1.はじめに 水俣病の解明の過程では数多くの重要な文献が無視されたり、誤って解釈されてきた。なかでも基本的文献である Hunter等の報告[1]と Pentschewの著作[2]に対する誤った解釈ついて、改めて指摘しておく必要がある。水俣病の解明における Hunter等の報告[1]の重要性は明らかである。しかし、その内容の全容が正確に把握されてはいなかった。また、有機水銀による中枢神経系の病変に関する著作[2]は、間違った解釈があたかも正しいが如く認められ、「ハンターラッセル症候群」という言葉の誤用につながった[3-5]。 今回は、二つの報告[1,2]に対する間違った解釈を是正し、改めてこれらの報告の重要性を指摘する。 2.方法 3.結果と考察 1.Hunter等の報告は正しく紹介されていない水俣病解明の過程で、Hunter等の報告[1]は1957年に徳臣により紹介され、1959年の武内による有機水銀説の根拠となった[3]。その際、それまでに観察された水俣病の主要症状をまとめて「症候群」とする事が提案された。その結果、この Hunter等の報告[1]と Pentschewの著作[2]を参考にして「ハンターラッセル症候群」という名称が提案され、現在は学術分野だけでなく一般的にも広く用いられている。 しかし、後述するように、Pentschewの著作では、アルキル水銀中毒における中枢神経の組織病変、つまり死後に認められる所見に対して「ハンターラッセル症候群」という言葉が定義されている[2]。水俣病の症状をまとめて表現するにあたり、この記述をあたかも生前の状態、つまり中毒症状に対して定義されたと誤解していたことは既に明らかにされている[3-5]。すなわち、現在有機水銀中毒の主要症状をまとめたものとして用いられている「ハンターラッセル症候群」という術語は、死後の状態に対して定義された言葉を生前の状態に当てはめるという大きな間違いを犯している。 ところで、この Hunter等の報告[1]は、水俣病解明の場合だけでなく、有機水銀の毒性に関する報告では屡々引用されている。しかし、その多くの場合、この報告があたかも世界最初の症例報告の如く理解するという、大きな間違いを犯しているだけでなく、後述する Edwardsの報告[6]の引用部分は無視され続けてきた。 Hunter等は自らの症例報告がメチル水銀中毒の世界初の症例報告とは述べていないだけでなく、1865年の Edwardsの報告[6]の延長線上に自らの症例報告があると述べている。この Hunter等の報告では冒頭に Edwardsの報告[6]が詳細に引用されている。従って、Hunter等の報告をきちんと読んでいれば、世界最初の報告の如く扱う間違いに陥るはずがない。しかし、殆どの引用ではこの引用部分は無視されている。何故 Edwardsの報告の引用部分が今日まで無視され続けてきたのかという大きな疑問は残ったままである。一つの可能性として次のように考える事ができる。即ち、Hunter等の症例は 1937年に発生したが、発表は1940年である。従って、Hunter等の症例を世界最初とすれば、1932年の水俣に於けるアセトアルデヒド合成開始の時点では、有機水銀中毒の症例報告は無かったことになり、水俣病、つまり水俣におけるメチル水銀中毒の発生は予見できなかったという言い訳が可能になる。この可能性は否定できないと考える。 更に、Hunter等の報告[1]では、メチル水銀曝露を受けた4名の作業者について症状の詳細とその経過が述べられている。曝露期間は何れも4~5ヶ月であり、多様な症状とその経過が報告されているが、言語障害(構音障害)、求心性視野狭窄及び四肢末端に始まる感覚障害は共通している。しかし、同じ職場で同じ作業に従事していたが神経症状を示さなかった12名の同僚に関する記述もある。それによれば、12名中 8名に尿中水銀が検出されたが、4名では尿中水銀は検出されていない。即ち、メチル水銀中毒では多様な症状があると理解するべきである。重症例 4名の症状は多岐にわたってはいるが、これらをまとめて症候群とする見解は示されていない。 多くの疾患の場合、症状をまとめ主要三症状(トリアス)としたり、症候群とし、診断の一助にする考えが病気の症状の記述において、古くから存在している。しかし、Hunter等は Edwardsの報告[6]と Heppの報告[8]を引用しているが、多岐にわたる有機水銀中毒の症状を症候群としてまとめる考えは持っていなかったのではないかと思われる。 いずれにせよ、Hunter等の報告[1]を直接参照せずに、伝聞に近い形で Hunter等の報告に接してきたことが、これまでに指摘してきた間違いの原因といえる。形式的で惰性に流れた文献検索が横行しているのではないかと考えたくなる。重要な文献については、原典をあたるという基本を忘れてはいけない。 2.Edwardsの報告[6]の無視 この論文を掲載した書籍『St Bartholomew's Hospital Report』が日本に輸入された形跡はないとされている[7]。しかし、Hunter等の報告[1]の最初の部分で、Edwardsの症例の症状が詳細に引用されている。従って、この引用部分を参照していれば、Edwardsの報告[6]に直接あたることなく、水俣病重症例の症状と Edwardsの症例の症状とが酷似していることが判明し、有機水銀原因説はより強固になり、見当違いの反論が続出したという事態にはならなかったと考えられる。なお、『St Bartholomew' Hospital Report』の第一巻と第二巻は、現在では Google Scholarで PDF化され、無料で公開されている。 しかし、Edwardsの症例[6]は、Hunter等の報告[1]により紹介される以前に日本に伝来していた。 Edwardsが報告した中毒症状が余りにも激烈で経験したことがなかったため、死亡者の上司の責任を巡り大論争が起きた。この論争の経過は当時唯一の化学雑誌の「Chemical News」に1865年から一年間掲載され、当該号は 1927年に東京高等工業学校(現東京工業大学)が購入し、公開している。また 現在「Chemical News」の当該号も『St Bartholomew's Hospital Report』と同様に、Google Scholarで PDF化され、無料で公開されている。 更に、この Edwardsの報告[6]の症状に関する部分は、1887 年に Heppが略完全なドイツ語訳に近い形で引用している[8]。この掲載誌の当該号は 1931年に熊本医科大学図書館(現 熊本大学図書館)が収蔵し、公開している。即ち、Edwardsの報告[6]の内容は遅くとも 1931年には日本で検索できていた筈である。しかし、水俣病解明の過程で参照されることはなかった。 即ち、1932年の水俣に於けるアセトアルデヒド合成開始の時点で、既に有機水銀(メチル水銀)の毒性とそれによる中毒の存在を知ることができた筈であった。しかし顧みられることはなく、水俣に於けるアセトアルデヒド生産は開始され、無処理の廃液は水俣湾に排出され、メチル水銀による環境汚染が始まった。 3. Pentschewの著作[2]の誤解釈 既に述べた通り、1959年に熊本大学水俣病研究班の会合で、Pentschewの著作[2]と Hunter等の報告[1]を参考にして水俣病の主要症状をまとめ、ハンターラッセル症候群とする」と提唱され[9]、以後、水俣病の症状をまとめたものを「ハンターラッセル症候群」と呼ぶようになった。しかし、この「ハンターラッセル症候群」という有機水銀中毒(水俣病)の症状に関する定義は、Pentschewの記述の誤読に基づいている。 水俣病の症状について、「ハンターラッセル症候群」という言葉を定義する以前の1954年に Pentschewが Russel教授と協議の上、アルキル水銀中毒の中枢神経の病理組織所見をまとめて「Hunter-Russelsches Syndrom」と定義したものであって、臨床症状については定義していない[3-5]。武内は Hunter等の報告[1]から Pentschewの著作[2]を引用する際に「小脳性失調、視野狭窄、構音障害の三大主徴」と述べているが[9]、Pentschewの著作の当該部分には「構音障害」という言葉は使われていない。但し、前章に「Hunter-Russelsches Syndrom」と定義したアルキル水銀中毒における中枢神経組織の病理所見と生前の症状が対応しているとの記述がある。すなわち、「Hunter-Russelsches Syndrom」という言葉は生前の症状について定義したものとして武内は間違って解釈したと判断できる。 現在、「ハンターラッセル症候群」という言葉は、日本のみならず海外でも有機水銀中毒の症状をまとめたものとして広く用いられている。しかし、これは死後の所見に対して定義された言葉を、生前の症状にたいして用いるという明らかな間違いである。従って、速やかに適切な名称に改めるべきであるが、その動きはない。のみならず、筆者が某邦文誌へ投稿した際の査読意見で「間違っていても広く用いられているならば今更改める必要はない」という理解不能の見解が示された。 現象の正確な観察と正確な記述は科学の基本である。これを否定するような査読が横行しているのは理解しがたい。 Pentschewの著作[2]の誤読という初歩的間違いが起きた正確な理由は不明であるが、海外の重要な著作について、医学者として当然払うべきちょっとした注意を怠り、伝聞や孫引きに依存したりして安易な文献検索が行われたことも一因であろう。 4.結論 「重要な文献は必ず原典にあたる」という文献検索の基本をおろそかにしてはいけない。文献は可能な限り原典にあたるべきである。参考文献
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