Abstract Mercury released from amalgam of dental fillings does not reveal significant effects to human health. On the other hand, the hypersensitivity to the dental amalgam is still under investigation. Metallic mercury (liquid form) has been believed to be less toxic in the cases of gastrointestinal and respiratory intakes. Some cases did not show toxicity. But, some other cases were reported to be serious and even fatal. No toxicity were reported in some cases of metallic mercury embolization (in the artery and vein). Some other cases of metallic mercury embolization were fatal. It should be concluded that the toxicity of metallic mercury is the matter of toxicological importance.In this issue, gold plating of the Great Buddha in Nara, a national project in the 8th century, is also recalled. Craftsmen of the project used a large quantity of metallic mercury for amalgam in plating the Buddha. The work should have been so hazardous due to metallic mercury vapor. Few records are nowadays available on the health of those craftsmen engaged in the work. Keywords: 金属水銀, 金属水銀蒸気, 金属水銀塞栓症, アマルガム, metallic mercury, metallic mercury vapor, metallic mercury embolization, amalgam I.はじめに 金属水銀は体温計や血圧計に広く用いられている。血圧は、その圧力の単位として「mmHg」が用いられていることから分かるように、金属水銀柱の高さで表現されている。今回、金属水銀による塞栓症は、その解析の過程で、金属水銀の毒性が曝露様式や物理的性状の違いにより大きく異なることがわかった。特に、金属水銀について、曝露様式と症状の現れ方が一様ではないことが判明したので報告する。水銀は無機水銀と有機水銀とに大別される。前者、つまり無機水銀は、炭素との共有結合はない。これはさらに、荷電を持たない元素型水銀(Hg0)と酸化されて荷電をもつイオン型水銀(Hg++)とに大別される。後者は水銀(Hg)が炭素と共有結合して有機化合物となったものの総称で、メチル水銀やフェニル水銀及びこれらの誘導体が知られている。 元素型水銀は、常温で液体であり、金属水銀とも呼ばれ、蒸気を発生しやすく、他の金属と容易に合金(アマルガム)を形成する。蒸気圧は 1.2x10-3 mmHg(20℃)と高く、保存するには水封するか密栓しなければならない。蒸気は、常温大気中では反応性はない。 イオン型水銀は、ハロゲン類や硫黄と反応しやすい。常温では反応性は低いが、高温(300~400℃)では酸化水銀となる。 このように、Hg0と Hg++は化学的性質が明らかに異なる。しかし、金属水銀とイオン型水銀を一括して「無機水銀: inorganic mercury」と表記している場合が少なくない。しかし、両者の物理化学的性質は明らかに異なり、有害性も同じではない。したがって、両者は区別して表現しなければならない。ただし、これらの水銀をまとめて「水銀およびその化合物, mercury and mercurials」または単に「水銀、mercury」と表記する場合があるが、すぐにどの化学型であるかが分かるようにしなければならない。
周知の通り、自然界においては、これらの化学型の間には相互変換がある [1]。変換には細菌、ある種の化学物資や紫外線が関係しているとされているが、鮪(マグロ)の組織中には無機水銀からメチル水銀を合成する酵素活性があることが明らかにされている [2]。しかし、鮪胃内容物(餌として摂取した魚介類)のメチル水銀濃度が高いことから、鮪体内のメチル水銀がすべて無機水銀のメチル化により生じたとは言えないことが判明した [3]。なお、マウス肝にはメチル水銀を分解し、無機水銀とする反応があると言われているが、確証は得られていない [4]。 物理化学的性質が異なれば、当然、用途も異なり、曝露様式も異なってくる。これらの化学型のうち、日常生活との関係が最も深いのは金属水銀であるといえる。 これまでの多くの金属水銀による中毒症例を検討した結果、金属水銀の毒性は曝露様式により大きく異なることが明らかになったので、その結果について報告する。 II.方法 III.結果と考察 1. 歯科治療とアマルガム歯科では補綴治療にアマルガム(銀と錫の合金に銅や亜鉛の粉末を加え、金属水銀で練り合わせたもの)が広く用いられてきた。歯牙への固着性は現在使用されている補綴材料と比較すると劣るが、硬化する際に体積が増えるため欠損部分への充填が容易で確実であり、インレー作成のための型取りのように精度が要求される作業を必要としない利点があり、現在でも広く用いられている。 充填したアマルガムの健康影響については、現時点では明確な結論は出ていないのが実情である。欧米では充填されたアマルガムから溶出する水銀による健康影響があるとの前提の研究が続いている。ただし、補綴治療におけるアマルガムの使用は、1968年以降は欧米でも減少傾向にある [5]。 ところで、口腔内にある液体は食品由来の分を除けば、水溶液と見なすことができる。水溶液中における金属のイオン化傾向では、ほとんどの金属が水銀よりイオン化傾向が大きい。すなわち、口腔内では基本的にはアマルガムの水銀のイオン化、つまり溶出の可能性は極めて低いことになる。充填されたアマルガムの表面には酸化水銀が形成されていると考えられ、この酸化水銀は水にはほぼ不溶とされている。仮に、水銀イオンが形成されても速やかに硫黄と反応して硫化水銀となる。この硫化水銀も水に対しては極めて難溶である。すなわち、アマルガムからの水銀の溶出は、基本的には抑制されているとする見解がある [6]。 1990年代に、充填されたアマルガムから水銀がわずかではあるが溶出し、健康に影響を与えているとの見解が提出された [6-10]。しかし、同時期にこの見解に反対の立場の報告が提出されている [11-13]。しかし、典型的金属水銀中毒の症状はないが、尿中水銀排泄量と血液中水銀濃度がアマルガム処理数と対応していることを根拠に、アマルガムから確かに水銀が溶出しているとの報告が提出された [14]。近年、アマルガム中の水銀に対するアレルギーが存在し、その結果健康障害が生じることを認め、「amargam disease」という概念が提出された [15, 16]。 このように歯科治療に用いられるアマルガムの健康影響は無視できるとの考えが趨勢であり、1999年には WHOの専門家会議が充填したアマルガムの健康影響はないとの結論を出している [17]。しかし、依然としてアマルガムから微量の水銀が溶出し、健康に何らかの影響が認められるのは水銀に対する感受性が高い人達が、たまたま曝露対象であったためであるとの見解が提出されている [18, 19]。つまり、充填したアマルガムの健康影響については、水銀に対する感受性の程度を含めた解析が必要であると指摘されている [15, 16]。最近、アマルガム処置数が増えると、4000 Hz以上の周波数に対する聴力が低下していると報告された [20]。水銀に対する感受性の面から、従来は把握していなかった自覚症状の解析が必要である。アマルガムによる何らかの健康影響があるのは事実であり、水銀に対する感受性を考慮に入れた解析が必要といえる。 すなわち、これまで紹介してきた症例を総合すると、現時点ではアマルガムの健康影響については結論が出ていないと判断できる。金属水銀、酸化水銀及び硫化水銀等の水に対する溶解性が極めて低いことを考えると、歯に充填したアマルガムからの水銀の溶出は極めて低く、わずかな溶出では典型的な水銀による健康障害はほとんどないと判断するのが妥当である。 しかし、現実には「水銀」という名前故に、アマルガムに対する憂慮ともいえる嫌悪感が存在しているのは事実である [14]。この杞憂に均しい考えにどのように対応していくかはこれからの問題である。近年、このような風潮のため「歯に充填したアマルガムは将来的に危険」と提唱し、処置済みのアマルガムを積極的に取り除く動きがある。日本では環境省が処置済みのアマルガムを積極的に除去する必要はないとの見解を示している。海外でも、処置済みのアマルガムを除去する必要はないとの考えが大勢のようである。それどころか、除去したアマルガムの処理は、高レベル放射性廃棄物に準じた取り扱いが必要になるが、その費用を考えると、充填したアマルガムは除去せずにそのまま口内に置くのが最善の対応であるとの見解すら出されている [14]。 2. 消化管内に金属水銀(液体)が入った場合 2-1) 胃内に金属水銀(液体)が入った場合 1900年代になると消化管の狭窄や閉塞に対する検査や処置のために、ミラーアボットチューブ(Miller Abbott double lumen tube: 二重構造の管で先端に袋があり、それに金属水銀をいれ、口から挿入する。Miller Abbott Baloon とも呼ぶ)や類似の管が使われるようになった。金属水銀の重量を利用して消化管の通過障害を改善することが主な目的である。使用時の事故の頻度が増えてきた。ほとんどの場合、管を抜去する際に先端の袋が破れ金属水銀が消化管や気道内に溢れ出るという事故である。 金属水銀が胃内に溢れると、胃酸(塩酸)を含む胃液と接触することになる。胃酸の通常の濃度は約 0.159規定とされている [21]。胃液は水溶液であるから、金属のイオン化傾向から判断すれば、金属水銀(Hg0)のイオン化、つまり Hg++の生成は起きないと見なせる。わずかに水に溶けた Hg0も、速やかに硫黄と反応して硫化水銀となる。この硫化水銀の水に対する溶解度は、pH 2からpH 10の範囲で極めて低い [22]。したがって、胃内では金属水銀はほとんど変化しないと考えられる。 ミラーアボットバルーン(Miller Abbott baloon) の破裂事故 [23]では、事故後に血液や尿中の水銀濃度が上昇し、金属水銀が消化器粘膜から吸収されたと判定されているが、水銀によると思われる症状は認められていない。但し、採血を行った時期と、事故発生の時点の関係は不明である。消化器粘膜からの吸収の可能性以外に、消化管内に留まった金属水銀から発生する金属水銀蒸気を吸入した可能性については論じていない。しかし、動物実験で胃に入れた金属水銀の一部が体内に吸収されることが確認されている [24]。なお、消化管内に金属水銀が溢れたが、水銀中毒を思わせる症状はなかったという報告もある [25]。その報告では金属水銀蒸気の吸入の可能性を否定している。したがって、わずかではあるが胃粘膜から金属水銀が体内に吸収されると判断できる。多くの場合、消化管(胃)内に溢れた金属水銀はほとんど化学変化を受けることなく細粒化し、粘膜の襞(ひだ)の間に留まったり、蠕動(ぜんどう)により十二指腸へ送られると考えられる。 胃粘膜は日常の生活状態により影響を受けやすいことが知られている。周知の様に、胃粘膜に対する三大有害因子として、非ステロイド系消炎剤、ストレス、ピロリ菌感染があげられている。これらの因子は常に身近に存在していることから、胃粘膜に何らかの変化(胃炎、胃潰瘍)が存在する可能性は高い。これらの変化により胃粘膜からの金属水銀の吸収が何らかの影響を受けると考えるのは当然である。胃粘膜からの吸収を考える場合、これらの事項による影響を考慮する必要があるが、そのような考察は見当たらなかった。 胃に入った金属水銀の大半は微細粒の形で十二指腸に送られると考えられる。十二指腸内の環境は、胃内容物は存在するが、胃内に比べると水素イオン濃度は低い温和な状態の水溶液と見なしてよい。したがって、十二指腸内でも金属水銀は化学変化を受けることなく、微細粒の形態で蠕動により送られるか、粘膜の襞の間に留まると考えられる。襞の間に留まった金属水銀の一部は硫黄と反応し硫化水銀となり、残りはそのままの状態であると考えられ、毒性は問題にならないと判断できる。 すなわち、消化管内に入った金属水銀の毒性は、「中毒学的には問題にならない」という見解 [6, 25]は概ね適切と考えられる。ただし、ほぼ日常的に存在する胃粘膜の病的状態(胃炎、ピロリ菌感染、胃十二指腸潰瘍など)が粘膜からの吸収に与える影響の解明は、今後の課題である。 なお、ミラーアボットゾンデの事故では消化管内に水銀が溢れた場合以外に、気道内に水銀が溢れた場合も少なくないが、呼吸器への金属水銀が入った場合の項で触れる。 2-2) 胃以外の消化管内に金属水銀が直接入った場合 金属水銀を用いた検査・治療が行われていない現在、胃を通らずにいきなり十二指腸内に金属水銀が入る可能性はないと言える。ただし、胃内に入った金属水銀が送られて来ることは考えておかなければならない。すでに述べた通り、十二指腸内環境は胆汁成分という界面活性効果がある物質が存在する水溶液と見なすことができる。しかし、胃内に比べると温和な状態であると言える。したがって、十二指腸内では金属水銀は変化を受けることなく、大腸に送られるか、微細顆粒となって粘膜の襞の間に留まり、毒性を呈することはないと考えられる。ただし、前述の胃粘膜に対する三大有害因子のうち、ストレスと非ステロイド系消炎剤は、十二指腸粘膜に対しても有害因子であることはよく知られている。したがって、これらの有害因子による、粘膜の病変による粘膜からの吸収に対する影響は考えておかなければならない。 2-3) 消化管内に残留した金属水銀から発生する金属 水銀蒸気を吸入する場合 残留した金属水銀から発生する金属水銀蒸気の気道からの吸収を考えておく必要がある。しかし、残留している金属水銀の表面には酸化水銀や硫化水銀の被膜が形成されていて、金属水銀蒸気の発生を押さえている。したがって、ここにあげた可能性は大きくはないとの考えもあり得る。しかし、全く金属水銀蒸気を発生しないということはない。したがって、この可能性はやはりあり得ると見るべきであろう。 3. 気道内に金属水銀が入った場合 3-1) 気道内に金属水銀(液体)が直接入った場合 現在まで報告されている症例のほとんどは、ミラーアボットゾンデ(Miller Abbott tube)を抜去する際に金属水銀を容れた容器が気道内で破損し、金属水銀が気道内に溢れた場合で, 多くの症例が報告されている。しかし、何らかの症状の有無は一定でない。 胸部エックス線写真で肺に多数の金属水銀粒が確認されたにもかかわらず、水銀による中毒症状が認められなかった症例がある [25-27]。何れの場合も血液中および尿中水銀濃度の上昇が認められ、水銀が吸収されたと判断されている。さらに、肺の水銀粒陰影は経過とともに減少している場合が多く、おそらく何らかの形で呼出されたのではないかと判断されている。なお、これらの報告 [25. 27]では、血液と尿以外の試料の水銀濃度の測定は行われていない。 一方、腸閉塞に対する処置に用いられたミラーアボットゾンデの事故で、金属水銀が気管内に入り、発熱や腹痛などに続き末梢気管支からの大出血が発生、金属水銀が入ってから 110分後に死亡した症例がある [28]。この症例では病理解剖が行われなかったので直接死因は不明であるが、金属水銀吸入以前に処置を必要とする腸閉塞があったことを考えると、金属水銀の毒性が直接死因とは考え難い。この腸閉塞と死亡の関係については論じていない。同じミラーアボットゾンデによる処置の際の事故により、大量の金属水銀が気管や縦隔洞内に溢れ、大半の金属水銀の回収に成功し、その後は持続性の咳以外の症状は無く、水銀中毒を示唆する症状も現れないまま 22年間経過の後、突然に発熱、咳、大量の痰の呼出等の症状が現れ、48時間後に死亡した症例がある [29]。この症例では剖検により肺に広範な繊維化と水銀粒を含む多数の壊死巣、大量の胸水貯留が認められ、肺炎球菌による肺炎が直接死因と判断されている。22年後に現れた症状は、広範な肺繊維化に肺炎が発生したためであり、肺繊維化は金属水銀粒による肺胞組織の壊死が原因と判断されている 金属水銀が気道から肺に入った経緯は不明で、尿や血液中水銀濃度が上昇したにもかかわらず、水銀によると思われる症状が現れなかった症例がある [30]。 すなわち、ミラーアボットゾンデ使用中の事故により金属水銀が気道内に入ったという同じ条件に対する反応は、無症状の場合から、短時間後の死亡や年余の経過後の死亡まで、多様であった。したがって、金属水銀が気道内に入った場合には、死亡に到る場合もあることを念頭に置いて対処する必要がある。ただし、金属水銀曝露以前に何らかの消化器や呼吸器の疾患があった可能性については、これまで取り上げた症例の何れにおいても検討されていない。 3-2) 金属水銀蒸気を吸入した場合 液体の金属水銀を検査・治療で用いる機会が皆無に等しい現在、呼吸器から金属水銀が入る場合は、金属水銀取扱における金属水銀蒸気の職業性曝露の症例がほとんどである。現在、金属水銀(液体、アマルガム)を取り扱う業務としては、金属水銀を原材料とする業務以外には、電解法によるナトリウムと塩素の生産(クロールアルカリ業務)における金属水銀(陰極)とグラファイト棒(陽極)の交換、特殊計器製造、鍍金(文化財補修)等があげられる。これらの業務に従事すると、金属水銀蒸気の曝露を受けることになる。 金属水銀蒸気曝露による症状の典型的経過は次のようにまとめられている [31]。すなわち、糜爛(びらん)性気管支炎および気管支支炎から間質性肺炎(errosive brochitis, bronchiolitis, interstituial pneumonitis)が発生し、引き続き振顫(しんせん)、被刺激性昂進、呼吸不全と症状が進展していくといわれている。しかし、作業条件の改善(環境改善、保護対策、健康教育等)の結果、自覚症状の形での症状の経過はほとんど見られなくなった。 最近の報告では、金属水銀蒸気曝露の影響が何時頃まで続くのかという点に関心が移っている。クロールアルカリ作業に 12.7年(平均)従事後の調査では失見当識(disorientation)、 企図振顫(postural tremor)、協調運動障害(impaired coordination)等の症状が残っていた [32]。同じくクロールアルカリ作業に平均 12.3年従事し、離職後期間が平均 7.9年の集団の調査では、四肢末端の感覚障害、協調障害(小脳機能の障害)、大脳における視覚伝達経路の障害(visual pathway)が認められている [33]。蛍光灯製造業務従事者についての調査では、色覚や明暗覚の永続的異常 [34-36]や、不安欝病的状態 [35]が認められている。すなわち、金属水銀蒸気曝露は中枢神経系に対し永続的な影響を与えると判断できる。 一方、極めて低い濃度の金属水銀蒸気曝露(0.01-0.019 mgHg/m3・4時間/週・8時間/日)を受ける作業者を対象に、同一人を当該作業従事開始前から 23ヶ月間追跡した報告がある [37]。それによると作業者に認められた変化は、赤血球中有機水銀濃度及び、血漿中無機水銀と有機水銀濃度が、曝露開始後 4ヶ月で上昇した後に定常状態になったことである。23ヶ月間を通して蛋白尿や水銀によると思われる自覚症状は認められなかった。すなわち、この程度の水銀蒸気曝露では愁訴の形での自覚症状のみに依存していては、金属水銀蒸気曝露の影響を把握できないといえる。 金属水銀蒸気は水には不溶であるが脂溶性は高い。したがって、吸入されると肺胞を速やかに通り、血液に入り、赤血球中に膜の脂質に溶け込む形で赤血球中に入ると考えられているが [38-42]、赤血球中で金属水銀が酸化されるか否かが問題になってくる。周知の様に、各組織にカタラーゼ(EC 1.11.1.6)や、グルタチオンパーオキシダーゼ(EC 1.11.1.9)が存在し、過酸化物の処理に関与しているといわれている。これらの酵素のうち、カタラーゼのみが金属水銀の酸化に関与し、イオン型水銀が生成されると判断されている [43, 44]。ただし、金属水銀蒸気の酸化に関与しているのは、カタラーゼによる酵素反応だけとは述べていない。したがって、金属水銀蒸気を取り込んだ赤血球は、内部で金属水銀からイオン型水銀を生成しながら血流により全身に分布していくと言える。さらに、赤血球中の金属水銀は容易に標的臓器の細胞内に入り、そこに存在するカタラーゼによりイオン型水銀が生成されるが、このイオン化水銀は荷電を持つために細胞膜を通過できず、結果として標的臓器の細胞内にイオン型水銀が蓄積し、障害が現れると考えられている [43]。すなわち、金属水銀蒸気を取り込んだ赤血球は、各組織に対して金属水銀とイオン型水銀の供給と蓄積(accumulators and generators)の役割を果たしているとされている [45, 60]。その結果、金属水銀とイオン型水銀は、それぞれの標的臓器に運ばれる。 ところで、何等支障なく機能している肺胞内には、界面活性物質が常に供給され、肺胞が十分に拡大し機能を果たしている。したがって、この界面活性物質の質や量に何らかの異常があれば、肺胞が十分に拡大できず、酸素吸収や二酸化炭素排出が傷害される。しかし、これまでに対象にした症例では、いずれの対象者においても曝露開始以前からの肺機能障害の存在は記録されていない。しかし、曝露以前の肺機能障害の存在の有無だけでも記録しておくべきであろう。 4. 金属水銀の皮膚からの吸収 4-1) 皮膚表面に金属水銀が接触・滞留した場合 皮膚は体の内と外を分ける生きている障壁(biological barrier)で、表皮、真皮及び皮下組織の三層構造である。表皮表面には皮脂腺と汗腺が開口し、皮脂と汗が共存している。一方、表皮自体は死んだ真皮細胞で構成され、脂質を多く含んでいる。したがって、体の表面は脂質で覆われていて、水をはじく性質が基本的にあり、水に溶解した物質は表皮を通り抜けて真皮に入ることことはできない。すなわち、金属水銀(液体及び蒸気)は脂質と親和性が高いから皮膚表面に接触すると、容易に表皮を通り抜け真皮に達する。しかし、皮膚表面には汗という多くの電解質を含む水溶液が分泌されているから、水溶性が明らかな物質でも、真皮まで吸収される可能性がある。さらに、皮膚表面には真皮に達する創が日常的に存在している可能性が高く、皮膚表面についた物質は、水溶性や脂溶性にかかわらず、真皮まで到達する可能性は無視できない。 ところで、多くの辞典等の書籍には、種々の化学物質について「経皮吸収」の有無が記載されている。しかし、この「経皮吸収の有無」の判定は、当該物質単独で皮膚と接触させた場合であり、他の物質と混合して使用した場合や当該物質を溶解している溶媒を変更した場合についての記述ではない。化学物質の経皮吸収は共存する溶質や溶媒により左右されることが明らかにされている [46, 47]。したがって、表皮を通過できないはずの物質でも、吸収されて真皮に到達し、結果として吸収される場合が十分にあり得る。 すなわち、原則的には脂溶性がある金属水銀は、液体でも蒸気でも、皮膚から吸収されると考えてよい。但し、脂溶性が無いか乏しい物質でも、皮膚から吸収される可能性があることを念頭に置く必要がある。 19世紀には梅毒の皮膚病変に対して金属水銀を含む軟膏の塗布や金属水銀蒸気浴が行われていた。これらの処置は皮膚病変の改善には有効であったが、歯齦炎、流涎、胃腸障害、振顫等の症状を伴っていたとの記述があり、軟膏中の金属水銀が吸収されていたと判断されている [38, 46]。ただし、梅毒の皮膚病変により通常の皮膚構造ではない可能性を考慮しなければならないとも述べている。 1950年代には潜在指紋の検出に金属水銀を含む試薬(通称 grey powder 重量比で炭酸カルシウム 67%、金属水銀 32%、珪素化合物 1%の混合物)が用いられていた [48]。Glasgow警察の指紋検出担当者 5名中 2名とその家族に、眩暈や書字拙劣が現れ、水銀による中毒と判定された [48]。この症例に対する後日の検討と grey powderを用いた実験の結果、水銀中毒との判定は正確であったが、担当者の家族にまで水銀中毒が発生したことから明らかなように、試薬(grey powder)の取り扱いが杜撰であった結果であり、所定の手順を遵守していればこの試薬は安全であると判断された [49]。なお、この試薬(grey powder)の使用に際して、皮膚吸収の有無の判定に際して試薬から発生する金属水銀蒸気の吸入の可能性を考えなければならない。しかし、何れの報告 [48, 49] においても、この可能はないと記されている。 すなわち、金属水銀(液体および蒸気)の取扱においては、皮膚表面からの吸収を念頭におかなければならない。 4-2) 皮下組織に金属水銀が直接入った場合 症例のほとんどは金属水銀(液体)の自己注射や医療事故である。いつ頃かは不明であるが、中南米のボクサーや格闘技家の間では「金属水銀を体内に入れるとパンチ力が増強する」という迷信があり、それに基づいた金属水銀の自己注射例があり [50-52]、他には自殺目的 [53] 等がある。ただし、国内では自己注射の事例は見当たらなかった。注射部位は前腕窠(か)が多い。尚、静脈注射であっても、特に自己注射の場合は周囲に金属水銀が漏れる場合が少なからずあり、注射部位周辺の皮下に水銀粒を含む膿瘍が形成されている場合がある。皮下にのみ自己注射を行った場合 [54-56] においても、程度の差はあるが注射部位に金属水銀陰影に一致した膿瘍形成が認められているが、ほとんどの症例では水銀の毒性を思わせる症状(特に中枢神経症状)は認められていない。しかし、皮下に金属水銀粒が確認された約 6か月後に、構音障害、幻聴及び失見当識などの中枢神経症状が出現、CT検査で大脳に金属水銀粒が認められた症例がある [51]。この場合、皮下にしか金属水銀が入っていないならば、中枢神経(脳)に金属水銀粒は入らず、したがって中枢神経症状は現れないはずである。しかし、この場合、大脳に金属水銀粒が現れた理由として、肺内では金属水銀粒が毛細血管系か動静脈吻合を通り抜けて肺静脈系に入る可能性が指摘されている [61]。無論、皮下注射との申告であっても、実際は血管を傷つけ、血管内注射の様になっていた可能性は否定できない。 膿瘍の形成により金属水銀粒が膿瘍の中に封じ込められていれば、原則として一命に関わるような事態にはならないと考えられる。しかし、金属水銀を封じ込めた膿瘍であっても、形成された部位と数によっては死因となり得る [57]。 5. 血管内に金属水銀(液体)が入った場合:金属水銀塞栓症 金属水銀による塞栓症は動脈に起きた場合と静脈に起きた場合とに分けて考えなければならない [58]。動脈に起きた症例のほとんどは、動脈採血や動脈圧連続測定の際の事故である。末梢血管の塞栓症が多く、無菌性膿瘍の形成、四肢末端(主に指先)の皮下に肉芽腫、末梢血管の走向に一致した金属水銀陰影等が認められる。原則として中枢神経系を含む組織、つまり全身に金属水銀が拡散することはない。ただし、動静脈短絡構造 [61]により、動脈系から静脈系へ直接血液が入れば、末梢動脈に金属水銀血栓症が起きても、全身の各組織に金属水銀が分布する。中枢神経系に金属水銀が入れば、量にもよるが、中枢神経症状が現れる可能性がある。 静脈系に金属水銀が入った症例は、採血や血圧連続測定の際の事故、自殺企図、筋力増強という迷信等によるものがほとんどである。静脈系に入った金属水銀は、全身に分布することになる。したがって、中枢神経系の障害が起きる危険性は、動脈系の場合より高くなる。 5-1) 動脈に金属水銀が入った場合 ほとんどの症例は医療事故である。先天性心疾患の手術の際の心臓カテーテル検査 9例に関する報告では [60]、全例の肺に金属水銀粒が認められている。中枢神経症状(痙攣、片麻痺、顔面神経麻痺、バビンスキー反応陽性)が認められたのは一例であった。尿中水銀の検査は行われていなかったと推定される。他の事例としては動脈採血の際の事故 [61]、動脈圧連続測定の際の事故 [62, 63] の報告がある。何れの場合も、注射部位より末梢側に血管走向に沿ってのみ金属水銀陰影が認められている。動脈採血の場合 [61] には、指先の痛みや皮下に金属水銀粒を含む肉芽腫や無菌性膿瘍が認められた。何れの場合にも、中枢神経症状は認められなかった。指先に多く分布している動静脈短絡構造を通して金属水銀が動脈系から静脈系に直接入ったことを示唆する結果は得られていない。 現在、血圧連続測定や動脈血採血では金属水銀を用いる装置は使われていない。したがって、医療事故として金属水銀による塞栓症(動脈)が起きる可能性はない。 5-2) 静脈内に金属水銀が入った場合 採血や血圧連続測定、点滴等のための留置針の設置、過失、自殺、迷信に基づく行為等による静脈内自己注射がほとんどである。静脈内に金属水銀が入ると、末梢動脈に起きた塞栓症とは異なり、全身各臓器、特に肺や中枢神経(とりわけ脳)に金属水銀が入ることになる。したがって、肺や中枢神経の障害が起きる可能性が、動脈におきた塞栓症に比べると高い。金属水銀の自己注射事例は外国では少なくないようであるが、日本ではあまり聞かない。 静脈内に金属水銀が入った場合、水銀の吸収が確認され、エックス線写真上で金属水銀粒が確認されても、水銀による中毒症状が現れなかった症例は少なくない。手背静脈に金属水銀を自己注射し、肺や腹部(骨盤内、脊柱周囲)にエックス線写真で多数の金属水銀粒が認められたにも係わらず、水銀による中毒を示す症状は記述されなかった症例がある [64]。但し、この場合の患者は医療従事者であり、最初は自己注射を強硬に否定し、エックス線写真を見てから自己注射を渋々認めたという経緯があり、「自己注射」の自己申告において、当事者が症状をどの程度正確に述べるかについては、疑問が残る可能性を考えておく必要がある。 エックス線写真では胸部や注射部位の皮下に金属水銀粒が認められ、尿中水銀濃度が上昇したにもかかわらず、水銀による中毒を示す症状は一切現れなかった症例もある [65, 66]。自殺目的で金属水銀を約 1.0ml静脈内に自己注射したと申告している例では、水銀による中毒症状は認められていない [67]。筋力増強の目的で金属水銀を約 20ml静脈内に自己注射した例は、注射後速やかに肺梗塞の状態になり胸部の痛みと呼吸困難を訴え、胸部エックス線で多数の金属水銀粒が確認された [50]。しかし、腎機能は障害されず、胸部の症状は時間の経過と共に改善していった。このように、静脈に起きた塞栓症の場合は、中枢神経症状が現れなかった例が少なくない。 何らかの医療事故により、大量の金属水銀が静脈内に入ったと推定去れる症例 [57] では、頭髪、尿及び血液中水銀濃度が上昇、胸部や頭部のエックス線写真で金属水銀粒が確認され、静脈注射部位と思われる部分の組織中に金属水銀粒が確認され、CT検査で頭部に複数の膿瘍形成が確認された。しかし、一過性の蛋白尿はあったが、金属水銀による中枢神経障害を思わせる症状は最後まで認められなかった。金属水銀による塞栓症と確認されてから 17週後に死亡した。剖検では、多くの臓器(骨格筋、肝臓、腎臓、副腎、大脳(皮質、灰白質、基底核)及び膿瘍内容物の水銀濃度が高いことが確認された。しかし、脳脊髄液中の水銀濃度は血液や他の組織の水銀濃度よりはるかに低く、脳脊髄液血液関門の存在を実証した形になった。直接死因は「多発性膿瘍」であり、原因菌は通常は病原性を示さない複数の細菌であるとの結論であった。 静脈内自己注射や心臓カテーテル検査の事故のため、右心室内に金属水銀が留まり続け、頭部エックス線写真で金属水銀粒を確認されているにもかかわらず、水銀によると思われる中毒症状は示されなかった場合もある [68]。 以上の症例から明らかなように、金属水銀が静脈内に入った場合の影響は、無症状から死亡例まで多様であることが判明した。確かに、金属水銀曝露以前の健康状態の情報がないから、重篤例や死亡例の死因が金属水銀であると断定はできない。しかし、金属水銀の静脈内投与に対する反応は、無症状から死亡例まで多様であったことは少なくとも確かである。 5-3) 叢状血管病変(Plexiform lesion または plexogenic vesselともいう) 肺高血圧症の場合、肺動脈系から肺静脈系に血液を導く短絡路の形成が知られている。1924年にこの短絡路の形成を Esau が示唆して以来 [59]、その存在について議論が闘わされてきた。1973年に Naidichが水銀塞栓症の報告の中でこの短絡路の形成について再度触れている [58]。しかし、最近、Jonigk等の研究により、肺高血圧症の場合、肺内で肺動脈分枝と肺静脈分枝の間に短絡路としての血管が新たに形成されることが証明されている [69]。 金属水銀粒が肺胞周囲の血管系内に多数滞留した場合は、血行的にみると肺高血圧同じような状態になったと見ることができる。従って、肺高血圧症の場合に見られたように、肺動脈分枝と肺静脈分枝の間に叢状血管が短絡路として新たに形成され、それにより金属水銀粒が肺静脈系に入り、全身に分布すると考えることができる。無論、金属水銀粒の毒性のため、肺胞周囲の組織が破壊され、その結果金属水銀粒が肺静脈系に入り、全身に分布する可能性がある。確かに、肺塞栓症の状態が継続すると、無気肺の状態が現れた場合があるから [57]、この可能性は否定できない。 しかし、同じ症例で、無気肺状態の出現以前に頭髪中の水銀濃度が上昇している事は、肺動脈分枝と肺静脈分枝の間の短絡路の形成があったことが窺える。 6. 眼に対する金属水銀の直接的影響 1946年に、金属水銀蒸気の曝露を受け続けていると角膜に帯状の色素沈着が発生することが報告された [70]。この所見は報告者に因みアトキンソン反射と呼ばれ、同様の報告が続き、この所見を含めた眼の金属水銀蒸気に対する角膜の反応をまとめ、「mercurialentis」という言葉が使われるようになった [71, 72]。しかし、その後の調査アトキンソン反射と呼ばれる所見は金属水銀蒸気の長期間曝露とは関係ないことが明らかにされ [73]、以後、mercurialentisやアトキンソン反射という言葉は使われなくなった。 しかし、金属水銀蒸気が繰り返して角膜に接触た場合に角膜に帯状の変性と水晶体の混濁が特異的に生じると考えが依然あり、Grantは自著の中で該当する二例を取り上げている [76]。 金属水銀の微細粒子を正面から吹き付けられた結果、微細な金属水銀粒子が角膜表面に付着したが、48時間後にはすべて消失、角膜や結膜の障害は認められなったと記されている [74]。また、原因は不明であるが、眼球前房内に入った金属水銀が除去しきれず虹彩に金属水銀粒が残留することになったが、虹彩の機能には障害はなかったとの記載もある [74] 。ウサギの結膜嚢に金属水銀をいれると尿中水銀濃度が上昇し、金属水銀が吸収されたと結論づけられている [75]。この実験では結膜嚢からの金属水銀が気道から吸収されないように配慮したとあるので、結膜から金属水銀は吸収されたの結論づけている。 したがって、金属水銀の液体や蒸気が角膜や結膜と接触すると、短時間の場合は障害は起きないとの見方が大勢である。しかし、繰り返して長時間接触していると角膜の混濁や水晶体の変性がおきるとの考えが依然としてあるのは事実である。 7. 金属水銀の吸収と毒性に関して考慮が必要な事項 7-1) 肺静脈系から肺動脈系への金属水銀の移行 金属水銀塞栓症では、肺に多数の金属水銀粒が認められた後、肺以外の臓器に金属水銀粒が現れる。しかし、肺動脈系の血管の走向を考えると、肺内では分枝しながら分布し、最終的には毛細血管となり、肺胞周囲に至るという構造になっている。血液中に入った金属水銀粒は、肺動脈系を流れていくうちに細粒となり、肺胞周囲の毛細血管系を抜けると再度集合し、より大きな金属水銀粒となって大循環に入り、各組織に分布することが動物実験で確認されている [59]。この報告では [59]、肺動脈 ⇒ 肺胞周囲の毛細血管 ⇒ 肺静脈 という経路の他に、肺動脈系と肺静脈系との間に短絡路(shunt)の様な構造の存在をも考えている。実際、肺高血圧症では、肺動脈圧が上昇するが、ある程度上昇が続くと短絡路(shunt vessel)が形成されることは病理組織学的にも確認されている。病理診断ではこの変化を plexogenic lesion(叢状血管病変: ただし、この日本語は定着していない)と呼んでいる。もっとも、新たに形成されるのか、それとも原基が既にあるのかは分かっていない。1973年に Naidich [58] は、Esauのこの考えにより、既に報告されている症例 [51, 67] における肺塞栓から全身への金属水銀の分布が説明できると述べている。周知の様に、このような動静脈吻合は、体の他の部分、例えば手指末端などに存在し、体温調節に関与しているといわれている。したがって、末梢動脈(手指)に金属水銀塞栓が生じた場合、この吻合により金属水銀粒が静脈に入り、全身に分布する可能性が考えられるが、実証はない。 すなわち、金属水銀血栓症の場合、動静脈短絡構造の存在を念頭におく必要がある。 7-2) 金属水銀蒸気の取り込みが有機水銀の分布に影響を与える可能性 低濃度(0.01-0.019 mgHg/m3・44時間/週・8時間/日)の金属水銀蒸気曝露を受ける作業者(亜鉛アマルガムの秤量)について当該作業就労前から就労後 23ヶ月まで、繰り替えして血液(血球成分(大半は赤血球)と血漿に分離)、尿、頭髪について無機水銀(Hg0とHg++の合算)と有機水銀の分別定量を行った。その結果、就労後 4ヶ月目で血液中の無機水銀と有機水銀が増加し、以後定常状態に達することが判明した [37, 76, 77]。23ヶ月の間、蛋白尿濃度の上昇は認められず、金属水銀蒸気曝露によると考えられる自覚症状の訴えはなかった。 すなわち、この程度の曝露濃度では、健康影響は自覚症状のみからは把握できないとの結論が得られた。 8. 日本その他の国々における金属水銀の利用の歴史: アマルガム法による金鍍金 8-1) 奈良の大仏に対する金鍍金 日本でも水銀の採掘と精錬は古くから行われていた。現在は採掘が行われている鉱山は国内にはなく、金属水銀の需要は専ら輸入と再利用で対応している。日本の水銀鉱床地帯としては、北海道縦断鉱床群、フォッサマグナに沿った地域、及び中央構造線に沿った大和鉱床群などが知られている。ほとんどの鉱山では、硫化物の形で水銀を産出していたが、留辺蘂(るべしべ 北海道)のイトムカ鉱山は、金属水銀(液体)も産出していた [78]。硫化鉱を精錬し金属水銀を得る方法とアマルガムによる鍍金技術は、渡来人によりもたらされたといわれている。 大仏鋳造に必要な銅は、当時の銅の主要産地であった長登鉱山(現 山口県)から、鍍金に必要な金は陸奥国小田郡(現 宮城県桶谷町)で新たに発見された金鉱を中心にして、国内で調達されていたとされている。 日本の歴史上最大規模の金属水銀の利用は、おそらく奈良大仏に対する金鍍金である。大仏と大仏殿は完成後二度の戦火で全焼し、大仏自体も修理が繰り返されてきた。さらに金鍍金は、完了後今日まで劣化するにまかせられてきた。 年末恒例の大仏の「お身拭い」の塵から得られた大仏本体由来と推定される金小片と、法華堂(三月堂)に安置されている大仏とほぼ同じ頃に制作されたとされている仏像(不空羅索観音)から得られた金箔の小片について、1974年に行われた中性子放射化分析の結果、大仏には金属水銀を用いた金鍍金が施されていたと確認された [79]。 業界の調査によれば、2015年の時点で文化財の補修や工芸品作成等の目的で金アマルガムによる鍍金を二社が行っている [80]。その手順では、金 1に対し金属水銀 5(重量比)を混合して金アマルガムとし、それを塗布後、350℃に加熱して金属水銀を蒸発させている。大仏に対する鍍金の場合、金アマルガム塗布後、大仏内から木炭により加熱していたと推定されている。しかし、この木炭では加熱不十分であり、中性子放射化分析により大仏由来の金小片中にかなりの金属水銀の残留が認められている [79]。したがって、金属水銀蒸気中毒だけでなく、一酸化炭素中毒の可能性も高く、多数の中毒患者が発生していた可能性がある。 しかし、これらの中毒に関する記録は残っていない。大仏の建立の詔は聖武天皇が発したと記されているが、危険と隣り合わせの現場で働いていた人々の様子は一切伝えられていない。当然ではあるが、当時は金属水銀蒸気中毒や一酸化炭素中毒に対する知識は皆無であり、何かの疫病か祟りとしか把握されなかったのであろう。 一方、後世に行われた東大寺や平城京周辺の土壌中の水銀濃度の測定結果から、大仏殿直近の土壌中水銀濃度は他の地域より高く、その値からの試算では鍍金完了直後の大仏殿内気中水銀濃度は現行基準を大幅に上回っていたと推定されている [81]。しかし、平城京遺跡内の土壌中水銀濃度が対照地域と大差が無かったことから、金鍍金作業で発生する金属水銀蒸気による大気汚染は、平城京までは波及しなかったとの見解が得られている [81]。この見解に対し、金鍍金に使われた金属水銀量が大量であり、大仏殿と平城京の地理的関係、つまり平城京の東に大仏殿があり、そのさらに東に若草山に代表される丘陵地帯があることを考えれば、大仏殿で発生した金属水銀蒸気は丘陵地帯からの気流により、容易に平城京内に拡散し、平城京内でも金属水銀蒸気による中毒と共に生活環境の悪化が起きていた可能性は否定できないとの指摘がある [82]。 8-2) 大仏の金鍍金で使用された金と金属水銀の量 歴史的資料に基づいて、金使用量として 59キログラムから 440キログラム、金属水銀使用量は 290キログラムから 2,500キログラムと大きく異なる値が示されている。何れの金使用量も歴史的資料に基づき算出されている。いずれも金と金属水銀の混合比を現在の手順と同じ 1対 5として算出している [83]。 これらの推定値が異なる理由として、先ず奈良時代には尺度や容積、及び重量の単位が「大」と「小」の二通りあり、歴史的資料の記載で大と小のどちらを用いているか明記されていない場合が少なくないことがあげられる [83]。金使用料の推定値が異なるもう一つの原因は、大仏への金鍍金が開始された時点の鍍金方法の詳細が不明な点にある。提示された数値は、現行のアマルガム法による金鍍金の手順 (鍍金厚は 5ミクロン、金と水銀の混合比は 1: 5)により算出している [84]。混合比や鍍金厚が変われば、使用料は当然変わってくる。つまり、どの推定値が正しいのかは判定できない。 大仏への金鍍金は開眼供養開始と同時に始まり、鋳造の修正をもふくめ完成までに 6年を要したとの記録がある [84]。つまり、開眼供養のための多数の関係者の参集の傍らで、アマルガム法による金鍍金が行われていたことになる。大仏建立に直接関与していた人々以外に、金属水銀蒸気中毒が発生していた可能性は否定できない。しかし、何も伝えられていない。 8-3) 金属水銀の利用、特に金採掘と精錬 アマルガム法による金鍍金の起源については、遺跡からの出土品に金鍍金を施したものがあることを根拠に、スキタイ文明の頃に求める見解があるが、さらに遡るという見解もある。いずれにせよ、12世紀頃にはヨーロッパではアマルガム法による金鍍金が盛んになり、金属水銀の需要が増大していた。12世紀前半の記録に、「Almaden鉱山(水銀)では 1,000人の鉱夫が(水銀の)採掘に従事している」との記述があり、当時のヨーロッパにおける金属水銀の需要はかなりの量になり、その主な用途は金鍍金と鏡製造であった [85]。 ラマッツイーニは 1713年に出版した著書「働く人々の病気」[86] の中で、金属水銀を取り扱う職人として、鉱夫、鍍金屋、ガラス製造人、鏡製造人、錫細工人をあげ、健康障害の様子を詳細に述べている。つまり、18世紀のヨーロッパでは広い分野で金属水銀が利用されていた。その後、電気法やシアン法による鍍金が考案されるまで、専らアマルガム法で金鍍金が行われていた。 金属水銀を用いて鉱石や選鉱残渣から金を抽出する方法(混汞法)は、アマルガム法による金鍍金法と同じ理論に基づいている。この混汞法による鉱石や砂金から金を抽出する方法については3世紀の記録に記載があり、942年と 1140年には混汞法の詳細な手順を示した記録がある [85, 87]。この頃には金属水銀を用いる金精錬法が完成していたといえる。したがって、15世紀末の新世界発見に続く金や銀の産出量の急増には、新世界の先住民からの金銀製品の収奪だけでなく、新世界における混汞法による金や銀の採掘精錬が大きく関与していると考えられている [85, 88]。したがって、採掘や精錬において金属水銀蒸気によると思われる中毒が発生していたと推定されるが、伝えられていない。 8-4) 発展途上国や発展途上地域で行われている小規模の金採掘と精錬 現在、金属水銀を用いる混汞法やシアン法による金の採掘と精錬が、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、アジアオセアニア地域、南北アメリカ大陸などで行われている。特に発展途上国や発展途上地域では主要な現金収入の手段となっていて、およそ2億人の生計を支えていると推定されている [88, 89]。何れの場合も、採掘・精錬規模は小さく家内工業的規模で行われている。混汞法では作業者や周囲への金属水銀蒸気の影響は一切考慮されず、採掘従事者だけでなく家族にも均しく金属水銀蒸気曝露が及んでいるのが現状で、先進国で経験された金属水銀蒸気中毒症状と同じ症状が報告されている [90]。採掘・精錬に従事する者が最も金属水銀蒸気の曝露を受けると考えるのが一見妥当である。しかし、南米における金の小規模採掘従の調査では、これら小規模の作業場所を巡回し、精錬された金を買い集める仲買人の方が、採掘・精錬従事者よりも血液中水銀濃度が大幅に高い結果が得られている [90]。すなわち、採掘・精錬で発生する金属水銀蒸気による現場周辺の汚染がかなり高度であることが示唆される。特に発展途上国や発展途上地域では妊娠する機会が高く、胎児に対する環境汚染の影響が懸念されている。近年、アマルガム法に代わる方法としてシアン法の導入が拡大している。しかし、シアン法による採掘・精錬では、周辺環境の土壌や水質のシアンによる汚染が問題視されているが、関心は薄い。現時点では混汞法の使用による金属水銀蒸気の影響に関心が集中している。 国連環境計画(UNEP)は、2013年にこのような金属水銀を用いた金採掘(Informal gold mining from places deposits)による金属水銀蒸気曝露は採掘従事者だけでなく、環境汚染(大気、水)の最大の要因であり、採掘従事者の作業条件は望ましい条件には程遠い状態であると指摘している [86, 89-91]。とりわけ島嶼地域が多いインドネシアでは国際水域の汚染が危惧されている [89]。 このようにして採取された粗金は、仲買人により集められ、多くは町の金製品店(gold shop)で販売される。その際、集めた粗金を再加熱して水銀を除くことが広く行われている。したがって、仲買人や金製品店従業員のほうが採掘従業者より高濃度の金属蒸気暴露を受けている場合もあり、さらに金製品店周辺の住民に対する水銀蒸気暴露の危険性が指摘されている [90, 91]。 現在、都市鉱山と呼ばれている廃棄回収された情報器機や家電製品から金、銀及び白金を回収する事業が行われている。回収方法は、おそらく電気化学的手法と考えられるが、詳細は不明である。 8-5) 現在の金属水銀の利用 金属水銀の毒性が明らかになるにつれ、水銀及びその化合物の使用は次第に他の物質に置き換えられている。血圧計や体温計は水銀を使用しない製品との置き換えが進められている。乾電池は水銀使用が全面的に廃止されたとされている。確かにアルカリマンガン電池では、現在、水銀は使用されていない。ボタン電池でも同じような傾向があり、水銀不使用を表示したボタン電池が出回っている。しかし、一部のボタン電池では、長時間の安定した作動と漏液防止を強く求める顧客の要求により、亜鉛アマルガムを用いた電池の生産が現在も行われている。 蛍光灯は当初は消費電力削減と長寿命をうたい文句して普及したが、現在は LED照明に切り替えるのが趨勢となっている。但し、数と費用の問題があり、現在でも全面的に置き換えるには到っていない。金属水銀は圧力表示装置や温度表示に広く使われてきたが、水銀非使用のセンサーの開発により、徐々に水銀非使用に切り替えられている。 このように金属水銀の使用は他の物質や手段への切り替えが進められている。しかし、金属水銀の物理化学的性質から全てを他の物質で置き換える訳にはいかず、船舶用ジャイロコンパスの支持装置 [92] のように、未だに金属水銀を利用せざるを得ない分野が残っている。 IV.まとめ 金属水銀に対する反応は、曝露様式に係わらず無症状の場合から死亡例まで多岐にわたっている。したがって、「金属水銀が消化管から入った場合の金属水銀の毒性は中毒学上問題にならない」との考えは、直ちには受け入れられない。同一条件における水銀蒸気曝露でも、症例毎に症状が異なる場合が少なくない。このような場合には、曝露を受ける以前にどのような疾患が存在していたかの解明が必要である。症例の記述に当たっては、この点に留意する必要がある。水銀及びその化合物の分別定量法の感度や精度は、従来と比較すると著しく向上している。したがって、従来の報告における水銀の分別定量法の感度や精度に問題はあり、直ちに報告内容の数値を用いるのは問題が多いとの指摘はその通りである。しかし、症状は毒性の表現である。したがって、毒性(症状)に関する記述はそのまま参考にしていかなければならない。 謝辞 文献収集においては、佐藤郁郎博士(宮城県がんセンター病理診断科・組織バンクセンター長、東北大学大学院医学研究科腫瘍病理学)の絶大なご協力が不可欠であった。また、入口紀男熊本大学名誉教授から多くの有益なご助言をいただいた。改めて深謝する。研究費の交付 利益相反 参照文献
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