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奈良大仏の金鍍金作業における水銀蒸気への暴露濃度はどの程度と推定されるか

アマルガム法による空前絶後の規模の金鍍金

Gilding of the Great Buddha on an unprecedented scale with amalgamation in Nara did result in metallic mercury poisoning.

石原 信夫 Nobuo Ishihara, M.D., Ph.D. (公財)神奈川県予防医学協会

Abstract

   The Great Buddha in Nara was plated with gold using an amalgamation process. Serious poisoning from metallic mercury occurred not only to the plating workers but also to other personnel. The maximum exposure level for the workers was 4.23 mgHg/m3. Several cases of serious poisoning were found, but none were reported. The summoning of physicians from the whole country to retrain them suggested the incompetence of physicians in dealing with the health hazards of gold plating. Repeated prayers and chanting for nearly a decade after the work of Great Buddha indicated that there were serious health problems with people.

キーワード: 金属水銀、奈良の大仏、金鍍金、アマルガム法
Keywords: metallic mercury poisoning, the Great Buddha, gold plating, amalgam

I.はじめに

 東南アジアの仏教国では、現在でも仏像や寺院は金箔の貼り付けによって黄金色に輝いている。奈良時代のみならず日本の歴史における記念碑とも言うべき奈良の大仏も、完成直後は全身にアマルガム法による金鍍金が施され、黄金色に輝いていた。しかし、現在では金鍍金は脱落したままで、黄金の輝きは失われている。奈良の大仏(大仏本体と蓮華座)のアマルガム法による金鍍金では、完成までに 585キログラムの金属水銀と 117キログラムの金が使用されたと推定されている。金属水銀の毒性を考慮すると、中毒の発生は必須であったとする報告が数多く提出されれている [1]。しかし、いずれの報告に於いても金属水銀蒸気曝露の程度は数値では示されず、健康障害の発生を明記した歴史資料は見当たらない。おそらく、金属水銀の原材料である朱砂(丹砂、丹生、辰砂ともいう。本体は硫化水銀)が薬として中国から伝来したこともあり、当時は朱砂から精製される金属水銀が有害物であるとは認識されていなかったと考えられる。
 本論文は、奈良の大仏への金鍍金において水銀による重大な中毒が発生していた事実を数値をもって推定することを目的とした。
 そこで、先行論文「大仏への金鍍金では金属水銀蒸気中毒が起きていた」[1]において述べた金属水銀蒸気による曝露の様子を別の視点から再検討した。すなわち、はっきりとした根拠に基づき、鍍金作業面の温度は 60℃と推定し、鍍金面に気流はないとの仮定をおいて、鍍金終了の時点で鍍金面に残存している金属水銀量と塗布した水銀量の差を求め、それを鍍金作業中に気化した水銀量とし、鍍金作業者の曝露濃度の試算を行った。ただし、鍍金作業手順、作業時間、鍍金作業者の人数等はいずれも仮定に基づいている。したがって、将来これらの事項の詳細が判明すれば、今回提示した曝露濃度の試算値は当然変わってくることは言うまでもない。

II.方法

 信頼できると考えられる文献を比較検討した。ただし、原典を参照することが困難な場合には、確実な二次文献を参照した。

III.結果と考察

1) 朱砂から金属水銀を得ていた
 日本では水銀は朱砂(別称は丹砂、丹生、辰砂。本体は硫化水銀)として得られる場合が殆どである。中央構造線上にある大和地方や伊勢地方には多くの朱砂鉱山が存在し、採鉱・採取した鉱石を加熱冷却して金属水銀を得ていた。これらの地方には朱砂の採掘と精製(金属水銀の製造)に専念していた一族がいたことが示されている [2-4]。この一族の間には、丹砂を加熱して得られる高濃度の金属水銀蒸気の吸入のため、鼻腔から気管にいたる呼吸器粘膜に糜爛(びらん)が生じ、中枢神経障害により構音障害と相まって、言語が不明瞭であったと思われる人(つまり言語障害者)が存在していた。すなわち、いわゆる「水銀により声がつぶれる」という状態(言語障害、不明瞭で意味不明な話し言葉)になり言語障害者となった人である。当時の人々は「いつも神と共にある」という考えであり、言語障害者となった者は一族にとって神の意志を伝える者(予言者あるいは、神)として扱われるようになったと考えられる [2、3]。つまり、化学的知識は皆無であった当時の人々が、言語障害者や巫女が夢幻恍惚の状態で語る言葉に対して畏敬の念を抱くのは、当然の成り行きであったと思われる。事実、各地の朱砂採鉱と精製を生業としている人たちの間には、このような高濃度金属水銀蒸気吸入による言語障害者が断続的に出現し、神(水かねの神)または神の意志を伝える者(預言者)として迎えられていた [2]。このような朱砂を専門的に取り扱う集団は、一般の人々にとっては職能組合的存在(ギルド的存在)であったと考えられる。大仏への金鍍金においても、このようなギルド的集団が大きく係わっていたと考えても不思議ではない。金鍍金作業で生じる不可解な事象は、超自然的力(神)の意思の現れであり、水銀中毒者の不可解な言葉はお告げであり、祈祷や読経によって対応するというのが、当時の人々の常識であった。
 なお、大仏殿内で大仏本体は蓮華座の上に置かれているが、今回対象にした金鍍金は、大仏本体と蓮華座に対する金鍍金である。以下の文章で、単に金鍍金と表現した場合は大仏本体と蓮華座への金鍍金をさしている。
 かなりの数の作業者が金鍍金作業に従事していたと考えられるが、詳細は伝えられていない。

2) 経験したことのない出来事に対する祈祷や読経などの繰り返し
 水銀の毒性に関する知識は皆無であったこともあり、金鍍金で生じた水銀中毒と思われる不可解な出来事のみならず、不可解な出来事は全て祈祷と読経の繰り返しで対応していた。
 大仏と蓮華座に対する金鍍金は 752年に開始され、757年に完成したとされている。しかし、大形の仏像等の鋳造やそれに対する金鍍金(アマルガム法)等の経験を積まずに、いきなり空前の大きさの大仏に取り掛かったこともあり、完成後も鋳造や鍍金の修正や追加が避けられなかったと考えられる。金鍍金作業における異常事態(作業者の健康状態の異変)については、757年には当時の医師、天文歴法、陰陽師、鍼灸師、文章博士等の無力を指摘し、再教育が必要とする提言が日本書紀に記載されている [5]。
 さらに、金鍍金作業等で発生した不可思議な現象(実体は水銀蒸気中毒)への対応として、以下示すように詔勅、祈祷、読経等が繰り返し行われていた [5]。

  770年:諸国の医師を招集。医師や鍼灸師等の再教育の実施。
  773年:諸国に疫神を祭らせる。
  773年:「薬師経」を諸国の僧侶に広める。
  774年:全国の寺に疫病祓いのための読経(仁王経?)を指示。
  774年:諸国に浄祓の使を派遣。斎内親王を伊勢神宮に派遣。
  775年:畿内諸国に疫神を祭らせる。
  775年:内裏と朝堂(何れも平城京内)で大般若経の読経。
  776年:(宮中で)大祓会。
  776年:各神々に朔使を派遣、幣皁を奉納。
  777年:(宮中で)大祓会
  777年:(宮中で)僧 600人で大般若経を読経
  779年:大赦令
  779年:古墳の破壊を禁止 ⇒ 仏像等の装飾に古墳の副葬品の流用が横行。
     ⇒ 平城京建設に際し、当該地域に多数あったと思われる古墳の破壊と盗掘、及び副葬品の仏像への転用が横行したことに対する処置。

 これらの対応のうち、770年の医師等の再教育は、757年の日本書紀にある指摘を受けた対応と考えられ、大仏と蓮華座の鋳造や金鍍金等において生じた異常な状態(健康障害、中毒)に対して、従来の医療が無力であったことを認めた結果といえる。しかし、読経と祈祷で対応するという方針は変わらなかった。無論、効果がなかったことは言うまでもない。
 八世紀、特に761年から768年にかけて全国的に干魃による飢饉が発生、773年には天然痘の大流行があり、一般人のみならず高位の官人も命を落としている。したがって、これらの祈祷や読経が飢饉や天然痘の流行に対する対応である可能性は考えられるが、余りにもなりふり構わない読経や神仏への加持祈祷の連続である。特に 770年に全国の医師の招集と再教育が飢饉や疾病の流行に対する処置とすると、遅すぎた対応である。したがって、これらの祈祷や読経は、大仏の建設に係わった人達の間に起きた健康状態に関する対応である可能性が高いと考えられる。金鍍金作業が、大仏本体の開眼供養を待たずに始められただけでなく、蓮華座の鋳造作業は未完で続行中であった。したがって、鍍金作業者以外にも、多数の水銀中毒患者が発生していた可能性が極めて高かったと考えられるが、史料中には明確な記述はない。鍍金作業で重大な健康障害(水銀中毒)が多数発生したことが、平城京から平安京への遷都の要因の一つとなった可能性は否定できないと考える [1]。

3) 鍍金作業における曝露濃度(水銀蒸気)はどの程度であったか?
 大仏本体と蓮華座に対する金鍍金について考察する。現在大仏本体の背部に設置されている光背は江戸時代作の木彫である [6]。鋳造品と考えられている元の光背は失われ、復元は試みられていない。したがって、詳細が不明なので考察の対象から外した。すでに述べた通り、基本方針として、金鍍金終了までに塗布した金属水銀量と、鍍金終了時に鍍金面に残存していたと推定した金属水銀量の差を、金鍍金の過程で気化した水銀量とみなすことにした。
 i) 曝露濃度推定においては、以下に示す事項を前提にした。
 i)-1 創建時の大仏本体と大仏殿の姿
 二度の戦火、天災及び鋳造上の問題等による破損や修復の結果、大仏や大仏殿の現在の姿は完成当初とは大きく異なっている。したがって、大仏殿や大仏本体の完成直後の姿に関しては多くの復元が試みられているが、大仏本体の体積を 1,325立法メートル、鍍金作業時の大仏殿内気積を 81,292立法メートルとする報告を最も妥当と判断した [1]。なお、大仏本体や蓮華座の破損部分の補修は行われたが、金鍍金の修復は行われていない。
  i)-2 金と金属水銀の総使用量と鍍金層への金属水銀の残留
 大仏本体と蓮華座の金鍍金作業は大仏殿内で行われ、5年間の金属水銀総使用量は 585キログラム、一日当たりの金属水銀使用量として 320.5グラム( = 117キログラム(年)/365日)が妥当と考えられている [1]。なお、アマルガム法による金鍍金では、塗布された金属水銀の一部が気化し、残りは鍍金層内に 1,000年以上残留していると報告されている [7, 8]。この塗布したアマルガム中の金属水銀の残留割合は不明であるが、塗布された金属水銀の内、残留は 40パーセント、残り60パーセント( = 320.5x0.6 = 192.3グラム)が気化したと仮定した。ただし、根拠はない。
 金鍍金の対象は大仏本体と蓮華座であり、双方とも大仏殿内で同じ方法で鍍金されていたと推定されている。複数の復元値が提示されているが、最も信頼できる値は、大仏本体の表面積は 597平方メートル、蓮華座の表面積は 556平方メートルで、ほぼ同じである [9]。したがって、蓮華座の金鍍金に使用された金と金属水銀の総量は、対物の場合とほぼ同じであり、大仏本体への金鍍金に関する考察結果は、蓮華座への金鍍金にも準用できる。
 i)-3 作業者数、作業時間(一日当たり)、休日の有無等
 大仏本体と蓮華座の金鍍金は大仏殿内で行われたが、作業の詳細(鍍金作業手順、人員、作業時間、休日等)は伝えられていない。
 一日当たりの作業時間については、直接の記録は見当たらない。しかし、平城京に勤務する官人(公務員)の一日当たりの勤務は、午前 6時30分に始まり、正午頃までの 6時間であった [10]。当時の社会構造を考えると、金鍍金作業者は官人より上位であった可能性は低く、作業に拘束される時間は官人を上回っていた可能性がある。しかし、すでに述べた通り、アマルガム法による金鍍金作業は特定の技能集団が受け持っていた可能性があるので、今回は鍍金作業も官人と同じ 6時間と仮定した。官人には「残業」の可能性があったと考えられている [10]。したがって、鍍金作業においても作業の進展状況から残業が当然あったと推定できるが、今回は考慮していない。
 金鍍金作業は 752年4月に開始されたが、その完了を待たずに 752年5月に開眼法要が強行され、各方面からの多数の参列者があり、多くの歌舞音曲が奉納された。したがって、大仏の完成は一刻も早く完成させねばならなかったと判断し、作業日数は一年当たり 365日、つまり休日なしと仮定した。
 鍍金作業自体は専ら手作業であったと考えられるが、詳細な手法やその他の作業条件についての記述のある資料は見当たらなかった。
 ii) 曝露濃度の推定
 これからの考察では大仏本体と蓮華座への金鍍金を一括して扱い、大仏への金鍍金と表現する。上述の通り、大仏本体の表面積は 597平方メートル、蓮華座の-表面積は 556平方メートルであるから、アマルガムを塗布すべき面積は 1,153平方メートルとなる [9]。金鍍金作業の詳細(作業手順、一日当たりの作業範囲、アマルガム塗布方法等)が不明であるので、作業時の曝露濃度の推定は難しい。したがって、以下に示す前提をおいて、曝露濃度の推定を試みた。
 ① 金鍍金の進捗率は一定、金属水銀使用量は 1年間で 117キログラム、5年間で585キログラムとした。塗布したアマルガムの乾燥を促進するため、大仏本体や蓮華座の内側より木炭により加熱していたとされているが、表面温度は作業者がアマルガム塗布作業を行える程度でなければならない。作業時の服装に関しては資料はないが、鍍金作業時の大仏の表面温度は 60℃とした。この値には、使い捨てカイロに関する日本工業規格(JIS)の表面温度規定(40℃~70℃、60℃が望ましい)を準用した [11]。
 ② アマルガム中の金属水銀が気化する速度は、水銀残量に係わらず一定と仮定した。60℃、10時間、気流なしの状態で、65グラムの金属水銀から 48.1ミリグラムの水銀が気化するとの報告がある [12]。塗布されたアマルガム中の金属水銀は気化し続けるから、従って平面に置かれた金属水銀が 24時間に気化する割合は、2.4x0.0481/65 = 0.00178 となる。金鍍金作業では特に換気等の対応はなかったと仮定し、アマルガム中の金属水銀が 60℃・無風の条件下で気化する割合として、この値(0.00178)を用いることにした。
 ③ アマルガム塗布は手作業で行い、一日の仕事量は同じであったと仮定した。毎日同じ量のアマルガムを塗布したと仮定すると、5年間で 585キログラム、一年当たり 117キログラム、一日当たり 320.5グラムの金属水銀が塗布されたことになる。毎日作業開始時に、一日分のアマルガム(320.5グラムの金属水銀を含む)が支給されたと仮定した。特に確証はないが、5年間に気化した金属水銀量の計算の都合上からである。
 一年当たりの水銀使用量を A、塗布されたアマルガムから金属水銀が気化する率を C(一定)とすると、毎年 Aの金属水銀が加えられると、N年後に鍍金面に残留している金属水銀量 Sは、初項 A(1-C)、公比(1-C)の等比級数の第 N項までの和として求めることができる。
 S = A(1-C)x(1-(1-C)^N )
 ④ アマルガムを塗布する者とその補助者の二人一組で作業を行うと仮定した。後述するように狭い範囲を少しづつ塗布していく必要があるだけでなく、鍍金作業用の足場や他の作業(例えば蓮華座の鋳造は進行中)のため、他の作業者が多く、大仏殿内はかなり混雑していたと考えられ、二人一組の鍍金作業者は、一応 10組と仮定した。作業者一人当たりの気積を 10立法メートル、作業強度を 4.0と仮定した。
 ⑤ 創建当初の大仏の表面積は 1,153平方メートルであり、鍍金完成まで 5年間を費やしている。一年当たりの鍍金作業面積は年間 230.6平方メートル、休日無しの作業とすると一日当たり 0.63平方メートル( = 230.6/365日)となり、一見狭すぎ、何故金鍍金完了に 5年間も費やしたのかが疑問になる。しかし、塗布する物体は複雑な立体であり、さらに少しづつアマルガムの塗布を行っていく必要があったと考える。
 藤原京の飛鳥池発掘調査結果から、この時点では小さな物体に対するアマルガム法による金鍍金の経験はかなりあったと判断できるが、大仏如き巨大な鋳造物へのアマルガム法による鍍金どころか、鋳造した経験すらなかったことが示唆される [13]。したがって、アマルガムの塗布は現代の刷毛を用いた面塗装のように、広い範囲にアマルガムを塗布していくのではなく、表面を舐めるようにして極狭い範囲の塗布を繰り返して行く方法を採らざるを得なかったと考える。巨大な物体の金鍍金や、鋳造の経験はなかったとされている [13]。
 アマルガムを用いる鍍金技術が日本に伝えられた時期は明確ではない。しかし、500年(AD)頃のユーラシア大陸の遺跡から、丹砂から水銀を蒸留するための土器の出土があり、552年(AD)には百済王からアマルガム法で金鍍金された金銅仏が献上されている [2]。おそらく、献上された金銅仏の状態から、聖武天皇の勅で建設が決定した希に見る大きさの仏像にもアマルガム法による金鍍金施すべしという選択になった可能性がある。実際、藤原京の飛鳥池遺跡発掘調査結果によると七世紀には金属加工の技術がかなりあり、小型の対象物へのアマルガム法による金鍍金の経験はかなりあったと思われるが、大形の物体に対するアマルガム法の適用はなかった可能性がある [13]。したがって、大仏と蓮華座への金鍍金に対する要求に、小形の物体への金鍍金技術の応用で対応するしかなかったと考えられる。
 完成後に行われるべき開眼会が大仏と蓮華座の完成を待たずに強行された理由として、大仏と蓮華座の鋳造と金鍍金の実施において発生した好ましくない状況(中毒)を人々の目から逸らすのが目的であったとする推定があるが、根拠は示されていない [14]。
 さらに、鍍金作業の詳細な手順が不明なため結論はできないが、単に一度だけ塗布するのではなく、初めての大形仏像の鋳造であるため、塗布面の修正やすでに塗布した部分の修正等も頻繁に繰り返す必要があったと考えられる。したがって、一日当たりの作業面積は狭くなり、大仏と蓮華座への鍍金終了に 5年間を費やしたのは不可避であったと考える。
 以上の条件を考慮して、5年後の鍍金終了時に塗布面(大仏本体と蓮華座)に残っている金属水銀量を求めると 581,884グラムとなる。5年間に塗布した金属水銀量(総量)585,000グラムとの差の 3116グラムが、5年間で気化した金属水銀量となる(一年間の気化量は 623.2グラム = 3,116/5)。従って一日当たりの気化量は 1,707.4ミリグラム( = 623,200ミリグラム/365日)となる。
 アマルガム塗布作業の作業強度は不明である。しかし、成人男子(68kg)を対象にした調査で、毎分 3.13 キロカロリーのエネルギー消費量の座位作業では、毎分 0.0143立法メートルの呼吸量であったと報告されている [15]。従って、20人の作業者の 1分当たりの総呼吸量は 0.28立法メートル( = 0.0143x20)、60分当たりでは 16.8立法メートル( = 0.28x60)となる。鍍金作業は一日当たり 6時間と仮定しているから、一日当たり 20人の作業者が呼吸した空気は、100.8立法メートル( = 16.8x6)となる。作業者の個人差を考慮して一日当たり呼吸した空気量を二倍にすると、201.6立法メートル( = 1,008.0x2)となる。この量の呼吸帯の空気内に 1,707.4ミリグラムの金属水銀蒸気が入ったわけであるが、呼吸帯に入ってきた水銀蒸気(1,707.4ミリグラム)が一部が作業者に吸収され、残りは大仏殿内に拡散していくと考えられる。大仏殿内に拡散する分を 50パーセントとすると、作業者の体内に吸収される分は、853.7ミリグラムとなる。この量が 201.6立法メートルの大気と共に吸収されたのであるから、鍍金作業者は 4.23 mgHg/m3 ( = 857.3 mgHg/201.6 m3)の濃度の曝露を受けていたことになる。

 現在の常識からみると、4.23 mg Hg/m3 程度の濃度の水銀蒸気曝露を受けると、速やかに糜爛性炎症(化学性肺炎や気管支炎)が現れ、間質性肺炎から呼吸不全と進展しながら、最終的には死に到ると理解されている [16-18]。このような激変する症状に遭遇した当時の人びとは、化学的知識は皆無であったこともあり、狼狽えるだけであったと思われる。
 ところで、大仏建設に携わった作業者(工人)の人数については「762年の造金堂所解には大仏に関係した工人に関する記述がある」とする報告がある [2]。しかし、この引用は誤解釈であり、この見解の原典となったと思われる報告 [19]には「造金堂所解で述べられているのは造東大寺司が指示した造営は法華寺の西南にある阿弥陀浄土院で、東大寺大仏とは関係がない」と記されている。さらに、奈良県立中央図書館に照会したところ、「造金堂所解」には大仏の金鍍金の作業者数に関する記述はないとの回答があった。
 金鍍金完了までの金属水銀の総使用量は 585キログラムであるが、鍍金完了の時点では未だに鍍金面に約 583キログラムの金属水銀(塗布した水銀の大半にあたる)が残っているのは既に述べた通りである。アマルガム法による金鍍金の場合、塗布された水銀の一部は鍍金金層内に 1,000年以上にわたり残留し続け、気化しない [7,8]。この場合の残留率は不明であるが、一応40パーセントと仮定すると、鍍金終了時に鍍金面に残留している 581.9キログラムの水銀の内、水銀蒸気となるべき分は、347.9キログラム(=(585キログラムx0.6)-3.1)となる。本来気化されるべき金属水銀がこのように大量に残っていることは、大仏内部からの炭火による加熱は迅速な乾燥には不十分で、アマルガムの乾燥が極めて遅かったことを示している。大仏や蓮華座の内部からの加熱がいつまで行われたかは記述がないが、表面温度 60℃という条件が継続したと仮定しても、鍍金完了後長期間にわたり、水銀蒸気の発生が続いていたことになる。しかし、1180年と1567年の内乱による火災のため、鍍金面からの水銀蒸気発生が終わる以前に、金鍍金は失われた。損傷部位の補修や大仏殿の再建はその都度行わたが、金鍍金の修復は行われなかった。
 これらの金鍍金に於ける水銀蒸気曝露に関する推定値は、鍍金作業の詳細が不明であること、塗布したアマルガムから発生した金属水銀蒸気が作業者に吸収される割合、発生した水銀蒸気が呼吸帯で作業者の気積に相当する部分に速やかに分布するとした仮定、鍍金作業は座位での作用であるとの仮定、作業者一人当たりの呼吸量を1分当たり 0.014m³と仮定 [15]、作業者人数は二人一組で 10組等多くの仮定を重ねている。したがって、仮定した事項に、より適切な値が提示されれば、これまでに述べた推定値は改められねばならない。しかし、アマルガムを用いた鍍金作業者が受ける水銀蒸気曝露濃度は 2.82 mgHg/m3という極めて高い濃度であった可能性を指摘できた。
 塗布の進め方であるが、「刷毛」若しくは「篦(へら)」(又はこれらに類するもの)を使用してアマルガムを直接塗布する者とその補助者が一組で作業をしていたと想像できる。しかし、確証はない。さらに、塗布する対象が 15メートル以上の高さのある立体であるため足場等の設置や調整が必要なはずである。また、塗布の際の鋳造面の修正は必要であったはずで、当該作業者が鍍金作業現場に入って来なければならない。したがって、塗布作業者とその助手的作業者の組み合わせ以外に、足場の設定・保守、金アマルガムの調製・管理を担当する人員、鋳造部分の補修等、多数の工人が鍍金現場にいたと考えられ、曝露濃度に差はあったが金属水銀蒸気の曝露を受けていた人数はかなりの数であったと推定される。すなわち、金鍍金が行われている時点の大仏殿内は、多数の作業者と多くの物品により混雑した状態であり、アマルガムから発生した水銀蒸気が、大仏殿内で速やかに拡散し均等に分布する可能性は低く、大仏殿内の気中水銀濃度は場所による変動が大きかったと考えられ、推定は困難であると考えている。
 五年間かけて鍍金作業は 757年に、かなりの量の気化されるべき水銀が鍍金面に残留させたまま終了した。しかし、その後も水銀蒸気の発生が続いていただけでなく、作業中から発生していたであろう無視できない健康障害の発生も続いていたと見るべきである。この事態に対し、すでに述べた通り、当時の対策が一切無効であり、当時の関係者(医師、僧侶、祈祷師等)の再教育の必要があり、猶予のない事態であることを指摘する記述が 757年の日本書紀に見られる [4]。さらに、既に述べた通り鍍金終了後続いていた水銀蒸気の発生により健康障害が鍍金作業完了後も引き続き発生し、猶予の許されない事態であったことは、770年の全国からの再教育のための医師や高僧の召集を筆頭に、773年に始まり779年までに毎年のように読経や祈祷等が繰り返されていたことから裏付けられる。確かに、八世紀前半にうち続いた飢饉や疾病の流行への対応として、祈祷、祈願や読経が行われた可能性は否定できない。しかし、医師や高僧を再教育のために全国から召集した事実は、大仏への金鍍金作業を中心に発生した不可解な出来事が健康上の問題であり、しかも当時の医術や祈祷、さらには読経等による対応が全く無力であったことを示していると判断するべきである。

4) 金属水銀蒸気による異常現象はどのように扱われたか
 すでに述べた通り、金鍍金作業者を中心に起きた異常事態に対し、当時の知識階級であった水銀取扱集団の人びとや一般の人びとは、専ら恐れおののき加持祈祷にすがるだけであった。前述の 757年の日本書紀の当時の医術や祈祷などの無力を指摘する記述 [4]、および、771年に全国の医師を再教育のため平城京に招集した事実 [4] 等は、大仏建造に際して、当時の医術では対応できなかった健康障害が余りにも広範に生じていたことを示唆している。さらに、大仏本体や蓮華座の鋳造や鍍金が余りにも難工事であり、どこからか 五百人ほどの羅漢さんのような人たちが手伝いに現れ、完成と共に立ち去ったという伝承の存在が指摘されている [2]。当時としては全く無経験で不可解な症状を呈する呼吸器の糜爛性炎症を引き起こす程度の水銀蒸気曝露が存在した可能性が高いことは前述の通りである。「ハーメルンの笛吹き男」の伝説の解析で示されているように[20]、伝承の理解には関連する何らかの出来事、今回は金鍍金作業で不可解な症状の病気が多発した可能性に関する考察が必要である。すなわち、大仏や蓮華座の鋳造や鍍金において、それまでに経験していない不可解な健康障害が発生し、労働力の不足が顕著になり、何らかの形で臨時的に大量の労働力の投入が必要な事態が発生していた可能性が否定できないと考えられる。この一時的に生じた重大な労働力不足の実体は、鍍金作業者間に多数の重篤な水銀中毒が発生したことと推定できるが、史料には記載されていない。
 ところで、大仏建立作業の中心的立場の大仏師国中公麻呂は(鍍金作業者に)口覆いを用いさせたとの記述がある [21]。この報告を引用した形で、1966年に同趣旨の報告が出ている [22]。しかし、何れの報告においても、根拠となる史料の提示はなく、「口覆い着用」という指示が実際にあったか否かは不明である。しかし、仮にそのような指示があったとしても、作業現場では殆どの作業者が仲間の中毒症状は何らかの祟りと把握し、専ら神仏を拝むと考えていた可能性が高いだけでなく、水銀の毒性に関しては全く無知であったと見るべきである。
 鎌倉時代に鎌倉大仏がつくられるまでは、奈良の大仏の様な大型の仏像は鋳造されず、鎌倉大仏に対してはアマルガム法による金鍍金ではなく、金箔の張り付けが行われた。奈良の大仏や蓮華座への金鍍金作業で重篤な健康障害が多発したことが語り伝えられ、鎌倉大仏ではアマルガム法による金鍍金が選択されなかった可能性が考えられる。しかし、史料にはそのような記述はない。

IV.まとめ

 奈良の大仏へのアマルガム法による金鍍金作業では、重篤な水銀蒸気中毒が発生していたのはほぼ確実である。多くの仮定に基づいてはいるが、4.23 mgHg/m3 の曝露濃度がであったと推定された。現在の金属水銀使用現場では考えられない高濃度の曝露であり、作業者間には糜爛性間質性肺炎とそれに続く呼吸不全による死亡等が多数あったと推定できる。今日まで、大仏と蓮華座への金鍍金における金属水銀中毒の多発を示唆する報告は少なくないが、具体的な曝露濃度の提示はない。今回の解析により大仏と蓮華座に対する金鍍金における水銀蒸気曝露の上限値を初めて示すことができたと考えている。ただし、数々の仮定をおいての推定値であり、仮定した項目について関連資料の詳細な再検討が必要である。その結果、仮定が覆れば、前述の 4.23 mgHg/m3 という値は、改められねばならない。さらに、水銀蒸気の健康影響を念頭に置いて、関連資料の詳細な再検討が必要と考える。大仏に施された金鍍金の詳細が明らかになれば、多くの仮定に基づく今回の推定値は、改められるのは当然である。


研究費の供与
 この研究にあたっては、研究費の供与は一切受けていない。
利益相反
 申告すべき利益相反は一切ない。

謝辞
 大仏本体の体積の近似方法や、鍍金面に残存する金属水銀量の推定に関する佐藤郁郎博士(宮城県がんセンター病理部主査)のご助言、奈良時代(大仏建立当時)の水銀中毒に関する佐藤忠司博士(新潟青陵大学名誉教授)のご助言、建立直後の大仏の寸法の適切な復元値の選択に対する後藤完治氏(株式会社アコード)のご助言等のそれぞれに対して深謝する。


参照文献

  1. 石原信夫「大仏への金鍍金では金属水銀蒸気中毒が起きていた」(Occurence of poisoning by metallic mercury vapor in plating the Great Buddha in the ancient metropolis Nara) Kumamoto University Research Project for "Minamata Disease" Kumamoto University Archives, 2020 https://www.asoshiranui.net/minamata/com18.html
  2. 佐藤忠司「日本人が経験した水銀汚染の史的検討」(Historical Review of Mercury Pollution Experienced Japanese People) 臨床心理学研究(新潟青陵大学) 2009;3:5-13
  3. 尾畑喜一郎『古代文学序説』 桜楓社 東京 1968 95-100頁
  4. 田中八郎『大和誕生と水銀』 彩流社 東京 2004 162-164頁
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  6. 杉山二郎『大仏以後』 学生社 東京 1986 136頁
  7. 田口勇、杉山晋作、齋藤努「蕪木5号墳出土金銅製遺物の自然科学的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告』通巻45号 1992.12 49-61頁、付図9頁 付図22葉
  8. 齋藤努「走査型電子顕微鏡ー画像解析法による金銅製品の自然科学的研究」『国立歴史民俗博物館研究報告」1992.3 38号 103-128頁
  9. 大石岳史、増田智仁、倉爪亮、池内克史「創建時奈良大仏及び大仏殿のデジタル復元」『日本バーチャルリアリティ学会論文誌』2005;10:428-436
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  19. 河本 敦夫『天平藝術の創造力』 1949 黎明書房 東京 223頁
  20. 阿部勤也「ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』 ちくま文庫(筑摩書房)1992 東京 36-42頁
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