要旨
1956年5月1日の公式確認の後一年を経ずして水俣病は「食中毒」と認識された。しかし、「食品衛生法」は適用されなかった。病因物質として有機水銀が指摘されると、原因企業(チッソ)は、社内ではすでにアセトアルデヒド合成反応液中に有機水銀が存在していることを把握していたにもかかわらず、「使用しているのは無機水銀である。有機水銀に変化しない。有機水銀の毒性は不明」と述べ、水俣工場は水俣病とは無関係であると主張し、水俣病は「予見不可能」と主張した。しかし、アセトアルデヒド生産開始時(1932年)には、アセトアルデヒド合成における有機水銀の「副生」と有機水銀の「毒性」は既知であった。また、1956年には有機水銀中毒症例報告が多数存在していた。水俣病は「予見可能」であったのである。 キーワード: 水俣病 メチル水銀中毒 無機水銀の有機化 |
1.はじめに 水俣病公式確認後、六十年以上が経過したが、水俣病に関しては多くの問題点が残されている。本稿では、最も基本的な問題点である、水俣病の発生は「予見不可能」とされてきたことを取り上げ、その考えは事実の無視や隠蔽、誤った解釈の結果であり、更にそれらに基づいた対応があたかも正しいものであるかのようにその場だけを何とかうまくごまかすために創作された意図的虚言であったこと、さらに、実際は前記公式確認以前から水俣病の発生は「予見可能」であったことを改めて指摘する。現在アセトアルデヒド合成は触媒として水銀を使用しないエチレン酸化法で行われている。いまさら水俣病は「予見可能」であったと指摘してもそれ自体は無意味ではないかとの意見はあるかもしれない。しかし、「予見不可能」という言葉は、この現代社会においてもなお、「不十分な情報検索」や「都合の悪い事実の無視」、「隠蔽」といった「研究の基本を踏み外した行為」を横行させ、それによって原因企業、行政の水俣病への間違った対応をあたかも正しいものであるかのようにうまくごまかして見せるために作用した。したがって、科学の基本に立ち返り、「予測不可能」とされた過程を検証し、改めてこれから研究を進める上での「他山の石」とすることに本稿の目的がある。 2.食中毒事件であるのに「食品衛生法」は適用されなかった 1956年11月に熊本大学医学部奇病研究班(後に「水俣病研究班」。以下「研究班」という。)の会合で「この奇病は食中毒である」と認識された。1957年の厚生省班会議でも「汚染魚介類摂食による食中毒で、食品衛生法の適用が必要」とされた。しかし、厚生省公衆衛生局長の指示を口実に、熊本県は食品衛生法を適用しなかった。食品衛生法が適用されなかった詳細な経緯は既に報告したが[1]、その要点は次の通りである。すなわち、食品衛生法を適用すると、原因施設であるチッソ水俣工場の操業停止が避けられない。しかし、高度経済成長を国是とする当時の通産行政の下では、わが国の化学産業の主要原料であるアセトアルデヒドやオクタノールの生産に中断があってはならない(当時、チッソ水俣工場はそれら製品の国内主力工場であった)。その結果、チッソ水俣工場の操業停止につながる食品衛生法の適用は見送られた。すなわち、"Stakeholders supressed Science." が起きたのである。研究班は1959年に工場排水中の有機水銀が病因物質であるという「有機水銀説」を発表したが、その直後、チッソ、行政当局及び業界団体、さらに一部の研究者から反論が提出された [2]。それらは、当時としても真の科学的見地からはほど遠いものばかりであった。しかし、それらの反論のいずれにおいても、汚染した魚介類の摂食が原因である事は認められていた。したがって、水俣病は「食中毒事件」として扱われるべきであった。 3.情報の無視と隠蔽に基づくチッソの反論 チッソは有機水銀説に対する反論として、① 工場で使用しているのは無機水銀。それが有機水銀に変化するという考えは化学の常識に反する。よって、有機水銀中毒は起きるはずがない。 ② 国内外には同じ工程の工場が多数あるが、問題は起きていない。 ③ 有機水銀の毒性は解明されていない。したがって、症状から有機水銀中毒とは判断できない。 ④ 1932年から操業しているが、1955年以降に患者が急増した理由が不明である。 の四項目等を掲げ、水俣病と水俣工場は「無関係」と主張した。 そのチッソの見解は、関連業界団体や高度経済成長第一の通産行政(池田勇人通産相、秋山通産省軽工業局長)の後押しがあって強力に展開された。その行政の動きに呼応する形で、業界団体や一部研究者が「腐敗アミン説」や「特殊排水説」、「投棄爆薬説」等の反論を提出した。しかし、それら当時としても真の科学的観点からはほど遠いものばかりであった。さらに、行政や一部研究者は「水俣病の解明」の名目の下に、通称「田宮委員会」といって「有機水銀説つぶし」を目的とする委員会を立ち上げた。田宮委員会の真の目的は、水俣におけるメチル水銀中毒の発生を「予見不可能」と位置づけ、チッソ水俣工場と水俣病との関係を「うやむや」にすることにあった。しかし、その目的は達成されることなく、委員会は数年の内に消滅した。 2016年に「チッソがアセトアルデヒドの生産を開始した1932年の時点で、メチル水銀中毒症(水俣病)の発生は予見可能であった」という見解が発表された [3]。そこに証拠として挙げられた多くの先行文献等は1932年以前にも国内で閲覧可能であったにもかかわらず無視されていた。また、1932年以降も参照されていなかった。 以下、前述の①~④のチッソによる反論の誤りと、意図的な虚言ともいえる点等を検証し、改めて水俣病の発生は予見可能であったことを述べる。 ①(チッソの反論)「工場で使用しているのは無機水銀。それが有機水銀に変化するという考えは化学の常識に反する 」 その反論は、アセトアルデヒド合成反応液中に有機水銀が存在するという当時の数々の先行文献を無視していただけでなく、アセトアルデヒド合成反応液中に有機水銀が存在するという、自らが確認していた事実さえも隠蔽していた。 1881年に Kutscheroff が無機水銀を触媒とするアセトアルデヒド合成方法を考案した [4]。その合成方法は世界の多くの企業で速やかに実用化された。1900年に Hofmann と Sand がその反応機序を解析し、有機水銀副生の可能性を指摘した [5]。その後、触媒として添加した無機水銀が有機水銀に変化し[6, 7]、その有機水銀が真の触媒として作用する事が判明した [8]。1906年発行の文献 [6] の邦文抄録が同年発行の『東亰化學会誌』に掲載されている [9]。当時の通信事情を考えると、その迅速さは驚異的であり、アセトアルデヒド合成反応に対する国内の関心が高かったことを示している。国内でも、1920年には越智と小野沢が Kutscheroff の反応 [4] で水銀の有機化合物が生成される可能性を指摘しており、その有機化合物の構造を考察している [10]。 すなわち、無機水銀を触媒としてアセチレンからアセトアルデヒドを合成する際に有機水銀が副生することは、1920年代初頭には国内外関係者の間で常識であった。文献 [6] と [8] を掲載している雑誌『JACS』 (Journal of American Chemical Society) は化学分野では当業者(その技術分野において通常の知識をもつ専門家)が誰もが読む雑誌であり、1900年以降の刊行分は大半の大学(熊本大学を含む)の図書館に収蔵されている [3]。アセトアルデヒド製造の当業者にとって、それらの文献 [5-10] は、アセトアルデヒドを製造するうえで読まずに済まされる文献ではなかった。すなわち、1920年頃には、触媒として添加した無機水銀が「有機水銀に変化すること」はアセトアルデヒド製造関係者にとって常識であった。 ところで、チッソの社内文書として水俣病発生公式確認以前の1947年5月10日付のものがある。そこには「中間体として水銀の有機化合物が生じるのは事実であるが、その構造は未定」と記載されている [11]。したがって、水俣病発生公式確認以前から、チッソは、文献 [5-10] で述べられている事実、すなわちアセトアルデヒド合成において有機水銀が副生することを把握していたと判断できる。 1950年には、文献 [8] に基づいた Nieuwland の論文『The Chemistry of Acetylene』の邦訳『アセチレンの化学』が出版され、アセトアルデヒド合成で有機水銀が副生されることは日本でも関係者の常識となった。 一方、五十嵐赳夫(チッソ)は、アセトアルデヒド合成反応液中に有機水銀化合物が存在することをポーラログラフイーで確認し、1954年に日本化学会年会で口頭発表を行い [12]、さらに、1962年に論文化(学位論文)している [13, 14]。その論文化までの8年間をふり返ってみると、それはまさに1956年の水俣病公式確認に始まり、1959年に研究班が発表した有機水銀説が確立されていく時期と重なる。さらに、その時期には、チッソが漁民との間で極めて僅かな補償金と引き替えに将来にわたる損害賠償請求権を放棄させた、いわゆる「見舞金契約」の締結(後年、最高裁は公序良俗に反するとして無効の判決)、チッソによる見せかけの排水処理施設「サイクレーター」設置等、水俣病に対するチッソの責任を「うやむや」にしようとする策動が繰り返されていた。その時期に五十嵐の研究が対外的に明らかにされていれば、有機水銀説は速やかに確立されていたはずである。しかし、五十嵐は自らの研究に関して生涯沈黙を守り続け、水俣工場を完全に掌握していたはずの西田栄一工場長もこの五十嵐の発表 [12] には関知しなかったと証言している。 ところで、日本化学会年会講演要録集(1954年)には、五十嵐の発表の要旨は掲載されているが、著者名索引には五十嵐の名前は掲載されていない。これが単なる間違いか、それとも何らかの意図によるのかは不明である。さらに、1956年にチッソ技術部から、ペーパークロマトグラフィーを用いてアセトアルデヒド合成廃液のドレイン中に有機水銀の存在を認めた旨の社内向け報告が出ている [15]。すなわち、チッソは、アセトアルデヒド合成の際に反応液中に有機水銀が存在するという事実を把握していながら「無機水銀が有機水銀に変化すると言う考えは非常識」という意図的虚言以外の何ものでもない反論を述べていた。触媒の無機水銀は有機水銀に変化し、それが真の触媒として作用していたのである。 ②(チッソの反論)「国内外には同じ工程の工場が多数あるが問題は起きていない」 公式確認の時点で、国内他工場周辺でメチル水銀中毒発生の報告がほとんどないのは事実であるが、工場周囲の立地条件や規模を考慮すれば当然といえる。 水俣では工場排水は水俣川から不知火海に無処理で排出された。水俣一帯はリアス式海岸で、対岸には天草諸島があり、不知火海には海流がほとんど無く、海水の動きは潮の干満による動きだけといわれている。従って、排出された物質は拡散しにくく、蓄積する傾向が強いとされている。 他社の工場のアセトアルデヒド生産高はチッソより少なく、工場は外洋または流量の大きい河川に隣接して立地し、排出した物質は速やかに拡散されていたのではないかと考えられていた。したがって、他社の工場周囲の水域では有機水銀化合物による深刻な汚染は起きにくく、有機水銀中毒発生の確率は水俣より低いと考えられる傾向があった。しかし、1965年に阿賀野川流域で水俣病と同様の症状の患者の存在が確認された。翌(1966)年に阿賀野川の上流に立地し、アセトアルデヒドを製造していた昭和電工鹿瀬工場の排水溝水苔からメチル水銀が検出され [16]、同工場の排水中のメチル水銀による中毒と断定された。ただし、製造設備のみならず関係書類が一切廃棄されているため、同工場におけるアセトアルデヒド製造の実態は不明のままである。 1973年前後に、それまで非汚染地域と考えられていた天草町で、1971年水俣病判断条件で「水俣病もしくはその疑い」と判断される患者の存在が明らかになった。引き続き有明海沿岸の宇土市、三角町、大牟田市と拡大、更に徳山湾沿岸(新南陽市)と拡大し、第三水俣病との報道もあり、一大水銀パニックとなった。同じ頃、アセトアルデヒド製造工場が立地していた関川流域(新潟県上越市)も、同じく1971年判断条件で「水俣病の疑い」と判断された患者の存在が明らかになった [17]。これらの患者は、「第三水俣病」の場合と同様、「手足の感覚障害、ふらつき、眩暈(めまい)」等の症状が認められている。しかし、1973年7月に「視野狭窄がない」という理由で、第三水俣病の場合と同様、権威者(新潟大学 椿教授)が「水俣病ではない」と判断した [17]。患者が訴える症状は他の疾患と判定され、「関川病」という疾患はないことにされた。しかし、「視野狭窄」はメチル水銀中毒の初発症状でないことは、すでに明らかになっている。つまり、関川病に対する当時の判断は、「感覚障害のみのメチル水銀中毒の存在」を否定している。 チッソと同じ生産方式の Wacker-Chemie 社 Burghausen 工場(ドイツ)では、作業者に有機水銀中毒が発生したが [18]、周辺の環境汚染は起きていない [19]。アセトアルデヒド製造の原料であるアセチレンは、カーバイドと水から製造され、廃棄物として大量の水酸化カルシウムが発生する。Burghausen工場では、アセトアルデヒド合成廃液(有機水銀を含む)を、この水酸化カルシウムと混合し、地下水を避けて地中に埋めていた(Burghausen は Bayern 州にあり、恐らく岩塩廃坑へ投棄された可能性もある。岩塩廃坑は高レベル放射性廃棄物の投棄場所として用いられており、地下水の汚染は極めて起きにくいとされている)。したがって、作業者(廃棄物取扱者)に有機水銀中毒が発生したが [18]、工場に隣接する Salzach 川とその流域の環境汚染は発生しなかった [19]。一方、チッソ水俣工場では水酸化カルシウムはそのまま野天に集積し、一方、アセトアルデヒド合成の廃液は無処理で不知火海に放流した。そのアセトアルデヒド合成廃液中には目視できる程の金属水銀粒が含まれ、作業者達は「祟(たた)りがある」と称してその廃液に直接触れるのを極力避けていた。作業場は大気中の硫酸濃度がかなり高く、作業環境は劣悪で、酸による障害は日常的であったが、Burghausen 工場とは異なり、作業者に有機水銀中毒は発生しなかった。 すなわち、同業他社のほとんどで水俣工場のような事態にならなかったのは、立地条件、アセトアルデヒド生産高、廃液や廃棄物処理方法等の相違による当然の結果といえる。 さらに、水俣でのみメチル水銀中毒が発生した理由の一つに、生産用水中の塩素濃度の違いが挙げられている [20]。国内他社の生産用水中の塩素濃度が数十ppm 止まりであったのに対し、水俣工場の生産用水中塩素濃度は 1000ppm 以上であった。それによって、塩化メチル水銀の副生が同一生産方式の他社よりも加速されていた可能性が指摘されている。つまり、生産用水の水質の違いによりメチル水銀副生量が水俣では異常に高く、したがってメチル水銀中毒発生の確率も高かったと考えられる。 ③(チッソの反論)「有機水銀の毒性は解明されていない」 1956年の時点で、我が国の研究者の間でもそのような考えが少なからずあったようで、チッソのその主張に対する研究者等からの反論は見当たらない。現時点で最古とされている有機水銀中毒症例は、1865年に英国ロンドンの聖バーソロミュー病院で発生したメチル水銀合成実験従事者の中毒(死亡例)である [21]。水俣で有機水銀原因説が提唱された当時、この報告を掲載したEdwardsの報告『St. Bartholomew's Hospital Report』[21]を国内で閲覧する事はほとんど不可能であった。しかし、このEdwardsの報告 [21] は、 Hepp [22] や Hunter 等 [23] が詳細に引用しており、いずれも1956年の時点で国内で検索可能であった。特に文献 [22] の掲載誌は、1931年に当時の熊本医科大学図書館(後の熊本大学附属図書館)に収蔵されている。しかし、当時誰からも関心を払われなかった。研究班がメチル水銀中毒症状の要約として「ハンターラッセル症候群」という術語を提唱したり、「有機水銀説」を展開した際には文献 [23] を主な拠り所にしていたが、その文献 [23] の第一頁に詳しく引用された Edwards の報告 [21] には誰も一切触れていない。また、その後の水俣病(メチル水銀中毒)に関する多くの報告でも、文献 [23] は引用されているが、そこに引用された Edwards の報告 [21] は言及されていない。 この Edwards の報告 [21] の内容は、イギリスやドイツで「メチル水銀の並外れた毒性」として話題になり、事故の責任を巡り当時唯一の化学雑誌『Chemical News』で論争が展開された [24, 25]。その雑誌の当該号は遅くとも 1927年に東京高等工業学校(現東京工業大学)が収蔵しており、水俣でアセトアルデヒド製造が開始される以前に、ロンドンで起きた1865年のメチル水銀中毒事件を日本では誰でもが知ることができた。 1865年の Edwars の報告は、Hepp [22] と Hunter 等 [23] に詳細に引用されていることは既に述べた。研究班がHunter等 [23] を参考にして、有機水銀説を展開したこともよく知られている。しかし、その際、Edwards の報告の引用部分には一切言及していない。つまり、奇病(水俣病)が Edwards の報告の延長線上にあるという事実は無視されている。水俣でアセトアルデヒド生産が開始されたのは1932年で、Hunter等 [23] の症例は1937年である。従って、Edwards の報告を無視すれば、1932年の時点では有機水銀(メチル水銀)による中毒例の報告はなかったことになる。つまり、「奇病」の発生は、1932年の時点では知る由も無かったことになり、チッソや行政に、更には「奇病解明の先陣争い」的な状態にあった熊本大学医学部研究班にとって甚だ好都合な状態になった [26]。このような状況下で奇病に対して「水俣病」という病名が与えられた結果、メチル水銀中毒症という事実が隠蔽され、奇病は「水俣の病気」となってしまった。 Hepp [22] とHunter等 [23] を原典でみると、いずれも自らの症例について述べるに先立って、1865年のEdwards の報告の内容(発症から死に到るまでの症状の経過)が詳細に引用されている。従って、これらの報告の参照にあたって Edwards の報告の引用部分に気づくのは当然である。とくに、有機水銀原因説を展開するにあたり、Hunter等 [23] を参照している研究班とってはなおさらである。何らかの意図があって Edwards の報告の引用部分に触れなかったと言われてもやむを得ない。一方、現在に至るまで有機水銀(メチル水銀)の毒性について論ずる場合に Hunter等 [23] はしばしば引用されているが、Edwards の報告の引用部分への言及は皆無に等しい。即ち、論文作成に際しての文献検索が、現在においてなお形式的で惰性に流されている事が少なからずある事を示している。 有機水銀原因説が提唱された1959年までに、職業性メチル水銀中毒の症例報告は文献 [17, 20-22] 以外には Hill [27]、 Herner [28]、Ahlmark [29]、 Ahlmark & Ahlborg [30]、 Lundgren [31] 等があり、症状としては感覚障害が初発症状で、感覚障害のみの場合を含む中枢神経障害が記されている。 メチル水銀の経口摂取、つまりメチル水銀による食中毒は、イラク(1961年、1972年)グアテマラ(1965年)、ガーナ(1967年)、アメリカ(1969年)等で起きている。グアテマラの症例報告では、"loss of the use of extremities" との記述はあるが、「感覚障害」という記述はない [32]。ただし、"loss of the use of extremities" との記述に感覚障害が含まれている可能性はある。1972年のイラクの事例では Rochester 大学と Baghdad 大学の研究により患者 6,530人を対象に詳細な解析が行われた。その結果、職業性中毒の場合と同様、死亡例から感覚障害のみの例まで多様な症例があったことが判明している [33]。なお、そのイラクの事例に対し、すでに「熊本水俣病と新潟水俣病の病因物資は工場排水中の有機水銀」という政府見解を発表していた日本は、なぜか調査に参加していない。 すなわち、水俣病に対して「有機水銀原因説」が提唱された時点では、すでに有機水銀(メチル水銀)の毒性は感覚障害に始まる中枢神経障害であり、場合によっては感覚障害のみにとどまることも判明していた。しかし、有機水銀原因説を巡る議論の過程で、文献 [21, 22, 27-31] はほとんど考慮されなかった。もし、それらの文献のいずれかでも検索されていれば、有機水銀説が速やかに確立されたはずである。 すなわち、チッソの「有機水銀化合物の毒性は未知」という見解は、事実と当時の知見に反していた。チッソがアセトアルデヒド合成における有機水銀の副生を知りながら「無機水銀が有機水銀に変化するという考えは化学の常識に反する」と主張していた事実と合わせて考えると、これらの文献で示された有機水銀化合物の毒性を知りながら意図的に「有機水銀化合物の毒性は未知」と主張していた可能性を否定できない。 ④(チッソの反論)「1932年から操業しているが1955年以降に患者が急増した理由が不明である」 当初、チッソはアセトアルデヒド合成を Hofmann と Sand が確立した方法(通称ドイツ法) [4, 5] で行っていた。しかし、高温・高圧で合成を行うこの方法は爆発等の事故の可能性が高く、熱効率や製品であるアセトアルデヒドの収率が悪かった。それらの点を克服するため、チッソは 1951年8月から新方式(低温 60℃、減圧。触媒は無機水銀のみで補助触媒の二酸化マンガンを廃止)を順次導入。1955年には全面的に切り替え、当初の目的を達成した。しかし、旧方式ではメチル水銀生成量がアセトアルデヒド 10,000トンあたり 8キログラムであったが、新法では10,000トンあたり 40キログラムと激増し、水俣湾産の魚介類の汚染が急速に進み [34]、1950年代以降に患者が急増したと考えられる。すでに述べた通り、チッソの技術陣は旧法によるアセトアルデヒド合成で反応液中に有機水銀化合物が存在していることを確認している [13, 14]。したがって新法におけるメチル水銀副生量の激増を把握していた可能性は高いが、チッソは一切言及していない。 なお、食品衛生法が適用されず、必要な調査が一切行われなかった結果、1932年以降、いつ頃から水俣病患者が発生していたかは今でも明確ではない。 4.水俣病の発生は予見可能であった これまで述べたことから、水俣病の原因をチッソ水俣工場が排出した有機水銀に求める考え(有機水銀説)に対する、チッソの四通りの反論は、すべて間違いで根拠のない意図的虚言であり、したがって大規模食中毒事件としての水俣病の発生は「予見可能であった」と結論できる。入口紀男が述べているように [3]、水俣におけるアセトアルデヒド生産開始の時点(1932年)で、水俣病(メチル水銀中毒症)の発生の危険性は当然考慮されねばならなかった。しかし、一切考慮されず、アセトアルデヒドの生産は開始された。水俣病公式確認の時点(1956年)及び水俣病に対する1977年判断条件策定の時点で、メチル水銀の毒性を示す報告が多数あった。しかし、それらのほとんどは考慮されず、原因企業や行政の対応をそれらがあたかも正しいものであるかのようにうまくごまかして見せる目的で「水俣病の発生は予見不可能」との見解や「メチル水銀の毒性は不明であった」との見解が横行した。 なぜ、意図的虚言に等しい反論を並べ立ててまで、官民挙げてチッソ水俣工場の生産維持を計ったかについては、次のように考えられる。 1950年代は、石炭化学から石油化学への切り替えが通産行政の最重要課題であった。合成化学産業に必須のアセトアルデヒドやオクタノールの生産に切れ目を生じることなく石油化学への切り替えをしなければならなかった。当時、チッソはアセトアルデヒドとオクタノール製造では国内最大の企業であり、水俣工場の操業停止は、高度経済成長第一を旗印にする行政当局(通産相 池田勇人、秋山通産省軽工業局長)にとってはあってはならないことであった。そのため 1956年当時水俣病の発生は「予見不可能」であったことにし、水俣病とチッソの関係を否定し、水俣工場の操業を維持する事が最大の目的であった。その「予見不可能」の一言のもとで、あらゆる有効な対策が先送りされ、チッソと行政の責任は不明確にされた。 5.結論 水俣病の発生は明らかに「予見可能」であった。「予見不可能]であったという言葉は、企業や行政、更に一部研究者の過ちを、それらがあたかも正しいものであるかのようにその場だけを何とかうまくごまかすために提唱された。研究者があと少しの思いを巡らせていれば、無視されてきた文献の大半は検索でき、水俣病は「予見可能」となっていたはずである。最も重要な論文の一つである Zangger の報告 [18] を日本で初めて紹介したのは、医学者ではなく法律家(浅岡美恵弁護士)であった。それは、我々と同じ方法、つまり既報の文献と Index Medicus を用いての結果であった。この事実は、我々が日常的に行っている文献検索が、惰性に流れがちである事に対する警鐘と見るべきであろう。最近は文献検索をデータベースに依存することが多い。しかし、データベースが完全である保証はどこにもない。やはり、自らの手で文献を探すことを忘れてはいけない。可能な限り必要な文献を検索することは研究者の義務であり、文献の見落としや引用の誤りを指摘された場合には速やかに訂正すべきで、開き直りはあってならない。検索漏れについては、率直に反省して訂正すべきである。以前、筆者は、投稿に対して某学会機関誌(邦文)から「間違っていても広く用いられていれば、今更改める必要はない」という査読結果を受けたことがある。それは、「間違いを訂正するのを躊躇する」風潮が依然として存在していることがうかがえる。くり返すが、水俣病に対する「予見不可能」という言葉は、「予見可能」に改めなければならない。 水俣病(メチル水銀中毒)がチッソ水俣工場が原因者であることは、誰の目にも明らかである。しかし、2008年1月のチッソ社内誌に掲載された年頭所感で、当時の後藤舜吉会長(チッソ)は、「原因者だから(補償金を)払えといった単純な論理に従うわけにはいきません」と述べている [36]。さらに、2010年1月にチッソ会長が「(2009年の「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」の成立により)これで水俣病の桎梏(しっこく)から自由になる」とも述べている。「水俣病という桎梏」は水俣病に対するチッソの真摯な対応によってのみ外される。会長のこれらの発言は、チッソは自らの立場を全く理解していないことを示している。 水俣病は、1956年から1957年にかけて多方面で「食中毒」であると認識された。それに従って「食中毒」として扱われていれば、このような会長発言は許される余地はなく、水俣病を巡る現在の混乱のほとんどはなかったはずである。 現在でも、環境省は1977年水俣病判断条件に固執している。それは「感覚障害のみのメチル水銀は存在する」という事実を排除して作成されたものである。しかも、水俣病の専門家を自任する研究者らは、その1977年判断条件の妥当性を主張し続けている。メチル水銀中毒(水俣病)は「予見可能であった」ことを主張するとともに、1977年判断条件が空虚であり、科学的実証を欠いていることを指摘し続ける必要がある。 謝辞 津田敏秀教授(岡山大学)、入口紀男名誉教授(熊本大学)、及び佐藤郁郎博士(宮城県がんセンター病理部)から多くの有益な助言や文献の提供をうけた。また、五十嵐赳夫の資料の検索では荻野博名誉教授(東北大)の手を煩わせた。改めて深謝する。 【注1】 メチル水銀中毒症を「水俣病」と表現する行為は差別行為であり、「メチル水銀中毒症」と呼ぶべきであるとの見解がある [35]。筆者も同意するが、紙面の制約もあり、あえて「水俣病」という呼称を多用した。 【注2】 チッソの社名は、「日本窒素肥料株式会社」⇒「新日本窒素肥料株式会社」⇒「チッソ株式会社」と変更されているが、本文では「チッソ」を用いた。 引用文献
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