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大仏の金鍍金の進め方の違いと水銀曝露濃度:鋳造面の修正・磨き上げと鍍金に
費やしたのは5年間、それとも、6年間?


Differences of process and extent of exposure to mercury in the gilding of the Great Buddha:
Was the time of 5 or 6 years spent for the correction and polishing and the application of the gilding?


石原 信夫 Nobuo Ishihara, M.D., Ph.D. (公財)神奈川県予防医学協会

要約

 奈良の大仏と蓮華座への金鍍金に関して、鋳造品の表面処理と研磨及び金鍍金に 6年間(又は 5年間)費やしたとか、鍍金の完了に 5年間費やした等の見解があり、明確ではない。前回の報告では、アマルガム塗布と鋳造面の修正と磨き上げが同時に実施されたと仮定し、鋳造面の修正と磨き上げの詳細には触れなかった。しかし、その後、複数の史料について検討した結果、西暦 742年~749年に大仏と蓮華座の鋳造が略完了。鋳造部分の修正や磨き上げが 749年に始まり、752年に略完了。752年から 757年にアマルガム塗布が行われていたことが判明した。鋳造にはかなり問題があったようで、修正と追加鋳造が 755年まで行われていた。すなわち、鋳造物の修正、磨き上げ等に 749年から 755年まで費やさねばならなかった。すなわち、大仏と蓮華座の表面アマルガム塗布は 5年間かけて行われていた。帰化人の指導を受けていたとはいえ、大仏や蓮華座のような大型の青銅製品の鋳造の経験がなかった日本の技術から見れば、修正と追加鋳造が多かったのはやむを得ないことであった。アマルガムの塗布は、補修や修正を要する部分が多数あり、鋳造品の表面の大半の処理が終了した時点で、完了部分からアマルガム塗布が開始されていたと考えられる。中国や朝鮮から仏教関係者を開眼供養に招待していたため開眼供養が既に 752年4月と決定されていたこともあり、鍍金作業だけでなく全ての作業が急ぎ立てられていたと考えられる。大仏と蓮華座の表面積 1,157m2に対するアマルガム塗布作業者の曝露濃度の推定は既報の通りである。一年あたりの鍍金作業面積は 231.4m2(= 1,157 m2/5)となる。完了を待たずに開眼供養が行われたことから鍍金作業は急がされていたと判断、鍍金すべき面積は、一日あたり 0.634m2(= 231.4m2/365)となる。多くの報告にある「仕上げと鍍金に 5年間費やした」という表現の意味は「専ら鍍金に 5年間費やした」という意味であり、鋳造品の表面処理、補正、磨き上げ等の「仕上げ」といえる作業は含まれていなかったと判断すべきである。

Abstract

   This work relates to details of the gilding of the Great Buddha in Nara (Japan) with metallic mercury. Assuming that the correction, polishing, and gilding of the castings were performed in several steps, the exposure of the amalgam workers was previously reported to be 4.0 mgHg/m3. The earlier report did not clearly state the sequence of correction and smoothing of the casting and the start of gilding. It was confirmed that the gilding work was not started until the correction and smoothing work was completed, and that five years were required to complete the gilding work. The exposure level for the gilders was confirmed to be 4.00 mgHg/m3.

Keywords: metallic mercury, gilding, exposure level, the Great Buddha in Nara

I.はじめに

 金属水銀は常温で液体の金属であり、金や銀との合金が容易に作成できる等の性質から、古くから広く利用されてきた。しかし、その毒性が解明されるにつれて,他の物質による代替えや利用設備の自動化等の技術革新により、産業現場や日常生活において金属水銀の曝露をうける機会は稀になってきた。しかし、金属水銀の物理化学的性質を完全に他の物質で置き換えることは極めて困難であり、金属水銀は現在でも依然として重要な資材である。さらに、二十世紀になるとこの金属水銀の物理化学的性質から発展途上国における収入増加の重要な手段の一つとして、金属水銀を使用する小規模家内工業的金採掘が盛んになり、金属水銀の使用が増加した。さらに、先進国における集積回路の利用が拡大し、金の需要が増加する一方で、財産保全以外にも金の需要が拡大し、発展途上国における金属水銀を利用した金採掘に拍車がかけられているのが現状である。発展途上国における採掘現場では金属水銀の毒性に対する配慮は皆無に近く、採掘従事者だけではなく、家族や金製品の流通過程(仲買人やいわゆる「gold shopの関係者」)にまで金属水銀による汚染が拡大している [1-3]。すなわち、先進工業国では稀な事象になっている金属水銀使用による健康影響が、発展途上国では現実の問題になっている。
 金アマルガムを用いた奈良の大仏への金鍍金は八世紀の事例であるが、その実態を解明することにより金属水銀の大規模な使用においてどの様な影響が生じたかを知ることが可能になり、現在の金属水銀使用における問題点への関心を深めることができる。つまり、「温故知新」(ドイツ語では、Wissen um die Vergangenheit schaerft das Bewusstsein fuer die Geganwarrt)となる。したがって、二十一世紀の現在において、今なお八世紀の事例の解析を続ける意味がある。
 八世紀に行われた奈良の大仏建設は当時の日本の国家的大事業であったが、経験したことのない巨大な仏像の鋳造や、その全身の金鍍金が必須であり、渡来人の指導を仰がなければならなかった。現在の姿からは想像できないが、完成直後の大仏と蓮華座には全面に金鍍金が施されていた。現在この鋳造物の表面処理と金鍍金の完了には 5年間を費やしたことは通説になっているが、詳細は伝えられていない。前回の報告では、鋳造体の表面処理とアマルガム塗布を同時に行い、その完了に 5年間費やしたと考え、鍍金作業における水銀蒸気の曝露濃度を試算した [4,5]。つまり、鋳造面の修正や磨き上げ作業の詳細については触れなかった。アマルガム使用による大仏本体や蓮華座の金鍍金ではかなり重症の水銀蒸気中毒が発生していたことがよく知られている [4,5]。鍍金は 752年に開始され、757年に完了したとされているが [6]、鋳造面の修正や鍍金作業の進め方の詳細については、現在の大仏本体、蓮華座及び大仏殿は度重なる戦乱や天災をうけ、後年再建されたもので、落成直後とは異なっていることは広く知られている。特に 1180年の平重衡の襲撃の結果、大仏殿は全焼、大仏本体は分離散乱状態になり、後年再建された [7, 8]。再建された姿(= 現在の姿)は創建時の姿には忠実とはいえず、創建当時の大仏や大仏殿の復元が複数回試みられ、複数の復元値が提示されているが、現在では大石等の報告 [9] による復元が最も妥当であろうと考えられている(表 1)。表 1 からも明らかなように、創建時の大仏は現在より高さが高く、面長であったといえる。
 大石等の報告 [9] によれば、鍍金の対象となった大仏本体と蓮華座の表面積は 1,153m2である。鍍金作業の進捗状況は毎年同じと仮定すると、鍍金作業の年間作業面積は 230.6m2(=1,153m2/5)となり、鍍金作業の終了を待たずに開眼法要が強行されたことを考慮して鍍金作業だけでなく大仏建設自体が急がされていたと判断し、鍍金作業を含む殆どの作業が休日なしで行われたと仮定した。その結果、一日あたりの作業面積は 0.632m2(=230.6m2/365)となる。したがって、鍍金作業はこの狭い範囲の鋳造面の補修と研磨をしながらアマルガムを塗布していく作業であったと仮定し、作業者の曝露濃度の推定を行ったのが前報である [4, 5]。
 最近、奈良の大仏への金鍍金に関する史料を改めて検討した結果、鋳造は 747年に開始されて 749年に終了、螺髪の鋳造に 749年から 751年までを要している [6]。この時点(751年)で鋳造面の修正・補修や磨き上げが終了したと判断され、752年に鍍金が開始され、757年ま完了していたことが判明した。このアマルガム塗布の間にも鋳造や鋳造面の修正が 755年まで続けられていた [6]。すなわち、旧報 [4,5] で述べたように、鋳造物の修正と磨き上げという鍍金のための前処理は、アマルガム塗布と同時に行えるような簡単な作業ではなかったと思われる。大仏殿内では鍍金作業と鋳造面の修正、鋳造の追加、大仏殿自体の多くの工事等が同時に行われていて、作業現場は騒然とした状態であり、作業の全体的管理は困難な状態であったと考えられる。つまり、アマルガム塗布が行われる傍ら、鋳造面の仕上げや補修が行われていたことになり、アマルガム塗布作業者以外にも金属水銀曝露が起きていた可能性があるが、記録は見当たらない。したがって、今回は表面処理が済んでいる状態でアマルガム塗布が行われ、完成に 5年かかったという条件で、アマルガム塗布における水銀蒸気曝露濃度の推定を行った結果を報告する。創建当時の大仏と蓮華座の姿は、度重なる火災などの破損の修復の結果、現在の姿とは異なっていることはよく知られている [6,9]。したがって、アマルガム塗布による影響を論じる場合には、創建当時の姿を復元しなければならない。複数の復元結果があるが、現在は表 1 に示す大石等の報告 [9] が最も妥当と考えられている。
 ところで、十六世紀以前の日本では専ら砂金が使用され、金製品の作成は砂金の溶解によっていた [10]。大仏建設が国家的事業として決定された時点で、鍍金に必要な量の金の供給が危惧されていたが、749年に陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯)で多量の砂金が発見され、鍍金に必要な金の供給が可能になった。採取された砂金は都に運ばれ一元的に管理され、756年には造東大寺司が大仏鍍金料として砂金を請い、下賜を願い出たという記録がある [11]。したがって、砂金を扱える作業者は誰でもよいという訳にはいかず、限られた技能集団構成員しか扱えなかった可能性がある。さらに、地方から送られてきた砂金の数量はきちんと管理されていて、大仏の鍍金のためであっても、所定の手続きが要求されていたことが示唆される。したがって、アマルガム塗布においても、アマルガム自体も管理されていた可能性を考えなければならない [11, 12]。アマルガムの性状はペースト状であり、塗料の様に刷毛で塗布せず、ヘラ(恐らく金属製)を用いて鋳造品の表面に塗りこむように塗布していた [6]。したがって、アマルガム塗布の作業様態の詳細は不明であるが、アマルガムがこぼれたり飛沫となって飛び散るような鍍金作業ではなかったと考えられる。

II.方法

 既報 [4,5] では、鍍金作業における曝露濃度の推定では鍍金作業終了時に塗布面に残存していたと推定される金属水銀量と塗布した金属水銀量との差を求め、その差に相当する金属水銀が鍍金作業中に作業者の呼吸帯内で気化したと考えたが、今回もこの考えに従った。気化した金属水銀の 50%が作業者に吸収されると仮定、鍍金作業者の作業強度(= 作業者の呼吸量)、アマルガムを乾燥させる目的の加温条件、作業時間や休日等は既報 [4,5] と同じである。

III.結果と考察

1) アマルガム塗布(鍍金作業)に従事する作業者数と塗布作業の進め方
 アマルガム調製に必要な砂金は政府の管理下に置かれ、大仏と蓮華座への金鍍金においても、造東大寺司が大仏鍍金料として砂金を請い、下賜されたという記録が残っている [11]。さらに、当時は砂金が通貨のように使用されていたこともあり [12]、金(砂金)の使用は、他の資材と同様ではなく、厳しく管理されていたと考えられる。さらに、水銀(= 辰砂)の産地で、水銀を扱う人が特別視されていたことを顧慮すると [13]、金アマルガムを取り扱う作業者は限られた人達であったことが示唆される。さらに、一日あたりの鍍金すべき面積が 0.632m2であることを考慮し、作業者数は多くても 20人と仮定した。既報 [5]でも述べたように、一日あたりの作業面積を考慮すると、アマルガム塗布作業は精密画を描くような緻密な作業であったと考えている。なお、後述するが、アマルガム作業者に水銀蒸気による中毒が起きたことは確実であるが、欠員は速やかに補充されていたと考えられる。作業の進め方としては、アマルガム塗布を行うべき部分を幾つかに分け、それぞれに作業者を配置し、全体として一日あたり 0.632m2を塗布するようにしていたと考えられる。
 作業者数について考察するまえに、塗布に用いられたアマルガム(= 金アマルガム)について、繰り返しになるが、考えておく必要がある。金属水銀に金を混ぜたものがアマルガムであり、金としては主として砂金が用いられたと考えられている。水銀と金の混合比(= 重量)については種々提唱されているが、大仏建立時代の混合比としては堀部の考察 [14]と、後世の荒木の実験 [15] 等から、仕上がりからみて重量比で水銀 5に対し金 1(重量が最適でペースト状であり、アマルガムによる金鍍金に一般的に使用されていた)と確認されている。塗布というと刷毛の使用が考えられるが、この混合比のアマルガムの性状はペースト状であることが判明している [6]。したがって、アマルガム塗布といっても、大仏や蓮華座の鍍金では表面処理が終わった大仏や蓮華座の鋳造面にヘラ(恐らく金属製)を用い、ペースト状のアマルガムをすりこむようにしながら塗布していたと考えられている [6]。したがって、鍍金作業箇所では、通常の塗料を用いた塗装作業の様に、アマルガムが点々とこぼれていたという光景はなかったと考えられる。
 五年間で大仏と蓮華座のアマルガム塗布を完了させるためには、くり返し述べたように、一日あたり 0.632m2の面積の塗布を完了しなければならない。作業者数を 20人と仮定しているから、一人あたり 0.032m2というごく狭い範囲の面積に対し、それこそ精密画を描くようにしながら、アマルガムを鋳造物の表面にすりこむように塗布し続けるという作業であったことになる。ただし、いずれにせよ、アマルガム塗布は塗布する面と極めて近い位置に作業者の顔面がある作業であり、作業中はアマルガム中の金属水銀から発生した金属水銀蒸気の曝露を受け続ける状態となり、金属水銀蒸気による中毒の発生は不可避であった。
 ところで、川本 [16] は、757年の『造東大寺司告朔解』にある東大寺司が把握していた工人の職名と給与を列挙している。それによると、工人達の仕事の内容はかなり専門化され、造東大寺司の下には、多くの工人がそれぞれの職務に応じて造営に携わっていたと考えられる。ここに分類して挙げられている工人たちが、奈良大仏(盧遮那仏)の工事に該当すると考えられた時期があるが現在では否定され、東大寺ではない寺院の造営を担当していたと考えられている [16]。それぞれの工人がどの様な仕事をしていたかは詳らかでないが、金工と分類されている工人に熨金工という呼称の工人が記録されているが、作業の内容は記されていない。ただし、アマルガム塗布作業では金属などのヘラを用い、ペースト状のアマルガムを鋳造面にすり込むように塗りつける仕事と思われ、「熨」という漢字の「ぬりつける、おしこむ」という意味を考慮すると、この熨金工がアマルガム塗布作業者に該当した可能性があるが、詳細は不明である。すなわち、大仏と蓮華座へのアマルガム塗布作業は、雲霞の如く多数の工人が集まって行っていたのではなく、少数の工人が精密画を描くようにアマルガムを塗布していたと考えられる。なお、熨金工の給与は 34~35文で、打金薄工や銅工の火作工(恐らく粗銅の溶解に従事していた工人)等の給与の 50文より低く設定されているが、当時の一文がどの程度の購買力であったかは不明である。
 この「熨」という漢字の意味「加熱してひろくのばす」から、「熨金工」の仕事は先ず鋳造面に金属水銀を塗布し、その上に金箔を置くという金鍍金法が用いられていた可能性が考えられる。しかし、大仏と同時代の金鍍金仏像(銅製)の鍍金層の分析 [17] や、奈良東大寺大仏本体由来の金小片の分析 [18] から、それぞれの鍍金層中には金属水銀が包埋された状態での存在が確認されている。金鍍金層内にこのような状態で金属水銀が確認されたことは、この金鍍金層がアマルガム塗布により形成されたことを示し、金属水銀の上に金箔を置くという鍍金法による鍍金は行われていなかったと判断されている [17]。したがって、大仏や蓮華座の金鍍金は手作業によりヘラを用いてアマルガムを塗布する方法で行われたと判断できる。
 ところで、大仏殿内には、大仏と蓮華座の鍍金以外にも大規模な水銀蒸気の発生源があったことを考慮しなければならない。大仏には「光背」という大きな鋳造物が設置され、アマルガムによる金鍍金が施されていたが、その詳細は不明である。この光背は開眼法要の時点では完成していなかった [20]。いつ頃から建設が始められたかは意外なことに定かでなく、正倉院文書には 762年から 764年には建設が進行中との記録があり、771年にはようやく完成したとの記録がある。しかし大仏本体は完成したものの、作成中の光背が建設中の大仏殿の天井につかえるとの問題が発生、建設途中の大仏殿に改造工事の必要が生じている [20]。このように建設だけでなく、記録にも混乱が生じた原因として、752年4月の開眼供養実施という既定方針のため、多くの仕事が馬車うま的に急がされた結果、各方面で混乱が生じていた可能性がある [20]。
 いずれにせよ、大仏や蓮華座へのアマルガム塗布が最盛期の頃の大仏殿内は、アマルガム塗布作業だけでなく、光背の制作と設置、設置、鋳造物の補修、大仏殿内部の改造等で騒然とした状態であったと推定される。したがって、水銀蒸気曝露はアマルガム塗布作業者だけでなく、他の作業者にとっても無視できなかったと思われるが、詳細は記録されていない。
 なお、現在はペースト状の金アマルガムの塗布による金鍍金は殆ど行われていないが、鍍金対象金属の表面に金属水銀を塗布し、その上に金箔をおくという方法は仏具の補修等に用いられている。さらに、金のシアン化合物を利用した無電解金めっき浴による金鍍金は、各種基盤や集積回路の製造に不可欠な手段となっている [21]。
 ところで 1965年に大仏や蓮華座への金鍍金は銷滅金法により行われたとの見解がある [7]。この方法は、重量比で金 2に対し水銀 1を混合したアマルガムを使用し、塗布後は高温で加熱し(点火した木炭で炙り)、水銀を蒸発させる方法であったと記している [7]。恐らく金と水銀の混合比が 2対 1との記述を参考にしたと考えられる。しかし、後世のアマルガムの性状に関する実験ではこの混合比のアマルガムは金鍍金には不適当であることが判明しているだけでなく [6]、引用されている金や水銀の使用量が現在広く認められている数値とはかけ離れている [6,9]。さらに、実際の鍍金作業方法に関する推定 [5]、つまり鍍金作業者は作業箇所と密着していたであろうことを考慮すると、乾燥のための加熱はせいぜい 60℃が限度であろうと想定している [5]。したがって、金滅金法による金鍍金を行える状態ではなかったと判断できる。この論文の著者は 1968年に金鍍金に使用するアマルガムとしては、金 1に対し水銀 5の比率が最適であり、金や水銀の総使用量から求められる混合比と略一致したと報告している [6]。やはり、大仏への金鍍金では金 1と水銀 5を混合したアマルガムが使用されていたと見るべきである。ただし、1965年の考えから 1968年の考えに変更した理由についての説明がないだけでなく、この鎖滅金法による金 2に水銀 1のアマルガムでは金鍍金が不可能とする報告 [6] と矛盾している。すなわち、この銷滅金法に金鍍金の可能性の指摘は無視できる。2020年の金原の報告 [22] は、鍍金の実際をこの銷滅金法を前提としていると考えられ、そこに記されているような手順では大仏への金鍍金は不可能であったと考えられる。アマルガム法による金鍍金における金と金属水銀の混合比(重量)は、多くの報告 [6, 8, 17] があるが、 アマルガム法による金鍍金での、金と水銀の混合比は、堀部の詳細な考察 [13] や多くの報告 [6, 8, 17] が示すように 1対 5であったと決定できる。

2) 金鍍金(アマルガム塗布)開始の準備
 渡来人の指導の下で大仏本体や蓮華座の鋳造は 747年に開始され 749年に一応鋳造は終了した。しかし、完成した鋳造品には鋳造されていない部分(= 溶解した青銅が鋳型に回っていなかった部分。湯回り不良)が少なからずあっただけでなく、鋳造された部分には亀裂、変形、欠落、多数の表面の過度の凹凸、湯の溢れ等の鍍金作業を開始する以前に、修正が必要な箇所が多数であることが判明した。鋳造の経験のある渡来人の指導にもかかわらずこのような事態になった理由の一つに、飛鳥池工房遺跡発掘により明らかにされたように [23]、七世紀から八世紀にかけての日本の鋳造は装飾品等の小型物体が主体であり、大型物体の鋳造の経験の経験が殆どなかった点が挙げられている [23]。したがって、当初の鋳造終了直後の 750年には鋳造の問題点の修正のための鋳造作業が再開され、755年に終了している。変形、表面の異常、鋳型からはみ出た銅の除去、表面の凹凸の平滑化等は鋳造の再開と同時に始められ、専ら鏨、槌、砥石、鑢等を用い手作業で行われたと考えられている。更に鍍金する面の仕上げ、つまり円滑化には梅果実から得られた梅酢を使用した可能性が指摘されている [6, 7]。この場合、有効成分は梅果実中に高濃度に含まれるクエン酸と考えられている。青梅果肉中の有機酸の大半(約 90%)はクエン酸であり、他に青梅の果実中のクエン酸濃度は梅酢にすると約 80%程に低下すると報告されている [24]。したがって、クエン酸を鍍金面の平滑化に利用していた可能性、つまり青梅果実を使用したほうが有利であろうが、確証はない。したがって八世紀の日本では。鍍金開始の前提である鋳造物の最終的表面処理は、専ら鏨や槌、鑢および砥石による手作業で行われ、梅酢もしくは青梅果汁で仕上げていた可能性が高いと推定できる。
 鋳造面の修正作業に従事する作業者には、鏨や槌、砥石及び鑢等の取扱に習熟していることが要求されていたであろうが、金や水銀には触れていない。したがって、特定の技能集団とは関係なくかなりの人数が投入されていたと考えられる。これと比較すると、すでに述べた通り、鍍金作業では金と水銀を取り扱っているため、限られた人達が作業につき、作業内容もあり特定の技能集団に依存していた可能性があり、一度に 20人程度であったと想定している。
 ところで、創建期の大仏本体の高さは 15.85m と推定されている。したがって、専ら手作業で行われていたと考えられる鋳造品の表面処理作業や鍍金作業は、作業箇所によっては高所作業になると考えなければならない。すなわち、高所作業に於ける墜落の危険性が加わると考えなければならない。

3) 金鍍金(アマルガム塗布)の準備と鋳造物の不具合の修正
 大仏本体や蓮華座の鋳造は、渡来人の指導の下で 747年に鋳造を開始し 749年に一応鋳造を終了したと記録されている。しかし、すでに述べた通り、一応完成した鋳造品には鋳造されなかった部分(湯回り不良)が少なからずあり、鋳造された部分には亀裂、変形、欠落、多数の表面の過度、鋳型からの湯の溢れ等の鍍金作業を開始する以前に修正を必要とする点が多数存在することが判明した。したがって、750年には先ず修正目的の鋳造作業が再開され、引き続き鋳造品の修正作業が開始され、755年には金鍍金の下準備は完了している。鋳造の経験のある渡来人の指導があっても、このような事態になった理由の一つには、飛鳥池工房遺跡発掘により明らかにされたように、七世紀から八世紀にかけての日本の鋳造では装飾品等の小型物体が主体であり、大型物体鋳造の経験の経験がなかった点があげられている [22]。
 鋳造の欠損部分は鋳造の追加で対応し、変形、表面の異常、鋳型からはみ出た銅の除去、表面の凹凸の平滑化等は鋳造の再開と並行して始められた。鏨、槌、砥石、鑢等を用いて専ら手作業で行われたと考えられている。被鍍金面の磨き上げ(最終仕上げ)には梅果実から得られた梅酢若しくは梅果実を用いたことが示唆されている [6, 7, 20]。
 現在は金属製品の鍍金の場合、表面処理には基本的には希釈した強酸(塩酸、硝酸等)を用いている [25]。しかし、これらの強酸は錬金術師が十世紀頃に発見して使用し始めたもので、八世紀の日本では知られていない。しかし、梅実果汁や梅酢を用いると金属製品の表面が平滑化されることは、八世紀の日本ではよく知られていたと思われる。したがって、梅酢や梅果実の作用を利用して鍍金面の下地仕上げをしていた可能性が高い [6]。なお、梅酢や梅果実有効成分はクエン酸が主である。現在の分析では、クエン酸は青梅果肉中 1グラム中に約 4.1ミリグラムが、梅酢中には 1ミリリットルあたり 0.66ミリグラムが含まれていることが明らかにされている [24]。したがって、青銅鋳造品の表面の平滑化には青梅果肉の果汁の方が有利と考えられるが、梅酢が多方面で利用されていたことを考えると、梅酢の利用の可能性は否定できない。ただし、どちらを用いたかの記録は見当たらなかった。したがって八世紀の日本では。鍍金開始の前提である鋳造物の最終的表面処理は、専ら鏨や槌、鑢および砥石による手作業で行われ、梅酢もしくは青梅果汁で仕上げていた可能性が高いと考えているが、確証はない。

4) アマルガム塗布に費やした期間
 奈良の大仏への金鍍金に必要であった期間についでは、5年間と 6年間の二つの期間が挙げられているが、東大寺僧録には、アマルガム塗布を開始したのは、752年3月、完了したのは 757年4月と記載され [6]、アマルガム塗布には 61ヶ月(5.08年)が費やされたことになる。したがって、今回はアマルガム塗布完了には 5年間が必要であったと判断するのが実情にあっている。ところで、アマルガム塗布を開始したのは 752年4月であるが、完了したのは 755年7月とする資料があり、その根拠は記されていない [7]。恐らく大仏と蓮華座以外に、光背に対する鍍金も行われていた筈であり、記録が混乱していた可能性がある。大仏の背部にある光背も、大仏本体と同じ方法で鋳造され、鍍金を施された。しかし、その詳細については記述は見当たらなかった。

5) 曝露濃度の試算
 前提は前報 [5] と同じである。アマルガム塗布作業の終了を待たずに、開眼法要が行われたことから、鍍金作業はかなり急かされていたと仮定し、アマルガム塗布は 5年の間休日なしであったと推定した。作業時間はアマルガム取扱いという特殊性を考慮し、平城京に勤務する貴族でない官人と同じ一日 6時間と仮定した。これらの仮定の下で、曝露濃度の試算を以下に示すように行った。基本的考えは 5年間のアマルガム塗布により用いられた金属水銀の総量と、アマルガム塗布終了時に塗布面に残っていると考えられる金属水銀量の差が、アマルガム塗布の間に作業者の呼吸帯内に気化したとの仮定をおいた。これらの仮定は前報と同じであるが [4, 5]、以下の様に再録する。
 金属水銀の総使用量は、565Kg(5年)、一年あたり使用量は 113Kg(= 565/5), 一日当たり 0.31Kg(= 113.0/365)となる。この量の金属水銀がアマルガムの成分として毎日の塗布作業時に作業者に渡されていたと仮定した。アマルガムをヘラで押し付けるように塗り付ける作業であるから、アマルガム中の金属水銀は無風で平面上に置かれたものと仮定した。平面状におかれた金属水銀の気化率は 60℃、無風の状態で 0.00178であるから、塗布された 5年後のアマルガム層中に残留している金属水銀量は前報 [5] と同じであるが、以下に再掲する。
  113x(0.99822 + 0.998222 +b0.998223 + 0.998224 + 0.998225) = 561.9897 (Kg)
 したがって 5年間には 565.0 - 561.9897 = 3.010Kg = 3,010g の金属水銀が塗布されたアマルガムより 20人作業者の呼吸帯内に気化したことになる。一年間では 601g(= 3010/5)、一日あたり 1.647mgHg(= 3010/365)となる。20人の作業者が一日 6時間の作業中に呼吸した空気量は 206m3とされているから [5]、気化した水銀蒸気の 50%が作業者に吸入されると仮定して、曝露濃度は 4.00mgHg/m3(= (1647/2)/206)となり、当然ではあるが前報 [5] と同じ結果である。

6) 塗布終了後に表面に残存しているアマルガム中の金属水銀の気化
 アマルガム乾燥目的の加熱は、金属水銀の沸点(357.25℃)より遙かに低い温度(60℃)であると推定されているから、塗布されたアマルガムは乾燥された状態ではなく、金属水銀が相当量残存し、水銀蒸気の発生が続いていたと考えなければならない。塗布されたアマルガムから発生した水銀蒸気は、創建期の大仏殿の復元図から考えると [19]、発生した水銀蒸気は大仏殿内の大気中に拡散していたと考えられる。しかし、大仏殿内の大気に対し、積極的に換気を行うための設備については記録がなく、復元図においても考えられていない [19]。したがって、大仏殿内の換気は、出入口の開閉や作業者の出入りに伴う換気が主であったと考えられる。一方、大仏殿内には、光背を背にして蓮華座の上に大仏本体が置かれ、内部より 60℃程に加熱されている大仏と蓮華座から水銀蒸気が発生し続けているだけでなく、複数の仏像が安置されていた。さらに、福山の復元 [19] によると創建期の大仏殿内にはる多くの太柱、壁面の凹凸、高さが異なる天井等があり、大仏や蓮華座から発生した水銀蒸気が、大仏殿内に均一に拡散するのは極めて困難な状態であったと考えられる。すなわち、大仏殿内大気中水銀濃度は、場所による変動が大きく、均一ではなかったと考えられる。
 従来の報告 [4, 5] と同様、塗布したアマルガムの乾燥促進の目的での加熱は、手作業でアマルガムを塗布する作業者が耐えられる温度と考え、60℃(使い捨てカイロのJIS基準)と仮定した。鍍金作業終了後には乾燥の進み具合によって順次加熱を減らしていた可能性がある。一方、小型物体の鍍金の経験から、60℃の加熱ではアマルガムの乾燥が不適当であることは十分に承知していたと考えられるが、どの様に対処していたかは不明である。金属水銀の飽和蒸気圧は 60℃では 0.02524mmHgであるが、常温(25℃)では 0.00184mmHgと 7.3%にまで低下、塗布面から気化する金属水銀量が著しく減少する。したがって、塗布したアマルガムの乾燥と鍍金面の安定化を効果的に行うためには、アマルガム塗布作業終了後もかなりの期間にわたり大仏本体や蓮華座の内部より鍍金作業中とは同程度の加熱が続けられていた可能性が極めて高いが、裏付けとなる史料は見当たらない。
 ところで、アマルガム法により金鍍金された八世紀の銅製品の鍍金層に対する走査型電子顕微鏡による解析の結果、鍍金層内には金で包埋された状態の金属水銀が明らかに存在し、鍍金層が破壊されない限りこの包埋された水銀は気化されないと判断されている [17, 18]。つまり、アマルガム層に残留した金属水銀が全て気化するわけではない。この鍍金層内に包埋されて残留する金属水銀と気化する金属水銀の量比は、アマルガム作成時の温度や混合方法、さらには金粒子の形状や大きさ等により変化し、一定にはならないと考えられている [17]。したがって、戦火や天災による破壊がなければ大仏と蓮華座への金鍍金がいつ頃まで持続していたかはわからない。

7) 金鍍金に用いられた金と金属水銀
 大仏の建立が決められた当時、日本における金の産出は微々たるもので、鍍金に必要な金の調達が問題として輸入が考えられていた。しかし、749年に陸奥国小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯)に有望な砂金鉱山が発見され、鍍金に使用する金の供給問題は解決した。律令国家の時代であるから、この発見された砂金は全て砂金の状態で都に運ばれ一元的に管理されていた。756年に造東大寺司が、大仏鍍金量として砂金を請い下賜されていた記録がある [11]。すなわち、律令国家の時代であるから、これらの砂金は全て砂金の状態で都に運ばれ、一元的に管理されていたと考えられる [11,12]。さらに、砂金を貨幣的に取り扱った事例が『続日本紀』 776年4月の項に記されている。なお、涌谷町教育委員会の資料には、一帯で産出した砂金は北上山地に由来する二次堆積物であり、高純度であったと記録されている [26]。文献 [11] に記載されている東大寺への砂金下賜量を現在の単位に換算すると 57.312Kgとなり、鍍金開始年の記録と東大寺への金下賜の時期とに食い違いはあるが、下賜された金の量と金鍍金への金総使用量とが略一致し、大仏や蓮華座の金鍍金には専ら現涌谷町一帯で採掘された砂金(=沙金)が使われていた可能性がある。
 金属水銀は例外的な鉱床(北海道瑠辺蘂のイトムカ鉱山)を除き、国内では硫化水銀(= 辰砂)の形で国内で産出している。伊勢から奈良にかけての一帯は、地質学上は中央構造線といわれる地帯で、水銀(多くは辰砂)の産出が多く、辰砂の形の供給だけでなく、採取現場で加熱し、金属水銀として供給していた [6, 10]。したがって、辰砂から金属水銀を得る段階で金属水銀蒸気中毒が発生していた可能性が高いが、史料は見当たらない。なお、辰砂は薬として中国より伝来した歴史があり、毒性より薬効が期待されていた。
 前報 [4, 5] では鋳造面の修正と磨き上げが略終了した部分について、5年の間、毎日 0.632m2という面積を対象にして毎日アマルガム塗布を行った場合の曝露濃度の試算値を求め、4.00mgHg/m3という値を得ている。当然のことではあるが、鋳造面の修正と磨き上げを並行しながらアマルガム塗布を行ったとの仮定をおいて求めた前回の試算値 [4, 5] と同じである。前回の試算では、鋳造面の修正と磨き上げに費やされた期間を軽視していた。いずれにせよ、4.00mgHg/m3という曝露濃度は、現在の知見と照らし合わせると [26]、曝露後速やかに化学性肺炎や腎臓機能障害、ひいては死亡という変化が多発しても当然の数値である。当時、金属水銀の毒性に関する知識は知識人でも皆無であったので、経験が全くない事態に遭遇して狼狽えるしかなかったと想像できる。既に述べた通り [4, 5] 、鍍金終了後直ちに読経、祈祷、祓い、各地の疫神を祀る等の対応が迅速にとられただけでなく、凡そ 10年間繰り返されていたことを考えると、かなり重篤な水銀中毒が急速に出現したが、当事者たちは狼狽える一方であった様子がうかがえる。これらの対応は、無論何れも何の効果もなく、最後には墳墓を敬うことの要求や、犯罪人に対する特赦まで行われた。ただし、鍍金作業終了後 10年以上経過すると、これらの対応が繰り返されたという記録は見当たらない。恐らく急性中毒患者が発生しなくなったせいであろう。
 ところで、2020年にリスクアセスメントの手法による東大寺大仏の金鍍金における水銀中毒の可能性に関する考察が発表された [22]。幾つかの曝露濃度の試算が提示されているが、「鍍金対象面積 1153.7m2(= 大仏本体 + 蓮華座)に対する鍍金に 5年間費やしただけでなく、使用金属水銀量は 5年間で 565Kg(金の使用量は 113㎏)」という事実は全く考慮されず、使用した金属水 565銀が大仏殿内で一気に気化したとの前提で、曝露濃度を提示しているが、鍍金に 5年間費やしたという事実を無視している。さらに、鍍金作業の様子として、想像図ではあるが信頼できるものとして香取等の著作からの引用がある。さらに、既に述べたように [5]、① 開眼法要が鍍金完了以前に行われ、鍍金作業自体かなり急がされていたと思われること、② 1,153.7m2の鍍金に 5年間費やしていたこと、③ 金の供給は一応充足していたと思われるが潤沢ではなかったと思われ、東大寺では特別に扱われていたと思われる記録 [10, 11] から、当時は租金や砂金は延喜式の下で管理され、大仏の鍍金に使うときも奉請文を提出してから交付されていることを踏まえると [12]、使用量は厳しく管理され、アマルガムがペーストのような性状であったことを考慮する必要があり、文献 [21] に引用されている壁塗りのような使い方は不可能であったと思われる。したがって、文献 [23] に引用された鍍金作業の想像図は土壁塗りに酷似しており、アマルガムを塗布する金鍍金の進め方を示す図版としては不適当で、この報告には賛同できない。

8) 金属水銀以外の有害要因による健康障害や作業場の有害要因
① 粗銅から鋳造用青銅への精錬
 大仏建立のためには、当時としては法外としか言いようのない量の銅(粗銅)が国内各地から集められ、若草山周辺で鋳造用の青銅に再溶解されていた [6]。したがって、水質や大気の汚染は不可避であり、この大気や水質の汚染が、建設後間もない平城京からの遷都の要因の一つであったとする考えがある [27, 28]。確かに銅精錬に伴う水質や大気の汚染は、後年の足尾銅山に係わる事件を紐解くまでもなく、開眼供養後おおよそ 5年後の 564年の聖武天皇の崩御との関連において、銅の精錬の人命に係わる影響が当時から捉えられていた可能性がある。しかし、アマルガム塗布に引き続いて取られた経験のない鍍金作業者の健康障害に狼狽えていたような対応は取られていない。聖武天皇の健康状態に対しては、正倉院御物から存命中に薬の払い出しが行われていることから、なんとか当時の医療で対応できると考えられていたと推定できる。さらに、健康障害の原因を大気や水質の汚染に求めることが、推測であろうが、可能であったと考えられる。しかし、アマルガム中の金属水銀による影響の様に、全くの未知ではなかったと推定できる。
 当時の日本は世界有数の銅産出国であり、国直営の銅精錬官衙が主要銅鉱山である長登鉱山に設置されていた。長登鉱山遺跡からは多量のスラグ(鉱滓)が発見されいることから、長登でも銅の精錬が行われていたと推定されている [29]。したがって、銅の精錬における好ましからざる影響は、全く未知ではなかったと考えられる。しかし、長登鉱山をはじめとする国内の銅鉱山の鉱脈の大半は「黒鉱、または別子型銅鉱脈」であり、銅以外に他の金属(亜鉛、鉄、アンチモン、鉛、金、銀等)や珪素を多く含む日本独特の鉱脈であり、七世紀頃から八世紀の技術では純粋な銅を得ることは困難であったと考えられている [29]。すなわち、長登鉱山で採掘される銅は、既に他の金属の混入が無視できず、鉱石から精錬された銅は、いわゆる「青銅」の状態であった。しかし、「大形の鋳造用の青銅」にするために、長登鉱山から供給された粗銅に対して、若草山周辺で他の金属(主に錫)の添加が行われていた。大気や水質の汚染が起きていた可能性は否定できないが、後年の足尾銅山による環境汚染とは程度が違っていた可能性がある。銅の精錬に伴う大気や水質の汚染では、金属水銀蒸気による中毒とは症状が異なり、症状の経過が慢性であり、アマルガムによる中毒の場合の様に、祈祷、読経、祓い等の対応は摂られなかったのではないかと考えられる。さらに、銅精錬に伴う大気や水質の汚染などの環境汚染によると思われる農林業に対する影響に関する記録は見当たらない。例えあったとしても、同時頻発していた飢饉の影響の一環として捉えられたのではないかと考えられる。したがって、銅の精錬による健康障害は、アマルガム塗布における健康障害のように急激に発生したのではなく、徐々に起きていたと考えられる。したがって、長登鉱山から送られてきた粗銅の若草山周辺に於ける精錬による大気や水質の汚染が、多大の国費を投入して造成した平城京の放棄、つまり遷都に到った可能性は否定できない。
② 錫による健康障害
 長登鉱山から送られてきた粗銅を鋳造に適した青銅にするため、若草山周辺で錫を添加していた。杉山 [28] が引用している(東大寺要録 巻第一 本願章第一)の銅と錫の使用量から概算すると、錫の使用量は銅の約 3%となる。粗銅を溶解し、それに錫を加えて鋳造の適した青銅を造っていたが、当然、錫の蒸気や粉塵が発生の可能性は否定できない。錫の粉塵の吸入は塵肺症に繋がる可能性があるが、現在の知見では錫による塵肺症は極めて良性で稀なものとされている [30]。したがって、錫による健康障害は起きていなかったのではないかと考えられる。
③ 大仏や蓮華座の鋳造に適した青銅を得るため、長登鉱山からの粗銅を溶解する際に砒素が添加されていたと記録されている。したがって、粗銅溶解時の廃ガスや砒素の曝露があったと考えられるが、実証はない。当然のことではあるが、溶解作業に従事する作業者には、熱傷や熱中症の危険性が不可避であった。
④ 高所作業の危険性

9) 複数の作業の管理
 大仏の高さ 15.85ⅿを考えると、手作業に大きく依存している修正作業や金鍍金作業は、作業箇所によっては高所作業による危険性を考慮しなければならない。恐らく、複数の墜落事故があったと思われるが、記録は見当らない。
 管理のための組織としての造東大寺司は、既にあった写経事業組織を母体にして、鋳造作業開始前(747年)に設立されたとされているが、それ以前とする考えもあり、定説はない [31]。この造東大寺司が管理する作業は詳細に分類され、それぞれの作業者数、賃金などが『造金堂所解』に記録されているが、東大寺大仏建立に関する記録か否かについては、造東大寺司が同時に複数の寺院の建設に関与していたこともあり、大仏建設との関係についての議論はわかれている [16]。いずれにせよ、造東大寺司が管理する仕事は、恐らく専門性や特殊作業性を考慮して、細分化しながら、全体として統一が計られていた国家的事業であったといえる。したがって、大仏と蓮華座、光背及び大仏殿の建設は、造東大寺司の管理下に置かれていたと考えられる。国家的大事業でありながら、東大寺大仏や大仏殿建設に関する統一された公式記録は見当たらない。恐らく、大仏や蓮華座の鋳造が開始される以前に開眼供養の期日(752年4月)と、中国や朝鮮からの高僧の招待が決定されていたため、全てをこの期日に間に合わせるために、全ての作業を馬車うま的に急がせた結果、各方面で混乱が生じ、造東大寺司でも完全に掌握できていなかった可能性が考えられる。その結果、大仏や蓮華座だけでなく、大仏殿自体も未完成であるに係わらず、開眼法要が行われるという異常な状態になった。
 ところで復元値である大仏本体の高さ 15.85mを考慮すると、鍍金作業だけでなく、鍍金作業の前段階である鋳造面の修正等の手作業を主とする作業が高所作業にならざるを得なかった場合が存在することは、考慮しておかなければならない。そのような場合、どの様な対応が取られたかについては、詳らかではない。

IV.まとめ

 二十一世紀の現在、何故八世紀におきたであろう金属水銀蒸気による中毒を問題にするのかとの疑問は当然出てくるであろう。しかし、冒頭でおいても述べたように、現状では水銀の毒性を考慮しない使用における健康障害の解析は必須である。使用の歴史の長い物質による中毒を考える場合には「温故知新」という言葉を忘れてはいけない。今回、奈良の大仏や蓮華座への金鍍金における水銀蒸気曝露濃度は 4.00mgHg/m3程度であったと改めて推定された。鍍金方法の詳細が不明で、実際にどの様な中毒が発生したかは記録されていない。ただし、かなりの重症の金属水銀蒸気中毒が発生していたことだけは、現在の知見から見て確実といえる [25]。アマルガムの塗布は、鋳造面の修正や磨き上げが先ず行われ、略完了した時点で、アマルガム塗布が開始され、鍍金完了に 5年間費やしたと理解すべきである。


 表1: 創建期奈良大仏と現在の姿(大石等 [8] による)
  創建期  現在 
  座高  15.85 m 14.98 m 
  面径   2.82 m  3.20 m
 蓮華座高さ   2.95 m  3.08 m
  口幅   1.09 m  1.33 m
 中指長さ   1.48 m  1.08 m


研究費の供与
 この研究にあたっては、研究費の供与は一切受けていない。
利益相反
 申告すべき利益相反は一切ない。
謝辞
 曝露濃度の試算における佐藤郁郎博士(宮城県がんセンター病理部)の指導に対し、深謝する。本論文執筆に際して、入口紀男名誉教授(熊本大学)から多くの示唆をいただいた。改めて深謝する。



参照文献

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  2. Counte SA, Buchanan LH, Ortega F, Laurell G., "Elevated blood mercury and neuro-otological observations in childlen of the Equadorian gold mines." J Toxicol Environ Health A 2002;65:149-163
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