【1】 所在地
押戸石の丘は、小国町大字中原地区にある。阿蘇のカルデラの中を東西に走る国道 57号線から国道 212号線に入る。約 10キロメートル北上すると、標高 936メートルの「大観峰(だいかんぼう)」の近くに至る。そこからさらに 6キロメートル北上して左折し、南小国町の「マゼノミステリーロード」を西へ約 2キロメートル進むと、「マゼノ渓谷」のあたりに押戸石の丘へ向かう小道が見える。車一台がやっと進める細い山道である。1.5キロメートルほど進むと小さな広場で行き止まる。そこが車止めとなっている。右の背後に見える小高い山が押戸石の丘である。押戸石の丘はそこから普通に歩いて登れる距離にある。登り始めてやがて数分で押戸石の巨石群が見え始める。 【2】 周囲の景観が美しい
この丘から遠くにひろがる 360度のパノラマは、まさに絶景である。北東の遠くに標高 1,791メートルの「九重中岳」や 1,787メートルの「九重山」、またその西側に「小国富士」と呼ばれる「湧蓋山」(わいたさん)、南の遠くに阿蘇の「外輪山」や「根子岳」が望まれ、本当に美しい。近くのマゼノ渓谷は一枚岩の上を清流が流れ、中原川の源流となっている。
【3】 自然の造形である 「阿蘇火山」とは、現在も噴火を続ける中岳だけでなく、広大なカルデラと外輪山を含む全体の総称である。過去 30万年の間に 4回の巨大噴火を起こしている。特に約 9万年前の最後(第4回目)の巨大噴火は最大規模であり、それによって現在のカルデラが形成された。阿蘇火山の噴火は、より古くは「豊後(ぶんご)火山活動」といって、主に現在の阿蘇の東側で粘度の高い「流紋岩(りゅうもんがん)」という岩質のマグマを放出していた。更に古くは「豊肥(ほうひ)火山活動」といって国東半島から島原半島までの広い地域で主に「安山岩(あんざんがん)」という岩質のマグマを放出していた。豊後火山活動と豊肥火山活動は総称して「先阿蘇(せんあそ)火山活動」と呼ばれる。
現在の外輪山と、カルデラを見下ろす大観峰など、その周辺に露出して見られる岩石は、主に先阿蘇火山活動でできた安山岩と、その後のカルデラ噴火によって堆積した「凝灰岩」あるいは「溶結凝灰岩」でできている。約 9万年前の最後の巨大噴火のとき、火山灰は朝鮮半島・北海道・サハリンにまで達した。そのとき溶結凝灰岩に覆われた地域は、溶岩台地となって現在も九州の半分近くに分布している。
押戸石の巨石群も、前記先阿蘇火山活動で放出された安山岩でできている。安山岩のマグマはやや粘度が高く、溶岩流は層状にゆっくりと流れたものと考えられる。
安山岩の広大な台地は、その後のカルデラ噴火によって凝灰岩や溶結凝灰岩に広く覆われたが、凝灰岩や溶結凝灰岩は、安山岩よりも風化侵食されやすく、礫、砂、泥などの粒子となり、南小国を含む九州中央部の広範囲にわたって現在の豊かな地表を形成している。 押戸石の丘の巨石群も、安山岩のマグマがゆっくりと流れてできたものである。広大な安山岩の台地には、その上に凝灰岩や溶結凝灰岩が堆積した。 広大な岩盤が褶曲作用の力によって山上で二枚に割れると、地中の安山岩の層はその割れ目に沿って直線状に近い形で地上に露出する。また、岩盤が一点で鋭く押し上げられたり一点で鋭く陥没したりすると、地中の安山岩はその周囲に環状に近い形で地上に露出する。押戸石の巨石群は、そのようにして比較的硬質の安山岩がやや直線状の形をなしたり、あるいは環状の形をなしたりして地上に露出し、風化浸食を経て現在に姿を残したものである。 押戸石の巨石群は、いずれの巨石も安山岩の「層(レイヤー)」の構造(層理)が詳細に見て取れる。その層理は比較的に規則正しく、これはマグマの流れがゆっくりと冷えて層状構造をなしたものである。【写真 2】に示すように、直線状に並ぶ巨石群はレイヤー面の方向がいずれの巨石もおよそ一致している。これも、地中の安山岩が岩盤の割れ目に沿って直線状に地表に露出し、風化浸食の中でその姿を現在に残したためであろう。 押戸石の巨石群について、それを人工的な「環状列石遺構(ストン・サークル)」とする科学的な根拠は存在しない。仮に人工的であると証明するには、たとえば英国の「ストーンヘンジ」のように、「自然には配置され得ない」ことが科学的に証明されなければならないからである。押戸石を先史時代の人々が祭祀の対象とし得たことは想像することができる。しかし、押戸石の巨石群が人工的に配置されたとすることに科学的な根拠はない。 ユネスコや、アメリカやカナダの学会が、この巨石群が先史時代の巨石文化遺跡であるかのように認証した事実はない。ニューヨーク州立大学にライル・ボルスト教授(Lyle B. Borst 1912-2002)という原子炉物理学者は在籍していたが、ボルスト教授が、この巨石群が先史時代の巨石文化遺跡であるかのように認証した事実はない。それらの学会や学者の名前はこの丘の宣伝のために用いられたことがある。 押戸石の丘の巨石群は、これまで述べたように、阿蘇の豊かな、そして過酷な自然がつくった美しい造形である。 【4】 古代人のペトログラフ(岩刻文字)は刻まれていない
押戸石の巨石表面の浸食模様は、すべて野ざらし雨ざらしの中で数年のうちに浸食されて変化し、出来たり消えたりしている。それらはほとんどが「平成」以降にできたものである。古代人が彫った絵文字ではない。約 4,000年前のシュメル文字などのペトログラフ(岩刻文字)は、この押戸石の丘のどこにも存在しない。
葦の硬い茎を削って先端を柔らかい粘土板に斜めに押し付けると、その跡の一つひとつはくさび(楔)の形になる。今から約4,700年前にシュメール人によってその「楔形文字(せっけいもじ)」が発明された【写真 3】。くさび(楔)の形をした一つ一つの要素は、漢字の画(かく)に当たる。当時の楔形文字は約 600文字しかなく(現代日本の漢字の数よりも少なくて)学びやすく、そのようにして今から約 4,400年前のシュメールの都市国家では、完成した楔形文字が使われていた。シュメールの楔形文字は、約 4,300年前にオリエント世界の共通文字として使われるようになり、パレスチナや遠くエジプトにまで広まった。シュメールには楔形文字の読み書きなどを教える学校や図書館もあった。楔形文字は日本語によく似ていて、漢字のように意味を表す表意文字や、かなのように発音を表す表音文字もあった。漢字かな交じりのように混ぜて用いられた。音読みと訓読みがあって送りがなもふられた。シュメールはウル第三王朝(BC 2,113 - BC 2,006)の興隆期を最後に忽然と滅亡した。今から約 4,000年前のことであった。
筆者らは押戸石の丘を訪ねるたびに、何かペトログラフ(岩刻文字)らしいものはないかと毎回探した。無数の自然な亀裂や浸食模様はあった。それらの浸食模様もここ数年で消えてしまった。また、これといった説明のつかない浸食模様が新しくできていた。
巨石群の中に「鏡石」と呼ばれる巨石がある【写真 4】。その西南面に、牛の頭部のような浸食模様がある。その模様のすぐ傍に蛇のような浸食模様もある。いずれも、自然の浸食痕であろうと思われるが、「平成」になって人為的に彫られたという風説も存在していて真偽のほどは分からない。それらの模様は、2007年には比較的はっきりしていたが、2017年にはもうほとんど消えかかっていた。 この押戸石の丘にシュメール文字がペトログラフ(岩刻文字)として刻まれている岩石はやはり存在しない。
押戸石の巨石群は、風化侵食作用によって表面はぼろぼろに粗く、脆弱である。いずれの巨岩も 1,000年を超えて現在の形を正確にとどめるものではない。
特に表面に近い部分はもろくて風化が早い。表面には、亀裂や、酸性雨による酸化や溶解、暴風雨、乾燥、夏の強い日照り、紫外線、吹雪、零下の氷結による急激な体積の膨張と破砕、日中の解凍、砂塵、日夜と夏冬の激しい温度差、頻繁な落雷などによって無数の浸食模様がある。表面の侵食摸様は、とても 100年にわたってその形を正確にとどめるものではなさそうである。 押戸石の巨石群の周辺には、【写真 5】の写真に示すように安山岩が壊れたかけらが無数に散らばり、埋もれている。それらは、おそらくある時期までは一定の形状の巨石をなしていたであろう。それらのかけらを幾つか拾い上げてみると、岩石というにはややもろく、指で触れると壊れることがあり、また両手で持って打つとたやすく破砕されてしまう。自然の力は、これを恐るべし。仮にこの丘全体が風雨によって 1年間にわずか 5ミリずつ侵食されるとしても、4,000年の間には20メートルも侵食されてしまう。
ペトログラフ(岩刻文字)の研究者・吉田信啓(1936-2016)は、この押戸石の丘について「大岩には約四千年前のシュメール文字がペトログラフ(岩刻文字)として刻まれている」と主張した。一方、吉田信啓はその著『ペトログラフ・ハンドブック』(中央アート出版社 1994年)の中で押戸石の岩刻文字としてシュメール文字を示すことなく「(ケルトの)ベル神と弓を持つ人像」【写真 6】を紹介している。押戸石の丘にシュメール文字は現実に存在しないからである。筆者らは 2007年にその現物である巨岩について確認してみたが、【写真 7】に示すように「ベル神と弓を持つ人像」【写真 6】も浸食模様でしかなく、それも風化によってもうほとんど消えていた。前記書籍の刊行からわずか 10年余りの風化によってほとんど消えてしまったのである。筆者らは 2015年(平成27年)10月に現地で再確認したが、すでに完全に消えていた。
以上申し述べたように、押戸石の丘にペトログラフ(岩刻文字)は存在しない。
【5】 巨石は落雷で着磁している 巨石の一つに「祭壇石」と呼ばれる岩がある【写真 8】。「太陽石」と呼ばれる最大の岩もそうであるが、ほとんどの岩は強く磁化されている。太陽石も祭壇石も表面に幾つもの窪みがあり、多くの亀裂が走る。方位磁石を表面に近づけると、場所によって磁針の振れが大きく変化する。それも決して神がかりな「磁気異常」などということではない。
これらの石は、安山岩として比較的多くの酸化鉄(磁鉄鉱)を含み、強い磁性がある。このように高地に孤立する岩石は避雷針のように落雷を受けやすく、落雷によって磁化されていて「正常」である。筆者らがこの押戸石の丘を訪ねたある時も、激しい風雨の中で、車の外のすぐ近くに幾つも落雷した。 巨石群の岩石は、幾度となく落雷を受けており、地中の正電荷が岩石から空中の負電荷に向けて大電流となって放たれることを繰り返している。表面の多くの窪みや側面の多くの亀裂はその痕跡である。また、落雷時の大電流の周りにはアンペアの右ねじの法則にしたがって強大な磁界が出現し、酸化鉄の成分は、加熱された状態からキュリー点(磁化変性温度)を通過して冷却されるときに、磁化の方向が固定され、その結果、表面に磁気的なまだら模様ができたものである。 【6】 まとめ 我われ人間には、こうあって欲しいという気持ちがある。その気持ちを科学的に壊してもらいたくないという気持ちもある。しかし、次世代の子どもたちに何を伝え、何を考えさせるか、また、遠くからこの丘を見に来てくれる善意の人々に何を伝えるかはそれとは別である。真実を伝えなければならない。 岩刻文字(ペトログラフ)も約 4,000年前のシュメール文字もこの丘には存在しない。この丘の巨石群は、阿蘇の豊かな自然が造った美しい造形である。また、阿蘇の過酷な自然が造った美しい造形である。遠くにひろがる景観も本当に美しい。それだけで、世界に誇り得る優れた観光資源である。 |