I.はじめに 最古のメチル水銀中毒症例報告は、現時点では 1865年の Edwardsの報告とされている。この報告は、メチル水銀中毒の症状の詳細な記述であり、水俣病の研究のみならず、有機水銀中毒の研究では鏑矢(かぶらや)的存在であるが、現在に至るまで殆ほとんど顧みられていない [1]。今回、この Edwardsの業績について再評価し、これまで無視されてきた理由について考察した。II.方法 III.結果と考察 1. St. Bartholomew's Hospitalで起きたメチル水銀中毒とGeorge Nelson Edwards St. Bartholomew's Hospitalは、キリストの十二使徒の一人の名前を冠し、1123年にロンドンに設立されたイギリス屈指の名門病院である。「Barts」という通称で広く知られている。創立以来、血液循環論の Sir W. Harveyを初めとする多くの医学者・研究者を輩出すると共に医師の養成を行ってきた。1843年に医科大学が併設され、St. Bartholomew's医科大学となった。その研究室でジメチル水銀合成 [2] に従事した化学者三名メチル水銀中毒が発生したが、G. N. Edwardsは、その症例について 1865年と1866年に報告した [3, 4]。これが Edwardsの報告である。筆者が St. Bartholomew's Hospitalに併設されている博物館に直接照会してみたところ、1860年代にその病院に在籍した医師を含む職員の個人情報の記録は病院にはなく、Munks Roll [5] の『Lives of the fellows』に記載されている以外のことはわからないとの回答であった。したがって、『Lives of the fellows in Munks Roll』により、G. N. Edwardsの足跡をたどることにした。 George Nelson Edwardsは、1828年6月に英国 Suffork州の Eyeに外科医 Geroge Edwardsを父として生まれ、Cambridge(Canus College)を経て St. Bartholomew's Hospitalで修練後 1851年に MD degreeを取得、1860年 St. Barholomew's Hospitalの assistant physicianとなった。さらに、同病院に併設された医科大学で 1866年から法医学の講義を担当している。1867年には同病院の紀要『St. Bartholomew's Hospital Report』の副編集長になり、第三巻まで担当した。その頃 City of London Hospitalの胸部疾患部門も担当していた。1864年にジメチル水銀取扱者三名の中毒が発生。その主治医の一人であり、症状の経過を二篇の報告 [3, 4] にまとめている。Munks Roll [5] では、St. Bartholomew's Hospitalで取り扱った疾患に関する統計的年報の作成を Edwards の業績として挙げている。しかし、1865年と1866年に詳細に記述したメチル水銀中毒の症状とその経過は水俣病重症例と酷似している。従って、水俣病は Edwardsが報告した症例の延長線上にあるとして先ず捉えられるべきであり、この Edwardsの報告 [3,4] は、Grandjean等が述べている様に [1]、メチル水銀中毒の症状を詳細に記述し、その毒性を示したとする最初の報告であり、Munks Roll にあるEdwardsの業績に追加すべきであろう。Edwardsは、職責に対する熱意は人一倍であったと言われているが、生来病気弱で、1868年12月6日に 40歳で他界した。慢性 Bright' diseaseを患っていて、その為に尿毒症になり痙攣発作を起こしたり、視力が徐々に低下し、最終的には失明した。日光に顔を照らされながら「暗いからブラインドを上げてほしい」と言い、失明に気がついたようである。なお、慢性 Bright' diseaseとは現在の病名にすると 慢性糸球体腎炎となる。 蛇足であるが、この病院(Barts)の研究室が、Mr. Sherlock Holmesが外科医 Dr. John Watsonと最初に出会った場所であるとされて『Study in Scarlet』(邦題: 緋色の研究)に記されている。アフガン戦争に軍医として従軍し、負傷して除隊した外科医 Watsonに対して Holmesが発した最初の言葉は、"You have been in Afghanistan, I perceive..." であった。 2. Edwardsの報告の存在 ジメチル水銀は、自然界に存在しない物質で、1858年に Bucktonが初めて合成に成功した。Franklandは 1856年にジメチル水銀が原子の荷電数を決定する際に有用なことを発見し、1863年にジメチル水銀合成方法を確立した [2]。ジメチル水銀は後に核磁気共鳴による解析の際に標準物質としても使用されるようになったが、現在では核磁気共鳴の標準物質としては水銀を含まない物質が用いられている。なお、後年の研究であるが、ジメチル水銀自体に毒性はないが、速やかに分解してメチル水銀となり、毒性を示すことが証明されている [6]。従って、以下に述べる 1864年に発生したジメチル水銀による中毒は、メチル水銀による中毒と読み替えてよい。試薬としてのジメチル水銀の有用性が明らかになった結果、Franklandの方法 [2] を用いて、聖バーソロミュウ病院(St. Bartholomew's Hospital)に併設された医科大学で、1864年に W. Odling の指導の下でジメチル水銀の合成が三名の化学者により開始された。しかし、同年末にその合成作業に従事した三名の化学者のうち二名 (C. Urlichと T. Sloper)が重篤な中毒症状を呈し、その後に死亡した。C. Urlichは、1864年11月にジメチル水銀合成に従事したが、程なく上肢の感覚障害が始まり、聴力障害、言語障害及び視力障害が現れ、1865年2月に入院した。入院後、症状は悪化し、狂騒状態や失禁状態が続き、昏睡状態のまま翌年 2月14日に死亡した。T. Sloperは、約 2週間作業(ジメチル水銀合成)に従事後、同様の症状を呈し、発症 3週間後に入院(1865年3月25日)、Urlichと同様の経過の後、翌年 4月7日に死亡している。残りの一名は死亡した二名と似た症状を呈したが、離職により回復している [4]。死亡例二名の症状経過は、水俣病重症例の症状経過と酷似している。この Edwardsの報告 [3, 4] を掲載した『聖バーソロミュウ病院報告』(St. Bartholomew's Hospital Report)の配布範囲は限られていたようで、日本に輸入された形跡はないとされている [7]。しかし、現在は『聖バーソロミュウ病院報告』第一巻と第二巻は Google Scholarにより PDF化され無償で公開されている。 3. 1864年のメチル水銀中毒事例が日本に伝えられた時期 Edwardsが報告した中毒事例は、その激烈な症状の経過からイギリス、ドイツ及びフランスで大きな反響を呼び、当時の一般向け大衆雑誌『COSMOS』や一般向け新聞にも取りあげられ、ジメチル水銀は「真に並外れた毒性を持つ物質」として広く伝えられた。さらに、二名の死亡者の上司であった W. Odlingに対して「毒性を伝えずに危険な仕事をさせたのではないか」との非難が起き、『Chemical News』誌上で大論争が展開された [8-10]。直ちに「毒性に関する情報は皆無であり、作業の危険性は予知できなかった」との Odlingの弁明があったが、この論争は一年余り続いた。この論争の一部始終が掲載された『Chemical News』誌当該号は全て 1927年に東京高等工専(後の東京工大)が収蔵、公開している。すなわち、1865年のメチル水銀中毒事件報告の概要は 1927年には日本に伝えられていて、誰でも知ることができた [7]。しかし、『Chemical News』誌の記述にはだれも関心を示さなかった。『St. Barholomew's Hospital Report』は、Google Scholarによる PDF化以前に国内で直接参照することは困難であったと思われる。しかし、PDF化のはるか以前に、Hepp [11] や Hunter等 [12] などの報告の冒頭においてこの Edwards の報告 [3] が詳細に引用されている。Heppの報告 [11] は、1931年には国内検索可能であったが、今日まで殆ど注目されていない。一方、Hunter等の報告 [12] は、水俣病における有機水銀説(1958年提唱)の根拠になっただけでなく、その後も有機水銀の毒性に関する多くの報告で繰り返し参照されている。しかし、Edwardsの報告の引用部分への言及は見あたらない。もし Edwards の報告のこれらの引用部分が参照されていたら、1958年の有機水銀説は速やかに強固なものになり、荒唐無稽な反論を許す余地はなかったと考えられる。 Edwardsの報告のこれらの引用部分の無視が意図的に行われたか否かは不明である。しかし、論文作成における参考文献の検討が形式的で杜撰であったことだけは確かである。多くの報告でこの Edwardsの報告 [3] が参考文献に挙げられてはいるが、「1865年にメチル水銀中毒が起きている」という程度で、内容の詳細について殆ど触れられていない。水銀及びその化合物の毒性に関する近年の総説 [13] でも、Edwardsの報告 [3] は文献としてあげられてはいるが、内容には触れられていない。Grandjean等は、この Edwardsの報告を「忘れられたメチル水銀の毒性に関する最初の警告」と述べている [14]。 4. Edwardsの報告を無視した結果 前述の通り、1864年に起きたメチル水銀中毒は『Chemical News』誌により 1927年には日本に伝わっていた。さらに、その報告 [3] の詳細は Heppの報告 [11] や有機水銀説展開の根拠となる Hunter等の報告 [12] からも知ることができた。しかし、何れも顧みられることはなかった。水俣工場におけるアセトアルデヒドの製造は、1932年に開始された。その時点で、アセトアルデヒド合成における有機水銀の副生は関係者の間では常識となっていた [15]。一方、文献検索が適切に行われていれば、メチル水銀取扱者の中毒症例が 1927年には日本に伝えられていたことが分るはずであり、アセトアルデヒド合成開始に先立って、メチル水銀による中毒の発生が予見できたはずである。しかし、Edwardsの報告 [3, 4] や、すでに明らかになっていたアセトアルデヒド合成における有機水銀副生の確認 [15] の報告等は一切無視され、水俣病の発生は、1932年の時点では予見不可能と認識された。これは水俣病を矮小化し環境汚染や水俣病に対する責任を回避したいチッソ、日本化学工業会および行政にとって、極めて好都合であった。水俣病が Edwardsの報告の延長線上にあり、工場排水に由来する有害物質に汚染された魚介類の摂食による食中毒であるという事実は無視された。その結果、水俣病は特定の地域内で発生した前例のない神経疾患であって、工場排水とは無関係とされ、公式確認の時点(1956年5月1日)では「未知の疾患」と認識されて「奇病」と呼ばれた。 ところが、水俣病発生公式確認以前に、チッソはアセトアルデヒド合成における有機水銀の存在を既に把握していたとする指摘がある。すなわち、1947年5月10日付チッソ社内文書に、「(アセトアルデヒド合成で)中間体として水銀の有機化合物が生じるのは事実であるが、その構造は未定」と記載されている [16]。すなわち、水俣病発生公式確認以前に、チッソは恐らく Vogt & Nieuwlandの報告 [15] に基づいてアセトアルデヒド合成における有機水銀の存在を把握していた。 この社内文書に示されたアセトアルデヒド合成における有機水銀化合物の存在に関する研究はチッソ社内で継続され、1954年に五十嵐赳夫(チッソ社員)が日本化学会年会で、「アセトアルデヒド合成反応液中に有機水銀化合物の存在を確認した」と口頭で報告している [17]。五十嵐の発表で確認されたアセトアルデヒド合成における有機水銀の生成は、チッソにとって極めて不都合な事実であった。日本化学会第 7年会講演要旨集にこの五十嵐の発表の要旨が掲載されているが、発表者名索引には五十嵐の氏名が記載されていない。これが単なる間違いか、それとも何らかの意図が働いた結果のいずれであるかは定かでない。この五十嵐の発表を可能な限り隠ぺいしようとする意図が働き、発表者名索引に五十嵐の名前が掲載されなかった可能性を完全には否定できない。有機水銀の存在が確認されていたにもかかわらず [17]、チッソは有機水銀原因説に対し「使用しているのは無機水銀。それが有機水銀に変化するというのは化学の常識に反する」と虚言を弄し続けた。結果として、Edwardsの報告 [3, 4]は無視され、水俣病はメチル水銀とは無関係との認識ができあがった。これは企業や行政にとって好都合であり、チッソは、自らが確認していた事実 [16, 17] を隠ぺいし、行政やいわゆる水俣病専門家と共に「チッソと水俣病は無関係で有機水銀中毒など起きるわけがないし、有機水銀の毒性は不明である(従って症状からどうして有機水銀といえるのか)」と主張し続けた。さらに、水俣病発生公式確認の時点(1956年5月1日)で、職業性メチル水銀又はアルキル水銀中毒症例報告が複数あり [18-23]、これらの情報を参照すれば水俣病と有機水銀の関係が示唆されたはずであったが、国内ではほとんどの研究者は関心を示さず、何れの報告も顧みられることはなかった。しかし、海外では Lundgren [22, 23] が Edwardsの報告 [3] を引用し、自らが研究する症例を Edwardsの報告の延長線上にあると捉えているが、少数派である。Grandjeanは Edwardsの報告を「最初にメチル水銀中毒の症状を記述した報告であるが、長い間無視されてきた」と述べている [1, 14]。 Edwardsの報告や、1956年の時点で報告されていたメチル水銀中毒症例 [18-23] は、胎児性水俣病を発見した原田の研究においても一部引用されている。しかし、原田の「水俣病の前に水俣病なし」との発言を考慮すると、水俣病との関係において Edwardsの報告を捉えてはいなかったと考えられる。すなわち、この原田の言葉は、「水俣病を特定の地域内に発生した歴史上類例を見ない奇病」ととらえ、1865年に報告された聖バーソロミュウ病院で起きたメチル水銀中毒の延長線上にあるとはとらえていなかったことを示している。つまり、この原田の「水俣病の前に水俣病はない」という発言は、患者に対しては「慰め的な響き」があり、水俣病に対する責任を認めたくない企業や行政にとっては極めて好都合な言葉であった。なお、その後、イラクで 1972年に発生した水俣病と同様のメチル水銀による大規模の食中毒事件の報告 [24]、1969年にアメリカで発生したメチル水銀処理小麦で飼育した豚肉による食中毒 [25] の報告、1996年にアメリカで発生したジメチル水銀取扱者の中毒(死亡例)の報告 [26] 等があるが、何れにおいても Edwardsの報告は引用されていない。 1954年の日本化学会における五十嵐の発表は、8年後の 1962年に「アセトアルデヒド合成で触媒として添加された水銀の動態に関する研究」の表題で五十嵐の学位論文として公刊された [27]。口頭発表から論文化までの 8年間に水俣病を巡って起きていた数々の事象を考えれば、五十嵐および水俣工場の研究者等は自分達の研究の重要性、つまり「研究結果が自社にとって極めて都合が悪い(すなわち、非は我が社にあり)」と認識していたからこそ、1954年の日本化学会における発表の論文化を 1962年まで意図的に遅らせたのではないかとも推定できる。なお、五十嵐は自身の研究に対して終生沈黙を守り続け、それに対して水俣工場の西田栄一工場長は「関知していない」と述べている。すなわち、1954年の日本化学会第 7回年会口演要旨集 [17] の著者名索引に五十嵐の名前が欠落しているのは、企業や行政にとって不都合な事実を何とか隠ぺいしようという働きかけがあった可能性を否定できない。この間、チッソと行政(通産省軽工業局)及び一部医学者(いわゆる「水俣病専門家」)は、多くの情報を敢えて無視し、もっぱらチッソと水俣病の関係を否定することに奔走していた。五十嵐の研究が水俣病の核心に触れていることを認識していたからこそ、チッソは「水俣病とは無関係である」という立場をとり続けるために自らの研究成果を隠ぺいし虚言を弄し続けるしかなかった。チッソの虚言で構成された言い訳に対し、数々の文献 [3, 4, 10, 11, 17-22] に基づく有効な反論は実施されなかった。 まとめ 水俣病はメチル水銀中毒(食中毒)であり、1865年の Edwardsの報告の延長線上で考えられるべきであった。1864年に発生したメチル水銀中毒の概要は『Chemical News』誌の記事[8-10]により、1927年には日本に伝えられていた。さらに、この中毒を報じた Edwardsの論文 [3] を Hepp [11] と Hunter等 [12] が詳細に引用、いずれも 1930年代には国内で検索可能であったが、顧みられることはなかった。その結果、Edwardsの報告 [3, 4] と水俣病とは無関係となっただけでなく、水俣病は工場排水に起因するメチル水銀中毒であるという事実が隠ぺいされ、一地方におきた地方病で、原因不明の神経疾患とされた。水俣は地名であって、メチル水銀中毒(水俣病)の原因ではない。 Edwardsの報告(1865年, 1866年)は、Edwardの業績として正しく評価されなければならない。 水俣でアセトアルデヒド合成が開始されたのは 1932年である。この時点で Edwarsの 1865年の報告の内容は国内で検索可能であった [11, 12] だけでなく、有機水銀の副生は既に明らかになっていた。すなわち、アセトアルデヒド製造におけるメチル水銀中毒の発生は 1932には既に「予見可能」であったと言える。 さらに、1954年にはアセトアルデヒド合成における有機水銀の副生をチッソ社内で認識していた。また、この時点までに多くのメチル水銀中毒症例報告 [3, 4, 11, 12, 19-24] が存在していたから、水俣病は遅くとも 1954年までには予見可能であった。しかし、研究者による不十分な情報検索と、チッソによる自身に不都合な事実と情報の無視と隠ぺいは続き、水俣病を予見できた複数の機会は無視され、現在も間違った認識による水俣病対策が続いている。 謝辞 入口紀男名誉教授(熊本大学)、荻野博名誉教授(東北大学)及びSven Langtworh博士(Ohtsuka Pharma Sweden) から多大のご協力をいただいた。改めて深謝する。 社名 日本窒素肥料株式会社、新日本窒素肥料株式会社、チッソ株式会社と社名は変更されているが、実態は殆ど変わっていないので、ここでは「チッソ」を用いることにした。 引用文献
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