに残り、あるいは植民地へ行き、あるいは欧州大陸に戻り、科学界や産業界において重要な地位を占めております。
 ドイツの若い化学者は、したがって、もしもロンドンの実験室に行く機会が与えられたならば、恐れることなくテームズ河畔(訳者注 聖バーソロミュー病院があるところ)に行きなさい。ドイツで学んだ化学がイギリスにおける生活と結びつくことによって、新しい知識と新しい動機付けの無尽蔵の宝庫が見つかるでしょう。イギリスの化学者と知り合いになることによって、彼らがきわめて立派で信頼できる人びとであり、偉大にして素晴らしいイギリス国民の美徳を顕現する人びとであることを知るでしょう。イギリス国民の中に屹立(きつりつ)するもの、それは真実を愛することであります。

敬具

A. W. ホフマン
ベルリン大学 1865年12月14日



「ホフマン博士の手紙への回答」 T. フィプソン1月6日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第23頁 1866年1月12日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
『化学ニュース』の最新号にホフマン博士によって書かれた長い手紙と、「化学者」と名乗る人物がそれを紹介する記事が掲載されております。「化学者」は匿名のようですが、それが誰であるかの見当が私にはついております。
 ホフマン博士の手紙に書かれております私に対する告発と批判は、全く根拠がなく、また真実ではありません。私は彼らに対してこの強い否定をお届け頂きたく懇願いたします。ホフマン博士は、明らかに誤解しておられます。
 第一に、私はウィリアム・オッドリング教授を「無視」(negligence)で告発しているのでありまして、「無知」(ignorance)で告発しているわけではありません(『コスモス』11月29日)。
 第二に、『コスモス』第26巻で私が書いた記事のどこを見ましても、「同僚である一般の化学者」たちに対して「不当で根拠のない告発」をしている箇所などありません。
 第三に、もしホフマン博士が『コスモス』の私の記事を直接読んでおられないのであれば、読んでからオッドリング博士を弁護しようとされるのがよいでしょう。
 第四に、私の『コスモス』における役割はただの歴史家です。私が述べる事実が、すべての読者にはたとえ気に入らないものであっても、それは歴史上の事実であります。信頼すべき情報源から得られた公正で真実の内容のものです。それらが私の記事になっております。

敬具

T. L. フィプソン



「メチル水銀中毒」 助手 (匿名)
『化学ニュース』 第13巻 第35頁 1866年1月19日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 もしもあなたが編集者として聖バーソロミュー病院の化学実験室で起きた出来ごとを完全に報告されると、すべての論争は収まり、多くの意見や疑問も収まるのではないでしょうか。何らかの形で私がその報告書を作成したら受けいれてもらえるのでしょうか? それにはどうすればよいのでしょうか? 二名の患者に最初どのような形で中毒の症状が現れたのでしょうか? 何らかの予防策は取られたのでしょうか?あるいは、症状が現れたとき仕事は中断されたのでしょうか? それらの点についていくつもの情報が錯綜しています。いくつもの事実が断片的に報道されています。歴史としての全体像が明らかになればすっきりと収まるのではないでしょうか?

敬具

助手 (匿名)



「フィプソン博士への回答」 A. W. ホフマン
『化学ニュース』 第13巻 第35頁 1866年1月19日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 フィプソン博士がパリの雑誌『コスモス』に投稿した記事がドイツでベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に転載され、それについて私(ホフマン)が同紙上で論評する内容の手紙が『化学ニュース』1月5日号で英訳されて掲載されました。今朝私は『化学ニュース』1月12日号を受け取りましたが、その中にフィプソン博士の手紙が掲載されており、フィプソン博士はその中で「ホフマン博士の手紙に書かれております、私に対する告発と批判は、全く根拠がなく、また真実ではありません。私は彼らに対して強い否定をお届け頂きたく懇願いたします。ホフマン博士は、明らかに誤解しておられます」と書いています。
 私は『コスモス』の読者ではありません。私がベルリン・ニュース紙 (Berlinische Nachrichten)に投稿した手紙は、11月15日発行の『コスモス』に掲載されたフィプソン博士の手紙がドイツの新聞に翻訳されて転載されたものに対する論評でした。しかしながら、私は行きがかり上『コスモス』のフランス語の原文を自分で直接読むべきであったと考えるに至りました。そこで、直ちに『コスモス』の原文を取り寄せ、ベルリン・ニュースのドイツ語訳と比較して、正確な翻訳であることを確認しましたので、私(ホフマン)は自らすでに述べたことをただ一文たりとも撤回するつもりがないことを申し上げます。
 すでにあなたは私の論評を『化学ニュース』の読者のために快く英訳して掲載されました。そこで、フィプソン博士の原文で私が参照したフランス語の箇所は以下のとおりですので、これを掲載していただきたく、なにとぞよろしくお願い申し上げます。『化学ニュース』の読者は、それによって自ら判断することができるでしょう。フィプソン博士は、『コスモス』の原文で以下のように記述しておられます。

 過去のある時期、ドイツのリービッヒ、フランスのデュマ、ドイツのヴェーラー、ドイツのブンゼンなどの研究室からかなりの数の若い化学者がロンドンへやって来た。彼らの科学についての教育は多少の差はあれ完成しており、化学の仕事についての知識だけが彼らの身上である。彼ら若い化学者の大多数は化学を教える大学や病院の実験室の仕事で悲惨な目に遭っている。およそ 1,000~ 1,500フランの給料だけで身体と精神をつなぎとめ、教授の命令であえてしたくない仕事をしたり、どうすればよいかわからない仕事をしたりして、中毒になったり傷ついたりすることがなければそれは儲けものである。

 次はフィプソン博士がその結論を述べる上で供述している意見です。

 自らが雇った実験者を殺すことは許されてよいのでしょうか?それはイギリスで学ぶためにやって来た若者たちです。将来彼らの時代になったらきっと専門家になりたいと思い、奴隷としての生涯を送りたいとは思わない若者たちです!
 化学者のゲイ・リュサックやテナール、ハンフリー・デービーは、私利私欲のために自ら雇った実験者を殺したでしょうか?

 フィプソン博士が自ら述べる「歴史家としての役割」を果たしているのだという心構えは、フィプソン博士の記事の中でフランクランド博士の名前を紹介するやり方に次のように現れております。

 フランクランド博士の名前を『コスモス』の読者は有機化合物を自ら「発見した」と称していくつかの記事を発表した人物としておそらくご存じでしょう。

 フィプソン博士が「発見した」とあえて括弧つきで強調しているのは、そっくりそのままフィプソン博士に当てはまるでしょう。
 私は、以上より、改めて『化学ニュース』の読者にその判断を委ねるものです。

敬具

A. W. ホフマン



「メチル水銀の毒性について」 T. フィプソン1月22日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第47頁 1866年1月26日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 ホフマン博士は『化学ニュース』の少し前の号でメチル水銀について「真に並はずれた強い毒性」と述べています。また、「メチル水銀をとり扱ったことのある化学者は、何らかの不具合について、あるいは何らかのいやな感じについていささかも言葉にしたことはない」とも述べています。
 さて、ホフマン博士が私に一つの仮定を許してくれるならば、故ウルリッヒ博士のような化学者がメチル水銀の製造に三か月間専念したとします。そして 87パーセントもの水銀を有するそのような化合物で(特に気化した蒸気の状態で)毒性をもたない物質をただ一つでもあげることができたとします。それならば、ホフマン博士がメチル水銀について研究することを憂慮して「真に並はずれた強い毒性」と述べた表現を私(フィプソン)も受けいれることができるでしょう。
 そのような物質をただ一つでもあげることはできないのですから(メチル水銀も例外ではないのですから)、心ある化学者は私(フィプソン)がホフマン博士とは見解が異なったとしても、私を許してくれるでしょう。

敬具

T. L. フィプソン・化学会フェロー



「フィプソン博士についての再考」 W. オッドリング 1月30日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第59頁 1866年2月2日発行

『化学ニュース』編集者 殿
拝啓
 私が第一に残念に思いますのは、(イギリスなど)海外で暮らすドイツ人の心にひき起こされた誤った印象を修正するにあたって、まずホフマン博士ご自身がこのイギリスでフィプソン博士のような策略をもつ敵対者によって中傷を受けたことがないことです。私が第二に残念に思いますのは、フランクランド博士のご尊名が(フィプソン博士の『コスモス』の記事によって)傲慢にも傷つけられ、今回(『化学ニュース』でも)一言の謝罪もなくさらに傷つけられていることです。
 私が疑問に思いますのは、なぜそのような(誠意も通じない)フィプソン博士による中傷に誰もが回答をしなければならないのでしょうか? 実に疑問でありますのは、なぜ『コスモス』のよくぞ知られたロンドン特派員・編集者(フィプソン)は、自身が無残な信用失墜をしただけで、それ以上の責任を問われないのでしょうか?
(あれだけ虚偽を並べたのであれば)フィプソン博士は、教授ではないが「ロンドンの分析化学の教授」と名乗ればよかったでしょうに。フィプソン博士は、王立協会(Royal Society)の会員に選ばれなくて、心機一転、王立協会を相手に訴訟の準備にでも専念すればよかったでしょうに。フィプソン博士はいつも化学会フェロー(F. C. S.)と名乗っているが、一方で化学会から相手にされないのは「愚かな間違いだ」と宣言すればよいでしょうに。フィプソン博士がフランクランド博士と私(オッドリング)に対して、今回の中毒について当然知っておくべき危険を知らなかったと言うならば、そのきわめて不名誉な申し立てをフィプソン博士が編集する騎士道時代の雑誌(『コスモス』)にそのまま掲載して刊行すればよかったでしょうに。あるいは、その雑誌に我われが回答を投稿してもフィプソン博士とその手下によって掲載を拒絶するか、それとも下品に歪曲して刊行すればよかったでしょうに。フィプソン博士は、個人的な怒りを鎮めんがために、悲惨な、単にその事実だけで衝撃的な物語りを、悪意を以て誇張し、歪曲し、あるいは偽り伝えればよかったでしょうに。
 さらに、フランクランド博士は時おり世界を魅了する素晴らしい発見をされますが、フィプソン博士がフランクランド博士の人格と業績を貧しいものとして茶化すのであれば、フィプソン博士はそれを超える素晴らしい発見をすればよいでしょう。たとえば、過マンガン酸塩と重クロム酸カリウムは同類だとか、安息香酸とサリシンの溶液からポプリンを製造できるとか、ガーネットは点火後に比重が増すとか、その他素晴らしい雌馬の巣などです。フィプソン博士は、真価を認めようとしない社会の気を引こうとして、化学者なら誰でも知っているリン酸塩を新しいものとしてばかげた分析をすればよいでしょうに。フィプソン博士は太陽のもとにあるものはすべて危険であるから誰それのトマトピューレは厳格に検査されたというような証明書を書いて自身の専門性を誇大広告すればよいでしょうに。
 フィプソン博士がその行動に一点のやましさもなく、思いやりもあるというのであれば、完璧なフィプソン博士は彼に向けられた批判に対して痛ましく苦言を呈すればよいでしょう。なぜ多くの化学者はこれほど完全無欠なフィプソン博士の科学の分野におけるまた社会における性格を批判するのでしょうか?

敬具

ウィリアム・オッドリング
ロンドン 1866年1月30日



「メチル水銀とヨウ化カリ」 A. シュバルツ 1月20日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第59頁 1866年2月2日発行

『化学ニュース』編集者 殿
 私(シュバルツ)は最近『化学ニュース』で取り上げられているメチル水銀中毒についての記事を、関心をもって読んでおります。私は『コスモス』の記事も読みました。私は、フィプソン博士は出来ごとを明るみに出してくれたという点で社会的に貢献をしたのだと思います。私はためらうことなくそのように公言いたします。悲しい出来ごとが起きてからすでに 1年ほど経っていますが、もしもフィプソン博士が最近の『コスモス』で記事にしてくれなければ、誰もその出来ごとについて気がつくことはできなかったでしょう。おかげでイギリスでもまた海外でも、いずれの専門家も実験者もメチル水銀について十分に注意を払うことができるようになりました。それこそは公共の利益以外の何ものでもありません。
 ホフマン博士は、『化学ニュース』で英訳された論評の中で、フィプソン博士を公正に評価していないことが明らかです。ホフマン博士の論評とフィプソン博士が実際に『コスモス』に書いた内容を比較して読んだ人なら誰でもそのことに気がつくだろうと私は思います。
 水銀中毒の一般的な解毒剤としてメルセン博士はヨウ化カリを薦めましたが、それを用いた治療も今回の症例では効き目がないようでした。(ヨウ化カリを投与しても)体内でメチル水銀のヨウ化物が形成されるだけで、メチル水銀は体外に排除されず残ってしまうのかもしれません。解毒剤の効き目というものはそのように不完全です。他の水銀化合物の中毒に対してヨウ化カリを用いても効き目がないこともあり得るでしょう。なお、私は1849年にパリで水銀中毒の治療に「ベレッツのシロップ」を用いたことがありますのでご参考まで。

敬具

医師 A. シュバルツ
ハマースミス 1866年1月20日



「ウルリッヒ博士の病状」 E. ライハルト 1月29日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第59-60頁 1866年2月2日発行

『化学ニュース』編集者 殿
 ウルリッヒ博士の親友である私(ライハルト)の記事は、『化学ニュース』の読者に関心をもってお読みいただけるでしょう。
 ウルリッヒ博士の悲しい死は、事故によるものであったと考えるべきでしょう。ウルリッヒ博士は1865年1月中旬に大量のメチル水銀を製造していましたが、メチル水銀原液の配管が壊れる事故が起きました。ウルリッヒ博士が言ったことですが、彼は何の注意を払うこともなく、メチル水銀の蒸気を大量に吸ったとのことでした。私は翌日彼に会いましたが、彼は元気がなく、不安そうで、錯乱した表情でした。私は彼にすぐに医者に診てもらうように言いました。しかし、2月1日に症状が悪化しました。2月2日に足どりが不安定になりました。質問にはゆっくりと、やっと答えることしかできませんでした。気は確かでした。彼は大変衰弱しているようでした。
 オッドリング博士が心配され、尽力されて、私はウルリッヒ博士をすぐに病棟に収容することができました。
 私が病室を離れるとき、彼はどっと涙を流して私にお礼を言いました。そのとき彼は、私と同様に、もう絶望的な状態であると感じとっていました。
 ウルリッヒ博士は強くてしっかりとした体格でしたが、健康ではありませんでした。1863年と1864年に 3、4回発作を起こしています。彼には慢性的な脳障害があったのではないかと私は思います。

敬具

E. ライハルト
オックスフォード 1866年1月29日


「以後この件に関しての記事は掲載を打ち切る」

化学ニュース編集者)




「フィプソン博士への回答」 W. オッドリング 2月13日寄稿
『化学ニュース』 第13巻 第84頁 1866年2月16日発行

『化学ニュース』編集者 殿
 フィプソン博士は、よく表現しても策略が多い人であり、それは一生治らないのではないかと思います。私は、『コスモス』の編集者であるフィプソン博士がフランクランド博士に対して攻撃を加えたことについて、意見を『コスモス』に投稿しました。すると私の意見が『コスモス』の11月29日号に掲載されました。しかし、私の原稿はそのまま掲載されないで勝手に手を加えてありました。その後フィプソン博士は続けて私を攻撃したので、それに対する回答を『コスモス』に投稿しましたが、彼は掲載を拒絶しました。
 私はフィプソン博士に次のことわざを贈ります。「一事が万事」

敬具

ウィリアム・オッドリング
ロンドン 1866年2月13日


「以後この件に関しての記事は本当に掲載を打ち切る」

化学ニュース編集者)





 以上述べたように、1865年にロンドンの聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒は、フランスの一般大衆雑誌『コスモス』(1865年)、ドイツの『ベルリン・ニュース』などの複数の新聞(1865年)、イギリスの専門書『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年)[2]、 第2巻(1866年)[4]、イギリスの定期刊行誌『化学ニュース』第12巻(1865年)[3]、『化学ニュース』第13巻(1866年)[5] によって、ヨーロッパでは周知となった。
 そのころの日本は慶應二年であった。


【5】 メチル水銀中毒の発見はいつ日本に伝わったか

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08

   

          「ヘップ論文 第1頁 [7]
     『聖バーソロミュー病院報告書』を 5頁にわたって転載
      脚注にその第1巻、第2巻を引用しているのが見える


  
 メチル水銀中毒に関する情報は、ヨーロッパでは次の世代に伝わった。ドイツでは、その約二十年後の1887年に、ヘップが『実験的病理学薬理学叢書』第23巻の中で「有機水銀化合物ならびに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」と題する論文 [7] を発表した。ヘップは有機水銀を梅毒の治療に用いようとしてあまりの毒性の激しさで失敗したのであるが、その論文の中で、前記『聖バーソロミュー病院報告書』の C. U. 30歳(カール・ウルリッヒ)と S. T. 23歳(トム・スロウパ)の死亡症例を詳述してある全12頁について、それをメチル水銀中毒の著名な例として核心部分を抜粋して 5頁にわたって転載した。その上で、「有機水銀は中枢神経に重篤な障害」(die schwere Affection des Centralnervensystems)を与えると述べた。
 1887年は、日本では東京電燈會社が送配電を開始した年である。




09

  『化学ニュース 第11-12巻 中表紙(1865年)
     東京科学大学附属図書館所蔵
   「昭和2年3月24日購入」の刻印が見える


   
  
 東京科学大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』第12巻(1865年)[3] には、「東京高等工業學校圖書」、「昭和2年3月24日購入」の刻印がある。昭和2年は1927年。空母「赤城」が進水し、芥川龍之介が自殺した年である。1923年の関東大震災で、東京市(当時)の藏前にあった東京高等工業學校の蔵書は全焼している。『化学ニュース』は、藏前にあったころ(焼失以前)にすでに収蔵されていたのかもしれない。東京高等工業學校は、震災後、藏前から東京市外の荏原村(現在の大岡山)に移転したが、「昭和2年3月24日」は、その移転後に買い直された新しい日付なのかもしれない。東京帝國大學附屬圖書館も関東大震災で蔵書が全焼している。東京帝國大學でも『化学ニュース』は、震災焼失以前に収蔵されていた可能性がある。
 現在インターネット検索サイトであるグーグル・スカラー(Google Scholar)は、当時の『化学ニュース』の全巻を PDF化して無償で公開している。


10  11

        (左) 『実験的病理学薬理学叢書第23巻 中表紙 (1887年)[7]
        (右) 同中表紙裏面「熊本醫科大學圖書館
        (昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印が見える



 熊本大学の『実験的病理学薬理学叢書』第23巻には、「熊本醫科大學圖書館(昭和)6年3月30日圖書登錄番號」の刻印がある。昭和6年は1931年である。この『実験的病理学薬理学叢書』第23巻(1887年)は、北海道大学附属図書館、東北大学附属図書館、東京大学附属図書館、慶應義塾大学附属図書館、東京慈惠会医科大学附属図書館、千葉大学附属図書館、新潟大学附属図書館、大阪大学附属図書館、神戸大学附属図書館、岡山大学附属図書館、熊本大学附属図書館、長崎大学附属図書館にも所蔵された。
「ヘップ論文」(『実験的病理学薬理学叢書』第23巻 91-128頁)[7] は、1865年から1866年にかけて聖バーソロミュー病院で起きたメチル水銀中毒死について、『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻 [2]、第2巻 [4] の具体的な内容を遅くとも1931年までに日本に伝えた重要な文献であるので、以下翻訳して紹介する。



ヘップ論文(『実験的病理学薬理学叢書』 第23巻 第91-128頁)の第113-117頁

 有機水銀中毒の二つの著名な症例についてここで確認しておくことは意義深いことである。すなわち、エドワーズ博士の『聖バーソロミュー病院報告書』第 1巻及び第 2巻に記載された、イギリスの化学実験者二名の臨床記録を以下抜粋してドイツ語に翻訳して紹介する。

 第 1例 C. U. 30歳。
 栄養状態も体格もよい。1865年2月3日に病院に収容された。ドイツ人であるが、イギリスに五年間住んでいた。聖バーソロミュー病院の実験室で仕事をしていた。
 子どものころてんかんを病んでいたが、六年前までは梅毒を除いて健康であった。六年前にてんかんの発作が 1回起こり、三年前に短い間隔で 2回の発作が起きた。それ以来発作は起きていなかった。過去三か月間メチル水銀の製造実験を行い、その間、視力の衰えを訴えていた。検視鏡で診た限り異常はなかった。一か月前に再び発作が起きた。2時間意識不明が続いて自宅へ搬送された。二日後に仕事に復帰できたが、そのころから言葉が不明瞭となり、全身の健康状態が以前より低下した。二 日前に両手にしびれを感じた。耳がよく聞こえなくなり、全身の衰弱を覚えた。歯茎が痛んだ。これらの症状が入院するまでに悪化していた。
 病棟に収容されて(1865年2月3日)昏睡に陥る傾向があった。瞳孔はやや拡大。皮膚は熱く乾燥ぎみ。脈拍 86。血圧低め。舌は湿っており、食欲は減退していた。喉の渇きはなかった。便秘ぎみ。尿はややたんぱくがあり、沈殿が見られた。
 収容前夜の寝つきは悪かったが、立ち歩くことはなかった。全身の衰弱を訴え、自分で立つことができなかった。本人は両足にひどい寒気を訴えたが、他人が両足を触っても冷たくなかった。両手両足は、ゆっくりとかつ不器用にしか動かせなくなっていた。ただ、両手両足の感覚がなくなっていたわけではない。声は不明瞭であった。耳はよく聞こえなかった。頭痛はなかった。歯茎はやや腫れて、押すと痛んだ。
 翌日耳はさらに聞こえなくなった。両手の力もなくなった。2月5日には話しかけても理解できなくなった。尿中にたんぱく質と皮質成分が多く見られた。
 2月6日指は不自然な形で押し縮められ、また、伸ばされていた。夜は眠れなかった。白痴のようであり、眠っているようでもあった。耳はさらに聞こえず、2月7日には質問にすべて「はい」としか答えられない。2月8日話しかけられても明らかに応答しない。呼吸は荒く、息に明確な水銀臭があるように思われた。脈は弱く、舌には苔がある。歯肉は海綿状に腫れている。8日夜から 9日にかけて暴れるので両手をベッドに縛らざるを得なかった。7日以来便通がなく、ベッドで悪臭強い尿を失禁した。
 支離滅裂につぶやき、食べものは拒絶する。飲みものを無理に与えようとすると抵抗して怒り狂った。
 2月10日 夜間再び狂騒に襲われたが、今朝になるとしばらく静かで昏睡状態にあった。時おり急に起き上がって支離滅裂に叫び声をあげる。体はよく動かしているように見えた。また、左右に麻痺はないようにも見えた。表情は空虚である。瞳孔は開いている。吐息臭と体臭がひどい。狂騒が激しく、他の患者の邪魔にならないように、離れた部屋に移した。
 2月11日 昨日よりやや静かである。しばしば起き上がろうとする。支離滅裂な叫び声を頻繁にあげる。呼吸が不自然であり、2、3秒完全に止まったかと思うと再開していびきの様になり、「チェーン・ストークス呼吸」かと思われる。起き上がろうとするとき、空虚に自分を見つめる。左側を動かせない。左の手首はやや硬直している。左の膝は完全に硬直していて動かせない。外から相当な力を加えるとやや曲がる。
 2月12日 表情は青白く沈んでいる。目はうるんでいるが、半ば開いている。口も半開きである。明らかに衰弱しており、動きも少ないが時おりうめき声をあげる。左足に感覚はないようであり、動かせない。硬直して伸びており、足は膝までやや内側に曲がっている。左手の感覚もないようである。
 2月13日 いびきのような呼吸。左脚にやや反射運動。その状態のまま推移して、2月14日朝11:30に死亡した。
 死亡後 18時間経って解剖が行われた。左右の瞳孔の開きが異なっていた。頭皮は固く、硬膜は表面が充血していた。軟膜と灰白質はひどく充血していた。軟膜は特に左側に無数の白斑があった。腎臓と肝臓が充血していた。

 第2例 T. S. 23歳。
 1865年3月25日に収容された。ダルストンに住んでおり、過去十二か月間聖バーソロミュー病院で実験の仕事をしていた。最後の四か月間は気分が勝れなかった。この 1月に約 14日間メチル水銀の製造に従事した。そのとき以外に水銀化合物には触れたことはなかった。最初の患者(C. U. 30歳)が発症したころ(2月初め)、自らも衰弱を覚えた。歯茎が痛く、歯が抜けた。目がよく見えなくなった。目は赤く、痛みがあった。めまいがあり、吐き気があった。吐物は緑がかっており、水分が多かった。十四日経って目はやや回復した。今月(3月)初めになって再び目がよく見えなくなった。文字がよく読めなくなった。体力がすっかりなくなり、歩くこともできなくなって仕事を辞めた。味がわからなくなり、食べものはみな同じ味がした。舌は麻痺していた。歯茎には痛みがあった。頻繁に唾を吐いて口を拭いた。(入院の)二、三日前に舌のしびれはなくなった。1週間前には耳がほとんど聞こえなくなっていた。また、両手は麻痺していた。三、四日前からは両足も麻痺している。五日前に浣腸を処方して後に気を失い、約二十分間意識不明であったが、よいいびきはかいていた。体力は日に日に衰弱している。
 患者は見事に育った体格である。表情がやや落ち込んでいるが、本人は身体に何が起きているかを意識しているようである。頬にはやや赤みがあるが、時おり青白くなる。目の周りが暗い。虹彩は拡張しているが、左右とも光に反応する。結膜がやや赤い。強膜はやや黄色い。まぶた落ちや斜視はない。呼吸は正常(20)。皮膚は温感があって乾いているが、手足は冷たい。脈(60)は正常で、かなりの流量がある。唇は乾いている。歯茎はやや腫れていて白い。舌は正常であり、湿っていて、舌尖背部は白い苔でおおわれている。吐息は臭く、それは最初の患者(C. U. 30歳)の症例を思い起こすものである。食欲は、少しはある。のどの渇きが強かったが今はそうでもない。20日から便通がない。尿量は正常で、やや淡白。比重 1.011でたんぱくはない。頭痛や身体の痛み、目まいはない。口の中がいやな味がするといい、真ちゅうを舐めているようだという。体表面に赤発はない。腹部は膨らんでいない。唾液腺は拡張していない。括約筋は正常に機能する。目がやや見えにくいが、それは両眼で起きている。聴力は完全に消失している。耳の近くで、大声で叫んでも聞こえない。発声の機能、味覚、嗅覚も深刻に失われている。手足に触れるとわかるようであるが、触感覚もかなり失われている。足は冷たいが、本人は熱く感じているようである。四肢は動くが、ゆっくりとしか動かせない。ものをよくつかめない。手を結ぶのに時間がかかる。両手の状態に差異はない。つま先は硬直していない。入院するとき、歩くのに両足を引きずったという。
 3月26日 耳が全く聞こえない。紙に書かれた質問には正確に答えるが、質問はよく見えていないようであり、発音も不明瞭である。
 3月29日 手を自ら望む位置にもって行けない。ものをつかむことはできるがきわめて不完全である。
 4月3日 知能が低下しているようである。よだれを垂らす。3月31日以来便通がない。排尿を行うことはできた。睡眠も食事もできている。
 4月7日 ここ 二、三日ベッドの上で座るのに支えがないとできない。今日は支えがあっても座ることができない。ものを飲み込むことが困難である。
 4月10日 耳が聞こえず、しゃべることができない。視力と味覚はあるようである。両手両足の感覚と動きは衰えている。手を自ら望む位置にもって行けない。
 4月12日 尿を失禁した。
 4月24日 症状は悪化しており痩せている。皮膚にやや黄疸がみられる。腕を目的もなく動かし、白痴のようである。ものをつかむ力がない。つま先はさらに硬直している。足はよく動かせない。四肢の感覚は喪失しているようで動きがなくなっている。食欲はあるがものを飲み込むことがさらに困難になっている。皮膚は時としてまた場所によって冷たい。脈は 68で流量もある。舌を出すことができない。便通はある。尿を失禁し続ける。尿は比重 1.017でアルカリ性。たんぱくはない。三リン酸塩結晶が見られる。
 4月27日 この二日間狂騒状態にある。時おり暴れて叫び声をあげる。白痴のように大声で泣く。あるいは笑う。時おりベッドから出ようとする。そのあと静かにしている。両脚はベッドに結びつけてある。足に触れると、もがいて大暴れする。依然として耳は聞こえない。意識はある。頻繁にしゃべろうとする。最初の患者(C. U. 30歳)の動きと非常によく似ている。
 5月12日 衰弱して痩せている。ものを飲み込めず、食べものを拒絶する。表情が白痴のようである。時おり周囲の人びとを認識するようである。暴れる。特に足に触れると大暴れする。しゃべろうとして支離滅裂な発音をする。この二、三日両眼の結膜に粘膜化膿性の炎症がある。吐息は悪臭がある。歯茎はやや膨らんで腫れている。便と尿を失禁する。仙骨の外側の皮膚は赤いが傷はない。
 6月4日 誰をも認識しない。暴れ方は少ないが、頻繁に四肢を激しく投げつける動きをする。支離滅裂に泣いたり、笑ったり、吠えたりする。結膜の炎症はやや収まった。
 7月4日 以前と変わりはない。やや食欲があり、体重はやや回復している。白痴のようであることには変わりない。誰をも認識しない。耳が聞こえず、言葉もしゃべることができない。つぶやき、叫び、笑い、頻繁に暴れる。四肢を発作的に動かす。昼夜昏睡と狂騒をくり返す。便秘がある。便と尿を失禁する。
 患者は1866年4月7日に死亡した。その二、三日前までおよそこれまで記録した状態であった。直接の死因は肺炎であった。それまで時おり一時的には改善が見られたが、いつも悪化した。全体として回復することはなかった。
 死後40時間経って解剖が行われた。
 非常にやせ衰えていた。貧血症であった。虹彩の拡大が左右で異なっていた。
 くも膜の層で脳のしわがきわめて深い。脳脊髄液の量は正常。灰白質にやや赤みがある。脳全体のくも膜がややくすんでいる。脳と脊髄の重量は 41オンスであった。
 肺炎の症状を除いて、胃が大きく拡張していた。小腸は充血していた。腎臓は、髄質の血管が錯綜しており腎皮質の体積が増大していた。充血斑が見られた。腎盂と腎杯に充血が見られた。

 以上二つの症例のうち、特に第二の患者(S. T. 23歳)は症状が純粋にメチル水銀のものであると思われる。第一の患者(C. U. 30歳)にはてんかんと梅毒があったからである。ただし、メチル水銀に短い期間でも触れると、長い潜伏期間を経て劇症化する点では、二つの症例は共通していた。初めは、気分の落ち込みと無気力、全身の衰弱、目まい、食の衰え、視覚の異常が長く続く。続いて突然、中枢神経が激しく影響を受ける。発作の形で認知障害が起きる。感覚が激しく侵され、特に聴覚に異常が起きる。また、独特の震えが襲う。
(以下略)


 ヘップ論文のこの部分は『聖バーソロミュー病院報告書』[2,4] の内容のドイツ語への翻訳転載であり、カール・ウルリッヒ 30歳が 1865年2月3日に同病院マタイ棟に収容されて同年 2月14日に死亡するまでの臨床経過と、トム・スロウパ 23歳が 1865年3月25日に同マタイ棟に収容されて翌年 4月7日に死亡するまでの臨床経過を、日を追って克明に紹介している。そこに述べられた症状はその後熊本県水俣市で見つかるメチル水銀中毒の劇症の例と同じであった。
 現在この「ヘップ論文」[7] も、インターネット(グーグル・スカラー)上で PDFファイルとして全文が無償で公開されている。


第二章

メチル水銀「副生」の発見


【6】 アセトアルデヒドの製法はいつ発明されたか

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「アセトアルデヒド」(CH3CHO)は重要な工業製品である。約 20℃で沸騰する。引火性が非常に強い。空中で酸化するだけで酸素が一つ加わって酢酸(さくさん CH3COOH)となる。したがって、アセトアルデヒド工場では酢酸も同時に製造されることが多い。その工場は「アセトアルデヒド・酢酸工場」などと表記される。



02

 露・サンクトペテルブルク州立森林大学(Wikipedia)


  
 アセトアルデヒドは、アセトン、オクタノールなどの原料となる。アセトアルデヒドがなければ、ある時代の一国の産業は成り立たない。アセトアルデヒドはそれくらい重要な工業製品の一つである。そのために世界の各地でアセトアルデヒドが製造された。ヨーロッパ大陸でも、アメリカ大陸でも、そして、熊本縣の水俣町(当時)でも。
 現在アセトアルデヒドは石油化学によってエチレンを酸化させて製造される。触媒(しょくばい)として二酸化パラジウムと二酸化銅が用いられる。この「エチレン酸化法」は 1959年にドイツのワッカー・ケミー社が開発したものである(ワッカー法)。
 それ以前にアセトアルデヒドを製造する方法は、1881年にロシア帝國サンクト・ペテルブルグ(Saint Petersburg)の王立森林研究所(現在のサンクトペテルブルグ州立森林大学)でミカイル・クチェロフ(Mikhail G. Kutscheroff 1850-1911)によって発明された [6]。それは水銀を触媒として用いるものであったので「水銀触媒法」と呼ばれる。



02

       クチェロフ自画像
    Mikhail Kutcheroff 1850-1911


  
 十九世紀の後半に、ロシア帝国の化学者ミカイル・クチェロフ(Mikhail Kutcheroff)は、サンクト・ペテルスブルグの王立森林研究所でアセチレン(C2H2)の化学について研究していた。王立森林研究所は、1811年にアレクサンドル I 世が創立した研究所であった。ロシア革命よりも前である。クチェロフは当時の自由な空気の中で好きな研究をすることができた。「アセチレン」は、「アセチレンの樹」と言われるように、これから様ざまな化学物質を合成することが可能である。クチェロフは、そのアセチレンの化学に取り組んだ。
 硫酸は強い酸である。水銀は、鉄や銅など他の金属と同じように硫酸に溶けて透明な液体となる。クチェロフは、その水銀溶液にアセチレンガスを吹き込むだけでアセトアルデヒドができることを見出した。クチェロフの発見は、その後の世界の化学産業の発展を担う重要な業績であった。
 クチェロフの水銀触媒法は、その反応のメカニズムがサイエンスとして全く未解明であった。現在でも、本当のところは、最新の量子化学を動員しても、そのメカニズムが余すところなく解明されているわけではない。しかし、当時も今も、経験則としてはアセトアルデヒドが製造できるのである。
 クチェロフは、そのとき水銀溶液の中に有機水銀が副生することにまでは思い至らなかった。


【7】 アセチレンの大量製法はいつ発明されたか

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01

     トーマス・ウィルソン
  Thomas Willson 1860-1915
カルシウム・カーバイド製法を発明


  
 アセチレンガスは 1835年にイギリスのエドモンド・デービー教授(Edmund Davy 1785-1857)によって発見された。それは「カリウム・カーバイド」(K2C2)に水をそそいで発生させるもので、高価であった。
 1892年にカナダのトーマス・ウィルソン(Thomas Willson)は「カルシウム・カーバイド」(Ca2C2)を製造する方法を見出した。それは自然界に大量にある石灰岩(CaCO3)と石炭(C)を混ぜて、電気炉の中で 2,000℃程度の高温で加熱するだけで大量に製造できるというものであった。
 ウィルソンのカルシウム・カーバイドも、水をそそぐとアセチレンガスが発生する。アセチレンガスは燃えて明るい光を出すので、ガス灯や夜店の照明、漁船の照明などに、確実に需要があった。



【8】 有機水銀副生の「可能性」はいつ示唆されたか

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 ドイツ・ミュンヘンのホフマン(K. A. Hofmann)とザンド(Julius Sand)は 1900年に『ドイツ化学会誌』に「水銀塩のオレフィンに対する反応について」と題して論文を掲載した [8]。「オレフィン」とは、エチレン C2H4、プロピレン C3H6 など、化学式 CnH2n (2≦n)で表される有機化合物のことである。その論文の中でホフマンとザンドは

H2C=CH2 + Hg(OCOCH3)2 + ROH → ROCH2CH2HgOCOCH3 + CH3COOH

という化学反応式を掲載した。
 アセチレン(C2H2)はオレフィンではないが、ホフマンとザンドの研究は、一般に炭素水素化合物が水銀化合物と反応して有機水銀を生成する可能性があることを示唆した。
 ホフマンは、また、1905年に『ドイツ化学会誌』に「爆発性をもつ水銀塩」と題して論文を掲載し、「水銀を溶かした酸性溶液にアセチレンガスを通すと爆発性をもつ有機水銀が生成することがある」と述べた [9]。



02

    米・ノートルダム大学(1905年)(Wikipedia)


  



01

   

   ジュリアス・ニューランド神父
   Julius A. Nieuwland 1878-1976
    ノートルダム大学化学教授


  
 米国ミシガン湖のすぐ南のインディアナ州にノートルダム大学がある。ノートルダム大学は、1842年にカトリック教会によって創設された私立の名門大学である。
 ジュリアス・ニューランド教授(Julius Nieuwland)は、カトリックの神父であった。ニューランド神父は、ノートルダム大学の植物学教室でアセチレンの化学について研究を続けた。ニューランドは『米国化学会誌』(1906年)に「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に対する作用」と題して論文を掲載した。
 ニューランドは、その論文の中で前記ホフマンの論文を紹介し、「水銀の酸性溶液にアセチレンガスを通すとアセトアルデヒドが生成する。そのとき水銀化合物が副生する。その水銀化合物は、酸の種類により爆発性を有しており、ある種の炭化物であろう」と述べた( The compound was explosive and hence was supposed to be a carbide.)[10]。一般に炭化物とは有機物のことにほかならない。
 水銀を硫酸に溶かしてアセチレンガスを吹き込むとアセトアルデヒドが生成する(クチェロフの水銀触媒法)。ホフマンとニューランドの論文によって、そのとき有機水銀が副生する可能性が知られるようになった。


【9】 有機水銀副生の「可能性」はいつ日本に伝わったか

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 J. ニューランドの『米国化学会誌』(1906年)[10] は、「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に對する作用」と題して同年(1906年)発行の『東亰化學會誌』(後の日本化学会誌)第27巻に「水銀化合物は其含む酸根の種類により爆發性あるを見たり。之等化合物の多くは其組成明かならざるも熱すれば概ねアルデヒドを發生す」として抄訳が掲載された [11]。

01

  「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に對する作用
 『東亰化學會誌』 第27巻 第7号 第1232-1233頁(1906年)


 1906年(明治39年)は、伊藤博文が韓國統監府の初代統監に就任し、南滿洲鐵道株式會社が設立された年である。
 熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)において、日本窒素肥料株式會社が創業されるたは、それより二年後の明治四十一年(1908年)8月20日(木)である。


【10】 有機水銀副生の「事実」はいつ確認されたか

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 米国の前記ニューランド教授は、『米国化学会誌』(1921年)に「アセチレンよりアセトアルデヒドをつくる場合の水銀塩の作用ならびにパラアルデヒドの製造方法」と題して論文を発表した [12]。


22

       J. ニューランド米国化学会誌 第43巻 第7号 第2071頁 (部分)[12]


 ニューランド教授は、「そこで本研究では、種々の水銀塩を酸に溶かし、それぞれ異なった温度と濃度で用いてみた。その場合に、アセチレンがどのように反応するか、その反応の程度と持続時間について検討した。この目的のためには、硫酸水銀を希硫酸に溶かしたものが触媒としての経済性と触媒としての性能、反応の持続性の面からみて最適であることが見出された」と述べた。
 また、「しかしながら、これらの溶液の中で、水銀が硫化物の形で長く存在することはなく、ある有機水銀に変性され、その有機水銀が触媒として作用するということを見出したものである」(It was found, however, that in these solutions, the mercury did not longer remain in the form of the sulfate but was converted to an organic compound, and this compound acted as the catalyst.)と述べた。


【11】 有機水銀副生の「事実」はいつ日本で周知となったか

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 ニューランド教授の『米国化学会誌』(1921年)の内容は、国内で 1922年に『工業化學雜誌』に抄訳が掲載された [13]。その中で「水銀鹽は直ちに還元せられ有機化合物となり、此(こ)の者の接觸作用により反應は進行する」と報じられた。



06

     『工業化學雜誌 第25巻 第980頁 (部分)(1922年)


   
  
   これによって、アセトアルデヒドを製造するとき有機水銀が副生する事実は国内で周知となった。


【12】 メチル水銀はいつから水俣湾に流されたか

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44

     水俣湾 遠方は天草諸島(2006年)

  
   
 熊本縣葦北(あしきた)郡水俣町(当時)において、日本窒素肥料株式會社水俣工場がアセトアルデヒドの製造廃液を水俣灣に流し始めたのは、 1932年(昭和七年)5月7日(土)であった。
 日本窒素はアジアで最初にアセトアルデヒドを製造するあたって、あらゆる情報・文献をいち早く入手していたと考えられる。しかし、製品とは直接関係のない廃液のことは眼中になかったのではないかと想像される。





第三章

日本窒素肥料株式會社


【13】 なぜ仙台で事業を始めたか

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 ♪ 広瀬川流れる岸部、想い出は帰らず (さとう宗幸『青葉城恋唄』 1978年)


17

   宮城紡績器械場(宮城郡荒巻村三居沢)1879年創業
      現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所


 広瀬川は、宮城県仙台市内を流れている。広瀬川に沿って市街地から少し離れた青葉区荒巻に「三居沢」(さんきょざわ)がある。そこでは、広瀬川は山間を蛇行している。落差が大きく、谷川のように流れが速い。
 明治十二年(1879年) 一關(いちのせき)藩士であった菅克復(かんこくふく 1837-1913)は、この三居沢に紡績工場を創設した。「宮城紡績器械場」といった。紡績は明治日本の重要な産業であった。宮城紡績器械場は動力として四十馬力の水車を使った。
 明治二十一年(1888年) 宮城紡績器械場はその水車に出力五キロワットの直流発電機を接続した。これによってアーク燈が灯されると「きつね火」が出たとして警官が出動する騒ぎとなった。かくして、三居沢は日本の「水力発電発祥の地」となった。
 明治三十二年(1899年) 宮城紡績器械場は「宮城紡績電燈株式會社」と改称した。これが現在の東北電力株式会社三居沢水力発電所(出力 1,000キロワット)の前身である。


07

    野口遵 1873-1944
  日本窒素肥料株式會社を創業


   
 日本窒素肥料株式會社の創業者となる野口遵(のぐちしたごう 1873-1944)は加賀藩士の家に生まれた。1896年に東京帝國大學工學部電氣工學科を卒業すると、ドイツ・シーメンス社の日本支社(東京)に就職した。
 1900年 シーメンス日本支社は、宮城紡績電燈株式會社に出力 300キロワットの交流発電機を納入した。その発電機はシーメンス社とシュッケルト社が共同製作したものであった。そのときシーメンス社から宮城紡績電燈株式會社に納入業者として派遣されたのが野口遵である。


01

  

    アレクサンダー・ワッカー
  Alexander von Wacker 1846-1922
    コンソルティウム社を創業


  
 シーメンス社は、ウェルナー・フォン・ジーメンス( Werner von Siemens 1816-1892)が自励式交流発電機を発明して起業した電機会社である。シュッケルト社は、シグムント・シュッケルト(1846-1895)とアレクサンダー・ワッカー(Alexander Ritter von Wacker)が共同で創業した電機会社であった。
 野口遵は、ドイツでアレクサンダー・ワッカーが独立して、ツァルツァッハ川流域のブルクハウゼンの森に「コンソルティウム社」という化学会社を創業し「カーバイド」を製造する計画であることを知った。「コンソルティウム」とは英語の「コンソーシアム」(企業合同体)のことである。ヨーロッパ各国の化学会社が共同出資する会社であった。



32

  紡電發電所と山三カーバイト製造所 1902年

 1902年に野口遵はシーメンス社を辞めると、ワッカーの計画に倣(なら)ってカーバイドの製造を始めた。以後、野口遵にとってドイツのワッカーは常に自らの仕事の鑑(かがみ)となった。
 カーバイド工場は宮城紡績電燈株式會社の庭先にできた。製造は同社の主任技師の藤山常一と野口遵の二人で行った。商品名は「山三カーバイト」であった。
「山三カーバイト製造所」と同じ建屋の中にそれまでの製綿工場もあった。この「山三カーバイト製造所」が後の日本窒素肥料株式会社の前身である。三居沢は日本の「工業化学発祥の地」ともなった。
 カーバイドの製造は首尾よくできたが、大量に製造するには三居澤の発電量では不足していた。カーバイドは依然として高価な輸入品であった。


【14】 なぜ水俣に進出したか

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17

        曾木第二發電所遺構(鹿児島県伊佐市 2012年撮影)



17

         曾木第二發電所の発電機 4基(1909年竣工)


 1905年に野口遵はベルリンにシーメンス社の重電機部門を訪ねた。その目的は水力発電機を購入することであった。すなわち、鹿兒島縣の川内川(せんだいがわ)で電力を起こし、近くの大口(おおくち)、牛尾、新牛尾の金鉱山に照明用の電力を送ることであった。それまで日本の鉱山では松明(たいまつ)が使われていた。
 日本の西半分は、ドイツ・シーメンス社と米国・ウェスティングハウス社との協定で、米国標準の 60ヘルツの電力が供給されることになっていた。シーメンス社の発電機は、出力周波数がヨーロッパ標準の 50ヘルツである。しかし、野口遵はシーメンス社の 50ヘルツの発電機を購入した。
 1906年10月1日に野口遵は二十萬圓(当時)を投じて川内川上流の「曾木(そぎ)の瀧」の少し下流にシーメンス社の設計になる「曾木第一水力發電所」を完成させた。「曾木第一水力發電所」は発電機を二基もっていたが、一基だけで出力が 800キロワットあり、国内で最大であった。
 大口、牛尾、新牛尾の三鉱山では合計でも 200キロワットの電力しか消費しなかった。近隣地域の電燈としての消費分も合計で 600キロワットに及ばなかった。野口遵は電力を近くの熊本縣葦北郡(あしきたぐん)水俣村(当時)に送り、そこでカーバイドを製造することを計画した。それには原料である大量の石炭と石灰岩を陸揚げし、製品であるカーバイドを出荷するための港が必要であった。水俣村は、誘致のために専用港として梅戸湾を提供した。梅戸湾はリアス式の天然の良港であった。


【15】 なぜ「肥料会社」を名乗ったか

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 1908年4月 野口遵は、シーメンス社がカーバイドを原料として化学肥料である「石灰窒素」(CaCN2)を合成することに成功したと聞いてすぐにドイツへ渡航した。アドルフ・フランク(Adolf Frank 1834-1916)とニコデム・カロー(Nikodem Caro 1871-1935)がシーメンス社とドイツ銀行の資金でその技術を開発していた。それは、カーバイドを窒素ガス中に置いて電気炉の中で 1,000℃程度の高温で加熱すると石灰窒素ができるというものであった。石灰窒素はさらに高温の水蒸気と反応させるとアンモニアが発生する。アンモニアはさらに最先端の化学肥料である硫安(硫酸アンモニウム)の原料となる。野口遵はフランクとカローに四十萬圓を支払って日本での実施権を購入した。
 1908年(明治四十一年)8月20日(木曜)に野口遵は百萬圓を投じて水俣村の古賀川河口に「日本窒素肥料株式會社」を設立した。大量の化学肥料を安価に供給して国家社会に貢献しようとするものであった。



koga

 熊本縣葦北郡水俣村 1911年(明治四十四年 原圖・陸軍省陸地測量部)既に「日本窒素肥料株式會社」が存在する



   
 1908年8月31日から日本窒素は石灰岩と石炭を原料として電力でこれを加熱し、カーバイドを製造した。従業員約七十名。月産約十五トンであった。原料の石灰石は水俣村周辺の不知火海沿岸で良質のものがとれた。また、石炭は水俣村の対岸の天草で「無煙炭」という良質の瀝青炭(れきせいたん)がとれた。



koga

          日本窒素肥料株式會社カーバイド工場(1909年)[19]
          熊本縣葦北郡水俣村古賀(手前に流れるのは旧古賀川)


   
 ヨーロッパではドイツのワッカーが コンソルティウム社を設立してカーバイドを製造していたが、日本窒素は、それに五年遅れて日本最大のカーバイド製造会社となった。
「私が(日本最初のカーバイド製造所がある)仙台からこちら(水俣)に来たのが明治四十年(1907年)でした。(カーバイド工場は)まだできていませんでした。(その翌年できたカーバイド工場の)場所は、今の(新日本窒素肥料株式会社)炭素工場です。こちらのカーバイドは立方(たちかた 性能)が悪くてよく売れなかった。(石炭ではなく)木炭でカーバイドを造っていました」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)
 日本窒素は、1908年11月にはフランク・カロー法によって化学肥料である石灰窒素の製造をはじめた。
「(石灰窒素の製造方法は)私もよく知らなかったのですが、社長(野口遵)がれんがを積んでいるので、何をしているのですかと聞いたら、窒素肥料を始める。原料はカーバイドだということでした」(井出兵衛門・元旧カーバイド工場職長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)
「(石灰窒素の製造は)カーバイドを粉砕して、直径三尺くらい、高さ一間くらいの釜の中に入れる。釜の形は茶壷のようでした。二重釜になっていまして、その周りにカーボンを入れて電気を通じる。約 24時間くらいして茶壷を上に引きあげるとできていました」(徳富季彦・元肥料係組長「水俣工場を回顧する」水俣工場新聞 第32号 1958年)
 古賀川河口にできたカーバイド工場は、曾木發電所のようにれんが造りであった。一方、曾木の瀧の近くでは 1909年に第二發電所が竣工し、水俣工場に 6,000キロワットの電力を供給した。曾木發電所は、シーメンス社の交流発電機を用いていたので、その出力周波数は、現在の東日本と同じくヨーロッパ標準の 50ヘルツであった。以後、水俣工場、社宅、水光社(すいこうしゃ 1920年創業の水俣工場従業員の消費組合)、宮崎縣の延岡(のべおか)工場(現在の旭化成株式会社延岡工場)、附属病院(当時)などの施設は、西日本の米国標準 60ヘルツの世界にあって、一部は二十一世紀の現在に至るまで 50ヘルツの孤島をなしている。
 野口遵は 1915年に水俣の広大な塩田跡地に新工場を建設し始めた。新工場は硫安を年間に五万トン製造するものであった。
 1914年に勃発した第一次世界大戦で外国産の化学肥料の輸入が途絶えて硫安の価格は以前の 三倍に急騰した。日本窒素は好況の中で周辺の農漁村から安価な労働力を吸収し、1920年に従業員数は三千名近くとなった。周囲の農村は貧しかった。わずかな農地で細々と暮らしていた。日本窒素に臨時の工員として雇われた者でも「かいしゃ行き」として周囲の住民に羨望の眼で見られた。むらのむすこの採用が決まると家では赤飯を炊いた。


【16】 どのようにしてアジア最大の「総合化学会社」になっか

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 第一次世界大戦終結から間もない 1920年1月、野口遵はドイツへ渡航した。アドルフ・フランクを訪ねた。その目的はフランク・カローの石灰窒素製法の実施権の期限を延長するためであったが、真の目的はヨーロッパで新しい技術を物色することであった。野口遵はフランクからイタリアのルイギ・カザレー(Luigi Casale 1882-1927)が「アンモニア(NH3)の直接合成」に成功したと聞き及ぶ。「やはり戦争は技術を進歩させる」これが野口遵の感性であった。
 カザレーによる「アンモニアの直接合成」とは、文字どおり水素(H2)と窒素(N2)に高い圧力を加えてアンモニア(NH3)に変えてしまうという画期的な技術であった。アンモニアは硫安(硫酸アンモニウム)の原料である。それまで水俣工場では、アンモニアを製造するのに、まず石灰岩と石炭を電気炉で約 2,000℃で焼いてカーバイドを製造し、つぎにカーバイドを窒素中で約 1,000℃で焼いて石灰窒素を製造し、さらに石灰窒素を高温の水蒸気と反応させて製造していた。その全過程をすべて飛ばして水素(H2)と窒素(N2)を直接反応させてアンモニアを製造するのが「カザレー法」である。水素(H2)も窒素(N2)も日本にある。
 野口遵はローマの約百キロメートル北のテルニー郡ネラ・モントロの町にカザレーを訪ねた。カザレーは野口遵を実験室に案内し、アンモニアの直接合成をやって見せた。巨大な圧縮機が回転した。当時の配管は貧弱であった。数百気圧の圧力がかかる。配管は何回か破裂した。しかし、カザレーは野口遵に少量のアンモニアを製造して見せた。「これはひょっとするとものになる」(野口遵)。野口遵はカザレーから技術を購入するためその場で十萬圓(当時)を支払い、後日九十萬圓を支払って「カザレーのアンモニア直接合成法」の実施権を購入した。
 1923年9月 野口遵は宮崎縣の延岡町(当時)に日本窒素肥料株式會社延岡工場を建設し、カザレー法によるアンモニアの直接合成の実験を始めた。それが現在の旭化成株式会社の前身である。
 1926年12月25日 野口遵は水俣工場でカザレー法による本格的なアンモニアの直接製造装置を完成させた。アンモニアの収量は日産二十トンであった。装置は東京高等工業學校(現在の東京科学大学)を卒業したばかりの橋本彦七が設計した。それは、いきなり製造装置をつくって本番稼働させるもので、「日窒方式」(にっちつほうしき)と呼ばれた。圧縮機が回転すると 800気圧もの高圧が加わる。当時の日本にそれだけの高圧に耐える配管などは存在しなかった。イタリアからカザレーが水俣に技術指導に来たが、カザレーもイタリアの研究室での経験しかなかった。水俣工場では頻繁に爆発事故が起きた。一瞬にして工場の屋根ガラスを吹き飛ばすこともあった。周囲の人びとは果たして町が吹き飛ぶのではないかと恐れた。



42

             朝鮮窒素肥料株式會社興南工場(1940年) 


 
 日本窒素は、これによって多種類の製品を出荷するようになった。アンモニアは硫安の原料になった。硝酸、ニトログリセリン、レーヨンの原料にもなった。日本窒素は五ヶ瀬川、阿蘇白川などにも発電所を建設し、1928年に総発電量は五十万キロワットとなっていた [14]。
 1926年 野口遵は朝鮮半島に「朝鮮水力電氣株式會社」を設立した。翌 1927年に「朝鮮窒素肥料株式會社」を設立した。野口遵は、大日本帝國朝鮮總督府の庇護のもとで、鴨綠江水系に赴戰江發電所など大規模な発電所をいくつも建設する。赴戰江の水を落差 1キロメートルで日本海側へ落とした。そのようにして二十万キロワットの電力を起こした。また、世界一を誇るソ連のドニエプル発電所を凌駕して出力三十二万キロワットの長津江發電所を完成した。また、咸鏡(ハムギョン)南道の興南(こうなん)に巨大な電気化学工業コンビナートを造成した。土地の買収は日本の憲兵が立会って強制的に行われた。敷地の広さは約五百万坪、従業員数は約 4万5千名であった。興南工場では硫安などの化学肥料、化学薬品、人造絹糸などが製造された。住宅、病院、学校、郵便局、警察署、火葬場なども建設された。興南には人口 18万人のアジア最大の化学工業都市が出現した [14,15,23]。


【17】 なぜ「アセトアルデヒド」を製造したか

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 1914年 ドイツのワッカーはカーバイドを製造していたコンソルティウム社をワッカー自らが経営する「ワッカー・ケミー社」(ドクター・アレクサンダー・ワッカー電気化学工業会社)として独立させた。1916年にワッカー・ケミー社はアセトアルデヒドの製造を始めた。
 アセトアルデヒドの製造実験は、宮崎縣の日本窒素延岡工場(現在の旭化成延岡工場)で行われた。延岡工場では実験室で日産 20~30グラムのアセトアルデヒドを製造した。一方、水俣工場では、カザレー式のアンモニアの直接合成が成功し、アンモニアの原料としてのカーバイドが大量に余っていた。
 そのころの日本は「國家総動員體制」を強化して、ひたすら戦争に向けて突き進んでいた。その背景には、第一次世界大戦の戦訓から、戦争における勝利は、国家が総力戦の体制をとることが必須であるという認識が深まりつつあった。1918年に「軍需工業動員法」が制定された。それによって戦時下における軍需工場の管理、収用と労働者の徴用、平時の工場調査と軍需工業の保護育成が規定された。その統轄のために内閣総理大臣のもとに「軍需局」がおかれた。アセトアルデヒドは重要な軍需物資であった。
 1928年日本窒素は水俣工場の中に水銀を触媒とするアセトアルデヒドの試験工場(パイロットプラント)をつくった。工場はくり返し爆発し、何年も稼働するに至らなかった。そのような工場にも一銭五厘の葉書一枚で地域から多くの工員が集まった。地域には他に目ぼしい産業はなく、何十倍もの就職志願者が応募した。工員は採用面接のとき製造課長の橋本彦七から「爆発してよいか、死んでもよいか」と聞かれて「死を覚悟している」と答えた志願者が採用された。日本人の命の値段は安かった。お國のためならただ同然であった。
 1932年5月7日(土)に日本窒素はアセトアルデヒドの製造を始めた。メチル水銀廃液は水俣灣へ直接流れた。
 アセトアルデヒドの第一期の製造設備は日産 5トン、第二期の製造設備(1933年4月稼働)も日産 5トン、第三期の製造設備(1934年10月稼働)も日産 5トン、第四期の製造設備(1935年9月稼働)も日産 5トン、第五期の製造設備(1937年4月稼働開始)は日産 10トンであった。
 製造設備は、これもいきなり本番稼働のもので、労働災害は頻発した。従業員はいつも爆弾の上に乗っていると感じていた。
 日本窒素はこのアセトアルデヒド事業を足がかりに、第二次世界大戦前に総資産で現在の評価額約 50兆円の大会社として発展していく。北朝鮮の興南工場でもアセトアルデヒドが製造された。
「日本窒素の如き大工場設備は、如何に政府の力をもってしても、戰爭が始まったからといって一朝一夕につくることはできない。假に建物や機械ができたとしても、これに生命を與ふべき技術經験等の人的資源はこれを如何ともすることができない。聖戰下における日本窒素はいまや一營利會社としてこれを見るべきでなく、一大總合國策會社といふべきであらう」(『日本窒素肥料株式會社事業槪要』1940年 [15])
 日本窒素はその間に、宮崎縣の延岡工場(現在の旭化成延岡工場)、朝鮮の鴨綠江河畔の朝鮮窒素肥料株式會社などを含めると、従業員の数は 8万人に達し、化学会社の規模としてアジア最大の地位を築く。
 1941年に水俣工場は、日本で最初に塩化ビニールの製造をはじめた。塩化ビニールの可塑剤の原料として大量のアセトアルデヒドが必要になった。その製造の過程でさらに大量のメチル水銀が水俣灣に流れ込んで行った。


【18】 なぜ「アセトアルデヒド」の製造を直ちにやめなかったか

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 戦後の 1950年1月31日に日本窒素は財閥解体によって資本金四億円の新日本窒素肥料株式会社として再発足することになった。そのとき海外や延岡工場(現在の旭化成延岡工場)を含めた総資産の八割を失った。しかし、同年に勃発した朝鮮戦争による特需が追い風となって復興が進んだ。
 1952年に生産を開始したオクタノールは需給がひっ迫した。以後、新日本窒素は十年間にわたって国内のオクタノール市場をほぼ完全に独占した。仮に新日本窒素によるオクタノールの供給が停止するとわが国の繊維産業などは立ちゆかない。戦後の荒廃からようやく立ち直って少しずつ成長をはじめた日本の産業にとってそれは大きな打撃となる。深刻な経済恐慌さえも起こりかねない。当時日本の経済はひ弱であった。オクタノールを製造するにはその原料であるアセトアルデヒドが必要であった。アセトアルデヒドの製造は、新日本窒素にとって、また、日本国政府にとって、なくてはならない事業であった。
 日本国政府は、その一方で、1955年から化学工業の分野で「石油化学工業第一期計画」を立てて具体化をはかっていた。アセトアルデヒドは、石油化学工業の一環としてエチレンを酸化して製造できる。日本の化学産業を石油化学化しなければ、将来日本経済が発展することはない。
 1956年5月1日 水俣湾周辺に原因不明の「奇病患者」が存在することが熊本県水俣保健所によって確認された。
 1957年5月に水俣工場内にも「社内研究班」が設置された。研究組織は次のように分担された [30]。
  1. 魚介類、工場排水、その他物質による動物実験は附属病院が担当し、その責任と実験結果の判定は、細川一院長とする。
  2. 排水・魚介類などの採取、試料の調整、処理、分析などは、技術部が担当し、責任者は技術部長とする。
  3. 対外発表は、技術部、病院の実験データを、工場長(西田栄一)、技術部長、病院長で検討し、統一見解として行う。
 この「社内研究班」は細川一の原因物質解明の動きを封じ込めるための秘密組織であった。
 1958年 入江寛二水俣工場肥料部長は西田栄一工場長に対して「今の工場の姿勢は適当ではない。大学等研究機関と積極的に手を組んで原因究明に立ち向かうべきではないか」と尋ねた。西田栄一は「工場に原因があるなどという立証は誰にも出来ない、裁判になっても、七年も八年もかかって結局決着はつかないのが落ちである」と答えた [24]。
 当時通商産業省から経済企画庁水質保全課に出向していた汲田卓蔵は通産省官房に対して「とめたほうがよいのではないですか」と尋ねた。通産省官房は「何言ってるんだ。今とめてみろ。チッソが、これだけの産業が止まったら、日本の高度成長はあり得ない。ストップなんてことにならんようにせい」と答えた [24]。

 1959年 新居浜、岩国、四日市、川崎に日本国政府主導の四つのナフサセンターが稼働した。日本国政府主導のこの石油化学事業は、将来は水銀とアセチレンを用いた新日本窒素の旧式な化学工業よりも圧倒的に有利となることが分かっていた。
 1959年10月6日に細川一は水俣工場のアセトアルデヒド蒸留塔の廃液をエサに混ぜて「ネコ400号」に投与して発症させた。しかし、細川一が独断で行った実験であったので、「社内研究班」にも上がらなかった。工場内で細川一以外に「ネコ400号実験」のことを知ったのは技術部次長の市川正だけであった [30]。
 1961年10月20日から水俣工場内で「社内研究班」による極秘実験として「ネコ400号実験」の再実験が行われた。アセトアルデヒド蒸留塔の廃液をネコに投与した。ネコは確かに発症した [30]。1962年に細川一は附属病院を辞めて帰郷(愛媛県)した。当時の「実験台帳」は細川一がこの時にもち出して現存する。
 果たして、当時原因物質を解明する「手立て」は眼の前にいる「ネコ」だけだったのであろうか?
 当時日本の誰かが、「メチル水銀中毒」が 1865年にロンドンで発見されていたことに思いをいたすことはなかったのであろうか?
 当時日本の誰かが、アセトアルデヒドの製造工程で「有機水銀」が副生することが 1921に米国のノートルダム大学で発見されていてそれが日本でも(ネコの実験をしなくても)国内の雑誌などで周知となっていたことに思いをいたすことはなかったのであろうか? 
 1965年 新日本窒素肥料株式会社は「チッソ株式会社」に社名を変更した。
 日本国政府は、石油化学工業が本格的に稼働する 1968年までの間にわが国の経済成長を維持するため、チッソ水俣工場に、たとえ周辺地域にメチル水銀中毒患者が多発することが分かっていても、水銀とアセチレンを用いた旧式の方法によってアセトアルデヒドを継続して製造させた。
 日本国政府にとってチッソ水俣工場のアセトアルデヒドは「もう用なし」となったのが 1968年である。
 メチル水銀は 1968年5月18日(土)まで水俣湾に流された。


第四章

ハンター・ラッセル症候群


【19】 欧米ではどのように定義されたか

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31

   

ハンターとボンフォード、ラッセルの論文」 (部分)
『医学四半期報』 第9巻 第193頁


   
 1937年にイギリスの種子処理工場でメチル水銀中毒の重篤な四症例が発生した。D. ハンター、R. ボンフォード、D. ラッセルの三名はその四症例について、1940年に『医学四半期報』の中で「メチル水銀化合物による中毒」と題して論文 [16] を発表した。ハンター等三名は、その第一頁に『聖バーソロミュー病院報告書』 [2,4] の内容を改めて具体的に紹介した。また、ヘップ論文 [7] を紹介した。その上で重症の四症例には共通して運動失調、構音障害(ディサースリア dysarthria)、視野狭窄の症状があると報告した。
 ただし、ハンター等三名は「三主徴」(さんしゅちょう trias)という言葉を用いなかった。




ハンターとボンフォード、ラッセル『医学四半期報』 第 9巻 (1940年) [16] 最初の頁(抄訳)


 水銀の有機化合物は最初 1863年に化学の研究に用いられ、1887年に治療に用いられ、1914年に種子処理剤の製造に用いられた。水銀の低分子量の炭水化合物はきわめて有毒であることが分かってきた。有機水銀の中で人体に有毒として記録に残るのはメチル水銀だけである。
 フランクランドとドゥパは聖バーソロミュー病院において、金属あるいは金属化合物の原子価を決定するのにジメチル水銀を用いた(E. Frankland & B. F. Duppa, 1863)[1]。そのとき実験に関与していた二名の技術者が中毒を起こして死亡した(George N. Edwards, 1865, 1866)[2,4]。その一人は 30歳のドイツ人であったが、ジメチル水銀を 3か月間とり扱っていた。患者は両手のしびれ、難聴、視覚障害、歯茎の痛みを訴えた。動きがゆっくりと鈍くなり、足どりは不安定になった。支えがないと立てなくなった。神経が麻痺(まひ)していたわけではなく、眼底も正常であった。一週間足らずで劇症化し、激しくふるえ、質問にも答えられなくなった。尿を失禁し、昏睡をくり返した。劇症化して二週間で死亡した。
 もう一人の患者 23歳は、実験室に 12か月間勤務していたが、ジメチル水銀をとり扱ったのは 3か月前の二週間だけであった。そして 1か月ほどたって歯茎の痛み、よだれ、両足・両手と舌のしびれ、難聴、視覚障害を訴えはじめた。質問にはゆっくりとしか答えられず、しゃべろうとしても不明瞭であった。運動障害が生じたが、上肢は衰弱していなかった。3週間たつとものを飲み込めなくなった。しゃべることもできなくなり、糞尿を失禁するようになった。しばしばふるえて暴れた。錯乱状態のまま、発症後 12か月後に、直接には肺炎で死亡した。第三番目の患者は最初の二名の症状とよく似ていたが、やや軽く、やがて回復した。これらの中毒症は化学者の間で世代から世代へと語りつがれた。
 1887年にヘップはジエチル水銀を梅毒の治療のために皮下注射に用いた(Paul Hepp, 1887)[7]。ジエチル水銀の1パーセント溶液を 0.1~1.0 CC の範囲で用いた。一人の患者には二回までしか投与しなかった。なぜなら、一方で動物実験を行った結果きわめて有毒であることが示唆されたからである。



 ハンター等三名は、種子処理工場で起きたメチル水銀中毒の症状は、聖バーソロミュー病院で 1865年に見出されたメチル水銀中毒の症状と幾つかの点で同じであると述べている("The illness of these men was in some ways comparable to that of the two technicians who died at St. Bartholomew's Hospital.")[16]。


48

   

ハンター・ラッセル症候群 [17]
小脳切片の顕微鏡写真 (120倍)
有機水銀による小脳皮質の委縮。顆粒細胞層の消失など


 上記ハンター等三名の論文の冒頭にある「1863年に化学の研究に用いられ」とはフランクランド等による原子価決定のための研究 [1] のことである。「1887年に治療に用いられ」とはヘップによる梅毒の治験(猛毒のため失敗) [7] のことである。「1914年に種子処理剤の製造に用いられ」とは、ドイツで開発され、その後バイエル社より発売された穀物種子のカビ防止剤「ウスプルン」(商品名)のことである。
 ハンター等三名の論文で報告された四名の患者のうちの一人が、発症後 15年経って 1952年12月14日に肺炎で死亡した。その 22時間後に剖検が行われた。大小脳の局所萎縮(きょくしょいしゅく)、顆粒細胞層(かりゅうさいぼうそう)の喪失(そうしつ)などが見られた。ハンターとラッセルはその解剖学上の所見について「有機水銀化合物によるヒトの大小脳の局所委縮」と題して論文(1954年)を発表した [17]。



29

   

脳を解剖するラッセル教授(1939年)


 
 ドイツ・ベルリンのシュプリンガー・フェアラーク社(Springer-Verlag)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて『病理学的解剖学及び組織学各論ハンドブック』 (Handbuch der speziellen pathologischen Anatomie und Histologie)を刊行した。ハンドブックといっても 10巻以上ある。また、それぞれの巻が幾冊かの号に分かれている。当時ドイツ語で書かれたそのハンドブックは病理学的解剖学及び組織学の分野の大著であった。
 ブルガリア国ソフィア市のアンゲル・ペンチュウ博士(Herr Professor Dr. Angel Pentschew)は、前記ハンドブックの第 13巻として 1958年に出版された『中枢神経障害』(Erkrankungen des zentralen Nervensystems)の『2B号』という分冊の『中毒』(Intoxikationen) の章を執筆した [20]。



30

A. ペンチュウ中毒』 (Intoxikationen) 第1頁 (1958年)


   
  
 筆者(入口紀男)は熊本大学附属図書館に所蔵されているその『2B号』を読んだが、製本されたその一冊(2B号)だけでも、両手でかかえてずっしりと重い。その中で A. ペンチュウの『中毒』の章は約 600頁の分量がある。筆者以外にこの本を借り出した記録はないようである。果たしてこの本は、附属図書館に収蔵されてからいったいどれだけの人に読まれたのであろうか。
 ペンチュウは『中毒』の章を執筆したとき、ブルガリアから米国ワシントン市に移住していた。ペンチュウは、前記ハンター、ボンフォード、ラッセル三名の 1940年の論文 [16] と、ハンターとラッセル二名の 1954年の論文 [17] を引用して紹介した。
 ペンチュウは、その中で、ドロシー・ラッセル教授と個人的に相談した上で(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel)、死後の解剖によって発見された、メチル水銀による大小脳の局所萎縮、顆粒細胞層の破壊などの病理学上の「組織所見」について「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名すると記述した [20]。
 下記に、A. ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)の章 [20] を邦訳して掲載する。

A. ペンチュウ 『中毒』 第2013頁(1958年)[20] (抄訳)

 アルキル水銀化合物ではテトラエチル鉛に似た特殊な毒性が確認されており、揮発性のジメチル水銀とジエチル水銀(Frankland and Duppa 1863 [5]、Balogh 1875)で、劇症の神経障害が最初に起きている(George N. Edwards, 1866)[3]、(P. Hepp, 1887) [7]。
 有機水銀化合物による最初の中毒は、二名の実験技術者がジメチル水銀を製造していたときに中枢神経の症状として起こり、最初の患者は発症して二週間後に死亡し、二番目の患者は一年後に死亡した(Edwards [2,4])。その症候群(Syndrom)は、二例とも共通して、四肢のしびれ、視覚傷害と聴覚傷害、四肢の運動失調からなっていた。二番目の患者は、ものを飲み込めず、言語障害があり、失禁し、しばしば狂騒して暴れた。錯乱の中で一年後に肺炎で死亡した。メチル水銀中毒の他の症例については、ハンターとボンフォード、ラッセルの1940年の論文 [16]、ヘルナー(Herner)の1945年の論文、英国の工場監視官の1945年の報告書、アールマーク(Ahlmark)の1948年の論文、アールマークとアールベルグ(Ahlberg)の1949年の論文、ラングレン(Landgren)とスウェンソン(Swensson)の1949年の論文などを見よ。

A. ペンチュウ 『中毒』 第2014-2015頁(1958年)[8] (抄訳)
神経系の形態学的所見(脳)


 ジメチル水銀中毒のまま 15年後に死亡した患者の解剖学上の所見が最近ハンターとラッセルによって、報告されている(1954)[17]。その患者は、1940年にハンターとボンフォード、ラッセルによって報告された四症例のうちの一例であり、四名とも同様な症状をもっていた。すなわち、「運動失調」、「Dysarthrie」(ディサートリイ 構音障害)、「視野狭窄」である。記憶傷害と知的傷害はない。
 脳の前頭葉に対称的な軽い委縮があり、後頭葉中間部は鳥距野で深刻な萎縮がある。髄膜と上衣間の組織の厚さは部分的に 0.4センチに減じている。後角はかなり拡張している。小脳の主溝の後ろ両側葉に溝の深さほどの対称的な大きな委縮があり、小脳虫部は山腹と山頂の作動性部位で同様な委縮がある。
 顕微鏡観察では、視覚皮質が両半球で大きく委縮していた。ここではニューロンの喪失が著しく、その程度も部位によって異なっている。失われていないニューロンも小さく縮小している。老衰斑や神経原線維の変化は見られない。小脳皮質の顆粒層は細胞損失が著しく、一方、プルキンエ細胞は比較的正常に保持されている。プルキンエ細胞層のグリア細胞の増殖には狭い分子層の神経膠症を伴っている。最も顕著であるのは皺の深さである。プルキンエ細胞のニッスル小体は正常には見えるが奇妙である。分子層では異様に高密度であり、主なデンドライトは向きが変わっており、あるいは皮質の深い方へ向いている。デンドライトは乱雑に配置されており、無数の星状体が見える。
 小脳組織とつながる脊髄後索に異常は見られないので、運動失調は小脳皮質の顆粒層破壊に伴う委縮によるものである(G. Ure, Dtsch Z. Nervenheilk. 168:195-206, 1952)。視野狭窄は視覚野の委縮によるものである。
 ハンターとボンフォード、ラッセルによって1940年に報告された四名の患者のうちの第二番目について(死後の)解剖学上の所見が発見されたので、私(A・ペンチュウ)は、ドロシー・ラッセル教授とも個人的に相談し(nach persönlicher Mitteilung von Prof. Dorothy Russel)、これらの特殊な症状について「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)と命名することを提案する。
 興味深いことに、この症候群は、ヘップが 1887年に行った犬と猫を用いた動物実験の(解剖学上の)所見と一致する(Hepp, 1887 [7])。


 以上申し述べたように、「ハンター・ラッセル症候群」とは、メチル水銀中毒患者の死後に脳を解剖して確認される「大小脳の局所萎縮」、「顆粒細胞層の喪失」などの「病理所見」のことである。生前の重症患者にみられる「運動失調」「構音障害」「視野狭窄」のような臨床所見のことではない。


【20】 日本ではどのように定義されたか

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 前記ハンター等の二つの論文 [16,17] は定期刊行物であり、当時東京大学附属図書館など国内の 20以上の図書館で逐次購入され、収蔵された。
 1956年5月1日に水俣市で「奇病」が確認されると、8月14日に「水俣市奇病対策委員会」は熊本大学医学部に原因究明を依頼した。8月24日に熊本大学医学部において、内科、小児科、病理、微生物、公衆衛生の各教室からなる「医学部水俣奇病研究班」が組織された。衛生学教室も加わった。
 当時、熊本大学の研究班は教室ごとに研究を行い、それぞれが原因物質解明の一番乗りを競うものであったことが知られている。
 1957年に熊本大学の内科学の徳臣晴比古(とくおみはるひこ)助教授は、東京に出張したとき、日本橋の本屋で米国の エッティンゲン(Wolfgang Felix von Oettingen)が著した『ポイゾニング(中毒) - 診療ガイド』 [18] を購入した。その本の中に視野狭窄、運動失調などをもたらす中毒として、ハンター等三名の論文 [16] が引用されていることを知り、有機水銀に疑いをもった。徳臣助教授は東京大学からハンター等三名による論文 [16] を取り寄せた。また、それに関連して後にハンターとラッセルの論文 [17] を取り寄せた。しかし、徳臣助教授は、有機水銀に確信をもつには至らなかった。
 1958年10月21日に新日本窒素肥料株式会社の西田栄一水俣工場長は熊本大学に鰐淵健之(わにぶちけんし)学長を訪ね、熊本大学が「奇病」の原因を究明していることに対して、文部省当局が「政治問題化」することを懸念している(ので究明をやめろ)と申し入れた。
 1958年に熊本大学の病理学の武内忠男(たけうちただお)教授は、ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)[20] の刊行を広告で知り、それをドイツから取り寄せた。武内教授は、その中に、ハンター等三名の 1940年の論文 [16] が紹介され、イギリスの種子処理工場で起きた四例の重篤な患者に運動失調と視野狭窄、Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)の症状が共通してあったと記述されていることに着目した。また、ハンターとラッセルの 1954年の論文 [17] から転載された病理所見(剖検の記録)が、水俣市から送られて劇症で死亡した患者の脳の病理所見(局所大小脳萎縮、顆粒細胞層破壊など)と共通していることに着目した。また、「ハンター・ラッセル症候群」(Hunter-Russelsches Syndrom)という何らかの症候群名が書かれていることに着目した。
 メチル水銀中毒では、重症であれ、比較的軽症であれ、生前に感覚の鈍り(感覚障害)が発現する。当時、病理学者の武内教授の手に渡されたものは、重症で死亡した患者の生前のカルテと遺体であった。水俣の現地には感覚の鈍り(感覚障害)などを訴える多数の患者がいたが、逆に大学のほうから現地に出向いてフィールドワークを行うなど、科学的な検証が行われることはなかった。武内教授が描いた病像は、実態とは異なっていた。
 1959年7月22日に熊本大学の研究者は医学部講堂で「水俣病研究報告会」を開き、「水俣病の原因物質はある種の水銀化合物、特に有機水銀であろうと考えるに至った」と発表した。その発表の内容は1959年8月20日に「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」[9] として刊行された。その中で武内教授は次のように述べている。

病理学的研究からみた水俣病の原因に関する考察 [21] (部分)
医学部第二病理学教室 武内忠男
(昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨)

 水俣病の主要症状の内、私どもはかねてから三主徴ないし五主徴を挙げてみることを提案したが、三主徴を失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ、構音障害)、五主徴をその三主徴に加うるに宮川教授の言う荒廃(広義)と末梢神経症状とを挙げてみている。これらの症状を凡(すべ)て具備する中毒性疾患は文献上ほとんど認められない程で、僅かに有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrieがあるのみである。



 武内忠男教授は、前記のとおり「有機水銀中毒に認められると言う Hunter-Russell's Syndrome (Pentschew)としてみられている三主徴即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)がある」と述べた。武内教授のこの発表は、原因物質として清浦雷作の「アミン説」など様ざまな異説が横行する中で、有機水銀を特定するに至ったた歴史的価値をもつ発表である。また、これが、わが国で「ハンター・ラッセル症候群」という呼称が一般に用いられるようになった原点である。
 しかしながら、A. ペンチュウの『中毒』(Intoxikationen)[20] の中に「三主徴」(ドイツ語で Trias)に関する記述はない。また、「ハンター・ラッセル症候群」として Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)を特定する記述はない。それより、ハンターとラッセルは 1954年の論文 [18] で、患者に生前「感覚障害」(二点法)があったことをくり返し述べている。武内教授は A. ペンチュウの『中毒』の字面を「見た」のではあろうが、内容を「読まない」で自らの「憶測」をそれに重ねてしまったようである。
 武内教授は、A. ペンチュウについて「米国 NIH(National Institutes of Health)の神経病理学者である」と紹介した記録が残っている(テープからの書き起こし)。NIHは米国ワシントン市の近くにある国立の研究所である。筆者(入口紀男)は若いころ NIHに在籍したことがあるが、A. ペンチュウが NIHに在籍した事実はない。A. ペンチュウは、『中毒』(Intoxikationen)[8] を執筆したころ、ワシントン市の軍事病理学研究所(Armed Forces Institute of Phathology)に所属していた。武内教授は、そこでも事実を知らないで自らの憶測をそれに重ねている。
 以上申し述べたように、日本では「メチル水銀中毒」は「運動失調」「構音障害」「視野狭窄」の三つの症状を呈するものと定義された。


【21】 メチル水銀中毒の定義に苦しむ日本社会

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 1959年10月6日に熊本大学は、有機水銀説について、熊本県に対して改めて鰐淵健之学長が報告書を提出した。その報告書は、熊本県衛生部より『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』と題して1960年3月に公表された [22]。以下その一部(第35頁)を掲載する。

「いわゆる水俣病の原因究明について」 第35頁 [10]
食品衛生調査会水俣食中毒部会 委員代表 鰐淵健之 1959年10月6日

  
 水銀を重要視するにいたった根拠

(1) 臨床的観察 (徳臣)
  症状別頻度をみると視野狭窄、難聴、言語障害、歩行障害、運動失調、表在並びに深部知覚障害、軽度の精神障害を70~100%に認めるがこれ等の症状は従来報告された有機水銀中毒と極めてよく一致する。水俣病の三主徴を失調、視野狭窄、Dysarthrie(ディサートリイ 構音障害)とするとこれ等の症状を具備する中毒性疾患は有機水銀中毒の Hunter Russelis Syndrom 即ち小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie あるのみである。

(2) 病理学的所見 (武内)
 急性例と慢性例では詳細な所見を異にするが本質的変化は共通で主要なものは神経細胞の強い退行変性ことにその脱落が顕著でいわゆる小脳顆粒型委縮を示す。視中枢とみられている鳥距野の退行変性が著明で、その部の神経細胞は広範囲にかつ強度の脱落をきたしている。その他大脳皮質、皮質下核群、間脳、脳幹部の核群に不定の神経細胞、障害を散見する。
 又不定の限局性軟化、硬化、退行変性に伴う修復機転としてのグリアの反応性増加ないし増殖、円形細胞浸潤等がある。急性期には脳腫脹微小出血、強度の浮腫が共通の所見である。慢性例では強度の脳萎縮とこれに伴う外脳水腫がある。脊髄、末梢神経には不定部位に稀に脱髄性所見を認める。一般臓器には顕著な変化はないが消化管の糜爛とカタール肝腎の軽度の変性変化骨髄の低形成等がみられる。以上の所見の中最も特徴的な小脳顆粒型委縮、視中枢荒糜は人の解剖例では有機水銀中毒例に認められている。



 徳臣晴比古助教授も、上記のとおり、「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを「Hunter Russelis Syndrom」(ハンター・ラッセル症候群)と報告した(Russelis の表記は Russelsches の誤り)。徳臣助教授も、死後の「解剖所見」である「ハンター・ラッセル症候群」を生前の「臨床所見」としてそのまま取り違えた。
 熊本大学は「ハンター・ラッセル症候群」によって「奇病」の原因物質を「有機水銀」であると公表することができた。有機水銀に想到できたことが「てがら」にもなった。水俣市で見つかった有機水銀中毒症が、あたかも日本窒素が有機水銀を流しはじめた 1932年よりも新しく 1937年にイギリスの種子処理工場で発見された中毒症であるかのように発表することによって、西田栄一のいう「政治問題化」も避けられた。しかし、メチル水銀中毒が 1865年に聖バーソロミュー病院で見出されていた事実に触れることは、そのときからタブー(禁忌)となった。
 徳臣助教授が「三主徴」として「小脳性失調」、「視野狭窄」、「Dysarthrie」(構音障害)をあげ、それを「ハンター・ラッセル症候群」と報告したとき、徳臣助教授は、水俣市から研究対象として大学に送られたわずか 34名の患者しか診ていなかった。それらの患者は、小脳性失調、視野狭窄などを発現した重篤な患者だけであった。水俣の現地で感覚の鈍り(感覚障害)を訴える大部分の患者について科学的検証としての確認(フィールドワーク)といえるものは行われなかった。したがって、徳臣助教授が描いた病像は実態とは異なっていた。
 1970年2月1日「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が施行された。その特措法に基づいて「熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会」が設定され、徳臣晴比古教授が会長に選任された。
 1971年8月7日に、そのころ新設された環境庁より審査会に対して「事務次官通知」が送達された。それは、求心性視野狭窄と運動失調(言語障害、歩行障害を含む)、難聴、知覚障害のうち、いずれかの障害がある場合において、有機水銀の影響を否定しえない場合は、これを水俣病の範囲に含むというものであった。「事務次官通知」は、熊本大学の「有機水銀説」に依拠し、かつ熊本大学の「ハンター・ラッセル症候群」を参照して策定されていたもので、「いずれかの障害がある場合において」としていた。当時審査会長となっていた徳臣教授は、「ハンター・ラッセル症候群」を「金科玉条」とし、複数の症状が組み合わされていなければ「ハンター・ラッセル症候群」すなわちメチル水銀中毒の生前の症状ではないとして、前記「事務次官通知」を拒否した。徳臣教授は、「この環境事務次官通知は、誰が何を根拠に何を目的に発令したかわからないが、水俣病患者を一度も診察したこともなく、神経病理学、内科学の研鑽の実績があるとも思われない者が、よくこのような診断基準が出せるものだと驚き、かつ憤慨した。審査会委員のうち、実際に診療に携わっていた者十一人中七人は、同年九月三日の審査会で沢田一精県知事に辞表を提出した」と述べている(徳臣晴比古『水俣病日記』 熊本日日新聞情報文化センター 1999年)。
 徳臣教授は、A. ペンチュウの『中毒』(Intokikationen)[20] を改めて読み返してみることをしなかったのであろうか? A. ペンチュウが「三主徴」(Trias)という言葉を一か所も用いていないことに気がつくことはなかったのであろうか? 徳臣教授は、A. ペンチュウが小脳性失調、視野狭窄及び Dysarthrie(構音障害)を「ハンター・ラッセル症候群」と呼んで「いない」ことに気がつくことはなかったのであろうか? この「ハンター・ラッセル症候群」の誤った定義は、その後メチル水銀中毒を最初からなかったことにしたい行政機関にとって、真正の患者を切り棄てるための「錦の御旗」と化した。膨大な数の患者が補償されることなく切り捨てられていく。
 次は、拙著からの引用である。

入口紀男『メチル水銀を水俣湾に流す』(日本評論社 2008年)[26]

 この国で、メチル水銀中毒症の被害者が、公共の利益と福祉、公共の安全の立場から救済されようとしたことはありません。日本国政府は被害者を救済しようとせず、ただ切り捨てようとして来ました。
 この本の最初に述べましたように、メチル水銀中毒症とは、メチル水銀被ばく歴がある人に感覚障害などの中枢性障害が認められたものです。これが科学的な定義です。また、これが 2004年4月27日に大阪高等裁判所によって判決理由書の中で採用された定義です。上告審(最高裁判所)も、2004年10月15日に大阪高裁のこの判決主文を追認しました。感覚障害などの中枢性障害があって、メチル水銀被ばく歴より他に別段の原因が特定できなければ、それはメチル水銀中毒症です。欧米先進国では、将来にわたってメチル水銀中毒症の患者を一人でも出してはならないので、そのように科学的に正確な定義にしているのです。
 1865年に聖バーソロミュー病院で発生した第三人目の患者は、他の重篤な二人に比較すると症状が軽く、死亡しませんでした。そのように、メチル水銀中毒症は必ずしも致死性のものだけであるとは限りません。メチル水銀中毒症の被害者には、激症の、いわば「頂上」の患者もあれば、一方で、頭がいつも重かったり、口や舌が何かいつもしびれていたり、うなじから肩までいつも何か重苦しく感じられたり、耳が聞こえにくかったり、足の裏を少し怪我していてもあまり気が付かなかったりするなど、日常生活にやや支障を来たした、いわば「裾野」の患者もあるのです。
 現在、日本国内でこの「メチル水銀被ばく歴がある人に感覚性障害などの中枢性障害が認められたもの」という、科学的に正確な定義をそのまま適用すると、メチル水銀中毒症の患者は、1932年5月7日(チッソがアセトアルデヒド製造を始めた日)までにさかのぼって、水俣湾と不知火海沿岸を中心に、熊本県と鹿児島県の山間部を含めた全域と、住民の転出先の全国に広く分布し、死者を含めると、数十万人を超えるでしょう。その数字は、日本国政府の予算枠としても、地方公共団体の予算執行の現実としても、とてもこれらすべての患者に対して補償を計画して実施できるような数字でありません。補償の対象となるのは、過去から将来にわたる治療費だけでなく、失われた生活費や身体的・精神的被害も補償しなければならないのですから。筆者が試算すると、これに要する補償金の総額は、少なく見積もって十兆円を単位とする高額なものとなる可能性があります。でも、補償はされなければなりません。日本が経済成長を遂げて国内総生産で毎年百兆円を超える経済大国となるには、それだけの犠牲が必要であったのでしょう。もっとも、人の命や健康がお金に換えられるものではありませんが。
 行政の現実としては、補償の対象となる被害者の数をどうしても少なくする必要に迫られています。そこで、メチル水銀中毒症をまず「水俣病」という差別として機能する呼称を用いて限定し、患者やその家族が周囲から差別的な眼で迷惑視されるという「空気」をつくり、「申請なければ患者なし」という、あたかも自由な処分権を与えたかのような制度を運用することによって、地域からの申請者の数を非常に少なく制限することが可能です。患者は、もし患者として申請したければ、「私人の間の争いの場」に身を置かなければならないのですから。すると、心ある私人はそのような「空気」の中で自分や家族をかばって申請を差し控えるでしょう。そのようにして、申請者に社会的な抹殺を意味する「抗空気罪」を背負わせることによって、まず申請者の数を数十分の一以下に制限することが可能です。
 つぎに、メチル水銀中毒症の診断基準として、歩行障害があることとか、言語障害があることとか、視野の中心狭窄があることといった、複数の症状を組み合わせることによって、それらが全部そろっていなければメチル水銀中毒症患者ではないという診断基準を作成することも可能です。そのようにして、行政の手法としてはメチル水銀中毒症の患者の数をさらに数十分の一以下に制限したり、数百分の一以下に操作したりすることが可能です。そのようにして、補償の対象となる被害者の数をできるだけ少なくし、あるいは患者の発生が本当は初めから無かったのだと見なすことが行政の手法としてできることの現実でしょう。



 北太平洋全域のメチル水銀濃度が過去 100年間で約 10倍高くなっている [29]。産業革命以来世界中で石炭が大量に焚かれるようになったからである。石炭 1トンには太古の水銀約 250ミリグラムが含まれている。石炭に含まれる水銀は約 357 ℃で沸騰して水銀蒸気となる。この水銀蒸気は上空で冷えて金属水銀となり、雨滴とともに陸上や海上に降ってくる。それを微生物がメチル水銀に変える。その結果、現在北太平洋で獲れて国内で流通する魚介類のメチル水銀濃度(含有量)は極めて高く、 2004年の測定データ(魚介類 1キログラムのメチル水銀値平均 0.14ミリグラム)が最後であるが [25]、それから 20年以上経った現在は、1キログラムあたり平均 0.2ミリグラムに近いと推定される。これはメチル水銀中毒が起き始めた初期(1940年頃)の水俣湾のレベルに近い。
 かつて魚介類を多く食べる国民ほど長生きし、また、胎児も成長する傾向にあると考えられていた。魚介類には、PUFA(多価不飽和脂肪酸)といって、 DHA(ドコサヘキサエン酸)や EPA(エイコサペンタエン酸)などの重要な栄養素が含まれているからであった。妊婦が魚介類を食べると胎芽や胎児の脳は良く発達すると期待されていた。しかし、現在市場に出回っている魚介類には PUFAなどが含まれているという利点はあるものの、メチル水銀があまりにも多量に含まれるようになっている。
 米国政府はメチル水銀を国民の「核」に次ぐ脅威と位置付けている。メチル水銀のヒトへの侵入源は主に魚介類である。メチル水銀の致死量は 2.9ミリグラムであるが、たとえば、マグロでは 100グラムあたり 1~ 2ミリグラムも含まれていることがある。死ななくても自覚されにくい後遺症が残る。米国では、魚介類(ぎょかいるい)のメチル水銀に対して厳しい「摂食量規制値」を設けている。米国では誰も一週間に体重 1キログラムあたりメチル水銀を「 0.7マイクログラム」までしか食べてはならない。米国はそのように定めている。コンビニエンス・ストアや郵便局などにも魚食に注意を払うように魚介類のメチル水銀量などの政府のチラシが置かれている。
 それでも、米国の妊娠可能な女性の血中総水銀濃度が高いトップ 10パーセントの女性から生まれる子供の約 10パーセント(毎年約 4万人)が「学習障害」(LD)を発症する。学習障害は胎児期に脳細胞が受けた障害によって起きる。家庭環境や学習環境によって起きるものではないことが知られている。現在の米国の総人口の約 1パーセント(約 300万人)がそのような胎児性メチル水銀中毒の患者であると推定される。わが国にそのような調査結果はない。
 わが国では、魚介類がもたらすメチル水銀中毒に対して「あれは水俣の水俣病」としたうえで、無策を貫いている [29]。わが国では「ハンター・ラッセル症候群」として重篤な「運動失調」「構音障害」「視野狭窄」の「三主徴」がそろっていなければ、メチル水銀中毒の患者として公的に認定されたり補償されたりすることはない。しかし、工場排水によって汚染された魚介類による感覚障害などは、メチル水銀中毒ではあっても「水俣病」とは見なされないので、救済されることはない。これは、日本全国で数十万人に及ぶのではないかと筆者は見ている。また、近年多くの人が北太平洋の魚介類によってひき起こされた胎児性の学習障害、あるいは、後天的な高次脳機能障害などの「メチル水銀中毒」に苦しんでいる可能性は高く、日本全国で数百万人に及ぶのではないかと筆者は見ている。



付録

映画 MINAMATA

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 映画『MINAMATA』は、日本では 2021年9月23日に全国公開された。このウェブページの筆者(入口紀男)は、その映画が現代社会にもたらす「公益」に期待して、近くの TOHOシネマで観た。この映画について最初に大きく「事実に基づく」と表示された。以下、筆者の「感想」とその後の「アクション」についてお伝えする。
 水俣で生まれ育った筆者が映画『MINAMATA』を観た全体の印象は、およそ最初から最後まで、事実と異なっているときに感じる「違和感」の連続であった。映画に出て来る木々や植物の種類も、家の造りようも、すべて水俣のものとは違っていた。石造りで畳の部屋という家は水俣にはなかった。また、官憲が令状を明示しないで家宅捜索をしたり、そこで人を殴ったりするようなことは、水俣でなくても、法治国家では起こり得ないことであろう。
 筆者は映画が制作される前(2018年)に制作・主演のジョニー・デップに手紙を送り、「水俣病」は地域に対する差別用語であるから慎重に使うようにと知らせて筆者の著書 『Minamata Bay, 1932』(日本評論社 2012年)を贈った [27]。「水俣病」という言葉は、映画『MINAMATA』では「ライフ」誌の女性編集者が「今は Minamata Diseaseと呼ばれます」という箇所などの二、三か所に出て来るだけである。それらについて、筆者は当時あり得たことだろうと想像して評価した。  
     
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正門にもチッソ株式会社の法人名とロゴを表示(プロモーションビデオより)

 一方、日本では、虚偽の風説を流布したり偽計を用いて人の信用を毀損したりその業務を妨害したりした者は、最高三年の懲役が課せられると定められている(刑法第二百三十三条)。それは親告罪に近い法律として運用されている。世界の各国にも同様な法律がある。
 この映画は、水俣市の固有名詞をタイトルに使い、チッソ株式会社の正式な法人名やロゴ(マーク)を随所に使っている。実名を使った以上、描かれる内容は公益性があり、かつ事実でなければならない。「ねつ造シーン」(事実無根のもの)や「やらせシーン」(何かの事実をヒントにしてはいるが事実ではないもの)がワンカットでもあると、それは違法作品である。
 この映画では、患者の苦しみを伝えるにも、美しい自然に恵まれた水俣の光と風を描写するにも、公害企業の責任を世界に知らしめるにも、もっと「芸術的」かつ「合法的」な方法があったのではないかと思われる。仮にねつ造シーンとやらせシーンを一切使わないで制作されていたら、また、望ましくは仮に古い水俣の町並を再現していたら、良い映画となっていたかもしれない。素晴らしい作品になる可能性を秘めていただけに残念である。意図的にねつ造シーンとやらせシーンを繰り返すこの作品には、たとえ有名なジョニー・デップが演じようと、良識の一線を踏み外した違法作品の疑いがある。この映画は、歴史を改ざんしようとするものである。後世に残すことも許されないであろう。


 北米では、この映画『MINAMATA』の配給権をメトロゴールドウィン・メイヤーズ(MGM)が購入し、その子会社のアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)社が配給する予定だったようである。
 2021年9月28日に、筆者(入口紀男)は MGM社の最高法務責任者に、映画『MINAMATA』は「違法作品」の疑いがあるとしてこのウェブページの最後のほうに出てくる書簡(English)を送った。MGM社としては、各州の法律上、違法行為に加担することはできないであろう。MGM社としては、筆者からの書簡によって伝統ある映画会社としての矜持(プライド)を守り、危険(法人としてのリスク)を回避できたというメリットがあるであろう。
 2021年11月23日に、筆者は念のために前記 AIP社に筆者の前記 MGM社への書簡について知らせた。AIP社は、MGM社から何ら知らされていなかったようであった。AIP社は筆者に「MGM社が(入口紀男に)間もなくコンタクトすることを期待する。これは極めて重要である!」と回答した。
 MGM社は、筆者に回答しないで、映画『MINAMATA』の配給権をサミュエル・ゴールドウィン・フィルムズ社に譲渡(または許諾)したようである。
 2021年12月1日に、サミュエル・ゴールドウィン・フィルムズ社は 2021年12月15日から公開するとアナウンスしていたようである。
 2021年12月3日に、筆者はサミュエル・ゴールドウィン・フィルムズ社に同社ウェブサイトのコンタクト欄を通してメッセージを送り、筆者の前記 MGM社への手紙について知らせた。また、2021年12月4日に同社の最高法務責任者と社長に書簡を送り、同社がこのウェブページ(English版)を読むことができるように知らせた。
 2021年12月12日に、筆者は映画『MINAMATA』のアンドリュー・レヴィタス監督にも、このウェブページ(English版)を読むことができるように Eメールを送った。
 2021年12月15日に、サミュエル・ゴールドウィン・フィルムズ社はロスアンゼルスのレーメル・タウン・シアターでこの映画を公開した。その後、米国内の幾つかの映画館で公開されたが、その数は非常に少なくして終わった。


I.  この映画『MINAMATA』に出てくる「ねつ造シーン」・「やらせシーン」の例

 この映画は、公法人である水俣市の固有名詞をそのタイトルとし、水俣市に唯一の大工場として実在するチッソ株式会社を正式な法人名とロゴ(マーク)で登場させている。その上で、「ねつ造シーン」・「やらせシーン」は少なくとも次の六か所に出て来る。それらが物語全体の核心部分をなしている。

ユージンとアイリーン・スミスが初めて水俣に来た 1971年9月には、チッソが廃液をどこにも流さなくなって、3年以上経っていたので、映画で廃液を太いパイプからどぼどぼと流すシーンは「やらせ」である。事実と大きく異なっている。
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プロモーションビデオ『MINAMATA』より

 チッソ株式会社水俣工場がパイプを使って廃液を流したのはそれより 10年以上前の 1958~1959年の間であった。1958年に筆者(当時は水俣第一小学校六年)と友だちは、そのパイプ(排水管)を近くから何度か見た。それは、粗末な金属パイプであった。水俣川の河口の土手から鉄材の細い桁(けた)の上を通って流れの上までせり出しているもので、「水平」に開口していた。廃液はそこから時どき流れ出ていた。1959年に水俣工場は排水管を撤去し、アセトアルデヒドの製造を 1968年5月18日(土)に停止するまで、メチル水銀排水を工場の側溝を通して(パイプを使わないで)水俣湾に流した。
 ユージンとアイリーン・スミスが初めて水俣に来た 1971年9月には、チッソ水俣工場がパイプを使わなくなってすでに 10年以上が経ち、メチル水銀排水をどこにも流さなくなってすでに 3年以上経っていた。したがって、水俣工場からメチル水銀廃水が海(不知火海)に流される様子を、ユージン・スミスが写真に撮ることは不可能であった。
 ユージン・スミスの代表作の一つに『排水管からたれ流される死(Death-Flow from a Pipe)』という写真があるが、あの作品も、1970年代に「八幡プール」といって、水俣工場から北に約 1キロ離れた「白どべ」(メチル水銀を含まないカーバイド排泥)を貯めた人工の沼地で「水」を流している写真である。


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プロモーションビデオ『MINAMATA』より

劇中、チッソ水俣工場の構内でチッソの社長がチッソのロゴのついたヘルメットを被り、 5万ドル入りの封筒を、同じくチッソのロゴのついたヘルメットを被るユージン・スミスに手渡し、すべてのネガを渡して「帰れ」と言って帰国するよう持ちかける。ユージンが「くそくらえ」と断る。そのようなシーンが出て来る。それも観客に感情を移入させるようにするための根拠のない「ねつ造」である。多くの観客は騙(だま)されるであろう。
 チッソ水俣工場は、みだりに部外者を構内に入れることはなかった。工場の来場者記録にも「ユージン・スミス」の名はないであろう。そもそも、当時の社長(嶋田賢一)も会長(江頭豊)も、水俣にはいなかった。水俣に東京から来るときは地方紙に「〇〇社長、来水!」と載った。

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プロモーションビデオ『MINAMATA』より

劇中、ユージンの仕事場が放火されるシーンが出て来る。これも観客に感情を移入させるための根拠のない「ねつ造」である。多くの観客は騙されるであろう。
 当時水俣でどのような小さな火事があろうと、それは町中に知れ渡り、地方紙にも載った。ユージンの仕事場が放火されたシーンも根拠のない「ねつ造」である。水俣の消防署にも警察署にもそのような出動記録はない。

劇中、チッソの附属病院でセキュリティ・チェックが行われ、ユージンらが病室に患者らを訪ねる。また、警備員の目を盗んでコンクリートの階段を降りる。下の部屋で機密資料を発見するというシーンが出て来る。それらも観客に感情を移入させるようにするための「やらせ」である。ほとんどの観客は騙されたであろう。
     
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プロモーションビデオ『MINAMATA』より

 附属病院は、木造平屋であった。セキュリティチェックは行われていなかった。コンクリートの階段などもなかった。ユージンとアイリーン・スミスが最初に水俣に来た 1971年9月には、附属病院はすでに廃院となっていて存在しなかった。

1972年1月7日(金)、ユージンが千葉県市原市五井にあるチッソ五井工場に行ったとき、川本輝夫率いる水俣からの患者を含む交渉団約 20名がチッソ五井工場の事務所から退去を拒んだ。ユージンも当時の妻アイリーン・スミスもその中にいた。チッソ本社は五井工場に指示して、これを「住居侵入罪」の現行犯の疑いで場外へ排除するように従業員数十名を動員させた。従業員は暴力行為を禁じられていた。発煙筒なども使われなかった。激しいもみあいの中でそれを撮影しようとしたユージンは倒れ込んで怪我を負った。
 現場の音声記録や多くの写真が残されているが、それらは「住居侵入事件」の瞬間をとらえた直接証拠(5W1H)とはなり得ても「傷害事件」の瞬間をとらえた直接証拠(5W1H)とまではなりにくく、仮にユージンらが「傷害罪」でチッソを告訴しようとすると、チッソは「住居侵入罪」でユージンらを告訴できたであろう。千葉地検の判断としては、「住居侵入事件」も「傷害事件」も、嫌疑不十分の不起訴となった。双方(交渉団と従業員)から千円以上の科料に処された人さえ一人も出なかったのであるから、あったのは「自損的な怪我」だけとなった。
 ユージンは沖縄戦で負った傷の後遺症のため、痛み止めとしてウィスキーが欠かせなかった(朝日 2021年10月7日)。「サントリーレッド」(39度 640ml)を毎日半分空けていて、絶えず酒気を帯びていたようである。もみ合いで倒れ込んだのは当然であろう。また、体内には、口の中などに、日本軍による砲弾の破片が幾つかあったようであるから、倒れ込んだら怪我をしたことも当然あり得たと見られる。
     
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プロモーションビデオ『MINAMATA』より

 現在でも、新聞などで一方的に「暴行事件」などとする記述を見かけるが、チッソの従業員の中にも交渉団の中にも「罪人」はいないとして確定したことを、どちらかの一方に感情を移入して、「住居侵入事件」や「暴行事件」であったとして報道することは許されないであろう。
 また、アイリーン・スミスは 2020年に熊本学園大学に提出した『 W. ユージン・スミスとの日々:回想』と題する一文(同大学が公開)の中で「チッソの暴力団から傷害を受けた」などと述べているが、当時のチッソの従業員は単に業務を遂行していただけであろう。その中に暴力団のような反社会的勢力はいなかった。
 映画のシーンは、殴る蹴るといった、さながら暴力団による傷害事件であったかのように描かれていた。ほとんどの観客は騙されたであろう。
 劇中、写真家としては重要な手のひらを靴でぎりぎりとつぶされて怪我をするシーンが出て来るが、ユージンは手のひらを怪我していない(ユージンの公開された診断書)。

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プロモーションビデオ『MINAMATA』より

劇中、ユージンの最高傑作の一つとなった「患者の少女と彼女を入浴させる母親の写真」を撮るとき、怪我で手には包帯が巻かれており、シャッターを直接切ることができないというシーンが出て来る。それも観客に感情を移入させるようにするための「やらせ」である。ほとんどの観客は騙されたであろう。
 怪我は 1972年1月7日(金)であり、その写真は、本当は、怪我をしていなかった前年の 1971年12月24日(金)に撮影された。

II.  この映画『MINAMATA』は社会をどのように分断させたか

    この映画『MINAMATA』は、次のように社会を深刻に分断させたのではないかと筆者は感じる。

1. 政府と熊本県
 水俣でメチル水銀公害が発生した当時「無作為」によって被害を拡大させた「加害者」のほうである。現在も裁判で被害者と争う被告。自らの責任をなるべく小さく見せるために、問題を地理的な場所に結び付けて、「あれは水俣の水俣病」として封殺したい。映画の『MINAMATA』というタイトルは、そのために都合は必ずしも悪くない。熊本県は、水俣市で行われた先行上映会(2021年9月18日 観衆約 1,000人)を後援した。

2. 水俣市
 メチル水銀公害発生当時なすすべがない中で、水俣湾で採取された魚介類や周辺のネコを熊本大学医学部に送るなど、市民のために努力をした。映画『MINAMATA』は制作の意図が不明である。そもそも「MINAMATA」は公法人・水俣市の「固有名詞」である。そのタイトルを聞いただけでも、問題を地理的な場所に結び付けようとしていることが明らかであり、水俣をねつ造された負のイメージで貶(おとし)めかねない。『MINAMATA』はあってはならない映画である。水俣市で行われた前記先行上映会の後援を拒否した。

3. 入浴した娘と母
 当時、両親は娘の日々の成長の記念として撮ってもらっただけである。それでも、証明写真や風景写真とは異なって、人を被写体とする芸術写真においては、撮影者であったユージン(故人)とアイリーン・スミスだけでなく、被写体(娘と母)にもその思想・感情の「表現者」として「著作権」(「著作者人格権」と「著作財産権」)が生じている。
 ユージンとアイリーン・スミスの英語版の写真集『MINAMATA』(1975年)がアメリカで刊行されたとき、両親は、写真集は水俣で起きたことを世界に伝える「公益」のためであると知らされ、その刊行を事後に許諾して感謝の意を表明した。ユージンとアイリーン・スミスはその出版の直後に離婚した(1975年)。
 入浴シーンの娘は 1977年に逝去した。ユージンは 1978年にアメリカで逝去した。その後に三一書房から日本語版の写真集『MINAMATA』が二度刊行されたが(1980年、1991年)、親であれば、亡くなった娘をもう「さらし者」にしたくない。これは通常の日本人の「死者に対する畏敬の思い」である。映画『MINAMATA』にも登場させてもらいたくなかった(朝日2021年10月16日)。
 娘がもつ書籍等の「頒布権」や映画等の「上映権」、DVDを制作するための著作隣接権などの「著作財産権」は死後七十年間 2047年12月31日まで私権として現在も存続している。著作財産権は私権であるが、私権の侵害は違法である。日本では侵害すると最高で懲役十年と一千万円の罰金が併科され、法人にあっては最高で三億円の罰金が科される。その権利は存命する父親などの近親者に相続されている(父親は 2022年10月5日に 88歳で亡くなった)。近親者とはこの国では六等親までのことである。存命する母親にはその「著作財産権」だけでなく、「著作者人格権」も存続している。一国における著作権は「ベルヌ条約」等によって世界のほとんどの国で有効である。アイリーン・スミスは「私は封印を解いた」などと言っているが(朝日ディジタル2021年10月16日)、前記したように私権を勝手に侵害すると法律に違反するので、アイリーン・スミスは封印を解いてなどいない。両親にとって、『MINAMATA』は法律上も倫理上もあってはならない映画である。

4. 嶋田賢一社長と江頭豊会長
 嶋田賢一は1978年に逝去した。江頭豊は2006年に逝去した。我が国では死者を冒とくしても事実のみを指摘した場合は処罰されることはない。しかし、偽説などを用いて死者を冒とくすると、最高で三年の懲役が科される。たとえば、ユージン・スミスに大金を渡してネガを取り戻そうとするシーンなどはこれに該当すると推定され、その訴権が純真な近親者によって相続されている。近親者が皇室の場合は内閣が代行する。

5. チッソ株式会社
 チッソとしては、患者に補償しながら事業を継続して来た。その子会社である JNC株式会社水俣事業所も世代はすっかり替わっていて、地域の学校などを卒業した若い人たちが社会に貢献するために希望をもって働く重要な職場となっている。映画『MINAMATA』は、社長がユージン・スミスに大金を渡してネガを取り戻そうとするシーンや放火のシーンなど、「ねつ造シーン」や「やらせシーン」が出て来るから許されない。『MINAMATA』は法律上も倫理上もあってはならない映画である。

6. 一般大衆・一部のマスコミ
 映画の最初にこの「映画は事実に基づく」と表示される。水俣市の固有名詞がタイトルに使われている。劇の中で水俣市に唯一の大工場として実在するチッソ株式会社を法人としての実名や固有のロゴまで使って登場させている。よって、この映画は決して事実に基づいて単にそこからインスピレーションを得て制作されたフィクションなどではなく、やはり事実そのものを正確に伝えているのだろう。よって、表現の自由のもとに制作される通常のフィクションとは異なり、この映画には「ねつ造」や「やらせ」は少しも含まれていてはならない。そうでなければ、違法な作品となるだろうから。また、そうでなければ、我われ観客は騙されたことになるだろうから。
 ユージンとアイリーン・スミスがいつ水俣に来たのを我われは良くは知らないが、映画に描かれる通り、そのころもなおチッソは猛毒のメチル水銀を海にどぼどぼと流していたのだろう。
 また、チッソの社長は、映画に描かれる通り、ユージン・スミスに大金を渡してネガを取り戻そうとしたのだろう。
 ユージンの仕事場は、映画に描かれる通り、放火されたのだろう。
 ユージンはチッソの附属病院で患者を訪ね、また、警備員の目を盗んで機密資料を発見したのだろう。
 ユージンは、映画で描かれる通り、チッソの工場で暴行を受けて怪我を負わされ、手のひらを踏みつぶされたのだろう。
 ユージンは、最高傑作の一つとなった「患者の少女と彼女を入浴させる母親の写真」を撮るとき、映画に描かれる通り、工場のもみあいで受けた怪我でシャッターを直接切ることができなかったのだろう。
 入浴した娘と母親にどのような私権があろうと、外野席の我々にとって、それは知ったことではない。坂本龍一の音楽も美しい。『MINAMATA』はあってよい映画である。

7. 原告(被害者)の代理人・弁護士
 現在も国、熊本県、チッソを相手に幾つか訴訟が続いている。原告(被害者)が勝つこともあれば、負けることもある。
 原告(被害者)は、これまで真摯に生きてきた。被害者の中に法廷でどんなに小さなことでも「偽証」をした人はいない。高齢化した水俣の語り部も若いころからこれまで少しでも「つくり話」をした人はいない。それは、過去六十年以上これまで一貫していた。被害者の弁護士としては、これまで被害者から「情緒的な逸話」をよく聞き取り、その中から「事実」を抽出して真摯に裁判に臨んできた。裁判所も(最高裁まで)そのような被害者を何とか救済しようとしてきた。
 しかし、水俣で開催された映画『MINAMATA』の先行上映会(2021年9月18日)では、多くの原告(被害者)が、「大金入りの封筒」や「放火」や「手のひらの怪我」などの「ねつ造シーン」でジョニー・デップが被告(チッソ)に勝手に「私刑」を加える映画を観て、一般大衆と一緒に手放しで喜んでそれに「加担」した。それをメディアも報道した。
 しかし、原告(被害者)は、今後法廷では「あの映画は、アレはホントはウソ混じり」で、あの時は、それはそれとして喜んだが、これからこの法廷で証言する「コレは、ウソ混じりでないホントだ」と主張するしかない。その行為全体が信義誠実を貫くための「禁反言の原則」(Estoppel)に反する。
 原告(被害者)の代理人・弁護士としては、途方もない窮地に立たされてしまった。『MINAMATA』はあってはならない映画である。


米国 90210 カリフォルニア州・ビバリーヒル・北ビバリードライブ 245番地

メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)最高法務責任者 レスリー・フリーマン 殿
写: メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)会長 マイケル・デ・ルカ 殿
写: メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)社長 パメラ・アブディ 殿

2021年9月28日

ジョニー・デップ主演・制作の映画『MINAMATA』に違法作品の疑いがあることについて (ご照会)

拝啓
時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
御社におかれましては映画『MINAMATA』の米国における配給権を購入されたようです。
この映画は、日本の熊本県水俣市においてメチル水銀禍が起きたとき 1971年から 1974年の間被害者の写真などを撮ったアメリカ人・ユージン・スミスを顕彰する作品です。
この作品は今年 9月23日に日本で全国公開されました。先週私も近くの東宝シネマで観ました。
映画は「これは事実に基づく」という表示で始まり、現存するチッソ株式会社を登場させています。その会社の実名がフルスクリーンで表示されました。その会社の法人名とロゴが正門その他の場面で使われています。当時チッソの社長は島田賢一、会長は江頭豊(雅子皇后陛下の祖父)でした。
劇中の主要と考えられる場面で
(1)チッソの社長がユージン・スミスに 5万ドル入りの封筒を渡し、「ネガをよこして国へ帰れ」と言います。それに対してユージン・スミスが「くそくらえ」と断ります。
(2)ユージン・スミスの仕事場が放火されるという場面が出て来ます。
少なくともこれらの二つは全くのねつ造であり、事実に反しております。
現存する会社に対してねつ造シーンを流布してその信用を傷つけたり事業を妨害したりする行為は法律上も倫理上も許されることではありません。そこには正義も芸術もありません。
「虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する」 これは日本の刑法第二百三十三条です。
御社は偉大なる国・アメリカにおいて映画『MINAMATA』を配給することによってチッソ株式会社の信用を傷つけ業務を妨害しようとする意図をお持ちかどうかを私にお知らせください。
チッソ株式会社は被害者に補償しながら事業を継続しています。その水俣工場であり子会社であるJNC株式会社は世代もすっかり替わっており、若い人たちが希望をもって働く重要な職場になっています。チッソ株式会社の米国法人 JNCアメリカはニュー・ヨークにあります。
水俣で起きたことを映画化するには事実に基づいて合法的に行うことが求められました。
私はメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社とアメリカを尊敬しております。
ご返事をお待ちいたしております。

敬具
入口紀男
熊本大学名誉教授



利益相反: 筆者(入口紀男)は、この映画に関して何ら利益相反(当事者との利害関係等)はない。



引用文献

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  1. E. Frankland & B. F. Duppa,“On a New Method of Producing the Mercury Compounds of the Alcohol-Radicals.” J. Chem. Soc. London, 16:415-425(1863)
  2. George N. Edwards, "Two Cases of Poisoning by Mercuric Methide." St. Barth. Hosp. Reports, London, 1: 141-150(1865)
  3. Chemical News; Paris editor, 12: 276-277(1865), T. Phipson, 12: 289-290(1865)
  4. George N. Edwards, "Note on the Termination of the Second case of Poisoning by Mercuric Methide." (Reports, vol .i .p.144.)" St. Barth. Hosp. Reports, London, 2: 211-212(1866)
  5. Chemical News; Chemicus (Anonymous), 13: 7(1866), A. W. Hofmann, 13: 7-8 (1866), T. Phipson, 13: 23 (1866), An Assistant (Anonymous) 13: 35 (1866), A. W. Hofmann, 13: 35 (1866), T. Phipson, 13: 47 (1866), W. Odling, 13: 59 (1866), A. Schwarz, 13: 59 (1866), E. Reichardt, 13: 59-60 (1866), W. Odling, 13: 84 (1866)
  6. M. Kutscheroff, "Ueber eine neue Methode direkter Addition von Wasser (Hidratation) an die Kohlenwasserstoffe der Acetylenereihe." Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft, 14: 1540-1542(1881)
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  9. K. A. Hofmann, "Explosive Quecksilbersalze." Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 38: 1999-2005(1905)
  10. J. A. Nieuwland & J. A. Magnire, "Reactions of Acetylene with Acidified Solutions of Mercury and Silver Salts." Journal of American Chemical Society 28 : 1025-1031(1906)
  11. 「アセチレンの酸性銀及び水銀溶液に對する作用」『東亰化學會誌』27(7): 1232-1233(1906)
  12. Richard R. Vogt & Julius A. Nieuwland, "The Role of Mercury Salts in the Catalytic Transformation of Acetylene into Acetalydehyde and a New Commercial Process for the Manufacture of Paraldehyde." Journal of American Chemical Society 43: 2071-2081(1921)
  13. 「アセチレンよりアセトアルデハイドを作る場合の水銀鹽の作用並にパラアルデハイドの製造方法」『工業化學雜誌』25: 980-981(1922)
  14. 日本窒素肥料株式會社・朝鮮窒素肥料株式會社『事業概要』(1930年)
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  16. D. Hunter, R. R. Bomford, & D. S. Russell, "Poisoning by Methylmercury Compounds." Quarterly J. Med. 9: 193–213(1940)
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  18. W. F.Von Oettingen, POISONING - A Guide to Clinical Diagnosis and Treatment, W. B. Saunders, Philadelphia (1954)
  19. 水俣市教育委員会『郷土みなまた』(1957年)
  20. Angel Pentschew, "Intoxikationen." in O. Lubarsch, F. Henke and R. Rössle ed. "Handbuch der speziellen pathologeschen Anatomie und Histologie" 13(Part 2B): 1907-2502, Springer-Verlag, Berlin (1958)
  21. 熊本大学「昭和34年7月22日水俣病研究報告会における発表要旨」(1959)
  22. 熊本県衛生部『熊本県水俣湾産魚介類を多用摂取することによって起る食中毒について』(1960)
  23. 鎌田正二『北鮮の日本人苦難記-日窒興南工場の最後-』(時事通信社 1970年)
  24. 『戦後五〇年その時日本は 第三巻 チッソ・水俣』(日本放送出版協会 1975年)
  25. 魚類等のメチル及び総水銀濃度に関する調査研究(厚生労働省 2004)
  26. 入口紀男 『メチル水銀を水俣湾に流す』 (日本評論社 2008年)
  27. Norio Iriguchi, Minamata Bay, 1932, Nippon Hyoron Sha, Tokyo 2012
  28. 入口紀男『聖バーソロミュー病院 1865年の症候群』(自由塾 2016年)
  29. 入口紀男『「水俣病」は差別用語』(自由塾 2021年)
  30. 有馬澄雄・内田信『<水俣病>事件の発生・拡大は防止できた』(弦書房 2022年)