熊本大学文書館・<水俣病>研究プロジェクト (HOME)


水俣病の前に興南病があった: 水俣病は青天の霹靂(へきれき)ではない

石原 信夫 Nobuo Ishihara, M.D., Ph.D. (公財)神奈川県予防医学協会

1.はじめに

 水俣病発生公式確認(1956年5月1日)当時、水俣病は全く経験のない疾患で、晴天の霹靂のごとく発生した地方病と考えられた。しかし、現在ではチッソ水俣工場から排出されたメチル水銀で汚染された水俣湾産魚介類による中毒であったことが明らかになっている。チッソは朝鮮水力発電と朝鮮窒素肥料の二社を設立、植民地であった朝鮮の興南(Hungnam)に工場を建設、肥料や種々の化学製品の生産を開始した。時期は明確ではないが、興南では作業者の間に奇妙な病気の発生が噂され、「興南病」と呼ばれるようになった。「興南病」という病名が何時頃から広く知られるようになったかは不明であるが、1970年に元幹部社員の著作に「興南病」の存在が記されている[1]。1973年に出版された興南の元社員に対する聞き取り調査では、「興南病」と呼ばれた奇妙な病気の存在が異口同音に語られている[2]。1996年に最首は「興南病」と呼ばれていた水俣病に酷似している疾患の興南における存在を記している[3]。その後、2007年の京都工芸繊維大学の物質開発倫理学講義録[4]、2011年の新聞記事[5]、2014年の植民地時代の朝鮮現代史研究報告[6, 7]、2015年の朝鮮現代史関係のシンポジウムの記録[8]等に「興南病」という言葉がある。何れの場合も、「興南病」が興南工場群で発生していたと述べているが、症状や病状の経過及び発生状況に関しては触れていない。なお、日本における医学文献で興南病を取り上げているのは見当たらない。
 これらの複数の報告[1, 2, 4 - 8]における興南病の存在の明記は、「興南病」と呼ばれた奇妙な病気の実在を示している。今回の目的は、この興南病と呼ばれた疾患の本態を可能な限り解明することである。

2.方法

 学術論文、著作、新聞記事などを時系列で比較検討した。

3.結果と考察

1: チッソの朝鮮進出
 チッソは朝鮮に朝鮮水力発電(株)と朝鮮窒素肥料(株)の二社を設立、1930年頃には興南(Hungnam; 朝鮮半島東海岸北部の寒村)に立ち上げた工場群で、肥料(硫安、硝安等)や種々の化学物質の生産を開始した。日中戦争の拡大や満州国建国等により欧米との軋轢が増加し、天然資源や多くの化学製品の輸入が困難になった。その結果、興南の工場群は日本の戦時体制維持に必要な物質(アセトン、イソオクタン、醋酸、無水醋酸、ブタノール、エチレングリコール、火薬等)の主要供給基地として位置づけられ、機会ある毎にこれらの物質の増産が行われた。その結果、朝鮮半島東海岸の一寒村にすぎなかった興南は、工場敷地約500万坪、就労人口45,000人の電気化学工場群が存在する大化学工業地帯に変貌し、敗戦まで空襲を受けずに日本の戦時体制を支え続けた。第二次大戦後は北朝鮮に引き渡されたが、朝鮮戦争で空襲により徹底的に破壊された。しかし、その後再建され、北朝鮮の化学産業を支える存在となったと伝えられている。
 興南では1930年に硫安等の肥料、1936年に火薬及びその関連品、カーバイド、アセトアルデヒド、エチレングリコール、ブタノール、イソオクタン等の製造が開始された[1]。特にアセトアルデヒドは多くの化学製品の原料であり、機会ある毎に増産が繰り返された。その結果、有機水銀の副生量は増加し、有機水銀中毒の危険性も増加することになった。
 当時、この興南病と作業場内に存在した種々の有害要因との関係がどの様に考慮されていたかは不明である。しかし、興南の元幹部社員[1]が示した興南で製造若しくは取り扱っていたアセトアルデヒド以外の物質について検討した結果、それらの物質の製造・取扱いでは「それまで経験したことのない奇妙な病気」と表現されるような中毒症は起きていなかったとの判断が得られた。更に興南工場群では作業者間で呼吸器疾患が多発したとの地元紙報道があるが[6]、呼吸器疾患の症状は比較的周知されいて「奇妙でわけのわからない」と把握された可能性はなかったと考えられる。一方、重症のメチル水銀中毒(死亡例)における症状とその経過はそれまでに経験したことがない激烈なものであり、欧米の関係者に大きな衝撃を与えた[9,10]。従って、興南で行われていたアセトアルデヒド合成で副生していた有機水銀による中毒が起きた場合には、有機水銀中毒に関する知識・経験が乏しかった興南の関係者に対し、欧米の場合と同様に大きな衝撃を与えた事が考えられる。即ち、この奇病「興南病」とアセトアルデヒド合成で副生した有機水銀との間に深い関係があると考えられる。
2: 興南でアセトアルデヒド合成が開始された時期
 興南では1936年には既にカーバイド製造工程が稼働中で、アセトアルデヒドの生産やそれを原料とする種々の物質の合成が行われていたと記されている[1]。航空燃料としてのイソオクタンの需要の急増に対応したイソオクタン増産計画は1942年に完成し、イソオクタン年間生産能力は18,000 KLとなった[1]。一方、1939年9月の京城日報の記事[11]によると、1939年には既にアセトアルデヒドを原料とする物質(アセトン、イソオクタン、醋酸、無水醋酸、ブタノール等)の合成がかなりの規模で行われていたと判断できる。一方、この時点(1936年)では既に水俣でアセトアルデヒドの商業生産が行われていたから、興南に対して水俣からアセトアルデヒドを輸送していた可能性も考えられる。しかし、同記事[11]には、「(1936年には)アセチレンを原料としアセトアルデヒドを合成し」との記述があり、1936年には興南で既にアセトアルデヒドを生産していたとみることができる。この時点では水俣では既にアセトアルデヒドの商業生産を行っていたから、興南においてアセトアルデヒド生産開始には何ら支障はなかったと考えられる。したがって、興南における化学製品の原料であるアセトアルデヒドの生産は1936年には既に開始され、1940年から1941年にかけて大幅に増強されたと判断できる[4,6]。
 以上の事実から、操業開始後の早い時期(1936年頃)には、アセトアルデヒド生産の結果である有機水銀中毒の危険性が存在していたと推定できる。
3: 興南病とよばれた奇妙な病気の本態
 興南工場群では爆発や火災などでの死傷事故やアンモニアや酸類の蒸気による呼吸器障害が頻発し、周辺地域の住民の間での小児の死亡率が高い病気の流行や、工場排水による漁業被害などが、地元紙により伝えられている[6]。従って、これらの健康障害と「興南病」と呼ばれていた疾患との鑑別が必要になる。
 まず、酸やアンモニアによる呼吸器障害の症状については、それなりに知られていた。従って、興南病は酸やアンモニアによる呼吸器障害ではないと判断してよい。
 加藤によれば[7,8]、興南工場の作業者の健康状態に関する唯一の資料は、興南から水俣に引き揚げてきた関係者からの聞き取りを記録した児玉の報告[2]のみとされている。そこには、「言っちゃ悪いけど朝鮮の方が公害が相当でた。だが時代がちがった。訳の分からない奇妙な病気があり、興南病という名前で片付けた」との元工場長の証言や、元病院看護師の「興南には訳の分からない病気がありました。そのために(日本人)社員のなかには家族を興南から離れた緑地帯に住まわせていた人もいました」との証言が記されている。興南の日本人社員向社宅は工場周囲の五つの地区に整然と建てられた煉瓦造りの戸建てであり、上水道の設置、水洗便所の設置、電気は使い放題、工場から供給される蒸気による暖房等、冬の厳しい興南における生活には快適な住居であった[12]。しかし、朝鮮人労働者向け社宅は使用量に制限のある電気の供給のみであり、上水道、水洗便所及び蒸気供給は無く、暖房は石炭を用いた伝統的オンドルのみであり、工場周辺地域の一般住民と同じであった。特に冬の厳しい土地での生活にとって快適な社宅が供給されていたにも係わらず、「訳の分からない病気」を避けるために、工場から離れた不便な緑地帯(蒸気供給なし、生活用水供給は恐らく井戸に依存、周囲の衛生状態は社宅地帯より劣悪)に家族を敢えて住まわせていた日本人社員がいたことは、「訳の分からない病気(興南病)」は興南工場群から離れた周辺の住民に存在していた疾患[6]とは明らかに異なり、専ら工場内で発生していた疾患と認識されていた事を示している。
 当時、工場内に存在していたと考えられる有害因子のうち、中毒に遭遇した経験のないものは、アセトアルデヒド合成の副生物である有機水銀化合物であると考えられる。メチル水銀取扱者の中毒例報告[9]や、アセトアルデヒド製造従事者における有機水銀中毒報告[13]に示されている症状とその経過は、それまでに経験のない奇妙で激烈なものであり、各方面で論争を引きおこした。興南で興南病と名付けられた奇妙な病気が日本人社員に大きな影響を与えた事は容易に想像できる。以上の事実から、「興南病」と名付けられた疾患は専ら工場内で発生していた中毒症であり、病因物質はアセトアルデヒド合成で副生された有機水銀(多分、メチル水銀)による中毒であったと結論できる。つまり、興南病はアセトアルデヒド合成の結果としての有機水銀中毒であり、水俣病との関連で考えねばならないと言える。ただし、症状やその経過等は不明のままである。
 1940年代になると、陸海軍からのイソオクタン増産の強い要求に基づき、興南におけるイソオクタン生産が増強された[11,14]。イソオクタンの生産規模の拡大は必然的にアセチレンからのアセトアルデヒド合成の増加を伴い、当然の結果として有機水銀中毒発生の危険性は増加することになった。増産計画の結果、最終的にはイソオクタン年間生産量は30,000 KLとなったとされている[15]。
 ところで、イソオクタン 1 KLの製造には水銀を 3Kg消耗したといわれている[15]。したがって、1942年のイソオクタン生産量は 30,000 KL/年であるから、一年間に 90トンという膨大な量の水銀がイソオクタン製造で失われたことになる。但し、このイソオクタン製造における水銀の損失がアセトアルデヒド合成にのみ依存しているか否かは明らかでない。他方、水俣におけるアセトアルデヒド合成に於ける水銀の消耗量の試算では、1937年から1940年の間は、1956年当時と略同じで、年間 20トン程度と推定されている[6]。したがって、イソオクタン製造に伴う水銀消耗量が全てアセトアルデヒド合成によるとすれば[15]、興南ではアセトアルデヒド生産量やその際の水銀の消耗量や有機水銀の副生量は水俣を明らかに超えていたと考えられる。一方、別の試算では1932年から1968年の間に水俣工場で消耗した水銀量は約 400トン(メチル水銀として排出された量は 0.4 - 4トン)とされている[17]。アセトアルデヒド合成では添加された無機水銀が反応の過程で還元され金属水銀となり、反応液中に沈殿する。一部の無機水銀は有機水銀(メチル水銀)に変化しアセトアルデヒド合成で真の触媒として作用する事はすでに判明していただけでなく[18]、邦文によっても知られていた[19 - 21]。しかし、これらの有機水銀の副生を示す情報を一切無視し、チッソはアセトアルデヒドの合成を進めていった。いずれにせよ、イソオクタンを初めとする多くの化学物質合成増産は必然的にアセトアルデヒド増産となり、その結果、興南における有機水銀副生量が飛躍的に増加し、結果として有機水銀中毒の危険性も増加、水俣地区より高かったのではないかと考えられる。
4: 興南における有機水銀中毒の発生
 アセトアルデヒド製造における廃棄物は、水酸化カルシウム(水銀を含まない)と、アセトアルデヒド抽出後残液(有機水銀と無機水銀を含む)の二種類である。興南ではこの二種類の廃棄物の処分は、水銀化合物の毒性を考慮することなく、無処理のまま日本海に直接投棄するという最も安易な方法をとっていたと考えられる。そのため廃棄物取扱者に中毒が発生し、興南病と呼ばれるようになったと推定できる。また、アセトアルデヒド合成過程における労働衛生的配慮は不十分で、反応液が漏洩していた可能性も考えられ、廃棄物取扱者以外にも有機水銀中毒が発生していた可能性がある。1916年に発生したアセトアルデヒド合成における有機水銀中毒例[13]では、この二種類の廃棄物は混合して地中に投棄されていたので、廃棄物取扱者を中心に中毒が発生した。一方、水俣ではアセチレンとアセトアルデヒドの製造は、互いに離れた別の建物で行われ、便宜上廃棄物は別々に処理されていた。従って、廃棄物取扱作業者には有機水銀中毒は発生していない。
 日本海にはロシア沿海州沿岸海域に発し、間宮海峡を通り朝鮮半島東側に沿って南下するリマン海流と、朝鮮半島南岸から対馬の東側を通り、日本列島に沿って北上し津軽海峡に到る対馬海流が存在している。これらの海流により、投棄された廃液は速やかに希釈拡散され、水俣湾のような限られた海域の水質汚染は起きなかったと考えられる。但し、1930年代に地元紙が「沿岸地域の漁獲量の減少」を伝えているが,人的被害については記されていないので、水銀を含む廃液の投棄によるものではないと考えられる[9]。
5: 興南での経験は水俣では生かされなかった
 チッソが朝鮮窒素肥料を設立し、興南に設置した複数の工場で生産を開始して以来、作業者の間に「興南病」と名付けられた疾患の発生が無視できない状態であり、興南病は原料であるアセトアルデヒド合成に伴う有機水銀中毒であった可能性を指摘できる。即ち、1956年5月1日に公式に確認された水俣病は、晴天の霹靂の如く突然に発生したのではない。1932年に水俣でアセチレンを原料とするアセトアルデヒド生産が開始された時点で既に、関連企業である朝鮮窒素肥料の興南工場群で有機水銀中毒に酷似した疾患が発生していた可能性が高い。敗戦後、興南関係者(日本人)は引き揚げてきて、戦時中の空襲で徹底的に破壊されたチッソ水俣工場の再建に携わった。従って、水俣病発生公式認定の時点で、興南工場の実態や興南病についての情報をもっていた人は少なからずいたと推定できる。しかし、興南工場に関する聞き取り調査に応じた人達はいるが[2]、自ら積極的に当時の興南の事情と、興南工場の北朝鮮への引き渡しや、興南からの日本人社員の引き揚げに関して記述している文献は、現時点では鎌田の著作[1]以外には見当たらない。
 興南からの引揚者の多くは、かって興南で発生していた「興南病」に関するかなりの情報を持っていた筈であるが、水俣工場再建に際しては殆ど考慮しなかった。ただし、中には水俣での有機水銀中毒の発生の危険を危惧する見解もあった可能性が考えられるが、高度成長政策と化学産業石油化推進政策の下では全てが生産第一になり、興南病に関する情報や有機水銀中毒の発生に対する危惧は封印されたと考えられる。
 さらに、チッソの創業者・野口遵が日頃「労働者を人と思うな。牛や馬のようにこき使え」と口にしていたこと[22]、及び、水俣工場で作業者募集に応募してきた人に対して「作業で死ぬ覚悟はあるか」と責任者が質問し、「はい」と答えた者だけが採用されていた事実[23]等から考えられる社風の下では、興南の日本人社員の多くが作業者間に発生した奇妙な病気には関心を払わなかった可能性が考えられる。

4.まとめ

 1928年設立の朝鮮窒素肥料(株)の興南工場群では、アセトアルデヒド合成で副生される有機水銀量は水俣以上であり、有機水銀中毒の発生の危険性は水俣を上回っていた可能性がある。このような条件下で発生した興南病は、「見たこともない奇妙な病気」という記述のされ方を考慮すると、工場周辺地域に流行していた疾患や、工場群に存在した他の有害要因による疾患等とは異なり、専ら工場内で発生していた疾患と把握されていた。さらに、その本態は有機水銀による中毒である可能性が高い。
 即ち、水俣病は興南病の延長線上で必然的に発生したものであり、晴天の霹靂の如く発生したのではない。尚、興南病に関する何らかの資料が北朝鮮には存在している可能性がある。

謝辞
 今回の執筆に際し、入口紀男名誉教授(熊本大学)、深草雪英氏(熊本学園大学水俣学研究センター)、加藤圭木准教授(一橋大)、および田嶋いずみ氏(水俣を子供たちに伝える会)から多くの助言をいただいた。改めて、深謝する。
利益相反について
 今回の研究では、いかなる形での研究費の交付は一切受けていない。また、利益相反もない。
社名について
 水俣でアセトアルデヒド製造を開始した時点の社名は、日本窒素肥料株式会社であった。戦後は新日本窒素となり、水俣病発生の後はチッソと改名した。その後、生産部門を分離して子会社JNCとしたのち、チッソは補償に専念する企業になった。チッソまでの変更は、単に社名の変更であるので、本文ではチッソを用いた。
地名について
 興南の朝鮮語読みをアルファベットで表記するとHUNGNAMとなる。ここでは漢字表記を用いた。
内容の公開
 ここに述べた内容の一部は、2018年7月28日の第77回日本産業衛生学会東北地方会(仙台)の発表内容に含まれる。

参考文献

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  4. 小出裕章「水俣公害」京都工芸繊維大学物質開発倫理学講義録(5)pp: 1-6 2007年12月26日
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  11. 京城日報「朝窒事業陣 超大計畫の四事業 : 特産危機解消の大豆加工、醋酸繊維製造と火藥製造」(1934年9月20日) 神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫 14-026
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  16. 有馬澄雄(編)『水俣病』pp: 182-184 靑林舎 東京 1979
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  21. 内田「アセチレンよりアセトアルデハイドを作る場合の水銀鹽の作用並びにパラアルデハイドの製造方法」 工業化學雑誌 25: 980-981 1922
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