Abstract The first case of dimethylmercury poisoning was reported in 1865, suggesting that dimethylmercury was one of the supertoxic substances. Two cases of dimethylmercury poisoning were reported in the 20th century. The dose-response relationship with organic mercury(methylmercury and dimethylmercury) confirmed a common latency period before the onset of neurotoxicity. The central nervous system (CNS) consists of neurons, synapses, and glia. Homeostasis of Ca++, glutamate, and reactive oxygen species is important to maintain the activity of the CNS. Methylmercury toxicity depends on the impairment of these homeostasis, and several possibilities are discussed.Keywords: dimethylmercury, methylmercury, inorganic mercury, latency period, neurotoxicity 要約 1865年の Edwardsのジメチル水銀中毒例の報告により、ジメチル水銀の桁外れに強い毒性が広く知られるようになった。その後しばらくの間、ジメチル水銀中毒例の報告は見当たらない。20世紀になり二例(1971年,1996年)のジメチル水銀中毒の事例が報告された。1996年の事例では、曝露開始から中枢神経症状が現れるまで約 150日の空白期間が存在し、頭髪中水銀濃度が上昇するまでに 17.4日の空白期間が存在していたことが明らかになった。中枢神経症状出現までの空白期間については、ジメチル水銀により障害をうけた部位に対する健常部位による代償が破綻する迄の時間と考えられている。しかし、ネウロン、シナプス及びグリア等複数の細胞で構成さている中枢神経内にメチル水銀が入ると、細胞内 Ca++やグルタミン酸の均衡状態が乱れるだけでなく、メチル水銀は -SH基と結合するため -SH基の平衡性も乱れる。これらの平衡性の乱れがネウロンやシナプス、更に膠細胞(星状細胞)の機能に影響を与え、メチル水銀の毒性発現となるとの考えが近年提唱されている。1997年の事例は、極めて高濃度のメチル水銀が毛根のケラチン生成細胞に供給されたため、ケラチン合成に必要な -SH基の平衡性に乱れが生じ、その結果頭髪中水銀濃度の上昇における 17.4日の空白期間が生じたという可能性が考えられるが、確証はない。これまで、メチル水銀の作用は専らネウロンに限定されて考えられて来たが、今後はシナプスや膠細胞(星状細胞)に対する作用も併せて考える必要がある。I.はじめに ジメチル水銀は天然には存在しない。1858年に Bucktonが合成に成功し、速やかに分解してメチル水銀となると報告した。原子価の概念を提唱した Franklandは、原子価の決定にジメチル水銀が有用なことを発見し、1863年にジメチル水銀の合成法を確立し、その方法に基づいてジメチル水銀合成が聖バーソロミュー病院付設の医科大学で開始された。1864年にその作業に従事した化学者三名(男性)に水銀中毒(=ジメチル水銀中毒 死亡 2、生存 1)が発生し、1865年に Edwardsがその詳細を報告した [1,2]。その中毒症状がそれまでに知られていた多くの化学物質の中毒と比較すると桁違いに激烈であったため、当時の欧州の化学会において「ジメチル水銀は信じ難い毒性を持つ物質」として大きな反響を引き起こした。なお、ジメチル水銀が分解してメチル水銀となって毒性を示すことは、1969年に Oestlundにより改めて確認されている [3]。したがって、現在はこの Edwardsの報告 [1,2] が最古のメチル水銀(有機水銀)中毒の症例報告と考えられている。Edwardsの報告 [1,2] 以後はジメチル水銀中毒例の報告は見当たらない。しかし、物質の構造解析の手法の一つとしてラマン分光法が考案導入されると、標準物質としてジメチル水銀が注目され、20世紀に二例のジメチル水銀取扱者の中毒の症例が報告された。今回はこの 20世紀のジメチル水銀中毒の二症例を中心にして、メチル水銀やジメチル水銀の毒性に関する問題点を考察する。 II.症例 症例 A: 1971年に発生したチェコの化学者(男性)の中毒 単独作業で 1971年2月から同年 5月初めの間にジメチル水銀 6,000グラムを合成したと記録されている [4]。このジメチル水銀合成作業は一時的であり、合成の目的は不明である。作業開始後 1か月以内に四肢末端の感覚障害が現れ、同年 5月17日に入院した。入院後に四肢末端の感覚障害が次第に増強、引き続き求心性視野狭窄が出現し、次第に増強、昏睡と錯乱を繰り返しながら同年 6月17日に死亡した。この症状の経過は Edwardsの報告 [1, 2] に酷似している。経過中、中枢神経系障害の症状が主体であり、電気生理学的検査では末梢神経障害は認められていない。 剖検では大脳皮質の対称性病変(神経細胞の消失と皮質の萎縮)、小脳皮質の病変(萎縮とプルキンエ細胞の消失)等のアルキル水銀中毒特有の所見が認められた [8,9, 28]。脳・肝・腎には高濃度の水銀の蓄積が認められている。ジメチル水銀は常温では液体で密度 3.65 g/cm3であるから、6,000グラムのジメチル水銀は 1,644 mlの液体となる。ジメチル水銀は気化しやすく(20 ℃の蒸気圧は 8.8 kPa)、かなりの濃度のジメチル水銀蒸気曝露を受けていたと推定されるが、詳細は不明である。主に呼吸器からの吸収と推定され、経皮吸収もあった可能性が高いが、作業方法が不明なため断定はできない。試料中の水銀濃度は原子吸光法により総水銀として測定されているが、尿や血液中水銀濃度の時間経過の詳細は記されていない。入院時の尿中水銀排泄量は 124~142μg/日であり、高い濃度の水銀蒸気曝露を受けていたと判断されている [7]。ペニシラミン投与により尿中水銀排泄量が 535μg/日と増加したと記されている。経口投与されたペニシラミンは有機水銀の尿中排泄のみを促進することが判明しているから [6]、有機水銀(ジメチル水銀、メチル水銀)の排泄が促進されたといえる。当然、尿中には無機水銀(Hg++)も排泄されていたと考えられるが、無機水銀と有機水銀の分別定量が行われていないので不明である。 症例 B: 1996年に発生したアメリカの化学者(女性)の中毒 曝露当時 48歳の女性化学者で、NMR分析(またはラマン分光による分析)の標準物質として使用する目的であったと思われる。保護手袋を着用し(ラテックス手袋)、ジメチル水銀(液状)を容器から毛細管に移す際、誤ってピペット先端より数滴を保護手袋上(手背部)に滴下した後、速やかに汚染部分を洗浄し、防護手袋を外し廃棄している [5]。この時点で汚染除去は徹底して行われたと判断され、その結果として、事故後直ちに尿や血液中水銀濃度の測定に到らなかった可能性がある。このことが、後に論じる曝露後中枢神経症状発現までの空白期間の検討において大きな障害になっている。なお、後日の検査で液体状ジメチル水銀は保護手袋(ラテックス手袋)を容易に通過することが判明、事前の保護手袋の適不適の検討が十分でなかったという不注意点が指摘されている。 曝露後 170日目に頭皮直上より頭髪(全長 78 ㎜)を採取、2 ㎜毎に裁断し、蛍光エックス線分析法で総水銀濃度が測定されている。なお、頭髪の成長速度は 1日当たり 0.459 mm(= 78 mm/170日)となるから [5]、曝露直後からおよそ 4.3日毎の頭髪中水銀濃度を測定していたことになる。その結果、曝露開始後の頭髪中水銀濃度の上昇にも空白期間があることが判明した。すなわち、頭髪中水銀濃度は曝露後 17.4日目に急上昇、39日目に極大値となり、以後時間の経過とともに減少している。急上昇以前の頭髪中水銀濃度は、ジメチル水銀曝露前の値と推定される。曝露約 3か月後には軽度の体重減少が始まり、5か月後には中枢神経症状(平衡感覚の障害と言葉のもつれ)が出現、引き続き他の水銀中毒の症状が現れた。この時点で、血液中水銀濃度は対照群(同年齢女性)の約 80倍、尿中水銀濃度は約 50倍であった。Edwardsの報告 [1,2] や症例 Aに酷似した症状(狂騒と昏睡)を繰り返しながら 1997年6月8日に死亡した。 頭髪以外の試料中の水銀濃度は無炎原子吸光法により総水銀として測定されている。曝露後 150日目の血液中水銀濃度は 4,000μg/Lであったから、血液総量を 4.2リットルと仮定すると、水銀体負荷量は 336 ㎎となる。ジメチル水銀の比重を 3.2として、この時点での体内のジメチル水銀量を求めると 0.11 mlとなり、血中濃度からみた半減期は 75日であるから、曝露開始時の体負荷量は 0.44 ml(ジメチル水銀)となる [5]。ただし、呼気中に排泄された水銀量は算入していないから、実際のジメチル水銀吸収量はこの値より大きい可能性があったと考えられている [5]。 頭髪中水銀濃度は曝露後 17.4日の空白期間後に急増、40日目前後に最大(1,100 ngHg/mg Hair)になり、以後二次関数的に減少し、死亡時には 300 ngHg/mg Hairと低下した。なお、ジメチル水銀曝露が一度だけであったことは、同僚の証言や実験記録により確認されている。曝露後二か月間は吐気、下痢及び腹部不快感が続いたが、メチル水銀に特有の中枢神経症状は、曝露後 154日目になってようやく出現した。この頃、CT及び MRI検査では 1センチメートル程度の髄膜腫(meningioma)の疑いのある初見が認められた以外の異常は認められていない。この髄膜腫は無症状であったと記されている。 曝露後 168日目に succimer(ジメルカプトコハク酸= DMSA)によるキレート療法が行われ、尿中水銀排泄は開始前の 257μg/24hours から 39,800μg/24hours へ激増した。このキレート療法の効果は 1971年の症例 Aに比べると著しく高い。これは DMSAは無機水銀と有機水銀の尿中排泄に有効であり、有機水銀と無機水銀双方の排泄が促進された結果とみてよい [7]。つまり、体内でジメチル水銀が速やかにメチル水銀に分解するだけでなく、メチル水銀の無機水銀(Hg++)への分解も進んでいた可能性が伺える。しかし、尿中水銀の無機水銀と有機水銀の分別定量は行っていないので、メチル水銀自体の動態だけでなく、メチル水銀の分解による無機水銀(Hg++)の生成速度、尿や血液中の無機水銀(Hg++)の動態については判断できない。 曝露後 154日目に発現した中枢神経症状は、その後急速に増強し、昏睡と狂騒を繰り返した後、曝露後 176日目にはあらゆる刺激に対して反応しなくなり、1997年6月8日に死亡した。その経過は Edwardsの報告 [1] や症例 A [4] と酷似している。剖検では大脳と皮質の広範な萎縮(神経細胞の消失と神経膠細胞の増殖)というアルキル水銀中毒特有の所見 [8, 9, 28] が認められ、前頭葉、肝臓及び腎臓に高濃度の水銀蓄積が確認されている。ただし、総水銀濃度として測定されているため [5]、メチル水銀の分解程度は不明である。 2: 頭髪中水銀濃度上昇や中枢神経症状発現までの空白期間 曝露終了後に中枢神経症状が現れるまでに、症例 Aでは約 1か月程度、症例 Bでは 154日という空白期間が認められている [4,5]。症例 Bでは頭髪中水銀濃度は曝露後 17.4日の空白期間の後に上昇し(半減期 5.8日)、21.8日に最大値になり、以後は減少(半減期 74.6日)することが判明した。最大値からの低下における半減期はイラクの事例と略同じであった。 3: (1)他の有機水銀中毒症例における中枢神経症状発現までの空白期間 原因物質がアルキル水銀(メチル水銀)であること、及び曝露終了時期が明記されている四症例 ① - ④について中枢神経症状発現までの空白期間について検討した。①は、妊娠中にメチル水銀で汚染された小麦で飼育したブタ肉を摂取した母親から生まれた子供 4人の追跡調査であり、20年後に求心性視野狭窄が現れたと記されている [10]。つまり、中枢神経症状(求心性視野狭窄)についての空白期間は 20年間となる。②は、メチル水銀を含む種子防黴剤の袋詰めに従事していた作業者の中毒例で、作業開始後 1か月後に四肢末端の感覚障害が現れたと記載されているから、空白期間は約 1か月間となる [11]。③は、メチル水銀が主成分の防黴剤で処理した種子用小麦を誤用した粥状食品(porridge;ポリッジ;お粥の様な離乳食)を生後 9か月から約 1か月間、毎日のように与えられていた子どもの例である。ポリッジ摂食開始約 2か月後(生後約12か月)に体の動きの異常に母親が気づき、受診した [12]。したがって、曝露終了後の空白期間は約 2か月となる。④は、メチル水銀を含む防黴剤の販売と使用指導に従事していた症例で、退職後 3~4週間後に下肢末端の感覚障害が起き [13]、空白期間は 3~4週間とみられる。これらの報告 [10-13] や動物実験結果 [14] から、水銀曝露が停止した後に中枢神経症状が現れるまでの空白期間として数週間から 20年という期間が存在していたといえる。 3: (2)頭髪中水銀濃度上昇における空白期間 ボランティアを対象にしたメチル水銀曝露実験(メチル水銀汚染水域で採取された魚肉を一度だけ摂食)では、血液中水銀濃度が頭髪中水銀濃度と平衡に達するには 4日間必要であった [8, 16-18]。Weiss等の症例 Bに関する報告では頭髪中水銀濃度上昇前の空白期間は 17.4日と記されている [5]。なお、Weiss等は症例 Bについて、症状の経過、検査結果、病理解剖所見等について考察を加えているが、この頭髪中水銀濃度上昇の空白期間に対する考察はない [14]。 III.考察 (1) 頭髪中水銀濃度の上昇における空白期間(症例 B)頭髪中水銀濃度から推定する限り、症例 Bの場合の水銀曝露総量はイラクにおける事例と同程度と推定されている。曝露開始後の頭髪中水銀濃度の急激な増加迄の 17.4日間の空白期間は、血液中水銀が頭髪中水銀と平衡状態が成立するための時間と考えられている [5, 14]。しかし、血液中水銀濃度の曝露直後からの変動の記録がないので、断言できない。 一方、ボランティアを対象にしたメチル水銀投与実験(汚染水域で捕獲された魚類の筋肉部分を一度だけ摂食する)では、摂食後血液中水銀濃度は速やかに上昇、4時間から 14時間の間に最大値に達し、以後は二相性に低下する(半減期 7.6時間と 52日)ことが判明している [16]。この摂食実験におけるメチル水銀曝露量(18-22μgHg/Kg 体重)は、症例 Bの曝露量(最低限度 5 mgHg/Kg 体重)より遙かに低いが、一度だけの短時間曝露という点は同じである。さらに、頭髪中水銀濃度の上昇と減少の半減期は症例 Bより緩やかである。この頭髪中水銀濃度の半減期の相違は、曝露量の違いによる可能性が考えられる。さらに、症例 Bでは曝露量が極端に多く短時間であった事を考えると、血液中水銀濃度と組織中水銀濃度との平衡成立に必要な時間は 4日間より短い可能性が考えられるが、断定はできない。さらに、症例 Bの場合には、血液や組織(毛包)中の水銀の存在様式が、低濃度曝露の場合 [8, 16] とは異なっている可能性があり、症例 Bでは血液中水銀濃度と頭髪中水銀濃度の平衡の成立に 4日以上必要とする可能性が考えられるが、断定はできない。 ところで、症例 Bでは、中枢神経症状が出現して入院した際、1,000μg/Lであった血液中水銀濃度は、曝露後 168日目のキレート剤(DMSA)投与により、4,000μg/Lと急上昇している。DMSAは無機水銀及び有機水銀の尿中排泄を促進するから [7]、尿中に排泄が促進されたのは、有機水銀(ジメチル水銀とメチル水銀)と無機水銀(Hg++)とであったと判断できる。このキレート療法による尿中水銀排泄の増加量は、症例 Aにおけるキレート療法の場合より大きい。しかしこれは、症例 Aではキレート剤として DL-ペニシラミンが用いられた結果といえる。DMSA投与による尿中水銀排泄の増加の程度が症例 Aよりも症例の方が大きいのは当然である。すなわち、症例 Aと症例 Bのキレートによる動員水銀量の多寡から、曝露濃度の高低は即座には推定できない。 ところで、ジメチル水銀はヘモグロビンやシステインの -SH基と結合するだけでなく、脂溶性が高いため曝露を受けると、脂肪組織や脂質(赤血球膜や血漿中脂質)内に長期間留まるといわれている [17]。従って、症例 Bでは血漿中脂質や赤血球膜に一時的に大量のジメチル水銀が保持されたため頭髪中への移行が遅れた可能性が考えられる。しかし、曝露直後からの尿や血液中の水銀濃度の推移の記録がなく、頭髪中水銀濃度との対比ができない。いずれにせよ、症例 Bの場合は曝露量が極端に高く短時間であったため、血液中のジメチル水銀の動態が他の症例 [10-15] とは異なっていた可能性がある。 毛髪を構成する蛋白質は、毛包(hair follicle)内で合成される線維性蛋白質であるケラチンが主成分である。毛包内に入ったメチル水銀は容易にシステインと結合し、ケラチンを主体とする毛髪蛋白質の成分として取り込まれると考えられている。魚介類摂食者において頭髪中メチル水銀として検出可能になるためには少なくとも 1か月間の持続的曝露が必要との報告がある [18]。この報告では、水銀測定方法の詳細が不明であり、この 1か月という期間は、燃焼法、還元気化法や無炎原子吸光法により水銀が定量できる限界を考慮した値、つまりこれらの方法で水銀が定量下限値をこえるまでに頭髪中水銀濃度が上昇するのに必要な期間を意味している可能性がある。症例 Bにおけ 17.4日という空白期間は、Budts-Jorgensen 等 [18] が魚類摂食者の解析から述べている約 1か月の空白期間と略同じではないかと考えらえる。つまり、彼らの報告 [18] は、血液中水銀濃度が上昇し、測定可能な濃度になるまでは、1ヶ月前後の期間が必要である事を示していると判断するのが妥当である。 症例 Bの場合は、毛包における毛髪蛋白質(ケラチン)の合成、つまり毛髪の成長の際には -SH基の平衡状態は維持されている必要がある。したがって、症例 Bのように極めて高濃度の有機水銀が短時間に血液中に取り込まれると、ケラチン合成における -SH基の平衡状態が崩れ、結果として頭髪中水銀濃度の上昇に空白期間が生じた可能性がある。空白期間の長短には、この -SH基の平衡状態(ホメオスタシス)の崩れの度合いが影響している可能性が考えられるが、確証はない。 頭髪内に取り込まれた水銀は、頭髪の毛皮質(cortex)の蛋白質と結合して保持され、頭髪の成長とともに先端へ送られ、毛包側に戻ることはないと考えられている。その結果、頭髪中水銀濃度は、有機水銀曝露の歴史を示していると考えられている[22]。 頭髪に対する処理(薬品によるケラチンの変性、所謂パーマネント、着色、脱色)により頭髪蛋白質と金属のジスルフィド結合が切れ、頭髪中水銀濃度が低下する事が知られている [19-21]。しかし、症例 Bでは、入院後に頭皮直上から採取されている。したがって、この時期は中枢神経症状もあり、頭髪に対しこれらの化学処理を行う余裕はなかったと判断してよい。したがって、頭髪中水銀は血液より取り込まれたままであり、ジメチル水銀やメチル水銀曝露の歴史を示しているといえる。 (2) 中枢神経における Ca++やセレンの平衡の維持とネウロンの機能の維持について 1967年に Parizek等がラットを用いた実験で、塩化第二水銀の毒性が亜セレン酸化合物の投与(sodium selenite=亜セレン酸ナトリウム Na2SeO3 やセレン化メチオニン(selenomethionine)により抑制されることを初めて報告した [23]。以後、セレンが必須元素であることもあり、各種化合物(水銀やカドミウム)の毒性に対するセレンの保護作用が注目され、その保護作用の機序についてメチル水銀の毒性発現との関係から多くの報告がある。セレンの必須元素としての役割の解明が進み、細胞内にはセレンを含む蛋白質は 25種類あり、そのいくつかは細胞の機能維持に必要な酵素活性の補助因子として作用していることが明らかにされている [24-26]。当初、神経細胞に対するメチル水銀の障害の機序としては、神経細胞に入ったメチル水銀が分解を受けて生じる無機水銀(Hg++)が細胞に障害をひき起こすが、その際セレンがこの無機水銀(Hg++)と結合し無毒化され、結果としてメチル水銀の毒性の発現が遅れ、メチル水銀曝露でしばしば見られる症状発現までの空白期間を生じるとの考えが示されている [25]。 その後、メチル水銀とセレンの作用機序については更に詳細な解析が進み、メチル水銀曝露では大脳皮質の神経細胞内に二種類の水銀化合物、すなわち、システインと結合したメチル水銀(後に分解し無機水銀となり細胞に対して毒性を現わす)と、分解により生じた無機水銀(Hg++)がセレンと結合した汞化亜セレン酸(mercuric selenite)の二種類が存在することが明らかにされている [24]。中枢神経組織における神経細胞レベルにおけるセレンの動態につては更に解析が進み、① メチル水銀曝露があると細胞内セレン濃度が上昇する。② 多数のセレン含有蛋白質が存在し、その一部は細胞の機能維持に必要な酵素活性を有する。③ セレンが結合したメチル水銀が更にシステインと結合し重合体を形成し無毒化する等により、セレンはメチル水銀の毒性抑制に関与していると結論している [24]。一方、中枢神経組織へのセレンの供給は、専ら特定の蛋白質に依存することが判明している [24]。このようにメチル水銀が神経組織内に入ると、そこに存在するセレンがメチル水銀や無機水銀(Hg++)と結合することになる。一方、神経組織内には存在するセレンを補助因子とする多くの酵素活性は多く、そのため神経細胞内では無機水銀(Hg++)が結合できるセレンが存在する可能性は低下することになる。その結果、神経組織におけるセレンの平衡性が破綻し、結果としてセレン欠乏状態が生じると考えられている [24]。したがって、症例 Bの場合の様に、短時間内に極めて多量のジメチル水銀の曝露により多量のジメチル水銀が神経組織内に入ると、ジメチル水銀が分解して生じたメチル水銀や、メチル水銀自身の分解により生じた無機水銀(Hg++)により組織内のセレンの平衡状態に変化が生じ、組織内に入ったメチル水銀の分解や無毒化の平衡が破綻し、その結果、症状発現までの空白期間が生じたとの考えが示されている [24]。 ジメチル水銀は -SH基と結合する事によりメチル水銀に分解されるが、その速度は遅く、更にメチル水銀が更に分解され無機水銀(Hg++)となる速度はそれ以上におそいという in vitro での実験結果を根拠に、ジメチル水銀のメチル水銀への分解が遅いことが中枢神経症状発現における空白期間の理由とする見解がある [27]。つまり、神経細胞にとって毒性を示す Hg++ の生成の遅延が空白期間の原因とする考えである。この考えは、中枢神経症状の発現における空白期間の説明にはなり得るが、頭髪中水銀濃度の上昇における空白期間の説明にはならない。 ここまで述べてきた様に、中枢神経症状発現迄の空白期間の成立に神経細胞内のセレンの動態の関与は否定できない。しかし、以下に述べる可能性も無視できない。すなわち、神経組織がメチル水銀の分解により生じた無機水銀(Hg++)の作用により障害を受けても、組織全体の機能が即座に障害されるわけではない。障害を受けた部分の機能は残存する健常組織による代償が破綻するまでは、見かけ上、機能障害は起きないことはよく知られている。したがって、曝露を受けた後、何時中枢神経障害が現れるかは、神経細胞内のセレンの均衡状態の変化だけでなく、健常組織による代償の動態をも併せて考えて行かねばならない。したがって、中枢神経の機能障害、つまり中枢神経症状が現れるまでの時間は、中枢神経組織内のセレンの平衡状態により左右されている可能性がある。しかし、メチル水銀曝露の場合、中枢神経組織内のセレン濃度についての報告は見当たらない。 ところで、症例 Bの中枢神経症状発現迄の空白期間は、既に報告されている「水俣病」[28] や他のメチル水銀中毒における中枢神経症状発現迄の空白期間 [10-13] を検討してみると 154日は異常な長期間とはいえない。すなわち、症例 Bでは、健常組織による代償される程度が高い中枢神経症状を指標にして症状の出現時期を見ていたため、症状出現までに 154日という期間が得られた。つまり、代償の程度によっては、障害が現れる迄の空白期間が長くなるといえる。神経細胞の変性による疾患(パーキンソン病 [29]、筋萎縮性側索硬化症・ALS [30])では、当該機能を担っている神経細胞の大半が変性した後に、症状が現れることが知られている。 メチル水銀曝露においては、曝露条件(短時間高濃度か長時間低濃度か)を考慮しなければならない。つまり、曝露終了とその後の中枢神経症状の出現の間の空白期間は、症例 B [5] 以外 [10-13] にも認められている。しかし、症例 Bの詳細な解析 [14] においても論じられているように、これらの症例 [5, 10-13] における空白期間の相違を論じる場合には、曝露条件の違いや、健常組織による代償の程度等を考慮する必要がある。 さらに、これらの考察は、専らネウロンに対するメチル水銀の作用に重点が置かれている。中枢神経組織の機能は、ネウロンだけでなく、シナプスや膠細胞(樹状細胞)等が適切に機能することにより成立すると考えるべきであると指摘されている [43-45]。つまり、ネウロンだけでなくシナプスや神経膠細胞等の機能の障害により、中枢神経症状が出現すると考えるのが妥当である。 (3) 症例 Bの 150日余の空白期間に対する Nierenberg等や Weiss等の考察について 中枢神経症状発現までの 150日余の空白期間について、Weiss等は四つの可能性を挙げている。 第一の可能性は、「症例 Bは短時間高濃度曝露であり、低濃度曝露とは異なっているから、通常の量反応関係とは異なる」との考えである。つまり、「曝露濃度が高ければ高いほど、損傷は速やかに現れる」という一般的な量反応関係の原則から外れた結果であるとの判断である。ただし、この量反応関係から外れる原因についての考察はない。しかし、症例 Bのように、短時間高濃度曝露の場合には体内に吸収された水銀の存在様式が、長期低濃度曝露の場合とは異なっている可能性があり、中枢神経系に対する影響の発現が遅れる可能性がある。しかし、Nierenberg等の報告では曝露直後から中枢神経症状発現迄の血液や尿中の水銀濃度の経時的測定が示されていないので [5]、結論できない。 第二の可能性は、メチル水銀により障害を受けた部分に対する残存健常部分による代償機能の多様性である。中枢神経系(大脳や小脳の皮質)の神経細胞の水銀による損傷は程度・部位共に多様であり、一定の症状がいきなり現れるわけではない。メチル水銀による食中毒である「水俣病」の剖検所見では、大脳・小脳ともに皮質の損傷が主であり、髄質や核の障害は軽く、特に核の異常は認められない場合が多いことが判明している [28]。 神経細胞の水銀に対する感受性は神経細胞の大脳や小脳皮質の部位により異なるだけでなく、損傷を受けていない神経細胞による代償が十分機能すると、見かけ上は症状が現れない。しかし、曝露により神経細胞が損傷される範囲や程度が進展し、すなわち神経細胞の損傷が進展してくると健常な神経細胞による代償が破綻し、結果として中枢神経症状が現れる。この場合、代償が十分に行われている間は、見かけ上無症状となり、この期間が空白期間となる。代償が破綻すると障害を受けていた部分の機能が欠落し、それに応じて中枢神経症状が現れるという可能性である。 大脳皮質に局在している多くの機能中枢は多数の神経細胞で構成され、それぞれの神経細胞ごとに機能が異なっているだけでなく、メチル水銀に対する感受性も異なっている可能性が否定できない。すなわち、メチル水銀の曝露を受けても、全ての神経細胞が一様に障害を受けるのではなく、機能障害の内容も一様ではないと考えるのが妥当である。その結果、健常組織による機能障害の代償の動態は一様ではなく、代償可能期間は一様でないのは当然である。すなわち、症例 Bの 154日という空白期間は特に異常ではないとみることも可能である。中枢神経系に代償機能に影響を与えるような病変は無かったと推定できる。 症例 Bでは、体内に入った水銀(ジメチル水銀、メチル水銀、無機水銀)はキレート剤の投与や交換輸血、及び尿中排泄により継続的に減少しているから、水銀の体負荷量は時間の経過とともに減少している。中枢神経症状が現れた頃には、水銀の体負荷量が曝露直後より減少しているとみなければならない。その結果、体負荷量が減少すると中枢神経症状が現れるという現象になる。一見、水銀量が減少してくると中枢神経症状が現れるという結果になり、所謂一般的な「量反応関係が成立しない」という状態になる。しかし、次項で論じるように、中枢神経症状の発現という現象と対比させられるべきは「中枢神経細胞の障害の程度と、その障害に対する健常組織による補完の程度」であり、そうすれば一般的量反応関係は成立する。 第三の可能性は、イラクに於けるメチル水銀中毒の解析 [15] で明らかになった「血中水銀濃度が高ければ、症状発現までの空白期間が延びる傾向がある」という結果である。感覚障害(paresthesia)は、メチル水銀中毒で最も早い時期に出現する症状であることはよく知られている [9, 15]。Weiss等の報告 [15] を一見すると、各種症状の出現時期を左右しているのは水銀の体内残留量のように見受けられるが、そうみるべきではない。メチル水銀汚染小麦の摂食は停止しているから、体内に残留しているメチル水銀量は尿や頭髪等への排泄により低下が続いている。症状の出現に実際に影響しているのは中枢神経機能の調節の複雑の度合いであり、複雑の度合いが高い者ほど神経細胞の障害を受け易いといえる。つまり、触覚(深部感覚、温覚、痛覚)の正常な維持には機能が分化した多くの神経細胞が関与しているから先ず影響を受けると考えるべきである。中枢神経系の機能の障害、つまり感覚障害は神経細胞の障害が初期の内から現れると考えられる。つまり、文献 [15] の図 4の横軸は、図中に表示されている症状が起きるまでの空白期間を示しているとも言える。 すなわち、症例 Bでは、健常組織により代償される程度が高い中枢神経症状を指標にして症状の出現時期をみていたため、症状出現までに 150日余という期間が得られた。つまり、代償が作用しやすい生理機能ほど、障害が現れるまでの空白期間が長くなるといえる。神経細胞の変性による疾患 [29, 30] では当該機能を担っている神経細胞の大半が変性した後に症状が現れるという報告があり、この考えを裏付けている。 ところで、メチル水銀曝露を受けるとメチル水銀の毒性に対抗する物質の合成が誘導され、その結果としてメチル水銀の毒性発現が遅れるという考えがある [31]。しかし、Weiss等はこのメチル水銀の毒性に対抗する物質の合成の誘導を認めてはいるが、150日余という長期間持続する可能性は低く、中枢神経症状発現の空白期間の説明にはならないと述べている [14, 32]。 既に述べた通り、これまでのメチル水銀の長期低濃度曝露の症例においても、曝露終了から症状発現までの空白期間の存在が示されている [10-14]。つまり、症例 Bで認められた中枢神経症状出現迄の 150日余の空白期間(無症状)の存在は、他にも類例があり、決して奇異な現象ではないとの考えである。更に、動物実験ではメチル水銀中毒症状(中枢神経症状)が出現するまでの空白期間の長さと血液中水銀濃度との間の負の相関の存在が示されている [14]。この場合、有機水銀曝露後の時間が短い場合、神経細胞の障害は低く、まず神経細胞の機能のうちで最も影響を受けやすい機能がまず障害され、感覚障害がまず現れる。すなわち、ここまで取り上げた空白期間の存在 [5, 10-15] は従来多用されてきた古典的量反応関係で説明できる。今回対象とした症例 [4, 5] では曝露は継続していないので、水銀の体負荷量は減少傾向にある。しかし、中枢神経には有機水銀や無機水銀が残留しているから、神経細胞に対する障害は進展し、時間の経過と共に感覚障害以外の中枢神経症状が出現してくる。すなわち、時間の経過と中枢神経症状の重症度との間には正の相関関係が成立してくる。 第四の可能性は、近年明らかになってきたこの古典的量反応関係(曝露量が増えれば反応も増大)では律しきれない化学反応の存在である。その一例として、マウスを用いた行動解析実験において、酢酸鉛の投与の場合、高濃度投与群よりも低濃度群の方が影響が強く出ると報じられている [33]。 さらに、古典的量反応関係ではなく、生物化学分野では U字型量反応関係(U-shaped dose-response function または、non-monotonic dose-response relationship)で律せられる量反応関係関係が存在することが指摘されている [34-36]。Weiss等 [15] は、症状発現までの空白期間についてはこの面からの検討の必要性を指摘している。 この空白期間の成因の一つに、水銀と相互作用のある物質(必須元素であるセレン)の摂取状況の把握が必要との指摘があるが [37]、症例 Bでは、そのような物質の影響については検討されていない [5, 14]。 以上四通りの可能性には、それぞれ根拠があるが、いずれもメチル水銀の影響をネウロンに限定し、シナプスや膠細胞(星状細胞)はほとんど考慮されていない。Farina等が指摘するように、メチル水銀はシナプス、星状細胞(神経膠細胞)等で構成される中枢神経組織において、細胞内外のグルタミン酸や Ca++の平衡状態に影響を与え、ネウロンの機能障害や死に到る可能性を考えなければならない [42]。 Nierenberg等 [5]や Weiss等の判断 [14] の最大の問題点は、曝露直後からの尿や血液中の水銀濃度の推移が記録されていないことである。したがって、血液中の水銀濃度と尿や頭髪中の水銀濃度の対比ができない点である。したがって、Weiss等自身も、現時点では空白期間の成因については、ここに挙げた四つの可能性の何れかによるかは断定できないと述べている [14]。 (4) 有機水銀の毒性発現では空白期間の存在が普遍的であるという可能性 これらの判断に対して、Pletz等は、有機水銀では曝露開始と中枢神経症状発現との間に空白の時間が存在するのは一般的であり、曝露濃度と空白期間の間に(曝露濃度)×(空白期間)=定数という関係が成立すると提唱した [38]。この考えは、1960年代に発癌性物質の評価に用いられた Druckrey-Kuepfmueller のモデルが、有機水銀曝露による中枢神経症状の発現における量・反応関係に適用できるという考えに基づいている [39]。この考えは発癌物質による発癌実験の解析に適用され、発癌に必要な期間、言い換えれば「癌が発生するまでの空白期間」は、発癌物質がどの受容体と不可逆の結合をするかにより、左右されるとの考えである。有機水銀(メチル水銀)は神経細胞内で無機水銀(Hg++)になり、それが毒性を示すと理解されている [8, 16, 27]。神経細胞内のどの部分に Hg++が作用するか、またどの神経細胞が障害を受けるかは、曝露開始の時点では知る由もない。したがって、神経細胞の障害の程度やその代償についても、事前に知ることはできない。いずれも中枢神経症状が出てから初めて推定できる。したがって、症状が出るまでの空白期間の長短は事前に推定できない。また、症例によりこの空白期間が異なるのは当然といえる。 ところで、Weiss等 [14] は例を挙げて [40-42] 空白期間の長さは曝露量(血中濃度)との間で量・反応関係が成立するが、通常とは異なり、空白期間の長さは曝露量(血中濃度)の増加に対応し短くなる場合があり、Druckery-Knuepfmuellr の式が適用できることを示し、その原因は加齢による神経細胞の死(曝露された物質とは無関係)であると判断している。すなわち、通常の量・反応関係が当てはまらない様に見える反応であっても、曝露された物質の毒性とは無関係である神経細胞の加齢による死による影響を除けば、通常の量・反応関係が成立するという見解である。 すなわち、症例 A(1971年)と 症例 B(1996年)とでは曝露様式や曝露濃度が異なっているため、ジメチル水銀曝露により障害を受けた部位(組織レベル、細胞レベル)が異なり、中枢神経症状の発現に違いが現れたと考えるのが妥当であろう。すなわち、曝露後中枢神経症状が発現するまでに空白期間があるのは一般的であるという見解 [18] は受けいれられると考える。 しかし、これまで述べてきた中枢神経症状発現における空白期間に対する考えでは、頭髪中水銀濃度の上昇における空白期間の存在は説明できない。 (5) 中枢神経系を構成する神経細胞(ネウロン)、その軸索間のシナプス、及び神経膠 細胞(グリア)に対するメチル水銀の影響(Ca++やグルタミン酸に関する平衡性の破壊)がメチル水銀毒性の基本であるという可能性 これまでの考察である(1)から(4)は、いずれも専らメチル水銀が神経細胞(ネウロン)内に入った場合の影響について論じている。しかし、中枢神経(脳)は、神経細胞とそこから出ている軸索と、他の神経細胞の軸索とのシナプス、及び膠細胞(グリア)等の四要素で構成されていることを考えなければならない.。メチル水銀曝露の場合、メチル水銀がこれら要素に与える影響影響に関する知見をまとめると、メチル水銀の中枢神経毒性は、組織内のカルシウムやグルタミン酸の均衡の破綻 [42-45] や、酸化還元の乱れ(活性酸素 reactive oxygen species)の処理や -SH基の平衡性の破綻 [44] 等にまとめられると考えられている [42]。すなわち、メチル水銀曝露によりネウロンや膠細胞周囲のグルタミン酸は増加するが、星状細胞やネウロンやシナプス小胞体等へのグルタミン酸の取り込みは抑えられ、細胞外にグルタミン酸が増加すると、細胞膜にあるグルタミン酸受容体が過度に働き、細胞内への Naや Ca++の取り込みが過剰となりミトコンドリア膜の機能障害につながり、細胞が死にいたるという考えである [46, 47]。また、これらの平衡性(ホメオスタシス)の破綻が、神経細胞の軸索自体にも何らかの影響を与え得ると考えるのは行き過ぎではない。メチル水銀と分解で生成された無機水銀(Hg++)は容易に -SH基と結合し、活性酸素の処理に -SH基が消費されるため、-SH基の平衡性が破綻すると考えられている [47-49]。 ネウロンが機能するためにはネウロン内だけでなく、細胞(ネウロン)の他にシナプス、更には膠細胞(星状細胞)からなる環境中の平衡性(Ca++やグルタミン酸、過酸化物の処理)の維持が必須である。中枢神経の働き、つまりシナプスを介してのネウロン間の信号の伝達は、ネウロンやシナプスだけが関与するのではなく、星状細胞(グリア)も関与し、上述の様に複数の項目についての平衡性(ホメオスタシス)が維持されていることが必要といえる。したがって、症例 Aや Bの場合のように極めて高い濃度のメチル水銀が短時間に吸収された場合と、低濃度長期曝露の場合とではこれらの恒常性の乱れの様子が異なってくるのは当然と考えられる。したがって、曝露後に中枢神経症状が現れるまでの空白期間は、曝露の様子により異なって来るのは当然といえる。したがって、多くのメチル水銀曝露の症例 [1, 2, 4, 5, 11-16, 18] において、この空白期間の長さが異なるのは当然と考えられる。 頭髪中水銀濃度の上昇における 17.4日の空白期間の成因としては、血液中のメチル水銀濃度が高濃度になり、毛根部におけるケラチン合成系で- SH基の均衡性が崩れた結果と考えることができるが、確証はない。 IV.まとめ 有機水銀化合物による曝露開始後の中枢神経症状発現迄の空白期間の機序については複数の可能性が挙げられてきた。しかし、その多くがネウロンに対するメチル水銀の作用について考慮し、軸索のシナプスや樹状細胞(神経膠細胞)等に対する影響は殆ど考慮されていない。症例 Bの解析の報告 [5, 14] も同じである。しかし、近年、亜セレン酸化合物の無機水銀(Hg++)の毒性に対する亜セレン酸化合物の解析の解析が進み、その結果としてメチル水銀の作用は神経細胞(ネウロン)だけに対して示されるのではなく、シナプスや星状細胞(神経膠細胞)に対しても示されることが明らかになってきた。すなわち、中枢神経の機能は、ネウロンとそこから出ている軸索、神経膠細胞(星状細胞)、及びシナプスにより維持されていると考えなければならない [50]。すなわち、メチル水銀(ジメチル水銀)の曝露を受けた場合の神経組織に対する影響は、メチル水銀の分布(血液や中枢神経系)だけでなく、中枢神経組織内の Ca++やグルタミン酸に関する平衡性が影響を受けていることを併せて考える必要がある。ネウロンや星状細胞内の Ca++の平衡性の破綻は、それぞれの細胞内のミトコンドリア膜の障害を引き起こし、最終的には細胞の死につながると言われている [42]。すなわち、メチル水銀の曝露により神経系を構成する細胞(ネウロン、グリア、シナプス)の内外で、Ca++、-SH及びグルタミン酸の平衡が崩れ、細胞膜や細胞内最小器官(ミトコンドリア)が障害を受け、これらの細胞の機能が障害され、その結果、中枢神経の機能に障害(異常)が現れると考えてみてはどうだろうか? ところで、今回参考にした文献 [5] を初めとする多くの報告では、試料中水銀濃度について無機水銀と有機水銀の分別定量は行わず、総水銀として測定している。しかし、同一人の長期間繰り返し観察において、低濃度の金属水銀蒸気曝露開始後 4か月目には血漿や赤血球中の有機水銀濃度と血漿中無機水銀濃度が上昇することが判明している [51, 52, 55]。金属水銀蒸気曝露で人体内の有機水銀の分布や均衡に変化が生じている可能性が示されている [6, 51-55]。したがって、メチル水銀曝露の場合でも、体内の有機水銀と無機水銀の均衡に変化が生じる可能性を考えておく必要がある。従来、多くの報告はメチル水銀の影響をネウロンに限定して論じているが、近年メチル水銀の影響はネウロンだけでなく、シナプスや星状細胞に対しても示されることが判明している。すなわち、メチル水銀曝露により、中枢神経組織中の無機水銀と有機水銀の均衡に変化が生じ、Ca++やグルタミン酸に関する均衡性や過酸化酸素等の処理、更には -SH基等の恒常性が変化し、それがシナプスとネウロンによる信号伝達に影響を与え、結果として中枢神経の活動に異常が生じる可能性を考えなければならない。したがって、試料(血液、尿、剖検試料)中の水銀濃度の無機水銀(Hg++)と有機水銀との分別定量は、無機水銀や有機水銀の毒性解明において重要と考える。 研究費の供与 謝辞 参照文献
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