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(論考)奈良の大仏の金鍍金:平城京は本当に安寧の都であったのか?

石原 信夫 Nobuo Ishihara, M.D., Ph.D. 東京西部医療保健生活共同組合

Abstract

  The Great Buddha in Nara was constructed in AD 757 and was entirely covered in gold leaf. Over the following centuries, both the statue and its main hall were repeatedly damaged by natural disasters and wars. Although the main hall and the damaged sections of the Buddha were repaired, the restoration of the statue itself was never fully completed. The reconstructed figure — the present-day Great Buddha —does not exactly represent its original form. Digital restoration technologies have since presented multiple models of how the original image may have looked.
  Approximately 50,000 skilled artisans and about 2.1 million general laborers worked on the project for over eleven years. The original population of the Heijo‑kyo metropolitan area and its surrounding regions is estimated to have been around 10,000.
  A rapid population increase occurred in the Heijo‑kyo area. Various environmental problems arose, including difficulties in the daily supply of water and food, and in waste disposal. The number of displaced people migrating from the surrounding regions into the city center grew. Social order deteriorated. Even government officials formally complained about the stench caused by human excrement. The "Manyoshu" —Japan's oldest official anthology of poetry — described the capital's scenery as radiant and splendid, like a field of flowers. In reality, however, it was far from such an ideal. Based on the amount of metallic mercury used in the creation of the Great Buddha, the concentration of mercury vapor in the air is estimated to have reached approximately 0.2 mgHg per cubic meter. No protective measures were taken to prevent the inhalation of mercury vapor during the process.


Keywords: Great Buddha in Nara, metallic mercury, gold plating

 現在の姿からは想像できないが、創建当初の奈良の大仏(毘盧遮那仏)は、全身と蓮華座が金で覆われていた。その概略は複数の資料に記録されている [1-3]。天災や戦乱により大仏殿及び蓮華座が大きく損傷し、本体や蓮華座の破損部分は補修されたが、完全な復旧ではなかった。更に鍍金部分の補修は行われなかった。従って、完成した当初の容姿は現在のそれとは大きく異なっていた。その後、完成当初の容姿を復元する試みが行われた。倉爪等 [4] と大石等 [5] が提示した姿(数値)が、多くの仏像の補修などを手がけた人達から、最も創建当時の姿に近いと評価されている。
 日本では八世紀の初期、つまり大仏の建設が開始された頃の日本は、大陸由来の感染症(天然痘)の流行が繰り返され、国内では有力者とその家族の感染による死亡が続き、国内は騒然としていた。当時の有力者間の抗争との関係から、病気の流行は有力者の呪術の結果との噂が囁かれていた。感染症の流行や、多くの有力者の死や鍍金作業者の健康障害が地域の神々の怒りによると信じられ、全国規模で祈祷や読経が繰り返された。平城京の建設地域には基本的には神社はなかったと見られている [35]。そのころ道教の影響も有り、道教の祭祀も行われていたと考えられている。
 日本では、鉄器の時代に銅器の時代が直ぐに続き、程なく銅器の欠点を補う青銅記器の時代となった。つまり、日本には銅の伝来と青銅の伝来が略同時であり、日本では銅器の時代が短かった。従って、日本で造られた鋳造仏像の殆どは青銅製である。日本は古くから銅の主要産出国といわれているが、日本の銅鉱脈の多くはいわゆる「別子型」であり、金、銀、アンチモン、等の混入比が高い [9]。 大型の仏像に金鍍金を施すことに対する聖武天皇の執心は深かった。金アマルガム法で鍍金された見事な小形の仏像が仏典と共に到来し、多くの人々が仏像の見事さに感銘を受けていたようである。日本は仏法を基本にした国であることを内外に広く知らせる目的で、その象徴として燦然と輝く金鍍金された大型仏像を建造することに力が注がれたと思われる。
 しかし、奈良の大仏の金鍍金の最大の問題点は、金アマルガム法以外には適切な手法がなかったことである [2, 4]。しかも、大仏の様に巨大な物体に金アマルガム法で鍍金を施した経験は全くなかった。
金アマルガム法は、金属水銀に金を溶解させて金アマルガムをつくり、それを金属表面に塗りつけ、加温によりアマルガム中の金属水銀を気化させて、物体の表面に金を残すという方法であった。したがって、その作業は、金属水銀蒸気の曝露をうける可能性が高い作業であった。特に、蓮華座に対する鍍金のように、複雑な外形のものになると、一人当たりの作業空間が狭く、金属水銀蒸気の曝露を極めて受け易かったと思われる。
 大型物体を金アマルガム法で鍍金する場合に鍍金する部分を分割し、鍍金を行った後に組み立てる方法が考えられる。しかし、当時それは困難であり、奈良の大仏の本体と蓮華座は、まず全体を鋳造し、しかる後に鍍金をすることにされた [2, 3]。
 奈良の大仏の金鍍金で実際に使用された金や金属水銀の量については多くの文献があるが、二宮の「大仏の鍍金につかわれた金と水銀の量」と題する論文 [10]によると、大仏の金鍍金で使用された金は 440キログラム、水銀は 2.5トンであり、重量比で見ると金「1」に対して水銀「5.56」となる。延喜式等に記載されている理想的な金アマルガム法とくらべると、水銀が過大であるか、金が過少であるかのいずれかである。この試算の元になった数値は、「大仏殿碑文」であり、そこに記録されている水銀使用量は、5年間の鍍金作業で使用した量を合算したものと見られる。
 ここでは、小西の文献 [10] にあるA群の数値を使用して金鍍金開始時の水銀蒸気暴露の様子を推定してみることにした。すなわち、毎年 500キログラムの金属水銀が作業所に持ち込まれたと考える。
 仮に温度 60℃, 無風、水平に置かれた 65グラムの金属水銀からは、金属水銀は 10時間で48.1ミリグラム気化するとされている [25]。したがって、一年間に作業所に持ち込まれた 500キログラムの金属水銀から発生した金属水銀蒸気の量は、6時間では、 (500000/65) × 0.0481 × 0.6 = 222(ミリグラム)となる。
 鍍金作業者は所定の箇所の鍍金を終えると。引き続き次の箇所へ移動し、作業全体が終了するまで作業を続けなければならない。すなわち111mgHgの濃度の金属水銀蒸気から離れるわけにはいかなかったといえる。鍍金作業者以外の作業者でも近隣の作業場にいた者はこの濃度の金属水銀蒸気に触れ続けることになる。鈴木によると、この濃度の金属水銀蒸気に接触すると、直ちに呼吸器粘膜の出血や呼吸困難に陥り、場合によっては死に至る [26]。中毒者の症状の印象はかなり印象が強かったと思われる。これは、当時の関係者にとっては全く経験したことがなく、当惑するだけであったと見られる。当時は天然痘の流行が繰り返されていたこともあり、全ての不可解な出来事は、地域の神々の怒りにふれた結果と理解され、祈祷や読経、礼拝、お祓いなどで対応するのが精一杯であったと見られる。
 鎌倉大仏の建造年は不詳であるが、奈良大仏の金鍍金の危機的状況から鎌倉大仏は金箔貼りつけに変更された可能性がある。
 当時の日本は、豪族が抗争を繰り返し、農民からの収奪に明け暮れていたという見方がある。一般大衆の生活は厳しく、万葉集で大伴家持が描いているように「生きるとは、これほどつらいものか」と詠われる程の苦しいものであった [1]。筑前の国守を務めていた山上憶良の『貧窮問答歌』の内容は、国守として在勤中の体験に基づいていると考えられる。金鍍金された仏像の足下では、重税にあえぐ一般人がいた。


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