第5回セミナー (抄録)
熊本大学文書館・<水俣病>研究プロジェクト (HOME)
When Did Japanese Note the Methylmercury Poisoning in London in the 19th Cencury?
【発表者】 入口 紀男 Norio Iriguchi 【日時】 平成25年2月27日(水)18:00-19:30 【場所】 熊本大学法文棟4Fメディア演習室 パワーポイント発表資料 PDF (11MB)
1863年にロンドンの聖バーソロミュー医科大学病院(Saint Bartholomew's Hospital)教授フランクランド(Sir Edward Frankland 1825-1899)はメチル水銀の製造方法を確立し、同大学講師オドゥリング(Dr. William Odling 1829-1921)に化学実験室を引き継いで、自らは英国王立研究所教授に就任した。
1864年の暮れに同化学実験室でメチル水銀の製造実験を行っていた三人の技術者がメチル水銀の重篤な中毒症状に陥った [1-2]。その一人はカール・ウルリッヒ(Dr. Curl Ulrich)30歳であった。ウルリッヒは、実験を始めてしばらくすると、だんだんと両手がしびれるようになり、耳が聞こえにくくなった。眼もよく見えなくなった。動きがにぶくなり、足どりが不安定になった。言葉も不明瞭になった。
実験を始めて3か月ほど経った1865年2月3日、激しい症状に襲われた。急きょ聖バーソロミュー医科大学病院マタイ棟に収容された。主治医はジェファーソン(Henry Jeaffreson, M.D. 1810-1866)であった。身体をばたばたさせて叫び声をあげ、質問にも答えることができなくなった。尿を失禁しながら昏睡状態を繰り返し、同年2月14日に死亡した。世界で最初の有機水銀中毒死であった。フランクランドとオドゥリング、ジェファーソンは、メチル水銀中毒の公式の発見者となった [1-3]。そのころ日本は元治2年の幕末であった。
『聖バーソロミュー病院報告書』[1-2] は専門書であったが、事件は更に同年フランスの一般大衆雑誌『コスモス』に「ぞっとするような報告」として詳しく掲載された(COSMOS 1865年11月号 548-549頁)。その記事は英国化学会フェローのフィプソン(Dr. Thomas L. Phipson 1833-1904)によって執筆された [3]。
その内容はドイツでも『ベルリン・ニュース』(Berlinische Nachrichten)などの幾つかの新聞等に転載され、一般大衆の間でも大きな反響(a very powerful sensation)を引き起こした。また当時の化学の分野で唯一の定期刊行誌であるイギリスの『化学ニュース』(Chemical News 1865, 1866)に「真に並はずれた毒性(altogether exceptionally poisonous nature)」として紹介され、関係者の責任を追及するなど、当時の学会の内情等を反映して質疑応答の形で繰り返し掲載された [4]。
『化学ニュース』は、1927年までに日本国内の図書館に収蔵された。東京工業大学附属図書館所蔵の『化学ニュース』には、「東京高等工業学校図書昭和2年3月24日購入」の刻印がある。
1887年に刊行された「ヘップ論文」 [5] は、タイトルが「有機水銀化合物並びに有機水銀中毒と金属水銀中毒の比較について」であり、『実験的病理学薬理学叢書』第23巻に収録されていて、前記『聖バーソロミュー病院報告書』 [1, 2] の中毒死の核心部分を5頁にわたって詳細に記述し、有機水銀は中枢神経に重篤な障害を与えると報じた。この「ヘップ論文」を収録する『実験的病理学薬理学叢書』第23巻は、九州では熊本大学と長崎大学が所蔵している。熊本大学はそれを1931年に購入し、その中表紙裏には「熊本医科大学附属図書館昭和6年3月30日購入」の刻印がある。
一方、水銀を用いてアセトアルデヒドと酢酸を製造する技術はロシア帝国のミカイル・クチェロフによって1881年に発明された [6]。すなわち、硫酸に水銀を溶かした溶液にアセチレンガスを吹き込むとアセトアルデヒドができる。 ドイツのホフマンとザンドは1900年に『ドイツ化学会誌』に「水銀塩のオレフィンに対する反応について」と題して論文を掲載し、「アセチレンを硫酸水銀溶液に通すと有機水銀が副生すると推定される」と述べた [7]。また、米国ノートルダム大学のジュリアス・ニューランド教授も1906年に『米国化学会誌』で「アセチレンを硫酸水銀溶液に通すと有機水銀が副生することが実験的に推定される」と述べた [8]。後者(ニューランド論文)は、同1906年発行の『東京化学会誌』(後の日本化学会誌)に抄訳が掲載された [9]。そのように、日本窒素の会社としての創立(1908年8月20日)よりも前に、有機水銀の副生は日本人の間で周知であった。
日本国内でも、越智主一郎と小野澤與一は1920年に『工業化学雑誌』に「アセチレンよりアセトアルデヒドの製造に就て」と題して論文を発表し、「副生する白色沈殿は有機水銀の組成を有す」と述べた [10]。
前記ニューランド教授は、また、1921年『米国化学会誌』に「アセチレンよりアセトアルデヒドをつくる場合の水銀塩の作用ならびにパラアルデヒドの製造方法」と題して論文を発表し、有機水銀が実験的に副生する事実を報じた [11]。その原本は、熊本大学附属図書館には1930年に収蔵され、「熊本医学専門学校昭和5年12月6日受入」の刻印がある。また、その内容は1922年に『工業化学雑誌』に抄訳が掲載され、「水銀塩は直ちに還元せられ有機化合物となり、此の者の接触作用により反応は進行する」と報じられた [12]。 以上にあげた書籍、文献等の内容は、すべて日本窒素がアセトアルデヒドの製造を開始した「1932年5月7日」よりも前に国内に伝わっており、有機水銀中毒症も有機水銀の副生も日本人の間ですでに「公知」あるいは「周知」であった。 大学は、地域社会を「知」によって守るべき責任をどこまで有するのか。 ヨーロッパで1916年にドイツのコンソルティウム社がブルクハウゼンの森で世界最初にアセトアルデヒドの製造を始めたとき、チューリヒ大学のハインリッヒ・ツァンガー教授は、同社従業員が排泥に触れて有機水銀による中枢神経系障害を起こしているのをその1916年に確認した [13]。その結果、廃液は近くのツァルツァハ川に流されることなく、カーバイド排泥と共に地下水を避けて地中に埋められた。したがって、以後ヨーロッパでメチル水銀中毒は起きなかった。
ツァンガー教授は廃液の化学分析を行った訳でない。20年後のイギリスの「ハンター・ボンフォード・ラッセルの論文」(1940年)のことも知らなかった。前記『聖バーソロミュー病院報告書』第1巻(1865年) [1]、第2巻 [2]や「ヘップ論文」(1887年)[5]、「ニューランド論文」(1906年)[8] 等の文献しかなかった。しかし、それらを参照することによってその偉業は達成された。
日本窒素は、カーバイド排泥を北に離れた八幡プールに埋め立てる一方で、メチル水銀を西に離れた水俣湾に流した。 熊本医科大学附属図書館が、前記「ヘップ論文」[5]を1931年3月30日に購入したとき、研究者らが「ほんの少しの注意」を払ってそこにメチル水銀が「中枢神経系の重篤な障害」を起こすと書かれていることに眼を通し、あるいはそこに改めて詳しく紹介された『聖バーソロミュー病院報告書』の内容に眼を通していたなら、それによって、その後1932年5月7日に熊本県下で日本窒素がアセトアルデヒドを製造し始めたとき、廃液を海に流すのでなく地中に埋めるように「勧告」できていたなら、「水俣の悲劇」は最初から存在しなかったに相違ない。
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