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奈良大仏への金鍍金では金属水銀蒸気中毒が起きていた

鍍金作業に於ける曝露濃度の試算

Occurrence of poisoning by metallic mercury vapor in plating the Great Buddha with gold in the ancient metropolis Nara

石原 信夫 Nobuo Ishihara, M.D., Ph.D. (公財)神奈川県予防医学協会

Abstract

 奈良の大仏と蓮華座に対する金アマルガム法による金鍍金は、建造中の大仏殿内で他の作業と一緒に行なわれていた。鍍金作業には五年間(752~757年)を費やしているので、「水銀総使用量/大仏殿内気積」は、鍍金作業における金属水銀曝露濃度の指標にはならない。鍍金作業では方法等に多くの仮定を置かなければならなかったが、金属水銀蒸気の吸入による中毒が発生していたことはほぼ疑いない。鍍金作業条件や手順等に関する仮定の他に、作業中の金アマルガムの損失を無視して求められた曝露濃度は最低限度 1.28 mgHg/m3 であり、重篤な金属水銀蒸気中毒の発生は必然であった。鍍金作業だけでなく、鋳造やその修正等が未完で工事中の大仏殿内で行なわれていたこと、これらの作業の終了を待たずに開眼法要が行われたこと(つまり開眼会の日程は当初から決められていたこと)等を考慮すると、鍍金作業者以外にも水銀蒸気の影響が及んでいた可能性は否定できない。おそらく鍍金作業者だけでなくその他の作業者にも金属水銀蒸気による中毒が多発しただけでなく、多くの災害が発生していたことはほぼ確かである。ただし、記録はない。鍍金完了後、約十年にわたり全国の医師の再教育のための招集、読経、浄祓使の全国への派遣、各地の疫神への祈祷等が繰り返されたことは、金鍍金によってただならぬ事態が生じていたことを示唆する。

  It has been pointed out that severe metallic mercury poisoning may have occurred during the gold plating work of the Great Buddha in the ancient capital of Nara in the 8th century. Based on several assumptions, including working conditions, gold plating procedures, and the number of workers engaged in gold plating, the minimum exposure to metallic mercury vapor is estimated to be 1.28 mgHg/m3.

キーワード: 金属水銀、奈良の大仏、金鍍金、アマルガム法
Keywords: metallic mercury poisoning, the Great Buddha, gold plating, amalgam

I.はじめに

 現在の姿から想像するのは難しいが、奈良の大仏は八世紀の建立当初は、蓮華座と共に金鍍金が施され、隣接する平城京の繫栄に華を添えていた。しかし、壮大な計画の下で建設された平城京では、大仏の建造による大規模な人口集中の結果、現在の大都市にある多くの問題点が表面化し、万葉集で「あおによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」と詠われる光景だけではなかった [1]。大仏建立では、粗銅に錫を添加して青銅とし、その青銅を用いた鋳造だけでなく、金属水銀を用いた金鍍金やその乾燥のための木炭使用等、金属水銀蒸気、一酸化炭素、及び高温作業、大仏殿内外の工事(特に高所作業)等、災害が起きやすい条件で作業が行なわれていた。さらに開眼会という重要な行事が、金鍍金や鋳造作業、さらに大仏殿の内外の工事完了を待たずに強行されている。これは、海外から多くの高僧を参列させるために、開眼会を含む関連行事の日程が、大仏建設開始時には既に決められていたと考えられる。したがって、作業者以外の人達にも、上述の作業に伴う中毒などが起きていた可能性がある。しかし、大仏建設における作業者の健康障害に関する直接的記録は見当たらない。
 度重なる戦乱や天災により大仏と蓮華座は大仏殿と共に損傷、何れもその都度補修が行なわれているが、必ずしも建設当初の姿を忠実に再現する補修ではなかった。したがって、現在の姿は当初の姿とは異なっているため、金鍍金における水銀や金の使用量の推定には建設当初の大仏や蓮華座の寸法の適切な復元値が必須である。
 本研究の目的は、大仏と蓮華座に対する金鍍金を取り上げ、金属水銀蒸気中毒の発生の可能性を論じ、鍍金作業における水銀蒸気曝露濃度の試算を行うこととした。ただし、この試算においては、金アマルガムの調製や塗布における金や水銀の損失は考慮されていない。金鍍金作業の詳細が伝えられていないため、これらの損失の推定は不可能である。したがって、推定された曝露濃度は最低限度であり、推定された金や水銀の使用量、特に金の使用量は正確にいうならば、鍍金終了の時点で大仏と蓮華座の表面に存在していた量と言うべきである。

II.方法

 大仏と蓮華座への金鍍金に関する文献を探索し、検討した。文献は可能な限り原典を参照した。

III.結果と考察

1) 検討の対象
  大仏と蓮華座は大仏殿内に置かれ、それらを覆う形で大仏殿が建設されたと考えられている。何れも、度重なる戦火や天災により損傷し、その都度補修が行われたが、必ずしも建立当初の姿に忠実でなく、現在の姿は建立当時とは異なっていることはよく知られている。なお、金鍍金の補修は行われなかった。従って、落成直後の大仏と蓮華座や、大仏殿の姿については復元値を用いなければならない。大仏の光背も表面に金が施されていたが、鍍金か否かは不明であり、今回の検討の対象にしなかった。更に、大仏殿内には脇侍として複数の仏像が安置され、おそらく金による装飾がなされていた可能性があるが、何れも塑像であり、金箔の張り付けが行なわれていたと判断されているので、今回の考察からは外した。したがって、今回は大仏本体と蓮華座に対する金鍍金についてのみ検討した。
2) 金鍍金の手法と進め方
 金アマルガム法による金鍍金は、前 6世紀から前 3世紀に栄えたスキタイ文明に始まるといわれている。その後、中国本土や朝鮮半島からの渡来人により日本に伝えらえたと考えられている。日本では古墳や遺跡からの複数の出土品や歴史的作品に金鍍金が施されている物品が複数存在することは広く知られている。それらの品々の鍍金部分の非破壊分析(走査型電子顕微鏡と画面解析、エックス線 CT、中性子放射化分析)により、鍍金層の金層中に金属水銀の残留が認められ、これらの金鍍金が金アマルガムの塗布、つまり金アマルガム法で行なわれていたことが確認されている [2-4]。さらに、年末恒例の大仏の「御身拭い」で得られた金小片と、大仏と略同時代の作品であることが判明している仏像に貼られていた金箔片の中性子放射化分析により、御身拭いで得られた金の小片は大仏建立時代の金で、金層内に金で包埋される形で金属水銀の残留が認められ [5]、出土品や歴史的作品における金鍍金と同様の結果が得られている [2-4]。したがって、大仏と蓮華座には金アマルガム法による金鍍金が行なわれていたことが確認されている。金アマルガム法と原理的には同じであるが、鍍金対象の表面に金属水銀を塗布し、その上に金箔を置き、加熱により水銀を蒸発させる方法がある。この方法は仏具や伝統行事用器具の補修のために現在も行なわれているが、加熱温度が高く、後述するが、複数の作業者が行う狭い範囲の大仏や蓮華座の金鍍金(0.63 m2/日)に用いるのは困難であり、大仏と蓮華座の金鍍金に用いられた可能性はないと考えられる。
 金鍍金における金と水銀の使用量の検討には、完成直後の大仏と蓮華座の表面積値が必要である。建設当初の大仏殿や蓮華座の表面積の推定値は複数提示されているが、レーザーを用いたバーチャル・リアリティーにより求められた数値 [6] が最も信頼できるとされている。その結果、鍍金が必要な表面積としては、1,153 m2 (大仏本体が 597 m2、蓮華座が 556 m2)という数値を用いることにした [6]。
 ところで、金鍍金の進め方の詳細は伝えられていないが、この面積(1,153 m2 )の金鍍金に 5年間費やしたことは広く認められている。鍍金作業の進捗度を毎年同じと仮定すると、一年当たりの作業面積は 230.6 m2(= 1,153/5)となる。詳細は後述するが、大陸からの仏教関係者の招待の関係もあり、全ての工事がかなり急がされていたと推定され、鍍金作業を含む多くの作業が休日なしであった可能性が高い。渡来人による指導があったとはいえ、大仏や蓮華座のような大型の物体に対してアマルガム法による金鍍金がない日本の鍍金作業者にとっては初めてのことであり、小型物体への金鍍金技術を応用して行くしかなく、一日当たり鍍金面積は 0.63 m2(= 230.6/365)という、狭い範囲の金鍍金を積み上げていくという作業の進め方になったと思われる。
 ところで、延喜僧録には工事関係者の総人数として「金知識人 372,075人」という記載があるが、これは金や銅等の金属の取扱いに携わった人員の総数であり、金鍍金に携わった人数は不明である [7]。しかし一日当たりの作業面積 0.63 m2 で、鍍金完了に五年費やしたのであるから、鍍金作業は精密画を描くような緻密な作業で、大勢の人数が関与した可能性は低いと考えられる。
 鍍金作業に従事した人達に関する記録は見当たらない。しかし、佐藤忠司は日本の歴史における水銀曝露に関する論文の中で [8]、「勢陽五鈴遺響」(伊勢国の地誌) [9] の記載を引用し、「神田(しんでん)であった(辰砂を産する)地域を耕す地域には必ず唖の子供が出る」との伝承があり、唖の子供が発する構音障害的言葉は神のお告げとされたと述べている。すなわち、水銀と係わりのある地域には、神のお告げと扱われる言葉を発する人達の、特定の集団が存在していた可能性がある。奈良地方をも含む中央構造線上の地域には、水銀を産出する鉱山が多数あることは知られている。辰砂の採掘が行われていた地域では、水銀は特別なものであり、その採掘に従事する人達は、特定の技能集団とされていた可能性が指摘されている [8]。
 したがって、アマルガム法による金鍍金をする人達が、金属水銀を自由に扱うことができる特定の技能集団(ギルド)を構成していたと考えても不思議ではない。一日当たりの鍍金作業対象面積が 0.63 m2 と狭く、精密画を描くような細かい作業であったと思われるので、金鍍金に直接従事した人数は多くても二名一組の十組の 20名程度が限度であったと仮定した。従って、文献 [7] で示された鍍金作業の想像図は「金鍍金は精密画作成の様に緻密な作業」との今回の鍍金作業の様態の仮定とは異なっている。この 20名が、鋳造物の表面の修正をしながら、鍍金作業を行っていたとの仮定により、今後の考察を進めていく。後述するが、当時の日本の技術にとって、大仏と蓮華座のように大きい物体へのアマルガム法による金鍍金は未経験であった。したがって、このような技術水準を考慮して、毎日 0.63 m2 という大仏の表面積からすると極めて狭い範囲を、毎日少しづつ鍍金していくのが最善の方法であったと考えられる。鍍金作業の内容は、大仏や蓮華座の鋳造面の修正・研磨を繰り返しながらの精密画を描くような鍍金作業であったと考えられる。
 次に、一日当たりの作業時間を推定しなければならない。鍍金や鋳造、さらには大仏殿内外の工事が完了するまえに、開眼法要が行なわれていた事を考慮すると、大仏建設自体はかなり急がされていたと考えられる。平城京に勤務する官吏(外官 = 貴族以外の官吏)は、午前 6時30分から正午までの六時間程度の勤務時間であったとされている [10]。したがって、もっぱら金鍍金に従事する人達は、特定の技能集団ではあったが、貴族ではないので外官と同じ勤務時間であったと仮定した。
 すなわち、アマルガム法による金鍍金作業には、20名の作業者が毎日約六時間従事し、その進め方はあたかも精密画を描くように緻密な作業であったと仮定した。
3) 必要な金属の供給
 大仏と蓮華座のように巨大な物を鋳造・鍍金するために必要な水銀と金の調達方法を考える必要がある。
 金属水銀の供給: 国内の遺跡からの出土品や歴史的遺物への金鍍金で用いられた金属水銀は国内で調達されたと考えられている。現在、国内で採掘が行なわれている水銀鉱山はないが、辰砂と呼ばれる硫化水銀は国内に広く分布している。中央構造線上に位置する大和地方(奈良一帯)には大和鉱床群と呼ばれる辰砂鉱床が多数存在し、辰砂の採掘が盛んに行なわれていた [11]。辰砂の採掘と並行して、辰砂を加熱し水銀蒸気を発生させ、それを冷却して金属水銀を得ていたと考えられている。金鍍金に必要な金属水銀は、辰砂採掘現場で得られものから金属水銀を精製し、大仏建設現場へ輸送されたと考えられている [12]。この辰砂から金属水銀を得る際にも、金属水銀蒸気による中毒が発生していた可能性が高いが、なにも伝えられていない。辰砂自体は毒物であるが、当時は金属水銀の毒性は全くの未知であった結果の可能性もあるが、一方では辰砂は中国伝来の貴重な薬として扱われていた事もあり、毒物として把握されていなかった可能性がある。
 金の供給: 大仏建立決定当初は金の供給が十分でないと危惧されいたようである。しかし、大仏建設決定と呼応して 746年に陸奥・小田郡(現・宮城県遠田郡涌谷町一帯)で有力な砂金鉱山が発見され、引き続き陸奥地方(現・岩手県)での金鉱山開発が進んだ。大日本古文書に収集されている資料には、多くの金製品とは区別して「沙金(砂金)」として陸奥から平城京に送られた砂金の量が記載され [13]、その総量は 57.312キログラムとなる。この資料の記載には他の目的で送られてきた砂金の量も含まれているから、記載された砂金全てが大仏の鍍金に使用されたとは考えられていない。したがって、大仏への金鍍金には陸奥からの金だけでなく、他所の金山からも金が供給されていたとみるべきである。飛鳥池工房遺跡発掘結果を検討すると [14, 15]、金鉱石から金抽出する技術(アマルガム法と灰吹き法)があり、砂金鉱山以外からも金が供給されていた可能性は否定できない。
4) 金鍍金の技術水準
 飛鳥池工房遺跡発掘の結果 [14, 15] や、遺跡からの出土品や歴史的製品における金鍍金の非破壊検査の結果から、装身具等の小型の物品に対するアマルガム法による金鍍金は、当時広く行なわれ、技術は確立していたと考えられている。しかし、大仏の様に大型の物体の鋳造と、それに対するアマルガム法による金鍍金の経験はなかったと考えられている。したがって、一応確立していた小型物体に対する金鍍金の技術を用いて、広い鍍金対象面積(1,153 m2) を少しづつ(0.63 m2)、毎日鍍金することになったと考えている。
5) 金と水銀の使用量
 大仏本体への金鍍金で使用された金の総量については多くの試算があるが、223キログラム、74キログラム及び 58.5キログラムの三つに大別されている [5, 6]。これらの食い違いの原因としては、奈良時代の日本では大小二通りの計量単位が併用されていたことが指摘されている。当時、数値の記録には何れの単位を用いたかを併記することが要求されていた。しかし、どちらの単位を用いたかの明記を省略する場合が少なくなく、現在の単位へ換算する際に違いが生じる原因となっている。さらに、使用量として記録されている数値が、単なる見聞録でしかない場合もある。現在の大仏と蓮華座は幾たびかの損傷を受けて補修されたものであり、完成当時の姿とは異なっているので、完成当時の金の使用量を推定するためには、デジタル復元により完成当時の姿を求め、表面積と鍍金の厚みから、鍍金終了の時点で大仏の表面に存在していたであろう金の重量を求めるのが妥当であり、鍍金の厚みを 6ミクロンとして金使用量を求め、58.5キログラムという値が示され、最も妥当な値と理解されている [6]。ただし、この値は正確にいうならば、大仏完成時に大仏本体の表面に存在していたと推定される金の重量であり、実際の使用量を得るには、作業中の損失を考慮しなければならないので、この値より大きくなる。なお、蓮華座についてはデジタル復元により得られた表面積の大仏本体との比から、金の使用量(正確には、完成当時蓮華座表面に存在した金の重量の推定値)は、54.4キログラムという値が示されている [6]。
 したがって、大仏本体と蓮華座への金鍍金で使用された金の重量は 112.9キログラム、金属水銀の使用量は重量比で金の 5倍とされているから、水銀の使用量は 564.5キログラムとなる。なお、金の場合と同様、鍍金作業におけるアマルガムの損失は計算に入れていないから、実際の水銀使用量はこの値を上回っているとみるべきである。以下、本文中に金属水銀や金の使用量の数値が示されるが、何れも鍍金作業に於ける損失を一切考慮していない数値であり、最低限度と考えねばならない。
 金と水銀の混合比は、歴史的文献には記載がない。重量比で金 1に水銀 5としたのは、実験的にこの混合比が最も扱いやすいという事と、実験と現在の金アマルガム法による金鍍金の手法に基づいている [16]。
6) 金鍍金はどのように進められたか
 作業の進め方の詳細は伝えられていない。想像に基づく鍍金作業の様子を現わした挿絵はあるが、根拠になった文献が示されていない [7]。したがって、鍍金作業の進め方については仮定を重ねていくことにした。
 大仏建設に関する行事は、開眼会の開催日をも含め事前に決められていたため、全ての仕事が時間に追われることになった。とりわけ、金属水銀が毒物としては把握されていなかったため、鍍金作業は開眼法要に関らず進められた。したがって、既に述べた通り、鍍金作業は 5年間(752年から757年)休日なしの作業であったと仮定した。
 金属水銀の年間使用量は 112.9キログラムだから、一日当たりの金属水銀使用量は 0.309キログラム(= 112.9/365)となる。その中には、0.062キログラム(= 0.309/5)の金が溶かし込んであり、一日あたりの金アマルガムの使用量 0.371キログラム(= 0.309+0.062)となる。鍍金作業者の代表に毎日この量の金アマルガムが支給されたと仮定した。なお、金鍍金の材料(金属水銀と金)、特に金の管理は、供給が必ずしも十分ではなかったので、厳しかったと思われる。鍍金作業における金アマルガムの損失は不可避であるが、損失量の推定は不可能である。したがって、ここに示した数値は最低限度であると見なければならない。
7) 鍍金作業に於ける金属水銀蒸気曝露量の推定
 金鍍金作業の進め方の詳細は不明であり、いくつかの仮定を置く必要がある。まず、金鍍金作業の進捗率は一定であったと仮定した。次いで、金アマルガムは塗布した後は乾燥させなければならない。その手法の一つとして、手持ちの金網製容器に炭火をいれ、アマルガム塗布面を炙るようにして乾燥させる方法が使用されていたと提案されている [7]。しかし、この方法では塗布面の温度が 100℃を超える事になり、毎日狭い範囲(0.63 m2 )に対して複数の作業者が鍍金作業に従事するという今回仮定した作業条件では、過酷な作業になり、5年間も続けられない。やはり、伝えられているように鋳造した大仏や蓮華座の内部から木炭を用いて温める方法が妥当と思われる [16]。その場合の温度は、鍍金作業者の作業姿勢や精密画のような詳細で長時間の作業であることを考慮し、使い捨てカイロの JIS基準に基づき、60℃を超えてはいなかったと仮定した [18]。
 次に塗布したアマルガムから気化する金属水銀量を求める必要がある。まず、作業の進め方として、毎年同じ量の金属水銀(112.9キログラム)が塗布されたと仮定した。無風状態の 60℃では、平面状に置かれた 65キログラムの金属水銀は、10時間に 48.1ミリグラムが気化することが判明している [18]。したがって、60℃・ 24時間で 1グラムの金属水銀からは、0.00178グラム(= 2.4x0.0481/65.0)が気化することになる。塗布後の加熱温度が 60℃であるから 5年間の鍍金作業が終了しても、相当量の金属水銀が塗布面の残っていることになる。この 5年後の金属水銀残存量と、5年間に塗布された金属水銀量との差が、 5年間の作業期間中に気化した水銀量であり、その一部が作業者に吸収されたと仮定することにした。
 鍍金層に残った金属水銀は時間の経過と共に気化する。しかし、歴史的製品の金鍍金層の非破壊検査の結果、塗布されたアマルガム中の水銀の一部は細粒化した状態で金に包埋されて鍍金層に存在している場合が少なくないことが判明している [4]。つまり、5年後に金鍍金層に残った金属水銀が時間の経過とともに全部が水銀蒸気になるわけではなく、一部は 1,000年以上にわたって金属水銀として残存する。つまり、金に包埋された形で鍍金層に残った金属水銀は、鍍金層が棄損された場合は別であるが、水銀蒸気とはならないと考えられている。
 5年間に気化した金属水銀量は、毎年の水銀塗布量を A(グラム)、5年後の残存量 S(グラム)は、金属水銀 1グラムの一日当たり気化率 C = 0.00178とし、次式により求められる。  S = A(1 - C)+ A(1- C)2 + A(1 - C)3 + A (1 - C) 4 + A(1- C)5 = A(0.99822 + 0.998222 + 0.998223 + 0.998224 + 0.998225
 すなわち、鍍金終了時の水銀残存量は 56,1990グラムとなり、5年間に気化した金属水銀は 3,010グラムとなる。この量の金属水銀が作業者の呼吸帯内で気化し、それを作業者が吸入し中毒が発生したといえる。
 次に、どのようにして毎日鍍金作業が進められていたかを検討する。作業者の交代については何も記録がないので、一応同じ作業者が 0.63 m2 の範囲を切れ目のないアマルガム塗布を毎日続けていたと仮定した。したがって、作業者は前日に塗布したアマルガムからの水銀蒸気の曝露をうけながら、現実に塗布しているアマルガムからの水銀蒸気の曝露をも受け続けるという作業状態であり、鍍金作業者の曝露の経過を推定する事は略不可能である。
 しかし、鍍金作業の 5年の間に作業者の呼吸帯内の空気中に 3,010グラムの水銀が気化し、それが吸入の対象となった可能性の高い大気中に均一に分布し、その大気と共に肺内に吸入され、中毒が発生したと考える。先ず鍍金作業者が 5年間吸入し続けた呼吸帯の空気量を推定する。まず、以下のような仮定を置くことにした。作業者数は20名の男性(成人)、作業内容(精密画作成に準ずる) と作業姿勢等を考慮すると作業強度は 3.13 Cal/minで、呼気量 0.0143 m3/min(人)とされている [19]。作業時間を一日6時間とすると、20人の鍍金作業者の一日当たり呼気量は 102.96 m3(= 0.0143x20x60x6)となり、5年間の呼吸量は 187,902 m3 (= 102.96x365x5)となる。この空気は作業者の呼吸帯内にあり、その中には 3,010グラムの金属水銀蒸気が含まれていた。作業者の体格の個人差を考慮し、5年間で作業中に呼吸した空気量はこの値の 2倍、つまり 375,804 m3とした。したがって、3,010グラムの水銀が水銀蒸気として 375,804 m3の空気の中に均一に分布し、空気と共に吸収された。さらに、気化した水銀蒸気の 50%が呼吸により吸入されたとすると、5年間に呼吸された大気中の水銀濃度は、(0.5x3,010,000)/375,804 = 4.00 mgHg/m3 であったと推定される。すなわち、アマルガム塗布作業における水銀蒸気の曝露濃度はこの程度であったと推定される。しかし、既に述べた通り 5年間の水銀の使用量推定値(564.5キログラム)は鍍金完成の時点で、大仏と蓮華座の表面に存在していたと推定される金の量を基にした推定量であり、アマルガム調製時や塗布時の損失を考慮すると実際の水銀使用量は 564.5キログラムを上回っていると見なければならない。しかし、これらの損失の程度の推定は不可能であるので、今回の試算では考慮しなかった。さらに、作業者人数や実際の作業時間、作業の進め方等は殆ど伝えられていない。実際の水銀蒸気曝露濃度は 4.00 mgHg/m3を上回っている可能性が高い。ところで、この曝露濃度では、曝露後速やかに(= 1か月以内に)呼吸器症状だけでなく消化器症状や中枢神経症状が現れることが認められている [26]。従って、鍍金作業者に金属水銀中毒が発生していたのは当然であった。
 最近、大仏の金鍍金における水銀蒸気の曝露濃度は 0.0014~0.0008 mgHg/m3であると報告された [7]。しかし、この報告では ① 金鍍金に 5年間費やしたことが考慮されていない、② 鍍金作業に於ける水銀の使用量が不明、③ 鍍金作業の進め方等の点への言及がない等の点から、同意できない。
8) 金鍍金に関係して重大な健康障害が発生していた事を示唆する証拠
 752年に始まった金鍍金は757年に完了した。この間、鍍金作業で多くの中毒が発生していた筈であるが、直接的に記した資料は見当たらなかった。しかし、曝露濃度との関係から金鍍金の終了が近くなるにつれ、全く経験したことがなく、対応ができない健康障害がの発生が顕著になり、多くの対応が次々にとられていた [20}。すなわち、757年には医師、鍼灸師達の能力不足を指摘し、再教育の必要を求める記述が日本書紀にある。続日本紀によれば、770年には、詔勅により先ず国中の指導的医師(国師)が、引き続き日本中の他の医師が再教育のためにそれぞれ招集されている。この国中の医師を再教育のために招集するという対応は、全く経験したことがなく何ら対応できない事態が、当時続発していた飢饉・飢餓ではなく、健康状態の異変であったとみるべきである。773年、774年、775年及び777年には諸国の寺と平城京内での読経、773年、774年及び776年には諸国の疫神を祭る事、774年には全国への浄祓使の派遣と伊勢神宮への使者派遣等の対応が詔勅によりとられた。さらに、799年には大赦令や当時なかば公然と行なわれていた古墳の盗掘や、盗掘品の仏像装飾への流用を禁止する勅が出されている。これら一連の手あたり次第としか言いようのない対応は鍍金終了後 10年を過ぎる頃にはみられなくなっている。恐らく、中毒になった人達の内、重症者が死亡等により目立たなくなったためと考えられるが、確証はない。
 当時の平城京とその周辺は、既に述べた通り [1]、大仏建設による過度の人口集中や、うち続く周辺の飢饉と流民の流入、疫病の流行、運脚の残留や脱走役民の滞留等により、生活環境は悪化していた [24]。そこに、金鍍金作業における水銀中毒の今まで見聞きした事のない奇怪な症状が口伝えで広まり、生活環境の悪化に拍車がかかった。大仏建設が平城京とその周辺にもたらしたのは、現在の大都市がかかえる問題がすでに顕著になっていた都の姿である。万葉集に詠われた「あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」だけの世界ではなかった。
9) 金属水銀を使用する金鍍金法
 金属水銀に金を溶かして金アマルガムを造り、それを塗布し、加熱して水銀を蒸発させて行う金アマルガム法は、現在では殆ど用いられていない。金アマルガムを塗布し加熱する方法とは異なる金と金属水銀を用いた金鍍金が、仏具や歴史的製品の補修に用いられている。この方法では、鍍金面に先ず金属水銀を塗布し、その上に金箔をのせ、水銀の気化温度に近い程度に加熱し、一気に金属水銀を気化され、表面に金箔を残すという手順を繰り返す方法である。しかし、金属水銀と金箔を使用する方法では、大仏由来の金の小片の分析結果から明らかな様に、鍍金終了後に半ば半永久的に金鍍金層内に水銀が残留する事態が生じることにはならない。すなわち、大仏と蓮華座にはアマルガム法による金鍍金が施されていたと結論できる。

IV.結論

 大仏や蓮華座の金鍍金を全て一度で済ませるのならば、金属水銀使用量と大仏殿内気積から、大仏と蓮華座に対するアマルガム法による金鍍金における水銀蒸気曝露の程度を論ずることができる。しかし、当時の日本には装身具のような小型の物体に対するアマルガム法による金鍍金の技術しかなかった。たとえ大型の物体に対するアマルガム法による鍍金技術があったとしても、したがって、大仏と蓮華座の金鍍金の完了には 5年間かかっている。大仏と蓮華座の表面積 1,153 m2の鍍金に 5年間費やした結果、年間鍍金面積は 230.6 m2、一日当たり 0.63 m2の狭い範囲の作業となったのは当然である。5年間費やしたアマルガム法による金鍍金の手順や作業条件の詳細、鍍金作業に関与した人員数、鍍金作業中のアマルガムの損失、および鍍金作業従事者の健康状態等は明らかになっていない。したがって、曝露濃度の推定は、多くの仮定を置いた上で初めて可能になった。作業中のアマルガムの損失の記録は残っていない。したがって、提示した 4.00mgHg/m3という曝露濃度は最低限度である可能性が高い。

V.附記

 金属水銀と金を使用する鍍金は、現在では仏具や工芸品の補修に用いられている程度で、大仏と蓮華座の金鍍金の様に大規模な形では行われていない。しかし、発展途上国では収入増の目的で、金属水銀を使用した金採掘が広く行われ、採掘に従事する人達が明らかな水銀蒸気曝露をうけているのが現実である [21, 22]。しかも、水銀蒸気曝露は採掘従事者だけにとどまらず、家族や採掘した金の仲買人だけでなく採掘場所周辺の市街地の住民や所謂ゴールドショップ(金細工店)関係者にも及んでいることが明らかにされた [23]。
 これらの小規模金採掘における金属水銀の使用量は、大仏と蓮華座の金鍍金で使用された量を上回っている可能性が高い。つまり、8世紀に実施されたアマルガム法による金鍍金作業と同じか、またはそれ以上の中毒の危険性を持ちながら、しかも水銀蒸気の毒性については殆ど知らないままで、金属水銀が利用されているのが現実である。このような金属水銀の利用を放置すれば、重大な健康障害が多発するであろう事をこの 8世紀の事例から学ぶべきである。発展途上国でこのような小規模金採掘で得られた金は、大部分が先進国における工業製品、装身具、及び財産保全に利用されているのが現実である。これらの小規模金採掘における問題点の指摘は多い。しかし、そこにおける水銀中毒に対する有効で現実的対応策は、政治・経済的要素があるためか、いまだに提示されていない。
 我々が日常生活で何らかの形で利用している金のかなりの部分が、発展途上国の小規模金採掘に依存している事を理解すべきである。過去の出来事に対する正しい知識を持つ事によって、現在当面している問題を理解し、正しく対応できるのである。まさに、“Wissen um die Vergangenheit schaerft das Bewusstsein fuer die Gegenwart.”(温故知新)である。


謝辞
 関連文献の収集、および鍍金面における金属水銀残存量の算出に於いて、佐藤郁郎博士(宮城県がんセンター病理部)から重要な助言をいただいた。改めて深謝する。更に、本文執筆における入口紀男熊本大学名誉教授の激励とご指導に深謝する。奈良の大仏の姿に関する多くの復元値の選択に関する後藤完二氏(株式会社アコード)の助言に対し、深謝する。

研究費の供与
 この研究にあたっては、研究費の供与は一切受けていない。
利益相反
 申告すべき利益相反は一切ない。

参照文献

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  3. 田口 勇、杉山 晋作、斎藤 努 燕木 5号 噴出土金銅製品の自然科学的研究 国立歴史民俗博物館研究報告 No. 45 1992.12 49-61頁。
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